
今回の川越歴史散策は 小江戸川越・みどころ90観光コース で紹介されているJR的場駅発寺社めぐり歴史探訪コースを基に興味の赴くままに寄り道をしてみたの。オリジナルでは施設の見学時間は含まれないものの、所要時間は約2時間と案内されているのですが、紹介する行程では見学時間を含め倍の4時間余りとなっているの。なので夏場の散策では水分補給など熱中症対策をしっかりと心懸けながら追体験して下さいね。掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。また、隠し画像も随所に埋め込んでおきましたので是非クリックしてみて下さいね。
1. JR的場駅
まとばえき
11:16発
Address : 川越市的場1311 Plus Code : WC9P+3C 川越市、埼玉県
〔 的場の由来 〕的場は入間川と小畔川に挟まれ、縄文時代( 紀元前 )から先住民族が居住し、6,7世紀頃は豪族の古墳が60余りあり、的塚・牛塚・初雁塚・三芳野塚は有名です。特に牛塚は川越地方最大の前方後円墳であり、金銅製指輪・ガラス小玉等多数発掘されました。この指輪は、全国的にみても他に数例しかなく、大変貴重なものであり、当時相当の権力を持つ豪族がこの地を統治していたことが推測できます。そして、的場は豪族の武士達が弓の射的場としたところからその名が付けられたものと云われます。万葉の歌人・在原業平は的場の美しい景色を歌に詠んでいます。また、的場は的破・魔突破に語呂が似ているところから高校生・大学生の学業成就・合格祈願にこの地の八坂神社のお札と的場駅の切符がお守りとして人気があるという噂があります。文 / きし としお 掲示 / 弘和不動産 株式会社
2. 的場八坂神社
まとばやさかじんじゃ
11:21着 11.29発
Address : 川越市的場下宿1874 Plus Code : WC9Q+9C 川越市、埼玉県
そんな中で 埼玉の古い地名を探す で貴重な記述を見つけたの。それに依ると、初雁塚は川越線施設の際に削られてしまい消滅、恐らくは霞ヶ関東小学校北側の線路沿いにあったのでは−と推考されているの。【風土記稿】に描かれる絵図を見ても霞ヶ関東小学校の建つ辺りには嘗て初雁池と呼ばれる大きな池があったみたいだし、なるほどと思える論考よね。参考までに初雁塚と初雁池に関する【風土記稿】の記述と、併せて初雁塚があったと思われる場所の近くに建てられていた三芳野里旧跡之碑についても紹介しておきますね。
境内の一角( 社殿右手 )には薬師堂が建てられているのですが、薬師如来は牛頭天王の本地仏とされ、その繋がりの中で祀られるようになったのでしょうね。その薬師如来像ですが、霞ヶ関北( 小字薬師堂 )の地から出土したとあるので発見されるまでは地中にあったと云うことよね。いつ頃出土したのか分かりませんが、なぜ土中にあったのか気になるわね。出土地の小字名から推して嘗て薬師堂が建てられていたことが窺えるのですが、今より遙かに信仰心が篤かった当時の人達が疫病や病魔から守って下さる薬師如来( 像 )を邪険に扱うハズも無く‥‥‥
3. 牛塚古墳
うしづかこふん
11:42着 11:46発
Address : 川越市的場2537 Plus Code : WCCV+4J 川越市、埼玉県
4. 法城寺
ほうじょうじ
11:58着 12:09発
Address : 川越市的場1902 Plus Code : WCCQ+24 川越市、埼玉県
【風土記稿】の記述にちらりとその名が出て来た大道寺氏のことについては
後半に訪ねる常楽寺の項で触れますので今少しお待ち下さいね。
5. 的場三芳野神社
まとばみよしのじんじゃ
12:10着 12:15発
Address : 川越市的場1905 Plus Code : WCCQ+35 川越市、埼玉県
6. パン処・おひさま
ぱんどころ・おひさま
12:22着 12:27発
Address : 川越市的場1919-9 Plus Code : WCCP+8X 川越市、埼玉県
7. 的場御嶽神社
まとばおんたけじんじゃ
12:30着 12:33発
Address : 川越市的場 Plus Code : WCCQ+FP 川越市、埼玉県
8. 上戸日枝神社
うわどひえじんじゃ
12:52着 13:06発
Address : 川越市上戸316-1 Plus Code : WCJV+PG 川越市、埼玉県
9. 鯨井八坂神社
くじらいやさかじんじゃ
13:17着 13:21発
Address : 川越市鯨井1840 Plus Code : WCPW+2P 川越市、埼玉県
10.長福寺
ちょうふくじ
13:28着 13:33発
Address : 川越市鯨井1142 Plus Code : WCPX+8M 川越市、埼玉県

市指定・無形民俗文化財〔 犬竹の一升講 〕
毎年1月9日、氏子の宿で行われる神事である。前夜の行事をオビシャ講といい、当日の行事を、イッショウコウ、イッショウグイともいう。春日神社は犬竹16戸の氏神であって、疫病除けの神さまといわれる。オビシャ講は氏子の中の子どもや年寄・奉公人等が宿に集まって小豆粥をたらふく食べる行事である。一升講は当番の2軒の主人を除いて、他のブクのない氏子の家の代表者全員が宿に集まって行われる。宿では小豆の入ったアカノゴハンと入らないシロノゴハンを一人一升あてに炊き上げ本膳をすえて来客を待つ。ヤドマエの二人はオトリツギ、キウジヤクとも称して接待する。キウジツキの儀とはまず赤のご飯少々を給仕つきで軽く一箸で食べる。オテモリの儀とは客同士がテンコモリに盛りあげて、これを三杯食べる。オニギリの儀はさらに残ったご飯を全部食べて終る。古い飽食神事の一つである。昭和55年(1980)3月 川越市教育委員会
記述にある「 宿 」ですが、行事の際に世話人となる家のことで、当社では他にも季節毎に年中行事が行われていたのですが、一升講の際の宿は宿前( やどまえ )と呼ばれて区別されていたみたいね。宿となった家では全てを執り行っていたのかと思いきや、二軒一組で運営され、宿の他にもう一軒がその手伝い役を担っていたの。加えて、宿となる家( 手伝い役を含めて )は一年交替で、この一升講のときに交代していたのだとか。
それはさておき、一升講の最後に行われるおにぎりの儀では残った御飯を全部平らげなければならず、残すと稲収穫の頃に嵐に見舞われるとされたの。なので提供された御飯を全て食べ終えるまでに3時間余りかかったのだそうよ。それにしてももの凄いボリュームよね。16戸からお米を一升ずつ集めたというのですから一升=10合で合計160合、お米一合を炊いた御飯は普通の大きさの御茶碗で2杯分に相当すると云うことなので、一升講で用意される御飯はおおよそ御茶碗320杯分にもなるの。一升講の前夜には歩射講が行われ、子供や女性、老人らに小豆粥が大判振る舞いされたので多少目減りしたかも知れませんが、それでも当日は宿主を除く残りの戸主のみで全てを食べ尽くさなくてならなかったの。なんか聞いただけでも胃薬が欲しくなるようなお話ね。
11. 青林寺
せいりんじ
13:43着 13:49発
Address : 川越市鯨井1350 Plus Code : WCQX+8H 川越市、埼玉県
12. 常楽寺
じょうらくじ
14:10着 14:25発
Address : 川越市上戸194 Plus Code : WFH2+XJ 川越市、埼玉県
その後、ある事件をきっかけにして頼朝と義経の関係が悪化し、遂には義経追討の院宣が下されたことから義経の逃避行が始まるのですが、愛妾・静御前のことは【吾妻鏡】でも度々話題にあがるものの、郷御前のこととなると限られたことしか記されていないの。義経は最初は西国に下ろうと郎党縁者を引き連れて船出するのですが嵐に見舞われて舟は難破。そのときの様子を【吾妻鏡】は「 豫州( 義経 )に相従ふの輩わずかに4人 いはゆる伊豆右衛門尉・堀弥太郎・武蔵坊弁慶 ならびに妾女字は静一人なり 」と伝えますが、静御前の名はあるものの、郷御前の名はそこにはないの。途中の経緯は端折りますが、義経は西国を諦め、奥州の藤原秀衡を頼り北に向かうの。静御前はその途中で捕らえられて鎌倉送りとなるのですが、離れ離れになったと思われた郷御前はその奥州落ちに同行しているの。何処で再びまみえることができるようになったのかは不詳ですが【吾妻鏡】には「 前の伊豫の守義顯( =義経 )日來所々に隱住し 度々追捕使の害を遁れをはんぬ 遂に伊勢・美濃等の國を經て奧州に赴く これ陸奧の守秀衡入道が權勢を恃むに依ってなり 妻室男女を相具す 皆姿を山臥竝びに兒童等に假ると 」とあることからして郷御前も同行していたことが窺えるの。
ですが、その頼みとしていた秀衡も文治4年(1187)10月29日に病から回復することなく亡くなってしまうの。「 その時前の伊豫の守義顯( 義経 )を以て大將軍と爲し 國務をせしむべきの由 男泰衡以下に遺言せしむと 」と後を託された泰衡でしたが、度重なる頼朝の恫喝に怯え、遂には義経の館に不意打ちをかけて自刃に追い込んでしまうの。【吾妻鏡】の文治5年(1189)閏4月30日の条は「 今日陸奧の國に於いて 泰衡源與州を襲う これ且つは勅定に任せ 且つは二品の仰せに依ってなり 豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り 泰衡の從兵數百騎 その所に馳せ至り合戰す 與州の家人等相防ぐと雖も 悉く以て敗績す 與州持佛堂に入り 先ず妻( 22歳 )子( 女子4歳 )を害し 次いで自殺すと 」と最期の様子を伝えるの。大河ドラマなどでは敵勢の前に立ちはだかり一身に弓矢を浴びて仁王立ちする武蔵坊弁慶の姿が印象的に描かれますが、都にいた当時は情を通じた女性が24人はいたと云われ、西国への逃亡時には舟に6人の女房と5人の白拍子が同乗していた【義経記】などと、常に女性に囲まれていた義経の傍にあって、奥州行きの際には夫の許から逃げ出さずに最期のときまで行動を共にしていた郷御前にスポットライトが当てられることは余りないの。
頼りとされる父・重頼も既に誅殺され、領地も没収されるなどして帰るべき場所もなく、覚悟の逃避行だったのかも知れませんが、一方で彼女は彼女なりに義経のことを愛していたのではないかしら。政略結婚のもう一方の要因として義経の監視役を担わせようとした頼朝の意向があったのかも知れないけど、その思惑とは裏腹に少しずつ義経に心を傾けていく郷御前の姿があったのではないかしら。静御前のことは別にして、結果的には皆義経の許から逃げ出してしまい、彼女も逃げようとすればいくらでも出来たはず。でもそうはせずに、我が子をひとときも手放さず、我が身一つでも大変な逃避行を義経と共に続けているの。この腕に抱くこの娘こそ私が夫・義経を愛し、また愛されている確かな証し。そんな思いが彼女の心の中にあったのではないかしら。否、時代がそうさせたと片づけてしまうには22歳と云う若さで生命( いのち )を終えてしまうのは余りにも過酷な運命だもの、そうであったと思いたいものね。
義経と頼朝の関係が悪化していった理由が気になる方は こちら を。
静御前のことがもっと知りたいの−と云う方は こちら を御笑覧下さいね。CMでした。(^^;
紹介が最後になりましたが、境内の一角には御覧の歌碑が建てられていたの。
13. 河越館跡
かわごえやかたあと
14:27着 14:56発
Address : 川越市上戸192-1他 Plus Code : WFJ2+9M 川越市、埼玉県
T期:「 河越氏 」の時代( 12世紀後半〜1368 )
河越氏が館を構えてから平一揆で敗れ、この地を離れるまでの時期です。「 コ 」の字型に廻る8号堀跡で区画された内側に、2号掘立柱建物跡・6号井戸跡・39号溝( 霊廟か )が確認されています。この区画は建物などの遺構こそ少ないものの、河越氏が活躍した時代でも後半に属する、屋敷値の一部と考えられます。遺物はかわらけ( 儀式や酒宴で使い捨てにされた素焼きの器 )、中国から輸入された青白磁の梅瓶( めいびん )といった武士の生活を偲ばせるものの他に、火を受けた痕跡の残る軒丸瓦や磁器が出土しており、平一揆による兵火との関連が窺えます。
U期:「 常楽寺 」の時代( 14世紀後半〜15世紀後半 )
史跡内に残る時宗の寺院・常楽寺は河越氏の持仏堂が起源と云われ、河越氏が衰退した後に寺域を広げたと考えられています。この時代の遺構は8号堀区画の西隣( 次期整備予定地 )で多く検出されています。塀による区画内に、墓杭と思われる土杭群と半地下式の建物群が集中し、板碑や石塔類、茶道具である茶臼・風炉、仏具である銅製花瓶( けびょう )が出土しています。
V期:「 山内上杉氏 」の時代( 15世紀末〜1505 )
15世紀末には、扇谷上杉氏の川越城を攻略するため、山内上杉氏が陣所を構えました。この陣所に伴う遺構は数多く、26号堀をはじめとした規模の大きな堀や地下式坑、方形竪穴等が検出されています。陣所設置の際には常楽寺の寺域を整理し、堀や井戸に板碑等を投棄した状況が見られます。また、現在も史跡西側に残る土塁はこの時期の遺構と考えられています。遺物は中国産の青磁・白磁、瀬戸・常滑( とこなめ )といった陶磁器類の他、武士の屋敷で使用される火鉢、刀装具等も出土しています。中でも山内上杉氏に関わる時期・地域の遺跡で特徴的に見られる「 山内かわらけ 」と呼ばれるかわらけも数多く出土しています。
W期:「 大道寺氏 」の時代( 16世紀中頃〜1590 )
山内上杉氏陣所以後については、遺構・遺物が少なくなり、発掘調査成果だけでは当時の川越館後の姿は明らかにできません。同様に文献資料も少ないですが、川越城を拠点とした小田原北条氏の重臣・大道寺政繁の墓所が常楽寺内に所在することから、大道寺氏が陣所として整備した可能性が考えられています。
現地には14世紀中頃の河越館の様子がイラストで描かれた案内板も建てられていて、区画や建物の説明も分かりやすく付されているので、是非探してみて下さいね。因みに、残念ながら未体験で終えていますが、隣接する上戸小学校にある資料展示室では出土した遺物の幾つかが展示されていて見学することができるみたいよ。 但し、見学は日曜日のみに限られるのでそのお積もりでお出掛け下さいね。( 参考: 河越館跡史跡公園パンフレット )
14. ( 東武東上線 )霞ヶ関駅
かすみがせきえき
15:13着
Address : 川越市霞ケ関東1丁目 Plus Code : WCGV+68 川越市、埼玉県

いざ足を向けてみれば 川越のお散歩 part.2 で紹介した三芳野神社のルーツが的場三芳野神社であり、更に遡れば現在は霞ヶ関東第五公園のある辺りにあったと云われる三芳野塚に祀られていたことを知るなど、残された僅かな手掛かりを辿りながら歩けば「 我が方によると鳴くなる 三芳野の田面の雁を いつか忘れむ 」と詠まれた往時の景観も歴史の流れの向こうに垣間見えて来るような気がしたの。心惹かれたのはやはり地元に残されている京姫伝説ね。きっとそれはその悲劇性故にその魂を安らかたらしめんと希んだ地元の人々の優しさであり、義経の許を最期のときまで離れず付き従った郷御前もまた「 三芳野の田面の雁 」であり、いつか忘れむ−存在なのかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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【参考文献】
岩波書店 龍肅訳注 吾妻鏡
岩波書店刊 日本古典文学大系9 伊勢物語
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
光文社刊 花山勝友監修 図解・仏像のすべて
河越氏八百年忌記念刊行会刊 小泉功著 河越氏とその館跡
信州信濃浄土出版会刊 百瀬千又編 平成小江戸川越・古寺巡礼
川越市教育委員会発行 川越市文化財保護課編 川越市の文化財
埼玉県神社庁刊 埼玉県神社庁神社調査団編 埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父
国書刊行会発行 稲村坦元編 新訂補 埼玉叢書 第一巻所収 武蔵三芳野名勝図会
謙受堂書店刊 安部立郎編 入間郡誌 ( 国立国会図書館デジタルコレクション 参照 )
川越市立博物館刊 常設展示図録
その他、現地にて頂いてきた栞・パンフレット
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