南房総の館山には沖の島と呼ばれる無人島があり、島内は公園として整備され、磯遊びなどが楽しめると云うので出掛けてみたの。掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 京急久里浜駅 けいきゅうくりはまえき 7:56着 7:58発
2. 久里浜港 くりはまこう 8:06着 8:20発
今回はプチ船旅気分が味わえることからフェリーを利用しましたが、時間を掛けてクルージングを楽しみたいと云う方には遊覧乗船往復割引切符も用意されているの。残念ながら相手先港での下船は出来ないのですが、タイミングが良ければサンセット・クルージングとナイト・クルージングが片道運賃+αの僅か¥1,000で楽しめてしまうと云う優れものよ。本格的なクルーザーを利用したものにはかなわないけど、気軽に乗船できるのが何よりの魅力よね。ξ^_^ξには例え夕陽が見られなくても船上からの景観が楽しめるだけでも充分なのですが、久里浜港に来るまでがちょっと大変。でも、一度チャレンジしてみたいわね。詳しいことは 東京湾フェリー を御参照下さいね。乗船料:¥700 〔 片道 〕
3. 金谷港 かなやこう 9:00着 9:07発
見たところ、車でお出掛けの方が多くて、徒歩だとしても浜金谷駅に向かう方よりも鋸山を目指す人の方が多い位なの。なので、下船後は皆さんの後に黙ってついていくと云うわけにはいかないの。道が不案内な場合には、フェリーの改札出口に用意されている金谷マップを忘れずにGetして下さいね。簡略な地図だけど、とても分かり易いの。
4. JR浜金谷駅 はまかなやえき 9:14着 9:25発
5. JR館山駅 たてやまえき 9:52着 10:20発
6. 館山航空隊BS たてやまこうくうたいばすてい 10:32着発
7. 鷹之島弁天閣 たかのしまべんてんかく 10:44着 10:55発
ところで、この鷹之島ですが、島とあるように元々は館山湾に浮かぶ島だったの。それが昭和6年(1931)の旧海軍館山航空基地開設に先立ち埋立造成されて陸続きとなったの。加えて、現在は後程訪ねる沖の島とも陸続きになっているの。鷹之島の鷹の字にしても、以前は高の字を充てて高之島としていたようね。高之島から鷹之島に転じた理由は分からないけど。
8. 沖の島 おきのしま 11:24着 13:25発
今回はその沖の島を反時計回りにひとめぐりしてみたの。そのときの景観写真をスライドに纏めましたので御笑覧下さいね。御覧になるには上掲の画像をクリックして下さいね。別窓を開きます。
〔 沖ノ島宇賀明神由来記 〕 宇賀明神は嘉保3年(1096)〜康和元年(1099)安房守として赴任した安房国司、源親元卿が地域産業の発展を願い、嘉保3年(1096)倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を勧請し、鷹ノ島の弁財天と共に建立しました。倉稲魂神は稲作の神、農業神とされるほか漁業神、商業神、福神として平安時代以降、絶えること無く人々の厚い信仰を受けてきました。あらゆる産業の神様です。一説によると、宇賀明神の宇賀は「なが−」と同じであるとされ、「なが−」は蛇のことで、宇賀は「白い蛇」とも云われています。
平成12年(2000)12月17日沖ノ島宇賀明神再建委員会にて再建され、落慶法要が執り行われ現在に到りました。再建委員会は保存委員会となり、以後毎年12月第3日曜日を例祭日と定め、益々の豊漁と家内安全更には館山市の発展を祈っています。平成17年(2005)正月吉日 沖ノ島宇賀明神保存委員会
傍らには英語の案内板も建てられていたのでお話しの序でに(笑)併せて紹介しておきますね。
The Origins of Oki no Shima's Uga-myojin Shrine
Uga-myojin shrine was made in 1096 in dedication to 'Uka-no-Mitama' ( the rice farming god ) , at the same time as a dedication to 'benzaiten' ( the Goddess of wealth, music, eloquence and water ; one of the Seven Deities of Good Fortune ) on 'Taka no Shima'. They were made on the wishes of 'Minamoto-no-Chikamoto', who reigned over the Awa area ( Southern Chiba prefecture ) between 1096-99; he was newly appointed in 1096, and offered the Shrines with the hope that industries from the area could develop more. "Uka-no-mitama" is the god of rice farming, fishing industries, commerce, and good fortune. Since the Heian period ( 794-1185 ), believers deep faith in this god have been unaffected by time. Uka-no-mitama is the god of almost all industries. In another opinion, Uga-myojin's "Uga" reads "naga" instead, and means "Snake". Furthermore "Uga" in this instance means "White Snake".
On the 17th of December 2000, there was a completion ceremony held, as the reconstruction of Uga-myojin was completed through the "Oki no shima Uga-myojin Shrine Reconstruction Committee". The Reconstruction Committee then became the Preservation Committee, and from then every year on the third Sunday of December we allocate the day to pray for a development of Tateyama City. January 2005 Oki no shima Uga-myojin Shrine Preservation Committee
9. 館山神社 たてやまじんじゃ 14:50着 14:56発
10. 里見茶屋 さとみちゃや 14:57着 15:23発
何も食べずに歩き回っていたのですっかりお腹が空いてしまい、この 里見茶屋 でかなり遅めの昼食をとることに。歩いてきた道筋には食事処らしきものも見掛けず、半ば諦めかけていたの。茶屋とあるように軽食がメインですので、地魚料理などを食べたい向きにはお勧め出来ませんが、テラス席があるので風に吹かれながらゆっくり出来るのがうれしいわね。それにこの里見茶屋ではお土産品も扱っているので、併せて御利用下さいね。尚、ξ^_^ξは里見茶屋とは何の関係もありませんので誤解しないで下さいね。
紹介した「里見茶屋」ですが、おいしいお茶とお団子のお店として装いも新たに平成27年(2015)8月30日にリニューアル・オープンしているの。But 残念ながら未体験ですので詳しい情報提供が出来ないの。ここでは訪時のままとしていますので、御了承下さいね。
〔 里見桜の由来 〕 里見氏は戦国時代の房総に君臨した一族です。里見氏は元々安房の武士ではなく、上野国の出身です。今の群馬県高崎市(旧榛名町)に里見と云う土地があります。そこから戦国時代初頭に安房に現れたのが、房総里見氏の祖となる里見義実(さとみよしざね)です。豊臣秀吉の時代に、安房国を拠点に栄華を誇った里見氏でしたが、江戸時代になり、外様大名を取り潰す政策にのまれ、慶長19年(1614)9月、安房国10代の里見忠義は安房領地を没収され、鹿島三万石の替え地として倉吉(鳥取県倉吉市)に移され、8年後29歳の若さで亡くなりました。
忠義公と8人の家臣の墓は倉吉市の大岳院にあり、曲亭馬琴の【南総里見八犬伝】のモデルと云われています。この桜は、里見家の所縁で交流のある倉吉市の宇崎正雄氏らにより、「倉吉で無念の最期を遂げた里見忠義公が里見桜となり館山へ里帰りした」と云うストーリーと共に、倉吉で桜の苗木を育て館山に贈って頂きました。その由来により、里見桜と名付けました。記念植樹日 平成21年(2009)4月吉日 NPOたてやま海辺のまちづくり塾
11. 城山公園 しろやまこうえん 15:25着 16:27発
館山の城山公園(館山城跡)この地には、嘗て房総の戦国武将里見氏の居城がありました。園内の館山市立博物館本館には、里見氏を中心に館山市の歴史と民俗資料、分館(館山城)には、【南総里見八犬伝】に関係する資料が展示されています。日本庭園、茶室、万葉の径、梅園、つつじ園、つばきの径、彫刻の径も整備され、四季折々の花が楽しめます。山頂からは鏡ヶ浦、市街地が一望できます。千葉県
〔 浅間神社の由来 〕 城山は関東の富士見百景に選ばれた土地で、古代より富士山に対する信仰が厚く、文明2年(1782)には富士山本宮の明細帳に富士浅間宮として記載されている。関東大震災後に間口五尺、奥行四尺の神社が再建され、昭和12年(1937)に戦争のため北下台に移転されましたが、戦後の昭和25年(1950)に再び城山の山頂に復現され、平成21年(2009)老朽化が著しく、氏子からの寄進により改修されました。社前にある小御嶽様の石碑は、慶応2年(1866)に富士講中より奉納されたものです。
祭神:神話の海幸・山幸の母である木花佐久夜比売命(このはなさくやひめのみこと)
むか〜し昔のことじゃけんども、富浦にあった岡本城にはめっぽう戦さが上手な里見の大将がおってのお、対岸の三浦半島から北条方が攻めてきても決して負けるようなことはなかったそうじゃ。と云うのも、里見の大将は城内に大きな猿を一匹飼っておってのお、戦さの際にはいつもその大猿を戦陣に連れておったからじゃそうな。大猿は大将の云うことなら何でも良く聞いてのお、戦さでは千人力を発揮して敵を散々懲らしめておったそうじゃ。そのお陰で里見の大将は負け知らずじゃった。じゃが、ある年のことじゃった。里見の大将はその岡本城が手狭になってきたことに加えて、些か古くなってきたこともあって場所を変えて新たに築城することを決めたそうじゃ。それがこの館山城じゃった。堅固にして御殿のような城が出来ると里見の大将は家来を引き連れてさっさとこの館山城へと移ってきてしまったのじゃ。大将にすっかりなついておった大猿はと云えば、岡本城の城内にあった大きな松の木に繋がれたまま捨て置かれてしまったそうじゃ。大猿は大将を慕っていつまでも泣いておったそうじゃが、とうとう死んでしもうてのお、館山城に移ってから間もなくして里見家は潰されてしまったんじゃが、大猿を連れて行かなんだからかも知れんのお。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。
史実としては里見家九代義康が館山城を築城して岡本城から移って来ているの。物語が云うところの里見の大将とはその義康のことだと思うのですが、そうなると大猿は誰のことになるのかしらね。それはみなさんの御賢察にお任せするとして、その岡本城には妖怪が夜毎現れて城内の者達を悩ませたとする伝承もあるの。後程館山城破却時の逸話も紹介しますが、里見家終焉の悲劇性が様々な物語を創りあげたのかも知れないわね。
〔 館山市立博物館 〕 館山城跡は里見義康公忠義公居城跡で房総における里見氏終焉の地であります。館山市は由緒あるこの地を永く記念すると共に広く皆様に親しんで頂くために、城郭様式の博物館を建設しました。建物は城郭研究の権威藤岡通夫工学博士(故人)の考証によるもので二重櫓に入母屋の大屋根をかけ、その上に小望楼をのせた天正年間の天守の姿にしてあります。建築:鉄筋コンクリート造り 三層四階建て 延床面積:492m²(約150坪)総高:19.1m 竣工:昭和57年(1982)3月31日 開館:昭和57年(1982)10月31日
城山公園内には館山市立博物館があるのですが、こちらの天守閣はその分館となり、専ら【南総里見八犬伝】に関する資料を展示する、通称八犬伝博物館となっているの。【八犬伝】は曲亭馬琴こと滝沢馬琴が房総里見家の存亡にヒントを得て28年もの歳月を費やして著した全53巻106冊からなる日本最長の長編歴史小説で、その長さ故にタイトルは知っていても全編を読破された方はそう多くはいらっしゃらないのではないかしら。かく云うξ^_^ξも御多分に漏れずですので語る資格はありませんので、物語のあらすじなどは他のサイトを御参照下さいね。一番良いのは博物館に足を運んで頂くことだけど。それはさておき、この天守閣の最上部にある望楼からの展望は必見よ。周囲に視界を遮る物がないので360°のパノラマが眼前に広がるの。その景観を幾つかアップしておきましたのでお楽しみ下さいね。尚、詳しい説明は現地のパネルを御参照下さいね(笑)。
研究者の間では当時の館山城に天守閣があったか否かで喧々囂々のようですが、その論争は別にして、館山城が築城された頃は里見家のみならず、城下も大いに隆盛したみたいね。
その里見家繁栄の最中に悲劇が襲うの。里見家第10代忠義は徳川家譜代大名の名門大久保忠隣(ただちか)の孫娘を正室として迎えていたの。慶長10年(1605)に家康は将軍職を秀忠に譲り駿府城に隠退するのですがその後も実権を握り続け、家康・秀忠の二元政治の様相を呈するようになるの。そんな中で秀忠の側近として仕えていた忠隣は、家康の側近、本多正信・正純父子と対立するようになったの。互いに失脚を望む中である事件が起きるの。慶長18年(1613)、銀山開発などで功績のあった大久保長安が死去するのですが、生前の不正蓄財が発覚して関係者の悉くが処罰されたの。忠隣はその長安を庇護していたこともあり、その責任を追及されて遂には改易させられてしまうの。事件の煽りを受けて忠義も忠隣に連座した咎で、慶長19年(1614)の9/9、突然安房国の所領没収を宣告されたの。
13日には館山城請取の幕府軍が編成され、僅か5日後の18日には忠義の荷物は残された鹿島領へと運び出され、程なくして館山城は破却されたの。10月に入ると今度は鹿島領3万石の代替地として伯耆国(現・鳥取県)倉吉への移封が決まるのですが、実際には4千石の領地しか与えられなかったの。更に元和3年(1617)、播磨国から移封されてきた池田光政が鳥取藩主となると、その4千石も召し上げられて僅か百人扶持とされてしまったの。元和5年(1619)には倉吉から更に十数里も離れた山奥の堀村に屋敷を移され、里見家再興の希求も虚しく、忠義は元和8年(1622)に29歳の若さで病没してしまうの。後を追うようにして側近の8人も殉死し、忠義の亡骸と共に大岳院に葬られたと伝えられ、その八遺臣が【南総里見八犬伝】に登場する八犬士のモデルとされているの。忠義の倉吉移封は外様大名取り潰しの一環で、幕府にしたら東京湾の入口で強力な水軍を擁して睨みをきかせる里見家の存在が何よりも邪魔だったの。先程訪ねた沖の島は嘗ては鷹之島と共に里見水軍の根拠地でもあったの。
ところで、忠義には継嗣が無いことから里見家は廃絶したとする史料が多いのですが、正室が産んだ女子が二人、側室が産んだ男子が三人いたとする説もあるの。その説が正しいものだとすると、里見家再興の夢は果たせずとも血脈を後世に伝えることが出来たのはせめてもの救いかも知れないわね。戦国の世に感傷を持ち込んでみても詮無いこと−と云われてしまいそうだけど。
ここで「城山のお玉狐」のお話しを紹介してみますね。
舞台は館山城が取り壊される前後のことよ。
むか〜し昔のことじゃけんども、里見家が倉吉に移封されて館山城が取り壊しとなり、鎧姿に身を固めた徳川方の軍勢が大勢やってきた時のことじゃ。徳川方の若い侍連中が数人徒党を組んで町中を闊歩しておったんじゃが、向こうから綺麗な武家娘が老僕の一人を従えながら歩いてきたそうじゃ。大方、里見家に仕えておった家人の娘じゃろうて、一つからかってやろうぜ−と、若い侍連中は娘に云い掛かりを付け、挙げ句の果てはさらっていこうとしたそうじゃ。見たところ七十を優に越えんとする腰の曲がった老僕じゃったが、頭を地べたに付けてひれ伏して娘の釈放を哀願したんじゃが聞き入れてはもらえんかった。ことばの通じない相手と知った老僕は娘に向かうと「お嬢さま、きょうまで事を荒立てずに御身を御護りしてまいりましたが、今日ばかりはこの爺、この刀にかけてお護りせねばなりませぬ。お許し下され」と許しを請うたそうじゃ。娘はそれに応えて「爺、思う存分働きなされ」と告げたそうじゃ。
じゃが、若い侍連中は老いぼれごときに何が出来るとせせら笑っておってのお、老僕を無視して娘を拐かそうとしたんじゃが、娘の方はその度にヒラリと身をかわすばかりで一向にその場から逃げようとせなんだ。その間に老僕は鉢巻き襷がけとなり、若い侍連中が気付いた時には娘の前に立ちはだかっておったそうじゃ。それを目にした若い侍連中は何を小癪な−とばかりに刀を引き抜いて老僕に斬りつけたんじゃが、不思議なことよのお、老僕の腰はすっくと伸び、脚は舞い踊り、刀を振る腕は風を切ってひょうと鳴り、気付いた時には居並ぶ侍連中を一人残らず討ちはたしてしまっておったそうじゃ。そうして娘主従は何処へともなく行ってしまったそうじゃ。
その後町方のもんが死骸の始末を侍大将にお伺いをたてたんじゃが、左様な不埒な弱い侍は我が方の侍ではないと引き取りを断られてしまってのお、仕方なく無縁仏として葬ったそうじゃ。ところでその娘のことじゃが、城山の北側には里見家が祀ったと云うお稲荷さんがあったんじゃが、そのお稲荷さんに仕えるお玉狐だったのかも知れんのお。老僕はその昔里見家に仕えて幾戦場生き残りの剛の者だったのかも知れんのお。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。
余談ですが、【房総志料續編】には「或云 九月九日落城 八日の夜は年毎に鬨の聲し鬼火燃ゆ」とあるの。忠義を奉じた家臣達の怨念の炎が時を経ても尚赤々と燃え上がっていたのかも知れないわね。
〔 八遺臣の墓 〕 大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取潰しの策を回らせた。この策により改易を命ぜられ、伯耆の倉吉に移された房総里見氏十代忠義は、憂悶のうちに元和8年(1622)29歳で倉吉在の堀村に卒した。この悲運の主君に従って殉死した八人の家臣は、その氏名は不詳であるが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されているのは、何を暗示しているのであろうか。慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が、主君忠義と八人の殉死者の遺骨を房州に持帰るべく漁師の姿に身をやつして、遙々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、窃かに館山城の南麓に埋めたのが、この八遺臣の墓であると云う。この八人の殉死者が、八犬士のモデルであるとも伝えられている。平成3年(1991)2月 館山市
雲凉院心晴海賢居士〔徳治郎〕 雲凉院心相龍賢居士〔権八郎〕 雲凉院心龍盛賢居士〔権之丞〕 雲凉院心凉晴賢居士〔安五郎〕 雲凉院心晴叟賢居士〔総五郎〕 雲凉院心房州賢居士〔房五郎〕 雲凉院心盛宗賢居士〔総太夫〕 雲凉院心顔梅賢居士〔堀之丞〕 |
これらの五輪塔は元々は「やぐら」の中に立てられていたみたいで、その「やぐら」が崩れて埋もれていたところを明治期に掘り出されたものだとか。加えてその様式から推していずれも里見氏が館山城を居城とする以前の室町時代のものだそうよ。そうなると八遺臣の墓とするには無理があるような気もするのですが、この際だからと墓塔だけを流用してしまったのかも知れないし、真偽の程はみなさんの御賢察にお任せしますね。余談ですが、慈恩院では「この地は房総里見氏五代義尭が里見家累代菩提供養のために慈恩院の前身持仏堂を建立したところにして九代義康が築城にあたり慈恩院を現在地に移した」としているの。 |
今回の散策はこの八遺臣のお墓に詣でたところで終了ですが、
最後に【里見九代記】の記述を紹介して散策の余韻としますね。
里見四位侍從忠義公の御事 〔 略 〕 落足の事は 御臺所 江戸代官町へ御越え 公儀より百俵宛の御扶持方下され居給ふなり 四歳になり給ふ姫君も御一所なり 後に姫君は御守の人に預け置き給ひて 御臺所は鎌倉へ御引込みなされ 比丘尼になり給ふ 三の御所と申すは即ち藤澤より美濃國へ御越しあるなり 上下の人々 爰彼所に迷ひし事哀れといふも餘りあり 忠義公は元和八年六月十九日廿九歳にて逝去 雲晴院前拾遺心叟賢隱(凉)居士※と號す 御葬禮は伯州にて執行 御骨は高野山へ納め奉り 御位牌は本織村延命寺にて立置き給ふなり 天運と云ひながら哀なる次第なり※雲晴院前拾遺心叟賢隠(凉)居士は伯州での法号
12. 城山公園前BS しろやまこうえんまえばすてい 16:36着 16:40発 料金:¥180 JRバス関東
13. JR館山駅 たてやまえき 16:48着 17:05発 3番線 「千葉」行 乗車券:¥2,210 〔 山手線内 2012.05 現在 〕
14. JR千葉駅 ちばえき 18:48着 19:01発 快速「東京」行
15. JR東京駅 とうきょうえき 19:41着
このところ海を見てないわ、久しぶりに磯の香に触れながらのお散歩がしたいわね−と出掛けてみたのが今回の散策なの。フェリーだけどクルージング(笑)も出来たし、沖の島では磯遊びに興ずることも、自然の造形美に触れることも出来たの。後半はいつものクセで歴史散策になってしまいましたが、館山には紹介した沖の島や城山公園の他にも自然や歴史遺産などの見処が沢山あるの。今回の散策記を御覧になり、少しでも南房総・館山に興味を持って頂けたらうれしいな。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
〔 参考文献 〕
千葉日報社刊 岡本東三著 房総半島の先端から列島を考える
うらべ書房刊 藤平量郎・山井廣・吉原洋著 南房総自然ガイド
うらべ書房刊 戸田七郎著 ロマンと不思議の里南房総
洋泉社刊 山本博文監修 あなたの知らない千葉県の歴史
昌平社刊 川村優編 郷土史事典 千葉県
郷土出版社刊 天野努監修 図説・安房の歴史
富浦町発行 富浦町史編纂委員会編 富浦町史
有峰書店刊 府馬清著 房総の古城址めぐり
日本城郭協会刊 千葉燿胤著 館山城趾
国史研究会刊 黒川眞道編 里見九代記
房総叢書刊行会編 改訂房総叢書
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