≡☆ 熊谷のお散歩 ☆≡
熊谷直実ゆかりの地を訪ねて Part.1

散策の後半は熊谷駅北側の名所旧蹟を訪ねて歩いてみたの。中でも、街中にありながら静寂に包まれる星渓園はお勧めスポットよ。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

星川〜圓照寺〜星渓園〜石上寺〜八坂神社〜熊谷寺〜千形神社〜高城神社〜熊野神社旧地

18. 熊谷駅 くまがやえき 13:49着 13:51発

北口のロータリーに建つ熊谷直実の銅像は、昭和49年(1974)に北村西望氏が制作されたものなの。その姿は須磨の浦で友軍の船を目指して海に乗り入れた平家の若武者の姿を見つけた直実が、敵に背を見せる気か−と、扇を手にして呼び戻すところをイメージしているみたいね。【平家物語】の「敦盛最期の事」の段に描かれる場面で、直実に関する逸話の中でも一番ドラマチックな場面よね。未だ若い敦盛の頸を討ち取ったことが後に武士を捨て出家する切っ掛けにもなったと云われているの。その一部を紹介してみますが、是非全文を読まれることをお勧めしますね。

敦盛の首級をあげると云う、本来なら生々しい場面なのですが、叙事詩が如く情感を交えた描写は直実が敦盛に投げかけることばと共に読む者の心に響いてくるの。

連錢蘆毛なる馬に 金覆輪の鞍置いて乘りたりける者一騎 沖なる船を目にかけ 海へさつとうち入れ 五六段ばかりぞ泳がせける 熊谷「あれはいかに よき大將軍とこそ見參らせて候へ まさなうも敵に後を見せ給ふものかな 返させ給へ 返させ給へ」と 扇をあげて招きければ 招かれて取つて返し 汀にうち上らんとし給ふ所に 熊谷 浪打際におし竝べて

敦盛 むずと組んで どうと落ち 取つて押へて首をかかんとて 甲をおし仰けて見たりければ 薄化粧して鐵漿黒なり 我が子の小次郎が齡ほどして 十六七ばかりなるが 容顏まことに美麗なり「そもそもいかなる人にて渡らせ給ひ候ふやらん 名のらせ給へ 助け參らせん」と申しければ 「先づかう云ふわ殿は誰そ」「物その數にては候はねども 武藏國の住人 熊谷次郎直實」と名のり申す・・・・・後に聞けば 修理大夫經盛の乙子大夫敦盛とて 生年十七にぞなられける それよりしてこそ 熊谷が發心の心は 出で來にけれ

19. 星川シンボルロード ほしかわしんぼるろーど 14:05着 14:30発

元は玉の池(現・星渓園)から湧き出す清水を源として流れていた星川ですが、昭和30年代に湧水が涸渇してしまい、今は荒川から水を引いて流しているみたいね。現在の流路は戦後の都市計画に合わせて昭和23年(1948)に掘割されたもので、東西2Kmに及ぶ流れになっているの。その水路もその後行われた景観整備事業で親水公園として整備され、ブロンズ像を置くなど「水と緑と彫刻のプロムナード」として装いを新たにしたの。

余談ですが、大里用水土地改良区が建てた案内板には「水路の下には口径1200mmのパイプが埋設されており、この中にも農業用水が流れています」と記され、灌漑用水としての受益面積は3,820haにも及ぶと云うのですから凄い水量よね。そんな桁外れの給水能力が瀟洒な装いの裏に隠されているとは。その星川を法務局側から歩いてみたので紹介しますね。

〔 慰霊碑建立について 〕  熊谷市は昭和20年(1945)、太平洋戰争終戰前夜の8月14日空襲を受け、一夜にして當時の市の2/3が焼土と化し260余名の方が悲惨な最期を遂げました。特に、市の中央部を流れる星川には、一齊にあがった火の手に逃げ場を失った人々が飛び込み、焼け崩れた家の下敷となり、100人近い方が焼死しました。けれどもあの痛ましい戰災の記憶や思い出は、年と共に薄れれ忘れられてまいります。依って被災30周年を迎えるに當り、由緒ある星川上に碑を建立して、永く慰霊と平和を祈る灯と致します。昭和50年(1975)8月16日 慰霊碑建立奉賛會

20. 圓照寺 えんしょうじ 14:30着 14:40発

その星川に面して建てられていたのがこの圓照寺。【風土記稿】には「天臺宗 埼玉郡下中條村常光院末 熊野山千形院と號す 開山覺榮寂年を傳へず 本尊彌陀を安ず」とあるだけで、詳しい縁起を伝えてはくれませんが、嘗てはかなりの大寺だったみたいね。開創にしても天禄元年(970)に大僧都・覚栄法印が創建したものと伝えられ、鎮護国家の祈願寺だったと云うのですから、格式ある寺院だったようね。また、後程訪ねる千形神社の別当を勤めていた時期もあり、社地には修験家もあり、秩父山系を控えて山伏の姿も多くあったのかも知れないわね。明治以前には他にも多くの修験系寺院が熊谷にあったことが窺えるのですが、今では極一部の寺院を残すのみなの。

嘗ては大伽藍が建てられていたかも知れない圓照寺ですが、文久元年(1861)には付近からの出火で延焼し、一切の建物・什器などを焼失してしまい、明治維新ではそれまで5,000坪もあったと云う境内地も上地となり、200坪に減らされてしまったの。その後600坪までは回復したそうですが、それでも5,000坪に比べたら雲泥の差よね。その圓照寺を更に不運が襲うの。昭和5年(1930)に堂宇の再建をするのですが、同20年(1945)には戦禍のためにその堂宇と宝物類の悉くが灰燼に帰してしまったの。現在の堂宇はその後再建されたものなの。

それはさておき、猫の額のような (^^; 境内には色々なものが置かれていて見本市状態にあるの。それもちゃんとした解説付きなので見ているだけで結構面白かったりするの。中でもξ^_^ξのお気に入りが下掲の蝦蟆吽(我慢)尊。その五大徳なるものが案内されていましたので転載しておきますが、他にも、本堂への石段両袖にはさまざまな持物や表情をした小僧さん達が並んでいるの。その愛らしい姿は、附属する摩耶幼稚園の園児達の姿を投影したものかも知れないわね。
一、交通安全 無事かえる
二、生気溌剌 よみがえる

圓照寺 圓照寺

三、熟慮断行 かんがえる
四、財宝充満 なんでもかえる
五、自己反省 ふりかえる

蝦蟆吽せよ やがて六蛙七福神
飛び跳ねて いつかつかまん宝の木

21. 星渓園 せいけいえん 14:47着 15:05発

熊谷市指定文化財 名勝 星渓園 指定年月日 昭和29年(1954)11月3日
星溪園は回遊式庭園で、熊谷の発展に数々の偉業を成した竹井澹如翁によって慶応年間(1865-68)から明治初年(1868)にかけてつくられました。元和9年(1623)荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ、その池は清らかな水が湧き出るので玉の池と呼ばれ、この湧き水が、星川の源となりました。澹如翁が、ここに別邸を設け、玉の池を中心に木竹を植え、名石を集めて庭園としました。

明治17年(1884)に時の皇后(昭憲皇太后)がお立ち寄りになり、大正10年(1921)には秩父宮がお泊まりになるなど、知名士の来遊が多くみられました。昭和25年(1950)熊谷市が譲り受け、翌年星溪園と名付け、昭和29年(1954)市の名勝として指定されました。建物の老朽化が著しかったので、平成2年(1990)から4年(1992)にかけて、建物の復元と庭園の整備がなされました。平成4年(1992)10月 熊谷市教育委員会

竹井澹如(たけいたんじょ) 群馬県甘楽郡南牧村羽沢の豪族市川五郎兵衛の六男として生まれ、幼名は万平と云う。慶應元年(1865)、27歳の時、熊谷宿本陣を勤めた竹井家を継いだ。明治2年(1869)、度重なる荒川堤の決壊に私費で突堤を築き洪水の害を防いだ。この堤を万平出しと呼ぶ。また私有地を提供して袋小路を開通させたり、吉岡河原に60haの桑園を開拓して無償譲渡し、郷土の殖産に尽くした。明治6年(1873)に熊谷県庁を招致し、同12年(1879)には初代の県会議長に推された。また教育面では私立中学の折帝※学舎を設立したり、渋沢栄一らと協力して埼玉学制誘掖会を創立するなど育英事業に貢献した。正しくは「しんにょう」が付くの。表示不能ですので御容赦下さいね。

星渓寮の前庭には天柱石と袖振石が置かれているのですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に加藤清正が秀吉に献上するために持ち帰ってきた珍石の一部だそうよ。何でそんなものがここにあるのかと云えば、秀吉から徳川家康の手に渡り、後に親藩である忍藩の松平家に渡っていたものを竹井澹如が譲り受けたのだとか。忍藩の初代藩主は徳川家康の四男・松平忠吉で、格付も御三家に次ぐ親藩とされていたの。But 忠吉が11歳と未だ若いことから実際には松平家忠が一時預かる形になったので、厳密には家忠が初代城主かもしれないわね。それはさておき、気になるのが天柱石と袖振石の名の由来ですが、残念ながら分からず終いなの。

木陰に風変わりな形の石塔がありましたが、説明には「十王供養塔 人間が死んで冥土へ行くと、初七日から四十九日までの七日目毎と、百か日・一周忌・三周忌の計10回にわたり、閻魔王を含む10人の王に生前の罪を裁かれて、極楽へ行くか地獄へ堕ちるか決められると信じられてきました。そこで、生前に十王を供養して罪を軽くして貰おうと云うことで、このような供養塔が信仰されるようになりました。星渓園の供養塔は、四七日目に裁く五官王(普賢菩薩)が、生前に犯した人間の罪の軽重を秤で量っている様子が描かれています」とあるの。五官王が裁く罪は目・耳・鼻・舌・皮膚の五官で犯した罪。自分を褒める一方で、他人の過失や罪過を責めたりしてはいけないの。

園内の南側最奥部には「夕紅葉 鯉は浮くまま 人去りぬ」と刻まれた山口青邨(やまぐちせいそん)の句碑が建てられているの。説明には「山口青邨 俳人 本名吉郎 盛岡市生まれ 東大卒 東大名誉教授 工学博士 高浜虚子に師事 夏草主宰 碑の句は昭和25年(1950)11月星渓園を訪れし時詠んだもので 自筆により刻まれている」とあるの。景観写真を何枚かアップしておきますが、ちょうどこの碑がある辺りからが回遊式庭園の本領発揮で、みなさんも季節を捉えて散策してみることをお勧めしますね。

嘗ては清冽な水で知られた玉の池も湧水が涸渇した今では残念ながらお世辞にも綺麗だとは云えないの。脳天気な旅人の感想を云わせて貰えば、星川に導水されている荒川の流れをこの星渓園に引き込めないものかしらね。植栽されている木々の手入れも行き届き、建物も閑雅で、訪ね来る旅人を風情ある佇まいで迎えてくれるのですが、池の水を見た途端に興醒めするの。元はと云えば清らかな湧水の池があったことから作庭された星渓園。ムサシトミヨの生息環境並みの透明度は望まないけど、せめて鯉でも放流したら泳ぐ姿を追うことが出来る位の透明度は欲しいわね。

22. 石上寺 せきじょうじ 15:13着 15:17発

石上寺

【風土記稿】には「石上寺 新義眞言宗 埼玉郡上ノ村一乘院末 星河山千手院と號す 開山榮光寛文11年(1671)寂す 開基は當所の名主新右衞門が先祖竹井新左衞門信武なり 寛永15年(1638)9月26日卒す 則開山榮光の父なりといへり 本尊千手觀音を安置す 聖徳太子の作と云い傳ふ 座身長一尺二寸 觀音堂 毘沙門堂 地藏堂 千體佛堂 伊勢兩社 鹿島社 星川池 星川の水元なれば名とす」とあるのですが、開基の竹井新左衞門信武は先程紹介した澹如が嗣いだ竹井家の初代当主なの。寺地が周囲より高くなっていますが、それもそのハズ、元々は北条堤の上に建てられたの。堤が築かれた後も決壊を繰り返したことから御仏の加護を願い、堰堤の上に堂宇を建立したの。寺号の石上にしても堤の石積みの上に建てられたことに由来するの。

石上寺 伽藍も開山当初から本堂のみならず山門や観音堂の他にも池亭と呼ばれる一宇を構え、正徳年間(1771-1716)には毘沙門堂や地蔵堂、千体仏像堂なども建立され、広く信仰を集めていたみたいね。また、当山派修験として高城神社(後述)の別当職を勤めていた時期もあり、海寶院・光明院・正覚院・萬寶院などの修験が高城社の参道や社殿背後にあって、社務を助けていたようね。一時は山伏十二家を輩出するほどの隆盛をみたようよ。それはさておき、肝心の石上寺ですが、明治6年(1873)には火災を蒙り、堂宇や古記録などを焼失しているの。廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていた時期でもあり、或いは付け火されたのかも知れないわね。〔 無責任モード 〕

石上寺 その後変遷を経て寺勢を盛り返しつつある中で昭和20年(1945)の熊谷空襲で灰燼に帰してしまったの。それでも戦後間もなく本堂や庫裡を再建しているのは立派よね。それだけ信仰を寄せる人々が多かった証でもあるわね。その石上寺も年月を経て建物が老朽化したことから最近本堂や庫裡を新しくしたの。掲示されていた略記に依ると、熊谷櫻と名付けられた突然変異の里桜が堤防上に自生繁茂し、その珍しい花影を求めて狂言師・三陀羅法師を始めとして多くの文人墨客が訪れたとのこと。本堂右手の一角にはその三陀羅法師が詠んだとされる「我も其阿弥陀笠きて 咲く花にうしろハ見せぬ 熊谷さくら」の句碑が建てられているの。

23. 八坂神社 やさかじんじゃ 15:22着 15:26発

社殿

地図上にその名を見つけて石山寺とは至近距離にあることから足を向けてみたのがこの八坂神社なの。But 祭神は軻偶突智命(かぐつちのみこと)で、素戔嗚尊・大市姫命・菅原道真の三柱を合殿とすると云うのですから、どちらかと云うと愛宕神社と称した方がいいような気がするわね。その創立にしても大永年間(1521-1528)に別当職を勤めていた大善院第三世行源法印が山城国愛宕郡の愛宕大神を勧請したのが始まりとされ、後の文禄元年(1592)に市神・伊奈利神・八坂神を合祀したと伝えられているの。【風土記稿】には愛宕牛頭天王稲荷合社の名で記されていますが、八坂神=牛頭天王で、習合を解かれた今は素戔嗚尊の姿に戻されたと云うわけね。

御輿 別当の大善院ですが【風土記稿】には「本山派修驗 葛飾郡幸手不動院配下 水原山と號す 本尊不動を安置す」とあり、恐らくは同じ社地に建てられていたのでしょうね。享保年間(1716-36)と宝暦年間(1751-64)の二度に亘り被災して社殿を焼失。その後再建されるも昭和20年(1945)の戦禍で焼失。昭和26年(1951)にそれまで鎌倉町の入口にあったのですが現在地に遷座して来たの。この八坂神社の例大祭が7月に行われる熊谷うちわ祭なの。関東一の祇園祭とも称されるほどで、夏本番を間近に控えて街中が、まさに「あついぞ!熊谷」になるの。But 軻偶突智命にしてみたら軒先を貸したつもりがいつのまにか母屋を乗っ取られていたと云うことかしら。(^^;

石碑 〔 熊谷鳶組合碑 〕  古來鳶の者地形工事を爲すに木遣唄を齊唱し眞棒で地を固むるを常とせり 鳶を家業と爲す者眞棒をその象徴として高きに祀り 木遣唄の練達に先人の侠氣を偲ぶはかかる故あればなり 木遣唄もと深山より伐採せる木材の運搬にあたり士氣を鼓舞する歌なり 後鳶これを愛唱所謂地形木遣に大成し遠き文化文政の頃先人當地にこれを傳ふ 昭和31年(1956)東京都無形文化財の指定を受けし江戸木遣に竝び古格正調を以て高く評さるる所以ここにあり これを聞くに詞章多樣にして曲調細やか切々として心を奪ふ

纏 されど近時鳶工事の變化に伴ひ祭禮上棟落成等の儀式歌としてこれを聞くのみなり ここに熊谷木遣を世人に紹介し 併せて後世に傳ふるべく有志語らひ 木遣唄の修練に心を碎きつつ 念願たる木遣塚に眞棒を象り縁の神域に建立せんとす 竣工にあたり經緯を石に刻すること斯くの如し 昭和四十七壬子歳盛夏 愛宕八坂神社宮司 栗原行平撰併書

24. 本陣跡 ほんじんあと 15:35着 15:36発

熊谷市指定文化財 史跡「本陣跡」昭和29年(1954)11月3日指定 位置:熊谷市本町一丁目 時代:江戸時代 本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635)諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから、各街道の宿場町に置かれたものである。諸大名や幕府役人・公家貴族などのための特別な旅館であり、門・玄関・上段の間を具えることが出来て、一般の旅館(旅籠屋)とは区別されていた。従って本陣の経営者も土地の豪家で、苗字帯刀を許されるものが多かった。熊谷宿の本陣は、明治17年(1884)の火災と昭和20年(1945)の戦災で跡形もなく灰燼に帰してしまったが、嘉永2年(1849)一条忠良の娘・寿明姫宿泊の折、道中奉行に差し出した本陣絵図の控えが竹井家に残っており、その絵図に依って内部の模様が細々と分かる。中山道に面し、間口14間5尺(約27m)で、奥は星川にまで至り、上手の御入門・下手の通用門・建坪・部屋数・畳数など全国に現存する旧本陣と比べても規模・構造共に屈指のものである。昭和59年(1984)3月 熊谷市教育委員会

本陣跡の場所ですが、道の反対側に足利銀行・熊谷支店があるの。
追体験される場合には、その足利銀行を目印に歩かれることをお勧めしますね。

25. 札の辻跡 ふだのつじあと 15:39着 15:40発

石標 熊谷市指定文化財 史跡 「札の辻跡」 昭和29年(1954)11月3日指定 位置:熊谷市本町一丁目 時代:江戸時代 札の辻は、高札の設置場所で高札場とも云われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・要路など人目を引く所に掲示された。熊谷宿の高札場は、宝永年間(1704-11)に作られた「見世割図面写」により、場所・大きさなどが推定できる。場所は、本町長野喜蔵の前の道路中央にあり「町往還中程に建置申候」と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場が描かれているので、今の大露路と中山道の交差する、この説明板付近と推定される。

石標 大きさは、
一、高さ 一丈一尺 (約3.3m)
一、長さ ニ間四尺三寸 (約5m)
一、横 六尺四寸 (約2m)
とある。現在、高札は本陣であった竹田家に14枚残っている。
昭和59年(1984)3月 熊谷市教育委員会


郵便ポスト 訪ねる前までは確かな場所が分からずにいた札の辻跡ですが、本陣跡から更に東へ市営駐車場入口の交差点まで歩いて下さいね。角地に蕎麦処・清気庵さんがあり、その前の道路際に建てられているの。尚、清気庵さんの営業中は店先にも「札の辻」と刻む石柱が立つので気を付けて下さいね。最初にそれを見つけたξ^_^ξは、その石柱がそれだと思ってしまったの。(^^; 札の辻跡を後にして横断歩道を渡り、八木橋デパートへ向かいましたが、道の途中で懐かしい形の郵便ポストを見つけたの。絵手紙でも書いて投函してみたくなるような、優しい雰囲気にあるわね。

26. 八木橋デパート やぎばしでぱーと 15:46着 15:54発

この八木橋デパートですが、旧中仙道の行く手を遮る形で建てられているの。なので、本来なら迂回しなければならないところなのですが、粋な計らいをしてくれているの。何と旧中山道に沿って店内通路がつくられていて、出入り口には旧中山道を示す石碑まで建てられているの。開店時間内であれば誰でも自由に行き来出来ますので、街道フリークのあなたは忘れずにね。石碑の横には、宮沢賢治が盛岡高等農林学校在籍時に秩父地方の地質調査の途次に熊谷に宿泊した際に詠んだと云う「熊谷の 蓮生坊が たてし碑の 旅はるばると 泪あふれぬ」の歌碑も建てられているの。

あつべえ あついぞ!熊谷©熊谷市

そして熊谷にあるものの中でダントツの知名度を誇るのがこの正面入口に置かれたこの温度計じゃないかしら。平成19年(2007)に最高気温40.9℃を記録した熊谷は、夏になるとTVのお天気コーナーでは常連客 (^^; よね。温度計は熊谷市のまちづくりプロジェクト「あついぞ!熊谷」に合わせて設置されているもので、地元熊谷地方気象台が発表する最高気温を基に八木橋デパートの職員の方が手作業で表示を変えているのだとか。それにしてもこの暑さはさすが熊谷よね。梅雨が明けたばかりだというのにもう33℃もあるの。

地元の方と会話を交わす機会がありましたが、「みんな熊谷は暑い暑いと大騒ぎするけど、地元の人間にしたらこれが普通だから」と極めて大らか。なまじ中途半端な暑さじゃなくて突き抜けてしまっているところがいいのかも知れないわね。(^^; 振り返るとそこには熱砂の中のオアシスのように旅人を癒してくれるオブジェを見つけたの。パルミラの女神と題されていましたが、素敵な造形よ。解説が付されていましたので、併せて紹介してみますね。

〔 パルミラの女神 〕  この彫刻作品の出典は、古代シリア地方に栄えた商業都市のパルミラからとりました。パルミラそれはオアシスに生えるパルミット(椰子)がその語源であり、カリヨンの支柱はその椰子の木をイメージしています。カリヨンのベルは、ベル造りの伝統の国オランダで、1660年創業以来一貫してベルを造り続けてきたプティ&フリッシェン社で鋳造されました。カリヨンの響きを背景に風にそよぐパルミラの像は、古代オリエントの夢を、時間と空間を超え、熊谷の商業ゾーンに活力とゆとりをもたらす女神にと願いを込めてモニュメントとしました。平成元年(1990)3月14日 八木橋 宏純

27. 熊谷寺 ゆうこくじ 15:57着 15:58発

【風土記稿】には「相傳ふ當所昔熊谷次郎平直實が城地なり 直實發心の後廢却せしが 元久2年(1205)に歸來 彼城蹟に纔の草庵を結て 蓮生庵と號す 蓮生は則其法名なればなり 遥の後天正中(1573-1592)に幡隨意上人蓮生が昔を慕ひ 中興して淨刹とし 熊谷寺とす」とあるように、当地は嘗ての熊谷氏館跡であり、天正年間(1573-1592)に蓮生坊(直実)の遺徳を慕った幡随意上人が蓮生庵(念仏堂)に熊谷寺を中興開山したの。当時の慣習として武士の屋敷内には持仏堂が建てられることが多く、持仏堂=念仏堂(蓮生庵)だったのでしょうね。現在は蓮生山常行院熊谷寺を正式な山号寺号とする浄土宗増上寺末の寺院。〔 一般参詣は不可・要事前予約 〕

ところで、【風土記稿】には続けて「又云幡隨意にはあらず 其弟子萬海中興すと 此萬海は此邊の代官職大河内金兵衞久綱が庶子なれば 御覺も格別にて寺領を賜はれり 慶長6年(1601)東照宮忍城渡御の時 屡御立寄ありて 客殿の金具に葵御紋を用ることを許され 又門前に下馬札を立しめらる 是は朽損の時廢せしと云」ともあるの。幡随意上人のメンタリティーに訴えた縁起よりも説得力があるように思うのはξ^_^ξだけかしら?

庭中に小富士見亭と云所あり 昔東照宮富嶽を望給し古跡なり 當時住僧手製の煎茶を獻ぜしより 今に至るまで年ごとに三十斤づゝの茶を獻ずと云 かゝる御由緒ある寺なるを以て、元和2年(1616)願ひ上て御宮をも造立す 其後臺徳院殿より金襴の袈裟及七軸三部の經を賜はり 大猷院殿にも住職萬海を御歸依の餘り 金襴袈裟を賜ひ 御遠祖大光院殿御追福の爲に 百萬遍を修行すべき由命ぜられ 御祠堂のため黄金をも附させ給ひて 彼君の御木牌を置れしといへり

鉄柵 その伽藍も安政元年(1850)の火災で全てが烏有に帰してしまったの。その後、大正5年(1916)にようやく本堂が再建され、奇しくも戦災を免れて今にあるの。境内には直実のお墓だと伝えられる宝篋印塔が建てられていると知り、ひと目まみえんとしたのですが「団信徒及び関係者以外の入山はご遠慮ください」と、つれないの。老婆心ながら、団は檀が正しいと思うけど・・・(^^; また、「当山はご先祖さまの報恩に感謝し、共に蓮の台に生まれんと願い、南無阿弥陀仏と口に称える念仏道場です。一般の方の入山はご遠慮下さい」ともあり、脳天気な物見遊山の輩など論外みたいね。法衣の下に鎧を纏った住持の方が飛び出して来ない内に退散することに。

ところで、直実が出家した理由ですが、熊谷駅の項で少し触れたように、一ノ谷の合戦時に敵将とは云え、未だ年端のいかぬ敦盛の首級をあげたことで慚愧の念が生まれ、やがて戦いの世が続くことに無常感抗しがたく、遂には仏門に入ることを決めたとするお話しも多いのですが、実際には久下直光との境界争いを通して武士であることの無常感が直実を出家へと駆り立てたの。一所懸命のことばが残されているように、武士にとっては主君から安堵された領地が全てであり、その土地を命をかけて守ろうとしたの。戦陣に向かうのも領地を護るためであり、勲功を挙げることで領地の加増を期待したの。

幕府の草創期には転戦を重ね、頼朝をして「東国一の武将よ」「日本一の剛の者」と褒め詞を貰う程の活躍をした直実は、直光に奪われていた領地を取り返すなどしますが、それでも鶴岡八幡宮で行われた放生会では流鏑馬の的立役をさせられたり、頼朝の面前で行われた境界争いの最終審判にしても極めて不公平に思えたの。直光の庇護の下に育てられ、単なる郎党としか扱って貰えなかった直実にしてみたら、その直光と対等に渡り合えるようになることが何にもましての望みだったのではないかしら。

加えて、直実にしたら「褒美が欲しかったからだけんどもよお、命令されたからこそ戦陣に行って生死を分けた戦いをして来たんじゃねえか、それに、今まで数えきれねえほど手柄を挙げて来たはずだぜ。なのに、この程度の扱いしかしてくれねえのかよ。だったら武士なんてクソ食らえだ、やめた、やめた」と云うのが本音じゃないかしら。「頼朝もよお、今まで主君として仕えて来たけんどもよお、今じゃもう殿上人になっちまったし、取り巻き連中が多くて今更俺がどうのこうの云ってみたところで聞いてはくれねえみてえだし・・・」と云ったところね。出家した背景には期待した処遇が得られないことへの不平不満が多分にあったのではないかしら。加えて

戦さとは申せ 殺めたるは皆恨み無き者どもにて候ふ
吾 宿業を背負うた身なれば 地獄に落つるは必定
なれど 御仏の側に侍りて いかばかりかの安穏を得むと欲す

との想いがあったのではないかしら。ところで、一蹴してしまった敦盛云々の出家原因説ですが、史実如何を離れて時を経た今も読む者の心を打つ書状があるの。幼顔が未だ残る敦盛の首級を挙げたことで慚愧の念を覚えた直実は、敦盛の頸と遺品を着物の袖でくるみ、屋島に落ちていた敦盛の父・経盛の許へと送り届けたの。その時に添えられていたのが【熊谷状】で、対して経盛からも感謝の返書が送られて来たの。直実の書状もさることながら、経盛からの【経盛返状】は蓋し名文よ。お話しの序でにその一部を抜粋・転載してみますが、【熊谷状】ではその宛名が侍大将の伊賀平内左衛門尉宛になっているの。それは直実が無官故に直接経盛へ宛てることを憚ったものと云われているの。一見粗野に思える直実ですが、細やかな手配り心配りが出来る人だったのではないかしら。

【熊谷状】  直實謹言 抑も此度不慮に此君に參會し奉り 呉王勾踐の戰を得 秦皇燕丹の怒を插み 直に勝負を決せんと欲するに 俄に怨敵の思ひを忘れ 速やかに武威の勇を抛て 還りて守護を加へ奉らんと思ひしが 後より雲霞の大勢襲來し 落花をなすこと時を過さず・・・・・御君の御素意を仰ぎ奉るの處 唯々御命を直實に下し給り 御菩提を弔ひ奉る可きの由 頻りに仰下るの間 計らず落涙ながら 御頸を給はり畢んぬ 恨めし哉 痛ましき哉 此君と直實と惡縁を結び奉る歟 悲しき哉 宿縁其の深きこと怨敵の害をなし奉る 然りと雖も 是逆縁に非ず 何も互に生死の絆を切て一蓮の身となる 却て順縁に至らざらんや 然れば 則ち 閑居の地を卜し 彼の御菩提を弔ひ奉るべきものなり 直實が申すの状 實否後聞の其の隱れ無きものか 此の趣を以て 然るべく洩さず御披露有るべき者也 誠恐誠惶謹言

【経盛返状】  今月七日 攝州一ノ谷に於て敦盛を討たせられ 死骸竝に遺物送り給はり畢んぬ 華落の故郷を出でて 各々西海の波の上に漂ひしより 以來運命の盡くる事 始めて思ひ驚くべきに非ず 又 戰場の上に望みて 何ぞ二度歸る事を思はんや 生者必滅は穢土の習ひ 老少不定は常の事也 然りと雖も 親となり子となる事先世の契約淺からず 釋尊も御子羅喉羅尊者を悲しみ給ふ 應身權化猶以て斯くの如し 況や底下白地の凡夫に於ておや 然るに去る七日打ち立し朝より今日の夕に至るまで 其の俤未だ身を離れず 燕來りて囀ると雖も其の聲を聞く事なし 雁翅を雙へて飛び歸ると雖も音信を通ぜず 必定討たるヽの由傳へ承ると雖も 未だ其の實否を聞かざるの間 何ぞ風の便りに其の音信を聞かん 天を仰ぎ地に臥して神佛に祈誓し奉り 感應を相待つ處 七箇日の内に彼の亡骸を見る事を得たり 是則ち神佛の與ふる所也 然る間 内信心肝に銘し 外感涙之を増す心を催し袖を浸す 但し生まれて二度歸り來るが如し 又 是則ち相生くるに同じ 抑も貴邊の報恩に非んば いかで之を見る事を得んや 一門風塵皆以て之を捨つ 況んや怨敵をや 和漢兩朝を尋ぬるに 古今未だ其の例を聞かず 貴恩の高き事須彌頗る下くし 報恩の深き事蒼海また淺し 進んで之を酬ゆるに未來永々たり 退いて而して報ずるに過去遠々たり 萬端多しと雖も筆紙に盡くし難し 併せて之を察せよ 恐々謹言 經盛 〔 花押 〕

28. 伊奈利神社 いなりじんじゃ 15:59着 16:01発

参道 熊谷寺と境内地を接して伊奈利神社が建てられていたのですが、熊谷寺とは打って変わって参道も御覧の状態よ。八木橋デパートが至近距離にあるので、お勤めされている方や、あるいは買い物客が利用されているのかも知れませんが、参道の敷石だけは避けて止めてくれているのは、せめてもの信仰心かしら。エッ?通路が無かったら自転車が出せねえからそうしてるだけだぜ−ですか。(^^; 戯言はさておき、境内には丁寧な解説が施された案内板が立てられていたので、些か他力本願で恐縮ですが、その内容を転載して伊奈利神社の紹介に代えますね。

社殿 伊奈利神社〔 俗称 奴稲荷 熊谷弥三左衛門稲荷 〕 鎮座地:熊谷市仲町43番地
旧社格:村社 御祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)合殿:徳川家康公
当社の創建は元久2年(1205)である。日頃稲荷神を信仰していた熊谷次郎直実は、戦場で数々の危難に遭っても、必ず熊谷弥三左衛門と云う武士に依って助けられ、勝利を得た。余りの不思議さに直実が弥三左衛門にその素性を尋ねたところ「吾は、汝が信ずるところの稲荷明神なり。危難を救わんが為に熊谷弥三左衛門と現じける」と云い、忽然と姿を消した。

社殿 その霊威に感じた直実は、帰陣の後、熊谷寺境内に祠を設け稲荷大明神を祀り、居城の鎮守とした。以来、当社は弥三左衛門稲荷と呼ばれるようになった。その後、慶長年間(1596-1615)に熊谷寺中興の祖幡随意上人が社殿を再建し、享保4年(1719)には正一位の神位を受けた。明治に入ると、神仏分離に依って熊谷寺の管理を離れ、明治2年(1869)に鎌倉町の愛宕神社境内に一旦遷し祀る。同31年9月に仲町有志の奉賛と協力に依り、旧社地(現在地)に遷座、村社として厚く信仰されるようになった。
合殿 徳川家康朝臣 維新前まで熊谷寺境内に東照宮が祀られていた。
明治2年(1869)神仏分離に伴い、伊奈利神社へ合祀され、現在に至っている。

信仰:奴稲荷の通称と共に当社は子育ての神として名高く、地元の熊谷市はもとより、遠くは横浜・本庄・高崎など各地に崇敬者がおり、その霊験は灼かであると云う。嘗て当社には、稲荷様の奴(御家来)と称し、病弱な子供は2年とか5年とかの期限を決めてその間月参りを欠かさず行えば必ず丈夫になると云われ、その期間中は稲荷様に奉仕している印として”もみあげ(奴)”を伸ばし、満期になるとそれを切って奉納する習慣があった。こうした習慣は戦後すっかり廃れてしまったが、奴稲荷の名の起こりとして覚えておきたいものだ。また、当社は繁華街にあるため、商売繁昌の神としても古くから信仰されており、とりわけ花柳界の人々からの信仰が厚かった。往時は毎月8日が縁日で、旧中仙道から拝殿の前までずっと紅白の提灯を付けて、多くの参詣者で賑わったものであるが、関東大震災の後は町並みが大きく変わったため、縁日はやがて行われなくなった。更に国道17合の新道開通に依って交通量が激増したため、昭和32年(1957)からは交通安全稲荷と称し、交通安全の神としても祀るようになり、この方でも多くの崇敬者を得ている。尚、昔から熊谷三社参りと称して、稲荷木伊奈利神社・高城神社・当社の三社を巡拝することが盛んに行われた。現在でも篤信家に依り行われている。

29. 陣屋跡 じんやあと 16:03着発

跡地 次の目的地・千形神社を探しながら歩いていたのですが、その途中で空き地なのに立派な石の門柱が残されているのを見つけ、何かの建物跡みたいだけど、あるいは廃寺の類かしら−と足を向けてみたの。門柱脇に明治天皇熊谷行在地跡と刻む石柱を見つけ、明治天皇が来た位なんだから何か立派なものが建てられていたんじゃないかしら−と辺りをウロウロと。(^^; But 門の中で見つけられるハズは無いわよね、案内板は道路に向かい、フェンス際に建てられていたの。加えて千形神社とは地続きだったの。

熊谷市指定文化財史跡 陣屋跡 指定年月日:昭和29年(1954)11月3日指定 所在地:熊谷市本町1-12他
陣屋とは、江戸時代、城郭を構えない小大名や旗本などの領地内の居館・役所のことを云いました。また、郡代・代官などの地方を管轄する役人の役所も陣屋と云いました。熊谷は当時忍藩に属していましたが、忍藩では町方事務を取り締まるため、出張所をこの附近に置きました。この陣屋は、設置した年月は明らかでありませんが、その規模は余り大きなものではなかったと考えられます。今でも中仙道からここへ通じる道を陣屋町通りと云い、この附近を陣屋町と呼ぶ人もいます。平成11年(1999)3月 熊谷市教育委員会

空き地の一角には綺麗な御手洗いがあるの。
今回の散策は長丁場ですので忘れずにお立ち寄り下さいね。

30. 千形神社 ちがたじんじゃ 16:04着16:08発

現在は天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を祭神として、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を合殿とする千形神社ですが、創立年代などの詳しいことは何も分からないの。後程高城神社の項で改めて御案内しますが、逸話では嘗てこの辺りには大きな熊が出没し領民を恐れさせていたのですが、当地に赴いてきた熊谷直貞(直実の父)がその熊を退治し、熊の頭蓋骨を埋めた場所には熊野権現を、熊の血が流れたところには血形明神を祀ったと云われているの。血形と千形の違いはあるのですが、それがこの千形神社だと伝えられているの。

別伝には、熊谷氏が藤原秀郷の六男・鎮守府将軍修理太夫千方を祀る千方神社(加須市)を勧請して熊谷郷の鎮守としたとも云われているの。そうなると気になるのが千方なる人物のことですが、神話の森〜歴史と民俗館〜にズバリの論考を見つけたの。> 日本の神々 > 「ちかた」の神、「ちかつ」の神 へとリンクを辿ってみて下さいね。読むとこの千形神社に天児屋根命と天太玉命の二柱が併祀されている理由にも合点がいくわね。

縁起を記したものでも無いかしら−と物色 (^^; していたときに見つけた奉納額には「千形神社境内の土俵は宝暦年間(1751-64)より近郷力士が千形相撲として毎年200年の永く草相撲が続けられた相撲歴史発祥の地である」とあったの。地元の方に訊ねてみたところでは、以前は社殿の左手に土俵がつくられていたのだとか。云われてみればうっすらと痕跡のようなものが。普通の更地じゃないの−と云われるとそれもまた事実のような(笑)。奉納額には昭和46年(1971)の銘があり、記述のままを換算すると昭和39年(1964)頃までは相撲が行われていたことになるのですが、既に過去形になっていたのかも知れないわね。

その千形神社の草相撲ですが、大正から昭和にかけて盛んに行われたのだとか。そのルーツは本庄市児玉町に鎮座する八幡神社で行われた奉納相撲に始まり、八幡講相撲と称して児玉町は固より、深谷・鴻巣・川島・東松山など、中仙道沿いの広範囲で行われるようになったのだとか。因みに、この千形神社では毎年10/1に行われていたみたいね。その草相撲の中入りの際に余興で歌われた御当地ソングの中に【中仙道甚句】と云うのがあるの。お話しの序でに紹介してみますが、誰が作詞したのか、とってもうまく纏めてあるわよね。残念ながら節回しまでは分からないけど。

花のお江戸を発つ時に
好いた同士の痴話喧嘩
打たれ叩かれ板橋の
縁切榎も聞かぬ木で
泣き泣き渡る戸田の橋
蕨の因果と諦めて
初回の晩から浦和町
その時四つ身で恥づかしい
上尾おろしたばっかりに
小袖も質屋に桶川の
鴻巣なるのもお前ゆえ
わしをここで吹上て
四里と八丁の久下の土手
遙か南を眺むれば
大馬よけなる観世音
東を遙かに眺むれば
お城下なる行田町
一ノ谷ではないけれど
わたしゃあなたに敦盛よ
 

31. 高城神社 たかぎじんじゃ 16:13着 16:21発

祭神は高皇産霊命(たかみむすびのみこと)で、平安時代の延喜5年(905)に創建されたと伝えられ、延喜式神名帳の武蔵国の条には「大里郡一座高城神社」とあるなど、古来より旧大里郡の総鎮守として祀られて来たの。時代が下った天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの時には浅田長政・石田三成等が忍城を攻略する際の災禍を被り社殿を焼失。後に寛永16年(1639)、阿部忠秋が当地を領したことから厚く崇敬し社殿を再興。寛文11年(1671)に嫡子・正能がそれまでの御蔵屋敷から現在地に遷し、現社殿の造営を果たしたの。御神体は忠秋が献納したと伝えられる鏡で、今ある本殿・拝殿も、手を加えられてはいますが、正能が再興したものと伝えられているの。

因みに、平成7年(1995)銘の高城神社拝殿屋根銅板葺改修記念奉納額には「熊谷市戦災復興50周年を記念し、実行委員長松本光弘以下83名の委員と最高顧問小林一夫・大久保政一他17名の顧問、高城神社、千形神社、銀座伊奈利神社、高柳神明社、玉井神社、久保島神社、荒川神社、戸出神明神社の氏子及び高城神社奉賛婦人会の熱意と努力により、瓦葺き拝殿屋根を銅板葺きに改修し、向拝殿も改築した。大里総鎮守としての格式・風格を継ぐため良い機会であった。尚、此の事業推進中に阪神大震災(H7・1・17)があった事を記す。平成7年(1995)9月吉日 実行委員会」とあり、今でも地域の総鎮守としての役を担っていることが充分に窺える記述よね。

熊谷市指定有形民俗文化財 常夜灯 指定年月日:昭和45年(1970)11月3日
この燈籠は高さ275cmと云う青銅製の大きなもので、天保12年(1841)に建てられました。燈籠の台座には、県内はもとより江戸・川崎・桐生・高崎・京都など、広範囲に及ぶ150名もの紺屋(藍染業者)の名前が奉納者として刻まれています。この内熊谷の奉納者は約40名に及んでいます。当地では、江戸時代中頃から藍染業が活況を呈していたことが知られており、明治時代後半は紺屋の最盛期であったと云われています。常夜灯は高城神社が藍染業者から厚い信仰を受けてきた事実を語る資料として、また、藍染業の盛況を知る記念碑とも云える貴重なものです。平成14年(2002)11月 熊谷市教育委員会

これだけだと、なぜ、藍染業者から篤い信仰を受けたのかが分からないわよね。嘗ては高城神社も神仏習合状態にあり、高皇産霊命の本地仏として愛染明王が祀られていたの。もう、お分かりよね。愛染が藍染めに通じることからの転化なの。深い意味じゃ無くて残念でした。(^^; 余談ですが、神仏習合と云えば、高城神社に収蔵される【武州大里郡高城神社萬定之覚】には「一、御本社拝殿并境内無懈怠 常々入念致掃除 不損やうに可仕候」に始まり、諸々の取り決めが別当・石山寺と神主7名の名の下に覚え書きとして取り交わされているの。それに依ると別当・神主の他にも山伏と神子を各々12人置き、本社は別当と神主が、拝殿は山伏が掃除。境内は山伏の他にも氏子15人を招集して定期的に掃除していたみたいね。他にも細かい規定が記されているのですが、山伏が専ら掃除に従事していたと云うのは意外ね。

椎木 境内を反時計回りに御案内してみますが、社殿の右手にある椎の木は阿部忠秋が種を蒔いたものだそうよ。碑には「全手葉椎此樹、全手葉椎と稱し俗にマテバカシといふ 殼斗科に屬する雙子葉植物なり 傳へ云ふ寛文年間阿部豐後守忠秋公當社參拜の時 播種せしものなり」とあるのですが、幹が細いことから当初蒔かれたものと云うよりも世代交代した木みたいね。

旧鳥居 壊れた鳥居らしきものが目に留まりましたが「この石は、小松石(安山岩)で、参道の第二鳥居のものである。寛文10年(1670)に旧忍城主阿部豊後守忠秋が献納したものであり、原寸は高さ4.97m横6.6mで、基礎は根巻きを含め三段になっていた。平成10年(1998)10月7日に事故により破損した。この由を後世に伝えるために、ここに第二鳥居の柱と笠木を置き、由来碑とする。平成11年(1999)1月吉日 高城神社宮司 福井千秋」と案内されていたの。阿部忠秋が献納した鳥居とあっては壊れても邪険には出来ないわね。(^^; 最初は戦禍に倒れたものかしら−と思ったのですが、事故で破損とは意外ね。鳥居を壊してしまうほどの事故とやらの内容が気になるわね。

拝殿を正面にして境内左手には末社が鎮座しますが、左掲はその内の一つ、天神社になるの。普通は天神社と云えば菅原道真が祀られることが多いのですが、ここでは少名彦名命なの。説明には「御祭神の少名彦名大神は医薬・子育ての守護神として厚く崇敬され、特に当社玉垣内の赤石は御神徳・御神威の宿った御石として、往古よりこれを拝借し、「丈夫な歯が生えますように」との願いを込めてお食初めの儀式を行い、赤石は2個(倍にして)返却する風習が受け継がれております」とあり、幼子を背にして、我が子の健やかな成長を願う母親の姿があったのでしょうね。その天神社の石祠右手には白山大権現が、左手には諏訪神社の文字を刻む石碑も建てられているの。

境内に鎮座する末社のもう一つがこの熊野神社で「熊野神社の由緒 永治年間(1141-42)此の付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ました。熊谷次郎直実の父・直貞この猛熊を退治して、熊野権現堂(現在箱田に熊野堂の石碑あり)を築いたと伝えられる。明治維新の後、熊野神社と称し、その御祭神・伊邪那岐命を祭り、明治40年(1907)1月14日に当高城神社境内地に遷し祭られた。また、同年4月20日に熊野神社地62坪(現熊野堂敷地)を高城神社に譲与された。この熊野神社(熊野権現)と千形神社(血形神社)そして圓照寺の関係は深く、直貞に依って築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる」とあるの。

But 説明にある熊谷の地名云々は後世に付与された逸話で、実際の地名の起こりについては諸説があり、わからない−と云うのが本当のところみたいね。

御案内が逆になりましたが、参道左手には、石柱でぐるりと取り囲まれた木があるの。これと云った案内も無いのですが、紙四手が下がることなどからして御神木だと思うの。幹の根元を見るとぽっかりと穴が空き、この木が樹齢を重ねて来たことが知れるの。【風土記稿】には「靈水 神木榎の側なる池なり 眼疾を患るもの此水にて洗へば 立所に平癒せるとて 目洗水と號す」とあるのですが、今は枯渇して御覧の状態なの。嘗ては荒川も流路を変えながら蛇行していたこともあり、この辺りも扇状地に位置していたの。そのせいで伏流水が地表に湧き出していたみたいね。今となっては昔話でしかないのですが、【高城神社縁起】には往時の様子が描かれていますので紹介しますね。

此社の傍に小楢の木の年經りて高さは八丈五尺、周りの太さは一丈五尺はかりにて 枝は十四五間もはひこれるあり 地をさること三尺はかりに空なる穴あり 其口は七寸はかり 其内はいと廣くして洞穴のことし 其中より清水わき出てて絶る事なし 若内外清淨をこたらすして此水を用ひ諸々の病を治すれは 必感應の效を得るとなし 此近國に聞へて日々むれむれに集りつとひて 此水を以て洗へは諸病にしるしあり 殊にあやしく聞へしは 年頃盲目なりし者 七日の内に明快を得たりとなん 其の外聾たるを治し 蹇たるをおこすときこゆ かかりけれは遠方まてもかくれなく 春より夏に至るまて 參詣る彌夥たしく 幾千萬人に及ひ 晝となく夜となく 肩をつらね足をはこひ 我かちに靈水を受けさるはなし 空穴より湧き出る流れ 漸く乾きぬへけれは 傍なる井萃の朝に生するを汲て彼靈水を加へ 普く施しけるに 病を治するに驗あり されは神徳の著きを仰き功徳を求め願ひを立る輩 靈驗を得て賽する人の まきちらせる鵝眼麞牙 掛ならへたる繪馬 いくはくといふ事をかそへかたし


郵便ポスト 紹介した熊野神社の旧地が市役所の西に残されていると知り、場所が分からないまでも地元の方に訊けばあるいは辿り着けるかも知れないと安易な発想で歩き始めたの。左掲は辺りを見渡しながら歩いていたときに見つけた郵便ポストですが、市営駐車場入口の信号から八木橋デパートに歩いてくる途中でも見掛けるなど、案外探せば他にもあるのかも知れないわね。それはさておき、目的の熊野神社の旧地ですが、何人か道行く地元の方に訊ねてみたのですが、皆さんご存知無いとのことで半ば諦めモード。地図上に小さな公園らしきものがあるので、ひょっとしたら−と向かったのですが、結局、そこでも無くて、辺りをウロウロしてようやく見つけたの。

追体験してみたい方が中にはいらっしゃるかも知れませんので、ここで道案内をしておきますね。先ずは、高城神社右手の道を北へ歩いて下さいね。しばらく歩くと北大通りに出ますが、横断して更に北へ。コメントを付けてありますので、後は下の画像で御確認下さいね。因みに、地図の上では ここ よ。

32. 熊野神社旧蹟 くまのじんじゃきゅうせき 16:37着 16:40発

熊野神社旧地を示す案内板があるわけでも無くて、石碑に目が留まらなければそのまま通り過ぎていたと思うわ。高城神社境内地に建てられていた案内板には、明治40年(1907)に合祀した際に旧地62坪も譲渡されたことが記されていましたが、実際に訪ねてみると10坪あるかないかの敷地なの。石碑の傍らまで民家が迫りますので、時の流れの中で旧地も分割譲渡されたみたいね。敷地の縮小に併せて (^^; 人々の記憶からも遠ざかりつつある熊野社旧蹟ですが、熊谷寺が嘗て屋敷内にあった云う念仏堂跡地に建てられたものなら、熊谷氏の館はその熊谷寺から東は高城神社のある辺りを境として、北はこの熊野神社の旧地までを占めていたの。

ξ^_^ξが思うには、千形神社にしても熊野神社にしても当初はその熊谷館の守護神として勧請されたものではないかしら。直貞が退治したと云う大熊も、実は在地豪族だったのかも知れないわね。境界争いに勝利した直貞は熊野神社を建てて守護神とすると共に、境界の目印とした−と云うのは、ξ^_^ξの単なる絵空事かも知れないけど(笑)。

33. JR熊谷駅 くまがやえき 17:06着


予定ではこの後も引き続き熊谷直実ゆかりの地を訪ね歩く積もりでいたのですが、時間切れで挫折してしまったの。それ以上に炎天下での行脚に疲れてしまったせいもあるけど。ξ^_^ξの全行程踏破の思いなど熊谷の暑さの下では吹き飛ばされてしまうわね。気持ちが萎えない程度の暑さに戻ったら、残りの行程にチャレンジしてみますね。But 熊谷を歩くにはやはり汗を拭きながらでも真夏でなければいけないような気がするわね。何と云っても「あついぞ!熊谷」だもの。熊谷の暑さを知ることなく、熊谷通を名乗ることなかれ−よね。(^^; But 呉々も熱中症にだけはならないように気を付けてお出掛け下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
角川書店刊 有職故実日本の古典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
さきたま出版会刊 新井寿郎編 埼玉ふるさと散歩・熊谷市
比企丘陵−風土と文化刊行会刊 比企丘陵−風土と文化
角川ソフィア文庫 佐藤謙三校注 平家物語
行田市役所刊 行田市史編纂委員会編 行田史譚
熊谷市立図書館刊 私たちの郷土・熊谷の歴史
熊谷市立図書館刊 郷土の雄 熊谷次郎直実
熊谷市発行 熊谷市史 前編・後編・通史編
国書刊行会刊 稲村坦元編 埼玉叢書第三巻
国書刊行会刊 林有章著 熊谷史話
鴻巣市発行 鴻巣市史 民俗編
その他、現地にて頂いて来たパンフ&栞など






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