≡☆ 大宮氷川神社 ☆≡
2012/06/14

染谷しょうぶ園で花菖蒲を観賞したところで帰路につきましたが、帰宅時間とするには大分余裕がありましたので大宮駅に向かう途中でバスを降りて氷川神社に寄り道してみたの。大宮と云えば、関東に300社近くあると云う氷川神社の総社、大宮氷川神社のお膝元よね。尚、掲載する画像は幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

氷川神社〜大宮公園

1. 氷川参道BS ひかわさんどう 13:05着発

埼玉県を中心に、都内にも多く鎮座する氷川神社の総社が大宮氷川神社ですが、さすがは元武蔵国一之宮ね。欅並木の立派な参道が延々と続くの。歩き出すときに気付いたのですが、参道は更に南側にも続いていたの。調べてみると一の鳥居はさいたま新都心駅近くにあり、参道の総延長は2kmにも及ぶと云うのですから驚きよね。But 南側の参道は歩道もあるけど車道(!)になっていると云うので、BSから北側の参道を歩くだけで充分かも知れないわね。先づは参拝の前にその参道に立てられていた案内板に記されていた氷川神社の略縁起から紹介しますね。

氷川神社 所在地 大宮市(現:さいたま市)高鼻町4-1-1
氷川神社は、社記に依ると第5代孝昭天皇の3年(BC477)4月未の日の創立と伝えられる。当神社は、古くから歴朝や武将の尊崇を集めた由緒ある大社としてその歴史を誇っており、大宮の地名もこの氷川神社に由来することは衆知の通り※である。古くは景行天皇(71-130)のとき、日本武尊が東征の折当地に足をとめて祈願され、また成務天皇(131-190)のとき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引き連れてこの地に移住し、氷川神社を奉崇したと伝えられる。

※ 衆知の通り−と云われても(笑)。何でも、この氷川神社を「大いなる宮居」と称えたことに由来するのだとか。おっきなお宮があるけん、大宮じゃき、何ぞ文句ばあっとね?−と云ったところね。

その後、聖武天皇(724-749)のとき「武蔵国一の宮」と定められ、ついで称徳天皇の天平神護2年(766)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。更に醍醐天皇の延長5年(927)の「延喜式神明帳」には、名神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。この他、鎌倉時代には、治承4年(1180)に源頼朝によって社殿の再建と社領3,000貫が 寄進されたと云われ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後、江戸時代の慶長9年(1604)には、徳川氏より社領300石が寄進され、また、文禄5年(1596)と寛文7年(1667)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。

その後、明治元年(1868)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定められ、明治天皇自ら親拝になった。同4年官幣大社となり、同15年に本殿・拝殿などを改造し、更に昭和15年に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の景観となっている。祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命。例大祭は8月1日。その他神事の中で特に有名なのが12月10日の大湯祭である。昭和60年(1985)3月 埼玉県・大宮市

2. 氷川神社 ひかわじんじゃ 13:29着 13:51発

〔 由緒 〕氷川神社は今から凡そ2,000有余年前、第5代孝昭天皇の御代3年4月未の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、 成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り、又臨時祭にも奉幣に預っています。武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し、社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。

明治の御代に至っては明治元年(1868)都を東京に遷され当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり天皇御親ら祭儀を執り行われました。 次いで明治4年(1871)には官幣大社に列せられました。昭和9年(1934)昭和天皇御親拝、昭和38年(1963)今上陛下が皇太子時に御参拝になられ、昭和42年(1967)10月、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われ社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、10月23日昭和天皇・皇后両陛下御揃いで親しく御参拝になられました。昭和62年(1987)7月には天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)が御参拝になられました。

門客人神社
足摩乳命 あしなづちのみこと 手摩乳命 てなづちのみこと
天津神社
少彦名命 すくなひこのみこと
宗像神社
多起理比売命 たぎりひめのみこと 市寸島比売命 いちきしまひめのみこと
田寸津比売命 たぎつひめのみこと
天満神社
菅原道真公
松尾神社
大山咋命 おおやまくいのみこと
御嶽神社
大己貴命 おおなむちのみこと 少彦名命 すくなひこのみこと
稲荷神社
倉稲魂命 うかのみたまのみこと

山祇神社
大山祇命 おおやまづみのみこと
石上神社
布都御魂命 ふつのみたまのみこと
愛宕神社
迦具土命 かぐつちのみこと
雷神社
大雷命 おおいかづちのみこと
住吉神社
底筒男命 そこつつのおのみこと 中筒男命 なかつつのおのみこと
上筒男命 うわつつのおのみこと
神明神社
天照大御神 あまてらすおおみかみ

境内案内図に付記されていた由来記と境内社を紹介してみましたが、冒頭に挙げられている門客人(もんきゃくじん)神社とはおかしな名ね。元々は荒脛巾(あらはばき)社と呼ばれていて、在地の産土神が祀られていたみたいね(他にも諸説あり)。産土はうぶすなと訓み、うぶは産なり則ち土なり−と云うことで、生まれた土地に宿る神さまのことなの。新たに武蔵国造となった兄多毛比命が出雲から一族郎党を引き連れて移住して来たことから、守護神としての地位も出雲の神々に奪われてしまったと云うところかしら。なので、本来なら出雲の神々こそ客人神なのですが、主(あるじ)が変わってしまっては仕方ないわね。

荒脛巾社にしてもおかしな名よね。
But ここでは深追いせずに止めておきますね。

その門客人神社の祭神ですが、現在は足摩乳命・手摩乳命の二柱を充てているの。二神は神さまというよりは、八岐の大蛇神話に登場する奇稲田姫の両親としての方が知られているのではないかしら?氷川神社の氷川にしても、神話にも出てくる斐伊川に由来するとの説があるみたいね。その氷川神社の祭神は須佐之男命(素戔嗚尊)・稲田姫命・大己貴命の三柱ですが、大蛇退治をした素戔嗚尊が稲田姫と結ばれて産まれたのが大己貴命よね。大己貴命と云うので分からないかも知れませんが、大国主命(おおくにぬしのみこと)のことなの。それなら皆さんもよく御存知よね。

玉砂利が敷き詰められた参道を進むと赤く染められた神橋が見えて来るの。
視線の先には同じく朱色の楼門が木々の間から顔を覗かせてくれるの。

季節毎の開閉門時刻が案内されているので、号鼓は時刻を告げるものではなくて、開閉門時間の合図みたいね。やはり、時間の数だけ叩くのかしら?だとしら30分はどうするの?

春秋期( 3・ 4・ 9・10月)am5:30-pm5:30
夏    期( 5・ 6・ 7・  8月)am5:00-pm6:00
冬    期(11・12・ 1・ 2月)am6:00-pm4:30
号鼓につき参拝者は太鼓をたたかないで下さい。

訪ねたときには舞殿&拝殿の右手では白布に囲まれて何やら工事が行われていたのですが、縄文中期から晩期にかけての遺跡があり、社殿の整備事業に先立ち、遺跡の発掘調査をしていたの。そんなに昔からこの地に人が定住していたとは思いもしませんでしたが、縄文期と云えば未だ稲作も行われていない時代よね。縄文人達はここでどんな暮らしをしていたのかしら。今と違い、彼ら縄文人達の狩猟生活を支えるに足る豊かな自然が広がっていたのは間違いなさそうだけど。

摂社が二社並び建ちますが、左側が話題(笑)の門客人神社で、右側は大己貴命(大国主命)と少彦名命を祀る御嶽(みたけ)神社になるの。境内摂社の中ではこの門客人神社が本殿に一番近い位置に鎮座することから、一応は在地の神にも敬意を表していると云ったところかしら。その門客人神社と拝殿・本殿に挟まれて縄文遺跡があると云うのも面白い取り合わせよね。

3. 大宮公園 おおみやこうえん 13:54着 15:40発

氷川神社の拝観を終えても未だ時間の余裕がありましたので大宮公園へと足を延ばしてみたの。と云っても地続きなのですが。それもそのハズ、明治17年(1884)に氷川神社の社殿背後の境内地約16万坪が大宮市に寄附され、それが大宮公園の元になっているの。それが今では第二、第三公園が拡張され、その面積も約68haにも及ぶと云うの。But 余りにも広すぎてピンと来ないわね。今回は時間潰しにぶらりと立ち寄ってみただけですので、大宮公園の詳しい案内などは他のサイトを御参照下さいね。

日本庭園エリアにある池では鯉が泳いでいたのですが、その鯉は唯の鯉ではなさそうよ。説明には「この池のコイは、埼玉県の水産試験場(現・農林総合研究センター水産支所)が、昭和57年(1982)にインドネシアのヒレナガゴイと埼玉県のニシキゴイを交配させて作り出した品種で、皇居二の丸の池にも放流されております。本県ゆかりのヒレナガニシキゴイです」とあり、その特徴は尾びれや背びれ、胸びれが普通の鯉よりも1.5倍ほど長いことだそうよ。But 違法に持ち込まれた外来種が在来種と交雑して生態系を壊すなどの事例が多く聞かれる中で、外国産品種と人工交配させたものを放流して良いものなのかしらね。一方で駆除しておきながら他方で放流とは。目の前を泳ぐヒレナガニシキゴイには何の罪もないけれど・・・

自由広場の一角には樹齢120年のしだれ桜が植樹されていたの。大宮公園は明治18年(1885)埼玉県最初の公園として開園以来サクラの名所として親しまれ、現在では日本さくらの名所100選の一つとなっている。しかし大宮公園の顔と云えるサクラも老木が多くなりつつある。そこでこのシダレザクラは、樹木活性化事業の一環として、平成5年(1993)に今後もサクラを健康な姿で後世に残すべく、そのシンボルとして植えたものである−と案内されていましたが、桜に限らず、多くの緑が恙なく次世代へと継承されるよう願いたいものね。

自由広場を抜けたところにあるのが舟遊池。今では湖面にその姿を見ることもありませんが、その名からすると嘗てはボートを浮かべて遊ぶことも出来たのかも知れないわね。ここでは池畔に設けられたベンチで暫時の休憩タイム。街中にいることを忘れてしまいそうね。今回の散策もこれにて THE END よ。休みすぎてお家に帰るのが億劫にならない内に休み時間を切り上げて帰宅の途に・・・

4. JR大宮駅 おおみやえき

















染谷しょうぶ園で花菖蒲を見終えた後にぶらりと立ち寄ってみた大宮氷川神社ですが、埼玉県や東京都など、荒川流域を中心にして300社近くあると云う氷川神社の総社であることは知っていたのですが、境内には縄文時代の遺跡があるなど、古くから人々が定住し、一つの文化圏が形成されていて、それらの歴史的背景を元に創建されたことが窺えたの。現在では長く続く参道に嘗ての面影を残すのみとなっていますが、大宮第一公園は明治期に旧大宮市に譲渡される前までは氷川神社の境内地だったと云うのですから、広大な敷地を有して多くの参詣者を集めていたであろう当時の隆盛が偲ばれるお話よね。But 境内地が狭められたとは云え、武蔵国一之宮としての御神徳は今も変わらないハズよ。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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どこにもいけないわ