以前に一度訪ねたことのある観音崎ですが、再訪する機会を得て出掛けてみたの。But 前日の天気予報では終日晴れマークの一日のはずが、いざ出掛けてみると、昼過ぎからは曇ってきてしまったの。なので、後半の景観を期待された方はごめんなさいね。その代わり、前半にその分も堪能できるようにしておきましたのでお楽しみ下さいね。尚、掲載画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. (京急)品川駅 しながわえき 8:38発 快特「三崎口」行
東京湾に突き出るようにしてある観音崎には緑の森が広がり、野鳥の啼き声がこだまするなど、豊かな自然が今でも残されているの。現在は観音崎自然博物館や横須賀美術館などの施設を加えた自然公園として整備されている観音崎ですが、明治から戦時中にかけては東京湾防備の重要地点であったことから砲台が築造されるなど、要塞化されていたの。そのために立ち入りが制限され、開発されずに済んだことが自然が多く残されることにも繋がったと云うわけ。皮肉と云えば皮肉よね。
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2. 堀ノ内駅 ほりのうちえき 9:25着 9:26発
3. 馬堀海岸駅 まぼりかいがんえき 9:29着 9:36発
ここでグリコのオマケのお話しを紹介しますね。地元・馬堀町4丁目ある浄林寺の裏山に「蹄の井」があるの。実は、その「蹄の井」が馬堀の地名の由来となっているのだそうよ。何でも対岸の房総半島から一頭の暴れ馬がこの地に泳ぎ来たと云うの。
むか〜し昔のことじゃけんども、房州は嶺岡(現・千葉県鴨川市江見)の地に一頭の暴れ馬がおっての、気性が荒いことから荒潮と呼んで誰も側へは近づかんかったのじゃが、それを良いことに次第に畑の作物も食い荒らすようになってのお、困り果てた村人達は皆して荒潮を追い出したんじゃ。
4. 馬堀海岸BS まぼりかいがんばすてい 9:40着 9:53発
すっかり逃げ場を失った荒潮は海に飛び込むとこの走水に泳ぎ着いたそうじゃ。じゃが、さすがの暴れ馬の荒潮も疲れと激しい喉の渇きをおぼえてのお、遂には逃げ込んだ山ん中で倒れてしまったそうじゃ。じゃけんども不思議なことがおきるものよのお、夢の中に馬頭観音が現れて傍らの岩を蹄で蹴るようにとのお告げがあったのじゃ。荒潮はそのお告げのままに蹄で岩を蹴飛ばしてみると、果たしてそこからは清水がコンコンと湧き出したそうじゃ。不思議なことは続くものじゃのお、その湧き水で渇きを癒やした荒潮じゃが、鹿毛色の美しい毛並みをした駿馬に姿を変えたそうじゃ。それからと云うもの、その清水を「蹄の井」と呼んで、この辺りの土地を誰云うとなく、馬堀と呼ぶようになったそうじゃ。とんとむか〜し、昔のお話しじゃけんども。
5. 走水神社BS はしりみずじんじゃばすてい 10:02着 10:04発
観音崎に向かう前に、ここで走水神社に寄り道してみたのでお付き合いくださいね。走水は【日本書紀】や【古事記】にも登場するなど、古くから知られた地名で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の途次に上総に向かい船出した地として伝えられ、海神の怒りを鎮めるために自ら海中へ身を投じた弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水伝説が語り継がれているの。その走水に鎮座する走水神社には、日本武尊と弟橘媛の二柱が祀られると知り、訪ねてみたの。
6. 走水神社 はしりみずじんじゃ 10:06着 10:51発
弟橘媛命が崇高な情熱を以て守られた、この浦賀水道は、近年、世界の船の航行も激しく、海難を防ぐことは、各方面から要望されるところです。国際婦人年に当たり、由緒あるこの大舵に航海の安全を託して、ゆかりの地・走水に建立、海への関心を高めたいと思います。
鳥居前に掲示されていた縁起と併せて、石段右手に建てられている舵の碑を紹介しましたが、ここで改めて【古事記】の記述を御案内してみますね。少し長くなってしまいますが、ご容赦下さいね。
走水の海を渡りたまひし時 其の渡の神浪を興して 船を廻らして得進み渡りたまはざりき 爾に其の后 名は弟橘比賣命白したまひしく 「妾 御子に易りて海の中に入らむ 御子は遺はさえし政を遂げて覆奏したまふべし」とまをして 海に入りたまはむとする時に 菅疊八重、皮疊八重、絁疊八重を波の上に敷きて その上に下し坐しき 是に其の暴浪自ら伏ぎて 御船得進みき 爾に其の后歌ひたまひしく 「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」 とうたひたまひき 故 七日の後 其の后の御櫛海邊に依りき 乃ち其の櫛を取りて 御陵を作りて治め置きき
相模国で国造に欺された日本武尊は、野火の猛火に囲まれながらも難を逃れ、相模国の国造を成敗すると、次なる上総国に向かうべくこの走水の地にやって来たの。そうして房総に向けて船を漕ぎ出すのですが、途中で激しい暴風雨に巻き込まれ、難破しそうになるの。そこで海神の怒りを鎮めようと、妻の弟橘媛は荒れ狂う波間に菅・皮・絹の畳をそれぞれ8枚積み重ねると、その上に身を置き、波間に消えたの。すると忽ち海は鎮まりかえり、尊は無事房総に渡り着くことが出来たの。それから7日程経たある日のこと、媛が愛用していた櫛が砂浜に打ち上げられ、形見の櫛を埋めて御陵を造ったの。
その弟橘媛が入水するときに詠んだとされる歌が「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 云々」で、意訳すると、相模国で燃えさかる野火に囲まれて万事休すとなったときでさえ、あなたは手にした剣で草を薙ぎ払いながらも、わたくしの身を案じて声を掛けて下さいました。わたくしはあの時のあなたの優しさが今でも忘れられずにいるのです。その想いがあればこそ、それを胸に、わたくしは喜んであなたの身代わりに海神の生け贄となりましょう。それでは、どうか安らかに旅が続けられますように−と云ったところかしら。
弟橘媛の入水伝説は神話の世界のお話しで、美談過ぎると分かってはいても、それでも、愛する人の優しさに触れたとき、その愛する人のために何かの役に立ちたいと思う心は時代を超えて変わらないものよね。後に、日本武尊は東国を平定して帰る途中、足柄山の坂(紀では碓日坂)に差し掛かると後ろを振り返り、しみじみと「吾嬬はや」と嘆いたの。「吾嬬はや」は「わが(愛する)妻よ」の意とされ、入水して果てた妻の弟橘媛をこの地に残して去りゆく悲しさを表しているの。記紀はこの「吾嬬はや」から転じて東国を「吾嬬の国」と云うようになったとも伝えるの。吾が愛する妻が眠る国、吾妻の国、吾妻 ・・・
ここで社殿に詣でる前に、石段下左右に建てられているその他の石碑を纏めて紹介しますね。
草枕 旅の丸寝の紐絶えば 吾が手とつけろ これの針持し
弟橘媛命
縁起の中でも触れられていましたが、この包丁塚は走水の住人であった大伴黒主(おおとものくろぬし)が日本武尊に料理を献上した故事に因み、包丁への感謝と併せ、料理の素材となる鳥獣魚介類の霊を慰めるために昭和48年(1973)に建てられたものだそうよ。But その故事とやらが気になったのですが、残念ながら何に記されているのかは分からず終い。因みに、包丁式と云えば、料理の神さま・高倍神こと、磐鹿六雁命を祀る高家神社(千葉県南房総市千倉)の包丁神事が広く知られているけど、この走水神社でも包丁供養祭の際に四條流の包丁式が行われるみたいね。 包丁塚
社殿の右手には稲荷社が建ち、傍らには大きな鉄の塊のような物体が置かれていたので何かしらと近づいてみると、何と機雷だったの。案内板には「奉献 露國機械水雷 横須賀鎮守府司令長官 男爵 上村彦之丞 明治43年(1910)6月5日 走水神社氏子会」と記されてはいましたが、何故こんな物騒なモノが奉納されたのかしら?
社殿背後の岩肌には巌窟を穿つようにして水神社が祀られていたの。祠内の河童像はちょっと気持ち悪かった!けど、両袖に脇侍する河童像は可愛らしいアニメ・キャラ風よ。
社殿の左手には木の香も新しい社殿が建てられていましたが、弟橘媛に殉じて身を投げた侍女達が祀られる別宮なの。訪ねたときには元・別宮(旧別宮)も社殿の右手に残されていましたが、新しいお社の方は平成25年(2013)に再建されたものだそうよ。
嗚呼此は弟橘比賣命いまはの御歌なり 命夫君日本武尊の東征し給ふに伴われ 駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給ふ時 敢無く暴風に遭ひ 御身を犠牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり 御歌に溢るゝ心情はすべて夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず 其の貞烈忠誠まことに女子亀鑑たるのみならず 亦以て男子の模範たるべし 平八郎等七人相議り 同感者の賛成を得 記念を不朽ならしめむと 御歌の御書を常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り 彫りてこの石を建つ 明治42年(1909)10月
走水神社の御案内の最後に、走水漁港の景観を幾つか紹介しておきますね。現在は防波堤が出来て陸続きとなってしまってはいますが、湾内には皇島(すめらじま)と呼ばれる小島があり、日本武尊が房総に向かい船出した場所だと伝えられているの。中央の写真手前には、堤防に繋がるようにして小島らしき痕跡が写りますが、それが皇島かしら?
7. 観音崎ボードウォーク かんのんざきぼーどうぉーく 11:05着 11:36発
ここでの案内は不要よね。景観写真を纏めてアップしておきましたので、御一緒に暫しの Seaside Walking を ・・・
【週刊新潮】は明日発売されま〜す。ξ^_^ξ 懐かしいわね。
8. 三軒家園地入口 さんげんやえんちいりぐち 11:49着発
9. 三軒家砲台跡 さんげんやほうだいあと 11:54着 11:57発
〔 観音崎砲台について 〕 ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため、東京湾防備の重要地点として明治13年(1880)〜28年(1895)の間に、観音崎各所にレンガとコンクリートに依る15ヶ所の近代的砲台が築かれました。これらの砲台は日清・日露戦争時代に活躍したものです。
〔 会津藩と観音崎 〕 文化7年(1810)、江戸湾(現在の東京湾)警備のため房総半島には白川藩、三浦半島には会津藩が侍や足軽、その家族を含めて千数百人が移り住み、10年間過ごしました。三浦半島の防備についた会津藩は、三崎の城山と鴨居の腰越に陣屋を、観音崎など三ヶ所に台場を置き、守りを固めました。また、鴨居に養生館、三崎に集義館と云う子弟の教育の場である学問所を開きました。三浦半島には、当時の会津藩関係者の墓が多く残っています。
調べてみると、観音崎砲台の歴史は江戸時代後期に始まるの。文化7年(1810)、江戸幕府は国交を求めて来航する外国船に対抗すべく、会津藩に江戸湾の警備を命じたの。陣屋が置かれると、文化9年(1812)には早くも砲台が築かれたの。藩士は家族を伴い着任、この地で10年余を過ごすことになったのですが、腰越や鴨居の西徳寺に会津藩士の墓が残されているのはそのときの名残りね。その後、川越藩が会津藩に取って代わるなどしますが、明治期になると観音崎の軍事的な重要性は更に増し、明治13年(1880)から明治28年(1895)にかけて観音崎の各所にレンガとコンクリートの砲台が築かれたの。その砲台も日清・日露戦争以後は次第に役不足となり、関東大震災で大破したのを機に廃止されたみたいね。近くにはヨーロッパのワイン貯蔵庫を思わせるようなレンガ造りの建物も残っていましたが、砲台跡はこの三軒家の他にも幾つかの場所で目にすることが出来るの。
10. 三軒家園地 さんげんやえんち 11:58着 12:04発
〔 第三海堡 〕 海堡とは兵備を施した人工島です。第三海堡は、明治25年(1892)から大正10年(1921)までかかって建設されました。しかし、長い年月と巨額の費用を投じたこの海堡は、完成から2年後の関東大震災で崩壊し、現在は廃墟となっています。
次の戦没船員の碑に向かう途中の道はレンガを敷き詰めた園路になっているの。緑に覆われているのでこれなら夏の陽射しも余り気にならないわね。ξ^_^ξが訪ねたのは残暑もようやく峠を越えた9月末 ( ′13.09.28 ) のことでしたが、それでも森の中からはセミの鳴き声のオンパレード状態だったの。オマケに、普通はセミの種類により鳴く時期が多少ずれるはずなのですが、ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミに加えてツクツクボウシまで一緒に鳴いていたの。観音崎の自然環境はセミ達にも居心地がいいみたいね。
11. めがね橋 めがねばし 12:28着 12:30発
ここで、次の戦没船員の碑に向かう途中でξ^_^ξが目にした景観の幾つかを紹介してみますが、追体験される際には周囲にも充分目配りしながら歩いてみて下さいね。ξ^_^ξが気付かずに通り過ぎてしまった見所が他にもきっとあると思うの。
12. 戦没船員の碑 せんぼつせんいんのひ 12:37着 12:49発
〔 戦没船員の碑 〕 第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。高さ24mの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、かつての練習船の錨などを配し、太平洋を望む恰好のモニュメントとなっています。
この錨は、大正13年(1924)に神戸高等商船学校の練習船として建造された帆船・進徳丸2518総トンの左舷錨であります。進徳丸は、戦前4本マストの帆船として活躍しましたが、昭和18年(1943)航海訓練所の所属となり、20年(1945)兵庫県二見港において空襲を受け擱座※しました。その後汽船練習船に改造されて昭和37年(1962)まで就航しました。この間31万海里に及び、帆走航海と20万海里の汽走航海の輝かしい歴史を有し、世界に雄飛する幾多の帆船職員を育てましたが、昭和42年(1967)からは財団法人・進徳丸保存会により、青少年の海洋訓練施設として神戸商船大学構内に保存されております。 ※船が浅瀬や暗礁にのりあげること。座礁を指すことばだけど、難しい日本語ね。
〔 その後の進徳丸 〕 神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年(1995)1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、老朽化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年(1996)2月、多くの人々に惜しまれつつ、波乱に満ちた生涯を閉じました。解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。
〔 戦没船員の碑建立記 〕 昭和12年(1937)7月に端を発した先の戦争に於いて、我が国の海運水産界は6万余人に及ぶ尊い船員の生命と2,500隻840万総噸を越える船舶を失うと云う、真に大きな犠牲を払いました。それから25年、我が国の海運水産界は再び隆盛を取り戻し、昔日に勝る繁栄を見るに至りましたが、私共はこれら多くの戦没された船員の労苦を偲び、その霊を慰めると共に、世界の海に二度とこのような悲劇を繰り返さないように致さなければなりません。こうした私どもの願いは昭和44年(1969)7月、戦没船員の碑建立会の発足となり、多数の人々の協力を得て、ここに記念碑を建てて、戦没船員の名簿を納めることになりました。見渡す限りの大海原、変わることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人々と、また、沖をゆく船の人々と共に心を合わせて、この記念碑が永遠の平和の光りとなりますよう深い祈りを捧げるものであります。昭和46年(1971)3月25日 財団法人 戦没船員の碑建立会 会長 足立 正
碑壁の左手は御覧のように浦賀水道が一望出来る展望広場になっているの。その景観を背景にして「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻む碑文石があるのですが、目の前に広がる穏やかな海原を見やれば、戦禍で亡くなった方々の鎮魂を斉しく願わずにはいられないわね。乞い願わくは、この平和な”とき”が永久(とこしえ)に続きますように・・・合掌
植え込みの傍らには天皇皇后両陛下の詠歌を刻む石碑が置かれていたの。天皇陛下の御製は平成4年(1992)に行幸された際の詠歌と案内されていましたが、皇后陛下(と云うよりも美智子さまと呼ばせていただいた方が親しみがあるわね)の御歌は、昭和46年(1971)5月6日に行われた、この戦没船員の碑の除幕式の日に詠まれたものだそうよ。その除幕式にしても、雨の降りしきる中で執り行われたとのこと。なので「かく濡れて」となるのですが、「更にさらにひたぬれて 君ら逝き給ひしか」の句には、共に悲しみに寄り添おうとする美智子さまのお人柄が顕れているわね。更にさらにひたぬれて・・・海に散った多くの人々の魂が穏やかで安らかでありますように。合掌
13. 第三砲台跡 だいさんほうだいあと 12:55着 12:56発
次の海の見晴台へは左掲のトンネルを潜るのですが、照明はあるものの、薄暗くて怪しいトンネルよ。一人歩きだと気が引けちゃうかもね。それはさておき、このトンネルを抜けたところで、正面に手作りの案内板が立てかけられているのが目に留まったの。それが第三砲台跡の案内だったの。
14. 海の見晴らし台 うみのみはらしだい 12:58着&発
15. 見晴台 みはらしだい 13:23着 13:25発
稜線の小径を歩いていたときに、たたら浜園地に下る少し手前で「見晴台→30m」の案内表示を見つけて気になり足を向けてみたのがこの見晴台なの。ベンチが一基置かれるだけの小さな見晴台なのですが、訪ね来る人も無いのでベンチに座ってゆっくりと時間が過ごせそうね。残念なことに、先程まで晴れていた空に雲が広がり始めてしまって、肝心の景観が・・・。
16. たたら浜園地 たたらはまえんち 13:32着 13:45発
〔 たたら浜の由来 〕 ”たたら”と云う地名が製鉄と関係の深い所に多くあります。この浜からは砂鉄が取れますが、製鉄をしていたかどうかははっきりしません。また、三浦一族の多々羅家がこの地に住んでいたからだと云う説もあります。
たたら浜横穴自然観察の森に入るためには、事前に観音崎自然博物館の許可がいるみたいなの。
残念ながらξ^_^ξは未体験なので、詳しくは同館へお問い合わせ下さいね。
17. たたら浜 たたらはま 13:49着 13:54発
〔 珍しい現象 〕 観音崎沖は流出する湾内の水と流入する黒潮とが接する所です。湾内の水と黒潮の接する所には美しい縞模様が出来ます。その形は山状に、お椀状に、線状に刻々と変わります。青い海面いっぱいに描かれる美しい縞模様は灯台や展望台などから眺めることが出来ます。
18. ゴジラの足跡 ごじらのあしあと 13:58着 14:01発
たたら浜を後にして歩き始めると砂浜を見下ろす場所に案内板が立てられていたの。But 文字がすっかり消え失せてしまっていて、何が書かれていたのかは分からず終い。代わりに、添えられていた写真に怪獣の姿があり、ようやくゴジラの足跡についてのものだと知れたの。何で、そんなものがここにあるのかと云えば、特撮で知られた故・円谷英二さんが実質的には特殊技術監督を務めた映画「ゴジラ」の中で、ゴジラが最初に出現したのがこの観音崎のたたら浜だとされているの。それを記念してと云うか、人気にあやかってと云うべきか、ゴジラの滑り台が昭和33年(1958)に設置されたの。残念ながらその滑り台も昭和48年(1973)に劣化などの理由から取り壊され、代わりに1/10の縮尺で作られた足跡が残されたと云うことみたいね。
たたら浜から展望園地までは御覧のような整備された遊歩道が岩礁伝いに造られているの。途中で見掛けた景観の幾つかをアップしておきましたのでお楽しみ下さいね。グリコのオマケで、以前訪ねたときに見掛けて以来、気になっている謎の建造物ですが、今回もまた撮して来ましたので、皆さん、これ一体何なのか推理してみて下さいね。噂では当時東京湾に侵攻してくる敵潜水艦のスクリュー音を探査していた旧海軍の聴音施設だ、否、単なる潮位観測所の遺構だ−などと云われているみたいだけど、真偽の程は御覧頂いているみなさんの御賢察にお任せよ。更に時代を遡れば ・・・
19. 展望園地 てんぼうえんち 14:12着 14:15発
〔 観音崎砲台について 〕 ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため、東京湾防備の重要地点として明治13-28年(1880-1895)の間に観音崎各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台が築かれました。これらの砲台は日清・日露戦争時代に活躍したもので、関東大震災で大破したため、大正末期には全て廃止されています。この場所は南門砲台跡で、当時を偲ぶ姿は全くありません。
20. 観音崎自然博物館 かんのんざきしぜんはくぶつかん 14:17着 14:52発
ここでは観音崎周辺の海の生態が分かりやすく展示されているの。また、観音崎は緑豊かな照葉樹の森に恵まれ、多くの動植物も棲息していることから、博物館ではその自然環境を活かして館内の展示のみならず、野外展示としてそれを位置づけ、体験学習の場も数多く提供しているの。ξ^_^ξが訪ねたときには「三浦半島の鳴く虫たち」の特別展が開催されていましたが、「観音崎の浜辺でウミホタルを採集し、幻想的な発光を観察しよう」と云うウミホタル観察会のイベントなども不定期ですが開催されていたの。詳しくは 観音崎自然博物館 を御参照下さいね。入館料:¥400
博物館前の通りを観音崎バスターミナル方面に歩くと数百mの所に御覧の隧道が見えて来ますが、敷石園路への入口になるの。勿論、車両は通行止めよ。隧道を抜けると右手には自衛隊の管理地があるのですが、その先は綺麗な石畳の遊歩道になっているの。ここで、観音埼灯台へ向かう途中で目にした景観を幾つか紹介しますね。
21. 観音埼灯台 かんのんざきとうだい 15:16着 15:32発
大正12年(1923)6月26日に光源として白熱電燈が用いられるまでは、菜種や落花生の油、パラフィン、石油などが燃料に用いられてきました。その初代灯台は、大正11年(1922)4月26日の地震により大亀裂を生じました。翌年3月5日に二代目の灯台が改築されましたが、五ヶ月を経た9月1日の関東大震災で崩壊してしまいました。現在の灯台は、大正14年(1925)6月1日に完成した三代目のものです。構内の左手に並ぶ句碑が、灯台守の厳しい生活と出船に対する情愛の深さを味わわせてくれます。
・霧いかに深くとも嵐強くとも 高浜虚子
・汽笛吹けば 霧笛答ふる 別れかな 初代海上保安庁長官 大久保武雄
横須賀市指定市民文化遺産 「観音埼灯台」/「観音埼灯台點燈の碑」
「観音埼灯台」は日本最初の洋式燈台として、「観音埼灯台點燈の碑」は、灯台が点灯された日を示す貴重な当時の碑であることから、市民文化遺産にしてしています。横須賀市
灯台の展望台から見える芝生広場の辺りは鳶巣崎と呼ばれているみたいね。現在は海上自衛隊観音崎警備所の管理地となる鳶巣崎ですが、気になるものを見つけたの。広場の中に石碑らしきものがあるのですが、調べてみると、昭和63年(1988)に起きた潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」の衝突・沈没事故で亡くなられた方々への慰霊碑だったの。犠牲者は第一富士丸の乗客39名乗員9名の内30名が死亡、17名が重軽傷を負うという惨事で、重大海難事故として大きく報道されたの。海難審判後、なだしお、第一富士丸の双方に過失あり−の判決を受けて結審したのですが、一度失われた尊い命は二度と戻りはしないの。同じ過ちは二度と繰り返して欲しくはないわね。事故で亡くなられた方々の魂の安らかたらんことを願うと共に、船舶の安全な航海を温かく見守り下さいね。
22. 西脇順三郎詩碑 にしわきじゅんざぶろうしひ 15:36着 15:37発
詩人西脇順三郎は、明治27年(1894)、新潟県小千谷市に生まれた。少年時代から絵が好きで、将来は画家になることを志し、17歳で中学を卒業すると共に上京して藤島武二や黒田清輝らを訪ねている。しかし、父の急死などの事情により画家への道を断念し、慶應義塾大学理財科へ進み、更にオックスフォード大学へ留学した。留学中に再び絵筆を握る傍ら、大正14年(1925)英文詩集「Spectrum」を刊行する。同年帰国し、翌年には慶應義塾大学文学部教授に就任した。新しいヨーロッパ文学の豊富な知識を背景に、「三田文学」や「詩と詩論」を通じて目覚ましい批評活動を展開した。一方、萩原朔太郎の詩を通して日本語の可能性を見出したという彼は、昭和8年(1933)39歳の時に詩集「Ambarvalia」を発表し、モダニズムによる画期的な詩風を確立した。この作品のみならず、終生にわたり「眼の詩人」「視覚の詩人」と呼ばれたのは、根底に少年時代の画家志望の夢があったからである。
その後、昭和22年(1947)に自己の内面に潜むもう一人の人間を「幻影の人」と名付け、作品「旅人かへらす」と、これに続く詩集「近代の寓話」、「第三の神話」の中で追求し、西洋的教養と日本的感性を融合させた独自の詩風を築き上げた。更に1960年代に入ってプルーストやジョイスの手法を駆使した長編詩集「失われた時」を始め、「豊穣の女神」、「えてるにたす」などの一連の詩集により西脇自身の詩風は頂点に達し、ノーベル賞の候補者にも名を連ねた。70歳代に入っても創作力の衰えを見せず、旺盛な想像力は、「禮記」「壌歌」「鹿門」といった詩集を生み出したのみならず、更に80歳代には詩集「人類」と「定本西脇順三郎全詩集」の刊行を見た。昭和57年(1982)没。享年88歳。文化功労者、芸術院会員
《西脇順三郎と観音埼》
昭和24年(1949)ご子息順一氏の遠足に同行して以来、当地を幾度か訪れており、ここ観音崎をモチーフにした「燈台へ行く道」は詩集「近代の寓話」に収められている。
23. 観音寺跡 かんのんじあと 15:37着発
〔 観音寺跡 〕 観音崎の地名は、奈良時代の僧・行基が船の安全のため、十一面観音(船守観音)を海蝕洞穴に納めたことに由来すると伝えられています。この辺りに観音堂が創建され、江戸時代には本殿・般若堂などが建ち並び、村民や漁民・船乗りたちの信仰は大変厚いものでした。天正19年(1591)仏崎山(ふだらくさん)観音堂料三石の御朱印をいただいております。明治13年(1880)陸軍砲台が築造され、翌年、観音寺は鴨居の亀崎に移されました。鴨居観音寺は昭和61年(1986)の火災により焼失したため、三浦三十三観音としての札所は、吉井の真福寺が代行しています。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪クラブ
24. 権現洞(観音崎洞窟) ごんげんどう(かんのんざきどうくつ) 15:45着 15:46発
〔 洞窟の由緒 〕 聖武天皇の御代天平13年(741)の春、行基菩薩は諸国修行の途中、ここに来られ、この洞窟に住んでいる大蛇が、漁民や運漕の人々を苦しめているのを聞かれ、大蛇を退治してその霊を、鵜羽山権現として祀られました。この近くの走水神社に日本武尊とその妃・弟橘媛命がお祀りしてありますが、この洞窟の沖で入水して海を鎮められた弟橘媛命を十一面観音として刻まれ、側に安置されまして以来、海上安全・人命守護の霊地として信仰されてまいりました。時代の変転により荒廃に帰しましたが、時来って今日は観光の地として復興されて、再び海上安穏・人命守護・世界平和の祈りがなされています。
〔 伝説−船守観音 〕 昔、仏崎と呼ばれていた観音崎にはウミウと大蛇が住んでいました。彼らは船が通るたびに航海の邪魔ばかりしていました。村人が困り果てていると、行基と云う僧が仏像を彫り洞窟に収め、大蛇の霊を祀りました。すると海は静まり、無事に航海できるようになりました。村人はそれを喜んで、小さなお堂を建てて仏様を祀ったのですが、誰と云うともなく船守観音と呼ぶようになりました。現在、観音寺の観音様は焼失してしまい、存在しません。
観音堂に祀られた船守観音ですが、逸話には更に続きがあるの。
25. 観音崎園地 かんのんざきえんち 15:53着 16:02発
観音崎のお散歩も観音崎園地で全行程を終了よ。目の前に広がる岩場でちょこっとだけ磯遊びをしてから帰宅の途につくことにしたの。最後にその景観を紹介して散策終了としますね。おつかれさまでした。
26. 観音崎BT かんのんざきばすたーみなる 16:26発
27. 馬堀海岸BS まぼりかいがんばすてい 16:36着発
28. 馬堀海岸駅 まぼりかいがんえき 16:50発
29. 堀ノ内駅 ほりのうちえき 16:55着発 快特「泉岳寺」行
30. 品川駅 しながわえき 17:42着
以前一度訪ねたことのある観音崎だったのですが、残されている遺構の一つ一つを丁寧に辿ると、当時は知らずに通り過ぎていた観音崎の歴史の重みにも触れることが出来たの。時を経て姿形を変えたものもありますが、浦賀水道に接してある観音崎の緑豊かな森は今も健在よ。その自然に抱かれて戦没船員の碑や砲台跡などの遺構が点在する観音崎は、平和であることの有り難さを実感させてくれる場でもあるの。たたら浜の砂浜や、岩礁で磯遊びに興じることができるのもまた平和であることの証しね。森と海が織りなす自然美に触れることはとても楽しいことだけど、観音崎を訪ねたときには当時を生きた人々の思いや祈りにも耳を傾けてみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように・・・
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〔 参考文献 〕
岩波書店刊 日本古典文学大系 古事記・祝詞
岩波書店刊 日本古典文学大系 日本書紀(上)
河出書房新社刊 日本古典文庫 福永武彦訳 古事記・日本書紀
有峰書店新社刊 三浦半島〜その風土と歴史を訪ねて〜
その他、現地にて頂いて来た栞・パンフ 等
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