≡☆ 越生の散策・五大尊つつじ公園 ☆≡
 

越生散策の第二弾は法恩寺を振り出しに黒岩、成瀬地区を紹介してみますね。このコースでのお薦めは、やはり五大尊つつじ公園の躑躅よね。掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

法恩寺〜越生神社〜正法寺〜岡崎薬師〜五大尊〜弘法山観世音

1. 越生駅(JR八高線・東武越生線) おごせえき

越生駅

前回の越生の散策・ 山吹の里 に引き続いて五大尊つつじ公園を中心に黒岩・成瀬地区の寺社めぐりを紹介してみますが、御覧頂ければお分かりのように、季節がごちゃ混ぜなの。越生には多くの見処があるのですが、実際に訪ねてみると大きな公孫樹が境内に立っていたりするの。その姿を見ると黄色く色付いた頃に来なければダメよね−などと思ってしまうの。かと云って春夏秋冬を追うだけの余裕は無いのですが、体験した中でのベター・シーズンを以て御案内してみますね。掲載に際しては散策のコースも再編成していますので、実際に歩かれる場合には御注意下さいね。

2. 越生警察署跡 おごせけいさつしょあと

越生警察署跡 越生警察署跡

改札口から正面に続く駅前通を抜けて県道R30に向かうと正面に法恩寺の山門が見えてくるの。歩いても100m足らずよ。その山門の傍らには「越生警察署跡 明治8年(1875)〜明治36年(1903)迄 当時の建物はハイカラな洋館であった」と記す案内標があるの。その越生署も変遷を経て平成21年(2009)には越生町のみならず、坂戸・鶴ヶ島・毛呂山・鳩山各町市を所轄する西入間警察署が越生町大字上野に新装開店(笑)しているの。

3. 松渓山法恩寺 しょうけいざんほうおんじ

法恩寺は、天平10年(738)、僧行基が東国遊行の折、五彩の雲の棚引く所を見つけ、雲の湧き立つ金明、銀明の泉より、大日、釈迦、弥陀、薬師、観音の五体の像を発見し、これを祀った霊場が起こりと伝えられている。その後、幾度か修築を重ねたが、保元、平治の乱(1156-59)の時に寺は荒廃し、名のみ残る有様となったが、文治年間(1185-90)に、時の領主倉田孫四郎基行は自ら出家して、源頼朝に法恩寺再興を願い出た。源頼朝は建久元年(1190)に、越生次郎家行に命じて堂塔を建立させ、八町四方の寺領を賜ると共に源家の繁栄の祈祷所に定めた。後、室町時代になり真言宗の寺となり松渓山と号したと云う。

天正19年(1591)には、徳川家康から寺領20石を賜わり、更に寛永16年(1639)には兵火によって焼失していた客殿を再建して、真義真言十一箇檀林の格式を持つ、密教道場となった。しかし、明治34年(1901)の火災で鐘楼、山門のみ残して焼失してしまったが、大正12年(1923)本堂を建立、昭和に掛けて客殿、庫裏等の諸堂を整えた。昭和58年(1983)3月 埼玉県

当寺の指定文化財
一、釈迦三尊像(国指定重要文化財)
二、高野丹生明神像(同上)
三、法恩寺年譜録(町指定文化財)
四、本尊大日如来像(同上)

法恩寺 に伝えられる【武州入間郡越生郷松渓山報恩寺年譜】略して【法恩寺年譜】には法恩寺の開創縁起が遠大な叙事詩として記されているの。面白いのでその一部を紹介してみますね。文治2年(1186)と云うので平安時代の終わり頃のお話しになるのですが、故あって倉田の地に隠退していた倉田孫四郎基行夫妻の許に一人の修行僧が訪ね来たの。

吾は之れ天竺の僧なり この國に來たりて尚し 今に持する所のものは 大般若經六百軸竝びに五部の大乘經なり 基行これを聞きて夫妻とともに迎禮し 請ひ奉て慇懃に供養す 梵僧問う この郷邊において奇瑞の靈地有るや無きやと 答えて曰く この邑に寺井と云ふ所ありて古井あり かの井より毎夜紫雲出去りて寺山の上に靉靆し 光明燁燿として天を衝く 即ち往て之を見るに 更に別に異なる希有の事なく ただこれのみと云う 梵僧隨喜し 餘もその瑞光を見るに 汝の言の如し 故に遠く訪ね來るなり

即ちかの寺山に登り 今夜その光明を拜し奉らんと欲す これに依りて基行夫妻その後に隨ひて夜光を待つ 亥の時に及んで井の内より光明出る 恰も萬燈の火の如し 梵僧不思議なりと 即ち井の中に入りて底を探るに物有り 出しこれを見るに 大日・釋迦・彌陀・藥師・觀音の五尊なり 基行夫妻梵僧と共に感涙雨をなし 五體を地に投げ 昔を戀い 今を慶び家に歸る事を忘る 基行問う 何の因縁有りて斯の如くの尊像 井の底に沈みて瑞光を現し給ふや 梵僧の曰く 昔行基大士佛法を東國に流布せんと欲し 伽藍を建立し尊像を安置し給ふ この地はこれ東國の佛法最初の靈場なり 然りと雖も時澆季になんなんとして 佛閣絶倒して大悲光を隱し給ふ 悲しむべし哀れむべし ここに汝二人深信至誠にして法縁熟し至れり 之に依りて感應道交して直に瑞光を現す

記述にある「亥の時」とは午後10時の前後1時間を云うの。
良かったわね、丑三つ時ではなくて(笑)。

後に基行夫妻は出家して瑞光坊、妙泉尼の法号を得、梵僧も仏法がこの地に広く根付いたことを見届けると「まさに西天の故郷に歸るべし 虚空を招き寄すに白馬飛來し 即ち聖人を乘せて白雲を踏みて去りぬ その所を知らず往くなり」と去っていったの。それはさておき、夫妻が住していた倉田の地と云うのは現・埼玉県桶川市大字倉田に比定されるのですが、法恩寺とはかなり離れていたりして物語の展開に無理があったりするのは否めないの。かと云って満更創り話しだけでもなさそうよ。

先ず、奇瑞が現れた井戸ですが、寺井の地に金明水・銀明水と呼ばれる井戸が残されているそうよ。そんなことから元法恩寺と呼ぶべき寺院が嘗て建てられていたのでは?と考えられてもいるの。出家した基行が住したのではと思われる瑞光坊も、越生町中央公民館裏の丘陵地に建てられ、妙泉尼が自邸を僧堂に変えたと云う妙泉寺も、現在は法恩寺の墓苑になっている辺りに建てられていたみたいよ。引き続き、今度は源頼朝が登場する場面を紹介してみますね。

大將軍頼朝公當國發赴の時 しばらくの間報恩寺信宿の日 瑞光・妙泉出迎えて請じ奉ること丁寧なり 公 寺院山上の由緒を問う 二人具に述べる事上の如し 將軍御感ありて 八町四方を限り境内となし 吾那領に於て三百町の田畝を以て食邑に封す 便ち永く相違有るべからずの御教書を以て當山に下し置かれる 因みに越生次郎家行に課せて堂塔佛閣建立を委附するの事 まことに慇懃なり 大樹堂山村に遊興し 還御にあたり 美少年有りて御馬の前に進み 報恩寺の門に到る 公之を視て これ何者と問う 童答へて曰く 吾この堂山村の稻荷なり 大君を守護して供奉し來り送ると たちまちに白狐に變じて田中の森に入るなり 將軍奇異の思いをなし給ひ かの森の中において宮社を建て 歩行の稻荷を祠り 便ち呼びて祠歩稻荷大明神と云ふなり この辰 民俗堂山の稻荷と當村の稻荷と諍ひの事有り 同三壬子家行奉行して堂塔伽藍悉く建立し畢はんぬ

記述にある「堂山の稻荷と當村の稻荷と諍ひの事有り」の内容が気になるわね。と云うのも、堂山にある最勝寺もまた、頼朝が創建したものと伝えられているの。その最勝寺の建つ堂山の稲荷なので、両者には何か関係がありそうよね。祠歩稲荷として祀ったまでは良かったものの、逆に揉め事の火種を作ってしまったのかも知れないわね。物語の裏側には頼朝の庇護を求めて綱引きをするお稲荷さんの姿があったりして(笑)。それはさておき、物語を続けますね。

大樹悦喜少なからず 即ち種々の寶物を寄附す 目録に云ふ 〔 中略 〕 右は天下安全金枝玉葉千秋萬歳御祈祷所として附するに御教書を以て添え賜ふなり この時なり 報恩寺の繁鬱 紅日の如く 萬人輻輳すること蜂蟻に過ぎたり これより代々の將軍御祈祷所となし 寄附の牒 御教書數封有るなり その先は法相宗なり 改めて天臺宗となして 持光山にくみすと云々 また 山中に別院五十坊有りて 魏然堂然たること 鳥翼の如く鱗に似たり かの越生次郎家行は兒玉黨の首にして當時聲明天に震う 附するに鞍・鐙竝びに太刀等を以て その武威の情けを標すなり

現在の佇まいからは想像出来ないのですが、山中に別院50坊を数えたと云うのですから凄いわよね。But 猛きひとも遂には滅びぬ−は寺院とて例外ではないの。為政者の後盾を失うとやがて衰微してしまったみたいね。それを今一度蘇らせたのが中興開山とされる栄曇上人。ここまでの御案内をつぶさに読まれた方の中には、法恩寺が報恩寺と記されていることに気付かれた方がいらっしゃるかも知れないわね。法恩寺を号するようになったのは、必ずしも栄曇上人以降とも云い切れないのですが、それまでの報恩寺は法相宗、天台宗と宗派も異なり、前法恩寺とも呼ぶべきものなの。

中開山阿闍梨権大僧都法印栄曇上人大和尚伝【法恩寺年譜】
和尚 字は治部、諱は榮曇 姓は山名 世は英士として軍功の譽れあり 母は田中氏 相州鎌倉の産なり 和尚天性聰敏にして絶倫の智ありて 一を聞いて十を知る 年甫十四にして郷邑の大樂寺榮珍上人に從ひて羅髮をかりめぐりて出家す 上人に師事して 即ち密學を授けらる 日夜孜怠ることなし まことに是龍駒鳳兒なる者なり 遂に祕密の源底を研究し 性相の奧旨を渉獵し 顯密を辨別せずと云ふなし 應永三秋八月入室潅頂して法王の職位を獲て 即ち意教の法流願行の脈水を珍公にくむ 公の命に曰く 汝法器有りて吾に侍するや 年久し 汝の誠心を憐んで毘廬の心印を傳附するなり 佛 これを無上正宗最乘第一義となし 我が先師授與するところの法具・什物等 今ここに給賜して 以て印璽と成すなり 身ここを去りて 武州松溪山に到りて 報恩の大道場を開き 大法輪を轉じ 四來を普化し 佛法を久住せしめよと ここに於いて和尚啼泣し涙を流し作禮して退き去る 五年二月報恩寺に來りて伽藍を巡禮し 泉石に坐禪し三昧に入る 天龍神仙を招きて護法の貴賤を待つ 則ち大道場を開きて上堂し 直に白拂を振りて毘廬の幢旗を樹つ これより佛法再び輝きて 杲日の如し 諸方の龍像蹉跌してことごとく皆頂禮す 俗間稱して末世の弘法大師と云ふなり

記述にもあるように、法恩寺が現在のような寺基を整えたのは室町時代前期の応永年間(1394-1428)のこととされているの。本堂前には「西国八十八霊場御砂場」と記された石碑が建てられ、傍らには何故か梵鐘が剥き出しのままで放置されていましたが、どうしたのかしらね。

弘法大師御聖地回参満願記念 西国八十八霊場御砂場 昭和53年(1978)秋 当山現住 昌琳 代

このお砂場は横浜市の井上 白、桑 代志子夫妻が弘法大師ゆかりの御霊場を五十四泊五日の日時を費やして終始徒歩にて巡拝すること二回。各聖地より本堂前から清石を拝領しては一々至心に般若心経を書染め、この足形の下に奉安したものであります。合掌してお踏み下さる時西国八十八ヶ所各霊場を一度にお参りしたのと同じ悲願が達せられるという有難い功徳があるものであります。ここに霊石並びに建立浄財を賜りましたので、謹んで開眼供養し善業を誌して後世に残します。昭和53年(1978)秋 昌琳 記

4. 越生神社 おごせじんじゃ

次に訪ねたのがこの越生神社ですが、元々この地に鎮座していたのは琴平神社だったみたいね。明治期末に行われた神社合祀政策の煽りを受けて明治42年(1909)に諸社が集められ、越生村からは八幡社と境内末社の日吉・八坂神社の両社が、黒岩村からは八坂神社を始めとして点在していた稲荷社が遷されてきたの。それを機に現在の高取山山麓に社殿を造営し、社号も越生神社と改称したの。八坂神社は祇園社とも呼ばれ、祭神は安倍晴明が崇敬したことでも知られる牛頭天王よね。その祇園社のお祭りが祇園祭。越生まつりはその祇園祭をルーツとするの。

〔 高取山と越生神社 所在地 越生町大字越生 〕  越生神社の奥の院高取山は、戦乱に備えた越生氏の砦跡で、越生氏の館は山麓の越生神社一帯であった。高取山には、今も古木が茂り、二重三重の空堀、土塁が残され、古城の面影を残している。越生神社は、源頼朝の命により法恩寺再興をした越生次郎家行の氏神として祀ったものであるが、社殿は八幡社を中心に明治42年(1909)に造営されたものである。祭礼は、1月7日の初市まつりのほか、7月24,25日の祇園まつりがある。初市まつりは、この辺りで最後の酉の市として参拝者が多勢訪れている。また、祇園まつりには江戸神田祭の流れを汲む山車が引き出され、賑やかに祭が繰り広げられている。昭和58年(1983)3月 埼玉県

一番分が悪いのは琴平神社ね。軒先を貸したはずが、いつの間にか八幡神を始めとしたよそ者に母屋を乗っ取られてしまったと云うところかしら。境内をみても、本社を中心にして左右に小社・摂社末社が建ち並び、加えてどの社に何の神さまが祀られるのかの案内も無く、合祀と云うよりも単なる寄せ集めの印象なの。神さま達も人間側の都合で振り回されて大変ね。

冬支度 冬支度 紅葉 紅葉

5. 大慈山正法寺 だいじさんしょうぼうじ

秋 越生神社を後にして次の正法寺に向かいましたが、冬支度を前にして沿道の木々が秋の彩りを添えてくれました。この後道は二手に分かれますが、右手に折れるとあるのがこれから紹介する正法寺。その創建は鎌倉時代のことで、南北朝期の貞和年間(1345-49)に足利尊氏が中興したと伝えられているの。But 室町期に堂宇を焼失し、後に再建されているの。本尊は南北朝期に造られたと云う木造聖観音菩薩像で、現在は臨済宗建長寺派の寺院。

左掲は正法寺の山門ですが、明治17年(1884)の大火で堂宇を悉く焼失した中で、唯一被災を免れたものだとか。山門をくぐる際には掲げられている扁額に御注目下さいね。正法禅寺とありますが、山岡鉄舟の揮毫だそうよ。嘗て山岡鉄舟もこの正法寺で参禅したことがあるのだとか。その山門をくぐると参道左手に小さなお堂がありますが、中にはお地蔵さまと「入定塔」が祀られているの。

案内板には「代々建長寺の高僧の隠居寺とされ、特に活仏と云って、死期を悟った僧が生きながら食を断ち、仏となる聖地とされた。これを入定と云い、寺域は今も入定場と云う地名になっている。山門の後には、それを物語る入定塔も残され、建長寺の正法寺古図にも記されている」とあるの。嘗ては高僧などが入定すると結縁を求めて人々が参集するなど、死は必ずしも忌み嫌う出来事ではなかったの。宗派の違いはあるものの、弘法大師がそうであるように、この正法寺で入定を果たした高僧達もまた禅定を続けているのかも知れないわね。

本堂へと続く参道を進むと左手に変わった形の石塔が建てられているの。この正法寺では江戸時代から寺子屋が開かれ、明治4年(1871)には越生で初めての学校が開設されているのですが、石碑はその「正法寺の学校」で師匠を務めた正法寺第27世大道碩圓(だいどうせきえん)和尚を顕彰して筆子(生徒)達が建てた寿碑だそうよ。明治10年(1877)に建てられたもので、頭部には「功成累徳禪 大慈寂圓光 永護持正法 教童結良縁」の文字を刻み、台座にはその時の卒業生の名が刻み込まれているの。因みに、寿碑は寿塚(じゅちょう)、寿蔵碑とも呼ばれ、恩師の存命中にその長寿を祝うと共に、その徳を称えて門人や徒弟達が建てたものを云うのだそうよ。

左掲は本尊の聖観音菩薩像が祀られる本堂ですが、左手には閻魔堂があるの。正法寺は越生七福神めぐりの一つで、大黒さまが祀られるのですが、その大黒さまはこの閻魔堂で閻魔大王と同居中みたいよ。残念ながら御尊顔を拝することなく終えていますが、閻魔大王に睨まれていては、大国さまも打ち出の小槌を大きく振り続けなくてはいけないわね、きっと。エッ?閻魔大王は福徳を願い頭を垂れる参詣者の普段の行いを判断して大黒さまに小槌を振らせるかどうかを決めている?(笑)

6. 岡崎薬師 おかざきやくし

越生町立図書館右横の細い道を山側に進むと、突き当たりに建つのがこの岡崎薬師。越生氏は後に成瀬・黒岩・岡崎の三氏を興しますが、岡崎氏の氏祖とされる岡崎有基の館がこの辺りに建てられていたの。その岡崎氏の守り本尊を祀ったのがこの岡崎薬師の始まりなの。現在は越生町役場が至近距離にありますが、当時はこの辺りが岡崎氏の本拠地であり、岡崎村の中心地でもあったの。云うなれば岡崎村一丁目一番地だったわけ。ところでこの岡崎薬師ですが、信徒代表の方が詳細な縁起を掲示して下さっていたので、それを紹介してみますね。〔 一部加筆&体裁変更す 〕

〔 岡崎薬師の由来 〕  平安朝末期から鎌倉初期にかけて、武蔵権守越生次郎家行の一族に越生新大夫有行と云う武士が当地にいた。その子有弘、有頼、有平の三兄弟があり、右馬允有弘は、越生氏を継ぎ、越生四郎有平の子有年は鳴瀬(成瀬)氏を、有光は黒岩氏を、有基は岡崎氏をそれぞれ興した。この岡崎四郎二郎有基が岡崎氏の始祖であり、岡崎薬師参道北側一帯が岡崎氏の館跡である。そして又、この岡崎薬師が、鎌倉、南北朝時代に各地に転戦した越生氏一族の、現存する唯一の遺跡である。承元2年(1208)岡崎四郎二郎有基同所に居宅を構え、一時期守本尊の故を以て此処に安置すと云ふ 其後不明也と雖も寛文8年(1668)仝郡正法寺住職椿山再造す−と【堂庵明細帳】に記述されている。又、同帳に云う本尊薬師如来、堂間口二間奥行二間半、境内地164坪境外所有地4筆、境内337坪、信徒215人(講中を含む)と。

本堂構築物中、須弥壇附近の蛙股、欄間、丸柱の形式からして、室町末期から江戸初期のものと推定出来、昭和初年の県調査の折、本尊の台座は鎌倉期のものと云われたことからして、前記堂庵明細帳の記述は正しく、享保16年(1731)作の厨子からしても、それ以前に堂宇の存在を意味し、元文元年(1736)再造すとあるのは、須弥壇附近を残して本堂外郭を改修したのが事実である。そして、この江戸初期から明治初めの廃仏毀釈の時代に至るまで、陸続として信徒参詣せりと古文書にある通りの、岡崎薬師の最盛期でもあった。

大正期から昭和15年(1940)頃まで、地元の河原区の信徒の多大な努力によって、以前に劣らぬ復興を見たが、昭和17年(1942)3月の法令で地元河原区の信徒の手を離れ、いつしか倒壊寸前までに陥った。昭和58年(1983)正法寺30世住職岩田宗純師の依頼を受け、信徒と相談、平成元年(1990)末、ようやく本来の姿に復元修復するに至った。現在この岡崎薬師を維持する信徒20数名、その浄財による修復である事を付記する次第である。両袖の下しは本堂補強のため 平成2年(1990)2月吉日 岡崎薬師信徒総代 新井正一郎 記(石井明助謹書)

岡崎薬師は「越生秋の七草めぐり」ではフジバカマになっているの。因みに、フジバカマの花ことばは 花言葉事典 に依ると、ためらい・躊躇・優しい思い出−だそうよ。ところで、御存じの方がいらっしゃいましたら教えて頂きたいのですが。岡崎薬師の小径から表通りに出て少し歩いたところで街灯にこの不思議なオブジェが張り付いているのを見つけたの。近付いて良く見ると、セミの背中では妖精(だと思うの)が手を振っているの。辺りを見渡してもそれらしき説明もありませんでしたが、これはいったい、なあ〜に?

7. 五大尊つつじ公園 ごだいそんつつじこうえん

越生小学校を過ぎて山側の斜面にあるのが通称、五大尊。今では植樹された躑躅の方が有名になり、単なる公園の名称と理解されている方も多いみたいね。とは云え、躑躅と五大尊の関係は切っても切れない関係にあるの。折角ですから、ここではその躑躅を交えながら五大尊を紹介してみますが、その躑躅にしても元々は五大尊の境内地に植樹されていたものなの。現在は新たに山の斜面を切り開いて造られた躑躅園を合わせて五大尊つつじ公園として整備されているの。先ずは名称の由来となる五大尊のことから御案内しますね。

この五大尊つつじ公園があるこの辺りは黒岩と呼ばれるの。先程紹介した岡崎薬師の周辺地が岡崎氏の館跡なら、この辺りは黒岩有光が興した黒岩氏(越生氏の分流)の館跡地だと伝えられているの。

五大尊は、正しくは長徳寺と云い、つつじ園は境内に設けられている。ここの五大尊は、広島県厳島、神奈川県蓑毛と共に日本の三霊地に数えられている。五大尊明王とは中央に不動明王を置き、東西南北に降三世・大威徳・軍茶利・金剛夜叉の五体の明王を配したものである。つつじ園は、享保年間(1716-1736)に寺に仕えていた僧の植えたものと伝えられ、多くの種類が植えられたことから、「五色つつじ」と云われている。また、つつじ園の中には、古帳庵鈴木金兵衛の板東、西国、秩父、四国の巡拝碑が建てられている。この巡拝碑は、当時の江戸の豪商達の寄進により建立されたものである。鈴木金兵衛は越生町黒岩の生れで、江戸日本橋小網町で俳諧の宗匠となり、51歳で発願して全国の霊場を巡っている。昭和58年(1983)3月 埼玉県

つつじ園のことには多く触れられているのですが、これでは肝心の長徳寺のことが分からないわよね。But それもそのハズ、調べてみると【新編武蔵風土記稿】にも「長徳寺 臨濟宗 今市村正法寺末 岩溪山と號す 本尊聖觀音 この寺昔は五大尊の堂守なりしが 丈雪と云う僧 ここに住せし時より 一寺となりしとなり」とあるだけで、詳しい開創縁起などは分からないみたいね。五大尊にしても江戸時代初期に長徳寺の境内堂となったものの、明治期にその長徳寺が廃寺になってからは、この黒岩地区の信徒の方々が独自に維持管理されて来たものだそうよ。

石段を登る途中で鎮座していたのがこちらのイナフクミさま。聞き慣れない神名ですが、その正体は荼吉尼天で、群馬県甘楽郡の稲含神社から勧請されたものと考えられ、嘗ては養蚕の守り神として信仰を集めて来たの。土蔵みたいな社殿ですが、元々は黒岩に祀られていた八坂神社の御輿蔵だったものなの。その八坂神社が越生神社に合祀されたのを機に御輿も移したことから御輿蔵が不要になり、イナフクミさまのお住まいへと転用されたと云うわけ。

荼枳尼天は元々はヒンズー教で自在の神通力を持つと云われたダーキニ神 Dakini がそのルーツ。人間の生死を半年前に見抜き、その心臓を喰らう鬼女だったのですが、大黒天に敗れた後は眷属となり、仏教の守護神になったの。その荼吉尼天ですが、仏教に習合されると稲荷神とも習合していくの。

〔 イナフクミ様と咤枳尼尊天 〕  この社はイナフクミ様と呼ばれている。群馬県甘楽郡甘楽町と下仁田町の境に聳える稲含山(標高1,370m)に鎮座する稲含神社は、五穀豊穣と養蚕の神として、古来地元の人々に篤く信仰されている。稲含と云う名は、神社を創建した南天竺(インド)の王女、豊稲田姫が国を追われる際、密かに稲穂を口に含み、我が国に稲作を伝えたことに由来すると云う。イナフクミ様は、いつの世かに稲含神社から、ここ黒岩の五大尊境内に分祀分霊されたものと考えられる。イナフクミ様は、この地一帯の豊蚕を祈願する養蚕農家から広く崇敬されてきた。五月に行われる「つつじ祭り」は、イナフクミ様の縁日が発展し、今日に引き継がれたものである。祭神の咤枳尼(尊)天(荼吉尼天)は、悪鬼が仏道に帰依して改心したとされる古代インド伝来の女神である。咤枳尼天は自在の通力と予知力を持つ存在として、密教や修験道などに取り入れられ、稲荷神とも同一視されるようになった。愛知県豊川市にある妙厳寺の咤枳尼天は、豊川稲荷として全国的に知られている。尚、この建物は、黒岩村の八坂神社(明治41年(1908)、越生神社に合祀)の御輿殿を利用している。平成17年(2005)3月吉日 越生町教育委員会 越生町観光協会 黒岩区

記述では荼吉尼ではなくて咤枳尼天と表記され、「咤」の字にしても本当はウ冠を外した字で記されているの。
残念ながら表示不能ですので、代用文字で御容赦下さいね。

左掲は三峰神社と案内されていますが、三峰神社と云えば埼玉県秩父市三峯に鎮座する三峯神社が総社よね。祭神は伊弉冉尊と伊弉冉尊の二柱で、国家安泰・子孫繁栄・五穀豊穣・家内安全・盗賊除に御利益があり、土木建設関係者などの信仰も厚いと記されているの。二神の元々の本籍地と云うか本現地は淡路島とされ、オノコロジマや、淡路島に始まる大八州を次々に生み出した国生み神話が土木関係者の方々が崇める理由ね。むか〜し「日本列島改造論」を旗印にブルドーザーが日本を縦断して行きましたが、国生み神話はその比ではないわね。一向に上を向かないここ数年来の経済状況では土木関係者ならずとも是非二神にはお力添えを願いたいものよね。

参道を登りきるとこの五大尊堂があるの。本尊は木造五大明王像で、【新編武蔵風土記稿】にも 五大尊 中央は坐像にて長五尺 左右の四躯は立像にて長各二尺二寸 行基の作なりと云ふ とあるように、その像容から平安期末の造立と考えられ、五体揃った明王像としては県内唯一の作例とされているの。平成12年(2000)には埼玉県の有形文化財にも指定されているのですが、残念ながら現在は埼玉県立博物館に寄託されているの。それでは金魚のいない金魚鉢と同じよね。そこで黒岩地区の方々が身銭を切り、新五大尊像を建立して安置しているの。

〔 新五大尊木造五大明王像建立由来 〕  黒岩の通称五大尊に伝わる像は、【新編武蔵風土記稿】に簡単な記述があるものの、それ以前の詳しい伝来は不詳である。五大明王は、不動明王像を中央に、大威徳明王像、軍茶利明王像、左に金剛夜叉明王像、降三世明王像を配した通例の五大明王像であり、所有は黒岩区となっている。制作年代は、作風から平安時代末期のものと考えられ、この時代まで遡る五大明王像は、県内では他に確認されていない。平成12年(2000)3月に県指定文化財として認定され、現在は、埼玉県立博物館に保管されている。五大明王像が修理され、完全な管理体制が整うには、相当な期間と資金が必要であるので、区の皆様に諮った結果、とりあえず新(代理)五大明王像を建立し、新たな信仰の対象とすることが妥当であろうということで、多くの皆様から浄財の寄進を頂き、今回建立の運びとなった。将来、条件が整い、五大明王像を引き取れた折りには、新(代理)五大明王像は、前立仏として安置しようとするものである。平成14年(2002)5月3日 新五大尊木造五大明王像建立委員会

ここで五大明王のことをちらりと御案内しておきますね。仁王経では三宝(仏・法・僧)を敬えば、以下の五菩薩が忿怒の出で立ちをした明王に化身して国を護持すると説かれ、全ての魔障を降伏させることから人々の信仰を集めたの。

不動明王
金剛波羅蜜多菩薩
密教の主尊として御馴染みの不動明王はヒンズー教のシバ神がそのルーツ。仏教に習合されて如来の使者となり、後に大日如来の化身として明王の中でも最高位に位置するようになるの。
降三世明王
金剛手菩薩
人の善心を損なう貪瞋痴(とんしんち)の三界(毒)を調伏する明王で、貪は強欲、瞋は怒り、痴は物事の真理を理解できないこと。無闇に物を欲せず、怒らず、理性を磨くことに専念せよ−というところかしら。
大威徳明王
金剛利菩薩
元々は夜摩を調伏する明王でしたが、世間一切の悪鬼を退治すると信じられるようになったの。闇夜に恐怖を感じてしまうのは今も昔も変わりませんよね。ひょっとしたら痴漢が隠れているかも知れない?ちょっと違ったかしら。
軍荼利明王
金剛宝菩薩
様々な障碍を取り除く明王。因み、に軍荼利(ぐんだり)は甘露を入れた瓶のこと。障魔はその甘露に誘き寄せらてこてんぱんにやつけられてしまうのかも知れませんね。
金剛薬叉明王
金剛薬叉菩薩
欲心など人の汚れた心を食い尽くして真実の悟りに導いてくれる明王。元々古代インド神話では森林の神でもあり、ヒマラヤ山中にあるという天界の財宝を守護する福神のヤクシャ Yaksa が薬叉、夜叉と音訳されたの。妙齢美貌の女神として彫像されたヤクシャが仏教の守護神となり、後に明王として忿怒の形相で描かれたことから悪鬼として人畜を喰らう夜叉になってしまったの。But ここでは叉(二股の金剛杵)の威力を以て薬(癒し)を与えて下さる薬叉のイメージね。

五大尊堂左手には木立に隠れて左掲の宝剣塔が建てられていたの。不動明王の変化身とされる倶利伽羅龍王が巻きついている訳でもないので倶利伽羅剣ではないのですが、宝剣は不動明王の象徴よね。像の多くが憤怒の形相に加えて宝剣(三鈷剣)と火焔を背にした姿で彫像されますが、宝剣と火焔には一切の邪悪と罪障を滅ぼす力があるとされているの。因みに、不動明王の梵名は Acalanatha で、阿遮羅嚢他と音訳されているのですが、元々は不動のものを意味し、そこから不動明王と名付けられたようね。ヒンズー教ではシバ神の異名とされていたのですが、仏教に採り入れられると大日如来の忿怒身として最高の明王に迎えられ、ヒンズー教最強のシバ神が仏教でも最強の守護神として祀られるようになったの。

入園チケット 先程ちらりと触れたように、このつつじ公園は2ブロックからなるの。今迄見てきたのは五大尊境内のつつじ園で、敷地を接して面積が3haにも及ぶもう一つのつつじ園があるの。こちらは新たに造成されたものだけど、つつじ祭の開催期間中に限り入園が有料になるの。と云っても協力金よ。このつつじ園の維持管理などは皆地元の黒岩地区の方々がボランティアでされているみたいね。せめて経費部分については御協力頂けないかしら−と云うことね。

azalea.mp4 左掲の画面左手奥にお揃いのジャンパーを着て係員の方が立ちますが、そこが入口になるの。こちらのつつじ園には何と12種類、約10,000本もの躑躅が植栽されているとのことで、境内側のつつじ園と合わせて関東一と云われているそうよ。ξ^_^ξが訪ねた時は全体的には五分咲きの印象でしたが、それでもこの艶やかさよ。斜面を赤く染め上げる満開時はさぞ圧巻でしょうね。ここでは改めての御案内は不要よね。園内に咲くツツジの様子をスライドに纏めてみましたので御笑覧下さいね。左掲の画像をクリックすると別窓を開きます。 azalea.mp4
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8. 弘法山観世音 こうぼうやまかんぜおん

道順 道順 道順 道順

次に訪ねる弘法山観世音ですが、最初に訪ねたときはその入口が分からずに辺りをウロウロしたの。道を訊ねようにも人通りが無くて。分かってしまえば何のことは無いのですが、県道R30を北に向かい歩くと越生バイパスとの合流点の直ぐ手前に左端の分かれ道があるの。電柱に寄り添い、弘法山観世音入口と刻まれた石柱が立つので見落とさないようにして下さいね。あとは所々に案内があるのでそれを辿りながら歩きます。少しすると御覧の坂道の登り口が見えて来ますので、後は迷わずに直進あるのみよ。

〔 弘法山観世音と弘法山 〕  弘法山は高房山とも云い、以前は山頂に浅間神社、中腹に弘法山観世音、山麓に見正寺があって全山信仰の対象として知られ、特に弘法山観世音が弘法大師の作と伝えられていることから、弘法山とも呼ばれるようになった。弘法山は、越生町周辺ならばどこからでも眺められ、【新編武蔵風土記稿】にも「四邊は松杉生い茂りて 中腹に妙見寺あり 夫より頂までは殊に險阻の山なり 頂に淺間の祠を建て 祠邊よりの眺望最も打ち開けたり 先ず東の方は筑波の山を始めとして 比企、足立、江戸を打ち越えて 遠く房總の山々を見渡し 南は八王子の邊までのあたりに見え 西は秩父ヶ嶽及び比企郡笠山 乳首山など連なり 北は三國峠より信州、越州の高山見えたり」と記され、海抜200m足らずの山にしては異例の扱いを受けている。尚、現在は妙見寺はなく、ここには観音堂が建立されて安産子育の観音様として参拝者が多数訪れている。ここに奉納する縫いぐるみの「乳房の絵馬」は、民俗信仰の上からも注目されている。昭和58年(1983)3月 埼玉県

その妙見寺ですが、【風土記稿】には「眞義眞言宗 上野村醫王寺末 高房山と號す 小杉村天神社應永12年(1405)の棟札の銘に 當社別當高房山禪海 開闢以來威光増益云々と見えたり 高房山は當寺のことならんには舊き寺にて其頃は天神の別當なりしこと知らる 本尊地藏を安ず 客殿の傍らに鐘樓あり 明和元年(1764)鑄造の鐘を懸けおけり 觀音堂 如意輪觀音の坐像 長二尺なるを安ず 弘法大師彫刻なりと云ふ」と記されているの。因みに、記述にある小杉村天神社と云うのは、現在の 梅園神社 のことなの。

参道の石段を登りきると正面に観音堂があるの。掲げられた扁額には高房山とあり、嘗て妙見寺の観音堂だったことの名残りを今に伝えますが、妙見寺文書には「文祿年中(1592-95)に古來より有り來る如意輪觀音堂へ田畑を付け妙見寺を建立云々」とあるので、元々は如意輪観音が祀られていたみたいね。妙見寺は明治初年に廃寺になってしまったのですが、観音堂の方はその後も「弘法山の子育観音」として遠来からも参詣客を集めていたようね。人々は観音さまに掌を合わせると、乳房を象った縫いぐるみや絵馬を奉納してわが子の健やかな成長を祈願したの。現在は越生七福神めぐりの一つとして堂内には弁財天も祀られるの。

境内の一角には最近建てられた延命観音堂があり、今でも信仰を寄せる方々がいらっしゃる証よね。その隣には馬頭観音を祀る観音堂があるのですが、傍らには鐘供養塔があるの。廃寺後も境内には明和元年(1764)の銘を持つ梵鐘が残されていたのですが、第二次世界大戦の時に戦時供出させられてしまったの。諸尊への報恩感謝と共に、これからも変わらぬ加護を求めて鋳造されたであろう梵鐘を、よりによって兵器に作り替えてしまうなんて。決してあってはならないことだけど、そんな時代が二度と来ないようにと切に願う次第よ。合掌

ここで弘法山観世音の秋景色を纏めてお届けしますね。境内には大公孫樹があるのですが、黄色く色付く秋に是非一度訪ねてみて下さいね。因みに、ξ^_^ξが訪ねたのは 2009/12/09 のことですので、秋と云うよりは初冬ね。

9. 諏訪神社 すわじんじゃ

弘法山観世音の案内に「以前は山頂に浅間神社云々」とあったことから、興味を覚えて足を向けてみたのがこれから紹介する諏訪神社。あれ〜変よね、案内には浅間神社とあるのに、道標や鳥居の扁額には諏訪神社とあるけど、どうしてかしら?ま、いっか、山頂に辿り着けば何か分かるかも知れないわ−と登り始めてはみたのですが、鳥居から続く石段を数十段上ったところでいきなり杣道、獣道(笑)。

山頂にはちょっとした平地が広がり、御覧の社殿が建てられていたの。辺りを見回してみたところで何の案内も無く、詳しいことは分からず終い。【風土記稿】に「頂には浅間の小祠を建」とあるのはご案内済みですが、その編纂は江戸時代の文化元年(1804)から文政12年(1829)にかけてのことなので、その頃は未だ浅間神社が鎮座していたと云うことよね。加えて「諏訪社 慶安2年(1649)社領五石の御朱印を賜ふ 神體は長一尺許の丸き石なり 村の鎭守とせり」とも記され、現在地とは異なる場所に単独で鎮座していたことが知れるの。

ここからはξ^_^ξの勝手推量でしかないのですが、明治39年(1906)に行われた神社合祀政策を機に諏訪神社が遷されて来たのではないかしら。社殿右手片隅には御覧の小社が建てられているのですが、【風土記稿】には諏訪社と共に熊野社・神明社の名が挙げられているので、同じく遷されてきたものでしょうね、きっと。But 三座あるので残り一社の正体が分からないわね。更に傍らにはこれまた出自不明の石祠が残されていたりするの。

弘法山は標高164m足らずの低山なのですが、【風土記稿】には「祠辺よりの眺望最打開けたり 先東の方は筑波の山を始として 比企・足立・江戸を打越て 遠く房総の山々を見渡し 南は八王子の辺までのあたりに見え 西は秩父ヵ嶽比企郡笠山・乳首山など連り 北は三国峠より信州・越州の高山見えたり」とあり、意外に見晴らしが良いの。残念ながら木立に遮られて、【風土記稿】のように東西南北の全てを望むことは出来ませんが、それでも納得の景観よ。「江戸を打越て 遠く房総の山々を見渡」す視力は驚嘆に値するけど、多分、裸眼では無理で、冬の晴天時に1,200mm位の超望遠レンズで狙わないとダメじゃないかしら。

10. 能満山見正寺 のうまんざんけんしょうじ

【風土記稿】には「別當 見正寺 眞義眞言宗 上野村醫王寺の末なり 能滿山と號す 本尊正觀音を安置せり 虚空藏堂 虚空藏は坐像にて長二尺 佛師春日の作」とあるように、紹介した諏訪社の別当職を嘗て務めていたのがこの見正寺なの。本尊の聖観音立像は平安時代後期の作と推定され、昭和57年(1982)には越生町の有形文化財に指定されているの。現在は能満山見正寺を正式な山号寺号とする真言宗智山派の寺院。

11. 津久根八幡神社 つくねはちまんじんじゃ

陽も傾き始めたことから散策を終えてバス通りに向かう途中、越辺川を渡ったところで神社の門前に建てられていた、この大きな庚申塔に目が留まったの。立派な(笑)社に護られていることから何が祀られているのか気になりましたが、「猿田彦大神」と刻まれた大きな庚申塔だったの。青面金剛や阿弥陀如来などが彫られた庚申塔を仏教系とするなら、猿田彦を主尊とする庚申塔は神道系なの。猿田彦と云えば天孫降臨の際に高天原と豊葦原の中つ国の岐れ路で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を出迎えて道案内をしたという神さま。

詳しいことは【記紀】に譲りますが、庚申の申と猿田彦の猿が結びつけられて祀られるようになったの。その仕掛人が江戸時代初期に活躍した山崎闇斉という朱子学者なの。異国の神仏に席捲されていく様を嘆いたのでしょうね。闇斉の思惑は見事に的中し、庚申塔の主尊として祀られるようになるの。因みに、猿田彦は後の天狗のルーツともなった神さま。同じく闇斉が仕掛人になったとは聞かないけど。それはさておき、八幡宮とあるので八幡神こと、誉田別尊=応神天皇を祀るお社ね。境内に入れば何か説明があるわよ、きっと−と期待したのですが、何も無いの。

【風土記稿】にしても「土人此社地を八幡森と呼ぶ 神體は徑六寸許の圓鏡の如き物にて 中に神像を款す 高藏寺の持 末社 稻荷社 天王社」とあるのみで、創建年代などの詳しいことは分からず終い。拝殿を回り込むと覆屋に護られて本殿が鎮座しますが、施されている装飾彫がみごとなの。現在の社殿は天保4年(1833)に建立されたもので、越生町の文化財に指定されているのだとか。

12. 越生駅 おごせえき







今回の散策はとりわけ越生氏一族の足跡が偲ばれる寺社めぐりとなりましたが、歴史が苦手な方でも五大尊つつじ公園はお薦めね。確かに山肌を染め上げた躑躅の競演は見応え充分でしたが、街中を少し離れて小径をゆけば、そこここに自然が残されているの。季節を愛でながら、時には寺社の門も潜ってみて下さいね。そこにはあなたの知らない驚きや発見があるかも知れませんよ。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥

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〔 参考文献 〕
東京堂出版社刊 神話伝説辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
越生町教育委員会編 越生叢書・おごせの文化財
越生町教育委員会編 越生の歴史 全巻






どこにもいけないわ