≡☆ 三浦半島・観音崎 ☆≡
潮風香る岬の道シリーズ 2013/09/28

以前に一度訪ねたことのある観音崎ですが、再訪する機会を得て出掛けてみたの。But 前日の天気予報では終日晴れマークの一日のはずが、いざ出掛けてみると、昼過ぎからは曇ってきてしまったの。なので、後半の景観を期待された方はごめんなさいね。その代わり、前半にその分も堪能できるようにしておきましたのでお楽しみ下さいね。尚、掲載画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

走水神社〜ボードウォーク〜三軒家園地〜戦没船員の碑〜たたら浜〜観音埼灯台

1. (京急)品川駅 しながわえき 8:38発 快特「三崎口」行

東京湾に突き出るようにしてある観音崎には緑の森が広がり、野鳥の啼き声がこだまするなど、豊かな自然が今でも残されているの。現在は観音崎自然博物館や横須賀美術館などの施設を加えた自然公園として整備されている観音崎ですが、明治から戦時中にかけては東京湾防備の重要地点であったことから砲台が築造されるなど、要塞化されていたの。そのために立ち入りが制限され、開発されずに済んだことが自然が多く残されることにも繋がったと云うわけ。皮肉と云えば皮肉よね。

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2. 堀ノ内駅 ほりのうちえき 9:25着 9:26発

3. 馬堀海岸駅 まぼりかいがんえき 9:29着 9:36発

駅 ここでグリコのオマケのお話しを紹介しますね。地元・馬堀町4丁目ある浄林寺の裏山に「蹄の井」があるの。実は、その「蹄の井」が馬堀の地名の由来となっているのだそうよ。何でも対岸の房総半島から一頭の暴れ馬がこの地に泳ぎ来たと云うの。
むか〜し昔のことじゃけんども、房州は嶺岡(現・千葉県鴨川市江見)の地に一頭の暴れ馬がおっての、気性が荒いことから荒潮と呼んで誰も側へは近づかんかったのじゃが、それを良いことに次第に畑の作物も食い荒らすようになってのお、困り果てた村人達は皆して荒潮を追い出したんじゃ。

4. 馬堀海岸BS まぼりかいがんばすてい 9:40着 9:53発

すっかり逃げ場を失った荒潮は海に飛び込むとこの走水に泳ぎ着いたそうじゃ。じゃが、さすがの暴れ馬の荒潮も疲れと激しい喉の渇きをおぼえてのお、遂には逃げ込んだ山ん中で倒れてしまったそうじゃ。じゃけんども不思議なことがおきるものよのお、夢の中に馬頭観音が現れて傍らの岩を蹄で蹴るようにとのお告げがあったのじゃ。荒潮はそのお告げのままに蹄で岩を蹴飛ばしてみると、果たしてそこからは清水がコンコンと湧き出したそうじゃ。不思議なことは続くものじゃのお、その湧き水で渇きを癒やした荒潮じゃが、鹿毛色の美しい毛並みをした駿馬に姿を変えたそうじゃ。それからと云うもの、その清水を「蹄の井」と呼んで、この辺りの土地を誰云うとなく、馬堀と呼ぶようになったそうじゃ。とんとむか〜し、昔のお話しじゃけんども。

5. 走水神社BS はしりみずじんじゃばすてい 10:02着 10:04発

バス停 観音崎に向かう前に、ここで走水神社に寄り道してみたのでお付き合いくださいね。走水は【日本書紀】や【古事記】にも登場するなど、古くから知られた地名で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の途次に上総に向かい船出した地として伝えられ、海神の怒りを鎮めるために自ら海中へ身を投じた弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水伝説が語り継がれているの。その走水に鎮座する走水神社には、日本武尊と弟橘媛の二柱が祀られると知り、訪ねてみたの。

6. 走水神社 はしりみずじんじゃ 10:06着 10:51発

走水の地名は、既に古事記(712)や日本書紀(720)の中に現れています。大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が通じておりました。走水神社の祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)とその后・弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったので分かりません。伝説では、景行天皇の即位40年(110)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃に納めて、その上に社殿を建て、日本武尊を祀ったことに始まると伝えています。日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、今にも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、

さねさし さがむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも

の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祀られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、明治42年(1909)、この神社に祀られました。明治43年(1910)6月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典(のぎまれすけ)など七名士により、社殿の裏手に建てられました。社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年〔 昭和50年(1975) 〕を機に、また、左側にある「包丁塚」は、走水の住人・大伴黒主(くろぬし)が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの故事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和48年(1973)に建てられたものです。

弟橘媛命が崇高な情熱を以て守られた、この浦賀水道は、近年、世界の船の航行も激しく、海難を防ぐことは、各方面から要望されるところです。国際婦人年に当たり、由緒あるこの大舵に航海の安全を託して、ゆかりの地・走水に建立、海への関心を高めたいと思います。
昭和50年(1975)11月吉日 弟橘媛命舵の碑を建てる会発起人一同

遠つ世に 弟橘の 鎮ませる この海原よ やすらけくこそ

鳥居前に掲示されていた縁起と併せて、石段右手に建てられている舵の碑を紹介しましたが、ここで改めて【古事記】の記述を御案内してみますね。少し長くなってしまいますが、ご容赦下さいね。

走水の海を渡りたまひし時 其の渡の神浪を興して 船を廻らして得進み渡りたまはざりき 爾に其の后 名は弟橘比賣命白したまひしく 「妾 御子に易りて海の中に入らむ 御子は遺はさえし政を遂げて覆奏したまふべし」とまをして 海に入りたまはむとする時に 菅疊八重、皮疊八重、絁疊八重を波の上に敷きて その上に下し坐しき 是に其の暴浪自ら伏ぎて 御船得進みき 爾に其の后歌ひたまひしく 「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」 とうたひたまひき 故 七日の後 其の后の御櫛海邊に依りき 乃ち其の櫛を取りて 御陵を作りて治め置きき

相模国で国造に欺された日本武尊は、野火の猛火に囲まれながらも難を逃れ、相模国の国造を成敗すると、次なる上総国に向かうべくこの走水の地にやって来たの。そうして房総に向けて船を漕ぎ出すのですが、途中で激しい暴風雨に巻き込まれ、難破しそうになるの。そこで海神の怒りを鎮めようと、妻の弟橘媛は荒れ狂う波間に菅・皮・絹の畳をそれぞれ8枚積み重ねると、その上に身を置き、波間に消えたの。すると忽ち海は鎮まりかえり、尊は無事房総に渡り着くことが出来たの。それから7日程経たある日のこと、媛が愛用していた櫛が砂浜に打ち上げられ、形見の櫛を埋めて御陵を造ったの。

その弟橘媛が入水するときに詠んだとされる歌が「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 云々」で、意訳すると、相模国で燃えさかる野火に囲まれて万事休すとなったときでさえ、あなたは手にした剣で草を薙ぎ払いながらも、わたくしの身を案じて声を掛けて下さいました。わたくしはあの時のあなたの優しさが今でも忘れられずにいるのです。その想いがあればこそ、それを胸に、わたくしは喜んであなたの身代わりに海神の生け贄となりましょう。それでは、どうか安らかに旅が続けられますように−と云ったところかしら。

弟橘媛の入水伝説は神話の世界のお話しで、美談過ぎると分かってはいても、それでも、愛する人の優しさに触れたとき、その愛する人のために何かの役に立ちたいと思う心は時代を超えて変わらないものよね。後に、日本武尊は東国を平定して帰る途中、足柄山の坂(紀では碓日坂)に差し掛かると後ろを振り返り、しみじみと「吾嬬はや」と嘆いたの。「吾嬬はや」は「わが(愛する)妻よ」の意とされ、入水して果てた妻の弟橘媛をこの地に残して去りゆく悲しさを表しているの。記紀はこの「吾嬬はや」から転じて東国を「吾嬬の国」と云うようになったとも伝えるの。吾が愛する妻が眠る国、吾妻の国、吾妻 ・・・

ここで社殿に詣でる前に、石段下左右に建てられているその他の石碑を纏めて紹介しますね。

草枕 旅の丸寝の紐絶えば 吾が手とつけろ これの針持し
くさまくら たびのまるねのひもたえば あがてとつけろ これのはるもし
万葉集20・4420 椋椅部弟女(くらはしべのおとめ)
(注訳)草を枕に野宿をする旅先で、来たまま寝るその着物の紐が切れたなら、ご自分の手でおつけ下さい、この針を以て。針(はる)の意の東国方言を耳で聴いたまま書き写したもの。防人(さきもり)の妻が、夫の旅立ちの際、いたわりを込めて詠ったものです。
昭和58年(1983)2月8日建立 針の碑建立の会 走水神社 氏子総代会
針の碑

弟橘媛命
妾は皇子の御為に よろこびて今こそ 此の浦に身を捧げなむ
はようつとめ果し 大君の御心安んじさせ給え

日本武尊
弟橘媛よ 汝の願い 心と吾が胸にのこりなん 永久に安かれと ただおろがまむ
顕現の碑

縁起の中でも触れられていましたが、この包丁塚は走水の住人であった大伴黒主(おおとものくろぬし)が日本武尊に料理を献上した故事に因み、包丁への感謝と併せ、料理の素材となる鳥獣魚介類の霊を慰めるために昭和48年(1973)に建てられたものだそうよ。But その故事とやらが気になったのですが、残念ながら何に記されているのかは分からず終い。因みに、包丁式と云えば、料理の神さま・高倍神こと、磐鹿六雁命を祀る高家神社(千葉県南房総市千倉)の包丁神事が広く知られているけど、この走水神社でも包丁供養祭の際に四條流の包丁式が行われるみたいね。 包丁塚

社殿の右手には稲荷社が建ち、傍らには大きな鉄の塊のような物体が置かれていたので何かしらと近づいてみると、何と機雷だったの。案内板には「奉献 露國機械水雷 横須賀鎮守府司令長官 男爵 上村彦之丞 明治43年(1910)6月5日 走水神社氏子会」と記されてはいましたが、何故こんな物騒なモノが奉納されたのかしら?

社殿背後の岩肌には巌窟を穿つようにして水神社が祀られていたの。祠内の河童像はちょっと気持ち悪かった!けど、両袖に脇侍する河童像は可愛らしいアニメ・キャラ風よ。
かっぱ(河童)河わらは→河わっぱは想像上の動物で、子供の形をし、頭上の皿に水が入っている。子供や動物を水中に引き込み、その血を吸うと云う。悪さの反面、泳ぎの達人で、水の化身・水神として尊ぶ所もある。漁業の手引きをして大漁をもたらしたり、また、遭難したときに人命救助をするとも伝えられている。ここ走水は、特に水との縁が深く、昔から水神として祀られている。平成18年(2006)正月吉日 走水神社氏子総代

社殿の左手には木の香も新しい社殿が建てられていましたが、弟橘媛に殉じて身を投げた侍女達が祀られる別宮なの。訪ねたときには元・別宮(旧別宮)も社殿の右手に残されていましたが、新しいお社の方は平成25年(2013)に再建されたものだそうよ。

別宮の左手に続く坂道を上ると左掲の弟橘媛命記念碑があるの。碑は高さが4.3mもある大きなもので、使われている伊豆石は走水港に陸揚げしてここまで運び入れたものだとか。建立されたのは明治43年(1910)のことで、碑の裏面には海軍大将・東郷平八郎等発起人7名の名前が連ねられているのですが、陸軍大将・乃木希典の名もあり、碑文には「其の貞烈忠誠まことに女子亀鑑たるのみならず 亦以て男子の模範たるべし」とあるなど、今となっては多少時代錯誤的な印象は免れないわね。その碑文を転載してみますが、撰文もまた東郷平八郎がしているの。因みに、揮毫している(常宮)昌子内親王は明治天皇の第六皇女なの。

嗚呼此は弟橘比賣命いまはの御歌なり 命夫君日本武尊の東征し給ふに伴われ 駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給ふ時 敢無く暴風に遭ひ 御身を犠牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり 御歌に溢るゝ心情はすべて夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず 其の貞烈忠誠まことに女子亀鑑たるのみならず 亦以て男子の模範たるべし 平八郎等七人相議り 同感者の賛成を得 記念を不朽ならしめむと 御歌の御書を常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り 彫りてこの石を建つ 明治42年(1909)10月

走水神社の御案内の最後に、走水漁港の景観を幾つか紹介しておきますね。現在は防波堤が出来て陸続きとなってしまってはいますが、湾内には皇島(すめらじま)と呼ばれる小島があり、日本武尊が房総に向かい船出した場所だと伝えられているの。中央の写真手前には、堤防に繋がるようにして小島らしき痕跡が写りますが、それが皇島かしら?


左掲は防衛大学校走水海上訓練場からの景観ですが、画面奥に見える小山のような形をした岬が御所ヶ崎になるの。御所ヶ崎は旗山崎とも呼ばれ、日本武尊が東征する際に、ここに臨時の御所を設け、軍旗を立てたことから呼ばれるようになったと伝えられているの。また、弟橘媛の入水から七日後に媛愛用の御櫛が流れ着き、それを納めて御陵としたことは先程も触れましたが、弟橘媛はその御所ヶ崎の橘神社に祀られ、御櫛と併せて曲玉などの遺品も納められていたと伝えるの。But その橘神社も明治18年(1885)には御所ヶ崎全域が軍用地化されたことから取り壊され、明治42年(1909)に走水神社に合祀されたの。神話の浪漫にあふれる御所ヶ崎はξ^_^ξも一度訪ねてみたかったのですが、残念ながら現在は立入禁止なの。なので、この景観にて御容赦下さいね。

7. 観音崎ボードウォーク かんのんざきぼーどうぉーく 11:05着 11:36発

〔 観音崎ボードウォーク 〕 JR横須賀駅から観音崎までの「うみかぜの路」で、自然の磯浜がある走水・観音崎地区は「海とあそぶ道」と位置づけられています。遊歩道は景観を生かすためボードウォークが設置され、ブラジルを原産とする広葉樹・イペが使用されています。この木材は、繊維の密度が高く、水に沈み、火に強く、虫食いにも強い材質です。素足で歩くことも出来るヒトにやさしい道です。東京湾を行き交う様々な国の船舶が間近に迫り、左前方の御所ヶ崎には、日本武尊ゆかりの皇島(すめらじま)や弟橘媛命が入水したと云われる「むぐりの鼻」※を望むことができます。大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ
※御所ヶ崎にある磯の名で、弟橘媛が入水すると、侍女達もまた媛に殉じてその磯から次々に身を投げて入水したと伝えるの。

ここでの案内は不要よね。景観写真を纏めてアップしておきましたので、御一緒に暫しの Seaside Walking を ・・・

 
イシダイあたりが釣れちゃうかも。
 
あっ、やっと灯台が見えてきたわ。NO NO !! 見えているのは灯台じゃないの。


左掲は横須賀市の市制100周年を記念して平成19年(2007)に新たに開館した 横須賀美術館 なの。以前訪ねたときにはこの場所に走水園地があり、公園事務所や駐車場なども設けられていたのですが大きく様変わり。残念ながら未体験ですが、美術館には近・現代の作品を中心に4,500点余が収蔵され、常設展の他にも企画展が随時開催されるそうよ。ξ^_^ξとしては別館の谷内六郎館の方が気になるわね。谷内六郎氏と云えば、週刊新潮の表紙絵を長く描いてきたことで知られていますよね。その絵を見て頂ければ身近な画家として親近感を覚えて頂けるのではないかしら。

【週刊新潮】は明日発売されま〜す。ξ^_^ξ 懐かしいわね。

8. 三軒家園地入口 さんげんやえんちいりぐち 11:49着発

9. 三軒家砲台跡 さんげんやほうだいあと 11:54着 11:57発

〔 観音崎砲台について 〕 ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため、東京湾防備の重要地点として明治13年(1880)〜28年(1895)の間に、観音崎各所にレンガとコンクリートに依る15ヶ所の近代的砲台が築かれました。これらの砲台は日清・日露戦争時代に活躍したものです。

〔 三軒家砲台跡 〕 この砲台は明治27年(1894)12月15日着工、明治29年(1896)12月20日完成の27加砲4門、12加砲2門の砲台で、原形に近い形で残されています。地下庫、見張所、井戸、便所等もありましたが、昭和9年(1934)8月20日廃止されました。

〔 会津藩と観音崎 〕 文化7年(1810)、江戸湾(現在の東京湾)警備のため房総半島には白川藩、三浦半島には会津藩が侍や足軽、その家族を含めて千数百人が移り住み、10年間過ごしました。三浦半島の防備についた会津藩は、三崎の城山と鴨居の腰越に陣屋を、観音崎など三ヶ所に台場を置き、守りを固めました。また、鴨居に養生館、三崎に集義館と云う子弟の教育の場である学問所を開きました。三浦半島には、当時の会津藩関係者の墓が多く残っています。

調べてみると、観音崎砲台の歴史は江戸時代後期に始まるの。文化7年(1810)、江戸幕府は国交を求めて来航する外国船に対抗すべく、会津藩に江戸湾の警備を命じたの。陣屋が置かれると、文化9年(1812)には早くも砲台が築かれたの。藩士は家族を伴い着任、この地で10年余を過ごすことになったのですが、腰越や鴨居の西徳寺に会津藩士の墓が残されているのはそのときの名残りね。その後、川越藩が会津藩に取って代わるなどしますが、明治期になると観音崎の軍事的な重要性は更に増し、明治13年(1880)から明治28年(1895)にかけて観音崎の各所にレンガとコンクリートの砲台が築かれたの。その砲台も日清・日露戦争以後は次第に役不足となり、関東大震災で大破したのを機に廃止されたみたいね。近くにはヨーロッパのワイン貯蔵庫を思わせるようなレンガ造りの建物も残っていましたが、砲台跡はこの三軒家の他にも幾つかの場所で目にすることが出来るの。

10. 三軒家園地 さんげんやえんち 11:58着 12:04発

砲台跡と隣り合わせにしてこの三軒家園地があるの。御覧のようにここからの展望が素晴らしく、天候に恵まれたなら横浜のランドマークタワーや東京湾横断道路の海ほたるを始め、ときにはスカイツリーも見えるそうよ。残念ながら訪ねたときは晴れてはいたのですが、遠くは靄がかかったように霞んでいて見ることが出来なかったの。それでも、海上には行き交う大型船の他、第一、第二海堡の姿が。案内板には第三海堡の説明もされていたのですが、航行する船舶の安全確保のため、平成13年(2001)から7年もの歳月を費やして撤去されたの。その第三海堡の撤去を含め、東京湾海堡の歴史が気になる方は国交省関東地方整備局 東京湾口航路事務所 を御参照下さいね。

〔 第三海堡 〕 海堡とは兵備を施した人工島です。第三海堡は、明治25年(1892)から大正10年(1921)までかかって建設されました。しかし、長い年月と巨額の費用を投じたこの海堡は、完成から2年後の関東大震災で崩壊し、現在は廃墟となっています。

次の戦没船員の碑に向かう途中の道はレンガを敷き詰めた園路になっているの。緑に覆われているのでこれなら夏の陽射しも余り気にならないわね。ξ^_^ξが訪ねたのは残暑もようやく峠を越えた9月末 ( ′13.09.28 ) のことでしたが、それでも森の中からはセミの鳴き声のオンパレード状態だったの。オマケに、普通はセミの種類により鳴く時期が多少ずれるはずなのですが、ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミに加えてツクツクボウシまで一緒に鳴いていたの。観音崎の自然環境はセミ達にも居心地がいいみたいね。

11. めがね橋 めがねばし 12:28着 12:30発

〔 切り通し 〕 めがね橋の下は、切り通し(切り開いた道)になっています。この切り通しは、明治時代に軍の資材運搬通路として開かれたようです。現在は使われておらず、植物が繁茂し、中でもシダの仲間が多く見られます。

歩いていると御覧の橋が見えてきたので橋の下には当然川が流れているものと思い、覗き込んでみたのですが、水のみの字も無かったの。案内板が立てられてなければ、嘗ては川の流れがあったのかも知れないわ−と早合点してそのまま通り過ぎていたでしょうね、きっと。

ここで、次の戦没船員の碑に向かう途中でξ^_^ξが目にした景観の幾つかを紹介してみますが、追体験される際には周囲にも充分目配りしながら歩いてみて下さいね。ξ^_^ξが気付かずに通り過ぎてしまった見所が他にもきっとあると思うの。

12. 戦没船員の碑 せんぼつせんいんのひ 12:37着 12:49発

〔 戦没船員の碑 〕 第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。高さ24mの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、かつての練習船の錨などを配し、太平洋を望む恰好のモニュメントとなっています。

設計:東京芸術大学教授 吉村順三
群像:東京芸術大学教授 菊池一雄

この錨は、大正13年(1924)に神戸高等商船学校の練習船として建造された帆船・進徳丸2518総トンの左舷錨であります。進徳丸は、戦前4本マストの帆船として活躍しましたが、昭和18年(1943)航海訓練所の所属となり、20年(1945)兵庫県二見港において空襲を受け擱座※しました。その後汽船練習船に改造されて昭和37年(1962)まで就航しました。この間31万海里に及び、帆走航海と20万海里の汽走航海の輝かしい歴史を有し、世界に雄飛する幾多の帆船職員を育てましたが、昭和42年(1967)からは財団法人・進徳丸保存会により、青少年の海洋訓練施設として神戸商船大学構内に保存されております。 ※船が浅瀬や暗礁にのりあげること。座礁を指すことばだけど、難しい日本語ね。

〔 その後の進徳丸 〕 神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年(1995)1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、老朽化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年(1996)2月、多くの人々に惜しまれつつ、波乱に満ちた生涯を閉じました。解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。

〔 戦没船員の碑建立記 〕 昭和12年(1937)7月に端を発した先の戦争に於いて、我が国の海運水産界は6万余人に及ぶ尊い船員の生命と2,500隻840万総噸を越える船舶を失うと云う、真に大きな犠牲を払いました。それから25年、我が国の海運水産界は再び隆盛を取り戻し、昔日に勝る繁栄を見るに至りましたが、私共はこれら多くの戦没された船員の労苦を偲び、その霊を慰めると共に、世界の海に二度とこのような悲劇を繰り返さないように致さなければなりません。こうした私どもの願いは昭和44年(1969)7月、戦没船員の碑建立会の発足となり、多数の人々の協力を得て、ここに記念碑を建てて、戦没船員の名簿を納めることになりました。見渡す限りの大海原、変わることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人々と、また、沖をゆく船の人々と共に心を合わせて、この記念碑が永遠の平和の光りとなりますよう深い祈りを捧げるものであります。昭和46年(1971)3月25日 財団法人 戦没船員の碑建立会 会長 足立 正

碑壁の左手は御覧のように浦賀水道が一望出来る展望広場になっているの。その景観を背景にして「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻む碑文石があるのですが、目の前に広がる穏やかな海原を見やれば、戦禍で亡くなった方々の鎮魂を斉しく願わずにはいられないわね。乞い願わくは、この平和な”とき”が永久(とこしえ)に続きますように・・・合掌


〔 天皇陛下御製 〕
戦日に逝きし船人を 悼む碑の彼方に見ゆる 海平らけし

〔 皇后陛下御歌 〕
かく濡れて遺族らと祈る 更にさらにひたぬれて 君ら逝き給ひしか

植え込みの傍らには天皇皇后両陛下の詠歌を刻む石碑が置かれていたの。天皇陛下の御製は平成4年(1992)に行幸された際の詠歌と案内されていましたが、皇后陛下(と云うよりも美智子さまと呼ばせていただいた方が親しみがあるわね)の御歌は、昭和46年(1971)5月6日に行われた、この戦没船員の碑の除幕式の日に詠まれたものだそうよ。その除幕式にしても、雨の降りしきる中で執り行われたとのこと。なので「かく濡れて」となるのですが、「更にさらにひたぬれて 君ら逝き給ひしか」の句には、共に悲しみに寄り添おうとする美智子さまのお人柄が顕れているわね。更にさらにひたぬれて・・・海に散った多くの人々の魂が穏やかで安らかでありますように。合掌

13. 第三砲台跡 だいさんほうだいあと 12:55着 12:56発

次の海の見晴台へは左掲のトンネルを潜るのですが、照明はあるものの、薄暗くて怪しいトンネルよ。一人歩きだと気が引けちゃうかもね。それはさておき、このトンネルを抜けたところで、正面に手作りの案内板が立てかけられているのが目に留まったの。それが第三砲台跡の案内だったの。
旧・観音崎第三砲台跡・28サンチ榴弾砲設置場所
第三砲台は明治15年(1882)8月に起工し、明治17年(1884)6月に竣工した。
28サンチ榴弾砲4門、明治27年(1894)9月備砲完了

素人のξ^_^ξは説明にあるサンチの意味が分からずにいたのですが、帰宅後に調べてみるとセンチ(cm)のことだと知ったの。大正13年(1924)の度量衡法改正まではフランス語読みのサンチを使用していたと云うわけ。今となってはセンチに置き換えて記載しても良い気がするけど、こだわりがあるのかも知れないわね。因みに、その28サンチ榴弾砲の実物大模型が展望園地に展示されている−とも案内されていましたので、訪ねてみたの。

14. 海の見晴らし台 うみのみはらしだい 12:58着&発

海の見晴らし台とはあるものの、御覧のように木々に遮られて視界は余り広くはないの。右手に見える三基の煙突は久里浜にある横須賀火力発電所のものよ。その手前には久里浜港があるので、タイミングが合えば、海上で東京湾フェリーが交叉する姿を目にすることが出来るかも知れないわね。余談ですが、以前訪ねたときは手入れも行き届いていて、展望台(それほど大きなものではなかったけど)が設けられていたのですが、それも無くなってしまったわね。隧道には嘗ての「第一展望園地」のネームプレートが埋め込まれたままになるなど、海の見晴台もまた第一展望園地跡として、やがて元の自然に還る運命にあるのかも知れないわね。コラコラ、勝手になくすな!

15. 見晴台 みはらしだい 13:23着 13:25発

稜線の小径を歩いていたときに、たたら浜園地に下る少し手前で「見晴台→30m」の案内表示を見つけて気になり足を向けてみたのがこの見晴台なの。ベンチが一基置かれるだけの小さな見晴台なのですが、訪ね来る人も無いのでベンチに座ってゆっくりと時間が過ごせそうね。残念なことに、先程まで晴れていた空に雲が広がり始めてしまって、肝心の景観が・・・。

16. たたら浜園地 たたらはまえんち 13:32着 13:45発

〔 たたら浜の由来 〕 ”たたら”と云う地名が製鉄と関係の深い所に多くあります。この浜からは砂鉄が取れますが、製鉄をしていたかどうかははっきりしません。また、三浦一族の多々羅家がこの地に住んでいたからだと云う説もあります。

〔 たたら浜横穴群 〕 たたら浜園地の奥にあるたたら浜横穴群は7世紀から8世紀にかけて作られた古代人のお墓です。彼らは、死者には死後の生活があると考えていたので、お墓は住居と同じような形で、土師器や須恵器の食器も収められていました。

たたら浜横穴自然観察の森の案内には「この森の中腹には、園路に沿って今から1200〜1300年前の人々の横穴墓があります。縄文時代の古より人々の生活が営まれてきた、ここ観音崎の地で古代人の人々の暮らしや自然に思いをめぐらし、観音崎の豊かな自然を散策して下さい」とありましたが、観音崎の地形&地理的条件からすると、彼らの住居もまた海蝕などの自然が造り上げた洞窟を利用したものだったのでしょうね。豊かな恵みを与えてくれる海は、ときには厳しい試練をもたらすこともあり、現代人からすれば間違っても恵まれたとは云えない住環境の中で、家族が肩を寄せ合い共に暮らし、たおやかに生きる古代人の姿がここにはあったのでしょうね。

たたら浜横穴自然観察の森に入るためには、事前に観音崎自然博物館の許可がいるみたいなの。
残念ながらξ^_^ξは未体験なので、詳しくは同館へお問い合わせ下さいね。

17. たたら浜 たたらはま 13:49着 13:54発

海に接していながら観音崎には砂浜という砂浜が無いの。と云うのも、観音崎は海抜4,50mの丘陵がそのまま海に落ち込んでいることから波の浸蝕を受けて堆積岩が露出しているの。その地形が岩礁地帯を造り上げ、時に奇岩景勝地を生み出していることが観音崎の魅力の一つにもなっているのですが、逆に砂浜が出来にくい要因でもあると云うわけ。そんな中で、決して広くは無いのですが、このたたら浜は貴重な砂浜なの。南の島のそれと比べたらさすがに可哀想だけど、内湾にある砂浜としては綺麗な砂浜よ。夏には海水浴客で賑わうと云うたたら浜も、この時期は落ち着きを取り戻して、波も静かに打ち寄せているの。ここで、仕入れてきた蘊蓄話を紹介しますね。

〔 珍しい現象 〕 観音崎沖は流出する湾内の水と流入する黒潮とが接する所です。湾内の水と黒潮の接する所には美しい縞模様が出来ます。その形は山状に、お椀状に、線状に刻々と変わります。青い海面いっぱいに描かれる美しい縞模様は灯台や展望台などから眺めることが出来ます。

〔 養殖事業 〕 昭和32年(1957)5月から、ここ観音崎ではマダイの養殖の研究が進められ、昭和37年(1962)11月には日本で初めて人工孵化した6尾の稚魚を海に放流しました。それを契機に、全国の栽培漁業が盛んに行われるようになりました。日本の栽培漁業発祥の地とも云えます。

18. ゴジラの足跡 ごじらのあしあと 13:58着 14:01発

案内板 滑り台

たたら浜を後にして歩き始めると砂浜を見下ろす場所に案内板が立てられていたの。But 文字がすっかり消え失せてしまっていて、何が書かれていたのかは分からず終い。代わりに、添えられていた写真に怪獣の姿があり、ようやくゴジラの足跡についてのものだと知れたの。何で、そんなものがここにあるのかと云えば、特撮で知られた故・円谷英二さんが実質的には特殊技術監督を務めた映画「ゴジラ」の中で、ゴジラが最初に出現したのがこの観音崎のたたら浜だとされているの。それを記念してと云うか、人気にあやかってと云うべきか、ゴジラの滑り台が昭和33年(1958)に設置されたの。残念ながらその滑り台も昭和48年(1973)に劣化などの理由から取り壊され、代わりに1/10の縮尺で作られた足跡が残されたと云うことみたいね。


たたら浜から展望園地までは御覧のような整備された遊歩道が岩礁伝いに造られているの。途中で見掛けた景観の幾つかをアップしておきましたのでお楽しみ下さいね。グリコのオマケで、以前訪ねたときに見掛けて以来、気になっている謎の建造物ですが、今回もまた撮して来ましたので、皆さん、これ一体何なのか推理してみて下さいね。噂では当時東京湾に侵攻してくる敵潜水艦のスクリュー音を探査していた旧海軍の聴音施設だ、否、単なる潮位観測所の遺構だ−などと云われているみたいだけど、真偽の程は御覧頂いているみなさんの御賢察にお任せよ。更に時代を遡れば ・・・

〔 伝説−海賊退治 〕 昔、三浦半島沿岸には海賊が出没するので人々は怯えて暮らしていました。そこで、領主・多々羅四郎義春の相談を受けた石井三郎・四郎兄弟が海賊退治に乗り出すことになりました。ある夜、海賊船の毒龍丸が現れ、東浜に上陸を始めました。石井兄弟は必死に戦い、親分の夜叉太郎を倒しましたが、彼らもその時負った傷がもとで死んでしまいました。生き残った海賊の子分達は、その後改心して真面目に働き、命を繋いだそうです。

記述にある東浜がここだとは云いませんが、それらしき雰囲気にはあるでしょ?

19. 展望園地 てんぼうえんち 14:12着 14:15発

〔 観音崎砲台について 〕 ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため、東京湾防備の重要地点として明治13-28年(1880-1895)の間に観音崎各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台が築かれました。これらの砲台は日清・日露戦争時代に活躍したもので、関東大震災で大破したため、大正末期には全て廃止されています。この場所は南門砲台跡で、当時を偲ぶ姿は全くありません。

But 第三砲台に据えられていたと云う28サンチ榴弾砲の実物大模型が展示されているの。

〔 28サンチ榴弾砲 〕 これは今から約120年前に造られた大砲の模型です。当時、日本ではよその国の軍艦の襲撃から守るため主要な海岸にこのような大砲を備えておりました。砲弾の直径は28cm、長さは75cmで、飛ぶ距離は最大7,800mです。( 凡その目安は対岸の富津岬までの距離です )観音崎には当時東京湾を守るために、これらの大砲を備えた砲台が幾つもありました。海の見晴台にある第三砲台にこの大砲が据え付けられていました。今は戦争のない平和な世の中になりましたが、昔はこのような時代があったことを思い起こして貰うために、観音崎公園のボランティアが作って、展示したものです。皆さんに長く見てもらうために大切にして下さい。平成21年(2009)11月 県立観音崎公園ビジターセンター

20. 観音崎自然博物館 かんのんざきしぜんはくぶつかん 14:17着 14:52発

博物館 ここでは観音崎周辺の海の生態が分かりやすく展示されているの。また、観音崎は緑豊かな照葉樹の森に恵まれ、多くの動植物も棲息していることから、博物館ではその自然環境を活かして館内の展示のみならず、野外展示としてそれを位置づけ、体験学習の場も数多く提供しているの。ξ^_^ξが訪ねたときには「三浦半島の鳴く虫たち」の特別展が開催されていましたが、「観音崎の浜辺でウミホタルを採集し、幻想的な発光を観察しよう」と云うウミホタル観察会のイベントなども不定期ですが開催されていたの。詳しくは 観音崎自然博物館 を御参照下さいね。入館料:¥400


博物館前の通りを観音崎バスターミナル方面に歩くと数百mの所に御覧の隧道が見えて来ますが、敷石園路への入口になるの。勿論、車両は通行止めよ。隧道を抜けると右手には自衛隊の管理地があるのですが、その先は綺麗な石畳の遊歩道になっているの。ここで、観音埼灯台へ向かう途中で目にした景観を幾つか紹介しますね。

21. 観音埼灯台 かんのんざきとうだい 15:16着 15:32発

そしてお待ちかねの灯台よ。園路を歩いていると灯台入口の案内板が見えて来ますが、そこからは結構急な登り道が続きますので頑張りましょうね。受付で入灯料¥150を払い、登灯してみると、東京湾の大きさを改めて感じさせられるの。余談ですが、「かんのんざき」の表記には観音崎と観音埼の二つがあるって知ってました?普通は観音崎なのですが、灯台に冠する場合は観音埼なの。ξ^_^ξも初めて知ったのですが、灯台を主幹する 海上保安庁 に依ると、「地図帳などでは観音崎と図載していますが、海図では埼が使われています。埼は陸地(平地)が水部へ突出したところを表現し、崎は平野の中に突出した山地の鼻等を言う意味です。海図を作っている海上保安庁海洋情報部では、漢字の意味からも地形が判る埼を採用しています」と云うわけ。納得ね。

〔 市制施行七十周年記念・横須賀風物百選 観音埼灯台 〕 明治維新を2年後に控えた慶応2年(1866)5月、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間に改税約定を結びました。その第11条に、灯明台を備えなければならないことがうたってあります。また、各国が提出した灯明台箇所書には、相模国三浦郡三崎及び観音崎が示されてありました。幕府が倒れ、明治元年(1868)となりましたが、9月17日に灯台の建設が始められました。横須賀製鉄所首長であったフランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニーが建設を担当することになりました。横須賀製鉄所で作られたレンガと石灰を使い、四角形白塗装の建物とフランス製レンズを備えた灯台が、12月29日に完成しました。そして、翌明治2年(1869)1月1日に我が国最初の洋式灯台が光を発しました。

大正12年(1923)6月26日に光源として白熱電燈が用いられるまでは、菜種や落花生の油、パラフィン、石油などが燃料に用いられてきました。その初代灯台は、大正11年(1922)4月26日の地震により大亀裂を生じました。翌年3月5日に二代目の灯台が改築されましたが、五ヶ月を経た9月1日の関東大震災で崩壊してしまいました。現在の灯台は、大正14年(1925)6月1日に完成した三代目のものです。構内の左手に並ぶ句碑が、灯台守の厳しい生活と出船に対する情愛の深さを味わわせてくれます。
・霧いかに深くとも嵐強くとも 高浜虚子
・汽笛吹けば 霧笛答ふる 別れかな 初代海上保安庁長官 大久保武雄
横須賀市指定市民文化遺産 「観音埼灯台」/「観音埼灯台點燈の碑」
「観音埼灯台」は日本最初の洋式燈台として、「観音埼灯台點燈の碑」は、灯台が点灯された日を示す貴重な当時の碑であることから、市民文化遺産にしてしています。横須賀市

位置
:北緯 35度15分22秒
 
:東経139度44分43秒
光り方
:毎15秒に2閃光 群閃白光
光の強さ
:77,000カンデラ
光の届く距離
:19海里( 約35km )
高さ
:地上から灯台頂部→19m/水面から灯火→約56m

灯台の展望台から見える芝生広場の辺りは鳶巣崎と呼ばれているみたいね。現在は海上自衛隊観音崎警備所の管理地となる鳶巣崎ですが、気になるものを見つけたの。広場の中に石碑らしきものがあるのですが、調べてみると、昭和63年(1988)に起きた潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」の衝突・沈没事故で亡くなられた方々への慰霊碑だったの。犠牲者は第一富士丸の乗客39名乗員9名の内30名が死亡、17名が重軽傷を負うという惨事で、重大海難事故として大きく報道されたの。海難審判後、なだしお、第一富士丸の双方に過失あり−の判決を受けて結審したのですが、一度失われた尊い命は二度と戻りはしないの。同じ過ちは二度と繰り返して欲しくはないわね。事故で亡くなられた方々の魂の安らかたらんことを願うと共に、船舶の安全な航海を温かく見守り下さいね。

地上に下りたところで、灯台の周囲で見掛けた石碑や展示物を纏めて紹介してみますね。

〔 観音崎灯台(初代灯台)〕 海難防止のため慶応2年(1866)米・英・仏・蘭の4ヵ国との間に結ばれた江戸条約に基づいて明治2年(1869)1月1日に我が国最初の洋式灯台がこの地に点灯されました。現在の灯台は3代目のものです。(横須賀製鉄所首長フランス人ウェルニーの設計で、明治元年(1868)9月18日起工式、明治2年(1869)1月1日※完成点灯、レンガ造り、光源1,750燭光、光達距離14海里)
※和暦は旧暦ですので、西暦では石碑にあるように 1869.02.11 になるの。

霧いかに深くとも嵐強くとも 高浜虚子
昭和23年(1948)秋、高浜虚子翁が観音埼を訪れ、緑の岬角に屹然と立つ、白亜の雄姿と灯台に勤める職員が困難とたたかう姿を詠まれたと云います。この年、海上保安庁が創設され、灯台80周年記念式典が挙行された年でもありました。

昭和32年(1957)に公開された映画「喜びも悲しみも幾歳月」では、この観音埼灯台が最初に登場しますが、映画さながらの灯台守の姿がここにはあったのでしょうね。

汽笛吹けば 霧笛答ふる 別れかな 橙青
昭和43年(1968)、初代海上保安庁長官・大久保武雄氏が、全国に勤める灯台職員と家族の労をねぎらい、この句を詠まれたと云います。この年、灯台百周年記念式典が盛大に挙行された記念の年でもありました。

この観音埼灯台が遠隔操作で運用されるようになったのは平成元年(1990)のことと聞きましたが、当時は未だ職員の方が常駐していたのね。

日晷儀台
日晷儀(にっきぎ)は、太陽の動きを利用した日時計です。明治・大正時代に建設された灯台には日晷儀を構内に作り、時刻を知ることができました。この台は、観音埼灯台の中にあったものを移したものですが、日晷儀は展示室にあります。
灯ろう
灯台の頂部には、レンズ・電球があり、定められた光(灯質)を発光していますが、このレンズ・電球を風雨から守る部分を灯ろうと云います。この灯ろうは、平成2年(1990)11月まで神湊灯台(東京都八丈島神湊港)に使用されていたものです。中のレンズは、六等不動フレネルレンズです。
霧信号吹鳴器
霧や雪により視界が不良になった場合に音を発して付近を航行する船舶に音の出る位置を知らせる施設を霧信号所と云います。この吹鳴器は、平成元年(1990)4月まで観音埼霧信号所に使用されたモーターサイレンで15秒毎に5秒間の音を発していました。

22. 西脇順三郎詩碑 にしわきじゅんざぶろうしひ 15:36着 15:37発

園路の傍らに石碑が立つのが見えて、何が記されているのかしら?と興味を覚えて近づいてみたのがこの西脇順三郎の詩碑で、『まだ夏が終わらない 燈台へ行く道 岩の上に椎の木の黒すんだ枝や いろいろの人間や 小鳥の国を考えたり 「海の老人」が人の肩車にのって 木の実の酒を飲んでいる話や キリストの伝記を書いたルナンという学者が 少年の時みた「麻たたき」の話など いろいろな人間がいったことを 考えながら歩いた』と、「燈台へ行く道」の一節が刻まれていたの。とは云え、初めて聞く詩人の名に加え、チラリと作品を読んだ、否、見た限りでは、超難解な世界が広がるばかりで(笑)。ここでは傍らに掲示されていた長文の略歴を転載して了とさせて下さいね。

詩人西脇順三郎は、明治27年(1894)、新潟県小千谷市に生まれた。少年時代から絵が好きで、将来は画家になることを志し、17歳で中学を卒業すると共に上京して藤島武二や黒田清輝らを訪ねている。しかし、父の急死などの事情により画家への道を断念し、慶應義塾大学理財科へ進み、更にオックスフォード大学へ留学した。留学中に再び絵筆を握る傍ら、大正14年(1925)英文詩集「Spectrum」を刊行する。同年帰国し、翌年には慶應義塾大学文学部教授に就任した。新しいヨーロッパ文学の豊富な知識を背景に、「三田文学」や「詩と詩論」を通じて目覚ましい批評活動を展開した。一方、萩原朔太郎の詩を通して日本語の可能性を見出したという彼は、昭和8年(1933)39歳の時に詩集「Ambarvalia」を発表し、モダニズムによる画期的な詩風を確立した。この作品のみならず、終生にわたり「眼の詩人」「視覚の詩人」と呼ばれたのは、根底に少年時代の画家志望の夢があったからである。

その後、昭和22年(1947)に自己の内面に潜むもう一人の人間を「幻影の人」と名付け、作品「旅人かへらす」と、これに続く詩集「近代の寓話」、「第三の神話」の中で追求し、西洋的教養と日本的感性を融合させた独自の詩風を築き上げた。更に1960年代に入ってプルーストやジョイスの手法を駆使した長編詩集「失われた時」を始め、「豊穣の女神」、「えてるにたす」などの一連の詩集により西脇自身の詩風は頂点に達し、ノーベル賞の候補者にも名を連ねた。70歳代に入っても創作力の衰えを見せず、旺盛な想像力は、「禮記」「壌歌」「鹿門」といった詩集を生み出したのみならず、更に80歳代には詩集「人類」と「定本西脇順三郎全詩集」の刊行を見た。昭和57年(1982)没。享年88歳。文化功労者、芸術院会員

《西脇順三郎と観音埼》
昭和24年(1949)ご子息順一氏の遠足に同行して以来、当地を幾度か訪れており、ここ観音崎をモチーフにした「燈台へ行く道」は詩集「近代の寓話」に収められている。

23. 観音寺跡 かんのんじあと 15:37着発

海岸園地は猫の額ほどの広さしかなくてお世辞にも広いとは云えないのですが、ベンチに腰掛けて潮風に打たれながらのんびりとするには良さそうなところね。その海岸園地の一角には左掲の東屋が建てられていたのですが、傍らには観音寺跡を示す案内板も立てられていたの。載せられていた浦賀道見取絵図(東京国立博物館蔵)を見る限りでは、七堂伽藍を備えたとは云えないものの、複数の僧堂を構えた陣容が見て取れることから、盛時にはそれなりの寺勢を有していたみたいね。尚、案内板の記述にある船守観音を納めたと云う洞窟ですが、この後に出て来ますので、今少しお待ち下さいね。

絵図 〔 観音寺跡 〕 観音崎の地名は、奈良時代の僧・行基が船の安全のため、十一面観音(船守観音)を海蝕洞穴に納めたことに由来すると伝えられています。この辺りに観音堂が創建され、江戸時代には本殿・般若堂などが建ち並び、村民や漁民・船乗りたちの信仰は大変厚いものでした。天正19年(1591)仏崎山(ふだらくさん)観音堂料三石の御朱印をいただいております。明治13年(1880)陸軍砲台が築造され、翌年、観音寺は鴨居の亀崎に移されました。鴨居観音寺は昭和61年(1986)の火災により焼失したため、三浦三十三観音としての札所は、吉井の真福寺が代行しています。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪クラブ

24. 権現洞(観音崎洞窟) ごんげんどう(かんのんざきどうくつ) 15:45着 15:46発

〔 洞窟の由緒 〕 聖武天皇の御代天平13年(741)の春、行基菩薩は諸国修行の途中、ここに来られ、この洞窟に住んでいる大蛇が、漁民や運漕の人々を苦しめているのを聞かれ、大蛇を退治してその霊を、鵜羽山権現として祀られました。この近くの走水神社に日本武尊とその妃・弟橘媛命がお祀りしてありますが、この洞窟の沖で入水して海を鎮められた弟橘媛命を十一面観音として刻まれ、側に安置されまして以来、海上安全・人命守護の霊地として信仰されてまいりました。時代の変転により荒廃に帰しましたが、時来って今日は観光の地として復興されて、再び海上安穏・人命守護・世界平和の祈りがなされています。

〔 伝説−船守観音 〕 昔、仏崎と呼ばれていた観音崎にはウミウと大蛇が住んでいました。彼らは船が通るたびに航海の邪魔ばかりしていました。村人が困り果てていると、行基と云う僧が仏像を彫り洞窟に収め、大蛇の霊を祀りました。すると海は静まり、無事に航海できるようになりました。村人はそれを喜んで、小さなお堂を建てて仏様を祀ったのですが、誰と云うともなく船守観音と呼ぶようになりました。現在、観音寺の観音様は焼失してしまい、存在しません。

観音堂に祀られた船守観音ですが、逸話には更に続きがあるの。

鎌倉時代の建暦3年(1213)に起きた和田義盛の乱(建保の乱)の最中のこと、堂守がひそかに本尊の十一面観音像を持ち出すと姿を消してしまったの。それを知った村人達が手分けして八方を探してはみたのですが、ようとして見つからなかったの。ところが、寛元2年(1244)の夏のこと、走水の漁師が走水沖の海底に不思議な光を放つ物体を見つけ、海に飛び込んで拾い上げてみると、果たしてそれは所在が分からずにいた観音さまだったの。その観音さまですが、明治13年(1880)までは観音寺で江戸湾を行き交う船を見守って来たのですが、明治14年(1881)に砲台が造られると亀崎に移転、その観音寺も昭和61年(1986)の火災で焼失してしまったの。

25. 観音崎園地 かんのんざきえんち 15:53着 16:02発

観音崎のお散歩も観音崎園地で全行程を終了よ。目の前に広がる岩場でちょこっとだけ磯遊びをしてから帰宅の途につくことにしたの。最後にその景観を紹介して散策終了としますね。おつかれさまでした。

26. 観音崎BT かんのんざきばすたーみなる 16:26発

27. 馬堀海岸BS まぼりかいがんばすてい 16:36着発

28. 馬堀海岸駅 まぼりかいがんえき 16:50発

29. 堀ノ内駅 ほりのうちえき 16:55着発 快特「泉岳寺」行

30. 品川駅 しながわえき 17:42着


以前一度訪ねたことのある観音崎だったのですが、残されている遺構の一つ一つを丁寧に辿ると、当時は知らずに通り過ぎていた観音崎の歴史の重みにも触れることが出来たの。時を経て姿形を変えたものもありますが、浦賀水道に接してある観音崎の緑豊かな森は今も健在よ。その自然に抱かれて戦没船員の碑や砲台跡などの遺構が点在する観音崎は、平和であることの有り難さを実感させてくれる場でもあるの。たたら浜の砂浜や、岩礁で磯遊びに興じることができるのもまた平和であることの証しね。森と海が織りなす自然美に触れることはとても楽しいことだけど、観音崎を訪ねたときには当時を生きた人々の思いや祈りにも耳を傾けてみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように・・・

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
岩波書店刊 日本古典文学大系 古事記・祝詞
岩波書店刊 日本古典文学大系 日本書紀(上)
河出書房新社刊 日本古典文庫 福永武彦訳 古事記・日本書紀
有峰書店新社刊 三浦半島〜その風土と歴史を訪ねて〜
その他、現地にて頂いて来た栞・パンフ 等






どこにもいけないわ