長谷観音や鎌倉大仏の存在は広く知られるところですが、その縁起となると詳しいことが分からず、謎とされる部分が多くあるの。けれど、そこには人智を越えた自然の営みを畏怖しながら、神仏に日々の安穏を祈願した当時の人々の姿が垣間見えて来るの。今回の散策はそんな長谷の地を訪ねてみたので、季節の花々を交えながら紹介してみますね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。
1. 収玄寺 しゅうげんじ
長谷駅で下車して大仏通りを高徳院に向かって歩くと最初にあるのがこの収玄寺。交通量の多い大仏通りですので、途中で気付いて道を横断しようとしても車が仲々途切れてはくれないの。長谷駅からは左側の歩道を歩くことをお薦めしますね。ですが、歩道から飛び出さないように気をつけて下さいね。観光名所の鎌倉大仏を控え、大型の観光バスなどが唸りをあげて傍らを通り過ぎますので。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
補足ですが、参考資料の多くが四條頼基の名を四条金吾としているの。
なので、ξ^_^ξも以降は右に倣えをしますね。
ところで、金吾とは本当は名前ではなくて職掌なの。元々は衛門の別称で、皇居諸門を警護する武官・役所のことですが、頼基は江間光時の家臣だったわけですから、その地位からすると将軍御座所を警護する職掌だったのかも知れないわね。でも、将軍御座所を警護せずに日蓮上人の親衛隊の隊長を務めていて主君から俸禄が貰えたのかしら。エッ?肩書きだけで実務は部下がやってたに決まってるだろうって?実際のところは分からないけど、極楽寺住持の忍性上人に帰依していた主君の江間光時に改宗を迫り、領地没収の憂き目にもあっているの。
こじんまりとした境内には草木が数多く植栽され、埋もれるようにして本堂が建てられているの。堂内には日蓮上人像を始め、四條金吾夫妻像も祀られていると云うのですが、暗闇が拡がるばかりで御尊顔を拝することは出来ませんでした。その代わりと云うわけではありませんが、本堂の上がり框には草花の小鉢が置かれ、可憐な花を咲かせていたの。開山したのが妙詣尼だからと云う訳でもないのでしょうが、境内には季節毎の花が咲き乱れ、女性的な細やかさが漂うの。
境内を埋め尽くす草木ですが、ちょっと不思議な実がなる木を見つけたの。その形からパイナップルを思い出させますが、実際の大きさは親指位よ。この〜木何の木、気になる木ですから〜と某社のCM状態。
2. 長谷寺 はせでら
収玄寺を後に長谷観音の名で知られる長谷寺を目指しましたが、季節柄紫陽花を見ようと多くの方々が訪ね来ていたの。観音像が祀られる阿弥陀堂などは黒山の人だかりでレンズを向ける戦意を失い、撮さずに終えたところも多く、余り参考にはならないかも知れませんが御容赦下さいね。
長谷寺は藤原房前(ふささき)が徳道上人を開山に迎え、奈良時代の天平8年(736)に創建したものと伝えられているの。本尊の十一面観音像、通称・長谷観音は高さが9.18mもあり、木造の観音像としては国内最大級を誇るの。正式な山号寺号は海光山慈照院長谷寺で、現在は浄土宗の単立寺院ですが、一時は材木座の光明寺末で、正保2年(1645)頃迄は真言宗のお寺だったの。多くの堂宇がコンクリート製の建物に姿を変えた今では昔日の面影を今に求めることは出来ませんが、鎌倉有数の古刹でもあるの。拝観料:¥300
寺伝の由来記は些か眉唾ものみたいですが、寺宝の梵鐘には文永元年(1264)の銘があると云うのですから、鎌倉時代には確かに寺院として存在していたみたいね。別伝では行基が観音像を開眼して大江広元が寺院を建立したとも云われ、大和初瀬山から洪水で相模川に流されて来た観音さまを忍性上人と大江広元がこの地に祀ったなどと云う、わけの分からない縁起もあるの。仮に大江広元の最晩年のこととしても忍性上人はその時僅か8歳。信貴山に入山して仏教を学び始めたのが11歳なのですからこれではちょっと無理があるわね。
まして行基と大江広元となると互いに生きた時代が異なるわよね。開基の藤原房前にしても藤原不比等の子で、後に左大臣の地位に迄のぼることから魑魅魍魎が俳諧すると信じられていた異郷の地に自ら東下するとは思えませんよね。幾れの縁起にしても本家の長谷寺に託けて語られる内に多分に脚色が加えられたものなのでしょうね。
能書きが済んだところで境内を御案内しますね。参道の先に見えて来るのが山門ですが、その手前右手にはタブの木が聳え立つの。廻りはアスファルトですっかり覆われてしまい、大樹となるには余りふさわしい環境とは云えませんが、いつの日かこの長谷寺を語る時、併せて語られる日が来ることを希みたいものね。拝観受付を済ませ、境内に一歩踏み入れると、目の前には菖蒲苑が広がるの。と云っても本当は放生池なのですが。
見頃を迎えて大勢の方が見入っていらっしゃいましたが、傍らには高山樗牛の旧居址を示す記念碑が建てられているの。樗牛は明治34年(1901)にこの長谷寺にあった慈眼院に身を寄せ、翌年にはその傍らに新居を建てているの。石碑の側にはタブの木の古株が残されていますが、樗牛が住んだ頃には樹勢もあったのでしょうね。尚、樗牛の墓所は静岡県の 龍華寺 にありますが、大きな百日紅の木に見守られるようにして眠っているの。機会がありましたらお出掛け下さいね。
放生池を廻り込むようにして石段を登りますが、途中には地蔵堂が建てられ、傍らには多くの水子地蔵が奉納されているの。譬え悪人でも地獄の艱難辛苦から衆生を助け出そうとして下さる慈悲深〜いお地蔵さまは姿形を変えて人々の信仰を集めますが、水子地蔵の隆盛は意外に新しく昭和30年代(1960〜)以降のことなの。女性の社会的地位の向上に合わせるようにして数多く奉納されるようになったようですが、他の地蔵信仰が廃れ行く中で皮肉な歴史の営みね。物哀しさが先立ち、レンズを向けられず、代わりに堂前にあった卍池で御容赦下さいね。
地蔵堂を後に更に石段を登ると鐘楼前に出ますが、傍らの鳥居が気になり、訪ねてみたのがこのかきがら稲荷大明神なの。紹介しましたように、有縁の地で衆生を救いたまえと海に流された観音さま、長井の浜に流れ着いた時には蛎殻が数多く纏わり付いていたことから、蛎殻が観音さまをこの地に導いたものとされ、祠を建てて祀ったと云うの。ですが、稲荷大明神とするところから、元々この地に祀られていた稲荷神に後世に逸話が付与されたものでしょうね、きっと。
残念ながら黒山の人だかりを前に戦意を喪失し、撮影出来ずに終えていますが、阿弥陀如来の定印でもある上品上生印を結んでいるの。御尊顔にしても心持ち面長でいらっしゃるような気もしますが、頼朝は顔がデカかったとも云われていますので、阿弥陀如来に自分の肖像をダブらせて彫像させたのかも知れないわね。嘘よ、ウソ。鵜呑みにしないで下さいね。
阿弥陀堂の隣に建つ大きな堂宇が観音堂で、本尊の十一面観音像が安置されているの。昭和59年(1984)に行われた観音堂新築工事の際には鎌倉後期から室町時代前半にかけてのものと思われる火葬骨が数多く発見されているの。加えて弘長2年(1262)の銘を持つ板碑が伝えられることから、『鎌倉大仏の中世史』の中で馬淵氏は弘長2年(1262)を機にしてこの地に観音霊場が形成されたと推考されているの。そこから製作年代が不詳とされる十一面観音像にしても文永元年(1264)の造立の可能性を指摘されているの。気になる方は同著をお読み下さいね。
観音堂の左手にある大黒堂には鎌倉江ノ島七福神の一つ、出世開運授け大黒天が奉られているの。元々大黒堂に祀られていたのは室町時代の応永19年(1412)に造立されたと云う大黒天ですが、現在は宝物館に収蔵されているの。参詣者の方は専ら出世開運授け大黒天の隣のさわり大黒がお目当て。残念ながらこちらも多くの方々が福運に預かろうと黒山の人だかりでしたので、写真に収めることが出来ませんでした。ごめんなさいね。
その大黒堂の前にあるのがこの仏足石。元々はお釈迦さまが入滅する前にインドのマカダ王国を訪ねた際に残された足跡を写したもので、仏像が造られるようになる前は菩提樹やこの仏足石が礼拝の対象でもあったの。お釈迦さまのお姿を像に彫るだなんて畏れ多くも畏くも−と云うわけ。仏足石に対する信仰が広まると宗教哲学的な意味付けが成され、紋様や文字などが線刻されるようになったの。無知なξ^_^ξには何を現したものかは分かりませんが、この仏足石にも幾何学的な紋様やナスカの地上絵のような絵柄が彫り込まれているの。
その仏足石の近くには久米正雄氏の胸像が建てられていますが、大正12年(1923)の関東大震災に遭遇した久米氏はこの長谷寺の高台に避難して来たの。その時の様子を『地異人変記』の中で「それはずっと材木座の方までただ所々潴水を残した干潟となって、海藻か岩かは知らぬが所々黒く黙々と残して薄気味悪く空を反映している」と記し、津波を前に波打ち際が遙か沖合いに遠ざかり、鎌倉は不気味な静けさに包まれていたと云うの。
左掲は見晴台からの景観ですが、久米氏が「私は境内を限る崖の端に進んで」とする場所がこの見晴台辺りかしら?視線の先には穏やかな相模湾が広がり、その時の様子を想像だに出来ませんが、間近に見た鎌倉の人々は恐怖におののいたことでしょうね。折しもスマトラ沖地震のニュースが飛び込み、連日伝えられる巨大津波の映像には身のすくむ思いがしますが、穏やかで美しいこの景観を前にして、観音さまの広大無辺の慈悲の許に地震や津波の災禍が訪れぬようにと切に願う次第よ。見晴台で一休みしたところで紫陽花巡りに向かいました。
境内の散策を一先ず終えたところで元来た石段を下りますが、山門右手奥には弁天堂と名付けれた岩窟があるの。壁面中央に彫られているのは勿論弁財天ですが、脇侍するようにして弁財天十六童子も彫り込まれているの。十六童子は弁財天に仕え、衆生に福徳を齎してくれる従者なの。残念ながら灯明の仄暗い明かりに浮かび上がるだけですので、その表情は良く分からないの。ここでは大黒天も善財童子として他の童子を司る神さまとして描かれているの。その十六童子の内でも身近に関係しそうな童子をちょっと紹介してみますね。
筆硯童子=学問成就の神
3. 光則寺 こうそくじ
長谷寺からは道を隔てた谷奥(やつおく)に光則寺があるの。元々この地には鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の近臣の宿屋左衛門行時・光則父子の屋敷が建てられていたの。行時は寺社奉行の職にあり、文応元年(1260)には日蓮上人の『立正安国論』を時頼に取り次いでいるの。その『安国論』では他宗を排斥し、為政者の政道を諫めていたことから日蓮上人は迫害を受け、「龍ノ口の法難」は奇跡的に切り抜けられたものの、文永8年(1271)には佐渡流罪となるの。その時弟子の日朗上人も捕えられて光則に預け置きとなり、背後の山中に残される土牢に幽閉されてしまったの。
光則は後に日蓮上人に帰依するようになるのですが、その切っ掛けは上人が「龍ノ口の法難」から奇跡的に助かったことから、その主張を認めるようになったからとも、我が身を顧みずして幽閉中の身にある弟子・日朗上人を慮っての『土籠御書』の文面に心打たれたからとも云われているの。日蓮上人が佐渡流罪から赦されて鎌倉に戻ると、光則は自邸に草庵を結び、日朗上人を開山に迎え、文永11年(1274)に光則寺を開創したの。正式な山号寺号は行時山光則寺ですが、山号には父・行時の名を、寺号には自らの名を冠したと云うわけ。拝観料:¥100
花の寺としても知られる光則寺。本堂前には鎌倉市の天然記念物に指定される、樹齢200年余の海棠の古木があり、境内には数多くの野草や草木が植えられ、季節毎の花を咲かせるの。拝観の際には山門で忘れずに野草マップを頂いて下さいね。事細かな詳細図で、花々のそれぞれには開花時期も案内されているの。
境内の散策を終えたところで右手に続く客殿裏手の小径を歩きましょうね。緩やかな坂道が続きますが、その途中には宿屋光則のお墓があるの。本堂裏手の山中には源平の合戦で捕えられた平家方の武将・大橋太郎通貞が、12年間にわたり閉じ込められたと云う土牢もあるの。その通貞には一妙磨と云う一子があり、孝養心篤い一妙磨は一目父親に会おうと九州から鎌倉に下向すると、鶴岡八幡宮寺に日参して赦免を祈願したの。それを伝え聞いた頼朝はその孝養心を褒め称え、通貞を赦したと云われているの。
坂道を登り詰めたところにあるのがこの土牢で、前述のように日蓮上人の弟子・日朗上人が幽閉されていたと云う土牢なの。傍らには『土籠御書』の石碑が建てられ、「日蓮は明日佐渡の国へまかるなり 今夜のさむきに付けても ろうのうちのありさま思ひやられていたはしくこそ候へ 〔 中略 〕 籠をばし出でさせ給ひ候はば とくとく来たり給へ 見てたてまつり 見えたてまつらん」と記されているの。強靭な意志を以て殉教の使徒となり、歴史を駆け抜けた上人ですが、弟子の日朗上人に対する思いやりにも並々ならぬものがあるわね。
長谷観音で有名な長谷寺と、同じく鎌倉大仏で知られる高徳院に挟まれるようにしてある光則寺。訪ね来る人も少なく静かな佇まいの境内ですが、鎌倉時代と云う歴史のうねりの中で、確かに生きた人々の思いがここには残されているの。宗教という形をとったかも知れませんが、人が人を慈しみ、信頼を寄せる姿は荒んだ心にはとりわけ響き渡るの。通貞・一妙磨父子の逸話にしても、頼朝の知られざる一面を垣間見たような気がしますね。大寺のような華々しさはここにはありませんが、境内に咲く野の花々を愛でながら、しばし心を癒してみてはいかがかしら?
4. 高徳院 こうとくいん
正式な寺名より鎌倉大仏の名ですっかり御馴染みの高徳院。その存在は全国的にも知られますが、造営の縁起となると詳しいことは分からず、謎とされる部分が数多くあるの。寺務所で買い求めた栞に記載される鎌倉大仏由来記では、頼朝の侍女・稲多野局が頼朝の遺志を継いで発願し、勧進聖の浄光上人が貴賤を問わず広く喜捨を募り造営したもので、当初は木造の大仏さまだったと云うの。それが僅か9年後には現在の青銅仏に造り替えられているのですが、大仏さまの縁起を他の文献に探ってみると【吾妻鏡】の暦仁元年(1238)3/23の条には
未の三點寅方大風 人屋皆破損し 庭樹悉く吹き折らる 申の刻晴に屬く 西風また烈し 御八講の結願 頗る魔の障りなり
今日 相模の國深澤里の大佛堂事始めなり 僧淨光尊卑の緇素を勸進せしめ この營作を企つと
と、大仏殿の造営が開始されたことが記され、完成した寛元元年(1243)6/16の条では
深澤村建立の一宇の精舍 八丈餘の阿彌陀像を安じ 今日 供養を展ぶ
導師は卿僧正良信 讃衆十人 勸進聖人淨光房 この六年の間勸進す
都鄙の卑尊奉加せざると云うこと莫し
と、開眼供養が行われたことを伝えているの。当時の寺院造営や仏像建立はその多くが為政者など権力者側の意思を以て行われた中で、鎌倉大仏は寄附された浄財を元に建造されたものなの。造営事始にしても−頗る魔の障りなり−とするように破天荒な強風の中で営まれ、開眼供養の際には落雷にも見舞われているの。記述にしても、東大寺大仏殿の損壊に対しては修造の様子やそれに伴う奉幣が行われたことを数多く記すのに較べると余りにも淡白。開眼供養も質素な法要で、讃衆者10人と云うのは天候と併せ、何やら暗示めいた記述ですよね。
加えて、現在の鎌倉大仏は青銅仏ですが、この時に造立されたのは木像の大仏さまだったの。と云っても現在のような大きさのものではなくて、東大寺大仏の半分程度の大きさだったみたいね。ところが、その造営から僅か9年後の建長4年(1252)には金銅仏の鋳造が開始されているの。【吾妻鏡】は8/17の条で、鎌倉幕府第6代将軍・宗尊親王が病に臥せたことに続けて僅かに
今日彼岸の第七日に當たり 深澤里の金銅八丈の釋迦如來像を鑄始め奉る
と記すのみで、経緯や背景には全く触れられていないの。ですが、仁治2年(1241)4/29の条では
囚人逐電の事 預人の罪科軽からず 過怠料を召し 新大仏殿造営に寄進せらるべきの由
清左衛門の尉満定の奉行として今日議定有り
と記され、建長7年(1255)8/9には幕府から
人倫売買銭の事 大仏に寄進せられをはんぬ 而るに国々より運上の事 その煩い有るの由 小聖これを申す
然れば地頭の沙汰として 送進すべきの由 下知せしめ給うべきの旨候なり 仍つて執達件の如し
と、下知が飛ばされていることから見ても、鎌倉幕府が造営に深く関わりを持っていたことは明らかで、【吾妻鏡】の淡白な記述には寧ろ政治的な思惑があるような気配がしますよね。青銅仏の建立にしても、浄光上人は延応元年(1239)に幕府側に上申書を提出して勧進の奨励を下知するよう願い出ているの。それに依ると、日本国には45億余の人口があるのだから一人一文を寄進すれば45億文もの大金が集まるはず。既に下知を頂き山陰・山陽からは寄進を得ているが北陸や西国からの喜捨が未だなので重ねて下知を飛ばして頂きたいと云う内容なの。
【吾妻鏡】は金銅仏を釈迦如来と記しますが、正しくは阿弥陀如来ね。それとも無関心を装い、意図的に間違えたのかしら?ところで、浄光上人が云うところの45億余人の人口は、元祖・勧進聖とも云うべき行基の発言を踏襲したものですが、行基は何を根拠に感応したのかしら。その浄光上人にしても、大仏造営に関わりを持ったこと以外には詳しい経歴が分からず、謎の人物なの。
そうして、貴賤を問わずに進められた勧進ですが、幕府の政治的な援助が無ければ達成出来なかったわけで、当時執権職にあったのが北条泰時で、阿弥陀信仰に帰依していたことから阿弥陀仏造立の発願となったのではと云われているの。加えて、東大寺に対抗して同じく金銅仏とする必然性があり、東大寺のそれが聖武天皇の発願から造営されたのなら、武士国家の象徴として東国の鎌倉にも造営すべきとの意思が働いていたと云うの。
そうであればなおのこと【吾妻鏡】の沈黙が気になりますよね。鎌倉幕府半公式記録なのですから大いに喧伝すべきはずで、その意図するところが分からず、不思議に思い調べていた際に出会ったのが新人物往来社刊 馬淵和雄氏著『 鎌倉大仏の中世史』なの。馬淵氏は同著の中で、東大寺大仏が国家鎮護をかけて聖武天皇・行基の連携の元に造営されたのに対し、鎌倉大仏は北条時頼・忍性(&叡尊)が新たに国家鎮護の名の元に建造したものとしているの。造営当時の時代背景など、傍証を数多く掲げながら論考されていますが、読み進めるとまさに目から鱗状態で、興味のある方は是非御一読下さいね。
そうして、建長4年(1252)、現在の青銅仏が完成して大仏殿に安置されたの。と云うよりも大仏さまを覆うようにして大仏殿が完成したとする方が正しいかしら。あれえ〜変よねえ、鎌倉の大仏さまは雨曝しじゃないの。大仏殿なんて無いわよ。実は造営当初は大仏殿があったの。その後台風で損壊を受けて一時は再建されたりもしたのですが、明応7年(1498)の大津波で倒潰・流失してしまい、それ以後は再建されることも無く、現在の露座の形になってしまったの。雨曝しと云わずに露座と形容されるところが味噌醤油味ね。
古くは天平時代(729-748)に関東総国分寺が当地に建てられていたと伝え、高徳院が材木座の光明寺奥院として機能していた時期もあったのですが、明応年間(1492-1500)に廃寺となり、別当坊だけが残されていたの。その後、大仏さま御自身も傷みが激しくなった江戸時代の正徳2年(1712)には芝・増上寺(東京都港区)貫主・祐天上人により修復され、併せて浄土宗に改宗。近年では昭和35年(1960)に修復工事が施され、現在のお姿となっているの。
前置きが大分長くなってしまいましたが、境内の御案内をしますね。大仏通りからは石畳の参道を辿りますが、入口の傍らには 庚申塔 が並び建てられているの。青面金剛を主尊とする庚申塔は江戸時代に隆盛しますが、長谷の人々は日々の暮らしの安穏を青面金剛に祈り、死後の来迎を大仏さまに祈願していたのかも知れないわね。仁王門を潜り抜けた左手に拝観の受付があり、その先にある手水舎の台座には漢文が刻まれていますので、意のある方は解読にチャレンジしてみて下さいね。その手水舎から右手に順路を取ると木立ちの中から大仏さまの御尊顔が見えて来るの。
素人目では東大寺の大仏さまよりもこちらの大仏さまの方が優しい顔立ちをされていると思いますがいかがかしら。加えて、造営当初は金箔に覆われ、それこそ燦然と輝くお姿をしていたみたいよ。難しい理屈はさて置き、与謝野晶子も「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」と詠んだ鎌倉の大仏さま。先ずはごゆっくりと御鑑賞下さいね。左掲の画像をクリックすると大仏さまと接近遭遇出来ますよ。大仏さまから離れた周囲には大きな礎石が残されていますが、嘗て大仏殿が建てられていた時のものなの。
大仏さまは阿弥陀如来であることは御案内しましたが、極楽浄土に衆生を導く際には生前の行いや信仰の浅深に応じて9種類の来迎方法があると云うの。依拠する経軌により若干の違いがあるようですが、鎌倉の大仏さまが結ぶのが最上印の上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)ですので、来迎して頂くためには篤い信仰心が無いとダメみたいね。そうは云っても、下品下生印を結ぶ仏像は見たことがないけど。誰も自分のことを極悪人とは思わないものね。ところで、鎌倉の大仏さまの上品上生印は少し変わっているの。
普通は、人指し指の上に親指がのせられるのですが、親指の後に隠れてしまっているの。そんなことから鎌倉の大仏さまに大仏殿が出来ないのはこの変形印のせいだとも云われているの。大仏さまの御尊顔を拝する機会がありましたら忘れずにお手許にも御注目下さいね。勿体ぶらずに見せてくれりゃあいいじゃんかよ〜と云う方は前掲の接近遭遇を試みて下さいね。
大仏さまの優しい眼差しに触れたところで、その懐に抱かれるべく胎内に入ってみたの。ですが、階段が急ですので老人・幼少の方は単独参拝は御遠慮願います。若し、是非参拝を望まれる場合は安全を保証出来ません云々−とありますので、充分御注意下さいね。大仏さまの懐はやはり深いようで、内部は意外な広さの空間が拡がりますが、内壁の鋳型跡には当時の先人達の労苦が慕ばれるの。左掲は胎内から頚部を見上げたところですが、茶色く見えるのが大仏さまの手術痕なの。
大正12年(1923)の関東大震災では台座が崩れ、大仏さまも前に傾いてしまったの。そこで同14年(1925)には台座を補強すると共に、仏像を台座に固定。昭和35年(1960)から行われた修理では、前傾していた頭部を支えるために頚部を強化プラスチックで補強し、大地震に見舞われた際には台座と仏像が離れるように免震構造が採用されたの。大仏さまにはいつまでもξ^_^ξ達衆生を優しく見守って頂きたいですものね。
ところで、気になる大仏さまの身長と体重を皆さんにも紹介しておきますね。
身長と云っても胡座をかいていらっしゃいますので座高ですが。
仏身高:11.312m
総 高:13.35m(台座含む)
重 量:121t(仏身のみ)
大仏さまの背後を走る回廊を潜り抜けると、木立ちの中に観月堂が建てられていたの。元々はお隣・韓国の李王朝(1392-1910)の宮廷内に建てられていた月宮殿で、大正13年(1924)に杉野喜精氏邸内から現在地に移設されてきたものなの。元々の月宮殿とは天帝の住まいで、羽衣伝説で有名な天女はその侍女よね。
ところで、杉野喜精氏は山一證券の前身・山一合資会社を設立した人物で、なぜ建物が氏の宅内にあったのか経緯が不明ですが、当時の朝鮮半島は日韓併合状態で植民地化していたわけで、早い話しがお金にものを言わせて分捕って来てしまったのかしら。だとすると、観月堂の名とは裏腹に、余りいい印象は持てないわね。その観月堂内には徳川秀忠の念持仏が安置されていると聞くのですが。
観月堂の右手には前述の与謝野晶子の歌碑が建てられているの。画像を掲載したいところですが、石碑に某マヨネーズ会社の名を見つけて戦意を喪失。一角には小さなお地蔵さんも祀られていましたが、ξ^_^ξがとりわけ気になったのがこの石塔なの。上部には小さな動物像があり、猿回しの猿のようにも見えるのですが、この石塔は何を表しているのかしら。足許には苔むした五輪塔が熊笹に隠れるようにして建てられていたの。境内には文学碑や記念碑なども多く建てられているのですが、その道に明るい方でもなければ余りピンと来ないと思うわ。かく云うξ^_^ξも御多分に洩れず−ですので、最後に境内に咲いていた紫陽花を紹介しておきますね。
5. 甘縄神明宮 あまなわしんめいぐう
高徳院からは長谷観音の交差点を経て由比ヶ浜大通りを鎌倉駅方面に歩きましたが、大仏通りから由比ヶ浜大通りに折れた途端に観光客の方の姿も無くなり、沿道には普通のお店やさんが続くの。余談ですが、程無くしてあるお肉屋さんのミヤダイは変わり種のコロッケを売ることで評判のお店よ。観光の散策コースからは外れてしまいますが、ほんの少し足を伸ばして訪ねてみては如何かしら。やがて左手に消防署が見えて来ますので、その脇道に折れて下さいね。後はひたすら迷わずに直進するのみよ。
縁起では奈良時代の和銅3年(710)に行基が草創、神亀年間(724-728)にこの地を治めていた豪族の染谷太郎時忠が山上に社殿を創建し、山下に円徳寺と云う僧堂を建てたと云われているの。あれ〜変よねえ、神明宮は神社じゃなかったの?実は甘縄神明宮が神社扱いになったのは明治以降のことなの。嘗ては甘縄院と云う僧堂もあり、神仏習合状態にあったの。平安時代の後期からは本地垂迹説により在来の神さま達は諸仏の仮身として仏教に採り入れられ、神仏の区別が無くなっていたの。
それが、明治期の神仏分離令の発布を受けて再び神仏が切り放され、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で廃寺となってしまった寺院も数多く、甘縄院も決して例外ではなかったの。ですが、行基が開創したというのは眉唾みたいね。現在の祭神は天照大神ですが、本地垂迹説で天照大神の本地仏が大日如来とされてから付与された縁起ではないかしら。神仏習合状態の甘縄院が自らの格式を高めるために、元々の祭神・天照大神を大日如来の化身として行基に勧請させたのでしょうね、きっと。
ところで、社名に冠する甘縄ですが、元々は海人(あま)と漁網に使用される縄に由来するのでは−と云われているの。現在の地名は長谷となっていますが、それは長谷寺が観音霊場として脚光を浴びるようになってからのことで、元々は甘縄郷と呼ばれていたの。加えて、祭神はあの有名な天照大神で、万物を照らす太陽を象徴する神として絶対的なパワーを発揮する女神さま。その天照大神を祀るのが伊勢神宮で、全国にある神明宮はその伊勢神宮から分霊・勧請されたものなの。補足ですが、伊勢神宮は内宮・外宮からなり、天照大神が祀られるのは内宮の方ね。
その伊勢神宮のお膝元、鳥羽市石鏡では大晦日から元旦に掛けて老若男女を問わず一糸纏わぬ姿となり海中に浸かり、昇り来る太陽に向かい、一年の幸福と大漁を祈願する垢離(こり)かき神事が昭和30年頃迄続けられていたと云うの。海水を浴びると云うことは穢れを清める禊でもあり、太陽のエネルギーを一身に浴びてその恩恵に預かろうとしたの。天照大神と漁を生業とする人々の結び付きがしのばれる神事ですよね。
社伝では行基の開創としてしていますが、伊勢辺りから流れ着いた漁民達が土着して祀っていたのではないかしら。奥富敬之氏は著書『鎌倉歴史散策』の中で、行基が東国に来たことを裏付けるような史料は無い−としているの。だからと云って来ていないと断言も出来ませんが、行基が専ら活躍したのは畿内のことですので、当時の感覚からすると鎌倉の地に下向して来た可能性は低い気がしますね。補足ですが、鎌倉に行基の痕跡が数多く残されている理由のヒントを先程紹介した『鎌倉大仏の中世史』の中に見つけることが出来ますよ。気になる方は同著をお読み下さいね。
社殿を創建したとされる染谷時忠にしても、鎌倉の始祖的人物と評される一方で、詳しいことは分からないの。東京堂出版刊『鎌倉事典』に依ると【詞林采葉抄】には「鎌足の玄孫染谷大夫時忠 文武御宇より聖武天皇神龜年中まで鎌倉に居住す 東八ケ國總追捕使にて東夷を鎭め國家を守り奉る」の注記が見られるとのことですが、これだけでは東国平定後に住み着いて土豪化したのか、元々地方豪族であった時忠が朝廷側に就いて東国を治めたものなのかは分からないわね。
貴志正造氏は更に時忠の関わりを持つ寺社縁起を紹介しますが、縁起以前から始祖的人物として語られていたものが、中世僧徒等に依り逸話化されたものと推考されているの。【新編鎌倉志】では時忠を由比長者と記すことからかなり羽振りのいい暮らしをしていたみたいね。その時忠の屋敷があったと云うのがこの甘縄で、東国総追捕使に任ぜられた時忠が守護神として伊勢神宮を勧請したのが始まりなのかも知れないわね。
時代を経た後に、東国でも御多分に洩れず朝廷から派遣された国司は新たに土地を開墾すると私物化したの。おまけにその地位を利用して租税免除を謀り私腹を肥やしていったの。そうなると土地の帰属などをめぐり分捕り合戦も起こるわよね。やがてその闘争も激化して自警団を作るようになりますが、それが職業としての武士の始まりね。最初は小競り合い程度の闘争がエスカレートすると武士団として統合・組織化されていきますが、そんな中で起きたのが長元元年(1028)の平忠常の乱。
忠常は千葉氏の祖とされる人物ですが、安房国守を殺害して覇権を広めようとしたことから朝廷は平直方(なおつね)を追討使として派遣するの。庶子家の忠常に嫡宗家の直方が追討にあたるという同族戦となるのですが、嫡宗家と云うイメージからすると直方の方が強そうに感じられますが、実際はまるで逆だったの。上総・下総・安房国の国司を追い払い、房総半島を手中に収めた忠常には直方は敵ではなかったの。着任して2年を経ても忠常を追討出来ない直方は召喚され追討使を解任されてしまうの。
長元4年(1031)、新たに追討使に任じられた清和源氏の棟梁・源頼信が東国に下向してくると忠常はあっさりと降伏してしまうの。頼信に捕らえられた忠常は京都への護送途中で美濃国(岐阜県)に病没。忠常の嫡男・常将は頼信の執り成しもあったのでしょうか、許されて房総に戻り礎を固め、後に千葉氏を名乗ったと云うの。一方、追討使を罷免された直方は頼信の嫡男・頼義を娘婿に迎えているの。強い者と縁戚関係を結ぶのは世の常、人の常。
平家と源氏が婚姻するなんて、ちょっと意外な感じがするかも知れませんが、当時は未だ共存関係にあったの。そうして婚儀を済ませた頼義が甘縄神明宮に祈願して授かったのが源義家と云うわけ。その義家が生れると、直方は頼義に鎌倉の領地を委譲するの。【左経記】には追討使の任にあった時の直方を「一塵を残さず収奪を重ねたり」とあり、忠常討伐よりも私腹を肥やすことに専念していた節もあることから、かなりの領地があったのでしょうね。鎌倉が源氏所縁の地となるのはこの時に始まりますが、直方の子孫はやがて伊豆国田方郡北条の地に流れると土着して北条氏を名乗るようになるの。源平の合戦に勝利した頼朝ですが、妻の政子は平氏の流れをくむ一族の娘と云うわけよね。
康平6年(1063)にはその頼義が、永保元年(1081)には義家も社殿の修復をしているの。社宝には源義家の護持神だったとされる天照大神像があると聞きますが、由比若宮に岩清水八幡宮が勧請された一方で、甘縄神明宮も同じく源氏の守護神になっていたのでしょうね。時代を経て鎌倉に入部した頼朝も、この神明宮を崇めて社殿の修造を行っているの。【吾妻鏡】の文治2年(1186)10/24の条には「甘繩神明の寶殿修理を加えらる 今日四面の荒垣竝びに鳥居を立つ 籐九郎盛長これを沙汰す 二品監臨し給う」と記されますが、籐九郎盛長とは頼朝に使えた重臣・安達盛長のことね。
後に安達氏は北条氏と縁戚関係を結ぶなど有力御家人となりますが、盛長はその基礎固めをした人物なの。嘗て神明宮の社頭一帯にはその安達盛長の屋敷が建てられていたの。【吾妻鏡】には頼朝や政子も度々神明宮に参拝・奉幣し、帰りには安達邸に宿泊したことが多く記され、盛長に対する頼朝の厚い信頼があったことを窺わせるの。
能書きが済んだところで境内の御案内をしましょうね。石段の左手前にあるのが北条時宗公産湯の井で、鎌倉幕府第8代執権となった時宗の祖母・松下禅尼は安達氏の家系なの。成長してからも時宗は為政者の孤独感からかその祖母を頼りにしていたみたいね。産湯の井はそんな時宗と松下禅尼の関係から逸話化されたものみたいね。
長い石段は陵墓を思わせる佇まいですが、段上にあるのがこの社殿。鎌倉最古の社とされる甘縄神明宮ですが、明治6年(1873)には長谷の鎮守として村社に列格されているの。社殿左手には小さな社が建てられていますが、境内末社の五社明神で、元々は長谷寺の鎮守として祀られていたものが明治20年(1887)に合祀されているの。余談ですが、社殿前から眺める長谷の景観が素敵でした。陽光煌めき、紺碧の空が広がる風景はまさに天照大神の為せる業よね。
社殿はこの本殿だけかと思いきや、実は奥院があったの。さすがは天照大神ね、本殿だと思っていたのは拝殿だったと云うわけなの。背後に回り込んでみたのですが、石垣が高く積み上げられた壇上に鎮座することから様子が分からず、何とか近付く方法は無いかしらと拝殿の周囲をウロウロして見つけたのが右手に続く脇道でした。
その途中に祀られていたのが同じく境内末社の秋葉社だったの。このシリーズを御笑覧頂いている方は既にお分かりでしょうが、秋葉社は静岡県の秋葉神社を勧請したもので、火防の神の迦具土神(かぐつちのかみ)が祀られているの。迦具土神は火山の営みを擬人化した神さまですが、噴火すると人々に大きな災いを齎すことから荒ぶる力を発揮することがないようにと崇めて祀ったの。当時は火災も迦具土神などの荒ぶる神の仕業と信じられていたの。こうしてお供えをして崇め奉っておりますで、どうか御心安らかにおいでくだせえまし−と云うわけ。
ところで、秋葉社の右手に御注目下さいね。小さな鳥居が建てられ、杣道のような小径が続いているの。背後の裏山は嘗て御輿ガ岳とも呼ばれ、万葉集にもその名が見えることから古くから知られていたみたいね。ことによると伊勢神宮が勧請される以前から御輿ガ岳は山の神が棲む霊地だったのかも知れないわね。山の神は自然神ですが、天照大神が来るとその神威に負けて御輿ガ岳の住み処を明け渡したのかも。
その秋葉社左手に続く道も残念ながら崖上で途切れ、それ以上近付くことが出来ないの。天の岩戸神話ではありませんが、奥宮にお隠れの天照大神にはそう簡単には近づけそうにもないわね。天照大神にお出まし頂くには天細女神(あめのうずめのみこと)状態にならなければならず、それはちょっと出来ないわね。お陽さまもこうして照り輝いていることですし、取り敢えずこれにて良しとしましょうか。天照大神の御神威に触れたところで甘縄神明宮を後にしましたが、門前には故・川端康成氏の邸宅が記念館として残されているの。
川端氏は昭和11年(1936)に浄明寺に移り住んでからは鎌倉の地を愛し、昭和21年(1946)にはこの神明宮の社頭に居を構えているの。But 最初の頃は生活も困窮を極め、打開策として文人仲間と貸本屋を開業しているの。それが鎌倉文庫ね。著書『山の音』の中では甘縄の原風景を描いていますが、山とは勿論、御輿ガ岳のことね。邸内は非公開ですが、文学少女のあなた、嘗てそうであった方(笑)も訪ねてみては?
甘縄神明宮からは再び由比ヶ浜大通りに戻り鎌倉駅方面に歩きましたが、文学館入口の信号を左折して下さいね。後は道なりに進むとあるのが鎌倉文学館。ですが、今にして思えば近道があったみたいね。神明宮の鳥居に向かい左手にあるのが川端康成記念館ですが、右手に続く道を素直に歩けば良かったの。つくし公園、長谷子ども会館を経て文学館入口から続く道に出ることが出来るの。
6. 鎌倉文学館 かまくらぶんがくかん
鎌倉文学館は嘗て加賀百万石で知られた旧加賀藩前田家の第16代当主・前田利為(としなり)氏が昭和11年(1936)に建てた別荘だったの。敷地内に足を踏み入れても建物の車寄せまでは延々と道が続くの。拝観の受付はその道すがらにありますが、その先にあるトンネルには招鶴洞と云う優雅な名前が付けられているの。なので、ここでは招かざる客とならぬように鶴の如く優雅な立ち振る舞いで歩いて下さいね。時折、木漏れ日が降り注ぎ、木立ちに覆われた小径は静寂そのもので、気分はすっかり文学少女かしら。入館料:¥300 (企画展開催時を除く)
その木立ちを通り抜けると見えて来るのがこの建物で、当時の鎌倉の別荘建築を代表するものと評されるだけあって瀟洒な洋館となっているの。建物の外観は後程改めて紹介しますが、昭和58年(1983)に前田家から譲り受けた鎌倉市が昭和60年(1985)に鎌倉文学館として公開したの。平成2年(1990)には鎌倉市景観重要建築物第一号の指定を受け、同12年(2000)には国の有形文化財にも指定されているの。
鎌倉には多くの文人達が滞在し、居を構えて執筆活動をしますが、鎌倉所縁の文学者は優に300人を越えると云われ、文学館にはその文人達の遺稿や身廻品などが収蔵・展示されているの。建物自体は三階建てなのですが、1Fと2Fのみが展示室として公開され、第一部が鎌倉文士たち、第二部は古典文学と鎌倉、第三部が明治・大正文学と文学者、第四部は昭和文学と文学者からなり、常設展の他にも企画展が随時行われているの。常設展にしても資料保護の立場から年数回の入れ替えが行われると聞きますので、訪ねる度に新たな発見があるかも知れないわね。
ξ^_^ξが訪ねた時には折しも立原正秋氏の企画展が行われていたの。立原正秋氏は昭和39年(1964)に発表した『薪能』が芥川賞候補となり、後の『白い罌粟』で直木賞を受賞していますが、著作の『薪能』は勿論、鎌倉宮で催される薪能のことね。個人的なことで恐縮ですが、むか〜し、氏の著作を手当たり次第に読みあさった時期があり、懐かしく思い出されたの。お金が無く文庫本ばかりで、今ではその思い出と共にすっかり茶色く色褪せてしまいましたが。企画展の開催など、展示内容の詳細が気になる方は 鎌倉文学館 を御参照下さいね。
余談ですが、平成16年(2004)6/26付の朝日新聞には近年鎌倉所縁の文化人の作品や邸宅などが鎌倉を離れて出生地などに寄贈されることが多くなったと紹介されているの。長谷寺の項で少し紹介した久米正雄氏の直筆原稿や居宅も、現在は福島県の「こおりやま文学の森資料館」に寄贈され、極最近では漫画家・横山隆一氏の邸宅が解体され、故郷の高知県に移設されているの。多くの作品や所縁の品を収蔵する鎌倉文学館ですが、本館背後に建つ収蔵庫も既に飽和状態。その散逸流出を危惧する声も多いのですが、鎌倉市も御多分に洩れず財政難。
横山隆一氏の邸宅は鎌倉市役所の目と鼻の先にあり、市の関係職員も高知県に運ばれ行くのを只見守るしかなかったと云うわけ。貧乏人のξ^_^ξには如何ともし難いお話しですが、鎌倉を愛して移り住んだ芸術家や文人達が鬼門に入ってしまうと、再び鎌倉の地から連れ出されてしまうとは皮肉なものですね。京都では法外の拝観料を要求する寺社もありますが、鎌倉ではその多くが拝観自由か、徴収しても少額なの。こんな事を云うと又非難を浴びるかも知れませんが、文化財の保護を名目に社寺の拝観料徴収を条例に定めてみたらどうかしら。
拝観受付などを設置すると経費が発生しますので、募金箱のような形はどうかしら。まあ、中にはそれを無視して拝観料を払わずに済ませてしまう人達も現れて、不公平感を露にする方々も出てくるでしょうが、この際無視しましょう。鎌倉の歴史遺産を鎌倉市民だけでなく観光客も共通の財産として受け止めましょうよ。そうして集められた浄財は徴収する寺社に一定額を手数料として廻し、残りは市の文化財保護の基金として使用すると云うのはどうかしら?甚だ他力本願ですが、貧乏人のξ^_^ξが第二の文学館を寄贈しなければならないとなると銀行強盗でもしない限りは無理ね。
館内の見学を終えて気分はすっかり文学少女になりきったところで前庭に降りてみたの。芝生が養生された広い前庭ですが、視線の先には相模灘が広がるの。この景観を見ながら日々を過ごせば人生観と云うか、人格も変わるでしょうね。たった5億円ぽっちのお金で人を殺しちゃうなんて・・・とは、某局のTVドラマで深田恭子さんが吐いていたセリフですが、ξ^_^ξもこんなお家に住みた〜い(笑)。
広い芝生の上に寝そべって好きな本でも読みながら日々を過ごせたら−などと夢物語が脳裏を掠めますが、思い直して向かった先が庭の最前部にある薔薇園。ハイソな別荘には同じくゴージャスな薔薇よね。訪ねた時には見頃を迎えて色取り取りの華々が咲き誇っていたの。園内を歩いているとそこかしこから ねえねえ、わたし綺麗? と声を掛けられているようで。左掲の画像をクリックして頂いた方はもれなく薔薇の競演に御招待しますね。
こちらは薔薇園の隣で控えめに咲いていた紫陽花とグラジオラス。薔薇が伯爵夫人ならこちらは使用人と云った風情ですが、我が身をダブらせた写真となっているの。エッ?お前はその隣にある熊笹だろうって?
華々しい薔薇の佇まいに眩暈を覚えたところで、車寄せのある辺りまで戻りましたが、ベンチに腰掛けて休憩していたときに、廻りの木立に隠れるようにして佇む石塔を見つけたの。柵が設けられていたので近付くことは出来ませんでしたが、苔生した石塔は寂寥感を漂わせ、傍らの卒塔婆にしても記される文字の判別も出来ず、墓塔の主が誰なのかは分からないの。入館受付の手前右手の斜面には長楽寺跡を記す史蹟指導標が建てられていましたが、関係するのかしら。碑文には
嘉祿元年(1225)3月 二位の禪尼政子 頼朝追福の爲 笹目ガ谷邊りに於いて 方八町の地を卜し 七堂伽藍を營みて長樂寺と號す 元弘3年(1333)5月 北條執權滅亡の際 兵火に罹りて燒失せりと 此の地 即ち其の遺址にして 今に小字を長樂寺と呼べり
と記されているの。焼失後の長楽寺は廃寺となり、現在は跡形もありませんが、地名としてのみ残されたと云うの。笹目ガ谷とはその長楽寺ガ谷の北側に広がる谷のことで、【吾妻鏡】の寛元4年(1246)閏4/2の条には「禅室佐々目山麓に葬り奉る」とあるの。禅室とは鎌倉幕府第4代執権を務めた北条経時のことですが、佐々目山麓とあるだけで所在は不明なの。大町にある安養院はこの長楽寺と関係があるのですが、安養院は北条政子の法名でもあるの。
7. 江ノ電・由比ヶ浜駅 ゆいがはまえき
鎌倉文学館の見学を終えたところで江ノ電の由比ヶ浜駅へと向かいました。近くには吉屋信子記念館もあるのですが、見学は基本的に予約制ですので、散策の途中で気軽に立ち寄るという訳にはいかないわね。訪ねてみたいな−と云う方は事前予約の上でお出掛け下さいね。さて、御覧の由比ヶ浜駅ですが、今では家々が建ち並び、由比ヶ浜を名乗りながら由比ヶ浜のゆの字も見えないの。
ホームに上れば目の前のお家の玄関は線路を歩かなければ辿り着けない状態なの。民家の軒先を掠めるようにして走る江ノ電は使用される車両がレトロなこともあって人気を集めていますが、開設時の資金不足から最低限の敷地しか取得出来なかったのが本当のところみたいよ。線路が敷設出来て電車が走ることが出来れば取り敢えずはそれでいいじゃん−と云うわけ。窓から手を出したら江ノ電にぶつかったなどの事故も聞きませんので充分なのでしょうね。
8. 和田塚 わだづか
陽が傾くには今少し時間がありましたので、お隣の和田塚駅で下車してちょっと寄り道してみたの。和田塚駅も小さな駅舎で、勿論駅員などいなくて、代わりに運転手の方が改札するの。改札口脇から由比ヶ浜方面に続く道を歩くと程無くしてこの和田塚があるの。建保元年(1213)、互いの思惑から北条義時と和田義盛の間に合戦の火蓋が切られ、伊豆武士団と相模武士団のみならず、近隣の御家人達をも巻き込んで「和田の合戦」が起こるの。その経緯や合戦の様子などは省略しますが、義時の策略が功を奏して和田勢は奮闘虚しく敗退してしまうの。
和田側の武将も次々に討ち取られ、和田義盛も愛息の義直が討ち死にしたことを知り、号泣して辺り構わず刀を振り回していたところを討ち取られているの。和田側の討ち取られた馘は由比ヶ浜に設けられた仮屋で北条義時自ら首実検したの。明治25年(1892)の新道開設工事の際にはこの塚の周囲から多くの人骨が出土したのですが、「和田の合戦」で命を失った武将達のものじゃろうて−と、以後はこの塚を和田塚と呼ぶようになったと云われているの。But 人骨と共に埴輪も発見されたと云うのですから和田塚は古墳よね。
それなら和田塚に数多く残されている五輪塔は何なのよ?と云うことになるけど、宅地の造成に合わせて散在していたものが集められて来たのではないかしら。幾ら主の知れぬ無縁仏だとしても墓塔を粗末には出来なかったはずよね。最近では供養後に強制撤去して墓苑を造成する寺院もありますが、近在の方々はその良心から無碍にも出来ず、安息の地に移したと云うところではないかしら。近年に行われた由比ヶ浜南遺跡の発掘調査では多くの人骨と共に、土塁に挟まれた礎石群も発見されているのですが、その遺跡があるのが和田塚から更に海側に南下したところなの。
人骨は南北朝期のものとされていますが、馬淵和雄氏は『鎌倉大仏の中世史』の中で、死骸の埋葬場所として浜が使用されたのは鎌倉時代に始まると論考されているの。浜が墓地代わりにされていたなんて意外に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、【記紀】でも海は人々に海産物などの恵みを齎す半面、穢れを流す対象としても描かれているの。穢れの最たるものが死穢で、亡骸を海に流す習俗も嘗て一部では行われていたの。馘実検を浜で行ったのもそんな信仰心が遠因になっていたのかも知れないわね。
根拠の無い勝手推量ですが、首実検された後はしばらくは晒馘状態だったかも知れませんが、やがて浜に埋葬されたとするのが自然な気がするわね。何かオドロオドロした話しになってしまいましたが、現在の由比ヶ浜の景観からすると想像も出来ませんが、砂浜に足を運ばれた際には少しだけ思い出して下さいね。余り深く思い出すと波打ち際でのんびりと夕陽なんか見ていられなくなってしまうかも?
和田塚からは再び元来た道を戻り、和田塚駅を過ぎて由比ヶ浜通りに向かいましたが、その途中にある青年会事務所前ではお祭りの準備をする光景に出会いました。見ると葛原岡神社の名がありましたが、源氏山公園に続く葛原ヶ岡に鎮座するお社よね。地理的には大分離れているのですが、扇ガ谷ではなく由比ヶ浜の地で神輿が渡御するには何か理由があるのでしょうね。神輿が担がれるのは当分先のようでしたので、残念ながらお祭り気分を味わうことも出来ずに終えてしまいましたが、準備作業の手を休めてポーズをとって下さった強面のお兄さん、ちょっと怖かったですう〜。
9. 六地蔵 ろくじぞう
由比ヶ浜通りに抜けて鎌倉駅方面に歩くと三叉路に六地蔵が見えて来るの。六地蔵の背後右手には嘗て鎌倉時代の刑場跡があり、荒れるままに放置されていたと云うの。そんなことから辺りの地は嘗て飢渇畠※と呼ばれていたと云うの。きっと人骨なども捨て置かれていたでしょうから、そんな場所を耕して畑にしようなんて誰も思わないわよね。処刑された罪人達の魂が浮遊していたのでしょうね、その供養を願い、後にこの六地蔵が祀られたの。
※けかちばたけ:元々の意味は作物も育たぬ痩せた土地のことなの。
ねえねえ、どうしてお地蔵さんが六体もあるの?何か特別な意味があるの? あるなんてものじゃないわ。六体じゃないとダメなの。 ねえねえ、どうしてダメなの? それを説明するにはお地蔵さんのことから話さなくてはいけないわね。
親しみを込めてお地蔵さんと呼ばれているけど、本当は地蔵菩薩ね。地蔵菩薩はお釈迦さまが入滅してから56億7千万年後に弥勒菩薩が現れる迄の無仏期間に現れて衆生を艱難辛苦から救って下さると云う有り難い仏さまなの。それに、他の菩薩が高所から慈悲の手を差し伸べるのに対し、地蔵菩薩はξ^_^ξ達衆生の廻りに自ら降り立ち、救済してくれると云うの。そんなことから身近な仏さまとして極めて現世利益的な信仰対象になっていくの。各地に残されている身代わり地蔵などはその典型ね。
仏教では生前の行いの善悪に応じて死後に送られる世界が六つあると説いているの。それが六道と云われるもので、地獄と天の間にも餓鬼・畜生・修羅・人があるの。とりわけ当時の人々が畏れていたのが地獄行きなの。その地獄では煮え湯を飲まされたり、火責め・水責めなどの責苦が永遠に続くの。人は生きている限りは何かしらの罪を負ってしまうもの。加えて、当時は血を分けた者同志が啀み合い血を流すことも多くあり、暗い世情を反映して十王思想と共に六地蔵信仰が隆盛するの。その十王思想が気になる方は北鎌倉編の 円応寺 の項を御笑覧下さいね。
10. おまけ
六地蔵からは由比ヶ浜大通り・御成通りを経て鎌倉駅の西口に向かいましたが、帰路に就くには今しばらく余裕があり、さりとて改めてどこかを見て廻る程の時間も無いことから鶴岡八幡宮に詣でてみることにしたの。But 休日の小町通りは人通りが多くて歩くのも大変。なので横須賀線伝いにぶらついてみましたが、沿線には芙蓉の花が咲いていたの。人混みを避けて小径を行けばそこには意外な出会いもありました。芙蓉の花に迎えられたところで今回の散策の紹介も終了とさせて頂きますが、鶴岡八幡宮が気になる方は姉妹編の 鶴岡八幡宮編 を御笑覧下さいね。
嘗て鎌倉幕府が開かれていた頃は鎌倉のもう一つの玄関口として賑わいを見せていたと云う長谷。鎌倉幕府が滅ぼされると再び静かな寒村となり、大仏さまも忘れられたかのように佇んでいたと云うの。今では長谷観音や鎌倉大仏に惹かれて大勢の方が訪ね来るようになり、再び賑わいを見せているのですが、それらを離れて小径を行けば、名の知られない史蹟や寺社にも当時を生きた人々の確かな証が今も残されているの。とりわけ印象に残るのは甘縄神明宮で、鎌倉最古の古社ですが、訪ね来る人も無く静かな佇まいの社なの。境内の高台に立てば故・川端康成氏の愛した原風景が目の前に広がるの。喧噪を離れて陽光煌めく相模灘を見やれば、歴史の表舞台に立ち、一人主人公を演ずる自分がいたりするの。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
〔 参考文献 〕
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
実業之日本社刊 三浦勝男監修 楠本勝治著 鎌倉なるほど事典
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
雄山閣出版社刊 民衆宗教史叢書 小花波平六編 庚申信仰
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
新人物往来社刊 馬淵 和雄著 鎌倉大仏の中世史
雄山閣出版社刊 笹間良彦著 弁財天信仰と俗信
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
昭文社刊 上撰の旅11 鎌倉・湘南・三浦半島
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
講談社学術文庫 窪 徳忠著 道教百話
岩波書店 龍肅訳注 吾妻鏡
各寺院発行の栞・由緒書等
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