染谷しょうぶ園で花菖蒲を観賞したところで帰路につきましたが、帰宅時間とするには大分余裕がありましたので大宮駅に向かう途中でバスを降りて氷川神社に寄り道してみたの。大宮と云えば、関東に300社近くあると云う氷川神社の総社、大宮氷川神社のお膝元よね。尚、掲載する画像は幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。
1. 氷川参道BS ひかわさんどう 13:05着発
氷川神社 所在地 大宮市(現:さいたま市)高鼻町4-1-1
※ 衆知の通り−と云われても(笑)。何でも、この氷川神社を「大いなる宮居」と称えたことに由来するのだとか。おっきなお宮があるけん、大宮じゃき、何ぞ文句ばあっとね?−と云ったところね。
その後、聖武天皇(724-749)のとき「武蔵国一の宮」と定められ、ついで称徳天皇の天平神護2年(766)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。更に醍醐天皇の延長5年(927)の「延喜式神明帳」には、名神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。この他、鎌倉時代には、治承4年(1180)に源頼朝によって社殿の再建と社領3,000貫が 寄進されたと云われ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後、江戸時代の慶長9年(1604)には、徳川氏より社領300石が寄進され、また、文禄5年(1596)と寛文7年(1667)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。
その後、明治元年(1868)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定められ、明治天皇自ら親拝になった。同4年官幣大社となり、同15年に本殿・拝殿などを改造し、更に昭和15年に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の景観となっている。祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命。例大祭は8月1日。その他神事の中で特に有名なのが12月10日の大湯祭である。昭和60年(1985)3月 埼玉県・大宮市
2. 氷川神社 ひかわじんじゃ 13:29着 13:51発
明治の御代に至っては明治元年(1868)都を東京に遷され当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり天皇御親ら祭儀を執り行われました。 次いで明治4年(1871)には官幣大社に列せられました。昭和9年(1934)昭和天皇御親拝、昭和38年(1963)今上陛下が皇太子時に御参拝になられ、昭和42年(1967)10月、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われ社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、10月23日昭和天皇・皇后両陛下御揃いで親しく御参拝になられました。昭和62年(1987)7月には天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)が御参拝になられました。
荒脛巾社にしてもおかしな名よね。
But ここでは深追いせずに止めておきますね。
その門客人神社の祭神ですが、現在は足摩乳命・手摩乳命の二柱を充てているの。二神は神さまというよりは、八岐の大蛇神話に登場する奇稲田姫の両親としての方が知られているのではないかしら?氷川神社の氷川にしても、神話にも出てくる斐伊川に由来するとの説があるみたいね。その氷川神社の祭神は須佐之男命(素戔嗚尊)・稲田姫命・大己貴命の三柱ですが、大蛇退治をした素戔嗚尊が稲田姫と結ばれて産まれたのが大己貴命よね。大己貴命と云うので分からないかも知れませんが、大国主命(おおくにぬしのみこと)のことなの。それなら皆さんもよく御存知よね。
玉砂利が敷き詰められた参道を進むと赤く染められた神橋が見えて来るの。
視線の先には同じく朱色の楼門が木々の間から顔を覗かせてくれるの。
季節毎の開閉門時刻が案内されているので、号鼓は時刻を告げるものではなくて、開閉門時間の合図みたいね。やはり、時間の数だけ叩くのかしら?だとしら30分はどうするの?
訪ねたときには舞殿&拝殿の右手では白布に囲まれて何やら工事が行われていたのですが、縄文中期から晩期にかけての遺跡があり、社殿の整備事業に先立ち、遺跡の発掘調査をしていたの。そんなに昔からこの地に人が定住していたとは思いもしませんでしたが、縄文期と云えば未だ稲作も行われていない時代よね。縄文人達はここでどんな暮らしをしていたのかしら。今と違い、彼ら縄文人達の狩猟生活を支えるに足る豊かな自然が広がっていたのは間違いなさそうだけど。
摂社が二社並び建ちますが、左側が話題(笑)の門客人神社で、右側は大己貴命(大国主命)と少彦名命を祀る御嶽(みたけ)神社になるの。境内摂社の中ではこの門客人神社が本殿に一番近い位置に鎮座することから、一応は在地の神にも敬意を表していると云ったところかしら。その門客人神社と拝殿・本殿に挟まれて縄文遺跡があると云うのも面白い取り合わせよね。
3. 大宮公園 おおみやこうえん 13:54着 15:40発
氷川神社の拝観を終えても未だ時間の余裕がありましたので大宮公園へと足を延ばしてみたの。と云っても地続きなのですが。それもそのハズ、明治17年(1884)に氷川神社の社殿背後の境内地約16万坪が大宮市に寄附され、それが大宮公園の元になっているの。それが今では第二、第三公園が拡張され、その面積も約68haにも及ぶと云うの。But 余りにも広すぎてピンと来ないわね。今回は時間潰しにぶらりと立ち寄ってみただけですので、大宮公園の詳しい案内などは他のサイトを御参照下さいね。
自由広場の一角には樹齢120年のしだれ桜が植樹されていたの。大宮公園は明治18年(1885)埼玉県最初の公園として開園以来サクラの名所として親しまれ、現在では日本さくらの名所100選の一つとなっている。しかし大宮公園の顔と云えるサクラも老木が多くなりつつある。そこでこのシダレザクラは、樹木活性化事業の一環として、平成5年(1993)に今後もサクラを健康な姿で後世に残すべく、そのシンボルとして植えたものである−と案内されていましたが、桜に限らず、多くの緑が恙なく次世代へと継承されるよう願いたいものね。
自由広場を抜けたところにあるのが舟遊池。今では湖面にその姿を見ることもありませんが、その名からすると嘗てはボートを浮かべて遊ぶことも出来たのかも知れないわね。ここでは池畔に設けられたベンチで暫時の休憩タイム。街中にいることを忘れてしまいそうね。今回の散策もこれにて THE END よ。休みすぎてお家に帰るのが億劫にならない内に休み時間を切り上げて帰宅の途に・・・
4. JR大宮駅 おおみやえき
染谷しょうぶ園で花菖蒲を見終えた後にぶらりと立ち寄ってみた大宮氷川神社ですが、埼玉県や東京都など、荒川流域を中心にして300社近くあると云う氷川神社の総社であることは知っていたのですが、境内には縄文時代の遺跡があるなど、古くから人々が定住し、一つの文化圏が形成されていて、それらの歴史的背景を元に創建されたことが窺えたの。現在では長く続く参道に嘗ての面影を残すのみとなっていますが、大宮第一公園は明治期に旧大宮市に譲渡される前までは氷川神社の境内地だったと云うのですから、広大な敷地を有して多くの参詣者を集めていたであろう当時の隆盛が偲ばれるお話よね。But 境内地が狭められたとは云え、武蔵国一之宮としての御神徳は今も変わらないハズよ。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
TOP | INDEX | どこにもいけないわ |