≡☆ 童謡【月の沙漠】のふる里・御宿 ☆≡
2007/07/07 & 2007/09/22

実は外房・勝浦の岬めぐりに先立ち、御宿を訪ねたのですが、七夕にも関わらず、生憎の雨模様で終えていたの。夏の賑わいが過ぎて街が落ち着きを取り戻し始めたのを見計らい、リベンジしてみましたので紹介してみますね。と云うことで、内容は当初のものと後日のものとが入り乱れますが、ポイント毎の発着時間は最初の雨模様の中での強行軍(笑)の時のものよ。一部の画像は拡大表示が可能よ。どれが表示できるかはクリックしてのお楽しみ。

岩瀬酒造〜大宮神社〜メキシコ記念公園〜ドン・ロドリゴ上陸地〜月の沙漠記念館〜最明寺

1. JR新宿駅 しんじゅくえき 7:19発

新宿駅で発車を待つ新宿わかしお号 個人的なアプローチのし易さから外房へ出掛ける際にはお決まりの新宿わかしお号を利用していますが、多くは255系と呼ばれる車両で運行されているの。それが珍しくリベンジの際には183系と呼ばれる車両で運行されたの。183系は旧国鉄カラーの特急車両で、鉄道マニアの方には人気の車両みたいね。嘗てはL特急として房総を疾駆した183系ですが 2004/10/16 のダイヤ改正に併せて定期運行から退いたの。車内アナウンスでは運行車両が変更になったことを詫びていましたが、車両の遣り繰りが出来ずに183系が急遽代走することになったみたいね。

2. JR御宿駅 おんじゅくえき 9:03着 9.04発

折角ですので御宿駅に停車する183系を何枚か画像に収めてみましたので、皆さんにもお裾分け(笑)しますね。マニアではありませんので詳しいことは分からないのですが、フロント・フェースからすると嘗て房総を走っていたものではなくて、中央線を走っていた車両みたいな気もするのですがどうかしら?拡大表示が可能ですので御覧の皆さんの御賢察におまかせモードよ。

千葉寄りのホーム端には海女の彫像が置かれているの。後程紹介しますが、この御宿では海女さん達に依るアワビやサザエ漁が盛んで、女将さんが自ら獲った新鮮な海の幸を提供してくれる海女民宿もあるの。像は漁の合間に磯の岩場で小休止する海女さんの姿と云うところかしら。余談ですが、その海女像の背後に広がる杉林の向こうにはメルヘンチックな建物が頭を覗かせますが、平成5年(1993)に建てられた御宿町役場の新庁舎とのこと。残念ながらその全体像を見ることなく終えていますが気になる存在ね。

御宿駅 左掲は御宿駅の駅舎ですが、コインロッカーが無いの。手荷物を抱えての散策はちょっと辛いし、宿泊を前提に訪ね来られた方には致命的かも知れないわね。そこでこの頁を御覧頂いているあなたにスペシャル・インフォメーション。駅前に観光案内所があり、道を隔てて手荷物の預かり所があるの。見た目では嘗てはお土産屋さんか食事処を営んでいたものが廃業して、今は手荷物を預かるだけになってしまったような佇まいなのですが。料金は¥300でしたが、預けた荷物はボックスに収納する訳ではないので大きさには拘らないみたいよ。

3. 大ソテツ( 旧御宿町役場跡 ) おおそてつ 9:24着 9:29発

身軽になったところでいざ出発よ。最初に向かった先は、ちょっとマイナーかも知れないけど、御宿町の天然記念物に指定される大ソテツがあると云う旧御宿町役場跡。実は、最初からその場所が分かっていた訳ではなくて、行き過ぎて戻ってみたり、見当をつけて脇道に入り込んだものの見つけられず、通りがかった地元の方に訊ねたりしながらようやく辿り着いたの。分かってしまえば何のことはなくて、駅前から続く線路伝いの道を上り方向に素直に歩けば良かったのですが、問題はその入口なの。

駐在所 しばらく歩いたところで駅前駐在所が見えて来ますが、その背後に広がる空き地が目的の旧役場跡だったの。駐在所の建物も凡そ警察のイメージからは懸け離れた瀟洒な装いで、表示が無ければそれと気付かずに通り過ぎてしまうかも知れないわ。呼び鈴を押せば中からは新婚ホヤホヤのお巡りさんが若奥さんと一緒にとびっきりの笑顔で出迎えてくれそうな雰囲気よ。オイオイ、勝手にストーリーを作るな!(笑)

入口 左掲が役場跡地への入口ですが、これといった道標も無いので注意して下さいね。ところで、御宿町の天然記念物に指定される大ソテツですが、案内板には「この蘇鉄は樹高5.2m、大主幹8本、株囲6.2m、本樹沿革は大正13年(1924)旧町役場新築と同時に浜区鶴岡佐太郎氏庭園にあったものを町で買収し、大野丈助氏によって移転、移植作業をしたものである。以来、半世紀の間、御宿町役場の象徴的存在だったのである」と誌されているのですが、肝心の樹齢は分からず終い。加えて、鶴岡佐太郎や大野丈助なる人物の登場で、新たな疑問が。

ちょっと調べてみたのですが、残念ながら鶴岡佐太郎氏のことは何も分かりませんでした。一方の大野丈助なる人物ですが、現在の外房線の前身となる房総鉄道の経営に深く関わりのあった方のようね。明治22年(1889)の設立当初は軽便鉄道を目指した房総馬車鉄道が、当時の鉄道熱を背景にして明治26年(1893)に房総鉄道へと改称し、本鉄道の敷設運行に転換。明治29年(1896)には蘇我〜大網間を開業したのですが、大野丈助は筆頭株主として、また明治36年(1903)には自らも専務に就任するなどして経営に携わっているの。

元々は土木事業を営んでいたと云うのですから、その利害関係(笑)が分かるわね。けれど、鉄道熱に浮かれて始めてみたものの、房総鉄道に限らず、どの鉄道会社も資金難に喘いでいたみたい。加えて、軍事的な要因から鉄道国有化の必要性が唱えられるようになり、明治39年(1906)には鉄道国有法が発布され、房総鉄道もその流れを受けて買収されたの。大野丈助は当時、夷隅郡釈迦谷村(現・いすみ市岬町三門)に居を構えていたと云うのですが、敷地面積は2,000坪もある大邸宅だったみたい。房総鉄道の売却益で懐は大いに潤ったと云うことのようね。

〔 参考文献 〕
滋賀大学経済経営研究所 彦根論叢 第316号 所収
明治30年代の亜幹線鉄道の資金調達と銀行家 −総武,房総,七尾,徳島鉄道を中心に−
滋賀大学経済学部教授 小川 功

4. 岩瀬酒造 いわせしゅぞう 9:40着 9:43発

蔵元

岩瀬酒造さんはその創業が江戸時代中頃の享保8年(1723)という老舗の蔵元なの。母屋として使われている家屋は藁葺き屋根で、その歴史にふさわしい佇まい。加えて、その母屋の梁にはこの後紹介するドン・ロドリゴの難破船に使用されていた木材が流用されているの。云うなれば時代の貴重な生き証人と云うわけ。今では珍しくなってしまった藁葺き屋根の重厚な佇まいを、是非この目で見たかったのに加えて、この岩瀬酒造さんを訪ねた理由が、実は、もう一つあるの。それは今は故人となってしまわれた先代社長の岩瀬禎之さんが撮りためた海女の写真のギャラリーが併設され、見学させて貰えると聞いて訪ねてみたの。

蔵元

訪ねた時には雨の中を訪ね来るような物好きな人もいないと判断されたのか、敷地内は静まりかえって人気も無く、ギャラリーの場所も分からずに、母屋の佇まいを外から眺め見ただけで終えてしまいました。後から知ったのですが、基本的には土日祝日はお休みで、決して雨のせいでは無かったみたいね。なので、どうしてもこの目で見てみた〜い!と云う方は、平日の就業時間内か、イベントの開催時に訪ねてみて下さいね。尚、画像と記述は「まるごとミュージアム春の企画展」開催期間中( ′08.02/16-03/03 )に再訪した時のものを掲載していますので御了承下さいね。

梁 左掲が紹介したドン・ロドリゴの難破船・サンフランシスコ号のマストに使用されていた木材を流用した梁なの。御宿町の文化財にも指定され、400年と云う長い年月を経てもなお母屋の屋台骨として歴史の重みを支えているの。But 名士の岩瀬家に引き取られたからこそ今日に伝えられたと云っても過言では無いと思うの。これが普通の家だったら、とうの昔に取り壊されて暖を取る焚き火にくべられていたかも知れないわね。その前に、普通の家であればこれほどの立派な梁を必要としない?

ギャラリー

敷地の一角に御覧のような瀟洒な建物がありますが、先程紹介したギャラリーなの。人伝てに聞くところでは、先代社長の岩瀬禎之さんには弟さんがいらっしゃって、ここで医院を開業されていた由。その建物の内装を変えて展示スペースとしているのですが、それでも嘗ては患者さんの待合室や診察室だったことが容易に分かり、不安顔で順番を待つ患者さんや診察する先生の様子を思い浮かべたりすると、一度で二度美味しいギャラリーになっているの。館内には岩瀬禎之さんが50有余年に亘り撮りためた写真集【海女の群像】から主だったものを掲示していますが、海女さん達が見せる表情がとっても自然なの。それは、写す側と撮られる側との距離が自然と云うことで、岩瀬禎之さんでなければ捉えることが出来なかった生命(いのち)の輝きね。

その写真を掲載したいところですが、著作権に抵触しそうなので見送りますので、
気になる方はギャラリーの方へお出掛け下さいね。

杉玉 見学を終えて改めて母屋を眺めていると、軒先にトラック便の送り状が貼られた箱が山積みになっているのに気付いたの。ひょっとして直売もしているのかも知れないわ−と再びウロウロと。母屋の隣の事務所らしき建物に人影を見つけて訊ねてみたのですが、そこが受付窓口になっていたの。訪ねた時には御主人自ら接客されていらっしゃいましたが、気さくな方で、こちらの好みにも快く相談に応じて下さいました。「車で来たの?歩き?だったら飲んでも平気だよね、試飲してみる?」とまでおっしゃって下さって。

一口に「岩の井」と云っても嗜好の異なる銘柄が幾つもあり、試飲するだけでもかなりの量になりそうよ(笑)。これからまだまだ歩かなくていけないので−と鄭重に辞退しましたが、通の方には嬉しい応対ではないかしら。 岩瀬酒造 さんの頁には、お酒が好きなことで知られた故・池田元首相の「岩の井」に纏わる逸話も紹介されていますので、是非御覧になってみて下さいね。

5. 朝市通り あさいちどおり

実は、7/7に御宿を訪ねることにしたもう一つの理由が朝市なの。お隣・勝浦の朝市の方が全国的にも有名ですが、この御宿でも2と7のつく日に開かれていると知り、訪ねてみたのですが、残念ながら雨模様の中では僅かに数軒だけが店を出していただけで、店先を覗き見るような買い物客の姿も無く、閑散とした状態で。雨の中を大変よねえ〜、ξ^_^ξもその労に報いなきゃいけないわ−と何か買い求めようとしたのですが、沢山の茄子やキュウリを抱えて雨の中を歩くわけにも行かず、声を掛けて下さったおばちゃん、ごめんなさいね。

朝市の開催日を捉えて再訪する機会が無く、画像の掲載が出来ませんが御容赦下さいね。朝市はR128号線の御宿町新町の信号交差点から六軒町にかけての300m程の道の両側に露店が続き、その朝市通りが途切れたところで左折すれば、次に紹介する神明神社や十王堂へ向かう道となるの。

6. 神明神社 しんめいじんじゃ 10:03着 10:13発

鳥居 道の突き当たりに鳥居が見えたので目的の神明神社と思い近づいてみたのですが、背後にはコンクリート造りの小さな社殿がポツンと。あれ〜?変よね、確か長い石段を登った高台にある云々と聞いたんだけど。気が付けば右手にはもう一つ鳥居が設けられていて、そこから山中に向かい石段が続いていたの。それが神明神社への参道でした。ξ^_^ξが勘違いした小さなお社は地元の方からは大杉さまと呼ばれているみたいなので 大杉神社 を勧請したものかも知れないわね。

鳥居 石段

早速その石段を登り始めたのですが、何と161段もあるの。普段の運動不足を思い知らされながらも、ガイドブックに書かれていた「地球は丸い−を実感できる」のことばを信じて登ってみたの。参道は木々に覆われて緑のトンネル状態で、それでも登り切った暁には−と大いに期待したのですが、残念ながら社殿に辿り着いても周囲の木々に遮られて何も見えず終い。神明神社と云うことで、普通なら祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)よね。その神威を受けて、境内にはお陽さまの光が燦々と降り注いではいたのですが、周囲の景観を眺めることが出来ないとあっては残念ね。

地元・六軒町の鎮守さまとして祀られる神明神社ですが、いつ頃勧請されたのかなどの詳しいことは分からないの。ここからはξ^_^ξの勝手な憶測ですので鵜呑みにされても困るのですが、神明神社の御本家と云えば伊勢神宮よね。実は、房総と紀州は黒潮を辿る海の道で古くから繋がりがあり、特に江戸時代の貞享・元禄年間(1684-1703)にはこの御宿でも鰯漁が盛んになり、紀州からも多くの漁師さん達が来ているの。故郷を離れて定着する漁師さん達も多くいたと云うのですから、故郷で崇めていた天照大神を新たにこの地に分霊・勧請して航海の安全や大漁を祈願したのではないかしら?

7. 十王堂 じゅうおうどう 10:13着 10:16発

十王堂

神明神社の拝観を終え、地続きの十王堂を訪ねてみたの。御宿町教育委員会の建てた案内板には「御宿町指定文化財−閻魔胎内像・十王像 木造阿弥陀如来 及び 両脇侍立像 昭和60年(1985)2月12日指定」とあり、ひょっとしたら実物を見ることが出来るかも知れないと思ったの。ですが、この十王堂も無住のために普段は拝観不可みたいね。見せて貰えぬとあっては余計見たくなるのが世の常人の常−とは、ちょっと大袈裟かしら?機を捉えて再訪してみましたので紹介してみますね。訪ねたのは先程紹介した「まるごとミュージアム春の企画展」開催期間中のことで、普段は見ることが出来ない文化財なども特別公開されていたの。

十王像

この十王堂も普段は無住になっているのですが、古老の方がお二人で接客されていたの。堂前で中を覗き込むようにしていると、遠慮無く昇殿して拝観なさって下さいと声を掛けて下さって。聞けば、十王堂はどこの寺院にも属さず、近在の有志の方々だけで保存・維持に努めていらっしゃるのだとか。併せて十王像に纏わる貴重な裏話もお伺いすることが出来たの。折角ですし、裏話と云う程の大袈裟なものでもないのでバラしちゃいますね。この閻魔大王を始めとする十王像は、幾れも江戸時代初期の作とされているのですが、後世の修復時に今のように真っ赤に塗られてしまったの。

十王像

記録は無いのでいつ頃の修復なのかは分からないものの、当初は他の十王像と同じ色をしていたと思われ、閻魔大王に収められている胎内仏にしても、当初は三体だったのですが、一体が行方不明になり、現在は二体だけになってしまっているとのこと。加えて、今となってはその胎内仏がどんな仏さまを表しているのかも分からなくなってしまいましてねえ−と仰っていましたが、地元・六軒町の方々が守って来られたからこそ今に残されている訳で、それは決して文化財だからと云うことではなくて、信仰や祈りの対象として、常に身近に崇め祀られていた証でもあるわね。

ところで、この十王堂ですが、元々は同じ御宿町にある妙音寺にあったものみたいね。だからと云って現在の堂宇が当時のものと云うことでは無いのですが、同じく御宿町の文化財に指定される【十王堂縁起】(御宿町民俗資料館蔵)には、念仏道場として元禄9年(1696)にその妙音寺から移転して来たことが記されているの。それはそれとして、訪ねた時に頂戴した栞にも面白いエピソードが記されていましたので、昔話風にアレンジした上で紹介してみますね。

寛文年中(1661-72)と云うから今から300年以上も昔のことじゃ。十王堂の建つ六軒町では念仏が盛んでのお。じゃが村には皆が集まって念仏を唱えられるようなお堂も無ければお祀りする仏さまもおらなんだ。そこで村人達が集まり、是非村にも念仏道場を開いて貰おうと妙音寺の幸順和尚に願い出たそうじゃ。和尚さま、境内にあります十王堂を私どもの村へお譲り頂く訳にはまいりませぬか、お譲り頂けた暁には今一層の念仏に精進致しますゆえ、どうかお聞き届け下せえまし−と。村人達の熱心な願いに和尚も念仏を広めるためならと快く応じてくれたそうじゃ。そうして十王像と共に新たに本尊として祀るべく、阿弥陀如来と観音・勢至の両菩薩像に加え、願心と云うお弟子さんまでも派遣して下さってのお、村ではいよいよ称名が盛んになったそうじゃ。

それからしばらくした元禄年中(1688-1703)のある日のことじゃった。円仲と云う修行僧が村にやって来てのお、その僧が云うには「諸国遊行の途次に一人の僧が夢に現れてこの三仏を護持すべし−と告げて立ち去ったのじゃが、これこそは阿弥陀如来の霊告と思い、こうして笈仏として片時も離さず諸国を遊行してまいった次第」と云うてのお、十王堂に起居するようになったそうじゃ。じゃが、驚いたことにその笈仏と云うんが元々十王堂に祀られておった三尊像と全く同じものじゃった。

加えて、村で念仏講が始まると不思議なことに十王堂からその三尊像の姿が見えなくなってのお、気が付くと念仏講が終わる迄当番の家におったと云うことじゃ。とは云うものの、お堂に本尊の阿弥陀如来さまがおらなんだとは−と嘆いた円仲は村人達と話しおうて改めて本堂に迎え祀り、お祝いをしたんじゃが、元禄の大地震に見舞われたんはその翌日のことじゃった。この御宿でも大きな津波が村々を襲い、大きな被害を蒙ったんじゃが、十王堂に祀られた阿弥陀さまは流されずに済んだと云うことじゃ。それからと云うもの、以前にも増して村人達の崇敬を集めるようになったそうじゃ。

六地蔵 境内の一角には六地蔵が祀られていました。親しみを込めてお地蔵さんと呼ばれる地蔵菩薩ですが、釈迦の入滅後、次の弥勒菩薩が仏として現出するまでの無仏期間(56億7千万年!)に現われて衆生を救済すると云われる有り難〜い存在なの。お地蔵さんは六道の辻に立ち、亡者を救済してくれることから鎌倉時代になると十王思想と結び付き、六道、とりわけ地獄道に於ける救済を求めて広く六地蔵として祀られるようになるの。

六道とは天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄のことで、お地蔵さんは我が身を六つに分かちて各々の辻に立ち、艱難辛苦から迷える衆生を救済してくれると信じられるようになり、結界の地でもある寺院の境内や墓地の入口などはその六道に通ずる辻と見做されて、六地蔵が祀られるようになったの。その六地蔵の名称も複数あり一定しないのですが、この十王堂に立つ六地蔵にはちょっと変わった呼称が付されていましたので紹介してみますね。

ところで、平仮名の部分にはどんな漢字を充てたら良いのかしら?「えんめい」は「延命」だと思うのですが、他はちょっと分からないわ。なので、お読み頂いているみなさんの御賢察にお任せよ。老婆心ながら「利益」は仏教的に「りやく」と訓んで下さいね。「りえき」と読むと閻魔大王からは「汝、慳貪心深き者なれば」と生前の罪が一等重く告げられるかも知れないわよ(笑)。それでは左から順に。

かつさん地蔵尊
ふくれき地蔵尊
さるさん地蔵尊
きうれき地蔵尊
かつぞう地蔵尊
えんめい地蔵尊
(地蔵界)
(地獄界)
(餓鬼界)
(修羅界)
(畜生界)
(地蔵界)
=蓮華の花を右手に持ち、「血の池地獄」に沈む人を救う
=利益の「えごろ」を右手に持ち、「とうかつ地獄」に沈む人を救う
=百八お数珠を御手に持ち「餓鬼道地獄」に沈む人を救う
=利益の旗をば肩に掛け、修羅道地獄に沈む人を救う
=畜生地獄に沈む人を救う
=利益の徳杖を杖につき、宝珠の玉を右手に持ち、無限地獄に沈む人を救う

順路 法蔵寺 公孫樹

十王堂の拝観を終えたところで、次の目的地・大宮神社へと向かいましたが、隣に位置する音教寺の門前を過ぎると、御覧のように路地への入口がありますので、これを進んで下さいね。実は、法蔵寺への境内へと続く参道なのですが、通り抜けできるようになっていますので失礼させて貰いましょうね。その法蔵寺境内に聳える公孫樹の大木ですが、海風にさらされて、枝が山側になびいているの。この辺りではそれだけ強風が吹くことが多いと云うことよね。

8. 大宮神社 おおみやじんじゃ 10:41着 10:55発

社殿 先程チラリと紹介したドン・ロドリゴの遭難事故ですが、助けられた人達の救援施設と云うか、寄宿舎となったのがこの大宮神社なの。と云っても、当時は神社では無くて「彼土大宮寺といふ修験家に起居す 今の普賢院の事也」【房総志料】とあるように、神社と寺院の区別がない神仏混淆状態。その大宮寺も後に三嶽山普賢院に改称し、聖護院末に属する修験系寺院となっていたようよ。その後の変遷が不詳ですが、その普賢院も廃寺となり、現在の大宮神社に姿を変えて当時の名残りを僅かに伝えているの。

御輿

とは云うものの、317名もの生存者を一度に収容するのはやはり無理だったみたいね。ドン・ロドリゴや近臣者などはこの大宮寺に起居し、残る部下や配下の者達は他の寺院や民家に分散して収容されたようよ。訪ねた時には地元の漁師さんでしょうか、御神酒を携えて参拝される姿を見掛けました。その祈りを待ってξ^_^ξも後に続きましたが、社殿の中にはお祭りに備えて出番を待つ(?)御神輿の姿がありました。境内の傍らには庚申塔や小さな石祠が忘れられたかのように捨て置かれていましたが、往時には漁の安全と日々の安寧を祈る海女さん達の姿もあったのでしょうね。

樹叢 鳥居脇には大きな木立が並び立ち、傍らに「感恩堂・稲荷神社参道入口」の標識を見つけて細い坂道を辿り始めたのですが、「ちかんに注意」の立看板に思わず後ずさり。それでも、ひょっとして感恩堂は大宮神社が寺院だった頃の名残りを留める建物かも知れないわ−と云う期待感に背中を押されて坂道を上ったのですが、登るに従い、道が怪しくなり、遂には背丈を覆う雑草に行く手を遮られてしまいました。幾ら何でも草叢と格闘しながら進む勇気は無くて、感恩堂への接近遭遇は敢え無く挫折。見ることが出来ずに終えたとあれば余計気になる感恩堂ね。

9. 大福寺 だいふくじ 10:57着 10:59発

本堂

道際に案内板を見つけて訪ねてみたのがこの海岸山大福寺。大福禅寺とも呼ばれるように、参禅道場を持つ曹洞宗寺院。【房総志料続篇】には「寺宝に夢窓国師の袈裟ありと 師一度能実村へ来り給ひしと 此時譲り置きたる物か」とあるのですが、禅寺とあっては山門より先へは容易には進み難く、真偽如何は分からず終い。夢窓国師が活躍したのは鎌倉時代から室町初期にかけてのことで、歴代天皇から国師号を賜り、夢窓国師を含めてその数、何と七つもあるの。詳しいことは既に他の頁で紹介済みですのでここでは深くは触れずにおきますが、足利尊氏との繋がりも強く、云うなれば時代の中心にいたスーパー僧侶なの。

歴史に興味の無い方でも一度位はその名を耳にしたことがあるのではないかしら。そんな夢窓国師の袈裟となれば国宝級の文化財ですよね。本堂の屋根越しにはこれから訪ねるメキシコ塔がちょこっと頭を覗かせているの。そのメキシコ塔へのアプローチですが、車道を歩くとなるとかなり大廻りさせられてしまうので大変よ。でも御安心下さいね、この頁を御覧頂いている皆さんには特別に近道を教えちゃうわ。

10. 関東ふれあいの道入口 かんとうふれあいのみちいりぐち 11:01着発

入口 大福寺門前から海側に向かって歩くと直ぐに民宿・重次郎さんがあるのですが、その角地に「関東ふれあいの道入口」の標柱が立てられているの。と云っても殆ど杭に等しく、電柱の蔭に隠れるようにしてあるので普通に歩いていたら先ず気付く方はいらっしゃらないのではないかしら。なのでここでは民宿・重次郎さんの角を曲がる−と覚えておいて下さいね。エッ?どこが民宿・重次郎さんか分からねえだろう−ですか?大丈夫、どこの民宿もそれなりに自己主張(笑)してますから直ぐに分かるわ。

道標 御覧の路地を進むと突き当たりにようやく道標が立ちますが、これこそ路地の入口に設置して貰いたいものよね。道標には「メキシコ記念公園まで200m」と案内されているの。何だ、ちけーじゃねえか、だったら今度のツーリングの時にでも利用させて貰おうじゃねえか−と思われるかも知れませんが、残念ながら徒歩以外での利用は禁止よ。と云うのも、この関東ふれあいの道は関東一都六県に跨る総延長1,655kmにも及ぶ自然歩道なの。実際には幾つものコースに分かれるのですが、紹介する道はその中の一つで「御宿海岸を歩くみち」の一部なの。

登り口 道標が指し示す先を見やると坂道の登り口が目に留まりますので道に迷う心配は無いわ。残念ながらこの坂道の部分だけはいつ訪ねても手入れが行き届いていると云う訳では無くて、限られた予算の中で最低限の維持管理だけはなされていると云った印象なのですが、それでも鬱蒼とした木々のトンネルを抜けると俄に遊歩道らしくなって来ますので御安心下さいね。左掲はそのトンネルを抜けたところで後ろを顧みたものですが、狸穴(笑)のように見えるのがそれよ。画面左手の石段を登るとこれから紹介する展望台があるの。

11. 展望台 てんぼうだい 11:08着 11:11発

四阿 展望台には御覧のような四阿(あずまや)が設けられていますので、眼前に広がる太平洋の大海原を眺めながら暫時の休憩を。眼下には岩和田漁港が広がり、左手にはメキシコ塔が、右手には湾曲する御宿海岸の砂浜が遠望出来るの。実は、最初に訪ねた時には小雨交じりの空模様から景観を堪能することが出来ず、改めての再訪を決意したくらいなの。次に紹介するメキシコ記念公園には立ち寄っても、この展望台に足を伸ばす方は殆どいらっしゃらないようですが、記念公園からでは山や木立に遮られて御宿海岸は見えないの。

白砂青松と云う訳では無いのですが、御宿に訪ね来てこの景観を見ずに終えてしまうのはとても残念な気がするの。ξ^_^ξ一押しのお勧めスポットですので、晴れた日には是非!足を運んでみて下さいね。

メキシコ塔

12. メキシコ記念公園 めきしこきねんこうえん 11:16着 11:27発

入口 車でのアプローチが可能とは云え、町の中心部からは少し離れた位置にあることからこの記念公園に来られる方は少ないみたいね。広い駐車場が用意されてはいるのですが、イベントが開催されない限りは満車となることは先ず無さそうね。加えて、ξ^_^ξのように徒歩での来園は皆無に等しい・・・かも。実は、かく云うξ^_^ξも幾度か御宿に訪ね来ていながらこの記念公園まで足を伸ばしたのは初めてなの。この記念公園のシンボルとなっているのが高さ17mのメキシコ塔で、正式には日・西・墨交通発祥記念之碑と呼ばれるものよ。

記念碑 そのメキシコ塔へ向かう石段の入口脇にはロペス・メキシコ大統領来訪記念碑が建ちますが「昭和53年(1978)11月1日。国賓として来日されたホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領はこの日、日西墨交通発祥の地である我が御宿町を訪問された。大統領は若者達の担ぐ御輿に乗り、日の丸の扇を高くかざし「エルマーノ(兄弟よ)!」を連呼し、町民の歓呼に応えた」と記されているの。

由来記 大統領が来訪する程なのですから、この御宿町とメキシコにどんな深い繋がりがあるのか大いに気になりますよね。その答えが先程から幾度か触れたドン・ロドリゴ一行を乗せたサンフランシスコ号の遭難事故なの。そのあらましと記念碑が建てられるようになった経緯が園内にあるメキシコ塔由来記に掲示されていました。些か他力本願で恐縮ですが、その全文を紹介させて頂きますので御参照下さいね。

慶長14年(1609)スペイン領フィリピン総督ドン・ロドリゴを乗せた帆船サンフランシスコ号はフィリピンからメキシコに向け航海中台風に遭遇し漂流、この岩和田海岸に座礁した。秋9月30日未明のことである。乗組員373人中56人は溺死、残る317人は岩和田村民により救出された。この時海女たちは飢えと寒さと不安にうちふるえる異国の遭難者達を素肌で暖め蘇生させたと伝えられている。大多喜城本多忠朝の明断により、遭難者達は37日間岩和田大宮寺に滞在。村民の手厚い保護を受けた後、江戸城に至り、将軍秀忠に謁し、更に駿府に至り家康に謁し、翌1610年家康が三浦按針に建造させた新しい船を与えられ、無事メキシコに帰国した。翌1611年答礼使ビスカインの来日、そして1613年支倉常長のメキシコ・スペイン・ローマ特派など一連の史実は全てこの岩和田村民の心意気に発するものである。我らの祖先の美挙を後世に永く伝えるため、また永遠なる国際親交を祈念して、昭和3年(1928)10月1日森矗昶、浅野重雄等発起人となり、この日西墨交通発祥記念碑、通称メキシコ塔が建立された。

メキシコ塔

メキシコ塔に刻み込まれた銘文にも「我等が祖先の心意気を伝えるこの塔は昭和3年(1928)郷土の英傑森矗昶、村長浅野重雄等発起人となり、地域各町村民はもとより、各界名士の賛同を得、永遠なる国際親交を祈念して同年(1928)10月1日建立された。昭和33年(1958)9月 30周年改修 昭和53年(1978)9月 50周年改修」とあり、メキシコのロペス大統領を迎えて盛大な記念式典をしたのは50周年記念の改修時のことね。由来記の隣にはスペイン語での案内もありましたが、ちょっと見では和文のものと同じ内容なのですが、異なる部分もありそうな気がするわね。グリコのオマケで、スペイン語に堪能な方のために原文を掲載しておきますのでトライしてみて下さいね。But ξ^_^ξはスペイン語はチンプンカンプンですので記載に誤りがあるかも知れませんので御了承下さいね。

EN 1609,EL BARCO QUE CONDUCIA DON RODRIGO DE VIVERO,GOBERNADOR DE LAS ISLAS FILIPINAS,COLONIA EspanOLA DEPENDIENTE DEL VIRREINATO DE LA NUEVA EspanA,Y A 373 TRIPULANTES,NAUFRAGO CERCA DE LA ORILLA DE IWAWADA ( ACTUAL ONJUKU 9 A CAUSA DE UN TIFON.LA MAYORIA DE LOS NAUFRAGOS FUERON SALVADOS POR LAS PESCADORAS DEL PUEBLO,A QUE LOS REVIVIERON CALENTANDOLOS CON SUS PROPIOS CUERPOS.LOS NOVOHIspanOS,QUE FUERON BIEN ATENDIDOS POR LOS ALDEANOS,REGRESARON A MEXICO AL ANO SIGUIENTE A BORDO DE UN BARCO OBSEQUIADO POR EL SHOGUN TOKUGAWA IYEYASU.ESTE FUE EL PRIMER CONTACTO ENTRE JAPON Y EspanA/MEXICO.EN CONMEMORACION DE ESTE ACONTECIMIENT.EN 1928 SE CONSTRUYO UN MONUMENTO ALUSIVO AL ORIGEN DEL CONTACTO JAPON-EspanA-MEXICO.EL MONUMENTO Y EL "PARWUE MEXICO" FUERON RENOVADOS EN 1978 E INAUGURADOS POR EL PRESIDENTE JOSE LOPEZ PORTILLO DURANTE SU VISITA OFFICIAL A JAPON,ONJUKU ES CIUDAD HERMANA DE ACAPULCO GRO.

13. 記念公園登り口 きねんこうえんのぼりぐち 11:34着発

登り口

記念公園から車道を下るとこのT字路に出ますが、車で来られた方はここが入口になるの。傍らには「サンフランシスコ号遭難地点900M先」と書かれた道標が立てられていましたが、それを目にしたξ^_^ξは、それこそ目が点になってしまったの。と云うのも、それまでのξ^_^ξは船が座礁した岩和田海岸と云うのは岩和田漁港のある辺りだとばかり思っていたの。メキシコ記念公園の場所が岩和田漁港を見下ろす高台にあり、その公園内に設置された由来記に「この岩和田海岸に座礁した」とあれば、そう思いこんでもおかしくないシチュエーションよね。それが本当の遭難場所は他にあると云うのですから訪ねてみたくなりますよね。ここから900mならそう遠くはなさそうね−と足を伸ばしてみたの。

14. ドン・ロドリゴ上陸地 どん・ろどりごじょうりくち 11:44着 11:59発

路なりにしばらく歩くと海洋生物環境研究所の建物が見えて来ますが、その手前にドン・ロドリゴ上陸地の案内板が立ちますので見落とさないようにして下さいね。その案内板脇から海側に向かう小径を辿ると急に視界が開け、左右に連なる断崖絶壁に圧倒されますよ。掲載した画像は天候に恵まれて波穏やかな時のものですが、荒天時には荒波が怒濤のように押し寄せてくるの。と云うのも、最初に訪ねた時が雨と強風のさなかのことで、遭難事故を彷彿とさせるような光景だったの。

田尻海岸 メキシコ記念公園の案内板ではサンフランシスコ号が遭難したのは岩和田海岸と記されていましたが、本当は田尻海岸が正解よ。尤も、当時は岩和田海岸や田尻海岸を含めて岩曲浦と呼ばれ、区別がなかったと云うことのようね。当時の岩和田村の人口にしても僅か300人足らずで、生存者だけでもその人口を上回る人達を助けたと云うのですからスゴイ!のひとことね。この田尻海岸ですが、ドン・ロドリゴ上陸地として昭和41年(1966)には千葉県の指定史跡になっているの。

田尻海岸 慶長14年(1609)9月30日夜半、前フィリピン諸島長官ドン・ロドリゴ・デ・ヒベロ・イ・ベラスコ一行を乗せたサンフランシスコ号がメキシコのアカプルコ港への帰還途中、岩和田の田尻沖で遭難。事件を知った村民(旧岩和田村)は総出で駆けつけ、救助活動にあたった。救助されたロドリゴ一行は87日間を過ごした岩和田村に別れを告げ、大多喜城経由で江戸へと出発することになり、駿府では将軍徳川家康に謁見している。その後、家康はロドリゴ達の帰国のため舟を造らせ、慶長15年6月13日に浦賀を出航し、その年の10月27日に無事アカプルコに到着した。

断崖絶壁が連なり、その先端がいきなり海に落ち込むようにしてある岬(鳥山鼻)の景観ですが、【夷隅郡誌】にその名の由来が記されていましたので紹介してみますね。
浪花村岩和田の東に在り・・・〔 中略 〕・・・岬は堅巖を以て成り 形容峨々たり 餘勢海に入ること十町餘 一帶巖磯を布く 風浪靜かなれば漁舟を通じ風光佳なり 風強く浪高ければ隱れて暗礁となる 里傳に云 南蠻船遭難の當時 此丘山にて聞き馴れざる鳥聲を聞く 村人之を不思議に思ひ 風聞忽ち傳はりたるが 好事の者往いて之を搜せしに 果して羽毛美麗なる雉あるを發見せり 是より此の鼻を鳥山と稱すと 蓋し南蠻船より飛移りたるものならんか

残念ながら、この記述だけでは鳥の種類を窺い知ることは出来ませんが、ドン・ロドリゴがフィリピンから帰還する際に連れ帰ったペットだったのかも知れないわね。好事家に発見された後の処遇も不明ですが、その後も異郷の山野を飛び渡たり、仲間を探して啼いていたとあってはちょっと悲しい逸話ね。波穏やかな砂浜に降り立てば潮騒のざわめきと共に、悲しげな鳥の声が遙か遠くから風に乗って聞こえてくるかも知れないわ。

15. 大波月海岸入口 おおはづきかいがんいりぐち 12:12着発

道標 左掲は田尻海岸に向かう途中で見掛けた「景勝地・大波月」の案内標なの。ガイドブックには大波月・小波月海岸には断崖や奇岩の景勝地が連なり、5〜9月にかけては漁をする海女さんの姿が見られるかも知れない−と書かれていたので、心惹かれるものがあったのですが、車道を離れて20、30mも歩くと足許は殆ど獣道状態で。行く手は草叢に覆われ、耳を澄ませてみたところで潮騒も聞こえず、心細さに敢え無く挫折。辿り着いた暁にはどんな景観が出迎えてくれたのかしら?

16. 小波月海岸 こはづきかいがん 12:22着 12:31発

その大波月海岸入口から10分程歩くと今度は「景勝地・小波月」の案内標が目に留まりました。先程の大波月海岸のそれとは違い、舗装された道が海に続き、民家も建ち並んでいましたので大いに勇気を得て足を伸ばしてみました。小波月海岸は、見た目では田尻海岸を一回り小さくしたような印象ですが、砂浜には断崖絶壁から崩れ落ちた大きな岩がゴロゴロしていて荒々しいの。砂浜には波に打ち上げられた乳幼児用のバギー車が。小波月海岸の景観をじっくりと見てやろうじゃねえか−と云う方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。14枚ほどアップしておきました。But スライドは完全マニュアル動作です(笑)。

17. 月の沙漠通り つきのさばくどおり 12:59着発

プレート 岸和田漁港を過ぎると御宿海岸の砂浜が広がりますが、境川を過ぎた辺りから車道の歩道側には街灯やベンチが置かれてお洒落な遊歩道が続いているの。月の沙漠をイメージして作られたもので、加藤まさをさんの詩を刻むプレートが所々に埋め込まれているの。道すがら、その一つ一つを辿れば、次に訪ねる月の沙漠記念館に辿り着く頃には気分はすっかり文学少女になっているかも知れないわね。中でも左掲はξ^_^ξのお気に入りの一編で、どうしてそんなにも哀しくて、どうしてそんなにも優しいの?と思わず問いかけたくなる位なの。

浜で見つけた桜貝を 冬の炉辺で耳にあて 月夜の海の音を聴いて 想出に耽る
砂に書いた君の名前も 砂山に続く足跡も 浜昼顔も月見草も
みんなみんな忘れられない

18. 月の沙漠記念像 つきのさばくきねんぞう 13:03着 13:12発

御宿に訪ね来てこの月の沙漠記念像を見ることなく踵を返したのでは御宿を訪ねたことにはならないわね。御宿のシンボルとして全国的に知られる記念像ですが、この御宿海岸が童謡【月の沙漠】の発祥の地になっているの。先程その名を挙げた加藤まさを氏ですが、若い頃に結核を患い、この御宿で療養することも多く、その頃の景観をヒントにした抒情詩や叙情画を数多く残しているの。中でも【月の沙漠】は佐々木すぐる氏作曲の哀愁を帯びたメロディーと相まって誰もが知るところね。像の前に立てば誰もが知らず知らずの内に口ずさんでいるのではないかしら。記念像に接近遭遇したい方は左掲の画像をクリックよ。

詩碑 記念像は昭和44年(1969)に建てられたもので、傍らには加藤まさを氏の直筆を模刻した三日月型の詩碑も建てられているの。記念像からは大分離れてしまいますが、松林の木陰には【月の沙漠】が作られた背景と共に、加藤まさを氏の略譜が掲示されていたの。残念ながらその存在に気付く方も無く、殆ど忘れられたかのように佇む案内板ですが、折角ですので顕彰文だけでも紹介しておきますね。

青年詩人加藤まさをがこの御宿海岸で抒情詩”月の沙漠”を綴ったのは大正12年のことである。その頃この御宿海岸は起伏果てしない砂丘の連なりであった。優れた詩人の感性はこの砂丘に淡い月光に照らされた王子と王女の旅を幻想したのであろう。この詩は佐々木すぐるによって作曲され、童謡として広く唄い継がれ、既に半世紀を過ぎている。加藤まさをは晩年を御宿で過ごし、昭和52年他界、町内の最明寺に眠るが、不朽の名作”月の沙漠”は日本人の心に愛とロマンを伝え、永久に生き続けることであろう。

月の沙漠を はるばると
さきの鞍には王子さま
旅の駱駝が ゆきました
あとの鞍にはお姫さま
金と銀との鞍おいて
乗った二人はおそろいの
二つならんでゆきました
白い上着を着てました

レタッチして遊んでみましたが如何かしら?やはりお陽さまの下でよりも月明かりの方がロマンをかき立てられますよね。余談ですが、訪ねた時には王女さまの左手首には銀のブレスレットが。「誰が手折つて捨てたのか渚の渚の月見草」ならぬ「誰が想いを込めて添えたか銀のブレスレット」状態でした。原作者が意図したイメージにはそぐわないのかも知れませんが、個人的には好みよ。訪ねてから日が経ちますが、今でも添えられているのかしら?気になる方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。最後に出てくる王女さまの左手首に御注目よ。

19. お昼 於:たなか寿司 たなかずし 13:16着 14:07発

たなか寿司 記念像を前にして【月の沙漠】の余韻に浸ったところで本来なら目の前に建つ月の沙漠記念館になだれ込むべきところなのですが、怠惰な脳味噌は空腹を満たすことに専念し始めて。やむなく行程を一時中断して遅めの昼食を摂ることにしたの。向かった先が歩いて5分程のところにある たなか寿司 さん。店構えからすると敷居が高そうに見えるけれど大丈夫よ。かと云って回転寿司のような訳にはいかないけれど、リーズナブルなお値段ですので御安心下さいね。

パンフ 訪ねた時にはお品書きにはない「伊勢えびみそ汁」があり、そのお値段(¥1,000)から推して余り期待せずに頼んだのですが、出された大きなお椀には小振りながらも伊勢えびがど〜んと一匹入っていたの。これには感激よ。余談ですが、伊勢えびの漁獲高の一番は千葉県なのよ。それも大原から勝浦にかけてが好漁場になっているの。この御宿でも例年9月初めから10月末に掛けて伊勢えび祭が開催されるのですが、時価が相場の伊勢えびなのですから狙い目は勿論その伊勢えび祭の開催期間中ね。

20. 月の沙漠記念館 つきのさばくきねんかん 14:13着 15:30発

月の沙漠記念館 加藤まさを氏が抒情詩【月の沙漠】の着想を得たと云う御宿海岸の砂浜と対峙して建つのがこの月の沙漠記念館。宮殿風の造りは砂漠の中に建つ王宮を思わせ、車道を隔ててある清水川の流れはさしずめオアシスと云うところかしら。視線を左に向けるとそこにはリゾート・マンションがずらりと建ち並ぶのですが、それは御愛嬌にしておきましょうね。入館料:¥400(一般)

記念像の原型 館内は2フロアからなり、1Fが企画展示室、2Fが加藤まさを氏の作品を紹介する常設展示室になっているの。順路に従い2Fに上がると、ラウンジ・ギャラリーには月の沙漠記念像の原型が展示されていますのでお見逃しの無いようにね。像は彫刻家・竹田京一氏の手になるもので、実物の1/5の大きさで作られているの。その隣にある映像展示室では御宿の紹介ビデオが上映されるのですが、30分毎なので時間に余裕が無いとちょっと無理かも知れないわね。開館時間 9:00-16:30 水曜日休館(祝日の場合はその翌日)

大正浪漫コーナー 書斎 原稿

その映像展示室で御宿の自然や文化を概観したところで隣の常設展示室へ。記念館では加藤まさを展示室と称するように、ここでは氏の作品や愛用の遺品などが紹介されているの。入口にはそのエピローグとして大正浪漫コーナーがあり、入館者を多くの作品が生み出された大正期へと誘ってくれるの。展示される作品に想いを馳せたところで移設されてきた書斎コーナーに向かいましょうね。氏が愛用していた机には先程書き終えたばかりにも見える原稿が広げられているの。勿論、題名は【月の沙漠】よ。

電話機

そして加藤まさを展示室、否、記念館での一番のお薦めがこの電話機なの。と云っても電話機自体を薦めている訳ではないのよ。実は、この電話機の受話器を取ると詩の朗読が聞けちゃうの。勿論、プロのナレーターの方によるもので、その語り口に思わず引き込まれてしまうこと間違い無しよ。電話機は柱の両側に一台ずつ設置されていて、合わせると9編の詩を鑑賞することが出来るの。中でもξ^_^ξの一番のお気に入りが【花畠】と題された一編で、「一羽の蝶々が云うことに/肩にとまって云うことに」のフレーズは今でも耳に残るの。同館を訪ねられた際には是非耳を傾けてお気に入りの一編を見つけて下さいね。

ところで、抒情詩と云うよりも童謡として知られる【月の沙漠】ですが、そのメロディーを作曲した佐々木すぐる氏の存在があればこそのことね。大正12年(1923)、加藤まさを氏が講談社刊の『少女倶楽部』3月号に挿画と共に抒情詩としての【月の沙漠】を発表すると、それを目に留めた佐々木氏が哀愁のあるメロディーを付けたの。その時点で初めて童謡としての【月の沙漠】が誕生したと云うわけ。かと云って、直ぐに全国的に知られるようになった訳ではないの。当初は佐々木氏自身が童謡の普及に努めていたこともあり、主に音楽教育の教材として使用されていたみたいね。それが、大正14年(1925)のラジオ放送開始から間もない昭和2年(1927)にオン・エアされ、その哀調を帯びたメロディーが忽ちリスナーの共感を呼び、昭和7年(1932)にはレコード化されて大ヒットとなったの。佐々木すぐる氏は、他にも【お山の杉の子】や【ゆびきりげんまん】などの童謡を作曲する一方で、全国各地の校歌の作曲も数多く手掛けているの。ひょっとしたらあなたの卒業した小中学校の校歌もそうかも知れないわよ。

訪ねた時には1Fの企画展示室では加藤まさを氏が描いた抒情画の数々が展示されていました。その抒情画の祖とされるのが皆さんも良く御存知の竹久夢二。加藤まさを氏はその竹久夢二に続く次世代を担う詩人・画家として、蕗谷虹児や高畠華宵らと共に当時は絶大な人気を集めたの。天は二物を与えず−の喩えは彼には当てはまらず、文才画才に支えられて多くの業績を残しているのですが、その全編に流れる大正浪漫の情緒や感性は今でも観る者の心を優しく包み込んでくれるの。

記念館の御案内の最後に、加藤まさを氏が童謡画集【合歓の揺籃】に寄せた序文を紹介しておきますね。
そこに語られる思いに是非あなたも触れてみて下さいね。

ここに収めた小さな画や謡によって、現在の世の幼き人々の心に、
あるいはまた、幼き日の至純な情緒を忘れ得ぬおとなの胸に、
多少なりとも、より美しい彩りを添えることができるなら、
どんなに私はうれしいことであろう。

21. 岩井山最明寺 いわいさんさいみょうじ 15:58着 16:19発

最明寺 この 最明寺 は御宿とは深〜い関係があるの。と云うのも、この地を訪ね来た北条時頼が「御宿せしその時よりと人問はゞ網代の海に夕影の松」と詠んだことから御宿(おんじゅく)の地名の由来となったと伝えられているの。でも、これでは御宿を「みやど」と訓まなくてはいけないし、そこから後に「おんじゅく」に転訛したとするには無理があるような気がしないでも無いわね。ところで、北条時頼と云えば、鎌倉幕府第5代執権の座にあり、北条氏の全盛時代を築き上げた人物よね。30歳にして剃髪出家、北鎌倉の山内に庵を結び、隠棲したの。

現在は北鎌倉の名月院が建つ辺りにあったとされ、その庵の名前が最明寺。時頼はそこから最明寺入道とも呼ばれるようになったのですが、執権職を一族の長時に譲った後も実態としては幕府の最高権力者としての地位にあり続けたの。後の南北朝時代に著された【太平記】や【増鏡】にはその時頼が旅僧に身をやつして諸国を見聞し、下級御家人達の窮乏を救ったことが記されているの。その時頼廻国伝説を更に有名にしたのが謡曲【鉢の木】ね。詳しい内容は他のサイトを参照して頂くとして、時頼が実際に諸国を巡ったかどうかは諸説紛々なのですが、肯定しうるだけの裏付け史料が無いことから、現在では否定派が優勢のようね。時頼がこの地に訪ね来たと云う伝承にしても後世に付与された逸話のような気がするの。

更にダメ押しが寺号よ。現在では最明寺の字を充てているけど、嘗ては西明寺と号していたと云うの。改称がいつ頃のことかは不詳ですが、時頼廻国伝説は江戸時代になると【弘長記】や【鎌倉北条九代記】などの出版に合わせて全国的に流布するようになるの。ξ^_^ξが思うには寺格を高めるためにそれに合わせて意図的に縁起を関連づけて創作したような気がしないでも無いわね。ほなら寺号も時頼公に因んで最明寺に変えてしもたらええがな(笑)。

ちょっと茶化してしまいましたが、地名の由来には本宿(ほんじゅく)が訛ったものとする異説もあるの。また、詠歌の「夕影の松」にしても元々は「ゆふがひの松」であり、本来なら「要害の松」で、その松が立つ高台は用害台とも呼ばれ、嘗ては「御宿屋太郎と云ふ者住居したる古戦跡也」とする伝承もあったと云うの。用害は要害からの転訛であり、御宿の地名は御宿屋太郎なる人物に由来すると考える説。どうやら地名由来説にしても諸説があって、本当のところは誰にも分からない−と云うことのようね。

時頼公由来説に異を唱えてしまいましたが、門外漢の戯れ言として御容赦下さいね。
最明寺さん、イチャモンつけてごめんなさい。

最初にケチをつけておきながら恐縮ですが、改めて最明寺境内の御案内をしますね。本堂を背にして右手に建てられているのが先程から紹介している「御宿せしその時よりと人問はゞ網代の海に夕影の松」と刻まれた石碑なの。この歌碑を目当てに訪ね来られる方も多いみたいね。墓苑には月の沙漠記念館で紹介した加藤まさを氏も眠ると聞いたのですが、興味本位で墓苑内を探しあぐねるのも躊躇われて未確認で終えています。お参りになる場合には故人の眠りを妨げることの無いようにして下さいね。

夫婦銀杏 本堂左手には銀杏の巨木が二株並んで聳え立ちますが、最明寺の夫婦銀杏として町の天然記念物に指定されているの。樹齢は定かではありませんが、元禄16年(1703)の巨大地震に伴う大津波にも堪えて今に至っていると云うの。その巨大地震は房総沖を震源として、規模はM8.2と推定されているの。甚大な被害をもたらした地震として知られる元禄大震災ですが、揺れもさることながら、巨大津波が房総各地の沿岸部に襲いかかり、死者の数は房州だけでも十万人と伝えられることから、いかに凄まじい震災だったかがお分かり頂けるのではないかしら。

観音堂

その大銀杏の間からは背後の高台へと通じる登り道があるのですが、その途中に建てられているのが観音堂で、本尊とされる聖観音像は慈覚大師作と伝えられているの。加えて、堂内には御宿町指定有形文化財の木造伝祐上人坐像が祀られているのですが、いずれも非公開のために拝観出来ないの。ちょっと残念ね。現在の建物は後世に再建されたものですが、元々の観音堂は健保5年(1272)の開基と伝えられ、苔むしたままに放置された数多くの墓塔から推して、この観音堂こそが最明寺の当初の姿だったのではないかしら。尤も、寺伝では最明寺そのものの開基を平安時代初期の弘仁13年(822)に迄遡るとはしているのですが。

谷内六郎画伯写生地

その観音堂からは本堂の屋根越しに御宿の街並みが一望出来るの。今ではリゾートマンションが建ち並び、海岸線間際まで民家が押し寄せていますが、嘗ては白砂青松の景勝地が広がっていたのでしょうね。観音堂から更に上ると、「谷内六郎画伯写生の地」と記された石標が立てられているの。その方面に疎いξ^_^ξはその名も知らずにいたのですが、調べてみると、画伯は昭和31年(1956)の創刊時より【週刊新潮】の表紙絵を描いてきた画家と知ったの。画伯の名は知らなくとも【週刊新潮】の表紙絵を通じて、ほのぼのとした画風に接して来た方も多いのではないかしら。

【週刊新潮】は明日発売されま〜す。≪ 懐かしいわね。ξ^_^ξ

景観 画伯の数ある作品群の中でも昭和19年(1944)に発表した【上総御宿】はこの地からの展望をもとにして描いた作品と云われ、石標はそのことを指しているのね。画伯は幼少時より喘息を患い、この御宿に度々療養に訪ね来ていたようで、初期の作品に御宿の景観をモチーフにした作品が多いのも頷けるわね。左掲はその写生地からの現在の展望ですが、残念ながらこれではちょっと絵筆を持とうと云う気にはならないかも知れないわね。明治のみならず、昭和もまた遠くになりにけり−と云ったところかしら。

三峯神社 写生地から更に石段を登ると山頂には三峯神社の小さなお社が建てられていましたが、最明寺の境内地にあって最も見晴らしの良い展望地になっているの。それもそのハズ、先程紹介した夕影の松が嘗て枝を広げていたのがこの山頂なの。【房総志料続編】には「山の峯に老松並び繁り」と記されることから夕影の松は複数からなり、それぞれが趣を変えて長閑な漁村の景観に風情を添えていたようね。

22. JR御宿駅 おんじゅくえき 16:29着

クアライフ御宿

最明寺の拝観を最後に御宿の散策を終えましたが、日が陰る迄には今少しの時間があり、さりとて上り列車に乗り込むには未だ早く、折角のお休みをフルに楽しみたいわ−と云うあなたには駅から歩いて6分足らずのところにある 御宿の湯・クアハウス での日帰り入浴がお薦めよ。クアライフ御宿自体は会員制のリゾートマンションなのですが、1Fにあるクアハウスは一般の方でも ¥1,000 のビジター料金で入浴OKなの。泉質は炭酸水素塩泉で、房総では珍しい天然温泉。コーヒー色した湯は魔法のお湯でもあるの。と云うのも歩き疲れた身体を湯に沈めると忽ちの内にお肌がすべすべになるの。何でもこの茶褐色の温泉はとろみの湯全国第2位のお墨付きだそうよ。

施設内には男女別にそれぞれ歩行浴や寝湯など7つの異なる浴槽があるのですが、ξ^_^ξの一番のお気に入りはジェット水流で全身のマッサージが出来る圧注浴。肩こりがひどくて−と云うあなたにはピンポイントの打たせ湯がお薦めよ。日頃の疲れを癒しながらお肌もスベスベになれるなんてうれしい温泉ね。加えてクアライフ御宿には磯料理・海幸も併設されているので入浴後の食事も出来ちゃうの。でも、お休みの時もあるみたいなので、その時は歩いて1分足らずのところにある前述の たなか寿司 さんへいらして下さいね(笑)。但し、リラックスしすぎて帰りの上り列車にだけは呉々も乗り遅れないようにね。特急の最終上り列車は御宿発 20:14 ( ′16.09 現在 ) よ。

















御宿は月の沙漠記念像を目当てに一度訪ねたことがあるのですが、当時はその背景も知らずに記念写真に収めただけで良しとしていたの。メキシコ塔に足を向けた訳でもなく、当然ですがドン・ロドリゴの海難事故のことも知らずにいたの。けれど、歴史を紐解けば月の沙漠記念像には若き加藤まさを氏と地元青年との時を超えた友情があり、田尻海岸の砂浜に降り立てばおそらく初めて見たであろう異邦人の出で立ちに怯むことなく身を挺して救援・介護に当たった村人達の姿も見えてくるの。残念ながら白砂青松の景勝地は姿形を変えてしまいましたが、人々の温もりだけは今に息づいているの。その温もりに触れたとき、自分もまた少しだけ優しくなれたような気がするの。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説歴史散歩事典
東京堂出版社刊 大野達之助編 日本仏教史辞典
東京堂出版社刊 朝倉治彦 井之口章次 岡野弘彦 松前健 共編 神話伝説辞典
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
平凡社刊 斎藤月岑著 金子光晴校訂 増訂 武江年表
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
国書刊行会刊 川名登編著 千葉県の歴史100話
房総叢書刊行会 改訂 房総叢書 第三輯
山と渓谷社刊 歩く地図SC 房総・筑波・常磐
山と渓谷社刊 新版 千葉さわやか散歩
吉川弘文館刊 佐和隆研編 仏像案内
月の沙漠記念館刊 加藤まさを抒情詩画集
御宿町歴史民俗資料館で頂いた関係資料

Special Thanks
【千葉県夷隅郡誌】については下記のサイトを参照させて頂きました。
千葉県立図書館 〜 資料の森(電子図書館)






どこにもいけないわ
Copyright by myluxurynight.com 2002-2023. All rights reserved.