≡☆ 古尾谷荘のお散歩 ☆≡
2023/07/02

今回のお散歩は 川越市 で紹介されている「 小江戸川越みどころ90観光コース 」の中で「 荒川合流点と古尾谷荘を歩く 」を参考に古谷地区を歩いてみたの。立ち寄りポイントの住所については、Google マップ で利用出来る Plus code も併記しておきましたので御利用下さいね。尚、掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能ですので、気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

古尾谷荘を歩く

1. JR南古谷駅 みなみふるやえき 10:16発
Address : 川越市大字並木 Plus code : WG39+9R 川越市、埼玉県

今回のお散歩コースは「 荒川合流点と古尾谷荘を歩く 」を参考にしましたが、近隣の社寺を加えた一方で、JR川越車両センターは経由せずに県道R113( 川越新座線 )を歩いて奥貫家住宅へ向かうなど、必ずしも推奨ルートと同一と云うわけではありませんので御了承下さいね。歩き終えた印象としては、次の立ち寄りポイントへはかなりの時間を要する場合もあり、疲労感を軽減するためにも、南古谷駅を起点に川越グリーンパークをゴールとして前半部を終え、日を改めて残りを歩いた方が良かったかも知れないわね。帰宅後に調べてみたところ、川越GP発着のバスは大宮駅間もありますが、本川越駅間( 川越駅経由 )であれば一時間に2本程度が運行されているので予定が立てやすいのではないかしら。

2. 瀧岩院 りゅうがんいん 10:21着 10:23発
Address : 川越市大字並木893-6 Plus code : WG29+FG 川越市、埼玉県

3. 並木氷川神社 なみきひかわじんじゃ 10:24着 10:31発
Address : 川越市並木新町5 Plus code : WG29+G9 川越市、埼玉県

【埼玉の神社】当社の由緒は詳かではないが、古老に依れば大宮の氷川様の分霊であると云う。当初、並木の鎮守は古谷本郷の八幡神社であり、【風土記稿】にも当社は「 氷川社 瀧岩院の持 」としか載らず、明治以降の旧社格も無格社であった。また、本殿内にある「 奉祭氷川大明神 」と記された棟札の日付が天保5年(1834)3月8日であるところから、あるいは天保5年(1834)の創建かとも考えられる。記録に依れば、明治13年(1880)10月3日夜に当地方を襲った暴風雨の猛威はすさまじく、多くの被害をもたらした。当社もまた、その被害を受け、本殿・拝殿・鳥居等、一切の建造物が破壊された。現在の社殿は、この時に倒壊した社殿に代わって、明治14年(1881)5月下旬に完成したもので、本殿は神明造り、拝殿は入母屋造りである。【明細帳】による祭神は素盞鳴命で、内陣には厨子に入った神像を安置している。

瀧岩院とは道を隔ててあるのがこちらの並木氷川神社。【埼玉の神社】では棟札の日付から天保5年(1834)の創建かとも考えられるとしていますが、文化文政期(1804-1830)に編まれた【風土記稿】に「 氷川社 瀧岩院の持 」と記されていることからすると、もう少し時代を遡って創建されたと考えるのが順当よね。それとも【埼玉の神社】に天保5年とあるのは単なる誤植かしら?それはさておき、社殿の左手には「 並木文化財保存庫 」が建てられていたの。何が収蔵されているのか、ちょっと気になるわね。最初に見かけたときには神輿庫かと思ったのですが。

4. 並木大クス公園 なみきおおくすこうえん 10:36着 10:43発
Address : 川越市大字並木277 Plus code : WG2C+JF 川越市、埼玉県

〔 並木の大クス 〕県指定天然記念物 昭和9年(1934)3月31日指定
クスノキ( クスノキ科クスノキ属 学名 Cinnamomum camphora )は、暖地性の常緑樹で、埼玉県南部以西の本州・四国・九州に分布しています。樟脳を含んだ木として知られ、耐水性があることから、船材としても重用されてきました。並木の大クスは、北限に近いにもかかわらず、幹周り6m、樹高32mにまで成長した珍しい例です。元々農家の屋敷前に植えられたもので、大切に守られてきました。今後も並木のシンボルとして、残し伝えるべき樹木です。川越市教育委員会

訪ねたときには推定樹齢150-200年とされる大クスが葉を茂らせて聳え立っていたの。大クスのある場所は現在は公園になっていますが、元々は嘗て名主を務めていた細井家の敷地の一部だったみたいね。【埼玉の神社】に依ると、細井家は並木で一番古い旧家で、屋号を中道と号していたのだとか。周囲を見廻してみたところで、今ではすっかり瀟洒な家々が建ち並ぶばかりですが、細井家は転居してしまったのかしら?

5. 奥貫家住宅 おくぬきけじゅうたく 11:02着 11:03発
Address : 川越市大字久下戸4508 Plus code : VGWM+R5 川越市、埼玉県

奥貫友山は宝永2年(1705)入間郡久下戸村( 現・川越市久下戸 )に生まれ、永年名主を務めて衆望があった。寛保2年(1742)8月、関東一円が未曾有の大洪水となったとき、友山は率先して持ち船を出し、米蔵を開いて被災者の救助にあたった。友山の救済を受けた被災者は、近郷を含めて48ヶ村、106,000余人と云われ、川越城主・秋本凉朝( あきもとすけとも )は狩野周信( かのうちかのぶ )の鷹絵一幅を賜って厚くこれを表彰した。また、幕府の儒官・成島錦江に学び、細井平洲とも交友があり、歌集「 老のすさみ 」なども残した。天明7年(1787)11月10日、81歳を以て没した。川越市教育委員会

寛延2年(1749)と云うので大洪水が起きてから数年後のことですが、当時の久下戸村は戸数177戸、石高1,397余と、川越周辺では比較的大きな村で、その村のほぼ中央に位置して奥貫家が屋敷を構えていたの。残念ながら維持管理が難しくなり、茅葺き屋根も瓦葺きに替わってしまいましたが、立派な長屋門が代々名主をつとめてきた奥貫家の誇りを今に伝えているの。屋敷内を見学することはできませんが、構堀や屋敷林に護られるようにして建てられた当時の奥貫家の復元模型が川越市立博物館にありますので、目にする機会がありましたら、思い出して下さいね。

6. 奥貫友山墓 おくぬきゆうざんのはか 11:07着 11:11発
Address : 川越市大字久下戸4500 Plus code : VGWM+M6 川越市、埼玉県

〔 史蹟 贈従五位・奥貫友山 〕奥貫友山先生の名は正卿( まさのり )、字は伯雅、通称を五平次と云い、友山と号しました。幕府の儒官・成島錦江先生に入門し、博く学問を修めましたが、朱子学を根本とされました。学問の友人としては青木昆陽・中村蘭林などがいました。寛保2年(1742)関東一帯に大洪水が起こり、川越近郊に甚だしい被害が発生しました。このとき友山先生は父上と相談し、我が家の倉庫を開いて米や粟を飢えた人々に提供しましたが、自家分だけでは不足したため、四方より米を買い集めてまで救助に努めました。このようにして同年10月より翌年4月までの間に友山先生が救った村は48ヶ村、人数は106,000余に達しました。時の川越藩主は友山先生の志を賞して衣服を賜り御馳走の席を設けました。明和年間(1764-1772)武蔵・上野二か国にまたがって一揆が起こり、富裕な家は打ち壊しに会いましたが、友山先生の家だけは洪水の時に救助に努めたため、一揆の打ち壊しを免れました。友山先生は天明7年(1787)11月10日に81歳で亡くなられましたが、その後大正13年(1924)特に従五位を贈られました。平成3年(1991)1月15日 川越市久下戸前田霊園 関係者一同

墓苑を囲むブロック塀の片隅には馬頭観音の文字や像を陽刻した供養塔が建てられていましたが、その傍らには「 愛馬之塚 」と刻まれた石塔が建てられていたの。現在のようなトラックやトラクターなど無い時代には馬は貴重な労働力で、貧しい日々の支えだったの。雨上がりの坂道で泥濘にはまってしまい、飼い主共々力を振り絞って重い荷車を引き上げたことがあったかも知れず、一仕事を終えて家に帰り着いた後の餌やりやブラッシングなど、供養塔の飼馬は家族の一員として、そこには人と馬の垣根を越えた信頼と愛情があったのではないかしら。単に血が繋がっているから家族なのではなくて、共に生きていきたいと思う相手が家族・・・

7. 古谷本郷薬師堂 ふるやほんごうやくしどう 11:41着 11:42発
Address : 川越市大字古谷本郷 薬師堂 Plus code : WG3W+XX 川越市、埼玉県

県指定有形文化財〔 木造薬師如来坐像 〕近年、世に知られた古谷本郷地区の古仏群を代表する作品で、榧材の寄木造りからなり、彫眼、漆箔( 後補 )、像高は137.7cm、偏袒右肩に衣を纏い、右手施無畏印を結び、左手に薬壺を持つ、半丈六に及ばんとする大作である。素朴な中にも写実味のある立体的で、力強い表現手法、本体の根幹部をほぼ一材から刻み出す豪快な木取り法等の特色からすると、12世紀末葉から13世紀初頭にかけての頃の造像と見てよく、形骸化した藤原彫刻から、次代の生気溢れる鎌倉新様彫刻への転換を遂げた先駆的な作例と云うことが出来る。地元川越は元より、埼玉や関東の造仏史を探る上に見逃せない作品と云えよう。尚、本像は現在灌頂院の管理になる、この小さな薬師堂に安置されているが、嘗ては同所にあった神宮寺( 管理人注 : 灌頂院の項・【風土記稿】の記述参照 )の本尊であったと考えられる。昭和55年(1980)3月 川越市教育委員会

奥貫友山墓からはかなりのロングアプローチになりますが、頑張って下さいね。祀られる薬師如来坐像には小さいながらも鎌倉時代初期の造立に比定される日光・月光両菩薩が脇侍していますが、堂内左右には十二神将も祀られているの。こちらは室町期の造像と考えられているみたいだけど、幾れもかなり後世の造作が加えられているように見えるわね。加えて、何故か三体は台座から降ろされてお昼寝中よ。十二神将は薬師如来の眷族で、その役目は薬師如来の手助けと、薬師如来に信仰を寄せる人々を守護することにあるの。人々の願いに応えようと身を酷使し、満身創痍になってしまったのかも知れないわね。

8. 古尾谷八幡神社 ふるおやはちまんじんじゃ 11:47着 12:05発
Address : 川越市大字古谷本郷1408-1 Plus code : WG3X+JM 川越市、埼玉県

【埼玉の神社】当社は古尾谷荘13ヶ村の総鎮守として古くから武将たちに崇敬されてきた。古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、【吾妻鏡】には承久の乱の折、宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。社記に依れば、天長年間(824-834)慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中(859-877)再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。元暦元年(1184)に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治5年(1189)には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年(1278)藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。正平7年(1352)に古尾谷形部大輔は新田義宗、義興らが上野国で挙兵し鎌倉に攻め上るに当たり、参陣して当社に戦勝を祈り、佩刀を解いて「若し利あらば太刀をして川上に登らしめよ」と誓い、太刀を荒川に投ずると不思議にも川上に太刀が上がった。このため、兵の士気は大いに挙がり大勝した。よってこの太刀を「瀬登の太刀」と名付け長男信秀に奉献させた。下って永禄4年(1561)に越後の勇将長尾景虎が、小田原城を攻略する際、古尾谷氏の主であった岩槻城主太田資正が先鋒を務めたため、当社及び灌頂院は小田原方に焼き討ちされた。その後、太田氏の内紛により資正は嫡子氏資に追われ、家臣であった古尾谷氏も逼塞した。新たに小田原方についた太田氏資は、古尾谷氏の旧臣中筑後守資信に当地を任せ、天正5年(1577)2月資信は当社を再建した。次いで天正18年(1590)豊臣秀吉は後北条氏を降伏させ、徳川家康が関東に入府となり、翌年当社は50石の社領を安堵される。正保4年(1647)今泉西蔵院良賢※は、兵火により焼失した古鏡を改鋳し再びこれを神前に掛ける。また、元禄11年(1698)には当社に東叡山寛永寺門主公弁法親王の命により、真如院梨隠宗順が菊紋の高張・張幕・海雀・鮑売の四品を献上する。享保7年(1722)長く風雨にさらされ傷んだ本社及び摂末社は再建された。これが現在の社殿である。明治初めの神仏分離により当社は別当天台宗灌頂院から離れ、明治4年(1871)には川越県第五区の郷社、同5年(1872)には入間県の郷社となり、昭和4年(1929)には県社に昇格した。大正4年(1915)に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社が合祀された。
※今泉村西蔵院大僧都・法印良賢

冒頭にいきなり古尾谷氏が登場しますが、当初、古尾谷荘の地頭職にあったのは藤原( 内藤 )氏で、その家臣として当地で活躍したのが秩父平氏の流れをくむ古尾谷氏なの。その古尾谷氏も紆余曲折を経て衰退し、永禄10年(1567)頃に記されたものと思われる、梶原政景が古尾谷隼人佐に宛てた書状が残されているのですが、それ以後の古尾谷荘に於ける古尾谷氏の動静は窺い知ることが出来ないの。うち続く戦乱の中で一族郎党生命を永らえることが出来ず、歴史の荒波の中に飲み込まれてしまったのかも知れないわね。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす 奢れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き人も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ・・・

序でながら、参考までに【風土記稿】に記される縁起も引いておきましたので
気になる方は こちら を御参照下さいね。

古尾谷八幡神社社殿( 本殿・幣殿・拝殿 ) 付 享保7年(1722)棟札1枚
県指定有形文化財・建造物 平成7年(1995)3月17日指定
古尾谷八幡神社は、貞観年間(859-877)に慈覚大師が石清水八幡宮の分霊を祀ったのが始まりと伝えられており、平安時代から古尾谷荘13カ村( 古谷本郷・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高島・八ツ島・大久保・ふるいちば・渋井・古谷上 )の総鎮守として崇敬を集めた。社殿は享保7年(1722)、旧本殿は天正5年(1577)の造営であることが棟札により判明している。社殿は本殿・拝殿を幣殿でつなぐ朱塗りの権現造で、周囲には透塀が廻らされている。本殿の内陣内に安置された内殿は黒漆塗りで、牡丹や昇竜・降竜の彫刻などが極彩色で彩られている。本殿の各所に施された極彩色の彫刻や、幣殿の大虹梁の若葉文様、細部の手法等が、棟札に記された享保期の形式を示している。地方に於ける普通神社として典型的な建造物であり、建築年代が明らかな基準例と云える。


古尾谷八幡神社旧本殿 付 天正5年(1577)棟札1枚
県指定有形文化財・建造物 平成7年(1995)3月17日指定
旧本殿は、享保7年(1722)に社殿が建築された際に西側に移築され、末社として境内の神社が合祀された。二間社流造、見世棚造で全体を朱塗りとしている。見世棚造は正面の階段を省略した小型簡易な建築であるが、このような大型なものは大変珍しい。地垂木の反りが極めて大きいこと、頭貫の鼻を木鼻とせず肘木とすることなどは、中世の建築に見られる古い手法である。室町時代の古式を遺しており、棟札に記された造営期と一致する安土桃山期の貴重な遺構である。川越市教育委員会


因みに、拝殿と旧本殿は幾れも大正13年(1924)に瓦葺から銅板葺になり、近年では平成26年(2014)に社殿修理を終えているの。

懸仏 当社に所蔵される文化財の中でもこの銅造阿弥陀三尊懸仏( 埼玉県指定文化財 )は、直径が77.4cmもある大型のもので、中央に阿弥陀如来が配され、左右に勢至菩薩と十一面観音菩薩が脇侍しているの。紹介したように当社は京都・石清水八幡宮から分祀・分霊されたものですが、三尊はその石清水八幡宮の祭神、中御前・若宮・東御前の本地仏にあたり、そこからこの古尾谷八幡神社の本地仏として今に伝えられてきたの。

算額

他にも川越市指定文化財として算額・絵馬馬図・絵馬三国志図・絵馬鷹木彫が伝えられるの。因みに「 天保12年(1841)8月に、関流七伝・前橋藩手島喜次郎清春の門人であった古谷上村の澤田千代次郎理則が奉納したものである。66cm×90cm、二問の答と術が記されている。昭和53年(1978)3月 川越市教育委員会 」と説明されていた算額ですが、千代次郎は明治元年(1868)10月8日に54歳で没し、その亡骸はこの後に紹介する実相院に葬られているの。法名は適樹理算信士。千代次郎は和算のみならず、測量術にも秀でていたようですが、元々は父親・和助の影響から和算を志すようになったみたいね。

ほろ祭 そして、この古尾谷八幡神社の紹介で忘れてはならないのが、毎年9月15日に行われる神幸祭の「 ほろ祭 」なの。県の指定無形民俗文化財になっていて、説明には「 古谷本郷上組・下組各組別に、生まれた長男が二人になると神社に届出、順に8、9才位で参加、祭の当日は自家で祝宴の後、手甲脚絆陣羽織十六菊紋の腹掛姿で母衣( ほろ )を背負い、神輿渡御の行列に加わり、煉り足で進み横向きになり180度向きを変える姿が感動的である。子供達はこの行事を無事奉仕終えると大人の仲間入りが出来ると云われ、成人式の一種と思われる 」とあるの。

母衣は元々は武士が弓矢から身を守るために背負った布製の防具のことで、マントのように羽織り、馬に跨がり風を受けると膨らんで防御の役目を果たしてくれたの。そんなことから元々は元服式、或いは出陣式をなぞって行われたものと考えられているみたいね。それが次第に氏神様にお参りすることで氏子として承認を得る氏子入りの儀式となり、晴れ着を纏い、重い母衣を背負って練り歩く姿を通して一人前の男子となったことを親類縁者や村人達に見て貰う儀式としても行われるようになったの。

最後に、境内に祀られる末社を纏めて紹介しますね。

厳島神社
天満宮
春日神社
護国神社

御嶽神社
三島神社
三峯&榛名神社

若宮神社
謎の岩

稲荷神社

9. 灌頂院 かんじょういん 12:08着 12:18発
Address : 川越市大字古谷本郷1428 Plus code : WH32+C2 川越市、埼玉県

鎌倉時代に京都・石清水八幡宮の荘園として繁栄を見せた古尾谷荘には、在地領主・古尾谷氏の篤い保護を受けて多くの仏堂が建てられ、薬師信仰や阿弥陀信仰が広がりをみせていたようね。前述の古尾谷八幡神社には御正体として銅造の阿弥陀三尊懸仏( 県指定文化財 )が伝来しますが、その別当寺を務めていた灌頂院にも平安後期から鎌倉期に造られたとされる木造の薬師如来坐像( 県指定文化財 )や阿弥陀如来坐像&立像( 幾れも市指定文化財 )が伝えられているの。因みに、その薬師如来坐像は神宮寺、阿弥陀如来坐像は大蔵寺の本尊として祀られていたものみたいよ。灌頂院には他にも鎌倉期の製作とされる木造千手観音菩薩坐像( 市指定文化財 )や不動明王立像( 市指定文化財 )など、貴重な仏像が伝えられているの。いずれも古尾谷荘に於ける当時の仏教文化の隆盛を裏付ける証左で、天台仏教に依る薬師信仰の浸透をベースに、石清水八幡宮の本地仏である阿弥陀信仰が広まっていった様子が窺えるの。

10. 川越グリーンパーク かわごえぐりーんぱーく 13:01着 13:06発
Address : 川越市大字古谷上6083 Plus code : WG8P+J4 川越市、埼玉県

こちらで暫時の小休止。冒頭でも触れましたが、今回の散策は次の見学場所までの距離が離れていて移動時間を要することも多く、全体的にみてもかなりの長丁場になるの。今にして思えば、この川越グリーンパークを起点にして、一つは今迄紹介してきた寺社を逆順でめぐり、南古谷駅に向かうコース、もう一つはこれから紹介する寺社をめぐりながら南古谷駅に向かうコースの2行程に分けて歩いても良かったみたいね。勿論、南古谷駅を起点にして川越グリーンパークをゴールとする歩き方もありよね。因みに、今回は立ち寄らずに終えていますが、古谷上交差点の近く( ここからだと600m位かしら )に くらづくり本舗 古谷工場の直売店があるの。お土産を買って帰らなきゃ−と云う方にはお薦めよ。

11. 上江橋由来碑 かみのえばしゆらいひ 13:09着 13:12発
Address : 川越市大字古谷上5456 Plus code : WG8M+Q3 川越市、埼玉県

12. 實相院 じっそういん 13:18着 13:28発
Address : 川越市大字古谷上4266-1 Plus code : WG9J+43 川越市、埼玉県

13. 善仲寺 ぜんちゅうじ 13:33着 13:38発
Address : 川越市大字古谷上4136 Plus code : WG9H+85 川越市、埼玉県

14. 古谷神社 ふるやじんじゃ 13:58着 14:13発
Address : 川越市古谷上字赤城3564 Plus code : WG9C+J9 川越市、埼玉県

ここで寄り道のお薦めよ。次の小中居神明社に向かう途中の、R16の古谷交差点から北へ少しばかり入ったところに 紋蔵庵 さんの本店があるの。こちらも「 くらづくり本舗 」さん同様、店舗数も多くて川越では名の知られた和菓子屋さんね。川越と云えば川越芋。ポテトをチョコでくるんだポテトショコラもお薦めよ。ゴールの南古谷駅にはお土産が買えるようなそれらしきお店が無かったので、宜しかったらお立ち寄り下さいね。

15. 小中居神明社 こなかいしんめいしゃ 14:36着 14:40発
Address : 川越市小中居664 Plus code : WG5C+4Q 川越市、埼玉県

16. 畔薬師 あぜやくし 14:47着 14:50発
Address : 川越市大字小中居949 Plus code : WG5G+7G 川越市、埼玉県

17. JR南古谷駅 みなみふるやえき 15:07着
Address : 川越市大字並木 Plus code : WG39+9R 川越市、埼玉県












川越と云えば先ず最初に蔵造りの商家の町並みが残る歴史的な景観をイメージする方が多いかと思いますが、今回の散策では街中を離れて古尾谷地区を歩いてみたの。歴史的景観保存地区に指定される一番街のような、特段の見所ポイントがあるわけではないのですが、時間を掛けて訪ね歩けば、遙か遠い昔にこの地に仏教文化が花開いていたことが窺えるの。駅前を少し離れると目の前には稲穂がたなびく長閑な田園風景が広がりますが、嘗てはそこここに僧坊が建てられていたのかも知れないわね。あなたも今度の週末にでもいつもとは違う川越を歩いてみませんか。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.comまで御連絡下さいね。

【参考文献】
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
光文社刊 花山勝友監修 図解・仏像のすべて
小泉功監修 阿部徳之助著&発行 古尾谷小誌
信州信濃浄土出版会刊 百瀬千又編 平成小江戸川越・古寺巡礼
川越市教育委員会発行 川越市文化財保護課編 川越市の文化財
埼玉県神社庁刊 埼玉県神社庁神社調査団編 埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父
川越市立博物館刊 常設展示図録

Special Thanks
【 入間郡誌 】は 国立国会図書館デジタルコレクション を、
【 寺院明細帳 】については 国文学研究資料館 を参照させて頂きました。






どこにもいけないわ