ここからはポイント間の移動距離がどうしても長くなってしまいますが、頑張って歩いて下さいね。普通の方なら余り足を向けないエリアになりますが、吉見町の歴史を語る上では一度は見ておかなければならない史蹟や神社があるの。また、吉見町の史蹟の中でもとりわけ広く知られているのが吉見百穴よね。吉見町の散策の最後には、その百穴を始め、主な見処がギュッと詰まった北吉見エリアを訪ねてみたので紹介しますね。掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。
7. 八丁湖公園入口 はっちょうここうえんいりぐち 12:27着発
そのお手洗いの手摺りに張り出されていたのが、下の吉見町役場まち整備課からのメッセージ。ペットを飼うものとして無視出来ない内容ですし、ξ^_^ξも同感ですので、敢えて紹介させて頂きますね。安易な同情はむしろ残酷よね。
餌やりの自粛をお願いします。
餌を与えることは、育てる意思表示になります。
育てるのであれば、自宅で飼ってください。
野良猫のまま一生を送るかわいそうな猫を増やさないためにお願いします。
ちょっと横道に逸れてしまいましたね、ごめんなさい。このお手洗いの先に更に遊歩道が延びますが、神社の鳥居を見つけて近付いてみたものの、踏み込むには大いに躊躇われるような草むらの道が山中に登っていて。諦めて踵を返そうとした時に見つけたのが、ミドリシジミの森の案内板なの。その方面の知識は皆無のξ^_^ξですので、下掲は案内板の記述の転載ですが‥‥‥
〔 県の蝶 ミドリシジミの森 〕 ミドリシジミは初夏の夕方に美しい羽をキラキラと輝かせながらハンノキ林を飛び回る蝶です。埼玉県では平成3年(1991)11月14日(県民の日)に埼玉県誕生120年を記念してミドリシジミを「県の蝶」に指定しました。この「ミドリシジミの森」はミドリシジミが生息できるハンノキ林を保全し、多くの県民の皆さんにミドリシジミとふれあって頂きたいという願いを込めて整備しているものです。埼玉県
案内板の背後は御覧のような木々の林になっていましたが、これがハンノキかしら?
8. 黒岩横穴古墳群 くろいわよこあなこふんぐん 12:50着 12:55発
お手洗いのある場所まで戻り、湖を離れて山側に延びる道を辿りますが、直ぐに見えてくるのがこの標識よ。黒岩横穴古墳群はお手洗いの背後に広がる窪地の崖側にあるの。整備されているとはいえ、人も通らず、寂寥感漂よう空間が広がるの。案内板には
黒岩横穴墓群は明治10年(1877)、根岸武香をはじめ地方の有志によって発掘され、16基の横穴が見つかったので通称十六穴とよばれた。明治11年(1878)、オーストリア公使ヘンリー・シーボルトが、明治12年(1879)には大森貝塚の発見者として有名なエドワード・モースが視察に来ている。横穴墓群は百穴谷、首切り谷、地獄谷、茶臼谷、神代谷の五ヶ所に分布しており、この一帯の斜面には未発掘の横穴が多数埋没していて、その総数は500基以上と推定され、国指定史跡である「吉見百穴」よりも、遙かに大規模で極めて良好に保存されていると考えられる。平成10年(1998)03月 吉見町・埼玉県
とあるのですが、吉見百穴を遙かに凌ぐ規模とは驚きよね。後程、その吉見百穴を訪ねますが、百穴の横穴墓の数は219基ですので、単純計算してもこの黒岩横穴墓群にはその倍以上の横穴があることになるわね。斜面は土や草木ですっかり覆い尽くされてはいますが、二連状態の吉見百穴を想像してみて下さいね。エッ?未だ吉見百穴を見てねえから想像出来るわけはねえだろうって?そうでしたね、そう云う方は最後までお付き合い頂き、もう一度ここへ戻って来て下さいね(笑)。
この黒岩横穴古墳群ですが、もう少しオドロオドロした説明板があるの。先程ちょこっと触れた神社(原伏見稲荷)の鳥居脇で偶然見つけたものですが、こちらの方が記載内容に説得力があるような気がするの。
この横穴群は吉見百穴と共に世人に古くから親しまれて来た遺跡であります。学問的に注目され始めたのは明治10年(1877)に明治の新政府から招かれて日本へ来たアメリカ人エドワード・エス・モールスが東京の大森貝塚を発掘し科学的に調査、検討が行われた頃からで、当時、たまたまこの地方で聞こえた郷土史家の根岸武香先生(大里郡大里村=現在は大里郡大里町)もこれにヒントを得て、横穴を発掘し謎を解こうと考えられ土地の人々の協力によって早速実行されました。発掘は意外に成功し16個新しい横穴が掘り出され、出土したものは人骨・土器・金属器・玉類等々言い伝えられています。それ以来ここは十六穴と土地の人たちから呼ばれるようになりました。発掘調査の終わった明治11年(1878)東京日々新聞(現在の毎日新聞)へ発表した。黒岩村穴居の記には住居であると説明されておりましたが、大正末期になり、日本の考古学が急速に発達し、住居説が完全に覆されて古墳時代後期に造られた墓穴であると断定されるに至りました。
*横穴の構造
横穴は普通の古墳の内部と同じように羨道と玄室と呼ばれている部分から成り立っています。入口から通る細長い道路が羨道で、奥の広い部屋が玄室です。羨道から玄室に入る所の少し窪んだ部分を羨門と呼んでおります。玄室には亡くなった人の死体を葬ったのです。穴によって玄室にベッドのような高い床がついている。これは棺台といって死体を入れた棺を載せておいたものです。昭和62年(1987)8月1日 埼玉県・吉見町教育委員会
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9. ポンポン山(高負彦根神社) ぽんぽんやま(たかおひこねじんじゃ) 13:16着 13:32発
ポンポン山と聞いて小高い山を想像していたのですが、訪ねてみると高負彦根神社の社殿背後の岩山を指すだけだったの。ちょうど神社が鎮座する辺りは丘陵地の端に当たり、岩山の先は崖で、その先に続く広〜い平野部は緑の稲穂で埋め尽くされていたの。その景観を紹介する前に高負彦根神社のことから御案内してみますね。と、更にその前に。鳥居の右手に何やら曰くありげな小さな塚を見つけたの。その塚の前に立つ案内板には「獅子封じ塚」とあり、塚に纏わる逸話が記されていたの。
昔、高生郷(現在の田甲)には獅子舞の古い行事がありました。今から数百年前頃の旧暦6月の某日、悪疫退散のため獅子頭を冠り、戸毎をを訪問する行事が行われておりました。しかし、ある年、痢病が著しく発生し、死者も多く出たので、村人達はこれは産土(うぶすな)神のお咎めではないかと恐れ、獅子頭を境内に埋没し、その上に柊(ひいらぎ)を植えて獅子封じをしました。それ以来、痢病も治まり、平和になったと云われています。
※痢病 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 腹痛や下痢の激しい伝染病の類
※産土神 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ その生まれた土地を守護する神、鎮守の神
※高負彦根神社の三鉾(さんぽこ)‥ 湊石(御神体)・大柊・菊水(湧水)
柊で穢れをぬぐい去ったところで参道を進みますが、社殿の右手に立つ案内板には
延喜式内社で昔は玉鉾氷川明神とも称した。祭神は味鉏高彦根尊(あじすきたかひこねのみこと)・大己貴尊(おおなむちのみこと)とされるが素戔嗚尊(すさのおのみこと)ともいわれる。社記によれば和銅3年(710)創建と伝えられる古社で宝亀3年(772)12月19日の太政官符に「案内を検するに去る天平勝宝7年(755)11月2日の符にあぐ 武蔵国幣帛に預かる社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山とも云う。巨岩の直下20mの平地は古代荒川の流路であった。吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内三社が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。平成10年(1998)3月 吉見町・埼玉県
とあるのですが、【風土記稿】の記述は正直よ。「中古以來玉鉾氷川明神と稱し來りて式社たる事も定かさらざりしに 後高負比古根神社と稱せし由なれど 果して古の式社なりしや 未詳にせず」とあるの。史実如何は専門家にお任せしますが、ここではこの高負彦根神社が当初から祀られるものだとして御案内しますね。加えて、玉鉾氷川明神の名も、後世に合祀したかされたかの際に改称した名残りとして無視しますね。なので、合祀されているかも知れない素戔嗚尊も暫くはお休みよ。それではξ^_^ξの独断と偏見満載の縁起を紹介しますね。
社殿には阿遅鋤高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)が祀られているの。獅子封じ塚の案内にちょこっと高生村の名が出て来ましたが、現在は田甲と呼ばれるこの地も、嘗ては高生とか高負などと表記されていたの。その地名は、この聞き慣れない神名の阿遅鋤高日子根神に由来するのですが、長ったらしい神名なので阿遅鋤が省略されて高日子根になり、更に訛(なまり)が加えられて「たこう」に転訛、高負や高生の字が充てられ、現在は田甲に落ち着いたみたいね。
この高負比古根神社ですが、先に紹介した横見神社と同じように、吉見町に鎮座する式内三社の一つになるの。今ではすっかり村社の趣きですが、嘗ては格式あるお社として広く崇敬を集めていたのでしょうね。阿遅鋤高日子根神は味鋤(耜)高彦根命とも書かれますが、鋤も耜も同じ「すき」を指し、古代人が田畑を耕すときに使用した曲がった木を表す象形文字になるの。どちらかと云うと耜の方が耕す姿に近いものだそうよ。それはさておき、この神さまを語るにはその鋤がキーワードになるの。稲を作るには田圃よね。今のように耕耘機もトラクターも無い時代のことですから、田圃を耕す上で一番大事な農具がこの鋤よね。嘗ては田圃に稲を植える前に田の神さまを迎えて行うお祭りの際には神さまの依代(よりしろ)として使われることもあったの。
阿遅鋤高日子根神の出自は大国主命を父として、お母さんは美貌を以て知られる宗像三女神の一人、奥津島比売神(おきつしまひめのかみ)で別名、多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)とか田心姫命(たごりひめのみこと)とも呼ばれているの。元々は玄界灘に浮かぶ沖ノ島を神格化した神さまなのですが、その美貌のDNAは阿遅鋤高日子根神にもしっかりと引き継がれているの。その容姿は若々しい美男子そのもので、鋤を通してその若さが穀物と繋がるの。春になると蒔かれた種がまばゆい緑を発して生長するさまはまさに高日子根神の姿そのもので、穀物神・農耕神として崇められたの。横見神社の項でも御案内しましたが、この辺りは古くから拓けたところで、穀倉地帯とも呼ぶべき田園が広がっていたでしょうから、豊かな稔りを期待して稲が順調に育つことを祈るにふさわしい神さまとして阿遅鋤高日子根神が祀られたのは必然だったような気がするわね。
社殿右手は緩やかな傾斜地がありますが、岩山のポンポン山に続く登り道になるの。ちょうど画面の中程が音のする場所だと云うのですが。ξ^_^ξも早速試してはみたのですが、どうもドスンドスンとしか聞こえなくて。【風土記稿】には「内社によりたる辺踏鳴せば 鼓の如く響きある処あり そこを玉鉾石と称す 又通じて玉鉾山とも号せり 玉鉾神霊の寓すると云意なる哉 よりて玉鉾氷川といひしとみゆ」とあるの。傍らには井戸のようにコンクリート製の土管が地中から飛び出していましたが、共鳴させるためのものだったりして(笑)。
ところで、このポンポン山には何でもお宝が眠っていると云う噂よ。
噂と云うよりも逸話だったりしますが、ちょっと紹介してみますね。
むか〜し、昔、この村に住む長者が宝物の隠し場所を探しておったそうじゃ。ある日その長者がこの社に詣でて「どうか神さま、このわたくしに宝物を隠す一番良い場所をお教え下さい」と願うたそうじゃ。するとたちまちのうちにお告げがあり、神さまが云うには「この岩山に埋めるが良かろう、そなたの宝とやらを守ってしんぜよう」とのことじゃったそうな。うれしくなった長者はすぐさま岩山に宝物を埋めると神さまが自らお守り下さるからと安心し切っておったそうじゃ。
それからしばらくしてからのことじゃった。どこぞで聞き及んで来たかは知らんけんども、長者の隠した宝物を盗もうとする者がおったそうじゃ。ところがじゃ、その盗人が山に分け入ろうとすると突然ポンポンと山鳴りをおこしたそうじゃ。それには盗人も腰を抜かさんばかりに驚いてのお、神さまの怒りにふれたものと思い、震えながら山を駆け下りたそうじゃ。それからと云うもの、宝物を掘り出そうと山に入る者は誰もおらんかったと云うことじゃ。その宝物じゃが余りにも昔のこっだで、今では村のだ〜れも知らんようになってしもうたと云うことじゃ。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。
左掲はポンポン山の山頂を撮したものだけど、岩山と云うよりも大きな岩ね。その岩の上からは下掲の景観が広がりますが、この岩山から転がり落ちるようにして崖があり、吉見丘陵の端に立っていると云う実感があるの。今ではすっかりその流れを変えて、ここからではその姿を目にすることも出来ませんが、先程紹介した案内板には、太古の昔はこの崖下を荒川が流れていたことが記されていたの。当時はどんな景観が広がっていたのでしょうね。
川幅日本一の名誉に預かる吉見町ですが、その川幅は何と2,537mもあるそうよ。だからと云って、両岸に達するような水量があるわけでは無いのですが、この辺りではその川幅に達するような流れが嘗てあったと云うことかしら。だとしたら、まさしく大河で、揚子江かアマゾン川の世界よね。
ポンポン山を後にして次の目的地・吉見百穴に向かいますが、
ここからは今回のコース最長の長丁場となるの。頑張って歩いて下さいね。
a:新田沼の脇道へ
b:堂ノ前池
c:四つ角
d:Y字路
10. 神明神社 しんめいじんじゃ 14:10着 14:14発
a:T字路
b:JA-GSのある交差点
c:北向地蔵が立つ交差点
d:八坂神社
11. 北向地蔵 きたむきじぞう 14:31着 14:34発
北向地蔵からR271の坂道を下った最初の信号のある交差点の右手には袖沢沼と呼ばれる小さな沼があるの。その先の左手にはクリーニング店を挟んで二本の脇道があるのですが、手前側の道に入るべきところを先の道に入り込んでしまったの。手許の地図では細かい農道までは記されて無かったのでその後のリカバリーも出来ず、迷子になっては大変とR271に戻るとコース変更したと云うわけ。でも、そのまま突き進めば良かったみたいね。改めて調べてみると龍性院の直ぐ横に出られたのに残念。袖沢沼 14:37着発
県道R271に戻ったξ^_^ξはそのまま滑川に架かる不動橋まで歩いたの。最初に吉見町を訪ねた時に吉見百穴〜不動橋を往復していましたのでここからなら迷うこともないと思ったの。その不動橋ですが、車道とは別に歩行者専用の側道橋があり、その欄干にあるのがこのコアラの親子像なの。実は、下調べをしている時にその存在を知り、是非この目でみてみたいと思っていたの。なのでその時はこのコアラ像のためだけに吉見百穴と不動橋の間を往復したと云うわけ(笑)。不動橋 14:53着発
不動橋からは橋を渡らずに滑川沿いの道を歩きますが、市野川と合流する辺りからは桜が植樹されていますので、春先には絶好のお花見スポットになりそうね。しばらく歩くとその桜並木の切れ間に脇道が見えて来るの。吉見クリニックの看板が目に留まりますので直ぐに分かると思うわ。その脇道に折れると視線の先には山肌に穴が幾つも開いた吉見百穴が見えるの。補足ですが、途中迷子になったことから吉見百穴の到着時刻には14,5分のロス・タイムが含まれているの。もし時間を含めて参考にされる場合には御注意下さいね。脇道 15:07着発
12. 吉見百穴 よしみひゃくあな 15:08着 15:51発 (昼食時間含)
「百穴」の名が文献に見られるのは今から約二百年前からで、江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ、不思議な穴として興味を持たれていたと思われる。吉見百穴が科学的に検討されだしたのは明治になってからで、内外の著名な考古学者によって調査が行われ、横穴の性格をめぐって様々な意見が発表された。明治20年(1887)坪井正五郎氏(当時東京大学院生)によって大発掘が行われ、人骨、玉類、金属器、土器類が出土した。坪井氏はこの横穴を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたもので、後に墓穴として利用されたものであると発表した。しかし、大正時代になると、考古学の発達によって、各地で横穴の発見、発掘がなされ、出土品や横穴の構造から、この横穴は、古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として作られたものであることが明らかにされ、「住居説」は覆されることとなった。
そして大正12年(1923)には「吉見百穴」は我が国の代表的な横穴群として国の史跡に指定された。戦時中、横穴群のある岩山に地下工場の建設が行われ、数十基の横穴が壊されたが、戦後吉見百穴保存会が結成されて積極的な保存管理が行われ、昭和36年(1961)には吉見村が管理者となって引き続き管理が行われ、今では「吉見百穴」は多くの人々に愛され親しまれる史跡となっている。また、最低部の二つの横穴に底や壁から微かな緑色の光を発しているヒカリゴケがある。このコケは山地に多く、平野にあるのは植物分布上極めて貴重とされ、国指定天然記念物となっている。平成10年(1998)3月 吉見町・埼玉県
実は、実際に訪ねる前までは百穴をひゃっけつと訓んでいたの。
道を訊ねる際にもひゃっけつで通していましたので、地元の方にしたら奇異に思われていたでしょうね。
その吉見百穴ですが、6世紀末から7世紀末にかけての古墳時代後期〜終末期に造られた横穴墓で、一帯は凝灰質砂岩と呼ばれる岩盤が広がり、掘削に適した環境にあったと云うわけ。説明にある土蜘蛛人とコロボックル人は決して同一ではないのですが、それはさておき、現在の感覚からすれば凡そおとぎ話のようなことを帝大の大学院生が真剣に考えていたとは驚きね。加えて、その時の発掘調査の詳細が殆ど残されていないと云うのはとても残念ね。確かに吉見百穴の存在を世に知らしめた意義は認めるけど。
〔 横穴の構造 〕 横穴は玄室・羨道・前庭の三つの部分からなっています。玄室は死者を埋葬したところで、ここは普通死体を安置した棺座がつくられています。羨道は前庭から玄室に通ずる通路であり、前庭は羨道の外につくられた広場ですが、ここではおそらく死者を葬る祭が行われたのでしょう。遺体を玄室内に安置した後、横穴は羨道の外側に封鎖石(扉石)を立てかけて閉塞しました。封鎖石には多くは緑泥片岩の一枚岩を使っていますが、稀に凝灰岩の切石を積み重ねた例もあり、一定していません。封鎖石は粘土を用いて密閉され、開けることは出来なかったが、追葬の際は粘土を除いて取り外された。
この横穴墓ですが、個人の埋葬ではなくてその多くが家族墓と云うことみたいね。確かに最初は一人だったかも知れませんが、家族が亡くなると追葬されたの。現在のような先祖代々と云うわけにはいかなかったとは思いますが、家族に囲まれていたいと思うのは今も昔も変わらない願いよね。でも、この横穴墓が作られた頃の人々は死を全てが無くなるものとしてだけでは無くて、再生としても捉えていたの。遙か遠いところで今までと同じような生活をするのだと信じていたの。その考え方が玄室を始めとした横穴墓の構造にも反映されていると云うわけ。
天井が屋根の形をしているのもあの世での新しいお家を意味しているの。後世の発掘調査では多くの副葬品が出土しているのですが、飾馬の埴輪はあの世で狩りや旅をする時に必要だから−と一緒に埋葬されたの。土器は勿論食器ですから生活必需品よね。そこには被葬者の再生を願うと共に、生活に困らぬようにと細やかな気配りを見せる残された家族の姿があるの。因みに、現在確認できる横穴墓の数は219基だそうよ。オドロオドロした写真を御覧になりたい方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。
識者の間では古墳時代前期の縦穴式が後期からは大陸からの横穴式の伝来に合わせて古墳の姿も形を変えたとしているの。その大陸から伝来したもので死生観に大きく影響を与えたのが仏教よね。勿論、伝来したからと云って直ちに日本の津々浦々まで浸透した訳ではないのですが、中央集権化に伴い、徐々に広まっていったの。加えて、みなさんも一度は耳にされたことがあるかと思いますが、「大化の改新」が大きな社会変革をもたらしたの。諸々の詔が発せられた中で、大きく関係するのが古墳の造営を制限した薄葬の詔、通称「薄葬令」なの。
【日本書紀】の大化2年(646)03/22の条にはその詔が記されているのですが、そこでは埋葬のことが事細かく指示されているの。その一つには「金・銀・銅・鐵を蔵むること無(こがねしろかねあかがねねりかねををさむることまな)」とあり、金銀銅や鉄などは一緒に副葬するんじゃねえ−と云うことよね。古墳の造営にしても「我が民の貧しく絶しきこと、専墓を営るに由れり(わがおほみたからのまずしくともしきこと たくめはかをつくるによれり」とあり、−てめえらがてめえ一人のために専用のでけえ墓をつくるからいつまでたっても民が貧しいままじゃねえか−と云うわけ。
制限禁止事項の詳細は【日本書紀】をお読み頂くとして、「縦し詔に違ひて禁むる所を犯すこと有らば 必ず其の族を罪せむ(いさむるところをおかすことあらば かならずそのやからをつみせむ)」と云うのですから、逆らう訳にはいかないわよね。【書記】の記述を100%鵜呑みには出来ないとしても、その流れが大きく変わることはないの。この吉見百穴が造られた背景が少しはお分かり頂けたかしら。
入口から売店の前を経た辺りになりますが、岩山の一番下に位置する横穴には国の天然記念物に指定される「ヒカリゴケ」が自生していると云うの。覗き見た限りでは光を発しているような部分もあるような、無いような。説明には
2,3の横穴の中には苔が自生しています。この苔は太陽の光に映えて黄金色に輝く「光苔」と呼ばれ、ほの暗い洞穴内や森林内の湿地に生える珍しい植物で、昭和3年(1928)天然記念物に指定されました。この苔は、普通原糸体と共に生えて淡緑色か淡色かになっています。この原糸体はレンズ状の細胞が繋がって出来ているため、光線を屈折反射し、黄金色に光ります−とあるのですが。因みに、このヒカリゴケ、中部以北の山地には見られるものの、関東平野に生育するのは極めて稀なことで植物学上貴重なものだそうよ。
ところで、古人(いにしえびと)が再生を願い死者を埋葬した百穴の地下に、第二次世界大戦末期には戦闘機のエンジンを製造するための軍需工場が造られたと云うの。百穴にはその地下壕への入り口が二ヶ所口を開けていて、見学することが出来るの。
構内の巨大な洞窟は、右の方500mから、左の方800mに亘り、山腹に掘られた30数ヶ所の一部です。第二次世界大戦の末期昭和20年初頭前後から8月に至る間、地下軍需工場用に掘られました。当時我が国で最大と云われた中島飛行機株式会社でもその大宮工場(現在の富士重工)エンジン製造部門の全施設をこの地下に移転することになりました。堀削は全国各地から集められた3,000人から3,500人と云われた朝鮮人労働者により昼夜を通した突貫工事として進められました。ダイナマイトを使用した人海戦術でした。トンネルは幅40m、高さ2.2mの馬蹄形で、現在公開されているのは1/10の広さにも及びません。7月頃には完成した場所に工作機械が搬入され、大宮工場から転居した従業員や勤労動員学徒により、エンジンの部品が製造されましたが、本格的な生産活動に移る前に終戦となりました。掘削工事に従事した最後の朝鮮人と云われた人の帰国に際し関係者により催された懇談会の席上、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの苗木は現在もこの地で生長を続けています。吉見町
その地下工場はこの後に訪ねる松山城跡の直下に至る総延長1,300mにも及ぶ巨大なもので、百穴の前面も平地を確保する必要があったことから市野川の流路も大きく変えられたと云うの。売店を営む方にお伺いしたところでは、嘗ては自由に見学出来たのですが、遠足などで小学児童が増えたこともあり、壁が崩れたり湧水があったりと危険なために現在のように一部だけを見学できるようにしたそうよ。尤も、最近はその遠足児の姿もめっきり見掛けなくなりました−とも。内部の写真を何枚かアップしてみましたので、興味のある方はクリックしてみて下さいね。
戦争の傷跡がこんなところにも残されていたとは思いもしませんでしたが、その価値如何を問わず全てを破壊するのが戦争で、ありとあらゆるものに優先されてしまうの。この軍事史跡を前にして二度と不幸な戦争が繰り返されないようにと切に願うのみよ。
構内にある埋蔵文化財センターでは吉見百穴だけでなく、近在の遺跡から出土した土器などが展示されているの。加えて、体験学習では勾玉や埴輪づくりなども体験出来るのですが、時間がないとちょっと難しいかも。
13. 龍性院 りゅうしょういん 16:00着 16:02発
何故、龍性院の拝観に拘ったのかと云うと、この後紹介する岩室観音堂はこの龍性院の境外堂になるの。と云うことは観音堂を主管するのはこの龍性院と云うことよね。岩室観音堂のことはパンフレットやWeb上でも情報が得られるのですが、こと龍性院に関しては皆無の状態なの。それなら実際に訪ねてみれば詳しいことが分かるかも知れないと思ったの。ですが、境内を見渡してみても平成6年(1994)銘の本堂建立記念碑に「当山は天文年中武州松山城主上田能登守朝直に依り開山云々」と僅かにあるだけで、縁起などを知る手掛かりは見つからなかったの。
仕方がないので、ここでは【風土記稿】の記述を転載しておきますね。
ここで御注目頂きたいのは寺号の湯沢寺なの。【風土記稿】は龍性院のある柚澤村について「相傳ふ古へ温泉ありしにより湯澤と唱へしを 後に今の字に改めしと云」と記しているの。兵庫県の城崎温泉郷や岐阜県の下呂温泉にはその名もずばりの温泉寺があるけど、温泉が涸れずにいたらこの龍性院も温泉寺を号していたかも知れないわね。そう云えば不動橋から桜並木の堰堤を歩いた時に途中で「旅館 百穴温泉 春奈」の看板を見掛けたけど、今でも温泉が湧いているのかしら?
龍性院からは元来た道を戻りましたが、来るときは気付かずにいた松山城跡への裏道案内板を見つけたの。ちょっと気になり、案内板に指示される道を辿ってみたのですが、道標の先は草叢に埋もれた道となり、藪の中へと続いていたの。突き進むには勇気が必要ね。因みに、標識は全て吉見町の教育委員会が設置したものらしく、松山城跡が民有地だとはこの時初めて知ったの。その松山城跡ですが後程紹介しますね。それにしても城跡の見取り図まで掲示するという、至れり尽くせりの丁寧さ。城跡めぐりの人気の高さ故のものなのでしょうが、他の史蹟案内にこそそういう丁寧さが欲しいと思うのはξ^_^ξだけかしら?(笑)
14. 岩室観音堂 いわむろかんのんどう 16:13着 16:23発
岩をうがって観音像を祀ったところから岩室観音という。龍性院の境外仏堂である。この観音の始まりは弘仁年中(810-824)と云われているが確かな記録は残っていない。松山城主が代々信仰し護持していたが、天正18年(1590)松山城の攻防戦の際に兵火にあって当時のお堂は焼失してしまった。現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(1661-1673)に龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の助力を得て再建したものである。お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしてはめずらしいものである。
また、ここにある石仏は、四国八十八ヶ所弘法大師巡錫の霊地に建てられた寺々の本尊を模したもので、88体の仏像が祀ってある。また、この石仏を拝めば居ながらにして四国八十八ヶ所を巡拝したのと同じ功徳があるとされている。平成10年(1998)3月 吉見町・埼玉県
武州比企郡岩室山の正観世音はその昔嵯峨天皇の御宇・弘法大師が諸国を遊歴しこの地に至り、岩窟を選び三昧に入り、観世音の尊像を彫刻しこの岩窟に納め、岩によりて殿を構え、岩室山と号し、多くの人を結縁せしめました。天正の終わり頃、太閤秀吉関東に出馬したとき、石田三成の士卆により松山城が灰燼となり、その餘焔大殿にかかり、堂宇残らず焼失しても、尊像だけが不思議にも岩窟内に無事おわしました。その後龍性院第三世・堯音法師が師命を受けて遠近を駆け巡って檀信徒の助力を募り、寛文年中(1661-1673)に現在のお堂を造営したと伝えられています。岩室山龍性院
観音像は空海上人(弘法大師)作としていますが、それはちょっとマユツバものね。確かに空海上人の入唐以前の10年余は謎が多く、その間にこの東国に下向して来た可能性は完全否定出来ませんが、それでも修行の舞台は吉野山や四国の石鎚山、室戸岬などの近畿西国圏よ。帰国後にしても当時の遣唐使は超エリートで、政権運営のゴタゴタから多少のもたつきはありましたが、それでも鎮護国家を掲げて嵯峨天皇の厚い信任も得ているの。その嵯峨天皇治世期というのですから、弘仁年間(810-824)のことになるのですが、諸国、ましてや東国を遊行していたとは考えにくいわね。高僧に結びつけられた縁起譚の多くがそうであるように、この岩室観音の縁起もまた後世に付与されたものではないかしら。龍性院さん、ごめんなさい。
ξ^_^ξも初めて知ったのですが、比企西国三十三所と云うのがあり、この岩室観音は第三番札所になるのだとか。安楽寺の項で札所めぐりについて触れてみましたが、坂東三十三所に加えて西国三十三所、秩父三十四所と云うのもあるの。その全てを網羅して廻る百観音めぐりも行われたようよ。秩父だけが34になる背景はそこにあるのですが、全て踏破するとなると余程の経済力と体力気力が無いと無理よね。この比企地方からすれば板東や秩父の観音霊場なら頑張れば何とかなりそうよね。でも、西国三十三所となると話しは別よね。
今と違い、当時の旅はまさに命懸け。そこで観音霊場巡りの隆盛に合わせて各地にその模倣版が創られるようになったの。その一つが比企西国三十三所と云うわけ。But その比企西国三十三所も明治期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐の中で廃寺となった札所も多く、現在は三十三所としては機能していないの。
混乱を招きそうですが、ちょっと予備知識を披露しますので、お付き合い下さいね。札所めぐりについては既に御案内しましたが、良く似た巡礼のスタイルに「遍路」があるの。「お遍路さん」は良く耳にすることからどちらからと云うと遍路の方がお馴染みよね。どちらも同じ巡礼なのでごちゃ混ぜ状態なのですが、札所めぐりが観音霊場であるのに対して、お遍路さんが廻るのは御大師さまこと、弘法大師の修行地蹟と、その対象が異なるの。後世になり、その縁ある地に堂宇などが建立されたことから「区別もようわからんけえのお〜」になってしまったの。ここでは観音霊場を巡るのが札所めぐり、弘法大師縁の霊場を訪ねるのがお遍路さんと御理解下さいね。加えて西国三十三所と云う場合は札所めぐり、四国八十八ヶ所はお遍路さんのお話しになるの。
堂内の左右の岩窟に数多くの石仏が祀られているのですが、これは四国八十八ヶ所を模したもので、ことばは悪いのですがミニチュア・セットになるの。実は、傍らに案内があるのですが、四国八十八札所と記されているの。読み進めると遍路云々が出て来ますので、やはりごちゃ混ぜね。まあ、そんなん、どっちでもえやないかい!−かも知れませんが。その石仏ですが88体あり、四国八十八ヶ寺に祀られる諸仏を模したものだそうよ。何かと難癖をつけてしまったξ^_^ξには諸仏の御加護は得られないかも知れないわね。
記述に登場する衛門三郎ですが、元々は強欲な長者だったの。それがある事件から家も財産も捨てて巡礼へと旅だつのですが、その巡礼こそが四国遍路のルーツとも云われているの。お話しが気になる方は「土佐の高知のはりまや橋で」の 石手寺 の項を御笑覧下さいね。CMでした。
2Fの天井はお札や大きな奉納絵馬などで埋め尽くされ、多くの参拝者があることを物語っているの。頑丈な格子の先には本尊の観音像が安置されているとは思うのですが未確認で終えているの。その前に置かれていたのが「百観音お砂踏み」で−前の箱の中には西国・板東・秩父百観音霊場のお砂が収めてあるの。足型の上に立って拝めば百観音巡礼の功徳があります−とあるの。これぞ究極の札所めぐりよね。
建物の背後は御覧のようにイワタバコの群生地になっていましたが、左手の岩場には葉蔭に隠れるようにして鎖綱が見えたの。1Fから階段を上る時に「胎内くぐり」の案内を見つけてはいたのですが、階段横に打ち付けられていたのでてっきり2Fに通じる開放部が狭いことを指すのだと最初は思っていたの。本当はその鎖綱を頼りによじ登った先に岩穴があるみたいね。足許がぬかるんでいたので滑って怪我でもしたら−と未体験で終えていますが、意のある方はチャレンジしてみて下さいね。
15. 岩窟ホテル跡 がんくつほてるあと 16:24着発
岩室観音と地続きの隠れた名所よ。実は、岩室観音よりもこの岩窟ホテル跡の方が知れわたっていたりするの。名前こそ岩窟ホテルとなってはいるけど、決してホテルが営まれていた訳ではないのよ。廃墟と化した今では立ち入り禁止ですので中の様子を窺い知ることは勿論出来ませんが、そのことが逆に憶測や興味の対象になり、今でも多くの人が関心を寄せているの。見せて貰えぬとあっては余計見たくなりますが、かなわぬことですのでせめてその経緯(いきさつ)だけでも紹介してみますね。実は、一番知りたかったのが自分だったりするけど(笑)。
ホテルじゃないと云っておきながら、他にこの廃墟を表す適当なことばが思い浮かばないのでそのまま巌窟ホテルにしておきますね。この岩窟ホテルですが、実は、高橋峰吉(1858-1925)さんと云う方がたった一本のノミで彫りあげたものだそうよ。峰吉さんは名主家の次男に生まれたそうなので経済的には恵まれた環境にあったと云うことでしょうね。当然、この岩窟ホテルのある場所も所有地だったわけよね。その峰吉さん、何を思ってか、明治37年(1904)に46歳を迎えたある日のこと、ノミを手にすると目の前に立ちはだかる崖をやおら掘り始めたの。その後21年もの長〜い間、一人でコツコツと手掘りしたの。その様子を見ていた地元の人達が「峰吉さん、きょうも岩窟掘ってるよ」「んだ、岩窟掘ってる」と会話していたのが訛り、いつしか岩窟ホテルと呼ばれるようになったのだとか。最初からホテルを造ろうと思っていたわけではなさそうよ。
何でも一時はその物珍しさから見物に来る人も多く、岩窟内が狭くて入りきれずに整理券を発行する程の盛況ぶりだったそうよ。何とその様子がイギリスのロンドン・タイムスでも報じられたと云うのですからすごいわよね。峰吉さんには実子が無かったことから掘削の継続を養子を迎えて委ねた云々との記述もWeb上にはありましたが、そこまで峰吉さんを駆り立てたものは一体何だったのかしら。名誉だとかそんな安っぽい理由ではとても21年もの間ノミをふるい続けることなんて出来ないわよね。
左掲は岩窟ホテル跡を過ぎて少し歩いたところから市野川を眺め見たものですが、この湾曲部の上流側で川の流れが直線状になっているの。先程百穴の項で軍需工場の設営に際して前面に広い平地が必要とされたことから市野川の流れが改修されたと御案内しましたが、戦時中に流れた多くの汗と涙の結晶がこの景観を支えてくれているの。この市野川の静かな流れのように、平和な「時」がいついつまでも続いて欲しいものね。
16. 當選寺 とうせんじ 16:27着 16:30発
壊れた看板には合格祈願・当選祈願・良縁祈願の文字が並び、南無妙法蓮華経の題目もありましたので、日蓮宗系の寺院よね。城址の遺構の傍らにもこの題目が彫られた石柱が建ちますので同じ日蓮宗よね。この當選寺のことを知る手掛かりが見つけられないかしら?とネット検索してみたのですが、唯一見つけることが出来たのが下記の記事なの。勝手リンク&直リンクのネチケット違反に加え、リンク切れになる可能性大ですが、記事には當選寺が必勝ラーメン・セットを¥10,000で売り出したとあるの。
住職の方が「ラーメンの販売が目的ではないのでラーメンだけは売りません。バブル崩壊でついに寺院も商売などと見られたくないのです」とコメントを寄せていますので、ちょっと変わり種のお寺かも知れませんが、新興宗教やオカルト教団のそれではなさそうね。
〔 追記 〕 ここではξ^_^ξが訪ねた時の状況を元に御案内していますが、先日( ′14.10 )、當選寺の吉川さまよりメールを頂いたの。無住となっていた當選寺が再興され、以前のように所願成就を奉斎して下さるようになったみたいね。本来は再訪して掲載内容を改訂すべきところなのですが、吉川さまよりお寄せ頂いた内容を掲載し、追記としますね。
當選寺の吉川さま、直々のメールをありがとうございました。
別途、こちらからも返信のメールを差し上げているのですが‥‥‥
17. 松山城跡 まつやまじょうあと 16:31着 16:44発
當選寺と隣り合わせにして松山城跡への入口があるの。前を走るのは県道R27(東松山鴻巣線)よ。入口の空き地は大型バスでも駐車出来そうな広さがあるのですが、縁石に阻まれて車の乗り入れは無理ですので、車でいらっしゃる場合には百穴の無料駐車場を御利用下さいね。ところで松山城跡への登り口ですが、最初に訪ねた時にはどこから入山するのか分からず、通りがかりの方に幾度か訊ねたの。地元の中学生ならあるいは−と声を掛けてみたこともありましたが、何と城跡自体を知らない(笑)と云われてしまったの。
ウロウロした挙げ句、最初に松山城跡の案内板を見つけたのが岩室観音堂から少し坂道寄りの場所なの。なのでξ^_^ξはその辺りのどこかに山中への登り口が隠れているものと思い、再び坂道を上ったり下りたり。先ずはその変な位置に立てられていた案内板から紹介してみますね。
この城跡は戦国期における山城の姿が殆どそのままに残されている貴重な文化財である。市野川に突き出た部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸と南西から北東に向って一直線に向かって一線上に並び、その両側に多くの曲輪(くるわ)や平場をもっている。この主曲輪群の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発で全く原形を失ってしまった。城史は古代に遡るとも云われるが、一般的には室町時代初期の新田義貞(にったよしさだ)陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉(さえもんのじょう)説、応永23年(1416)頃の上田上野介(こうずけのすけ)説などがある。
しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、太田氏が江戸・川越・岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。この城が天下に知られたのは、今から4,500年前の天文年間から永禄年間のことで、城をめぐっての上杉、武田、北条の合戦は有名である。後、豊臣勢に攻められ、天正18年(1590)落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家一万石の居城となったが、松平氏が慶長6年(1601)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。平成20年(2008)に国指定史跡となっている。平成10年(1998)03月 吉見町・埼玉県
山中に足を踏み入れた途端に陽射しも木々に遮られてこの暗さ。単なる山道が続きますが、いきなり現れ出でたのでがこの石段よ。否、コンクリートの階段よ。あれ〜変よね、城跡のハズじゃなかったの?コンクリってそんなに昔からあったっけ?とこの時点では何がどうなっているのか分からずにいたの。脇に倒れかけた石碑を見つけましたが、それには「昭和五年八月吉日築工」とあり、寄付者2名の名が記されていました。
その石段を上ると手水舎があり、その先には御覧のようなコンクリート製の遺構が。お城の構造には無知なξ^_^ξでもさすがにこれはお城跡では無いわねと分かったの。傍らには南無妙法蓮華経と刻まれた石塔も建てられているの。これはどう見ても寺院跡よね。先程の石碑には昭和5年(1930)の銘がありましたのでその頃は寺院として立派に機能していたと云うことよね。
余談ですが、石塔の台座には「平成二十年 熊野修験 奉修行武蔵国比企丘陵入峯天下泰平如意祈願 十一月吉祥日 那智山青岸渡寺」と墨書きされた木札が添えられていたの。実は、この奉納札を見掛けたのはこの松山城跡だけではないの。熊野修験とあることから和歌山の地から遙々下向して来られたのでしょうか。比企丘陵入峯とあるのですが、廻られているのは霊場だけではないみたいですので一体何ヶ所を訪ね歩くことになるのかしら。それにしても、時を経た今もこうして信仰を寄せる方がいらっしゃるのですね。その思いにただただ脱帽よ。合掌
埼玉県指定史跡・松山城本丸跡と記した指標脇にも案内板がありました。
左掲は説明にある物見櫓跡に建てられている松山城跡の碑よ。
県指定史跡 松山城跡 大正13年(1924)3月31日指定
松山城は、吉見丘陵の先端に築かれた山城で東南西の三方が、市野川の流域の沼湿地となっていて、自然の要害の場所にありました。今でも土塁や空堀が山林の中に残っています。城の規模は大きかったらしく、20万坪とも30万坪とも云われています。
戦国時代に於けるこの城を巡る攻防は真にめまぐるしく、且つ激しかったようです。と云うのはこの城は川越や鎌倉方面と鉢形から上州(群馬県)方面に通じる要衝の地にあり、各武将ともこの城を重要視したため、絶えず争奪戦が繰り返されました。この城が築かれたのは応永年間だという説がありますが、正確には15世紀の半ばで扇谷上杉氏と古河公方対立の状勢の内に形成されたと見るべきでしょう。それから百数十年、度重なる関東の戦乱の中で数度の築城と改造が行われ、何度か城主が変わりましたが、主な者は上田氏で天正10年(1582)に没した朝直が有名であります。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、豊臣方の前田利家、上杉景勝らの軍勢に囲まれて落城致しました。その後慶長6年(1601)徳川家康の一族、城主松平忠頼が遠州浜松城に移封され廃城となりました。現在山頂(物見櫓跡)には松山城跡の碑があり、合戦の激しかった往時を偲ばせてくれます。昭和58年(1983)2月 埼玉県教育委員会 吉見町教育委員会
松山城跡の見学を終えたところでこの際だからと東松山駅まで歩いてしまいましたが、高崎線を御利用になる場合にはちょっと歩くのは無理よね。百穴資料室にはバスの時刻表のコピーが置いてありますので忘れずに頂いておきましょうね。川越観光バスの上下線のダイヤ(百穴入口発と武蔵丘短期大学発)が記載されていますよ。
18. 東松山駅 ひがしまつやまえき 17:12着
吉見町の散策もこれで全て終了ですが、全行程を踏破するのに見学時間などを含めて7時間余り。一、二度訪ねたことがあるので、多少の勘は働いたのですが、それでも不案内なことから迷子になってみたり。軟弱なξ^_^ξにしたらかなりの強行軍でしたが、公共の交通手段に頼れない環境では歩く意外に選択肢が無くて。それでも歩くことで見えてくる景色があるわね。それとも歩くと云うゆったリズムのおかげかしら。総集編とも云うべき3回目の散策はそれこそ猛暑日のこと。ペットボトルどころではなくてバケツ一杯分の水分を取りながら歩いたような気がするわ。それはちょっと大袈裟かも知れないけど、皆さんはそんな無理をなさらずに、穏やかな季節を選んで歩いてみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
〔 参考文献 〕
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
続群書類従完成会刊 群書類従第26輯 保暦間記
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
新人物往来社刊 安田元久編 鎌倉・室町人名事典コンパクト版
角川書店社刊 上垣外憲一著 空海と霊界めぐり伝説
青春出版社刊 歴史の謎研究会編 謎解き兄弟の日本史
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
岩波文庫 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
吉川弘文館刊 虎尾俊哉著 延喜式
塙書房社刊 速水侑著 観音信仰
吉見町発行 各種栞、冊子など
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