今回の散策ではあじさい山公園を皮切りに、龍穏寺まで足を伸ばしてみましたが、途中には普通の方なら絶対に足を向けないような(笑)見処もあり、訪ねてみたの。この頁を御覧になり、追体験してみたいと思われる方が、中にはいらっしゃるかも知れませんが、感激するか、がっかりするかは自己責任でお願いしますね。掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 越生駅(JR八高線・東武越生線) おごせえき
2. 麦原入口BS むぎはらいりぐち
これから訪ねるあじさい山公園ですが、公園とあるので紫陽花が咲いていなくても何かあるわよ、きっと−と、季節外れに訪ねてみたことがあるのですが、ものの見事に何も無かったの(笑)。秋口のことでしたが、それでも狂い咲きの紫陽花が一輪、二輪咲いてはいたの。でも、それを以てあじさい山公園を観たことにはならないわね。と云うことで再チャレンジしましたので、今回の散策のご案内もまた、季節がごちゃ混ぜなの。御了承下さいね。
麦原入口BSからあじさい山公園へは歩くだけでも小一時間(実際の歩行距離は3Km前後よ)掛かるの。
写真を撮りながら歩いたりすると、とても一時間では無理なので、余裕を持ってお出掛け下さいね。
3. 麦原川弁財天 むぎはらがわべんざいてん
そのせいもあり、ファイトプラズマと云う細菌が引き起こすと考えられてはいるのですが、伝染などの詳しいメカニズムは未だ分かっていないの。現在のところ、有効な治療法も見つからずにいることから、感染の拡大を防止するためには兎に角発症してしまった紫陽花を処分するしかないみたいね。訪ねた時には町の職員と思しき方の姿が園内にあり−葉化病対策実証 「○×△■」散布試験中−の表示が付された紫陽花の株もありましたが、是非、効果をあげて欲しいものよね。案内には「現在は地元有志の地域づくり麦原部会と町があじさい山公園再生実行委員会を結成し、地元住民と共にあじさいの植え替えなどの作業を行っている。アジサイ再生の募金に皆様のご協力をお願い申し上げます。再生実行委員会一同」ともありました。脳天気な旅人のξ^_^ξに出来ることと云えば、僅かな募金でしかないのですが。
園内の様子を紹介しますが、お話ししたことを踏まえた上で御覧下さいね。御覧になりたい方は左掲の画像をクリックして下さいね。全部で18枚ほどアップしてあります。見晴台で小休止していた時に、紫陽花が咲き乱れていた頃に訪ねて来たことがあると云う方にお合いしましたが、「7,8年前だったか、その時は紫陽花で下草なんか見えなかったよ。山全体が紫陽花の花で埋まり、それはみごとなもんだったよ」と話してくれました。関係者の方々の努力が一日でも早く報われますように。
園内にあった説明では、紫陽花は「日本最古の手鞠花。いつからあったかは不明だが、室町期頃より一般化したと思われる。葉には光沢があり、花は大きく、遅咲き。濃い色は出ないがさまざまな色合いに変化するのでナナヘンゲとも呼ばれた」とあるの。手鞠花とは可愛らしい別称ですが、小さな花が丸く集まって咲く姿に由来し、紫陽花は、集+真+藍(あづ+さ+あい)から転訛したもので、藍色の花が集まり咲く様子から名付けられたものだとか。因みに、花言葉は 花言葉事典 に依ると、移り気・心変わり−だそうよ。
エ〜ッ、それって、もしかして、山の中には猪がいる!と云うことよね。
目の前に急に猪が現れたりしたらどうしようかしら?辺りにひとけはないし(笑)。
分岐路から数10mのところに麦原川に架かる下河原橋があるのですが、欄干には何故か七福神の姿があるの。オマケに七福橋と記した木札まで添えられていましたが、どんな由来から造られたものかしら?確かに、越生には「越生七福神めぐり」があるので、決して七福神と無関係ではないのですが、人知れぬ(笑)こんな場所に、なぜ全神集合なの?折角ですので、下河原橋の七福神を一神ずつ収めて来ましたので、宜しければお参り下さいね(笑)。七福神めぐりをされたい方は左掲の画像をクリックよ。
途中からかなり辛い上り坂が続きますが、この分岐路まで来るとその坂道も小休止。ここでは道標の左手に続く道を進んで下さいね。道標の更に左手からは御覧の景観が広がりますが、谷を隔てた反対側の山の斜面には乗馬クラブがあるの。これから立ち寄る予定でいる山枝庵跡は、どうやらその背後の山中にあると云うことのようなの。まさか獣道を歩けとは云わないわよね(笑)。
代官屋敷とあったので多少の期待はしていたのですが、拍子抜けさせられた−と云うのが正直な感想ね。確かに大きなお家であることには違いないのですが、まさかトタン屋根のお屋敷だとは思ってもみなかったの。掲示されていた案内文を転載してみますが、住所が記されていたの。現在はどなたも住んではいらっしゃらないのですが、ハガキを出したら郵便屋さんは届けてくれるのかしら?(笑)コラコラ、おちょくってはいかんぜよ。
〔 戸神の代官屋敷 〕 越生町大字龍ヶ谷字戸神120番地
ここは龍穏寺の寺代官を務めていた宮崎家の屋敷跡である。室町時代の名将、太田道真・道灌父子の中興になる龍穏寺は江戸時代下野大中寺、下総総寧寺と共に幕府から関三刹に任ぜられ、全国の曹洞宗寺院を統制していった。当時の龍ヶ谷村は全村が龍穏寺の所領で、江戸詰の住職に替わって寺領を差配し、名主を世襲していったのが宮崎家である。母屋は桁行十間、梁行四間半で、建坪は45坪以上ある。正面に庭園を臨む式台を構えた玄関が権勢をふるった「戸神のお代官」の往時を偲ばせる。また、大黒柱には慶応2年(1866)に起きた武州一揆(名栗騒動)の際につけられた傷跡が残っている。平成18年(2006)12月20日 越生町教育委員会
当時の龍ヶ谷村は龍穏寺の寺領だったことから、年貢も全て龍穏寺に納められていたの。説明には寺代官とあるのですが、実態は「名主」と何等変わらないの。唯一の違いにして大きな違いは、普通の「名主」が幕府側領主から割り当てされて年貢を徴集していたのに対し、寺代官の宮崎家では自らが割り当ての采配を振るう立場にあったことなの。代官の名称にしても自称代官で、どちらかと云うと、龍穏寺の代理人の意なの。そうとは知らずに武家屋敷、或いはそれに準じた建物を勝手に想像したξ^_^ξがいけなかったわね。外観はさておき、確かに代官屋敷には違いなかったけど。
太田道灌生地 自得軒砦跡(三枝庵)永享2年(1430)の頃、太田道真(道灌の父)は扇谷上杉持朝の執事として20歳の頃、この龍ヶ谷山中に龍穏寺を建立し、小さな砦を築き、自得軒と名付けた。道灌は永享4年(1432)にこの三枝庵に生れた。当時は毛呂氏、越生氏等地方豪族の残存勢力があり、若年の道真に従うことを嫌ったので、この奥深い山中に砦を築き防衛したものと思われ、東西350間南北400間程の三段構えで、大規模にして且つ要塞堅固な砦である。後、道灌は江戸城を築き、父子共に名声上がり、地方豪族も道真の配下に属し、長禄3年(1459)51歳の頃、自得軒と呼ばれる小杉の郷に下り、ここに居館を築き隠居し明応元年(1492)2月2日82歳の生涯を閉じた。龍穏寺に葬る。法号を自得院殿実慶道真大居士と云う。補:文責の表示は無いの。
説明ではこの山枝庵で道灌が生まれたことになってはいますが、残念ながらそれを裏付けるような史料があるわけでもなく、伝承の域を出ないの。辺りには素石をそのまま利用した供養塔が散在し、寂寥感が漂う一角ですが、ウロウロしていた時に、新しい案内板を見つけたの。内容も異なるので併せて紹介しますね。
山枝(三枝・山芝)庵 【新編武蔵風土記稿】の龍穏寺の項に「寺中三枝庵 門前の小高き所にあり 此所古へ道眞入道が居住せし所ならんといへり」とある。龍ヶ谷の戸神集落の南東正面の山林中、小字「山枝庵」の一帯に何段かにわたって斜面を削った平地がある。一番広い平地は約40m四方で、その下の平地には江戸期の墓石がある。試掘調査で青磁やカワラケ、北宋銭が見つかっていることから中世以降の遺跡であることは確実である。空堀や土塁などの城に伴う遺構は見受けられず、寺院跡である可能性もあるが、秩父往還の要衝をおさえる軍事拠点にしていたと推定される。平成21年(2009)2月吉日 越生町観光協会
【風土記稿】には続けて「太田系圖に 於武州越生 建精舍號龍穩寺 道眞常住越生 明應二年癸丑二月二日卒 八十三歳 號雪山居士とあり 道眞が自得軒のありしは 此所なるべしといへり」とあるのですが、「越生の散策・越生梅林梅まつり」で御案内したように、今では自得軒は小杉の 道真退隠之地 にあったとするのが一般的なの。山枝庵の地形は日常生活を送るには不向きで、普段は小杉に住したと考えるのが妥当よね。越生町教育委員会編【越生の歴史】には「前の谷の道は秩父方面へ抜ける道でもあることから、交通路支配の施設とも考えられるが、軍事施設であったとしても防衛のための一時的な駐屯施設であったろう。日常的には龍穏寺の寺庵として使用され、非常の際には道真に指揮された軍勢が駐屯する場合もあったかも知れない」とあるの。
記述に際しては越生町教育委員会編【越生の歴史】と共に、毛呂山郷土史研究会発行【あゆみ第32号】に所収される杉田鐘治さんの論考「越生山枝庵砦について」を参照させて頂きました。改めて御礼申し上げます。
山枝庵跡入口からは登り道が続き、ようやく登りきったと思ったら今度はジェットコースター並みの急な下り坂よ。嘗ては秩父方面とを結ぶ往還道として利用されていたとのことですが、当時は当然無舗装で、傾斜も今よりももっときつかったのではないかしら。当時の人達の健脚ぶりが偲ばれる坂道ね。それはさておき、坂道を下るとやがて龍谷川に架かる龍谷橋が見えて来ますが、その先に冠木門がチラリと見えるの。それが龍穏寺参道の入口になるの。その手前には地蔵堂があり、大きなお地蔵さまが立つの。
龍穏寺は永享の頃(1429-41)に将軍・足利義教が上杉持朝に命じて尊氏以来の先祖の冥福と戦乱に果てた人々の霊を弔うために創立したものと云われる。しかし、その後兵火に罹ったので文明4年(1472)に太田道真・道灌父子に依って再び建て直された。天正18年(1590)には豊臣秀吉から御朱印100石を受け、次いで慶長17年(1612)には徳川幕府から曹洞宗の関東三ヶ寺を命ぜられ、国内23ヶ国の曹洞宗の寺院の世話をした。また、江戸に寺地を賜り、住職はそこに常在して公務を勤めたと云う。宝暦2年(1752)に火災により堂塔を焼失し、天保12年(1842)に再建した。しかしながら大正2年(1913)の火災により山門・経蔵・熊野社を残して全焼し、現在ある本堂は戦後再建したものである。昭和58年(1983)3月 埼玉県
今度は龍穏寺の現・住持の方が記す長めの縁起を・・・
龍穏寺はその環境や建物が大本山永平寺に似ていることから小永平寺と云われている。今から凡そ1,300年前、奈良平安時代に山岳仏教として開かれ、山伏や修験道の行者達により保たれていたが、時代の変遷と共に衰微し、永享2年(1430)に至り、足利六代将軍義教が鎌倉時代以後、関東における敵味方の戦死者の菩提を弔うため、関東管領上杉持朝(初代の川越城主)に命じて義教が日頃帰依している無極禅師(児玉党・越生氏出身)を請して開山第一世として関東曹洞宗第一の道場とした。後、うち続く兵乱のため荒廃し、第三世泰叟禅師に至り、太田道真・道灌父子共に義教の意志を継承し、また、日頃より帰依する泰叟和尚のために再建した。以後、天下の鬼道場として一世を風靡し、多くの修行僧の魂胆を寒からしめた。
かかる故に天正18年(1590)豊臣秀吉より100石の御朱印(寺領山林約300町歩、現在の大字龍ヶ谷の全部を含む)の寄進を受け、慶長17年(1612)徳川家康より曹洞宗法度の制定を命ぜられ、関東三大寺、龍穏寺、大中寺(栃木県)、総寧寺(千葉県)の筆頭として活躍し、寛永13年(1636)江戸幕府の寺社奉行諮問席に任ぜられ、格式10万石を以て遇せられた。而して江戸には別邸(現在の東京南麻布イラン大使館)を与えられ、歴代の住職は幕府将軍によって決定せられ、大本山永平寺(福井県)に自動的に昇住した。現在末寺70余ヶ寺全国に拡がっている。
然るに惜しいかな、明治維新の改革に際して寺領は全て没収され、その後の廃仏毀釈令(神仏分離令)にあい、従来の特権は召し上げられ、その上大正2年(1913)諸堂焼失の悲運に遭い、昔日の面影は全く失うに至った。しかも当寺はこのように城主や将軍家に依り保護せられ、修行寺とし大名寺として発展して来たがために当初から檀家は持たなかった。しかし、近年に至ってささやかながらも徐々に復興の兆しが見えつつある昨今であります。嘗て読売新聞埼玉版の【武蔵野は生きている】武者小路実篤監修に左の如く紹介された。「武蔵野のはてる所、太田道灌公静かにねむる」と。道灌は神奈川県伊勢原市糟屋にて父より先立って文明18年(1486)に謀殺されたが、晩年の父・道真に依り当寺に葬られ、風化した五輪の塔となって父・道真の墓と共に武蔵野の風に吹かれています。法名は香月院殿春苑道灌大居士である。龍穏寺64世住職 小林卓苗 謹書
安禅不必須山水 安禅必ずしも山水を須(もち)いず
滅却心頭火自涼 心頭滅却すれば火も自(おのず)から涼し
山門は禅宗では三門が正しい呼称なの。元々の三門は解脱に至る際に潜らなくてはならない空門・無相門・無作門(無願門)の三つの法門(三解脱門)のことで、仏さまが祀られる本堂が涅槃なら、山門も三解脱門になぞらえて三門としたの。因みに、この楼門の2Fには十六羅漢と十二神将が、1F部分には須弥山の四方を守護する持国天(東)・広目天(西)・増長天(南)・多聞天=毘沙門天(北)の四天王が祀られているの。残念ながら登楼も出来なければ、1Fの四天王も暗闇に埋もれ、御尊顔を拝することが出来ないの。
龍穏寺に伝えられる【長昌山龍穏寺境地因縁記】略して【龍穏寺縁起】には
武藏國高麗郡越生の郷 龍穩の境地は初め天臺の山なり 毘廬山大泉と號す
戸神村大佛堂の地に在り 坊地と名づく 三十三間堂の地に在り
則ち本尊釋迦大佛は貞長(定朝)の作なり 敗壞して久しく風雨に打たる
此の地に池あり 大泉と名づく 水清潔にして岩間より湧出す 鯉が池とも云い また篠葉の池とも云ふ
また 百貫關とて 昔門前に百貫の百姓在り また物見石とも云ふ
此の境谷は廣く 則ち堂澤觀音堂の地に在り 補陀岩と名づく 寺在り 靈山と號す
本尊は拈華の釋迦にして 雲慶(運慶)の作なり 昔臨濟宗の僧あり 此の境を開く
表は天臺の山にて 兩家 一山の勤めをなす 羅漢僧とも云い 唐僧とも云ふ
更に遺跡生所を知らず 昔天臺とするは 今の寺光山(慈光山)と傳ふるものなり
釋迦大佛 車に載せて拽けども動かず 今の本尊之なり
是に依りて 寺光山(慈光山)の釋迦大佛は 新たに建立し 之を安置すと云い傳ふるなり
とあるの。嘗てこの地には毘廬山大泉寺(びるさんだいせんじ)と呼ばれる天台宗の寺があり、大仏堂があったことから坊地と呼ばれ、三十三間堂とも呼ばれていた。本尊の釈迦如来像は長く風雨に晒されて朽ち果ててしまった。境内には堂沢観音堂もあり、臨済宗の僧侶が寺を開いたが元は天台宗寺院であることから両派で寺を掌管した。当寺が嘗て天台宗だったことは慈光寺(都幾川町)に伝えられている。本尊の釈迦如来像を車に載せて曳こうとしたがビクともしなかったが、山門に祀られる本尊がそれである。それが為に慈光寺では新しく釈迦如来像を建立しなければならなかったと云い伝えられている−と云うのが大筋ですが、縁起からは、平安・鎌倉期に前龍穏寺とも呼ぶべき寺院が既に存在し、越生郷は慈光寺を中心とする天台宗の勢力圏内に置かれていた様子が見て取れるの。
その泰叟和尚が太田道真・道灌父子と関わりを持つようになった背景も縁起には記されているのですが、ここでは省略させて下さいね。父子の帰依を受けた泰叟和尚は、後に龍穏寺の再興を願い出て、その援助と維持の後盾を得ているの。その再興ですが、縁起には「小山田大泉を龍穩より持ち來たりて殿堂修補を加うるものなり」ともあるので、朽ちかけていた前述の大泉寺を移して大規模な改修と新築を加え、改めて龍穏寺と号したとする方がいいような気もするわね。
龍穩五代雲崗和尚 堂澤の境に居し坐禪し給ふ 蒲團石・屏風岩あり
一夕 愛宕山に登りて龍穩の境を望むに 堅山峨々として峰高く 雲霧朦朧として溪深し
龍湫水碧に 深渕に龍住み 勢い煙を籠めて寒し 人倫更に到らず 去來の路絶えて 行を通ずべきなし
この地に伽藍を建立せば 堂澤の境の十倍に勝べし 然りと雖も 人力の及ぶ處に非ず
嶽神の威力に依りてこの境を創開し 以て伽藍を建立せば 盡未來際に衰敗すること無かるべきか
即ち 信心を勵まして山神に祈誓す 五七日を經ざるに 俄に震動し 雷電して岸は崩れ山は裂け
一夜の内に谷埋まりて 渕の跡は平地の如し 龍は飛びて天に昇り 有間山(有馬山)に至り 大地を成す
今に到るまで 天に雨乞いするに 堅山に登りてこれを祭れば
則ち龍 有馬山より雲霧を拽き來りて 雨を降らすと傳うるなり
その時雲崗和尚 此の地に三陽閣を建て これに居住して 堂澤の境を移し 伽藍成就す 則ち山號を長昌と改む
龍穩榮盛して往古に威を増し 天下の徳を受け 僧録司を蒙る
記述には「堂澤の境を移し 伽藍成就す」とあるので、それまでは堂沢の地に建てられていたと云うことよね。となると、その堂沢がどこなのかが気になりますが、龍ヶ谷に道沢という小字名の地があり、そこに比定されているの。地図を見ると小字と雖も結構広いのでピンポイントでの特定は難しいわね。その道沢には嘗て観音霊場の一つとして堂沢観音が祀られ、堂澤は靜穩の境地にして瑞雲山と名づく 龍瑞あり 鳳瑞あり−と記されるように、昨今話題のパワースポットではないけれど、龍穏寺云々以前から修験者を含め、僧籍にある者を惹き付け魅了する特別な霊場が形成されていたみたいね。
参道の右手には鐘楼があるの。鐘楼に架かる釣鐘とは別に、何故か柱の根元にはもう一つの梵鐘が置かれていたの。実は外し置かれていた銅鐘こそが埼玉県の文化財に指定されるものだったの。先ずはその案内文から紹介しますね。
龍穏寺銅鐘 県指定文化財「種別・種類」有形文化財 工芸品 昭和48年(1973)3月9日指定
左掲がその朝鮮様式の特徴とされる旗挿(はたさし)を備えた龍頭部分だけど、龍の尾がその旗挿に巻きついているの。今思うと反対側から撮してくれば良かったわね。梵鐘にある銘文に依ると、寛文12年(1672)、龍穏寺第25世大了愚門和尚の時に堀親和なる人物の妻・霊台院から新鐘鋳造の為にと金20両が寄進されたの受け、愚門和尚が幾らかを加えて鋳造したものなの。
替わって鐘楼に架けられている梵鐘ですが、書宗院有志一同並びに代表の桑原翆邦氏(故人)の寄進に依り、平成3年(1991)に復元新造されたものなの。銘文には「平成3年10月16日 新鐘復元 昭和63年(1988)5月7日白蟻の被害と突風に煽られ、4本の柱根元より銅鐘と共に倒壊す 銅鐘の損傷甚しく 撞くこと能わず 古鐘は保管し 新鋳復元を発願した 古鐘は宝暦2年(1752)火災 大正2年(1913)火災 昭和18年(1943)戦時供出 昭和63年(1988)倒壊の4回の災難を免れたり 龍穏寺第64世 小林卓苗 謹誌 平成3年(1991)10月16日」とあるの。
左端が龍穏寺の本堂ですが、その本堂に続いて庫裏があるの。「この庫裏は明治初期素朴豪壮に作られた民家で、資金不足のため工事中止され放置されていたのを大正初期に当寺に移築完成した。民家が洗練された美的極致に達したのは明治初期と云う。美しい木目の太い欅の大黒柱を立て、天井に一抱え以上の梁が縦横に連なり、二重の差鴨居梁(一尺以上)を用いた民家の重厚な好みがよく出ている。善男善女の労力奉仕がなければ当寺でも工事中止となったであろう、明治初期民家の遺構を残した重要建築物である」と案内されていましたが、資金不足で頓挫したとは云え、当初はそれなりの算段があってのことでしたでしょうし、何を生業とする方だったのかしら?本堂に向かって左手には水子地蔵が祀られる一角がありますが、その前の石段を登ると太田道真・道灌父子のお墓があるの。
〔 太田道灌公墓 〕 永享4年(1432)龍穏寺領三枝庵(父・太田道真の居城)に生まる。幼名・千代丸、後、雲崗舜徳禅師(龍穏五世)について出家、道灌と号す。「瑞巌主人公」の公案を受け大悟徹底す。長禄元年(1457)江戸城(皇居)を築き、川越城・岩槻城・鉢形城を修築し、野戦に長じ、関東の雄将たり。しかるに惜むべし、文明18年(1486)神奈川伊勢原市にて謀殺される。法名・香月院殿春苑道灌大居士、分骨して当山に葬る。埼玉県教育委員会
左の五輪塔が道真で、右側の五輪塔が道灌のものみたいね。伝承では事件後に道真が道灌の首を引き取り、この龍穏寺に埋葬したとされるの。ですが、道灌のお墓はこの龍穏寺の他にもあり、中でも道灌終焉の地とされる上杉館と至近距離にある上粕屋の洞昌院が最有力候補みたいね。でも、その洞昌院はこの龍穏寺末でもあり、その繋がりからすると分骨も充分考えられるわね。ところで五輪塔に挟まれている二基の墓塔は誰のものなのかしら。一基には花が手向けられてもいるの。銘には寛文七丁未(1667)の年号があるのですが。
紹介した樅の木ですが、倒木の危険性から平成24年(2012)に伐採され、平成25年(2013)に改めて「龍穏寺の着生植物群」が県の天然記念物に指定されたの。But 記述は訪時のままとさせて頂きますので御了承下さいね。
龍穏寺経蔵 一棟 県指定有形文化財「種類」建造物 昭和58年(1983)3月22日指定
〔 経蔵(経堂) 〕 当山56世道海和尚が天保年中(1830-40)に創立。屋根は瓦棒銅板葺き方形で、唐破風をつけ、土蔵造りである。内部は八角形の転輪蔵造りで、鉄眼の黄檗版一切経二千冊七千余巻の経文を納め、中央に傳大士と脇立両童子の三体を、四隅に梵天・帝釈・持国・増長・広目・多聞・密迹・金剛の八代神将を安置す。天井は格天井にして四季の花鳥山水と壁に天女を描き、飛龍は酒井抱一が描けしもの。南北の彫刻は道元禅師が宋国より帰国する時の情景で、関東では成田山、鑁阿寺等にあり、貴重な建造物である。龍穏寺第64世 卓苗代
両者共に、この経蔵は第56世道海和尚が天保年間(1830-40)に建立したもので、天井画の龍は絵師として知られた酒井抱一が描いたものとしているのですが、抱一は文政11年(1828)に没しているので、それだと死後に龍画を描いたことになってしまうわね。思わず日本三大怪談話の乳房榎を思い出してしまいましたが、既に描かれていたものを天井画として利用したと云うことなのかしら、それとも‥‥‥。内部は非公開ですので、ξ^_^ξも実物を見たわけではないのですが、ちょっと気になる矛盾ね。
余談ですが、越生町教育委員会編【越生の歴史】には「五輪塔も道灌とは関係が無く、本来は熊野社に関係するものだったかも知れぬ」とあるの。断定している訳ではないのですが、興味が湧く記述よね。先程道真墓の隣で花を手向けられていた墓塔のことに触れましたが、彫られている仏像の像容は不動明王に似ているの。熊野と云えば熊野修験、修験と云えば不動明王よね。どこかで繋がってくれると面白いんだけど。勝手に話を創るな!と怒られそうね。
10. 上大満BS かみだいま
龍穏寺を後にして龍谷川沿いの道を下りましたが、30分程で県道R61に出るの。後はT字路にある上大満BSから越生駅行のバス(¥280)に乗車。今回のお散歩はこれにて終了よ。「越生の散策・越生梅林梅まつり」の 建康寺 の項でも紹介しましたが、道灌の詩友にして無二の親友でもあった万里集九は、江戸を離れ越後に向かう途次、この越生に道真を訪ね、共に龍穏寺に詣でているの。そこでは今は亡き道灌の思い出話に花を咲かせたのでしょうね。最後に、集九が道灌没後二七日に寄せた祭文を紹介して散策の余韻としますね。
公は 其の父自得道眞翁と共に汗馬の勞を積み 國家の幹楨として骨を炊ぐに至る 父存して息沒す 眞に哀鐘するところなり 同じき仲秋十日 伏して二七の忌齋にあう 漆桶萬里勤しみて 香華燈燭不腆の儀を具し 敢えて明らかに亡靈に告ぐ その詞に曰く あゝ哀しい哉 〔 中略 〕 この亡極に比すれば海も淺く岱も輕し 忠を泥土に棄て 節を濁清に混じう 訴ふる所無しと雖も 天鑑之明らかなり 機を見ること速に合せば 何とすれど纓を請える 陀羅尼の雨に 妄想聲を洗い 非去非來せば 湛然として圓成し 孫支は百世 松秀でて柏は萌えん 祭具あつからず 獨燼檠を續ぐ 野菓清酌 默して丹誠を告ぐ あゝ哀しい哉 來たり饗けよ
アップダウンを繰り返した今回の散策は、どちらかと云えば、健脚の方向けのお散歩コースになるの。残念ながら、期待して訪ねたあじさい山公園の紫陽花も、今しばらくは様子見が必要ね。龍穏寺へはあじさい街道から枝分かれしたふるさと歩道を辿りましたが、嘗ては越生と秩父を結ぶ往還道路で、往時には多くの人達が行き交う姿があったのでしょうね。龍穏寺のある龍ヶ谷にしても、奈良平安期に既に山岳霊場がつくられ、修験者や修行僧の姿があったとは意外な印象なの。当時の人達から見たら笑われてしまいそうな今回のお散歩ですが、山あいの道には名も知れぬ古人達の足跡が残されていたの。額に汗した分だけ、当時の人々の思いに、少しは寄り添うことが出来たかしら。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
〔 参考文献 〕
東京堂出版社刊 神話伝説辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
越生町教育委員会編 越生叢書・おごせの文化財
越生町教育委員会編 越生の歴史 全巻
山吹の会発行 尾崎孝著 道灌紀行
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