≡☆ 続・見沼のお散歩 ☆≡
2021/11/27

前回の 見沼のお散歩 では、見沼代用水路の東縁を中心に歩いてみましたが、見沼の歴史を語るには、西縁沿いにある氷川女體神社の紹介が欠かせないことを知ったの。そこで今回のお散歩では、JR東浦和駅を起点にして、途中にある寺社などをめぐりながら、氷川女體神社を目指してみたの。尚、掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

見沼たんぼ

1. JR東浦和駅 ひがしうらわえき 9:47着 9:57発
Map : さいたま市緑区東浦和1

氷川女體神社だけが目的なら小一時間程の道のりですが、途中にある大間木氷川神社や清泰寺、大牧氷川女體神社にも立ち寄ってから見沼代用水路の西縁を歩き始めましたので、到着はすっかり Lunchtime となってしまったの。But 辺りには食事処らしきものも見当たらず、お昼御飯はお預け状態。諦めて、氷川女體神社を参拝した後は、再び西縁を経由して浦和くらしの博物館民家園と大崎園芸植物園にも足を延ばしてみたので、今回もまたお散歩と称してはいますが、遠足に近いかしら。昼食もとらずにそんなに歩くのは嫌よ−と云う方は、出発前にコンビニなどで調達しておいて下さいね。

〔 お願い 〕この頁では、現地案内板の説明を数多く転載していますが、平成13年(2001)に浦和・大宮・与野の三市が合併してさいたま市となっているの。But 記述は原文のままとしていますので、適宜読み替えをお願いしますね。

2. 大間木氷川神社 おおまぎひかわじんじゃ 10:07着 10:15発
Map : さいたま市緑区東浦和5-20-2

 石神井社とあるのは石神社の間違いじゃないのかしら。石神井社と聞くと、東京都練馬区にある石神井神社を思い浮かべてしまいますが、そこから分祀勧請したとはちょっと考えづらいわよね。【風土記稿】にも村民の持として石神社が挙げられていますので、合祀されたのはその石神社じゃないかしらね。それとも、ホントに石神井社なのかしら。確かに石神井神社も御神体は石だけど。

上掲の案内板の説明では【風土記稿】の引用が部分的で、一体全体何なのよ−と
気になってしまうわよね。そこで、参考までに改めて全文を引いておきますね。

笈
氷川社 當村及び大間木新田・大牧・附島等四ヶ村の鎮守なり、附島村民の附 末社 第六天社 牛頭天王 疱瘡神 天神社 八幡社 荒神社 稲荷社 神明社 別當 三光院 本山派修験 中尾村玉林院配下なり 本尊不動を安ず 長一尺五寸許 智證大師の作と云 什物 笈一 亀井六郎奥州下向の時背負し物なりと云 尤古色なるものにて高さ二尺九寸 幅上は一尺九寸餘 下は二尺三寸許 横一尺二寸餘 是に棚三段あり 扉に椿の花と思しき形を彫れり 其外水に澤瀉色の紋など所々に彫りて 其さま古きものと見ゆれど 亀井が所持なせしと云はいかがあらんか されど近村中尾村の内にも 六郎が屋敷跡などいへる所ありと云は 此邊に六郎がゆかりありしことなるべし 笈の圖は右のごとし

〔 赤山街道 〕赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永6年(1629)に陣屋を構えた赤山( 川口市赤山 )に向かう街道であった。街道の起点は与野市辺りと考えられ、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。伊奈氏は清和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んだことから伊奈氏を称した。その後三河に移り、松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室( 伊奈町 )、鴻巣などに10,000石を領し、小室や土屋( 大宮市 )などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだ。三代目半十郎忠治は、関東郡代となり、また、勘定奉行も兼ね、赤山領7,000石を拝領し、赤山に陣屋を移した。忠治は治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永6年(1629)には八丁堤を築き、見沼溜井造成に着手した。現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれ、歴史と生活が結びついた道路となっている。昭和58年(1983)3月 埼玉県

3. 清泰寺 せいたいじ 10:20着 10:38発
Map : さいたま市緑区東浦和5-18-9

文化財と云う割には、上掲の写真のように、建築資材の一部と化しているかのような印象なの。
説明に依れば、349基あることになってはいるのですが、見たところ、そんなには無かったような。
石材代わりにあちらこちらで使われているのかしらん。案外、本堂の礎石としても使われていたりして。

◎清泰寺にはこの他にも次の4件の文化財があります。

〔 木像十一面観音立像 〕市指定有形文化財( 彫刻 ) 昭和36年(1961)3月31日指定
清泰寺の本尊で、12年に一度の午年に御開帳されます。像高122.0cmで、台座と円形の光背がつき、左手に水瓶を持っています。寄木造り、彫眼で、古色仕上げですが、両眼などに後世の彩色が施してあります。大きめの変化面を載せた頭部は小さめで、腰を絞った引き締まった体躯と膝まで届く長めの腕を持つ観音像です。緊張感のある写実的な表情、バランスの良い体躯、複雑で陰影のある装飾的な衣文構成などに、鎌倉時代後期以来流行した宋風彫刻の特色を顕著に見せる秀作といえます。様式技法的に見て、室町時代前半より以前に東国仏師が制作したものと考えられます。

〔 半鐘 〕市指定有形文化財( 工芸品 ) 昭和62年(1987)3月31日指定
この半鐘は銅製で、総高 64.5cm、口径 37.6cm です。毛彫りされた銘文から、宝永7年(1710)に清泰寺に納められたもので、江戸神田の鋳物師粉河市正が鋳造したものであることが分かります。総高に対して口径がやや広めですが、形の整った仕上がりの良い半鐘です。制作年、鋳物師名の明らかな近世工芸心として貴重なものです。

〔 見性院霊廟三具足 〕市指定有形文化財( 工芸品 ) 平成元年(1989)3月27日指定
三具足とは、香炉・花瓶・燭台からなる仏具です。清泰寺の三具足には三基とも毛彫りの銘文があり、寛政元年(1789)に会津藩主により見性院霊廟に寄進されたものであることが分かります。いずれも真鍮製で、時代を反映して本体は簡素ですが、香炉の蓋に獅子、花瓶と燭台にはそれぞれ一対の揚羽蝶の飾り金具がつきます。保存状態が良く、制作年などの由来が明らかな金工品として貴重なものです。

〔 有泉勝長木牌 〕市指定有形文化財( 歴史資料 ) 昭和51年(1976)3月30日指定
有泉勝長は会津藩主で、清泰寺ゆかりの藩主・保科正之より300石を与えられていました。この木牌は、勝長の37回忌にあたる元禄16年(1703)に、勝長の娘婿・勝隆が清泰寺に納めたものです。ケヤキ製で総高 84.6cm、正面に勝長の法名などが刻まれています。また他の三面には、武田信玄、穴山梅雪、見性院、徳川家康、秀忠、保科正光、正之、勝長などの事績を詳細に記す牌後譜が刻まれています。

平成14年(2002)10月 宗教法人 清泰寺・さいたま市教育委員会

そして、墓苑の最奥部にあるのが見性院墓( 見学自由 )なの。

因みに、【風土記稿】には「 見性院尼墓 墓所の傍に文化年中會津家より建し石碑あり 其文左にのす 見性院殿武田甲斐守機山公信玄之女 穴山梅雪之夫人 穴山氏嗣絶 台廟以足立郡大牧邑為湯沐邑 元和八年五月九日終干東都葬邑之清泰寺 會津土津公幼承撫育之恩 追慕不巳 寛文十一年買田若干付清泰寺 使歳時作佛事而薦冥福也 」とあるのですが、見当たらなかったの。尤も、中への立ち入りは出来なかったので、あるいは墓石の傍らに建てられていたのかも知れないわね。

4. 大牧氷川女体神社 おおまきひかわにょたいじんじゃ 10:52着 10:59発
Map : さいたま市緑区東浦和6-23

次に、地図上にその名を見つけて気になり訪ねてみたのがこちらの大牧氷川女体神社なの。みたところ普通の神社で、村の鎮守さまの面持ちなのですが、社殿の左手に「 ゲゲゲの鬼太郎 」に出てくる唐傘小僧みたいな(^^;小さな建物があり、綺麗な布ぞうりが奉納されていたの。寺院の仁王門などでは、足の病気治癒や健脚を祈願して大きな草鞋が奉納されている光景を見掛けることがありますが、この大牧氷川女体神社でも同じような信仰があるのかしらね。見たところ、新しく建てられたもののようですが、ちょっと気になる存在ね。

本殿

〔 大牧氷川女体神社本殿・一棟 〕県指定有形文化財( 建造物 )  昭和62年(1987)3月24日指定
大牧氷川女体神社は、見沼の谷を見下ろす舌状台地上にあり、市内宮本の氷川女体神社祭神の御子姫を祭ったと云う伝えもあります。本殿は一間社流見世棚造で、桁行 1.18m、梁間 0.95m、向拝の出 0.67mです。地覆の上に建ち、身舎柱は円柱で、腰長押と内法長押で緊結し、造り出し舟肘木桁を架してあります。妻は虹梁・いのこ扠首です。向拝柱は面取り方柱で、肘木造り出しの頭貫を通し、柱上三斗組の斗栱を配しています。中備は蟇股です。軒は一軒繁垂木で、屋根は目板葺です。身舎柱間は正面が板唐戸で、他の三面は横羽目板です。尚、正面には木階が付きます。寛永13年(1636)と貞享元年(1684)の棟札が現存していますが、前者がこの本殿の建立を示すものです。共に付指定となっています。

この本殿は覆屋の中に収められている小規模なものですが、この地域に顕著な分布を見せる見世棚造神社建築の典型的な例です。更に、棟札により建立年代が明らかであることも加え、極めて貴重な建築といえます。尚、昭和63年(1988)から平成元年(1989)にかけて、建立当時の姿に復元されています。平成14年(2002)10月 埼玉県教育委員会・さいたま市教育委員会・大牧氷川女体神社

敷地を接してある女体下公園の木々も色付きを見せ、深まり行く秋を感じさせてくれたの。

5. 見沼代用水路( 西縁 ) みぬまだいようすいろ

参考までに途中にある浅間橋の通過タイムをお知らせしておきますね。ξ^_^ξのノンビリとした足取りではこの日は 11:08着発 でしたので、更に35分程歩かなくてはならなかったの。氷川女體神社を参拝した後で、もう一度、浅間橋まで戻ることになるので、往復一時間は優に掛かる計算よ。ちょっと気合いが必要かも知れないわね。

6.見沼氷川公園 みぬまひかわこうえん 11:42着 11:58発
Map : さいたま市緑区緑区大字見沼500

ようやく見沼氷川公園に到着よ。同園は、氷川女體神社の社前に広がる公園で、大部分を芝生広場が占めますが、広さは23,000m²もあるの。公園の一角には文部省唱歌「 案山子 」の発祥の地碑が建てられ、嘗て氷川女體神社で行われていた磐船祭の祭祀遺跡もあるの。祭祀遺跡の方は改めて御案内するとして、先ずは園内を軽くひとめぐりしてみましたので、紹介しますね。

この地が、尋常小学唱歌「 案山子 」のふるさとである。国定教科書の編纂官であった武笠三 むかさ さん が、他の幾つかの唱歌と共に作詞した。彼こそ、ここ三室に生まれた人である。嘗て 1,200ha の沼であった見沼は、江戸中期に干拓され、稲穂がたわわに稔る田園となった。作詞者の感性を育んだ光景である。唱歌のふるさとを浦和市民の誇りとして永く伝えようと「 つくる会 」を結成し、多くの市民のご協賛のもとに、記念の碑を建立した。唱歌「 案山子 」発祥の記念碑をつくる会

〔 案山子 〕

山田の中の一本足の案山子 / 天気のよいのに蓑笠着けて
朝から晩までただ立ちどおし / 歩けないのか山田の案山子

山田の中の一本足の案山子 / 弓矢で威( おど )して 力( りき )んで居( お )れど
山では烏( からす )がかあかと笑ふ / 耳が無いのか 山田の案山子

〔 武笠 三 〕明治4年(1871)、当地にある氷川女體神社の神官を代々勤めていた武笠家の長男として、三室村( 現・浦和市宮本 )に生れた。東京帝国大学卒業後、旧制四高、埼玉県第一中学( 現・浦和高 )、旧制七高で教鞭をとる。明治41年(1908)、文部省に呼ばれ、17年間にわたり国定教科書の編纂に携わった。「 案山子 」は第二学年用として作詞された。昭和4年(1929)没。< 記念碑 > 造形家 島田 忠恵 < 揮毫 > 国語学者 金田一春彦

7. 磐船祭祭祀遺跡 いわふねさいさいしいせき 11:58着 12:08発
Map : さいたま市緑区見沼5381

気になるのが、この祭祀場での磐船祭に先だって行われていたと云う御船祭のことよね。現在は芝川第一調節池となっていますが、当時はその辺りが見沼でも一番深いところで、御船祭のときにはそこへ4本の竹を立て、女體社から御座船で移動すると、沼の主である龍神に御神酒を献じていたの。調節池建設の際に行われた発掘調査( 四本竹遺跡 )では、突き刺された状態の竹790本と、97枚もの古銭が出土しているの。御船祭は隔年( 説明では毎年或いは隔年とあるけど )の開催で、一回の祭祀で4本の竹が使用されたとすると、約200回、400年近く祭祀が行われていた計算になるの。

江戸時代になると磐船祭へと姿を変えたことに加え、幕府の庇護を受けて天下泰平や将軍家の武運長久なども祈願するようになり、武蔵一宮として、祭りの形態も、また、その内容も変わってしまったの。見沼の干拓に伴い嘗ての斎場を失い、代替地としてこの祭祀場を得たわけだけど、原始信仰の姿を留めていた御船祭は、長きにわたり行われていたその歴史に幕を閉じることになってしまったの。

8. 氷川女體神社 ひかわにょたいじんじゃ 12:08着 12:23発
Map : さいたま市緑区宮本2-17-1

〔 氷川女體神社社殿 一棟 〕付 寛文7年(1667)銘棟札・一枚
埼玉県指定有形文化財( 建造物 ) 平成19年(2007)3月16日指定
この社殿は、17世紀の造営であり、本殿と拝殿を幣殿で繋ぐ複合社殿です。一番奥にある本殿は、朱塗りの三間社流造の建物です。三間社とは、正面の柱と柱の空間が三つあるので三間社と表現します。屋根は切妻造の前方が長く延び、なだらかな曲線を描く流造となっています。本殿と拝殿を繋ぐ幣殿は、間口を本殿に合わせ、屋根は切妻造で、二方向に葺下しています。拝殿は入母屋造の建物で、屋根の正面には三角形の千鳥破風と、軒から起こり曲線を持つ軒唐破風が施されています。現在、屋根は銅板葺ですが、平成23年(2011)の社殿修理時に、古い柿葺が残存していることが確認されました。寛文7年(1667)銘の棟札には、4代将軍家綱が忍藩主・阿部忠秋を奉行として「 武蔵国一宮簸河女體大明神 」本殿の工事を行った記載があり、江戸幕府の公式歴史書【徳川実紀】には、その修理費用が300両であったとも記録されています。この本殿は、本県に於ける代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であり、幣殿・拝殿を含め、社殿として一括して埼玉県の文化財に指定されています。〔 社殿側面図略す 〕氷川女體神社・さいたま市教育委員会

〔 氷川女體神社社殿 一棟 〕付 寛文7年(1667)銘棟札 平成19年(2007)3月16日指定
氷川女體神社は武蔵国一宮と称され、また、古来より御船祭を行う神社として知られています。中世以降は武家の崇敬が厚く、当社所蔵の三鱗文兵庫鎖太刀( 県指定有形文化財 )は鎌倉幕府執権・北条泰時の奉納と伝えられ、戦国時代には岩付太田氏や小田原北条氏の庇護を受けていました。江戸時代になると、徳川幕府から社領として50石の地を寄進されました。また、当社に残る寛文7年(1667)銘の棟札等により、本殿は江戸幕府4代将軍・徳川家綱が再興したものであることが明らかとなっています。社殿は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、権現造の形式となっています。本殿は三間社流造で、正面三間( 3.56m )、側面二間(2.11m )、更に向拝がついています。幣殿は両下造で、正面一間( 3.56m )、側面二間( 3.63m )です。拝殿は入母屋造で、正面五間( 9.46m )、側面二間( 4.57m )です。更に向拝がつき、その向拝には千鳥破風及び唐破風がついています。平成23年・24年(2011-2012)に社殿修理が行われ、屋根が柿葺きの時期があったことが分かりました。この社殿は、埼玉県に於ける代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であるとして、平成19年(2007)に埼玉県の有形文化財に指定されました。さいたま市

〔 氷川女體神社の道標 〕元々赤山街道沿いの大間木水深( 浦和 )の地にあったこの石碑には、「 武蔵国一宮 」「女體宮道 」とあって、幕末の弘化2年(1845)に当社への道しるべとして赤山街道に面して建立されたものである。また、当社から北西約400mの住宅地の中には石造の鳥居がありますが、これは安政2年(1855)に、馬場方面から参詣する人達の便を考えて、大門宿の石工に作らせ、氏子達が奉納したものです。幕末の頃に相次いで建てられたこの石碑や鳥居は、建立する必要に迫られるほど、当社への参詣客は非常に多く、篤い信仰を得ていたことを物語る貴重な資料となっています。

現地案内板の引用が続いてしまいましたが、実は、氷川は、出雲を流れる斐伊川( 古くは簸川 ひのかわ )からの転化なの。簸川の名は知らなくても、出雲神話の一つ、八岐大蛇のお話は御存知よね。簸川はその八岐大蛇神話の舞台でもあり、氷川社の祭神が素戔鳴尊と奇稲田姫である由縁もそこにあるの。説明にもあるように、嘗ては大宮氷川神社( 男体社 )・氷川女體神社( 女体社 )・中山神社( 氷王子社 )の三社が同一体と見做されていて、同じ出雲の神を祀り、神主家もその祖を出雲族としているところから、この地にやってきた出雲族がその祖先神を祀り、そこから信仰が始まったのではないかと考えられているの。

地名の三室にしても神社や神域のことを指す「 御室 」からの転化と考えられているの。その御室もまた霊室( みむろ )からの転化のようよ。原始古代では族長など首長級の者が亡くなると、山の岩屋にその亡骸を葬っていたの。その岩屋が霊( み )の宿る室の意から霊室と呼び、「 み 」室のある山を「 み 」室山と呼ぶようになっていたの。死者の霊は山上にある岩の上から昇天し、後に神となって元の岩に降臨し、山に宿ると祖霊神となり、子々孫々を守護していくと信じ、祖霊の宿る山の正面を祭祀の場として祖霊祀りをしていたの。三室=御室=霊室と云うわけね。

【江戸名所図会】の「 宮本簸川大明神の社 」の項には「 宮本の郷 三室山の南麓にあり云々 」とあり、現在は公園として整地されていて、地勢も大きく変わってしまったみたいだけど、江戸時代には未だその名残を留めていたようね。嘗ての女體社の背後は三室山と呼ばれる小高い丘になっていて、そこには岩で造られた霊室があったのではないかと推考されているの。

因みに、さきたま出版会刊【みむろ物語】には石段を上がる左手に坊主石と呼ばれる石があると云うので探してみたのですが、木に抱え込まれたと云うか、めり込んでいるというか、無造作に捨て置かれたような角柱石を見つけたの。同著に依れば、坊主石は、嘗て行われていた祖霊祀りの際に神霊を依りつかせる依石として使われていたものではないかとも。But 氷川女體神社の祭祀のルーツとも云える依代を、まさかそんな邪険に扱うハズはないわよね−と云うことで、この角柱石は坊主石じゃないのかも知れないわ。それとも、本当にこれが依代石?真偽の程は御覧の皆さんの御賢察にお任せよ。

9. 旧参道鳥居 きゅうさんどうとりい 12:28着 12:31発
Map : さいたま市緑区宮本1-5-24

鉄製の強固なガードに護られて、スゴイことになっていますが、紹介した「 氷川女體神社の道標 」の説明の中に「 当社から北西約400mの住宅地の中には石造の鳥居がありますが、これは安政2年(1855)に、馬場方面から参詣する人達の便を考えて、大門宿の石工に作らせ、氏子達が奉納したものです 」とあるのが、この旧参道鳥居なの。左側の石柱には「 当御宮広前 」・「 安政二年乙卯秋八月上浣※建之 」と刻み、右側の石柱には「 奉献 氏子中 」、「 幸美拝書 大門宿 石工清次郎 」とあるの。

※上浣とあるのは上旬の意なの。浣は訓読みでは「 あらう 」となり、古代中国では官吏に10日毎のお休みがあり、休息&沐浴をしていたことから、上浣・中浣・下浣のことばが生まれたのだとか。だったら、難しくしねえで「 上旬 」でいいじゃんかよお−と思われるかも知れないわね。But 神域への入口であることを示す鳥居を奉納するわけですから、洗い浄めの意味を兼ねて「 浣 」の字を充てたのでしょうね、きっと。

10. 浦和くらしの博物館民家園 うらわくらしのはくぶつかんみんかえん 13:16着 14:03発
Map : さいたま市緑区大字下山口新田1179-1

帰宅時間とするには早過ぎたので、足を延ばしてみたのがこちらの民家園。見沼代用水路に架かる浅間橋からだと10分位のところにあるの。交通量の多い幹線道路を歩くことになりますが、車歩道が完全分離していますので、車の往来を気にせずに歩くことが出来るので安心よ。それはさておき、この民家園では、主に旧浦和市内に残された伝統的な建物が移築&復原されているの。現在ある7棟の建物の内、6棟が文化財に指定され、中でも旧浦和市農業協同組合三室支所倉庫は国登録文化財になっているの。国の文化財とあっては中の見学は無理かしらと思いきや、内部は民俗資料を紹介するミニ展示室になっているの。

それぞれの建物の内外には案内板が立てられていましたので、ここではその転載を以て紹介に代えますね。
それをひとは他力本願、または、手抜きとも云う。

♠ 旧浦和市農業協同組合三室支所倉庫 ♠

♠ 旧高野家住宅 ♠

茅葺き屋根は旧浦和地域では草葺き屋根とも呼ばれています。屋根の形は切妻造り・寄棟造り・入母屋造りの3種類に分けられます。民家園に展示されている旧高野家住宅を始め3軒の茅葺き民家は、いずれも寄棟造りです。寄棟造りの最大の特徴は、冬の季節風と多方向からの雨を防ぐのに最適な構造である点です。移築前の旧高野家住宅は瓦葺きの屋根でした。しかし、民家園に移築復元するに当たり調査した結果、柱跡から元は茅葺き屋根であったことが判明しました。明治期後半に瓦葺きに変えられたと伝えられており、調査でも裏付けられています。

この家は、江戸時代後期( 安政期 )の頃に建てられたものです。正面の軒の出を強調した出桁造りが特徴です。浦和区岸町7丁目の、浦和宿の中山道に面して建っていました。当初は傘製造業の建物でしたが、明治40年(1907)頃、煎餅製造を営む高野家が買い取ったものです。江戸時代の建築技術を知る上で、大変貴重な建物です。

旧高野家住宅の家の造り : 寄棟造りで江戸期の商家の規模を伝える造りになっています。入口から入ると、先ず土間があり、接客ゾーンになっていたようです。奥にある土間は作業場になっていたと思われます。建物の中に井戸があることも特徴の一つです。

型紙
型抜き
焼き網

型紙 : 煎餅を入れる茶箱などの印刷用に使った型紙です。店名、商標( 丸にタの字 )、電話番号等の記入に用いました。マッチ箱に記載された番号 6092 は、昭和33年頃に使われていたものです。桁数の少ない番号の方が、電話の普及台数の少なかった古い時代のものです。

型抜き:戦前に使っていた型抜きです。薄く延ばした煎餅生地の上に、この型抜きを転がすようにして形を抜きます。丸型・松竹梅型・桜型の三種類です。

焼き網:乾燥し、温めた生地をこの焼き網で挟み、裏面に返しながら炭火で焼きます。押瓦で押さえながら焼く方法に比べ、柔らかめで軽い焼き上がりの煎餅になります。

♠ 旧綿貫家住宅 ♠

〔 浦和宿 〕浦和宿は、戦国時代に発生した市より発達したものと考えられ、江戸時代に整備された中山道の宿場町として発展しました。弘化年間(1844-48)に作られた【 宿並絵図 】に依ると、中山道筋には、上町( 現在の浦和区常盤 )96軒、中町( 現在の浦和区仲町 )47軒、下町( 現在の浦和区高砂 )69軒とあり、旅籠屋を始め、穀屋・水油屋・飲食店・建具屋・道具屋などの多種の店が軒を並べていたことが分かります。その町並みは、中山道を中心に裏通りまでの短冊型の地割りがされており、隣家に接する 1m 程の道があり、その道に沿って屋敷稲荷・蔵・物置などがあることが窺えます。綿貫家も東西の長細い敷地の中に、中山道に面して間口( 4間 )を西に向け、店蔵・裏座敷・倉庫などが並んでいました。明治21年(1888)3月15日、上町の青物市場から出火した火事は、宿の2/3を焼き尽くしました。この大火のため、それ以前の建物は極めて稀です。この火事の教訓により、商家の屋根は防火のため茅葺きから瓦葺となり、また、土蔵造りの商家が建築されていくようになります。

♠ 旧丸山稲荷社本殿 ♠

この神社本殿は、市内桜区西堀8丁目の氷川神社から平成17年(2005)に移築されたもので、丸山稲荷社と呼ばれ、同神社の末社でした。本来、西堀の舌状台地の先端に接してある独立丘で、文字通り丸山と称されていたところにあった神社ですが、早くから氷川神社に移されていました。一間社流造り、屋根板葺きで、身舎 もや 桁行き 60cm、梁間 50cm、庇の出 46cmで、身舎柱は方柱です。棟札が残されており、それに依ると、元文3年(1738)3月に上宮( 西堀の字名 )の村田作五右衛門が願主となり、新開村 しびらきむら ( 現・桜区 )の大工・小嶋兵衛門が建立したことが分かります。

宮大工ではない村の大工が建てた神社本殿です。この時期( 江戸時代中期 )は、流造りの本殿が各地に建てられた時期ですが、宮大工によらないで、これほどの建築が出来る大工が村にいたことも見逃せません。技法的には一流とは云えませんが、正規の神社本殿建築の例を学び、設計施工したものと思われ、近世の、村の神社本殿の整備などを知る上でも貴重な遺構です。浦和くらしの博物館民家園

お狐さま

〔 農業の神から商売の神へ・お稲荷さん 〕古い農家の庭先や神社の境内には「 お稲荷さん 」が見られます。お稲荷さんは「 いねなり 」から転化した名前です。本来の神像は稲を荷った農民の姿で現されています。赤い鳥居は雷の稲穂に宿り豊作をもたらす炎( エネルギー )を意味すると云われます。その後、仏教の荼吉尼天と合体したため、狐がお使いとなりました。江戸時代の中頃には、農業の神から殖産興業の神、商売繁盛の神、屋敷神( 家神 )へと信仰が広がり、街中のあちこちで見られるようになりました。当時の普及振りを、江戸の街中に数多くあるものをあげ、「 伊勢屋・稲荷に犬の糞 」と揶揄した「 うた 」が残されています。

♠ 庚申塔 ♠

〔 健康長寿を願う庚申塔 〕庚申塔は庚申信仰により、地域で結び付いた人達( 庚申講 )が講中の健康長寿を願い、つくり立てたものです。庚申信仰とは、昔( 明治時代以前 )、月日( カレンダー )を十干十二支で表していましたが、60日に一度めぐってくる庚申の日の夜は、体の中にいる三尸虫( 上尸・中尸・下尸 )が抜け出し天に昇り、その人の暮らしぶりの中で悪いことを訴え、命を縮めると云う信仰に従い、庚申の夜は講中が集まり、寝ずに楽しく過ごし、三戸虫が昇ることを妨げ、健康長寿を願う民間信仰です。

また、村境で疫病神の侵入を阻止する役割りも与えられ、村人の出入りを守る神としても信仰され、村境の辻に立てられました。更に、村境に立てられたものには、道標の役割をも果たしている石塔もあります。いつの時代でも庶民の健康願望はつきません。身近な庚申塔の伝承、庚申信仰の由来を調べ、昔の人の健康長寿への顔いと、現代の人の健康長寿への願いを比べると興味深いと思います。浦和くらしの博物館民家園

ここで CM よ。庚申塔や庚申信仰についてもっと詳しく知りたいな−と云う方は
ねえねえ、庚申塔ってなあに?を御笑覧下さいね。

♠ 旧野口家住宅 ♠


民家園の東側から南側にかけて池が造られているのですが、下掲の景色が見える南側の池の畔に「 四本竹の龍神伝説 」の案内板が立てられていたの。内容的には既に紹介済みのものですが、園内にあるものとして参考までに御案内しておきますね。説明には「 この前方に四本竹と云うところがあります 」とあるので、何か目印になるようなものがあるのではないかしら−と期待したのですが、視線の先には、草木の生い茂る見沼たんぼが広がるばかりで(^^;

〔 四本竹の龍神伝説 〕この前方に四本竹 しほんだけ と云うところがあります。その地名は、昔、四本の竹を四方に立てて注連縄を張り、そこを祭祀の場としてお祭りを行っていたことからその名がつきました。その辺り一帯は、見沼と云う大きな沼で、沼の主の龍神が棲んでいたと云います。「 昔々、宮本の氷川女體神社は2年に一度、見沼の一番深いところに御輿を舟に乗せていき、沼の主の龍神を祀る御船祭と云うお祭りを行っていました。神主が、舟から四本の竹を注連縄で囲ったところに向かってお祓いを済ませた後で、御神酒や供物を沼に捧げます。すると、そこは瞬く間に渦を巻き、捧げた供物などを沼の奥底に、あっと云う間に吸い込んでしまったと云うのです。見沼の龍神は、人々に沼の恵みや、田畑を耕す水を与えて、人々を見守ってくれているので、龍神を大切にするお祭りが昔から続いているのです。

〔 四本竹遺跡の発掘調査 〕四本竹遺跡の発掘調査では790本の竹が出て来たと云います。御船祭は2年に一度のお祭りで、見沼の干拓工事が始まる(1727)頃まで行われていたと云います。一度のお祭りで4本の竹を使い、発掘された本数が790本です。この本数から単純に計算すると、何年分で、最初は何年と云うことになるでしょう。※答はこの看板の右側面にあります。但し、その時代が確かとは云えません。平成22年(2010)3月14日 浦和東ロータリークラブ40周年記念事業

答えは民家園へお出掛けの際の楽しみとして伏せたままにしておきますね。
But 現地へ出掛けるまでもなく、直ぐに分かってしまうかも知れないわね。

♠ 旧武笠家表門 ♠

さいたま市指定有形文化財( 建造物 ) 平成6年(1994)4月28日指定 寄贈者:武笠 吉久 氏
この門は、さいたま市緑区三室の武笠家から寄贈を受け、平成6年(1994)に移築復原したものです。寄棟・茅葺きの長屋門で、正面 13.76m( 7.6 間 )、側面 4.55m( 2.5 間 )です。中央の間を戸口とし、右端の一間を仕切り床張りとしている以外は、土間となっています。正面中央の2本の門柱は平角で門構えを作っています。通例の長屋門に見られる立隠れ( 門構え部分が中に入り込む )は無く、また、門扉が両開きの引き分け戸で、右側の戸に潜り戸が付いています。

武笠家では、正規にこの門を開けるのは、冠婚葬祭の特別な日に限られ、日常は別にあった通用門を用いました。この門は長屋門の役割を備えながら、作業場となる広い土間を持ち、農家の生活に即した機能性の高い建築と云えます。土台が無く、地覆( 蹴込み土台 )であることや、梁の仕上げ、小屋組みなどから江戸時代後期に建てられたものと考えられ、市内で幾つか例の見られるこの形式の長屋門の代表例です。

♠ 旧蓮見家住宅 ♠

さいたま市指定有形文化財( 建造物 ) 昭和49年(1974)5月31日指定 寄贈者:蓮見 圭造 氏
この住宅は、さいたま市緑区井沼方の蓮見家から寄贈を受け、平成5年(1993)に移築復原しました。直屋 すごや ・平入り・寄棟の茅葺屋根の農家で、「 へや 」「 おく 」「 なんど 」を持つ広間型三間取りと云う、この地方の典型的な古民家の特徴を持っています。シシマドと呼ばれる格子窓が付くこと、土台がまわらず柱が直接礎石上に立つこと、柱の断面が正方形ではなく、また、太さが不揃いであることなどは古い特徴と云えます。大黒柱に当たる柱もやや太めですが、他と同じ杉材を用いていることも時代を示しています。建立年代は明らかではありませんが、江戸時代中期と考えられ、市内最古の民家と云えます。

♠ 旧中島家穀櫃 ♠

11. 大崎園芸植物園 おおさきえんげいしょくぶつえん 14:12着 14:55発
Map : さいたま市緑区大字大崎3156-1

大崎園芸植物園

秋の日はつるべ落とし−と云うものの、この時点では未だ陽射しも充分にあったことから、今少し足を延ばして大崎園芸植物園を訪ねてみたの。実は、以前一度訪ねてみたことがあるのですが、屋外の花卉見本園の他にも、三棟ある熱帯植物の温室が全て無料で見学出来てしまうと云う一押しの施設になっているの。前回は夏真っ盛りの中での観覧でしたので多少の季節感の違いはあるのですが、季節毎に温室内の植物が植え替えられているわけでもないので(^^;ここでは前回の様子の紹介を以て御案内に代えますね。御覧になりたい方は左掲の画像をクリックして下さいね、前回の紹介頁に移ります。

12. 大崎園芸植物園BS おおさきえんげいしょくぶつえんばすてい 15:00着






















見沼代用水路 前回の 見沼のお散歩 で、見沼が嘗ては氷川女體神社の御手洗瀬だったことを知り、干拓以前に行われていたと云う御船祭にも興味を覚えていたの。そこから今回の、氷川女體神社への参詣を主目的にした見沼代用水路西縁のお散歩となったのですが、氷川女體神社に詣でた帰り道、ふと、歩みを止めて、視線の先に広がる見沼たんぼを見やれば、四本竹の斎場に向けて静かに水面を滑り行く御座船の姿も瞼に浮かんでくるの。尚、お出掛けの際にあなたが代用水路に魚影を見掛けることがあったら、それは龍神の化身かも知れないのでお気を付け下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.comまで御連絡下さいね。

【 参考文献 】
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
角川書店刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版江戸名所図会
埼玉県神社庁刊 埼玉県神社庁神社調査団編 埼玉の神社
浦和市発行 浦和市総務部市史編纂室編 浦和市史 通史編2
さきたま出版会刊 井上香都羅著 みむろ物語・見沼と氷川女体社を軸に
さきたま出版会刊 野尻靖著 大宮氷川神社と氷川女體神社 その歴史と文化
さいたま市発行 さいたま市都市局都市計画部見沼田圃政策推進室編 見沼たんぼ見どころガイド 2018
旧板東家住宅見沼くらしっく館編集・発行 くらしっく館から見沼たんぼへの散策案内〜見沼の龍の伝説〜
さいたま市立博物館編集・発行 第43回特別展図録 見沼〜水と人の交流史〜
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など






どこにもいけないわ