≡☆ 戸越の紅葉散歩 ☆≡
花の少ないこの時期に、品川区にある戸越公園では十月桜ならぬヒマラヤザクラという珍しいサクラが開花すると聞き、近くにある行慶寺や戸越八幡神社に立ち寄りながら、お花見と寺社めぐりを兼ねて、ちょっと遅めの紅葉散歩をしてみたの。補:掲載する画像は一部を除いて、幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。
行慶寺、戸越八幡神社、文庫の森公園、戸越公園
1. 戸越駅( 都営浅草線 )
とごしえき
9:07着発
Map : 品川区戸越3-4-17
ヒマラヤザクラはその名称からお分かりのように、ヒマラヤを原産とするサクラで、20年程前に区民の方から寄贈されたものが、公園入口の薬医門前に植樹されているの。残念ながらξ^_^ξが訪ねたときには、既に見頃を過ぎていましたが、それでもこの季節にサクラの花が見られるなんてうれしいことよね。因みに、日本にあるヒマラヤザクラは、昭和43年(1968)にネパール王室のビレンドラ元国王( 当時は皇太子 )から贈られたものが元木になっているのだとか。寄贈した区民の方の手許にヒマラヤザクラが至った経緯も気になるところね。
2. 行慶寺
ぎょうけいじ
9:16着 9:23発
Map : 品川区戸越2-6-31
最初に訪ねたのがこちらの行慶寺ですが、その開創となると良く分からないの。縁起が記された案内板らしきものも見当たらなかったので、代わりに【新編武蔵風土記稿】( 以降は【風土記稿】と略す )と【江戸名所図会】の記述を引いておきますが、【風土記稿】には「 除地556坪余 八幡社の西にあり 浄土宗南品川宿願行寺末 八幡山成就院と号す 開山は円蓮社方誉西源大徳寛文11年(1670)7月15日示寂す 本堂6間四方 本尊三尊阿弥陀如来を安置す 坐像にて一尺二寸余 観音堂 本堂の坤にあり 二間間四方準胝観世音を安ず 」と誌され、開山として円蓮社方誉西源大徳の名を挙げていますが、【江戸名所図会】では「 大崎より東海寺裏の方 戸越村にあり 文禄元年(1592)起立 浄土宗にして開山念誉上人 戸越八幡兼帯なり 願成院と号す ( 梶原氏什宝ありといふ )」と記し、念誉上人の開山としていて違いがあるの。念誉上人の没年が記されていないので確かなことは云えませんが、年代にしても二人は互いに生きた時代が違うような気がするわね。
〔 木造阿弥陀如来坐像 〕品川区指定有形文化財 指定:平成3年(1991)3月26日( 彫刻第17号 )
当寺の本尊で、来迎印を結び、蓮華座に結跏趺坐( 足の表裏を重ねて坐る形 )した像の高さ 46cm の寄木造りの坐像である。像の底部に墨で書かれた文によると、この像は、貞享元年(1684)の制作であることが分かる。円満な顔立ちや、肉付きの良い体の表現、自然な皺を巧みに表した衣の文様など、優れた作品である。脇侍の観音・勢至菩薩像は、太平洋戦争の折に焼失し、現在のものは後に制作されたものである。平成26年(2014)7月31日 品川区教育委員会
見えているのは次に訪ねる戸越八幡神社の参道脇の大銀杏
改めて調べてみると、おもしろいことが分かってきたの。実は、この行慶寺、次に訪ねる戸越八幡神社とは深〜い関係にあり、先程紹介した【江戸名所図会】の記述にも「 戸越八幡兼帯なり 」とあるように、嘗ては神仏習合状態で別当寺を務めていたの。開創縁起にしても、両者が渾然一体になった物語になっていて、行慶寺の開創縁起=戸越八幡神社の開創縁起なの。ここで、行慶寺に伝えられる【八幡宮出現鎭座並當山基立濫觴記】に誌される縁起を昔話風にアレンジ( 俗にでっち上げとも云う(^^; )してお届けしてみますね。
【江戸名所図会】の挿絵
むか〜し、昔のことじゃけんども、この辺りは原っぱが広がっておってのお、街道が通っていたことから人の往来はあったんじゃが、人里も少なくてのお、旅人が立ち寄れるようなところもなかったそうじゃ。そんな中で、街道に沿うようにして池の上というところに一つの草庵があってのお、大永年間(1521-1528)の頃じゃったそうじゃが、庵主をしておった行永法師は湧き出していた清水を汲むと、冬場は温かい白湯にし、夏には冷たい水を立ち寄る旅人に施しておったそうじゃ。そんなある日のことじゃったそうな。一人の山伏が来て、この水の施しを受けたそうじゃ。そうして庵主の行永法師が長い間旅人に湯や冷水の施しをしていることを知った山伏は、清水が湧き出す泉へ案内を請うと、湧水を拝して「 法師の善行が天帝や諸神の知るところなればこその神水。日ならずして、法師を護るべく、この湧水から御神体が出現するであろう 」と告げると、その場を立ち去ったそうじゃ。豈図らんや、その年の8月15日のことじゃったそうな。泉から土砂を巻き上げて湧水が烈しく噴き出したかと思うたら、やおらそこから一体の御神像が現れたそうじゃ。その御神像こそ、八幡大菩薩の御神像じゃった。御神像は早速草庵に安置されたそうじゃが、それからというもの、この草庵に立ち寄り、八幡大菩薩に祈願すると願い事は必ず叶うと云われるようになってのお、参詣する者も多くなって、いつしか成就庵と呼ばれるようになったそうじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話しじゃけんども。
いかがでしたでしょうか、お楽しみいただけましたでしょうか。その後、江戸時代の寛永11年(1634)、幕府より現在地に除地を受けて行慶寺が開創され、当初は御神体もその行慶寺に安置されたみたいね。元禄元年(1688)になって八幡宮の社殿が造営され、御神体が遷されたようよ。因みに、成就庵があった場所ですが、現在は一本杉元八幡神社( 品川区平塚3-4-21 )がある辺りに比定されているみたいね。
3. 戸越八幡神社
とごしはちまんじんじゃ
9:25着 9:56発
Map : 品川区戸越2-6-23
〔 戸越総鎮守・戸越八幡神社 御由緒 〕
|
御祭神 |
誉田別命( = 応神天皇 )は、厄除開運の御神徳と共に、我国文教の祖、殖産の守護神として崇められる。 |
鎮座地 |
品川区戸越2-6-23( 旧 戸越村 1,018番地 ) |
末社 |
春日社 御祭神 天兒根命 藤原氏の祖神で、国家安泰・産業繁栄の神
稲荷社 御祭神 豊受姫命 衣食住の神で、商売繁盛・延命長寿の守護神
|
|
当社は、後柏原天皇の御世、大永6年(1526)8月15日 村内藪清水の池中より出現した御神像を、行永法師が草庵に奉安して、山城国( 京都府 )石清水男山八幡宮の御分霊を勧請して倶に祀ったのが創立の起源と伝えられている。また、古歌に「 江戸越えて 清水の上の成就庵 ねがひの糸のとけぬ日はなし 」とあり、これが戸越の地名のはじまりとも伝えられている。【八幡宮出現由来記】( 寛永年間刊行の木版本 )に依れば、この「 成就庵は、昔、俗称一本杉の字名のある藪清水の池を控えた庵であった。大永年間に行永法師が諸国行脚をした時にこの庵に立ち寄り、折からの十五夜の月を眺め、時を移しうたた寝した時、夢の中で輝く光が藪清水の池から放たれているのを見たことから、池の中を探し、誉田別命( 応神天皇・八幡大神 )の御神体の出現を見たので、慎み戴いて草庵に安置奉った。すると、近隣の人々は元より、往来の諸人も諸祈願を乞い願う者が多くなり、「 一つとして成就せずと云うことなし 」と云われる程になったことから、この草庵を清水の上の成就庵と云う 」と記されている。元禄元年(1688)12月15日に、宮居を村内の高台にあたる現在の地に遷し、末社に、春日社、稲荷社を建立した。
以来、氏子地域( 旧戸越村 )現在の小山台二丁目町会・小山台一丁目東町会・小山台一丁目町会・小山一丁目町会・小山二丁目東部町会・小山二丁目西部町会・親友会・荏原一丁目町会・荏原二丁目町会・中原共和町会・平塚三丁目町会・平塚二丁目町会・平塚一丁目町会・平塚一丁目南部町会・戸越銀座町会・戸越三丁目町会・戸越四丁目町会・戸越二丁目町会・戸越一丁目町会・豊町一丁目町会・豊町二丁目町会・西品川の一部( 地名変更前の戸越村の若番地順に掲載 )の産土神として、居住された幾代もの人々の守り神として、また、我国文教の祖・殖産の守護神として遍く崇められている。そして厄除け開運の御神慮と供に「 こころの故郷 」としても親しまれている。
境内の樹木は品川区の保存樹林に指定され、特にケンポナシの木は指定天然記念物とされている。現社殿は欅造入母屋造銅板葺屋根で安政2年(1855)に創建され、戦災にも免れ、都内でも古い木造の建物である。また、社宝の奉納絵馬24面と石造狛犬は品川区認定文化財に指定されている。御本社宮神輿は平成の御大典記念として、氏子諸氏の奉賛により新調され、御神幸祭には【敬神崇祖】の精神にて御祭神並びに我々祖先の御霊を奉安して氏子内を渡御致します。この由緒板は、御鎮座470年記念の境内整備の一環として氏子諸氏より奉納されました。平成8年(1996)12月吉日 宮司 大石 定道 謹記
|
〔 戸越の地名の起り 〕
古歌 八幡宮出現由来記 寛永廿未年刊行
江戸越へて 清水の上の成就庵 ねがひの糸の とけぬ日はなし
とあり、江戸を越える村と云うのでこの名が生れ、トゴエと呼びました。
戸越八幡神社をうたった二首の歌
狂歌江都名所図会 安政三年刊行
疱瘡を守る戸越の八まんに 神子は笹湯をあふる御祭
疱瘡の守りにせんと諸人が 戸越の宮にひろふ軽いし
神子の湯立神事に笹湯を浴び、或はお宮の小石をひろって帰るのは、天然痘に効があるという信仰があったのをうたったものです。明治神宮 宮司 高澤 信一郎 謹書
神楽殿
神楽殿
御神輿
ξ^_^ξが訪ねたとき ( 2021 )には、御鎮座500年を迎えて社殿の改修工事が行われていたの。なので、社殿には近づけなくて、代わりに仮の拝所が設けられていたの。左右には可愛らしい「 幸せうさぎ 」と「 福分け猿 」が。
福分け猿
仮拝所
幸せうさぎ
社殿
〔 石造狛犬 〕品川区指定有形文化財 指定:昭和53年(1978)11月22日( 有形民俗第5号 )
この狛犬は、延享3年(1746)に、戸越村の村民がお金を出し合って当社に奉納したもので、区内では最も古いものである。この頃、各村落には庚申講が結成されていたらしく、本村や平塚の庚申講が中心となって狛犬の造立が進められたことが銘文によって分かる。また、左右の台石の各三面に刻まれた207名の人名によって、当時の戸越村を構成していた村民の殆どの氏名が把握でき、大変貴重なものである。平成8年(1996)3月31日 品川区教育委員会
改修工事で社殿への接近遭遇が出来ませんでしたが、周囲をひとめぐりしてみたの。背後に回って初めて分かったことですが、それまでの社殿が傾斜地を背にして建てられていたことから、新たに傾斜地側にコンクリート製の台座を造り、そこへ社殿を曳家すると云う大規模な工事なの。社殿の改修工事だけだと思ったら大間違いね。
社殿の左手にあるのが御神木でもある「 ケンポナシ 」の木。根元では、「 貴重な日本在来種・ニホンミツバチが巣を作っています 」と案内されていたのですが、姿を見掛けることもなかったの。寒くなってきたので巣の中で暖を取っていた(^^;のかも知れないわね。
ケンポナシの木
〔 ケンポナシ 〕品川区指定天然記念物 指定:昭和53年(1978)2月14日( 第15号 )
ケンポナシはクロウメモドキ科に属する落葉の高木で、夏に淡い黄色の小さい花をたくさんつける。実は球形で、9月から10月に紫黒色に熟し、甘味があって食べられる。本樹の幹の囲りは約 2.5m、高さは 18m あり、推定の樹齢は250年から300年である。元、幹は二本立であったが、右側が枯れてなくなり、現在は一本立である。近年、ケンポナシは都区内では殆ど見られなくなった木で、本樹の存在は貴重である。平成8年(1996)3月31日 品川区教育委員会
ケンポナシの木
ケンポナシの根元の洞 うろ に日本在来種であるニホンミツバチが巣を作っています。専門家のご意見や、ニホンミツバチの生態について詳しく紹介されているサイトなどによると、ニホンミツバチは攻撃性が低く、殆ど人を襲うことがない( ※注意 )大変おとなしい蜂と云うことが分かりました。日本にしかいない固有の在来種であるのですが、さまざまな理由により、近年その数は減少の一途を辿っており、希少性の高い種であるとされています。野生のハチ達をはじめ、花粉媒体生物による授粉によって私たち人間の食は多大なる恩恵を受けて支えられています。
また、樹木医さんのお話しに依ると、木の洞にハチが巣を作ることで、蜂蜜のもたらす抗菌作用が腐朽菌などから木を守ってくれるという側面もあるとのことでした。ケンポナシとニホンミツバチのこれからを是非あたたかく見守っていただけますと幸いです。自然の恵みとはたらきに生かされていることを忘れず、一人ひとりが感謝の心を育んでいくことが自然を守り、自然と調和・共存してゆける道を照らして行くのかも知れません。
※注意:絶対に人を刺さないということではありません。刺された場合の症状はアレルギーの有無により大きく異なり、稀にアナフィラキシーショックを引き起こす可能性もあるそうです。また、黒や紺色のものに警戒したり、香水や化粧品中に含まれる物質がニホンミツバチを刺激してしまう恐れもあるようです。どうか不用意にハチ達を刺激しないために、数m離れた場所からの観察にご協力下さいますようお願い申し上げます。
可愛らしい車よね。ナンバープレートが無いので公道は走らない?
4. 文庫の森
ぶんこのもり
10:00着 10:14発
Map : 品川区豊町1-16-23
きれいな水じゃないけど、水鳥達にとってはここはオアシスなのかも知れないわね。
池の小魚でも狙っているのかしら。それとも疲れて一休み?
|
〔 文庫の森と旧三井文庫第二書庫のあゆみ 〕文庫の森から都立大崎高校にかけての一帯、約33,000坪( 約109,000m² )は、江戸時代、大名下屋敷が置かれました。文庫の森と北西側の区道の問が外部との境界にあたり、南西側の区道は、直線の馬場だったとされています。江戸時代初期、熊本藩細川家が所有していた時期が、この下屋敷の最盛期でした。19世紀初頭には分筆され、何回か所有者が変わりました。明治26年(1893)頃、三井銀行がほぼ下屋敷の範囲となる約30,000坪( 約9,900m² )を買収、南側に農園( 三井農園 )、北側に外国人接待用別邸( 三井別邸 )を建設しました。大正7年(1918)、三井家の江戸時代以来の営業記録等歴史史料を管理する三井家同族会事務所庶務課記録掛が三井別邸に移転し、三井文庫と改組しました。
移転した年に第一書庫、大正11年(1922)に第二書庫を建設し、江戸時代以来の史料が保管されました。関東大震災後の防火対策にみられるように、この書庫は資料の保存を第一に作られています。また、外壁はモルタルをタイル風に塗り、その間を東京駅でも使われている覆輪目地で仕上げており、このような職人の卓越した技を各所に見ることができます。
現在の文庫の森の土地は、昭和22年(1947)文部省に売却された後、昭和26年(1951)、設立された文部省史料館が置かれ、同館は昭和47年(1972)には国文学研究の機能も備えた国立国文学研究資料館へと改組しました。両書庫とも国立国文学研究資料館の書庫として利用されていましたが、敷地内整備のため第一書庫は昭和51年(1976)に取り壊され、第二書庫のみが残りました。国立国文学研究資料館は平成20年(2008)立川市に移転し、その際、品川区は防災機能を持った公園を作るため跡地を買収、第二書庫はその文化的価値から、修理の上、保存することになりました。平成25年(2013)3月に公園は開園し、三井文庫そして第二書庫に因んで文庫の森と名付けられました。品川区教育委員会・防災まちづくり部公園課
|
旧三井文庫第二書庫
旧三井文庫第二書庫
旧三井文庫第二書庫
|
〔 旧三井文庫第二書庫 〕壁式鉄筋コンクリート造三階建て、1922、改修 1926 歴史:文庫の森一帯は、寛文2年(1662)に熊本藩の分家・熊本新田藩が下屋敷として拝領、その後本家の所有となり、戸越屋敷として整備された。その後、明治23年(1890)に、財閥の三井家の所有となった。やがてこの地に三井文庫が設置されることになり、平家の事務棟と三階建ての同形の書庫2棟が、全て鉄筋コンクリート造で建てられた。事務棟の主要部と第一書庫の竣工は大正7年(1918)で、第二書庫は、事務棟増築とともに、大正11年(1922)に完成した。これらの建物を設計したのは、東京帝国大学営繕課長( 当時 )の山口孝吉(1873-1937)である。この内で、現存するのが第二書庫である。
構造形式:第二書庫は、約 14m×9m の長方形平面の建物で、空気層を挟む二重の鉄筋コンクリート造壁で囲われている。柱ではなく、壁が荷重を支えるこのような形式は、璧式構造と呼ばれる。大正・昭和戦前期の日本の鉄筋コンクリート造建物にはこの形式は稀で、現在知られている限りでは、この建物が最古の現存例である。因みに、二重壁にしたのは史料を火災の熱から守るためと考えられる。一階スラブ( 床 )と屋根スラブまで鉄筋コンクリート造にしているのは当時では珍しいが、建物を不燃材で囲うということで、これも防火のためと見られる。内部には書架が並んでいるが、その書架の柱を鉄骨にして、その上の梁を受ける構造材としても利用しているのが注目される。梁は、平行に並ぶ書架に合わせて、通例よりもはるかに狭い 1.6m 間隙で並び、その梁のラインに 1.2m 間隔で3本1組になった書架の鉄骨柱2組が一列に配されて、6つの点で梁を受ける。この鉄骨による多支点支持は、書籍などの史料の重さに耐える必要があるという書庫の目的にもかなうユニークで巧みな手法で、それにより約 9m の梁間では 90cm 程度必要になるはずの梁の高さを 20cm に抑えることもできた。因みに、書架の鉄骨柱は、アメリカ製の山型鋼を背中合わせに4本組み合わせて十字形断面( 瑞の柱は2本でT字型断面 )にしたものである。
建築技術史的価値:大正12年(1923)の関東大震災では、この建物は殆ど被害を受けなかったが、この震災の被害の多くが火災によるものだったことを教訓に、三井文庫は直ちにこの建物の防火性能を高める改修工事に着手した。窓を市松模様につぶして火が入る危険を減らしつつ、残した開口部の内外面に人造石研ぎ出しの防火戸を増設した。この改修工事は大正15年(1926)に完了した。以上から、この建物は、ユニークで巧みな構造で造られている点で、日本に於ける壁式鉄筋コンクリート造建物の現存最古のものと見られる点で、また、震災の教訓をすぐに活かして防火性能を高めた点で、建築技術史上注目すべきものといえる。
|
5. 戸越公園
とごしこうえん
10:19着 10:53発
Map : 品川区豊町2-1-30
〔 戸越公園の沿革 〕本公園は寛文2年(1662)、肥後熊本藩の分家・熊本新田藩主細川利重が下屋敷として拝領、寛文6年(1666)に本家の所有となり、寛文11年(1671)mでに数寄屋造りの御殿や庭園からなる戸越屋敷として整備された屋敷地の一部にあたります。文化3年(1806)、石見浜田藩松平周防守の屋敷となり、更には伊予松山藩松平隠岐守の手に渡りました。明治の変革により何人かの手を経て、明治23年(1890)、三井家の所有となりました。昭和7年(1932)9月、三井家は学校用地・公園用地として、現在の戸越小学校・都立大崎高等学校を含む別邸の庭園部分を荏原郡荏原町に寄付しました。
同年10月、東京市域拡張に伴い、荏原町は東京市の一部として荏原区となり、公園用地は東京市に移管され、昭和10年(1935)3月、東京市戸越公園として開園しました。その後、昭和18年(1943)の都政施行により東京都が管理することとなり、昭和25年(1950)9月、一部が都立大崎高等学校となるなどの変遷を経て、翌10月、現在の公園部分が品川区に移管されました。その後、区では数次にわたる改修を重ね、歴史的な風情を復元させ、武家屋敷の雰囲気を醸し出すよう、正門を始め、施設の再整備を行い、現在に至っています。
《 公園の概要 》 |
1. 面 積 2. 開 園 日 3. 公園便所 4. みどころ 5. 主な利用
|
16,847m²( 池の面積 1,815m² )
昭和10年(1935)3月24日
二ヶ所
池を中心とした回遊式庭園に咲くサクラやツツジ、キンモクセイ、ウメなど
区内だけでなく区外からの利用も多く、朝のラジオ体操やゲートボール、祭り、いろいろな催しなど多岐にわたり利用されています。
|
お目当てのヒマラヤザクラですが、冒頭で触れましたように、残念ながら訪ねたときには既に見頃を過ぎていたの。それでも、可憐な花を見ることができたのは運が良かったかも知れないわね。河津桜のような華やかさはありませんが、楚々とした佇まいはヒマラヤザクラならではね。
|
〔 薬医門 〕本公園は寛文年間(1661-1673)に熊本藩細川家の下屋敷の一部となっていました。この戸越屋敷は、江戸滝の口の上屋敷及び芝白金の下屋敷とは性格が異なり、鷹狩りやキジ狩り、あるいは茶会等を行う別荘風の邸宅であったとされています。従って、この戸越屋敷に設けられていた武家屋敷門は、上屋敷あるいは芝白金の下屋敷に構築されていたと推定される長屋門徒は異なり、薬医門・冠木門等の簡素なものが中心であったと考えられます。以上の歴史的背景を踏まえ、簡素で質実剛健な様式であり、本公園の正門にふさわしい点から平成4年(1992)4月にこの薬医門を、平成2年(1990)3月には東門として冠木門をを構築しました。薬医門のいわれは、医師の門として使われたことから、こう呼ばれていたようです。主材としては台檜( 台湾檜 )、三州日本瓦などを使用した本格的な造りとなっています。平成5年(1993)3月吉日 東京荏原ライオンズクラブ 寄贈
|
薬医門をくぐり抜けたところで、園内をひとめぐりしてみたの。戸越公園は池を中心にした回遊式築山山水庭園になっていて、後方に造られた築山には渓谷もあって滝もかけられているの。元はと云えば、江戸時代の寛文2年(1662)に肥後熊本藩主・細川越中守の抱屋敷が始まりとされ、東海道五十三次の景色を象った庭園が造られたのだとか。だからと云って、当時の姿が再現されているわけでもないのですが、それでも往時の景観が偲ばれる造りになっているの。ここでは色付いた木々と併せて園内の様子をスライドに纏めてみましたので、御覧になりたい方は左掲の画像をクリックして下さいね、別窓を開きます。
戸越公園
Time 00:03.28
6. 戸越公園駅( 東急大井町線 )
とごしこうえんえき
11:04着
Map : 品川区戸越5-10-15

花色の少ない冬の季節にあって楚々として咲くヒマラヤザクラのお花見と、深まりゆく秋景色を愛でることが出来た今回のお散歩でしたが、戸越の地名由来にも触れることが出来、行慶寺と戸越八幡神社の開創縁起からは遠い昔話も聞こえてきたの。家々が密集する現在の街並みからは、およそ人里も少なく野原が広がっていたという往時の姿を想像することは出来ませんが、それでも戸越公園でふと歩みを止めて流れ落ちる滝水を見やれば、行永法師が旅人のためにと、水を汲む姿も浮かんでくるの。ヒマラヤザクラと紅葉に加えて寺社の開創縁起に纏わる昔話と云う、一石三鳥の欲張りな今回のお散歩でしたが、訪ねてみると、思わぬところに意外な発見があるものね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.comまで御連絡下さいね。
【 参考文献 】
学生社刊 平野栄次著 品川区史跡散歩
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
角川書店刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版江戸名所図会
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など