≡☆ 続・見沼のお散歩 ☆≡
前回の 見沼のお散歩 では、見沼代用水路の東縁を中心に歩いてみましたが、見沼の歴史を語るには、西縁沿いにある氷川女體神社の紹介が欠かせないことを知ったの。そこで今回のお散歩では、JR東浦和駅を起点にして、途中にある寺社などをめぐりながら、氷川女體神社を目指してみたの。尚、掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。
見沼たんぼ
1. JR東浦和駅
ひがしうらわえき
9:47着 9:57発
Map : さいたま市緑区東浦和1
見沼たんぼ散策の玄関口となる東浦和駅
氷川女體神社だけが目的なら小一時間程の道のりですが、途中にある大間木氷川神社や清泰寺、大牧氷川女體神社にも立ち寄ってから見沼代用水路の西縁を歩き始めましたので、到着はすっかり Lunchtime となってしまったの。But 辺りには食事処らしきものも見当たらず、お昼御飯はお預け状態。諦めて、氷川女體神社を参拝した後は、再び西縁を経由して浦和くらしの博物館民家園と大崎園芸植物園にも足を延ばしてみたので、今回もまたお散歩と称してはいますが、遠足に近いかしら。昼食もとらずにそんなに歩くのは嫌よ−と云う方は、出発前にコンビニなどで調達しておいて下さいね。
〔 お願い 〕この頁では、現地案内板の説明を数多く転載していますが、平成13年(2001)に浦和・大宮・与野の三市が合併してさいたま市となっているの。But 記述は原文のままとしていますので、適宜読み替えをお願いしますね。
2. 大間木氷川神社
おおまぎひかわじんじゃ
10:07着 10:15発
Map : さいたま市緑区東浦和5-20-2
大間木氷川神社
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〔 氷川神社 〕【新編武蔵風土記稿】( 以降、風土記稿と略す )大間木村の項に、当社は「 氷川社 當村及び大間木新田・大牧・附島等四ヶ村の鎮守なり、附島村民の持 末社 第六天社、牛頭天王、疱瘡神、天神社、八幡社、荒神社、稲荷社、神明社 別當 三光院 本山派修験 中尾村玉林院配下なり 本尊不動を安ず 長一尺五寸許 智證大師の作と云 什物 笈一 亀井六郎奥州下向の時背負し物なりと云( 以下略 ) 」と記されている。往時別当であった三光院の末裔である仲田家には【風土記稿】にも挿絵の載る室町期の優れた漆工芸晶である椿紋鎌倉彫笈( 県指定文化財 )が残されている。笈とは、行脚僧・修験者などが仏具・食物・衣類などを入れて背負う箱のことで、【風土記稿】では源義経の家来である亀井六郎重清に因むものであるとしている。この真偽は定かではないが、亀井六郎の屋敷跡とされる所が三光院の本寺に当たる玉林院が所在した中尾村にあったと伝えられている。この笈を背負った三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、当社の創建も室町期まで遡ることが推測される。市指定文化財になっている一間流造りの当社本殿は【明細帳】によると、寛文7年(1667)3月に武蔵国一宮氷川神社が再建された際、旧本殿を買い受けたものである。尚、いつの頃か稲荷社二社と石神井社※を当社に合祀したと云う。
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※ 石神井社とあるのは石神社の間違いじゃないのかしら。石神井社と聞くと、東京都練馬区にある石神井神社を思い浮かべてしまいますが、そこから分祀勧請したとはちょっと考えづらいわよね。【風土記稿】にも村民の持として石神社が挙げられていますので、合祀されたのはその石神社じゃないかしらね。それとも、ホントに石神井社なのかしら。確かに石神井神社も御神体は石だけど。
上掲の案内板の説明では【風土記稿】の引用が部分的で、一体全体何なのよ−と
気になってしまうわよね。そこで、参考までに改めて全文を引いておきますね。
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氷川社 當村及び大間木新田・大牧・附島等四ヶ村の鎮守なり、附島村民の附 末社 第六天社 牛頭天王 疱瘡神 天神社 八幡社 荒神社 稲荷社 神明社 別當 三光院 本山派修験 中尾村玉林院配下なり 本尊不動を安ず 長一尺五寸許 智證大師の作と云 什物 笈一 亀井六郎奥州下向の時背負し物なりと云 尤古色なるものにて高さ二尺九寸 幅上は一尺九寸餘 下は二尺三寸許 横一尺二寸餘 是に棚三段あり 扉に椿の花と思しき形を彫れり 其外水に澤瀉色の紋など所々に彫りて 其さま古きものと見ゆれど 亀井が所持なせしと云はいかがあらんか されど近村中尾村の内にも 六郎が屋敷跡などいへる所ありと云は 此邊に六郎がゆかりありしことなるべし 笈の圖は右のごとし
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〔 大間木氷川神社本殿・一棟 〕 浦和市指定有形文化財( 建造物 ) 指定年月日:昭和47年(1972)4月19日 この本殿は、【神社明細帳】には寛文7年(1667)、武蔵国一宮氷川神社( 大宮市 )の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したとある。更に、平成7年(1995)の修理の際、寛文7年(1667)2月、氷川大明神一宇を造立した旨が記された棟札が見つかり、この地での建立時期を明らかにすることが出来た。本殿は一間社流造り、屋根、旧・こけら葺き( 現・こけら葺き形銅板葺き )で、桁行2.56m、梁間2.45mの身舎に奥行1.96mの向拝がつく。土台上に立ち、身舎柱は円柱( 縁より下は八角形 )で、長押、頭貫、腰貫で固め、柱上は連三斗組となる。中備は蟇股で、正面は鳳凰、左右は牡丹の彫刻である。柱間は、正面が幣軸に板唐戸、他の三面が横嵌板となる。正面及び両側面は浜縁がめぐり、脇障子、高欄がつく。妻飾りは、虹梁・太瓶束式である。向拝柱は大面取りの角柱で、身舎柱とは海老虹梁で繋がれている。向拝柱には絵様木鼻のある水引虹梁を架し、柱上連三斗組、中備は蟇股で、竹に虎の彫刻がある。正面に五級の木階を設け、向拝柱の前面に大床を張る。軒は二重の繁棰で、飛檐棰は先端に反り増しが見られる。平成5年(1993)7月、拝殿の火災で罹災し、大きく焼損したが、平成7・8年(1995-96)にかけて浦和市の補助事業として根本修理を施し、寛文期の姿に復した。この本殿は、武蔵国一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構であり、建立年代を明らかにし、規模大きく、意匠も優れた建築として、極めて保存価値が高いと云える。平成8年(1996)11月 浦和市教育委員会・氷川神社
紹介が前後してしまいますが、鳥居の前に赤山街道の案内板が建てられていたの。
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〔 赤山街道 〕赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永6年(1629)に陣屋を構えた赤山( 川口市赤山 )に向かう街道であった。街道の起点は与野市辺りと考えられ、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。伊奈氏は清和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んだことから伊奈氏を称した。その後三河に移り、松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室( 伊奈町 )、鴻巣などに10,000石を領し、小室や土屋( 大宮市 )などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだ。三代目半十郎忠治は、関東郡代となり、また、勘定奉行も兼ね、赤山領7,000石を拝領し、赤山に陣屋を移した。忠治は治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永6年(1629)には八丁堤を築き、見沼溜井造成に着手した。現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれ、歴史と生活が結びついた道路となっている。昭和58年(1983)3月 埼玉県
3. 清泰寺
せいたいじ
10:20着 10:38発
Map : さいたま市緑区東浦和5-18-9
本堂
鐘楼
建築資材の一部と化しているような(^^;
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〔 清泰寺 〕清泰寺は、天台宗の寺で慈了山覚源院といい、平安時代初期の高僧・慈覚大師円仁( 延暦寺三世座主 )によって開かれたと伝えられている。本尊は十一面観音立像( 秘仏 )で、江戸時代初期の作とされている( 市指定有形文化財 )。境内に並ぶ351基の庚申塔は、天明3年(1783)と万延元年(1860)に建てられたもので、一括して市指定有形民俗文化財になっている。また、ここにある武田信玄の娘・見性院の墓は県の旧跡に指定されている。見性院は、穴山梅雪( 武田の武将 )の妻であったが夫の死後、徳川家康の知遇を得、大牧村を采地として与えられていたが、元和8年(1622)没して清泰寺に葬られた。見性院が養育した二代将軍・秀忠の子・幸松丸( 後の会津23万石の城主保科肥後守正之 )は三代将軍・家光を補佐し幕政で活躍した。また、本堂須弥壇に安置されている有泉勝長木牌も市指定有形文化財である。有泉家は勝長の弟・五兵衛が大牧村に居住し、子孫累代見性院の墓所に奉仕したといわれている。昭和58年(1983)3月 さいたま市
〔 清泰寺の庚申塔 〕市指定有形民俗文化財 昭和36年(1961)3月31日指定 清泰寺の境内には、垣根のように並ぶ庚申塔349基と、青面金剛像浮彫りの庚申塔一基、自然石の庚申塔一基があります。一箇所にこれだけの庚申塔がまとまって存在しているのは、非常に珍しいことです。349基には、正面に「 庚申塔 」の文字と寄進者の住所氏名が陰刻されているのみです。しかし、青面金剛像の庚申塔には、右側面に「 庚申五拾ケ度供養塔 」、左側面に「 天明三 」などの陰刻銘があります。また、自然石の庚申塔には、正面に「 三百 庚申塔 」、台座裏面に「 万延元 」などの陰刻銘があります。これらにより、349基は天明3年(1783)と万延元年(1860)とに奉納されたものであることが分かります。但し、349基は殆ど同寸同形状のため、五十庚申と三百庚申の区別はつきません。庚申塔の寄進の範囲をみると、市域はもとより、県南の各地から遠く東京、千葉にまで及び、当時の庚申信仰がいかに盛んであったかがよく分かります。平成14年(2002)10月 宗教法人 清泰寺・さいたま市教育委員会
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文化財と云う割には、上掲の写真のように、建築資材の一部と化しているかのような印象なの。
説明に依れば、349基あることになってはいるのですが、見たところ、そんなには無かったような。
石材代わりにあちらこちらで使われているのかしらん。案外、本堂の礎石としても使われていたりして。
◎清泰寺にはこの他にも次の4件の文化財があります。
本文とは直接の関係は無いけど、同じ観音さまと云うことで(^^;
〔 木像十一面観音立像 〕市指定有形文化財( 彫刻 ) 昭和36年(1961)3月31日指定
清泰寺の本尊で、12年に一度の午年に御開帳されます。像高122.0cmで、台座と円形の光背がつき、左手に水瓶を持っています。寄木造り、彫眼で、古色仕上げですが、両眼などに後世の彩色が施してあります。大きめの変化面を載せた頭部は小さめで、腰を絞った引き締まった体躯と膝まで届く長めの腕を持つ観音像です。緊張感のある写実的な表情、バランスの良い体躯、複雑で陰影のある装飾的な衣文構成などに、鎌倉時代後期以来流行した宋風彫刻の特色を顕著に見せる秀作といえます。様式技法的に見て、室町時代前半より以前に東国仏師が制作したものと考えられます。
〔 半鐘 〕市指定有形文化財( 工芸品 ) 昭和62年(1987)3月31日指定
この半鐘は銅製で、総高 64.5cm、口径 37.6cm です。毛彫りされた銘文から、宝永7年(1710)に清泰寺に納められたもので、江戸神田の鋳物師粉河市正が鋳造したものであることが分かります。総高に対して口径がやや広めですが、形の整った仕上がりの良い半鐘です。制作年、鋳物師名の明らかな近世工芸心として貴重なものです。
〔 見性院霊廟三具足 〕市指定有形文化財( 工芸品 ) 平成元年(1989)3月27日指定
三具足とは、香炉・花瓶・燭台からなる仏具です。清泰寺の三具足には三基とも毛彫りの銘文があり、寛政元年(1789)に会津藩主により見性院霊廟に寄進されたものであることが分かります。いずれも真鍮製で、時代を反映して本体は簡素ですが、香炉の蓋に獅子、花瓶と燭台にはそれぞれ一対の揚羽蝶の飾り金具がつきます。保存状態が良く、制作年などの由来が明らかな金工品として貴重なものです。
〔 有泉勝長木牌 〕市指定有形文化財( 歴史資料 ) 昭和51年(1976)3月30日指定
有泉勝長は会津藩主で、清泰寺ゆかりの藩主・保科正之より300石を与えられていました。この木牌は、勝長の37回忌にあたる元禄16年(1703)に、勝長の娘婿・勝隆が清泰寺に納めたものです。ケヤキ製で総高 84.6cm、正面に勝長の法名などが刻まれています。また他の三面には、武田信玄、穴山梅雪、見性院、徳川家康、秀忠、保科正光、正之、勝長などの事績を詳細に記す牌後譜が刻まれています。
平成14年(2002)10月 宗教法人 清泰寺・さいたま市教育委員会
そして、墓苑の最奥部にあるのが見性院墓( 見学自由 )なの。
見性院墓
見性院墓
見性院墓
見性院墓
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〔 見性院の墓 〕県指定旧跡 昭和36年(1961)9月1日指定 見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われていました。そして二代目将軍・秀忠に男子・幸松丸が誕生すると、その養育を頼まれ、7歳まで育てました。幸松丸は、後に信州高遠の城主・保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、23万石の大名となり、幕政にも参画しています。見性院は元和8年(1622)に没しました。大牧村が所領であったことから、ここ清泰寺に葬られましたが、見性院に受けた恩を忘れなかった正之は、その冥福を祈るため清泰寺に霊廟を建てました。尚、安政5年(1858)建立の現在の墓石は、会津藩により建てられたものです。会津の人々も、名君を育てた見性院を慕っていたことが分かります。平成14年(2002)10月 宗教法人 清泰寺・さいたま市教育委員会
ちょっと、冗長になりますが、もう一つ案内板があったの。
〔 見性院の墓 〕埼玉県指定旧跡 指定年月日:昭和36年(1961)9月1日 見性院は武田信玄の娘で、武将・穴山梅雪の妻になり、梅雪死後は徳川家康の庇護を受けました。慶長16年(1611)5月、二代将軍・秀忠に第4子・幸松丸が誕生( 母はお靜の方 )すると、見性院はその養育にあたりました。幸松丸は7歳で高遠( 長野県 )の城主・保科正光の養子となり、後に保科肥後守正之と称しました。家光の時代には山形から更に会津( 福島県 )23万石の藩主となり、兄・家光をたすけ、幕政に参画するようになりました。保科正之は会津松平家の祖となりました。元和8年(1622)5月9日、見性院は没し、采地であったここ大牧村清泰寺に葬られ、一本のケヤキが植えられました。また、正之は養母の死を悼み、寺境内に霊廟を造りました。元禄期になり、保科正容のとき、松平の姓と三ツ葉葵の紋が許されました。霊廟は壊れてしまったので、門扉のみがここに移され、また、墓標のケヤキも倒れてしまったので、安政4年(1857)会津藩により墓石が立てられました。昭和59年(1984)10月 清泰寺 浦和市教育委員会
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因みに、【風土記稿】には「 見性院尼墓 墓所の傍に文化年中會津家より建し石碑あり 其文左にのす 見性院殿武田甲斐守機山公信玄之女 穴山梅雪之夫人 穴山氏嗣絶 台廟以足立郡大牧邑為湯沐邑 元和八年五月九日終干東都葬邑之清泰寺 會津土津公幼承撫育之恩 追慕不巳 寛文十一年買田若干付清泰寺 使歳時作佛事而薦冥福也 」とあるのですが、見当たらなかったの。尤も、中への立ち入りは出来なかったので、あるいは墓石の傍らに建てられていたのかも知れないわね。
4. 大牧氷川女体神社
おおまきひかわにょたいじんじゃ
10:52着 10:59発
Map : さいたま市緑区東浦和6-23
大牧氷川女体神社
ゲゲゲの鬼太郎に出てくる唐傘小僧( からかさこぞう )みたい(^^;
次に、地図上にその名を見つけて気になり訪ねてみたのがこちらの大牧氷川女体神社なの。みたところ普通の神社で、村の鎮守さまの面持ちなのですが、社殿の左手に「 ゲゲゲの鬼太郎 」に出てくる唐傘小僧みたいな(^^;小さな建物があり、綺麗な布ぞうりが奉納されていたの。寺院の仁王門などでは、足の病気治癒や健脚を祈願して大きな草鞋が奉納されている光景を見掛けることがありますが、この大牧氷川女体神社でも同じような信仰があるのかしらね。見たところ、新しく建てられたもののようですが、ちょっと気になる存在ね。
〔 大牧氷川女体神社本殿・一棟 〕県指定有形文化財( 建造物 ) 昭和62年(1987)3月24日指定
大牧氷川女体神社は、見沼の谷を見下ろす舌状台地上にあり、市内宮本の氷川女体神社祭神の御子姫を祭ったと云う伝えもあります。本殿は一間社流見世棚造で、桁行 1.18m、梁間 0.95m、向拝の出 0.67mです。地覆の上に建ち、身舎柱は円柱で、腰長押と内法長押で緊結し、造り出し舟肘木桁を架してあります。妻は虹梁・いのこ扠首です。向拝柱は面取り方柱で、肘木造り出しの頭貫を通し、柱上三斗組の斗栱を配しています。中備は蟇股です。軒は一軒繁垂木で、屋根は目板葺です。身舎柱間は正面が板唐戸で、他の三面は横羽目板です。尚、正面には木階が付きます。寛永13年(1636)と貞享元年(1684)の棟札が現存していますが、前者がこの本殿の建立を示すものです。共に付指定となっています。
この本殿は覆屋の中に収められている小規模なものですが、この地域に顕著な分布を見せる見世棚造神社建築の典型的な例です。更に、棟札により建立年代が明らかであることも加え、極めて貴重な建築といえます。尚、昭和63年(1988)から平成元年(1989)にかけて、建立当時の姿に復元されています。平成14年(2002)10月 埼玉県教育委員会・さいたま市教育委員会・大牧氷川女体神社
敷地を接してある女体下公園の木々も色付きを見せ、深まり行く秋を感じさせてくれたの。
5. 見沼代用水路( 西縁 )
みぬまだいようすいろ
桜の開花時期にはすてきなお散歩道になりそうね。
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氷川女體神社へ向かい代用水路沿いの道を歩いていたら、気になる案内板を見つけたの。地域住民の方々が中心になって、水路沿いに咲くカンゾウなど、野草の保護育成活動が行われていることが記されていましたが、素敵な活動ね。桜もそうだけど、カンゾウの花が咲く頃にもう一度歩いてみたいわね。
見沼土地改良区の了解を頂き、この堤で野草を育てています。見沼田圃は徳川吉宗の干拓以来、二百数十年。今は首都圏に残る貴重な大緑地です。この自然を破壊から守り、次代に残したいと考えています。市民の運動です。ご協力下さい。堤に群生する藪萱草 やぶかんぞう ・野萱草 のかんぞう は日光キスゲなどと同じ「 百合科わすれぐさ属 」の代表格で、花は野かんぞうは一重咲きで赤橙色、藪かんぞうは雄しべ花弁化して八重咲き朱橙色です。七月初旬から中旬が最盛期となるでしょう。秋には曼珠沙華・野菊も咲きます。野草の持ち去り、園芸品種の移植はご遠慮下さい。藪萱草が「 わすれ草 」と呼ばれるのは、この草を下着の紐に結んでおくと、憂いを忘れると云う中国の古い民間伝承からで、万葉集の大歌人、大伴旅人・家持父子の歌で有名です。 忘れ草わが紐につく香具山の故りにし里をわすれむがため 旅人 巻三
忘れ草を下着の紐につけました。香具山のあたりの故郷恋しさを忘れるために。
九州大宰府の長官として在任中の故郷明日香への望郷の歌
忘れ草わが下紐につけたれど醜 しこ の醜草言 しこぐさこと にしありけり 家持 巻四
恋の苦しさを忘れるため、下着の紐につけてみたけれど、 このバカ草め、言葉だけで何の役にもたたなかった。 やはり、忘れられない年来の恋人、後に正妻となる坂上大嬢 おおいらつめ に贈った相聞歌
また、曼珠沙華( 古名・壱師 )の歌もあります。
路の辺の壱師の花のいちしろく人みな知りぬわが恋妻 柿本人麻呂 巻11
路のほとりに咲く壱師( 曼珠沙華 )の花のように、はっきりと人はみな知ってしまった、私の恋妻を。
文選 渡辺武・泰子 平成11年(1999)4月 見沼かんぞうの花を咲かせる会
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参考までに途中にある浅間橋の通過タイムをお知らせしておきますね。ξ^_^ξのノンビリとした足取りではこの日は 11:08着発 でしたので、更に35分程歩かなくてはならなかったの。氷川女體神社を参拝した後で、もう一度、浅間橋まで戻ることになるので、往復一時間は優に掛かる計算よ。ちょっと気合いが必要かも知れないわね。
6.見沼氷川公園
みぬまひかわこうえん
11:42着 11:58発
Map : さいたま市緑区緑区大字見沼500
ようやく見沼氷川公園に到着よ。同園は、氷川女體神社の社前に広がる公園で、大部分を芝生広場が占めますが、広さは23,000m²もあるの。公園の一角には文部省唱歌「 案山子 」の発祥の地碑が建てられ、嘗て氷川女體神社で行われていた磐船祭の祭祀遺跡もあるの。祭祀遺跡の方は改めて御案内するとして、先ずは園内を軽くひとめぐりしてみましたので、紹介しますね。
唱歌「 案山子 」発祥の地碑
この地が、尋常小学唱歌「 案山子 」のふるさとである。国定教科書の編纂官であった武笠三 むかさ さん が、他の幾つかの唱歌と共に作詞した。彼こそ、ここ三室に生まれた人である。嘗て 1,200ha の沼であった見沼は、江戸中期に干拓され、稲穂がたわわに稔る田園となった。作詞者の感性を育んだ光景である。唱歌のふるさとを浦和市民の誇りとして永く伝えようと「 つくる会 」を結成し、多くの市民のご協賛のもとに、記念の碑を建立した。唱歌「 案山子 」発祥の記念碑をつくる会
〔 案山子 〕
山田の中の一本足の案山子 / 天気のよいのに蓑笠着けて
朝から晩までただ立ちどおし / 歩けないのか山田の案山子
山田の中の一本足の案山子 / 弓矢で威( おど )して 力( りき )んで居( お )れど
山では烏( からす )がかあかと笑ふ / 耳が無いのか 山田の案山子
〔 武笠 三 〕明治4年(1871)、当地にある氷川女體神社の神官を代々勤めていた武笠家の長男として、三室村( 現・浦和市宮本 )に生れた。東京帝国大学卒業後、旧制四高、埼玉県第一中学( 現・浦和高 )、旧制七高で教鞭をとる。明治41年(1908)、文部省に呼ばれ、17年間にわたり国定教科書の編纂に携わった。「 案山子 」は第二学年用として作詞された。昭和4年(1929)没。< 記念碑 > 造形家 島田 忠恵 < 揮毫 > 国語学者 金田一春彦
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御船祭の龍神伝説 =残された見沼= 遠い昔から、見沼の一番深いところに神輿を乗せた舟を繰り出し、沼の主の龍神を祀るために「 御船祭 」と云うお祭りが行われていました。ところが、見沼を干拓して田圃にするということになると、永年続いていた「 御船祭 」が出来なくなってしまいます。田畑に水を与え、人々を見守ってくれる龍神を大切にするお祭りが出来なくなっては、人々が感謝の気持ちを表すことも出来ません。そのお祭りを行っていたのは、この氷川女體神社です。そこで神社は、幕府にそのことを告げたのです。すると幕府は、神社の前にまるで手鏡のように、見沼の水を残し、中央に土壇場と云う出島を造り、お祭りの場を残してくれたのです。見沼の龍神は、干拓と同時に天に昇り、今でもこの辺りを見守ってくれているといいますが、それだけではありません。この残された見沼に時折来ては泳いでいるのです。もしかすると、コイに姿を変えて泳いでいるのかも知れません。
※「 御船祭 」は干拓後「 磐船祭 」となり、その後「 祇園磐船龍神祭 」として毎年5月4日に行われています。平成22年(2010)3月14日 浦和東ロータリークラブ40周年記念事業
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7. 磐船祭祭祀遺跡
いわふねさいさいしいせき
11:58着 12:08発
Map : さいたま市緑区見沼5381
参道の左手には弁天さまを祀る宗像社も。
愈々祭祀場へ。
周囲は池で囲まれているの。
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〔 氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡 〕さいたま市指定史跡 昭和54年(1979)3月29日指定 氷川女體神社では、嘗て御船祭と呼ばれる祭礼が行われていました。これは、毎年或いは隔年の9月8日に御座船に乗せられた神輿が見沼を渡って下山口新田の御旅所に渡御するもので、見沼の中に設けられた祭礼場跡では、何度も繰り返し竹を立てた跡や、祭礼に伴うとみられる銭などが夥しく出土しまし た( 四本竹遺跡 )。この御船祭は、見沼と深いか関わりをもった氷川女體神社の根本祭礼でした。しかし、享保12年(1727)に見沼の干拓が行われると、御船祭は行えなくなりました。そこで、新たに祭礼場を造成して、御船祭の代わりの祭礼が行われることとなりました。これが磐船祭です。新たな祭礼場は、氷川女體神社境内の前にある見沼の干拓地に柄鏡形に池を掘り、その中に土を盛って造られました。高台にある境内から、参詣路の石段を降り、見沼代用水を渡ったところから、陸橋( 御幸道 )が設けられ、祭礼場へと通じていました。祭礼場は直径 30m の円形の島で、その中央には四本の竹で囲んだ斎域が設けられていました。ここに神輿が渡御し、御船祭に代わる祭礼としての磐船祭が行われていました。磐船祭は享保14年(1729)9月8日に初めて行われ、幕末から明治の初期頃まで行われました。その後、磐船祭は途絶えましたが、祭礼場の跡はそのままに残されてきました。見沼と関係の深い関わりを持った氷川女體神社の祭礼を物語る遺跡として、極めて重要なものです。尚、昭和57年(1982)に氷川女體神社と旧浦和市教育委員会によって、復元整備事業が行われました。さいたま市
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気になるのが、この祭祀場での磐船祭に先だって行われていたと云う御船祭のことよね。現在は芝川第一調節池となっていますが、当時はその辺りが見沼でも一番深いところで、御船祭のときにはそこへ4本の竹を立て、女體社から御座船で移動すると、沼の主である龍神に御神酒を献じていたの。調節池建設の際に行われた発掘調査( 四本竹遺跡 )では、突き刺された状態の竹790本と、97枚もの古銭が出土しているの。御船祭は隔年( 説明では毎年或いは隔年とあるけど )の開催で、一回の祭祀で4本の竹が使用されたとすると、約200回、400年近く祭祀が行われていた計算になるの。
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加えて、江戸時代には四本竹周辺の水田からは朽ちた竹が多く出ていたと云うことから、刺された竹は実際には更に多かったのではと考えられているの。古銭にしても、一番古いものでは、中国の唐時代の開通元寶が発見されたのだとか。さて、その御船祭の祭祀とやらがどのようなものであったのかが大いに気になりますが、遠い昔のことなので映像に残されている訳でもなくて(^^;、代わりに女體社の由緒書に記されているところを引いておきますね。それに依ると「 神主以下此月朔日より豫め別に潔斎し 此間數度の神事あり 五日には垢離取と稱して 神主以下凡そ神事に與かる者は 悉く船にて川口町に至りて荒川の水に浴し 身禊の神事を行ひて歸り 當祭典終つて神璽を神輿に遷し 神主以下警固して沼邊に至り 神輿を裝飾したる御舟に移し 漕ぎ出すこと一里餘にして 湖の中央なる斎場( 湖中東西南北の四隅に竹を建て注連繩を張る )に至りて 東西南北に向ひて 各其の方角に立ちたる竹の本に 餠・赤飯・御酒の三種を沈め 神主祝詞を奏し 次に奉幤 次に御神樂あり 式了りて御舟を漕ぎ戻し 神璽を本社に鎭め奉り 祝詞を奏して退散す 」とあるの。少しはイメージして頂けたかしら。
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江戸時代になると磐船祭へと姿を変えたことに加え、幕府の庇護を受けて天下泰平や将軍家の武運長久なども祈願するようになり、武蔵一宮として、祭りの形態も、また、その内容も変わってしまったの。見沼の干拓に伴い嘗ての斎場を失い、代替地としてこの祭祀場を得たわけだけど、原始信仰の姿を留めていた御船祭は、長きにわたり行われていたその歴史に幕を閉じることになってしまったの。
8. 氷川女體神社
ひかわにょたいじんじゃ
12:08着 12:23発
Map : さいたま市緑区宮本2-17-1
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〔 氷川女體神社 〕当社は旧見沼を一望できる台地の突端「 三室 」に鎮座する。見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保12年(1727)の新田開発までは、12Km²と云う広大なものであった。この沼は御手洗 みたらし として当社と一体であり、ここに坐す神は女體神、則ち、女神であった。創建の由緒は明和4年(1767)に神主・武笠大学の記した【武州一宮女躰宮御由緒書】( 大熊家文書 )に依ると、「 崇神帝之御勧請 」「 出雲国大社同躰 」とある。また【神社明細帳】控には、見沼近くにある当社と、現在のさいたま市大宮区高鼻鎮座の氷川神社、同市中川鎮座の中山神社( 氷王子社 ひのおうじしゃ )の三社を合わせ、氷川神社として奉斎したと載せる。中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀 みつうろこもんひょうごくさりたち は北条泰時の奉納と伝える。祭祀は御船祭と称し、隔年の9月8日に見沼に坐す女神に対して行われた。しかし、古来より続けられてきた御船祭は、享保12年(1727)、見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。このため、やむを得ず、磐船祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし、同14年(1729)9月から斎行された。下山口新田には、祭場遺跡として「 四本竹 しほんだけ 」の地名が残るが、近年の発掘調査では、多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹叢であることから、昭和56年(1961)に埼玉県より「 ふるさとの森 」の第一号として指定された。主祭神:奇稲田姫命・大己貴命・三穂津姫命
〔 浦和市氷川女體神社社叢ふるさとの森 〕昭和56年(1981)3月20日指定 身近な緑が姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この社叢が「 ふるさとの森 」に指定されました。社叢は、神社の歴史的遺産と一体となり、本県でも有数のふるさとを象徴する緑です。祭神として奇稲田姫命 くしいなだひめのみこと が祀られ、神社は崇神天皇の御代に造られたと伝えられています。境内には、クス・シラカシ・モチ・ヒサカキなどが生育しています。今後も皆様の手でふるさとの森を守り、育てて下さるようお願いします。昭和56年(1981)12月 埼玉県
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〔 氷川女體神社社殿 一棟 〕付 寛文7年(1667)銘棟札・一枚
埼玉県指定有形文化財( 建造物 ) 平成19年(2007)3月16日指定
この社殿は、17世紀の造営であり、本殿と拝殿を幣殿で繋ぐ複合社殿です。一番奥にある本殿は、朱塗りの三間社流造の建物です。三間社とは、正面の柱と柱の空間が三つあるので三間社と表現します。屋根は切妻造の前方が長く延び、なだらかな曲線を描く流造となっています。本殿と拝殿を繋ぐ幣殿は、間口を本殿に合わせ、屋根は切妻造で、二方向に葺下しています。拝殿は入母屋造の建物で、屋根の正面には三角形の千鳥破風と、軒から起こり曲線を持つ軒唐破風が施されています。現在、屋根は銅板葺ですが、平成23年(2011)の社殿修理時に、古い柿葺が残存していることが確認されました。寛文7年(1667)銘の棟札には、4代将軍家綱が忍藩主・阿部忠秋を奉行として「 武蔵国一宮簸河女體大明神 」本殿の工事を行った記載があり、江戸幕府の公式歴史書【徳川実紀】には、その修理費用が300両であったとも記録されています。この本殿は、本県に於ける代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であり、幣殿・拝殿を含め、社殿として一括して埼玉県の文化財に指定されています。〔 社殿側面図略す 〕氷川女體神社・さいたま市教育委員会
〔 氷川女體神社社殿 一棟 〕付 寛文7年(1667)銘棟札 平成19年(2007)3月16日指定
氷川女體神社は武蔵国一宮と称され、また、古来より御船祭を行う神社として知られています。中世以降は武家の崇敬が厚く、当社所蔵の三鱗文兵庫鎖太刀( 県指定有形文化財 )は鎌倉幕府執権・北条泰時の奉納と伝えられ、戦国時代には岩付太田氏や小田原北条氏の庇護を受けていました。江戸時代になると、徳川幕府から社領として50石の地を寄進されました。また、当社に残る寛文7年(1667)銘の棟札等により、本殿は江戸幕府4代将軍・徳川家綱が再興したものであることが明らかとなっています。社殿は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、権現造の形式となっています。本殿は三間社流造で、正面三間( 3.56m )、側面二間(2.11m )、更に向拝がついています。幣殿は両下造で、正面一間( 3.56m )、側面二間( 3.63m )です。拝殿は入母屋造で、正面五間( 9.46m )、側面二間( 4.57m )です。更に向拝がつき、その向拝には千鳥破風及び唐破風がついています。平成23年・24年(2011-2012)に社殿修理が行われ、屋根が柿葺きの時期があったことが分かりました。この社殿は、埼玉県に於ける代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であるとして、平成19年(2007)に埼玉県の有形文化財に指定されました。さいたま市
道標
社殿の左手に転がっていた(^^;力石。重さは70貫目( 262.5Kg )だそうよ。
〔 氷川女體神社の道標 〕元々赤山街道沿いの大間木水深( 浦和 )の地にあったこの石碑には、「 武蔵国一宮 」「女體宮道 」とあって、幕末の弘化2年(1845)に当社への道しるべとして赤山街道に面して建立されたものである。また、当社から北西約400mの住宅地の中には石造の鳥居がありますが、これは安政2年(1855)に、馬場方面から参詣する人達の便を考えて、大門宿の石工に作らせ、氏子達が奉納したものです。幕末の頃に相次いで建てられたこの石碑や鳥居は、建立する必要に迫られるほど、当社への参詣客は非常に多く、篤い信仰を得ていたことを物語る貴重な資料となっています。
見沼の龍神さまが祀られているの。
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〔 龍神社 〕この龍神社には、さいたま市の龍伝説に因んだ龍神さまが御座します。嘗て広大な沼であった見沼の辺の、ここ武蔵一宮氷川女體神社には、長年に亘り、神輿を乗せた船を沼の最も深いところに繰り出し、沼の主である龍神さまを祀る祭祀・御船祭を執り行ってまいりました。享保12年(1727)8代将軍吉宗公の政策で、見沼は干拓され見沼田圃となってから、このお祭りは磐船祭として今尚続けられております。遺跡に依れば御船祭は14世紀から行われていたとも推定されます。世界最古の閘門式運河と云われる見沼通船堀など、見沼には数々の歴史財産が秘められております。見沼を中心として、さいたま市内に点在する数多くの龍神伝説もその一つと云えます。見沼代用水と見沼代用水から西へと引いた高沼用水、その二つの灌漑用水で田畑を耕す地域と、見沼に関わる地域は、ほぼさいたま市全域に及んでいます。さいたま龍神まつり会は、文化と歴史を活かした誇りのもてるまちづくり−を目的として平成13年(2001)5月に、約50mの巨大な昇天龍を制作し、龍神祭を開催致しました。
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現地案内板の引用が続いてしまいましたが、実は、氷川は、出雲を流れる斐伊川( 古くは簸川 ひのかわ )からの転化なの。簸川の名は知らなくても、出雲神話の一つ、八岐大蛇のお話は御存知よね。簸川はその八岐大蛇神話の舞台でもあり、氷川社の祭神が素戔鳴尊と奇稲田姫である由縁もそこにあるの。説明にもあるように、嘗ては大宮氷川神社( 男体社 )・氷川女體神社( 女体社 )・中山神社( 氷王子社 )の三社が同一体と見做されていて、同じ出雲の神を祀り、神主家もその祖を出雲族としているところから、この地にやってきた出雲族がその祖先神を祀り、そこから信仰が始まったのではないかと考えられているの。
地名の三室にしても神社や神域のことを指す「 御室 」からの転化と考えられているの。その御室もまた霊室( みむろ )からの転化のようよ。原始古代では族長など首長級の者が亡くなると、山の岩屋にその亡骸を葬っていたの。その岩屋が霊( み )の宿る室の意から霊室と呼び、「 み 」室のある山を「 み 」室山と呼ぶようになっていたの。死者の霊は山上にある岩の上から昇天し、後に神となって元の岩に降臨し、山に宿ると祖霊神となり、子々孫々を守護していくと信じ、祖霊の宿る山の正面を祭祀の場として祖霊祀りをしていたの。三室=御室=霊室と云うわけね。
【江戸名所図会】の「 宮本簸川大明神の社 」の項には「 宮本の郷 三室山の南麓にあり云々 」とあり、現在は公園として整地されていて、地勢も大きく変わってしまったみたいだけど、江戸時代には未だその名残を留めていたようね。嘗ての女體社の背後は三室山と呼ばれる小高い丘になっていて、そこには岩で造られた霊室があったのではないかと推考されているの。
嘗て依代として使われていた石?
因みに、さきたま出版会刊【みむろ物語】には石段を上がる左手に坊主石と呼ばれる石があると云うので探してみたのですが、木に抱え込まれたと云うか、めり込んでいるというか、無造作に捨て置かれたような角柱石を見つけたの。同著に依れば、坊主石は、嘗て行われていた祖霊祀りの際に神霊を依りつかせる依石として使われていたものではないかとも。But 氷川女體神社の祭祀のルーツとも云える依代を、まさかそんな邪険に扱うハズはないわよね−と云うことで、この角柱石は坊主石じゃないのかも知れないわ。それとも、本当にこれが依代石?真偽の程は御覧の皆さんの御賢察にお任せよ。
9. 旧参道鳥居
きゅうさんどうとりい
12:28着 12:31発
Map : さいたま市緑区宮本1-5-24
旧参道鳥居
鉄製の強固なガードに護られて、スゴイことになっていますが、紹介した「 氷川女體神社の道標 」の説明の中に「 当社から北西約400mの住宅地の中には石造の鳥居がありますが、これは安政2年(1855)に、馬場方面から参詣する人達の便を考えて、大門宿の石工に作らせ、氏子達が奉納したものです 」とあるのが、この旧参道鳥居なの。左側の石柱には「 当御宮広前 」・「 安政二年乙卯秋八月上浣※建之 」と刻み、右側の石柱には「 奉献 氏子中 」、「 幸美拝書 大門宿 石工清次郎 」とあるの。
※上浣とあるのは上旬の意なの。浣は訓読みでは「 あらう 」となり、古代中国では官吏に10日毎のお休みがあり、休息&沐浴をしていたことから、上浣・中浣・下浣のことばが生まれたのだとか。だったら、難しくしねえで「 上旬 」でいいじゃんかよお−と思われるかも知れないわね。But 神域への入口であることを示す鳥居を奉納するわけですから、洗い浄めの意味を兼ねて「 浣 」の字を充てたのでしょうね、きっと。
10. 浦和くらしの博物館民家園
うらわくらしのはくぶつかんみんかえん
13:16着 14:03発
Map : さいたま市緑区大字下山口新田1179-1
帰宅時間とするには早過ぎたので、足を延ばしてみたのがこちらの民家園。見沼代用水路に架かる浅間橋からだと10分位のところにあるの。交通量の多い幹線道路を歩くことになりますが、車歩道が完全分離していますので、車の往来を気にせずに歩くことが出来るので安心よ。それはさておき、この民家園では、主に旧浦和市内に残された伝統的な建物が移築&復原されているの。現在ある7棟の建物の内、6棟が文化財に指定され、中でも旧浦和市農業協同組合三室支所倉庫は国登録文化財になっているの。国の文化財とあっては中の見学は無理かしらと思いきや、内部は民俗資料を紹介するミニ展示室になっているの。
それぞれの建物の内外には案内板が立てられていましたので、ここではその転載を以て紹介に代えますね。
それをひとは他力本願、または、手抜きとも云う。
♠ 旧浦和市農業協同組合三室支所倉庫 ♠
国登録有形文化財 第11-0003号
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国登録有形文化財( 建造物 )平成9年(1997)7月30日登録 旧所在地:さいたま市緑区三室 寄贈者:旧浦和市農業協同組合 建立年代:大正8年(1919) この倉庫は、栃木県小山市で大正8年(1919)にかんぴょう問屋の倉庫として建築されたものです。昭和31年(1956)に旧浦和市農業協同組合三室支所( 現・さいたま農業協同組合三室支店 )に移築され、政府指定米穀倉庫として使用されていました。これを旧浦和市が寄贈を受け、平成6年(1994)に移築復原しました。大谷石土蔵造りで、間口 27.77m、奥行き 7.27m、高さ 9m、トラス小屋組の寄棟で、屋根が瓦葺となっています。内部は中央で仕切られ二部屋となり、それぞれ均整の取れたアーチ形の入口が設けられています。大谷石で造られた倉庫は、市内では農業協同組合の倉庫として数棟知られていましたが、この倉庫は年代も古く、建築技術も立派であり、国の登録有形文化財に登録されました。
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♠ 旧高野家住宅 ♠
旧高野家住宅
茅葺き屋根は旧浦和地域では草葺き屋根とも呼ばれています。屋根の形は切妻造り・寄棟造り・入母屋造りの3種類に分けられます。民家園に展示されている旧高野家住宅を始め3軒の茅葺き民家は、いずれも寄棟造りです。寄棟造りの最大の特徴は、冬の季節風と多方向からの雨を防ぐのに最適な構造である点です。移築前の旧高野家住宅は瓦葺きの屋根でした。しかし、民家園に移築復元するに当たり調査した結果、柱跡から元は茅葺き屋根であったことが判明しました。明治期後半に瓦葺きに変えられたと伝えられており、調査でも裏付けられています。
この家は、江戸時代後期( 安政期 )の頃に建てられたものです。正面の軒の出を強調した出桁造りが特徴です。浦和区岸町7丁目の、浦和宿の中山道に面して建っていました。当初は傘製造業の建物でしたが、明治40年(1907)頃、煎餅製造を営む高野家が買い取ったものです。江戸時代の建築技術を知る上で、大変貴重な建物です。
旧高野家住宅の家の造り : 寄棟造りで江戸期の商家の規模を伝える造りになっています。入口から入ると、先ず土間があり、接客ゾーンになっていたようです。奥にある土間は作業場になっていたと思われます。建物の中に井戸があることも特徴の一つです。
屋根裏の骨組みの様子よ。
家屋の中に井戸があるの。
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この建物には言い伝えがあります。建築途中に安政の大地震〔 安政2年(1855)10月2日 〕が起こったと云うのです。残念ながら、これをはっきりと裏付ける資料などはありません。しかし、部材の仕上げや建築工法などからも、江戸時代末期の安政年間の建築と考えられ、現存する中山道浦和宿の商家としては、最も古い建築とみられています。高野家は、中山道沿いの岸町7丁目にあった煎餅店です。宿場の商家として典型的な「 間口に対して奥行きの長い 」つくりで、通りに面した店舗と、その後ろに続く住居部分からなっていました。現在、復原された旧高野家住宅は、中山道に面していた店舗兼作業場部分です。下の写真( 掲載省略す )は、移築前の高野煎餅店です。建築当初は茅葺だった屋根を明治40年(1907)頃に瓦葺に変えていたことが、解体調査で裏付けられています。民家園への移築に際し、建築当初の形に復しました。屋根は寄棟・茅葺で、正面に軒の張出しを大きくする出桁造りと瓦葺の下屋庇が付いています。内部は正面から入って左側が土間、右側は床上で大黒柱を境に8畳のミセと6畳の板の間に分かれます。土間とミセの上は屋根裏で、物置として使われており、土間に入って直ぐの天井には荷物を上げ下ろしできる吹き抜けがあります。屋根裏へは、土間の奥から梯子を掛けて上がりました。土間中央の壁面沿いには井戸があります。また、土間奥左の壁に煙出しの小窓が切ってあることから、当初はこの下あたりに竈が設けられていたと考えられます。平成13年(2001)2月27日 市指定有形文化財
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お煎餅屋さんだった頃の店舗部分
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〔 高野煎餅店 〕高野家の先祖は、江戸時代の初め頃に高野山からこの地へやってきたのでタカノを名乗ったと伝えられています。明治の初め頃、現当主の曾祖父・富蔵氏の代に調神社にほど近い中山道沿いで、煎餅の製造販売を始めました。当初はこの建物ではなく、中山道を挟んで東側の建物でした。中仙道西側にあったこの建物は、明治後半になって煎餅店二代目・金三郎氏が傘製造業・池田彦吉家から買い取ったものです。煎餅作りの作業場は土間でした。土間にある井戸は、煎餅作りに欠かせないものでした。嘗ては朝4時頃より生地を作り、10時頃に焼き始め、昼頃からミセで販売をしたそうです。草加など、日光街道沿いの煎餅は、焼くときに押瓦で押さえて形を整えますが、高野煎餅では網で挟んで裏面に返しながら焼きました。そのため、押さえて焼く煎餅が堅めに仕上がるのに比べ、やわらかく軽めの煎餅になりました。戦前から戦後にかけては、住み込みの従業員と家族の合わせて10人ほどで仕事をしていました。戦中・戦後の食糧難の時期は、煎餅にする米が不足し、お客さんが持ってきた米を煎餅に加工して委託加工費を貰うことで商売を続けたと云うことです。昭和40年代半ばからは、生地屋から生地を買うようになります。手焼きも昭和50年頃までで、その後は機械化されました。この建物では、平成12年(2000)まで煎餅の製造販売をしていました。現在、高野煎餅店は東浦和駅前に移転されています。
上記の説明に「 高野煎餅店は東浦和駅前に移転 」とあったので、折角だもの、お土産に買って帰ろうかしら−と思って調べてみたら、さいたま市緑区東浦和5-1-11 に、高野煎餅ビルと云う建物はあるのですが、現在はテナントが入居するのみなの。お煎餅屋さんの方は廃業してしまったみたいね。残念ね。
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型紙
型抜き
焼き網
型紙 : 煎餅を入れる茶箱などの印刷用に使った型紙です。店名、商標( 丸にタの字 )、電話番号等の記入に用いました。マッチ箱に記載された番号 6092 は、昭和33年頃に使われていたものです。桁数の少ない番号の方が、電話の普及台数の少なかった古い時代のものです。
型抜き:戦前に使っていた型抜きです。薄く延ばした煎餅生地の上に、この型抜きを転がすようにして形を抜きます。丸型・松竹梅型・桜型の三種類です。
焼き網:乾燥し、温めた生地をこの焼き網で挟み、裏面に返しながら炭火で焼きます。押瓦で押さえながら焼く方法に比べ、柔らかめで軽い焼き上がりの煎餅になります。
♠ 旧綿貫家住宅 ♠
旧綿貫家住宅
大きな金庫が。
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旧綿貫家住宅は、建築年代が明らかになっていませんが、建物の構造・手法などから江戸時代から明治時代にかけての建築と推定され、明治21年(1888)に起こった浦和宿の大火の際に焼け残ったと伝えられる漆屋造りの貴重な資料です。屋根は切妻造り、瓦葺で、正面に3尺5寸の下屋庇が付きます。一階は、南側が土間で、北側は板敷きと三畳敷の畳からなる店部分と、後方( 東側 )の4畳ほどの板敷の部分からなります。箱階段を上がると、屋根裏を利用した厨子と呼ばれる二階があります。東側に幅一間の板敷き、西側に畳敷6畳の二部屋で構成されており、床は一階の天井を兼ねていて、板敷きの一部は取り外せます。ここから荷物の上げ下げが出来るようになっていました。厨子( 二階 )には虫籠窓 むしこまど と呼ばれる窓が正面に二ヶ所あります。縦格子の風情が虫かごに似ていることからこう呼ばれています。また、軒裏部分を防火のため、粘土と漆喰で厚く塗り込めたハチマキが幅広く覆っているため、虫籠窓の上半分はこの部分を切り取って作られています。そのため、窓の上半分の両脇の壁は上に行くに従って厚くなり、独特の雰囲気を醸し出しています。旧綿貫家住宅は解体前は、黒壁に覆われた建物でした。理由は分かりませんが、黒漆喰ではなく、後々白漆喰に墨を塗ったものであることが調査により判明しました。寄贈者:綿貫與助 平成12年(2000)3月28日 市指定有形文化財
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〔 浦和宿 〕浦和宿は、戦国時代に発生した市より発達したものと考えられ、江戸時代に整備された中山道の宿場町として発展しました。弘化年間(1844-48)に作られた【 宿並絵図 】に依ると、中山道筋には、上町( 現在の浦和区常盤 )96軒、中町( 現在の浦和区仲町 )47軒、下町( 現在の浦和区高砂 )69軒とあり、旅籠屋を始め、穀屋・水油屋・飲食店・建具屋・道具屋などの多種の店が軒を並べていたことが分かります。その町並みは、中山道を中心に裏通りまでの短冊型の地割りがされており、隣家に接する 1m 程の道があり、その道に沿って屋敷稲荷・蔵・物置などがあることが窺えます。綿貫家も東西の長細い敷地の中に、中山道に面して間口( 4間 )を西に向け、店蔵・裏座敷・倉庫などが並んでいました。明治21年(1888)3月15日、上町の青物市場から出火した火事は、宿の2/3を焼き尽くしました。この大火のため、それ以前の建物は極めて稀です。この火事の教訓により、商家の屋根は防火のため茅葺きから瓦葺となり、また、土蔵造りの商家が建築されていくようになります。
大きなレジスターね。腱鞘炎になってしまいそう(^^;
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〔 旧綿貫家住宅について 〕この家は江戸時代末から明治初期の頃に建てられたと推定されています。塗屋造りと呼ばれる伝統的な技法で、忠実に復原されたものです。浦和区常盤2丁目の、浦和宿の中山道に面して建っていた肥料・荒物( 雑貨 )・砂糖などを扱う商家でした。明治21年(1888)の浦和宿の大火に焼け残ったと伝えられています。
旧綿貫家住宅の家の造り : 切妻造り、平入り※、二階建で屋根は瓦葺です。入口から入ると土間があり、接客ゾーンになっていました。防火対策として外壁や軒裏を漆喰で塗ってあります。二階( 厨子 )には虫籠窓 むしこまど と呼ばれる格子窓があります。 ※平入り ひらいり :平入りは正面に入口があるもの。側面に入口があるものを妻入り
〔 綿貫商店 〕綿貫家は、主に肥料と荒物を扱う商家で、明治35年(1902)刊行の「 埼玉県営業便覧 」に「 荒物商 綿貫助四郎 」と「 肥料綿貫與助 」が併記されています。本家助四郎氏から與助氏が分家として、明治の初め頃、本家の南側に店を構えたそうです。荒物とは、通常ザルやホウキ、チリトリなどの雑貨を指します。綿貫商店でも、雑貨を取り扱ってはいましたが、肥料や砂糖、小麦などの中卸と、大口客相手の商売をしていました。本家は現在途絶えてしまい、この地でいつ頃から商売を始めたかは不明ですが、弘化年間(1844-1848)に書かれた【 宿並絵図 】等により、江戸時代の後期にはこの地に住み着いていたのではないかと思われます。
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♠ 旧丸山稲荷社本殿 ♠
旧丸山稲荷社本殿
この神社本殿は、市内桜区西堀8丁目の氷川神社から平成17年(2005)に移築されたもので、丸山稲荷社と呼ばれ、同神社の末社でした。本来、西堀の舌状台地の先端に接してある独立丘で、文字通り丸山と称されていたところにあった神社ですが、早くから氷川神社に移されていました。一間社流造り、屋根板葺きで、身舎 もや 桁行き 60cm、梁間 50cm、庇の出 46cmで、身舎柱は方柱です。棟札が残されており、それに依ると、元文3年(1738)3月に上宮( 西堀の字名 )の村田作五右衛門が願主となり、新開村 しびらきむら ( 現・桜区 )の大工・小嶋兵衛門が建立したことが分かります。
宮大工ではない村の大工が建てた神社本殿です。この時期( 江戸時代中期 )は、流造りの本殿が各地に建てられた時期ですが、宮大工によらないで、これほどの建築が出来る大工が村にいたことも見逃せません。技法的には一流とは云えませんが、正規の神社本殿建築の例を学び、設計施工したものと思われ、近世の、村の神社本殿の整備などを知る上でも貴重な遺構です。浦和くらしの博物館民家園
〔 農業の神から商売の神へ・お稲荷さん 〕古い農家の庭先や神社の境内には「 お稲荷さん 」が見られます。お稲荷さんは「 いねなり 」から転化した名前です。本来の神像は稲を荷った農民の姿で現されています。赤い鳥居は雷の稲穂に宿り豊作をもたらす炎( エネルギー )を意味すると云われます。その後、仏教の荼吉尼天と合体したため、狐がお使いとなりました。江戸時代の中頃には、農業の神から殖産興業の神、商売繁盛の神、屋敷神( 家神 )へと信仰が広がり、街中のあちこちで見られるようになりました。当時の普及振りを、江戸の街中に数多くあるものをあげ、「 伊勢屋・稲荷に犬の糞 」と揶揄した「 うた 」が残されています。
♠ 庚申塔 ♠
庚申塔
〔 健康長寿を願う庚申塔 〕庚申塔は庚申信仰により、地域で結び付いた人達( 庚申講 )が講中の健康長寿を願い、つくり立てたものです。庚申信仰とは、昔( 明治時代以前 )、月日( カレンダー )を十干十二支で表していましたが、60日に一度めぐってくる庚申の日の夜は、体の中にいる三尸虫( 上尸・中尸・下尸 )が抜け出し天に昇り、その人の暮らしぶりの中で悪いことを訴え、命を縮めると云う信仰に従い、庚申の夜は講中が集まり、寝ずに楽しく過ごし、三戸虫が昇ることを妨げ、健康長寿を願う民間信仰です。
また、村境で疫病神の侵入を阻止する役割りも与えられ、村人の出入りを守る神としても信仰され、村境の辻に立てられました。更に、村境に立てられたものには、道標の役割をも果たしている石塔もあります。いつの時代でも庶民の健康願望はつきません。身近な庚申塔の伝承、庚申信仰の由来を調べ、昔の人の健康長寿への顔いと、現代の人の健康長寿への願いを比べると興味深いと思います。浦和くらしの博物館民家園
ここで CM よ。庚申塔や庚申信仰についてもっと詳しく知りたいな−と云う方は
ねえねえ、庚申塔ってなあに?を御笑覧下さいね。
♠ 旧野口家住宅 ♠
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さいたま市指定有形文化財( 建造物 ) 平成10年(1998)3月10日指定 所在地:さいたま市南区大谷口 寄贈者:野口 文子氏 建築年代:安政5年(1858) この住宅は、さいたま市南区大谷口の野口家から旧浦和市が寄贈を受け、平成10年(1998)に移築復元したものです。野口家は、代々旧大谷口村の安楽寺の住職を勤めた家で、この建物は庫裏として使われていたものです。同寺は明治初年に廃寺となり、旧所在地に移され、同家の母屋として使用されていました。この地方の典型的民家の特徴である茅葺寄棟造り、平屋平入りとなり、桁行 13.64m、梁間 8.1m、棟高 8.7mで、田の字型四間取りとなります。南側及び西側( 後補 )に廊下を付けています。建築年代は、床の間床板から安政5年(1858)の墨書が確認され、この時期、または、それ以前の建立と考えられます。背が高く、せがい造りによる深い軒の出と、大きな屋根を持った優れた意匠となっています。また、寺院の庫裏であるにも係わらず、この地域の民家の様式がそのまま見られ、更に、移築された当時の歴史的背景など、資料価値の高い建物です。
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民家園の東側から南側にかけて池が造られているのですが、下掲の景色が見える南側の池の畔に「 四本竹の龍神伝説 」の案内板が立てられていたの。内容的には既に紹介済みのものですが、園内にあるものとして参考までに御案内しておきますね。説明には「 この前方に四本竹と云うところがあります 」とあるので、何か目印になるようなものがあるのではないかしら−と期待したのですが、視線の先には、草木の生い茂る見沼たんぼが広がるばかりで(^^;
何か目印になるようなものがあるのでは−と期待したのですが。
〔 四本竹の龍神伝説 〕この前方に四本竹 しほんだけ と云うところがあります。その地名は、昔、四本の竹を四方に立てて注連縄を張り、そこを祭祀の場としてお祭りを行っていたことからその名がつきました。その辺り一帯は、見沼と云う大きな沼で、沼の主の龍神が棲んでいたと云います。「 昔々、宮本の氷川女體神社は2年に一度、見沼の一番深いところに御輿を舟に乗せていき、沼の主の龍神を祀る御船祭と云うお祭りを行っていました。神主が、舟から四本の竹を注連縄で囲ったところに向かってお祓いを済ませた後で、御神酒や供物を沼に捧げます。すると、そこは瞬く間に渦を巻き、捧げた供物などを沼の奥底に、あっと云う間に吸い込んでしまったと云うのです。見沼の龍神は、人々に沼の恵みや、田畑を耕す水を与えて、人々を見守ってくれているので、龍神を大切にするお祭りが昔から続いているのです。
〔 四本竹遺跡の発掘調査 〕四本竹遺跡の発掘調査では790本の竹が出て来たと云います。御船祭は2年に一度のお祭りで、見沼の干拓工事が始まる(1727)頃まで行われていたと云います。一度のお祭りで4本の竹を使い、発掘された本数が790本です。この本数から単純に計算すると、何年分で、最初は何年と云うことになるでしょう。※答はこの看板の右側面にあります。但し、その時代が確かとは云えません。平成22年(2010)3月14日 浦和東ロータリークラブ40周年記念事業
答えは民家園へお出掛けの際の楽しみとして伏せたままにしておきますね。
But 現地へ出掛けるまでもなく、直ぐに分かってしまうかも知れないわね。
♠ 旧武笠家表門 ♠
さいたま市指定有形文化財( 建造物 ) 平成6年(1994)4月28日指定 寄贈者:武笠 吉久 氏
この門は、さいたま市緑区三室の武笠家から寄贈を受け、平成6年(1994)に移築復原したものです。寄棟・茅葺きの長屋門で、正面 13.76m( 7.6 間 )、側面 4.55m( 2.5 間 )です。中央の間を戸口とし、右端の一間を仕切り床張りとしている以外は、土間となっています。正面中央の2本の門柱は平角で門構えを作っています。通例の長屋門に見られる立隠れ( 門構え部分が中に入り込む )は無く、また、門扉が両開きの引き分け戸で、右側の戸に潜り戸が付いています。
武笠家では、正規にこの門を開けるのは、冠婚葬祭の特別な日に限られ、日常は別にあった通用門を用いました。この門は長屋門の役割を備えながら、作業場となる広い土間を持ち、農家の生活に即した機能性の高い建築と云えます。土台が無く、地覆( 蹴込み土台 )であることや、梁の仕上げ、小屋組みなどから江戸時代後期に建てられたものと考えられ、市内で幾つか例の見られるこの形式の長屋門の代表例です。
裏側から見た旧武笠家表門
当時使用されていた農機具が展示されているの。
見沼や芝川で漁や洪水のときに使われた舟だそうよ。
♠ 旧蓮見家住宅 ♠
さいたま市指定有形文化財( 建造物 ) 昭和49年(1974)5月31日指定 寄贈者:蓮見 圭造 氏
この住宅は、さいたま市緑区井沼方の蓮見家から寄贈を受け、平成5年(1993)に移築復原しました。直屋 すごや ・平入り・寄棟の茅葺屋根の農家で、「 へや 」「 おく 」「 なんど 」を持つ広間型三間取りと云う、この地方の典型的な古民家の特徴を持っています。シシマドと呼ばれる格子窓が付くこと、土台がまわらず柱が直接礎石上に立つこと、柱の断面が正方形ではなく、また、太さが不揃いであることなどは古い特徴と云えます。大黒柱に当たる柱もやや太めですが、他と同じ杉材を用いていることも時代を示しています。建立年代は明らかではありませんが、江戸時代中期と考えられ、市内最古の民家と云えます。
♠ 旧中島家穀櫃 ♠
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旧所在地:さいたま市緑区三室 寄贈者:中島 正夫 氏 この穀櫃は、さいたま市緑区三室の中島家から寄贈を受け、平成6年(1994)に移築復原したものです。穀類を保存する穀櫃で、間口 2.94m( 1.6間 )、奥行き 1.16m( 0.64間 )程の寄棟・茅葺きの小建築です。礎石上に土台をまわし、柱を立て、長押と貫で固め、柱上に出桁を架けています。三等分に仕切り、開口部は落し板各6枚を重ね、天井の蓋板を差し込み、錠をかけるようになっています。間仕切りも落し板であり、両側面と背面は横嵌板となっています。多湿のときは木が膨らんで密封され、また、乾燥季には隙間が出来て、通気性が良くなるなど、穀物の保存に適した造りであることが注目されます。江戸時代の郷蔵なども、このような造りのものが多く、この地域に広く行われた貯蔵方法を知る建物と云えます。
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11. 大崎園芸植物園
おおさきえんげいしょくぶつえん
14:12着 14:55発
Map : さいたま市緑区大字大崎3156-1
秋の日はつるべ落とし−と云うものの、この時点では未だ陽射しも充分にあったことから、今少し足を延ばして大崎園芸植物園を訪ねてみたの。実は、以前一度訪ねてみたことがあるのですが、屋外の花卉見本園の他にも、三棟ある熱帯植物の温室が全て無料で見学出来てしまうと云う一押しの施設になっているの。前回は夏真っ盛りの中での観覧でしたので多少の季節感の違いはあるのですが、季節毎に温室内の植物が植え替えられているわけでもないので(^^;ここでは前回の様子の紹介を以て御案内に代えますね。御覧になりたい方は左掲の画像をクリックして下さいね、前回の紹介頁に移ります。
12. 大崎園芸植物園BS
おおさきえんげいしょくぶつえんばすてい
15:00着
信号が無いので、道路を横断するときは気をつけて下さいね。
前回の 見沼のお散歩 で、見沼が嘗ては氷川女體神社の御手洗瀬だったことを知り、干拓以前に行われていたと云う御船祭にも興味を覚えていたの。そこから今回の、氷川女體神社への参詣を主目的にした見沼代用水路西縁のお散歩となったのですが、氷川女體神社に詣でた帰り道、ふと、歩みを止めて、視線の先に広がる見沼たんぼを見やれば、四本竹の斎場に向けて静かに水面を滑り行く御座船の姿も瞼に浮かんでくるの。尚、お出掛けの際にあなたが代用水路に魚影を見掛けることがあったら、それは龍神の化身かも知れないのでお気を付け下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.comまで御連絡下さいね。
【 参考文献 】
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
角川書店刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版江戸名所図会
埼玉県神社庁刊 埼玉県神社庁神社調査団編 埼玉の神社
浦和市発行 浦和市総務部市史編纂室編 浦和市史 通史編2
さきたま出版会刊 井上香都羅著 みむろ物語・見沼と氷川女体社を軸に
さきたま出版会刊 野尻靖著 大宮氷川神社と氷川女體神社 その歴史と文化
さいたま市発行 さいたま市都市局都市計画部見沼田圃政策推進室編 見沼たんぼ見どころガイド 2018
旧板東家住宅見沼くらしっく館編集・発行 くらしっく館から見沼たんぼへの散策案内〜見沼の龍の伝説〜
さいたま市立博物館編集・発行 第43回特別展図録 見沼〜水と人の交流史〜
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など