≡☆ 雑司が谷界隈のお散歩 ☆≡
2008/04/12 & 2008/04/20

板橋・赤塚歴史散策の中で紹介した 怪談・乳房榎 のお話しに、南蔵院と云うお寺が出てくるのですが、架空のお寺かと思いきや実在すると知り、ひょっとして菱川重信が描いた天井画のモデルとなるようなものが残されているのでは?と、訪ねてみたいと思っていたの。調べてみると南蔵院のある辺りは雑司が谷鬼子母神や護国寺などの見処も多く、穏やかな春の訪れを待って訪ねてみたの。一部の画像は拡大表示が可能よ。

清土鬼子母神〜南蔵院〜山吹の里碑〜金乗院(目白不動尊)〜鬼子母神堂〜法明寺

1. 東京メトロ有楽町線・護国寺駅 ごこくじえき

ここでは地下鉄有楽町線の護国寺駅を起点にして成り行きまかせで歩いてみましたが、結果的には同じ道を往復するなど、効率の悪いコース採りになってしまい、当初の予定をこなせずに日にちを違えて再訪してもいます。加えて、冒頭で触れましたように、優先順位が南蔵院の拝観にありましたので、護国寺駅に降り立ちながら護国寺への参詣は後回しにするなど変則的な行程になっていますので、お出掛けになる際には皆さん御自身でコース採りの再構成をお願いしますね。

2. 清土鬼子母神 せいときしもじん

護国寺の大きな山門に背を向けて南蔵院に向かいましたが、道筋の途中には清土鬼子母神が鎮られるお堂があるの。

清土鬼子母神?こちとら江戸っ子よお。
鬼子母神と云やあ、おそれ入谷の鬼子母神に、雑司が谷の鬼子母神と相場が決まってるじゃねえか。
護国寺といやあすぐ隣町は雑司が谷だ。おめえさん、雑司が谷鬼子母神の間違いじゃねえのかい?
う〜ん、当たっているようでいて、そうでもないような‥‥‥ 何だ、はっきりしねえなあ。こちとらチャキチャキの江戸っ子よお。
白黒つけてくれねってえと、どうも居心地悪くていけねえや。
実は、雑司が谷の鬼子母神像はこれから訪ねる清土鬼子母神堂が建つ辺りから出土したと云われているの。
今でこそ地名も目白台に変えられたけど、その頃は清土と呼ばれていたみたいなの。
なので、雑司が谷鬼子母神のルーツと云うことから清土鬼子母神と呼ばれているの。
なげ〜こと生きてきたけどよお、それは知らんかったわい。おめえさん、洒落たことを知ってるじゃねえか。
どうでえ、この際だからその先を教えてやっちゃあくれねえかい?

と云うことで、清土鬼子母神の御案内に進むべきところなのですが、その前に道筋を紹介しておきますね。護国寺前から不忍通りを目白台方面に歩くと首都高の高架が見えて来ますので、それを潜り抜けたら右側の歩道に渡ります。清土鬼子母神堂は歩道から少し奥まった位置にあるので、トヨタカローラ店を過ぎたら右奥に注意しながら歩いて下さいね。GSが見えてきますが、そこまで行ってしまうと行き過ぎよ。と云っても説明文だけでは分からないわよね、地図 にリンクしてみましたので御参照下さいね。

今でこそ地名も目白台へと改称されたけど、鬼子母神像が掘り出された頃は清土と呼ばれていたの。その清土にしても星跡(せいと)から転訛したものではないかしら。と云うのも【江戸名所図会】は「その地を星谷(ほしやと)と號す 往古この地に星祭を修する行者ありて 本淨寺の裏に塚のごときものありて 星産と號け 云々」と由来を伝え、星に纏わる地名や遺構が多く残されていることを紹介しているの。

ところで、この星祭と云うのが気になりますよね。宗派により多少の差異はあるのですが、元々は鬼門や病門などの星回りに入った時などに行う厄除招福の祈祷のことなの。その塚の傍らには星谷の井があり、旱魃の時でも涸れること無く湧水していたと伝えますが、嘗て小篠坂を流れていた弦巻川を背にして他にも多くの湧き水が点在していたようよ。

門柱の傍らには鬼子母尊神出現所と記された石柱が建ちますが、小堂は後程紹介する法明寺持となってはいるものの、改めての呼称は無いようね。堂宇を正面にして左手になりますが、聳え立つ巨木の根本に寄り添うようにして三角井があるの。嘗ては星跡の清水とか、像の出現に前後して水面に星の影が現れたことから星の清水とも呼ばれていたみたいね。今では御覧のように仰々しい構えの屋根に覆われていますが、それもそのハズ、鬼子母神像出現譚には欠かせない存在なの。そこで先ずはその縁起譚から紹介してみますね。

永禄4年(1561)と云うんじゃから今から450年近くも昔のことじゃが、この辺りに丹右衛門と云うお百姓さんがおってのお、その日も鍬を持って畑を耕しておったそうじゃ。あと一畝も鍬を入れたらここらで一休みすべえと思っておった丹右衛門さんじゃったが、ふと鍬先に黄金色に光るものが見えたそうじゃ。不思議に思うた丹右衛門さんが土を退けて掘り出してみると、何やら仏像のようじゃった。何でこんなところから仏像が−と、すっかり驚いてしもうた丹右衛門さんじゃったが、仏さまを泥まみれのままにしておくわけにもいかんでのお、傍らに湧いておった清水で洗い清めてあげたそうじゃ。

じゃがその姿が露わになるに従い、何やらいわれのありそうな面持ちにも見えて来てのお、わし一人で護持するわけにもいかんじゃろうし、さてはてどうしたもんじゃろうかと思案しておったそうじゃ。そこで思いついたんが村の中にあった東陽坊の日性上人さまのことじゃった。上人さまならこの仏像がどんな仏様なのか分かるじゃろうし、大事にお祀りしてくれるに違いないと思うた丹右衛門さんは、早速その仏像を抱えると坊に駆け込んだそうじゃ。果たしてその仏像は鬼子母神像と知れたそうじゃが、世の中には不思議なこともあるもんじゃのお。

ここでは脚色して紹介してみましたが、調べて見ると縁起譚には幾つかの別伝があるようね。
話の序でにそのバリエーションを列挙してみますね。

発見日と発見者の違いは逸話の展開に差程影響はしないのですが、大きく異なるのが像をどこで洗ったかなの。境内に残されている三角井の遺構などから判断すると、巷では湧水で洗い清めた方を通説としているようですが、当時の雑司が谷村名主・戸張平次左衛門苗竪が天保年間に編んだとされる【櫨楓(ろふう)】には別伝が収められているの。長くなり序でに紹介してみますが、発見者の山本丹右衛門は若挟守の領地で小作人をしていた関係から掘り出された仏像は柳下若挟守の屋敷に運び込まれると、釜に湧かした湯で洗い出されたとしているの。更に像が出現する数日前から若挟守の屋敷では怪異現象が‥‥‥

若狹が家の釜二三日鳴り響けることあり
家内心ならず怪しみ驚ける折から 懸かる靈像に御初湯を召させ奉るに思い合れば
此の釜の鳴り響けるは 此度 尊像出現まします現證の奇瑞 まのあたりにして 不思議の神慮なれば
則ち初湯の御釜と稱し奉り 若狹代々の什寶と守り奉る

湯釜の鳴動は些か誇張だとしても、沸かし湯を使用したと云うのはありかもね。けれど、この別伝を採用すると先程紹介した三角井は意味のないものになっちゃうわね。それとも釜の湯で洗い清められる前に湧き水でひとまず泥よけしたのかしら?

鬼子母神像出現の経緯がお分かり頂けたと思いますが、その後、雑司が谷鬼子母神堂に祀られたことから専らそちらの方が有名になり、多くの参詣客を集めたの。けれどすんなりと現在地に祀られた訳では無いのよ。実は、出現譚には続きがあるの。それは後程紹介する鬼子母神堂の項で改めて御案内しますのでお楽しみにね。余談ですが、この清土鬼子母神、その由来に因み、嘗てはお穴鬼子母神とも呼ばれていたの。それにしても不思議よねえ、どうして鬼子母神像が畑の土中にあったのかしら?

3. 清戸坂 せいとざか

清土鬼子母神堂を後にして再び不忍(しのばず)通りを歩きましたが、
小さな郵便局を過ぎた辺りで見つけたのがこの案内板なの。

案内板 旧雑司ヶ谷町(昭和41年までの町名):延享3年(1746)町方支配となり、雑司ヶ谷の町名がつけられた。町名の由来については、いろいろな説がある。昔、小日向の金剛寺(また法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった。また、建武のころ(1334-36)南朝の雑司(雑事を司る)柳下若狭、長島内匠などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。その後、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷、曹子ヶ谷などと書かれたが、8代将軍吉宗が鷹狩のとき雑司ヶ谷村と書くべしとの命があり、今の文字を用いたという。文京区

調べてみると文献により蔵主ヶ谷、雑士ヶ谷、雑司ヶ谷、僧司ヶ谷、雑司谷、曹司谷、曽司谷などとあり、中には単なる音訳では?と思えるものもあり、万葉仮名とさして変わらないの(笑)。それでも概ね次の三つに大別出来そうね。

  1. 案内板にもあるように小日向金剛寺(或いは法明寺)の雑司料だったことに由来すると云う説。
    雑司とはそこから収穫される農産物などを物納・納税させて寺社を経済的に支える所有地のことね。
    お坊さんと雖もやはり安定収入が無いことにはね。
  2. 嘗て宮中で雑色職を勤めていた柳下・田口(後に戸張氏に改姓)・長島の三氏が土着したことに由来すると云う説。
    雑色とは蔵人所や院など宮中で雑役を務めた下級役人のことで、雑多な色の服を着ていたことからそう呼ばれるようになったの。尚、雑色は「ざっしょく」と読みたい気持ちはよ〜く分かるのですが、ここでは「ぞうしき」と訓んで下さいね。
  3. 雑司&雑色を離れて曹司にこだわったのが曹司ヶ谷説。
    ○○は□□家の御曹司だから−などと云うときの曹司ですが、元々は宮中や官庁などに設けられた官吏や女官達の部屋のことで、転じて貴族や上流武家など、部屋住みの身分にある子息のことを云うようになったの。そんな彼らが開墾し始めた土地なので曹司ヶ谷になったと云う説。エッ?御曹司が鍬なんか持って耕すわけはねえだろう〜って?勿論、力仕事をする人達は別にいたの。余談ですが、貴族側、特に平家のボンボン(笑)を公達(きんだち)と云うのに対して、上流武家、特に源氏の子息を曹司と呼ぶ場合もあったみたいね。案外、前述の三氏も源氏の流れをくむ一族だったりして。But 鵜呑みにしちゃダメよ。

と云うことで、現在は由来は別にして雑司の文字を充てるのが一般的ね。雑の字に統一されるようになった理由として、文化11年(1814)に十方庵敬順が著した【遊歴雑記】には次のようなエピソードが記されているの。史実如何の程はξ^_^ξには分かりませんが、何でも鷹狩りにこの地を訪ね来た江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が、一つの村の中で色々な字が使われておったらどれが正しいか分からねえじゃねえか。大雑把なやつらだ。そうだ、そうだ、大雑把だから雑の字を使え。明日からは雑司が谷村じゃ。よいな、しかと申し伝えたぞ!と宣うたとか。

数ある表記の中から雑司となった経緯はお分かり頂けたかしら。それはさておき、改めて手許の地図を眺めてみると、何故か同じ地図上に雑司が谷と雑司ヶ谷の二つの表記があるの。「が」と「ヶ」の違いだけなのですが、編集の都合からすればどちらかに統一した方が易しいハズよね。敢えて二通りの表記をするには何かそれなりの理由がありそうよね。けれど残念ながらξ^_^ξが調べた限りではその違いも分からず終い。無責任モードで恐縮ですが、皆さんの御賢察にお任せしますね。

「が」と「ヶ」の区別が分からず、ここでは出たとこ勝負の記述をしていますので御了承下さいね。
But 住所表示だけは雑司が谷で統一されているみたいね。

4. 富士見坂 ふじみざか

坂道 不忍通りと目白通りが交差する目白台二丁目の信号を渡ると、進行方向に車一台が通れるような細い道が続きますが、御覧のような急勾配の下り坂になっているの。富士見坂と呼ばれていることから、嘗てはこの場所から富士山が遠望出来たのかも知れないわね。残念ながら今となっては視界も効かず、代わりに視線の先には新宿副都心の高層ビル群が顔を覗かせますが、それでも辺りは落ち着いた佇まいの家々が建ち並び、静かな街並みになっているの。

5. 南蔵院 なんぞういん

個人的な興味で恐縮なのですが、今回の散策の目的がこの南蔵院の拝観なの。冒頭で御案内したように板橋・赤塚歴史散策の中で紹介した 怪談・乳房榎 のお話しに、この南蔵院が登場するのですが、詳しいお話しが気になる方は同頁を御笑覧下さいね。怪談話なので本来なら虚構の世界なのですが、南蔵院がモデルとされたことから秘かに期待もしてはいたの。でも、残念ながら天井画の画の字も無いようね。現在は大鏡山薬師寺南蔵院を正式な山号寺号とする、真言宗豊山派の寺院。

境内 寺伝では室町期に円成比丘(えんじょうびく)が開山したものとされるのですが、比丘は永和2年(1376)寂と伝えるだけで創建年代は不詳なの。加えて、参考書籍でも元和2年(1616)の開山だ、天和2年(1682)の死寂だ、などと諸説入り乱れているの。まともにとりあっていたら円成比丘は300年にもわたって生きたことになってしまうの。ξ^_^ξが思うには、永・元・天の一字が筆字になると非常に似通った字体になることから誤解を生んでいるのではないかしら。現在の山号は大鏡山ですが、嘗ては医王山(医王寺とも)と称していた時期もあったようね。

山号の大鏡山は、嘗て寺の前に鏡が池と呼ばれる大きな池があったことに由来するとのことですが、残念ながら今となってはその痕跡すら認められないの。失礼して境内を見学させて頂きましたが、門柱をくぐり抜けて最初に目に飛び込んで来たのが六地蔵の頭上に降り注ぐ満開の枝垂れ桜なの。

六地蔵と枝垂れ桜 六地蔵と枝垂れ桜 枝垂れ桜

弁才天

その六地蔵と並ぶようにして御覧の弁才天像が建てられていましたが、黄色のやまぶきの花が彩りを添えてくれました。像は興味の無い方には単なる墓石にしか見えないかも知れませんが、福運を祈願して奉納されたものなのでしょうね。その像容は琵琶を抱えた二臂ではなくて弓箭や刀剣などの武器を手にする八臂の弁才天。武器を持つからといってジャンヌダルクのように戦う訳ではないのよ。武器は人の心に宿る悪心や邪気を退治するものなの。でも、不信心な輩には弓矢が射懸けられるかも知れないわよ。訪ねたのは4月中旬のことでしたが、足許にはシャガの花が咲くなど、南蔵院の境内が最も華やぐ季節かも知れないわね。皆さんも季を捉えてお出掛けになってみて下さいね。

左掲は本尊の薬師如来像が安置される本堂ですが、変額に瑠璃光とあるのは薬師如来の正式名称・薬師瑠璃光如来に由来するの。瑠璃色は青色を指すのですが、薬師如来が「我が名号をひとたび耳に経つれば 病い悉く退き 身心安らかならん」と誓願されたことから、その光には病を癒す絶大なパワーがあるとされるの。扁額はさしずめ、瑠璃色の光で衆生を普く照らせよ−と云うところね。更に寺伝では、その薬師如来像はかの有名な聖徳太子の作とされ、嘗ては奥州藤原氏の藤原秀衡の持仏だったとも伝えるの。

何故それがこの南蔵院にあるのかと云うと、これまた円成比丘の開創縁起に繋がるのですが、【江戸名所図会】のことばを借りると「諸国遊化の時 霊夢を感じ 彼所の農家にしてこれを得てこの地に安置すといへり」とあり、像を携えて来た比丘がこの辺りに差し掛かると俄に像が重たくなり、薬師如来の思し召しとばかりに草庵を立ててお祀りしたのが始まりだと伝えられているの。

遊化(ゆうげ)は遊行(ゆうぎょう)のことで、諸国を説法教化して歩くことを指すの。
決して遊び歩いていたわけでは無いのよ。

かえすがえす残念なのは本堂前の防護柵ね。本尊を拝むなら石段下の防護柵の前からするように掲示があるの。これではまるっきり性悪説のスタンスよね。円成比丘がこれを見たらどう思うかしら?以前、静岡県清水市の 龍華寺 を訪ねたことがあるのですが、本堂の天井画を覗き見ていたら、それを目に留めた住持の方がわざわざ声を掛けて下さって、昇殿を勧めてくれたの。同じ仏の道を説く立場にありながら、両者には天と地ほどの差があるわね。幾ら脳天気なξ^_^ξでも、高所に祀られる本尊を石段下から防護柵越しにお参りする気にはなれなくて。と云うことで、怪談・乳房榎に登場するような天井画の実在如何の検証も、伝聖徳太子作とされる薬師如来像の拝観も出来ずに終えているの。

6. 高田氷川神社 たかだひかわじんじゃ

鳥居

南蔵院から程なくしてあるのがこの高田氷川神社。氷川神社と云えば、現在は埼玉県さいたま市に鎮座する武蔵国一之宮の氷川神社が御本家よね。この地に分霊勧請されたのがいつ頃のことなのかは不詳ですが、平安時代の歌人で六歌仙の一人でもある在原業平も参詣したと伝えられているの。真偽の程はξ^_^ξには分かりませんが、仮にそうだとすればかなり早い時期から祀られていたことになるわね。現在は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしいなだひめ)、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)の三神を祭神としますが、元々はこの辺りに祀られていた産土神に後から合祀・習合されたものと考える方が妥当なような気がするわね。

参道

産土はうぶすなと訓み、古くは本居・宇夫須那・生土・産須那などとも表記され、うぶは産なり則ち土なり−と云うことで、生まれた土地に宿る神さまを現し、氏神さまとして、或いは村人達の共通の守り神として祀られるようになるの。一方、【記紀】では傍若無人な姿で描かれる素戔嗚尊ですが、豊穣神としての一面も併せ持つの。八岐大蛇退治に登場する大蛇は水を司る神の化身でもあり、大蛇から助け出された奇稲田姫にも田植神事などの際に豊穣神をもてなす巫女の姿が見て取れるの。大己貴命にしても然りで、オオナムチのチは地を指し、大地の神を意味するの。大地があればこその五穀豊穣よね。

社殿

ここで【江戸名所図会】に面白い記述を見つけたの。この下高田村の氷川明神社には素戔嗚尊が祀られていたことから俗に男体の宮と呼び、落合村(現:新宿区下落合)の氷川明神社には奇稲田姫が祀られていたことから女体の宮と呼んで、二社を合わせて夫婦の宮と呼んでいたと云うの。今ではこの高田氷川神社の一つ屋根の下で仲良く暮らしますが、以前は別居状態にあったと云うことになるわね。三神が合祀されるようになったのは明治期になり、氷川明神社から氷川神社へと改称した時のことなのでしょうね。でも、そうなると現在の下落合の氷川神社には奇稲田姫がいないことになっちゃうわね(笑)。

稲荷社

替わって、左掲は境内末社の高田姫稲荷神社。と云っても同じ社殿にもう一つの稲荷神社が同居しているの。よく分かんねえな、どっちも稲荷神社なんだろ、だったら同じもんじゃねえのか!と思うのが普通よね。神社側の説明では高田姫稲荷神社には「平安の昔から豊島郡高田(現在の高田 目白 雑司が谷 目白台)のお稲荷さま」が祀られ、一方の稲荷神社には豊受大神(とようけのおおかみ)を祀るとしているの。普通、お稲荷さんと云えば祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと=宇迦之御魂神)ですが、姫とあることから女神さまよね。おそらくは稚産霊神(わくむすびのかみ)あたりに比定される神さまじゃないかしら。

豊受大神も同じく女神さまで、本来の姿は天照大神(あまてらすおおみかみ)専属の食事係で、転じて食物を司る神さまになったと云うわけ。今でこそ家々が建ち並びますが、田園風景が広がっていた頃には豊かな稔りを祈願する里人達のために巫女神さま達も大忙しだったのでしょうね。

7. 山吹の里碑 やまぶきのさとひ

高田氷川神社から道なりに進むと神田川に架かる面影橋が見えて来ますが、橋の手前、左手に注意しながら歩いて下さいね。オリジン電気(株)と云う会社があるのですが、敷地の一角を借りて門前で申し訳なさそうに佇んでいるのがこの山吹の里碑なの。記念碑だと云うのに何故か観音像が彫られていたりしますが、供養塔として建てられていたものを転用したもので、碑面に残された文字から元々の製作年代は貞享3年(1686)のことだと分かるの。変身(笑)させられたのはいつ頃のことなのかは不詳ですが、場所にしても面影橋の袂に祀られていたものが、神田川の改修工事に合わせて移転させられてしまったみたいね。

時の流れの中で変身や転地を余儀なくされる石塔ですが、やがて「顧みる人の 一人だに無きぞ悲しき」の世界にならなければいいんだけど。ところで、何でこんなところに山吹の里碑があるの?と思われる方も多いのではないかしら。現在の景観からは想像出来ないのですが、明治期の終わり頃まではこの辺り一帯にはやまぶきが群生していて、棣棠村(やまぶきむら:棣棠は本来なら「ていとう」と訓み、やまぶきの漢名)の別称で呼ばれることもあったのだとか。とりわけこの地を広く知らしめることになったのが太田道灌の逸話に因む、かの有名な一首。実は、エラそうに知ったか振りして書いているξ^_^ξもこの辺りが逸話の舞台だったとは訪ね来るまで知らなかったの。

七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに 無きぞ悲しき

逸話では太田道灌が鷹狩りでこの地に訪ね来た時に俄に大雨が降り出し、一軒の農家を見つけて蓑笠を借りようとしたところ、中から現れた少女はことばも無く、傍らに咲くやまぶきを一枝手折ると申し訳なさそうに差し出したと云うの。その意味するところも分からず、少女の立ち振る舞いに「花を求むるにあらず!」と憤慨して踵を返した道灌でしたが、鷹狩りから戻り、家臣にこの話しをしたところ、後拾遺和歌集に収められた中務卿兼明親王(なかつかさのきょうかねあきらしんのう=醍醐天皇の第十六皇子)の古歌にこと寄せたものと知らされたの。八重咲きのやまぶきには幾ら花が咲いても実が出来ないことから「実の」と「蓑」を掛けて蓑笠の持ち合わせの無いことを奥ゆかしく告げたのです−と諭された道灌は、自分の無学・無教養を恥じて、以後は和歌にも精進したと伝えるの。

やまぶき 逸話は江戸時代中期に湯浅常山(1708-81)が名将に関する逸話を収録した【常山紀談】を出処とするのですが、ちょっと美談過ぎますよね。幾ら何でも蓑笠を乞う武士を相手にただ黙ってやまぶきの花を差し出したら、「おのれ、このわしを愚弄する気か!」と斬り殺されてもおかしくはないシチュエーションよね。加えて、このやまぶきの一件があってからは和歌にも精進したと云うことになっているのですが、他の頁でも触れたように、道灌は関東管領職にある扇谷上杉家の家宰を務めるまでの人物で、血統書付の家柄出なの。

若い頃には鎌倉五山の一つ、建長寺にも修行したと伝えられ、第一級の知識人だったと云っても過言ではないの。なので、家臣が知る和歌を道灌が知らなかったと云うのはちょっと考えにくいわね。道灌には他にも多くの逸話が残されているのですが、文武両面でめざましい活躍をしたが故に、虚実が入り乱れて語られるようになったのでしょうね。因みに、【常山紀談】では結句を「悲しき」としていますが、オリジナルの後拾遺和歌集では兼明親王は「あやしき」と詠んでいるの。

ところで、この山吹の里ですが、ゆかりの地として他にも荒川区町屋や埼玉県入間郡 越生町 、神奈川県横浜市金沢区六浦などに比定する説もあるのですが、それはそれとして【江戸名所図会】の編者が「その是非はつまびらかにせずと雖も しばらくここに云ひ伝ふるに任せて これを挙ぐるのみ」と記すように、いたずらに雌雄を決するのではなくて、逸話の舞台の一つとしてこのまま語り継ぐのもロマンよね。因みに、やまぶきの花言葉は−気品・崇高・待ちかねる by【花言葉事典】−だそうよ。

8. 面影橋 おもかげばし

面影橋 今ではコンクリート壁の護岸に挟まれて流れる神田川に、同じくコンクリートの橋脚に鉄製の手摺りへと姿を変えてしまった面影橋。【江戸名所図会】などには周囲の景観と共に、往古の橋の様子が描かれていますが、水面には季節ごとに彩りを変える木々や草花の姿が揺れていたのでしょうね。夏になれば「この辺りの蛍は形大にして光り他に勝れり」とあるように、川面を乱舞するホタルの光が涼を求めて水辺にやって来た人達を魅了してくれたみたいね。

面影橋 この面影橋ですが、嘗ては姿見橋とも呼ばれていた、否、姿見橋は面影橋とは別に南蔵院寄りの位置に架けられていた、否、それは氷川神社の境内地にあった池から南蔵院が水を引き込むために設けた用水路に架けた石橋を誤解したものだ、等など、百花繚乱なの。門外漢のξ^_^ξが多くを依存する【江戸名所図会】も、面影橋と姿見橋は別物として紹介しているのですが、【新編若葉の梢】などの記述からすると、どうやら面影橋と姿見橋は同じもののようね。

面影橋 なので、ここでは両者は同じものとして橋の名前に纏わる逸話をいくつか御案内してみますが、必ずと云ってよい程紹介されているのが、吾妻路に歌枕を訪ね来た在原業平が水面に己が姿を映したことに由来すると云う説と、江戸幕府第三代将軍・徳川家光が鷹狩りに来た際に鷹を見失い、探し求めてこの辺りで無事見つけることが出来たことから名付けられたと云う二つの説。けれど、どちらも里人の間で伝えられて来た逸話と云うか、伝説なので本当のところは?みたいね。ところで、ちょっと気になる記述を【新編武蔵風土記稿】に見つけたの。

面影橋 「この橋のことは旧事茗話 南向茶話等俗書に奇怪の説あれど 今 土人も嘗て伝えざる所なればここに載せず」とあり、採るに足りぬ説として掲載を却下しているの。【風土記稿】では「面影橋より北なる用水に架せる小橋なり」と姿見橋を紹介し、面影橋とは別物として扱っているのですが、それはそれとして、俗説が故に収録に値しないとあっては余計気になってしまうわよね。その怪しげな説ってなあにぃ〜、何なのよ?と云うことで、調べてみたので紹介してみますね。名付けて於戸姫入水伝説。何やら期待出来そうなタイトルでしょ?

明応年中之比 此里に和田靭負佐守祐といふ士あり 男子二人 守護 祐親と云 女一人於戸姫という 容色勝たる故に 婚礼を求める人多けれ共 免さず 父守祐事ありて他国にまかりし比 近き辺に関といへる者 徒を催して 彼家を襲ふ 俄の事にて 男子兄弟賊を討ける其隙関奥へ入 於戸姫を奪ひ取 逃去しに 板橋に至り 姫絶入りて人心あらざれば 彼所に打捨て関は逃去ぬ 此板橋に杉山三郎左衛門と云へる貧しき夫婦老人あり 耕作の為に此野へ出 此女を伴ひ 家に至り養育せり

程経て後 此辺小川左衛門次郎義治といふ士 杉山に嫁を求る事再三なりければ 彼小川に婚せしとなり 然るに 村山三郎武範といふ士 彼小川と親しく交わりけるに 妻女を奪はんとたばかり 小川が宅へ行 対面し 透間を見て小川を差殺しける 於戸姫長刀を以て村山と相戦ひ 逃んとするを 村山が右の足をなぎければ 従者おり合て村山を討留む 妻女悲みにたえず 髪を切て夜に紛れ家を出て去ぬ 此川辺に至りて 変りぬる姿見よとや行水にうつす鏡の影に恨し と詠じけり 又 月の出るを見て 限りあれば月も今宵は出にけり昨日みし人の今はなき世に 其後 此河に身を投 死るよし 右の詠歌の儀に付て 姿見橋と名付けると云々【 南向茶話 】

9. 金乗院(目白不動尊) こんじょういん(めじろふどうそん)

面影橋から元来た道を南蔵院まで戻り、宿坂通りを辿りますが、坂道の手前に位置して建つのがこの金乗院なの。今では目白不動尊の名で知られますが、その縁起を語るにはちょっとややこしい背景があるの。と云うのも、目白不動尊は最初からこの金乗院に祀られていたわけでは無くて、戦災を経てこの地に移されて来たの。元々は文京区関口駒井町(現:関口二丁目)にあった目白不動堂こと、東豊山浄滝院新長谷寺に祀られていたの。その名残りが門前左手に立つ石柱で、正面には草書体で長谷寺が、側面には東豊山新長谷寺と刻まれているの。現在は神霊山金乗院慈眼寺を正式な山号寺号とする、真言宗豊山派護国寺末の寺院。

寺院の由緒を語る際に最初に触れなければならないのがいつ頃に創建されたものかよね。ですが、残念ながら正確な開創年代は分からないの。伝えられるところでは、永順上人が聖観音菩薩を感得したことからこの地に観音堂を建てて祀ったことに始まるとされているのですが、その上人が文禄3年(1594)に死寂していることから推して、室町後期から安土桃山時代にかけての天正年間(1573-92)に創建されたものと考えられているの。だとすると500年以上も昔のことね。当初は宝仙寺(東京都中野区)末として蓮華山金乗院を号していたのですが、後に護国寺末となるのを機に、現在の神霊山金乗院慈眼寺に改称しているの。嘗ては周辺4社の別当寺を務めるなど、それなりの隆盛をみたようで、その内の一社、此花咲耶姫社には水戸光圀が自ら認めた扁額を奉納しているのですが、戦禍で建物と共に寺宝の悉くが灰燼に帰してしまったの。

替わって目白不動尊ですが、先程ちらりと触れたように、元々は目白不動堂に祀られていたの。と云っても、最初から目白を冠して呼ばれていた訳ではないのよ。その名付け親は江戸幕府第3代将軍・徳川家光で、寛永年間(1624-44)のことなの。加えて、天下の将軍が参詣、命名する程なのですから、霊験灼かな不動尊と云うだけではダメよね、やはり、それなりの由緒と格式を備えていなければ江戸守護の大任を仰せつかる訳は無いわよね。勿論、その出自は伝弘法大師作だと云うのですからトップクラスよね。と云うことで、その縁起を纏めてお話ししてみますね。

弘法大師 唐より歸朝の後 羽州湯殿山に參籠ありし時 大日如來忽然として不動明王の姿に變現し 瀧の下に現れ給ひ 大師に告げて曰わく この地は諸佛内證祕密の淨土なれば 有爲の穢火を嫌へり 故に凡夫登山する事難し 今汝に無漏の上火を與ふべしと宣ひ 持し給ふ所の利劍を以て 左の御臂を切り給へば 靈火盛んに燃え出でて佛身に充てり 依って大師面前に出現の像二躯を模刻し 一躯は同國荒澤に安置し 一躯は大師自ら護持なし給ふ

その後の経緯が不明ですが、野州足利(現:栃木県足利市)に住む僧侶が不動明王を感得したことからこの像を奉祀。その後、関口台(現:文京区関口二丁目)に住む松村氏の霊夢に、この不動明王が現れたことから帰依したの。更に、その松村氏は旗本の渡部石見守に援助を求めたの。何でも不動明王像をこの地に運び込む際に、僧侶の袈裟が風で飛ばされてしまったのですが、渡部石見守の敷地にある榎の枝に引っ掛かっているのを見つけ、これも何かの仏縁、不動明王の御意思かも知れぬ、ならばこの地に祀るべし−と松村氏は思ったみたいね。地主たる渡部石見守に土地の寄付を求めて直談判に及ぶの。渡部氏もその要請に応ずるなど、今ではおよそ考えられない話ですが、当時は神仏に対する畏敬の念は貴賤を問わず、万人が共有していた証でもあるわね。

簡素な不動堂も、元和4年(1618)になると、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の命のもとに新たな堂塔の建立がなされ、本格的な寺院としての体を成すようになったの。加えて、住持を務めていたのが大和国長谷寺の小池坊秀算上人で、大和国長谷寺と云えば、現在の奈良県桜井市初瀬にある長谷観音のことよね。今では新義真言宗豊山派の総本山として知られますが、その寺史を紐解けば、天武天皇の勅願を得て朱鳥1年(686)に弘福寺道明が創建した本長谷寺をルーツとするなど由緒正しき寺院なの。嘗ては観音信仰の一大霊場として隆盛し、為政者や特権階級の人々のみならず、広く庶民からも崇敬を集めたの。戦国時代に堂宇を悉く焼失し、一時期衰微するのですが、後に豊臣秀長が再興、江戸時代には将軍家の厚い保護を受けているの。

中興開基の秀算上人はその本家・長谷寺の第4世住持だったのですから、秀忠がスポンサーになるのも頷けますよね。更に、堂宇の整備に併せ、本家側より本尊と同じ木より彫像したと云う二躯の十一面観音像の内の一体を遷座したのを機に(東豊山浄滝院)新長谷寺と改称したの。その新長谷寺も昭和20年(1945)の戦禍で堂宇を焼失、廃寺となってしまい、この金乗院と合併したことから目白不動明王像も移されて来たの。因みに、目白不動尊は眼病の治癒に霊験灼かとされ、眼のトラブルでお悩みの方は勿論眼科医の診察&治療が最優先ですが、一度お参りされてみては?

本堂は平成15年(2003)に全面改修されたものですが、その前でとぐろを巻いているのが寛文6年(1666)に造立されたと云う倶利伽羅(くりから)不動庚申塔なの。境内には他にも庚申塔が数基残されているのですが、青面金剛の代わりに龍神が陽刻された庚申塔と云うのは珍しいわよね。既に他の頁で庚申塔については御案内していますのでここでは触れずにおきますが、この龍神こそが倶利伽羅龍王なの。倶利伽羅はサンスクリット語の Kulika の音訳で、古代インド神話では八大龍王の一人とされ、Kulika にしても元々は黒い龍を意味することばだったみたいね。

掲載画像を御覧になるとお分かりのように、倶利伽羅龍王は突き立てた剣に巻きつき、剣先を呑み込む姿で彫られていますが、龍王は不動明王の化身でもあるの。その倶利伽羅龍王が巻きついた剣は倶利伽羅剣と呼ばれ、不動明王が悪鬼と戦った際に龍神となり、悪鬼の振り回す剣を呑み込み、仏法の守護者とした説話に由来するの。その不動明王も多くが憤怒の形相に加えて剣と火焔を背にした姿で彫像されますが、剣と火焔には一切の邪悪と罪障を滅ぼす力があるとされているの。因みに、不動明王の梵名は Acalanatha で、阿遮羅嚢他と音訳されているのですが、元々は不動のものを意味し、そこから不動明王と名付けられたようね。ヒンズー教ではシバ神の異名とされていたのですが、仏教に採り入れられると大日如来の忿怒身として最高の明王に迎えられ、ヒンズー教最強のシバ神が仏教でも最強の守護神として祀られるようになったの。

倶利伽羅龍王の視線の先には外科手術を施された桜の木がありましたが、その傍らにはこれまた風変わりな形をした石碑が建てられていたの。詳しいことは分かりませんが、鍔塚(つばづか)と呼ばれ、寛政12年(1800)に建てられた刀剣供養塔だそうよ。墓苑には日本の図書館の始祖と評される青柳文蔵や、宝蔵院流槍術の大家として知られながら、慶安4年(1651)に由井正雪等と共に幕府転覆を企てた咎から処刑された丸橋忠弥(本姓:長曾我部盛澄)のお墓などもあるの。因みに、右端の丸橋忠弥のお墓は年月を経た安永9年(1780)に子孫の長曾我部武郷がその霊を慰めるために建てたものとされているの。なので、お墓と云うよりも供養塔に近い性格のものね。

10. 宿坂 しゅくさか

坂道 金乗院の門前から続く急坂が宿坂で、嘗ては雑司が谷を経て板橋宿へ向かう鎌倉街道として利用されていたようね。尤も、当時の宿坂道は現在のそれよりも少し東側に位置していたようで、【江戸名所図会】に描かれる絵図を見る限りでは傾斜も更にきつく、かなり蛇行していたみたいね。坂道の途中には室町時代の文明年間頃までは宿坂の関と呼ばれる関所も設けられていたそうで、東北や北陸からの攻めに備える役目を担っていたの。その関所には茶屋も設けられ、関が廃止された後も茶店だけは残り、坂道を通る旅人のお休み処として利用されていたの。

ですが、要路とは云え、当時は道の両側に立木が迫り昼尚暗く、くらやみ坂とも呼ばれ、狐や狸が棲みついていたことから、旅人の足許から急に炎が燃え上がったり、狐が頭の上を飛び越えて走り去ったりするなどの噂話がまことしやかに伝えられていたようよ。それにしてもツライ登り坂ね、息が上がってしまうわ(笑)。

11. 鬼子母神大門欅並木 きしもじんだいもんけやきなみき

欅並木

宿坂を登り切り、目白通りを横断して道なりに歩くと欅並木の参道入り口が見えて来るの。参道と云っても沿道には建物が密集し、通行人を掠めるようにして車が走り抜けるなど、今ではすっかり生活道路と化しているの。樹叢に覆われた静かな石畳の参道を想像していたのですが、遠目には欅の木と見間違いそうな電柱と、蜘蛛の糸のように縦横無尽に張り巡らされたケーブル群には些かゲンナリ。都の天然記念物に指定される欅並木、どうせなら参道だけでも景観保存対象にしてケーブルは地中に埋設するなどの方策をとって欲しいものよね。傍らにはその東京都教育委員会が立てた案内板がありましたので転載してみますね。

ケヤキ(欅)は、ニレ科の落葉大高木で、日本の代表的広葉樹の一つである。古名をツキ(槻)という。家具や建築用材、特に社寺の構造材や大黒柱によく使われている。『地誌御調書上』によると、天正(1573〜91)の頃、雑司谷村の住人長島内匠が、鬼子母神へ奉納のため植え付けたものという。鬼子母神鳥居先の町屋を大門ともいっていた。江戸時代には並木の伐採をめぐって訴訟がしばしば起こった。弘化元年(1844)の訴訟は、江戸城本丸普請のために伐採しようとした村役人等に対して、寺側が御用木の名を借りた伐採は村役人の私欲によるものと訴えて伐採を中止させた争いである。昭和12年(1937)頃には、18本あったが、現在は4本を残すのみである。目通り幹囲5〜6メートル、樹齢約400年以上といわれる大樹である。秋田雨雀・兜木正亨らによって結成された「大門欅並木保存会」が、保存に尽力した結果、東京府の「天然記念物」となった。

欅並木 欅並木

ここでξ^_^ξが気になったのは「昭和12年(1937)頃には18本あったが現在は4本を残すのみ」の一文なの。改めて欅並木を見渡すと大樹と呼べそうなものは数本だけで、更にその内の一本は幹の途中で切られて完全に枯渇状態にあり、後は電柱とさして変わらぬ太さの欅の木ですので後世に植樹されたものでしょうね。だとすると残る14本はどうなってしまったのかしら?14本が14本とも枯死したと考えるのも不自然よね。説明書きにあるように訴訟を繰り返した位なのですからやはり伐採して売り飛ばされてしまったのかしら?それとも戦時供出?

上記のサイトでは明治44年(1911)に刊行された【東京風景】に収められた欅並木の景観写真が閲覧出来ますよ。ここはジュラ紀か、はたまた白亜紀か−の世界で、屋久島の縄文杉にはかなわないけど、当時の欅の幹の太さと樹高には思わず唖然とさせられること間違いなしよ。トップ頁の検索窓で「雑司が谷」と入力してみて下さいね。

12. 雑司が谷鬼子母神堂 ぞうしがやきしもじんどう

鬼子母神像の出現譚は 清土鬼子母神 の項で紹介しましたが、しばらくは法明寺塔頭の東陽坊(後の大行院。更にその後法明寺に吸収合併され、現存せず)に祀られていたのですが、窃かに持ち出されてしまったの。幸いなことに再び雑司が谷のこの地に舞い戻ることが出来たからこそ、今こうして鬼子母神堂に祀られているのですが、その間の経緯が略縁起にはドラマチックに描かれているの。ここでは昔話風にアレンジして紹介してみますのでお楽しみ下さいね。

しばらくは東陽坊に祀られておった鬼子母神像じゃったが、日性上人に仕えておった一人の坊さんがその霊験灼かなことから何を思うたのか、窃かに持ち出すと郷里の安房へと持ち帰ってしまったのじゃ。じゃが、悪いことをするもんじゃ無いのお、坊さんは日を経ずして病に伏せるようになってしまってのお、熱にうなされるようになると、ついには発狂してしまったと云うことじゃ。その時に坊さんが譫言を口走って云うには

我は元武蔵国雑司が谷の鬼子母神なり 今 彼地の衆生 機縁既に熟せし故に 久しく泥土の底に隠れおりしを再び出現し 済度すべき時を得たるに 故無くこの地に移すは我が本意に非ず 速やかに我を彼の地に送り還すべし さもなくばこの僧に祟りあるばかりでなく 当国の者にも災禍が及ぶらん

これには集まった村人達も腰を抜かさんばかりに驚いてしまってのお、地面にひれ伏してしまったそうじゃ。そうして直ちに元の東陽坊に戻されたと云うことじゃ。それからと云うもの、そのことを聞き知った者が日に日に多く参詣するようになったということじゃ。

鬼子母神堂 奇瑞が人々の口に上るようになると鬼子母神像を祀る専用の堂宇建立の話が持ち上がるの。そうして選地されたのが古くから鎮座していた武芳稲荷の樹叢※だったと云うわけ。【新編武蔵風土記稿】や【江戸名所図会】に依ると天正6年(1578)に落成しているのですが、僅か一月足らずで造りあげているところを見ると、堂宇と云うよりも草堂の類だったのでしょうね。後に江戸時代の寛文4年(1664)には加賀藩藩主・前田利常の三女、満姫が寄進して本殿が建立されているの。更に元禄13年(1700)に拝殿と幣殿が建立され、現在ある形が出来上がったの。加賀藩との繋がりが出来たればこその鬼子母神堂ね。

※【江戸名所図会】には「往古より稲荷の社跡と云い伝へたる叢林を開き云々」と記載されているの。
と云うことは殆ど忘れられた存在だったのかも知れないわね。
そこには僅かに往古が偲ばれる石祠だけが残されていた?

鬼子母神堂

でも、どういう縁から繋がりが出来たのか気になりますよね。実は、この後紹介する法明寺に深く関係するの。鬼子母神像出現譚に出てくる東陽坊は後に大行院(関東大震災後に廃寺となり、現・法明寺に吸収合併)となるのですが、その大行院を創建したのが前田利家で、孫に当たる利常もこれを保護したの。その関係から利常の三女・満姫は鬼子母神の霊験灼かなことを知り、信仰するようになったみたいね。広島藩主・浅野光晟に嫁いだ後も信仰は続き、帰依したが故の本殿造営となるの。因みに、ガイドブック等に出てくる自昌院英心日妙大姉は満姫の法名で、死んでからでは寄進の当事者にはなり得ないわね。あまりこだわる必要はないのかも知れないけど。

百度石

創建に纏わる能書きを終えたところで、改めて境内の紹介をしてみますね。境内に足を踏み入れると最初にあるのが百度石。この鬼子母神堂に限らず、他の社寺の境内でも見かけることの多い百度石ですが、拝殿や本殿との間を100回往復して神仏に祈願する百度詣りの際に目印として利用されたの。その百度詣りにしても、元々は百日間参籠する百日詣に由来するの。幾ら切実な願いごとがあるからと云って修行者でも無い人が100日間もお詣りするのは至難の業よね。そこで編み出されたのが100日間ならぬ100回詣で。これなら頑張れば出来るわよね。特段の経軌がある訳ではなくて、あくまでも民間信仰なのですから都合の良いように変化して来たと云うわけ。

石柱には寄進者の名前でしょうね、「三代め 花友」と刻み込まれているの。いつ頃奉納されたものなのかは分かりませんが、その名からすると女性だと思って差し支えなさそうよね。元禄期以降、鬼子母神詣でが盛んになると門前には物見遊山の客を集める茶屋なども増え、妓楼も出来たと云うのですから、好きな馴染み客が出来た花魁が願掛けしたところ幸いにも身請けされ、その幸運を感謝して奉納したのかも知れないわね。ちょっと想像を逞しくしすぎかしら?

余談ですが、【江戸名所図会】には伝聞としてこの鬼子母神での百度詣りをその起源として紹介しているのですが、それは頷けないわね。100と云う回数にしても十羅刹女の10と、鬼子母神の子供の数が1000だったことから間をとって100としたと云うのですが、余りにもこじつけの感じがするわね。因みに、十羅刹女は一人称と思われがちですが、羅刹とは鬼神のことで、釈迦の説法を受けて改心すると善神となり、その10羅刹を天女像に描いたものが十羅刹女なの。因数分解(笑)しても聞いたことも無い名前ばかりなので割愛してお話しを百度詣起源説に戻しますが、【吾妻鏡】には文治5年(1189)8/10の条に「今日鎌倉に於て御台所 御所中の女房数輩を以て鶴岡百度詣有り 是 奥州追討の御祈祷なりと云々」とあり、平安時代後期には既に百度詣りが行われていたことが知れるの。残念ながら雑司が谷鬼子母神像が土中より現れ出でたのは永禄4年(1561)のことなので、それ以上に年代を遡ることは出来ない訳ですから、この雑司が谷鬼子母神での百度詣りを以て元祖とするには無理があるわね。

公孫樹 百度石に続いて仁王像が参道両側に脇侍しますが、露座の仁王像と云うのも珍しいわね。その仁王像に影を投げかけているのが鬼子母神の公孫樹と呼ばれる銀杏の巨木で、樹齢も600年以上と推定されているの。樹高が30mを越えた今でも成長を続けていると云うのですから、その生命力の強さには驚かされますよね。一説には応永年間(1394-1428)に日宥上人が植樹したものとも伝えられているの。

その公孫樹の周りを回り込むようにして奉納鳥居が並び立ちますが、その鳥居をくぐり抜けたところに鎮座するのが武芳(たけよし)稲荷神社。紹介したように鬼子母神が祀られる以前からこの地に鎮座していたの。武芳の名の由来は分かりませんが、室町時代の弘治年間(1555-58)に勧請されたと云われているの。鬼子母神の地主神と紹介されていましたが、軒先を貸した積もりがいつの間にか母屋を摂られてしまったわね。でも、その懐の深さは地主神ゆえのものかも知れないわね。エッ?しっかり鬼子母神から地代を貰ってる?(笑)

鬼子母神の公孫樹

お話しが前後して恐縮ですが、【新編武蔵風土記稿】には公孫樹のことが「楠木正成関東下向の時此所に松銀杏の二樹を植しが 今は此の銀杏のみ残ると雖 幹は枯れて蘗なりと寺伝に記せり」と書き記されているの。御存じのように楠木正成は南北朝期の武将よね。文面からは関東下向がいつ頃のことなのかは分かりませんが、戦勝祈願の際に植樹したと云うことだと思うの。真偽の程は?ですが、その時既に武運に霊験灼かな稲荷神として祀られていたことが窺い知れ、武芳の名の由来を彷彿とさせる逸話よね。But 勝手な推論ですので、鵜呑みはダメよ。

不動堂

武芳稲荷神社の右手に建つ法不動堂ですが、単に不動堂とせずに法の字を冠しているのが味噌醤油味ね。御案内が遅れましたが、実は、この鬼子母神堂は後程紹介する法明寺の境外堂になっていて、法明寺は日蓮宗系の寺院なの。その境内に真言宗などの密教系寺院で重用される不動明王を祀る堂宇があると云うのも珍しいわね。と云うのも、開宗した日蓮上人は念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊をスローガンに他宗を徹底的に排斥しているの。ξ^_^ξが勝手推量するには、寺伝ではその法明寺も開創時は真言宗寺院だったと云うのですから、嘗ては本尊、もしくはそれに準ずるものとして祀られていたとしてもおかしくはないの。

改宗したものの、それまでお祀りしていた不動明王像を邪険に扱う訳にもいかず、世間体を考えて飛び地境内地のこの場所に堂宇を建てて移設したと云うのはどうかしら?尤も、日蓮上人が描く十界曼荼羅の中にも不動明王は種子を以て登場するなどしていますので、真言宗はダメだけど不動明王はOKなのかも知れないわね。But 無責任モードよ。

石塔 不動堂の右隣には一字一石妙経塔と名付けられた石塔が建てられていたの。見た目は4層ですが、損壊修復の痕跡からすると嘗ては五重塔として建立されたものなのでしょうね。調べてみるとこの石塔は、寛政3年(1791)に川上不白なる人物が73歳の齢を迎えたのを機に7万個近い那智黒石に法華経の一字一字を書き写して基壇下に埋めたのだとか。となると川上不白って何者?となるのですが、その方面は○×△□のξ^_^ξですので全くの受け売りですが、茶道の 表千家不白流 の始祖となる人物なの。

16歳にして京都表千家・如心斎に師事、31歳の時に師匠の命を受けて江戸に出て来たの。勿論、目的は茶道を広めることよ。やがて将軍家の指南役を務めるようにもなり、武家のみならず、町人文化の台頭を受けて、商家など、町の旦那衆にも茶道を広めたの。それにしても齢90歳にして没したと云うのですから、当時としては超長寿ではないかしら。お茶は元々養生や長寿延命をもたらす仙薬として飲用されていたものよね。見事にその効能を証明してくれたと云っても過言ではないわね。

ねえねえ、普通のお茶じゃダメなの? ダメよ、長生きしたければ抹茶よ。 だって抹茶は苦いんだもん。 良薬は口に苦し−よ。 おねえさんはいつもコーヒーだから長生き出来ないわね、きっと。 ・・・・・

一字一石妙経塔の隣でゴロゴロ(笑)しているのが奉納された力石。境内には他にも何やら云われのありそうな石碑が建てられていましたが、ξ^_^ξが「これ、おもしろい」と思ったのが左掲の「面倒になればおつるか蝸牛」と刻まれた句碑。蝸牛はカタツムリのことで、作者は京都・賀茂神社の神官を務めた牛山(本名:渡辺豪顕)と云う方だそうよ。建てられた背景などは分かりませんが、単細胞のξ^_^ξは単に字面を読んでの感想よ。

そして左手最奥部に建つのが御神木石榴と刻まれた石塔なの。漢字で書かれると分からないかも知れませんがザクロね。と云うことで、ここでは石塔が主人公では無くて、傍らで身を捩るようにしてたつザクロの木なの。御神木とするにはちょっと貧弱な(失礼)佇まいですが、世代交代を経たものなのでしょうね、きっと。ところで、どうしてザクロが御神木なのか気になりますよね。実は、鬼子母神とザクロは切っても切れない関係なの。鬼子母神像の右手には吉祥果が握られる場合が多いのですが、その吉祥果はザクロだとも云われているの。じゃあ、何でザクロを持つのかが問題よね。それには鬼子母神のことからお話ししなければならないの。既に他の頁で御案内済みなのですが、初めてと云う方も多くいらっしゃるでしょうから改めて紹介してみますね。鬼子母神はその名から何やら恐ろしい鬼神を想像してしまいがちですが、幼児を擁護することから今では安産・子育てに霊験灼かな神さまとして崇敬されているの。でも、最初はあなたがお察しのように人肉を喰らう怖〜い鬼神だったの。

けれど、その彼女も人間と同じように母親でもあったの。彼女が鬼神から善神となったその切っ掛けは、お釈迦さまの手になる誘拐事件。え?あのお釈迦さまが誘拐事件?嘘でしょ、そんなの。まあ、それは読んでみてのお楽しみよ。

鬼子母神は元々はインドの神さまで、ハーリティー Hariti と呼ばれていたの。優しそうな名前とは裏腹に夜叉神の一族で、同じ鬼神の般闍迦(はんじゃか)に嫁ぎ、千人(!)ものこどもを産むの。そんな大勢のこども達を食べさせるのはた〜いへん。夫婦揃って人間界のこどもをさらってはその肉を我が子達に分け与えていたの。ところがこどもをさらわれる人間の方はたまらないわよね。泣き叫び、挙げ句の果てに狂乱する母親や、悲嘆に暮れるあまり、病に伏せてしまう母親も多くて、次はうちの子がさらわれる番かも知れないわと、不安で不安でしょうが無かったの。その後もこどもさらいは一向に減る様子が無くて。そんな時耳にしたのがお釈迦さまの噂なの。ハーリティーから我が子を救う方法がありましたら是非お教え下さいと、お釈迦さまを訪ねて相談してみたの。

嘆き悲しむ母親達の願いを哀れとお思いになったお釈迦さまは、こどもを失う母親の悲しさを悟らせるために、彼女が一番可愛がっていた末っ子のピンガラを隠してしまうの。最愛の愛児がいなくなり、さすがの彼女も悲しみに暮れてしまうの。そして同じようにしてお釈迦さまに救いを求めるの。そんな彼女を前にしたお釈迦さま、千人ものこどもを持つお前が、たった一人の我が子がいなくなったというだけで、それだけ悲しい思いをするのだ。ましてや、ほんの数人しかいない我が子をさらわれた母親の悲しみ、苦しみが今のお前に分からぬはずはあるまい−そう諭されたの。

そうして彼女の子供達には人肉の代わりにザクロを食べさせるように諭すの。彼女は今までの罪滅ぼしのために人間界のこども達を永遠に守ることを誓い、ようやく我が子を返して貰うの。すっかり改心した彼女はこども達を守る一方で、仏法を護持する神さまにもなったのよ。因みにザクロは人肉の味がするという巷の風評はこの逸話に由来するの。鬼子母神はハーリティーが音訳され、訶利帝母(かりていも)とも呼ばれますが、その像の多くが左手に幼児を抱き、右手にはザクロの実を持つ天女の姿で描かれ、その腕に抱かれる最愛の末子・ビンガラは音訳されて、氷掲羅天(ひょうぎゃらてん)と呼ばれているの。

本堂を右手に回り込むとその鬼子母神の像が建ちますが、顔の表情がとっても恐いの。本堂に祀られる鬼子母神は天女姿で優しいお顔立ち(残念ながら実際に御尊顔を拝した訳ではないのですが)をされているそうですが、それに較べるといかにも強面で、女神と云うよりも男神の形相で、まともに視線を合わせることが出来ないくらいなの。それもそのハズ、こちらの鬼子母神は法華経の僧侶や信者を護る守護神としての姿で、法華経の中で先程ちらりと触れた十羅刹女と共にその護持者たらんことを誓約しているの。何でも日蓮上人が自ら塑像したと云う鬼子母神の像容がこの姿だそうですが、幼子がこれを見たら泣き出してしまうわね、きっと。ξ^_^ξも見たくなかったと云うのが本音よ。だったら載せなきゃいいだろうっつ〜の!−だったかしら。

雑司が谷鬼子母神では本堂に祀られる像が天女姿の優しいお顔をされていることから、鬼子母神の鬼の字から角(つの)をとった字を充てているの。残念ながら表示不能ですので、ここでは標準文字を使用しています。御了承下さいね。

妙見堂 強面の鬼子母神像の前を早々と通り過ぎて本堂の背後に廻り込むと、北辰妙見堂が本堂に接するようにして建てられているの。建物の前に立つ石標には北辰妙見大菩薩とありますが、この北辰と云うのは北斗七星の中でも中心にある北辰星、則ち北極星のことで、妙見菩薩はその北極星を神格化したものなの。中国の道教でも北斗七星には天帝が住むと考えられるなど、往古から特別な存在だったの。妙見堂の傍らには【北辰妙見大菩薩縁起】を記した石柱が建てられていましたので、紹介してみますね。

妙見さまはまたの名を北辰菩薩 尊星王などといい 本来北斗七星を神格化したものであります 妙見さまの御利益は国土を守り 長寿延命をはじめとする除災招福とされ またその名称の”妙見”から眼病平癒の菩薩として尊崇されています そのお姿には童子像のものや 国土擁護の威神力を示すための武神像のものもありますが 一般には美しい天女像で 雲または亀に乗り 左手に蓮華を持ち その蓮華の上には北斗七星が形づくられ 右手では説法印(教えを説く姿を示すもの)を作るもの また四臂でそれぞれの手に日輪と月輪 筆と紙を持つお姿などがあります

この筆と紙は妙見さまが 空の星のように人びとの生活を見下ろし その善悪の生活を記録されているさまを示すものであります 妙見信仰は本来真言宗からはじまりましたが 日蓮宗でもこの信仰は盛んで 大阪能勢の妙見さまとその別院の東京墨田区本所の妙見さま または墨田区柳島の妙見さまなどは有名です 当堂に安置する尊像は天女像で亀に乗っておられます 亀に乗った妙見さまは池上本門寺妙見堂にお祀りする尊像など数多くみられますが この亀は北の空を守る玄武神の化身とされています 当堂の尊像が何時建立されたのかは不明ですが 昭和五十一年から四年間にわたって行われた鬼子母神堂の大改修の折に発見された棟札によって この妙見堂が天明8年(1788)徳川11代将軍家斉の時代で 鬼子母神堂の本殿建立の122年後であることが明らかになりました。

大黒堂

鬼子母神詣でが盛んな頃は参道には茶屋や料亭が軒を連ね、境内にも飴や団子を売る店が並び立つ程だったと云われているの。訪ねた時には大黒堂と名付けられた建物で「おせんだんご」が売られていました。おせんだんごの「おせん」は鬼子母神の子供が千人いたと云う逸話に因むもので、子宝に恵まれるようにと縁起を担いで売り出されたものだったの。それが最近復活したみたいね。大黒堂が復活を遂げた団子屋さんなら、次に御案内する上川口屋さんは天明元年(1781)から続く老舗の飴屋さん。と云っても、現在では飴屋さんと云うよりは都内最古の駄菓子屋さんとして有名なのですが、200年を越える歴史は賞賛ものね。

上川口屋さん

上川口屋の名が示すように、江戸時代中期の正徳年間(1711-16)にこの地で飴屋を始めた川口屋の流れをくむお店なの。【若葉の梢】には「古来 丑之助とて鬼子母神の社地にて切飴を売りにける 甚敷く流行して栄けり 〔 中略 〕 今にその名あらざれば 名物のごとくおもはざるにや 社地近辺飴を売るもの 皆川口屋の名題を借るも 其家の徳 又 神慮の厚き故なるべし」とあり、川口屋に非ざれば飴屋に非ず−の状態だったみたいね。最盛期には、飴の売上金を叺(かます)に入れて、自宅との間を日に二度三度と往復したと云うのですから驚きよね。因みに、仁王像を囲む玉垣には寄進者の一人として川口屋忠次の名が刻まれていますので、気になる方は探してみて下さいね。

13. 法明寺 ほうみょうじ

山門 紹介した鬼子母神堂を主管するのがこの 法明寺 なの。寺伝では平安時代初期の弘仁元年(810)に弘法大師こと、空海上人がここに稲荷山威光寺を開創して真言宗の道場としたことに始まるとしているの。更に【吾妻鏡】の治承4年(1180)11/15の条にある「武蔵国威光寺は 源家数代の御祈祷所たるに依り 院主僧増円相承の僧坊寺領 元の如く之を免じ奉らると云々」を引いて、武蔵国威光寺とあるのは当院だとしているの。But 寺史に箔を付けたいのは充分理解出来るのですが、これはちょっとやりすぎよね。

承元2年(1208)7/15の条には「武蔵国威光寺の院主僧円海参じ訴えて云く 狛江入道増西 去る月26日 50余人の悪党を率いて寺領に乱入し 田を苅る狼藉に及ぶ」とあるの。この狛江入道増西なる人物は多摩郡狛江郷(現:東京都狛江市・調布市・三鷹市に跨る地域)の領主だったみたいよ。調布市須佐町には居館跡だとされる地もあるの。そうなると騒動の舞台は同じ武蔵国でも雑司が谷と考えるには無理があるわね。じゃあ【吾妻鏡】に出てくる威光寺はどこにあるの?となるのですが、調べて見ると現在は東京都稲城市矢野口にある草香山威光寺がそうみたいね。

参道 最初から寺伝にケチをつけてしまいましたが、法明寺さん、ごめんなさい。引き続き、寺史の紹介をしてみますが、時を経た正和元年(1312)に日蓮上人の高弟で中老僧の一人とされる日源上人が日蓮宗に改宗し、山号寺号も威光山法明寺と改称したと伝えられているの。江戸時代の寛文〜元禄年間に掛けては不受不施派を掲げたことから弾圧を受け、一時期天台宗に鞍替えしたみたいね。それでも元禄期末に日敬上人が住持となったのを機に身延山久遠寺末となり、再び日蓮宗に改宗して今日に至っていると云うの。

不受不施とは聞き慣れないことばかも知れませんが、法華経に帰依せざる輩から施しを受ける積もりもねえし供養もしてやらん−と云うことなの。更に知りたい方は鎌倉歴史散策−扇ガ谷編の 薬王寺 の項を御笑覧下さいね。CMでした。

鐘楼 枝垂れ桜 法明寺で忘れてはならないのがこの鐘楼に架かる梵鐘で、当時、名工として知られた太田駿河守久兵衛藤原正義と云う人の手に依り鋳造されたものだそうよ。鐘楼の傍らにはその梵鐘の説明書きがありましたので転載してみますね。尚、掲載に際して独断と偏見で一部を改変しましたので御了承下さいね。

この梵鐘は銘に依れば寛永21年(1644)12月、当山11世蓮成院日延上人の代に鋳造されたが、その後破損し 享保17年(1732)11月24世本量院日達上人の代に再鋳されたものと記されている。その下縁に曲尺・枡・天秤・算盤等の江戸時代の庶民生活を表す用具が図案化されて陽鋳されている為に、昭和19年(1944)7/6付で文部省(現:文部科学省)より重要美術品の認定を受け、戦時下の金属供出を免れた。竜頭までの高さ六尺、外径三尺、厚さ二寸、乳数は総計108で、所謂百八煩悩を象徴している。昭和20年(1945)4/13の戦災に依り、境内の諸堂宇と共に墓地にあった鐘楼堂は焼失したが、昭和43年(1968)現董48世一厚院日悠上人により、中門の再建に伴い、新たにこの地を卜して移築され、その警覚を響かせることとなった。