腰越は七里ヶ浜と江ノ島に挟まれた地の利を得ながら訪ね来る方も少ないような気がしますが、鎌倉幕府が開かれていた頃は鎌倉の西端と見做されていた腰越にも歴史を物語る史蹟が残されているの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。
1. 大船駅 おおふなえき
2. 湘南江ノ島駅 しょうなんえのしま
湘南江ノ島駅前は同じ江ノ島の玄関口でもある小田急線片瀬江ノ島駅を見慣れた方には些か殺風景に映るかも知れないわね。気が付けば他の乗客の方々はいつの間にか街の中に消えていました。江ノ島へ向かうには大通りを越えて直進すれば良いのですが、今回の散策は腰越界隈でしたので大通りを東に向かって歩き始めました。
3. 龍ノ口刑場跡 たつのくちけいじょうあと
湘南江ノ島駅から由比ヶ浜方面に歩くと龍口寺の仁王門が見えてきますが、その手前には龍ノ口刑場跡の史蹟が残されているの。法華経のみを唯一無二の正法として掲げ、念仏宗などの他宗を徹底して排斥した日蓮上人は幕府に捕らえられて密かにこの刑場で斬首されるところだったの。But いざ刀を振り下ろそうとすると、突然江ノ島方面から光り物が電光石火の如く飛来してきて、その刀が折れてしまったというの。お話しが前後して恐縮ですが、日蓮上人は他の宗派を念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と排斥したことから、とりわけ念仏宗檀信徒等から迫害を受けるの。
前執権・北条時頼には『立正安国論』を献じて政を諫め、名のある高僧には悉く挑戦状を送りつけているの。当時は幕府要人にも禅宗や念仏宗の帰依者が多く、当然彼等からも誹謗を受けますが、中でも急先鋒だったのが侍所の所司(長官)平頼綱なの。その頼綱は文永8年(1271)、遂に日蓮上人の松葉ガ谷草庵を襲い、上人を捕らえてしまうの。そうして佐渡流罪の決定が下されるのですが、それは表向きで、本当は密かに斬首してしまう計画だったの。如何なる場合でも僧侶の死刑は御法度だったのに、それを敢えて挙行しようとしたのですから、余程疎ましかったのでしょうね。
腰を抜かす者や馬に飛び乗り逃げようとして投げ出され、馬と共にどうと倒れる者など、その場に居合わせた武士達は皆一様に光り物の怪異に恐れをなし、処刑は中止になったの。そうして直ちに執権・北条時宗のところへ急使が出されて断を仰ぐことに。一方、将軍御座所上空でも巨星が閃光を発して雷鳴を轟かせながら夜空を駆け抜けていったものだから、大変な騒ぎに。日蓮の処刑を知った月天子がその救済に現れたのじゃ、仏罰が下ったのじゃ。ええい、処刑は止めじゃ、止めじゃ!直ちに馬を引けい!頼綱を引き留めよ!!
そうして日蓮上人は流星の怪異現象に命を救われ佐渡流罪となるのですが、実際には時宗の御台所懐妊に伴う恩赦だったみたいね。自界叛逆と他国侵逼※の国難を説き、蒙古襲来や二月騒動などの事件を機に帰依する者も現れ、元寇の危機が迫った文永11年(1274)2月、時宗は流罪を放免して日蓮上人の主張に耳を傾けようとするのですが、相変わらず他宗を排斥して憚らず、これには流石の時宗も閉口してしまうの。※ 自界叛逆=内乱 他国侵逼=侵略
やがてその日蓮上人も「三度諫めて聴かれずは則ち之を去る」と鎌倉を離れ、身延山に入山しているの。元寇襲来と云う未曾有の国難に際して全ての御家人や神社仏閣の合力を以て事に当ろうとした時宗にしてみれば日蓮上人のみを厚遇する訳にもいかず、日蓮上人が希有の実践宗教家なら、時宗もまたバランス感覚を備える傑出した政治家だったの。
4. 龍口寺 りゅうこうじ
龍ノ口刑場跡の史蹟に続いて建つのがこの龍口寺の仁王門ですが、右手の仁王像の下で何やら怪しげな(笑)風体の方が昼寝をしていましたので、そう〜と門を潜り抜けました。右側は通り抜けざまに写した天井画なの。本当は仁王像を写したかったのですが。ところで皆さん、天井に龍が描かれる理由を御存知ですか?
昔話にも頻繁に登場するように、龍は沼や湖に潜み、大切な水を司る神として古来より崇められ、雷鳴と共に天に昇り、人々に恵みの雨を齎すと信じられていたの。そんなことから法話を聞きに集まった聴衆に法(仏の教え)の雨を降らせようと、本堂や講堂などの天井に描かれるようになったの。龍神が右手に握る玉は云わば法のエキスが入った宝珠で、不信心な輩には集中豪雨が襲うかも。エッ?龍神からつぶてをくらうかも知れないって?
山門には御覧のような見事な透し彫りが施されているの。極楽浄土と云うよりも何やら仙人達が仙郷の地に遊んでいるようにも見え、中国故事を題材としているのでしょうが、その道に詳しくありませんので紹介が出来ません。どなたか御存知の方がいらっしゃいましたら御教示下さいね。
山門を潜ると最初にあるのが妙見堂で鋪皮石堂の石碑が建てられているの。縁起に依れば、龍口寺は法難跡地に日蓮上人の直弟子・日法上人が延元2年(1337)に小堂を建て、日蓮上人像と頚座の敷皮石を安置したのが始まりで、後に六老僧と呼ばれるようになった高弟、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持上人らの支援もあり、勧行寺や東漸寺など近隣八ヶ寺が輪番で住持を務めたと伝えるの。山門前からの参道の先には御覧の本堂が建ちますが、右手奥にはこの辺りでは珍しい五重塔が建てられているの。それもそのはずで、神奈川県内唯一の五重塔になるのだとか。
五重塔は明治45年(1912)の創建と、比較的新しいものなのですが、重厚な佇まいが趣を添えているの。本堂への石段を登ると左手に手水舎がありますが、浄行菩薩が祀られているの。浄行菩薩は水徳を顕す仏さまで、煩悩や罪障を洗い清めてくれるの。その手水舎の背後に日蓮上人が閉じ込めれたと云う御霊窟があるの。もう少し大きな洞窟を想像していたのですが間口も狭く、中も腰を屈めなければ立てない位の高さしかないの。いかにも土牢の趣きですが、入口に立てば岩窟の中央に座して獅子吼が如く題目を唱える日蓮上人の後姿が暗がりの中に浮かんで来るようで・・・
本堂左手には緋い鳥居が建ち並び、最奥部には経八稲荷大明神が祀られていたの。あれえ〜、日蓮上人は他宗を徹底して排斥したのにお稲荷さんは良かったのかしら?龍口寺の守護神として祀られているのでしょうが、経八稲荷大明神とは聞き慣れないお稲荷さんよね。この祠堂は平成11年(1999)に建てられたものだそうですが、鎮座するようになったのはいつ頃のことなのかしら。ちょっと気になるわね。その経八稲荷堂の左手に続く石段を登ると正面に七面堂が見えて来るの。龍口寺は日蓮上人が鎌倉を離れて入山した身延山久遠寺のミニチュア版の伽藍構成になっているみたいね。
その身延山久遠寺の七面大明神を勧請して祀ったのが七面堂なの。その七面大明神には面白い逸話がありますので、ちょっと紹介してみますね。身延山で聴衆を前に日蓮上人が説法をしていると見目麗しい美女が耳を傾けていたと云うの。山深い身延の地にあって凡そ不釣り合いな出で立ちに弟子や檀信徒達が訝しく思っていると、上人はそれを慮り妙麗の女性に「集まれり我が弟子達が汝の姿異樣に見受けなばその正體を披露すべきか」と告げ、求めに応じて花瓶の水をかけてやったところ、忽ちその姿を龍に変じて居並ぶ信者達を恐ろしい形相で見下ろしたの。
そして「吾は七面山に住す七面天女なり 人皆法華經を讀誦し 吾を祀らば吾身延と法華經を堅護せん」と告げて七面山に飛び去ったというの。そうして上人の入滅後、直弟子の日朗上人と信徒の南部(波木井)実長が七面山々頂に七面大明神を祀ったと云われているの。南部実長は古くから日蓮上人に帰依した信者で、身延山一帯に多くの所領を有していたの。日蓮上人が鎌倉を離れたのも実長の招きがあればこそなの。
七面堂から左手に続く山道を上ると広場に出ますが、仏舎利塔が建てられているの。舎利はサンスクリット語の Sarisa が音訳されたもので、元々は身体を表すことばなの。釈迦の入滅後、残された弟子達は荼毘に附された釈迦の遺骨を八ヶ国に分骨して塔を建てて祀ったの。仏教の流布と共に各地に寺院が建てられ、舎利塔も多く建てられるようになると、釈迦が生前愛用した身廻品なども舎利に見立てて安置されるようになったの。
ねえねえ、そんなにお釈迦さまの遺品て多いの?
幾ら何でもそんなには無いわね。
じゃあ、みんなどうしたの?
牛玉とかお米の種籾を代用品として納めたの。
ねえねえ、牛玉ってなあに?
牛のお腹に出来る結石のことなの。昔は今みたいな医学知識も無かったから結石は貴重品で薬としても使用されていたの。それを一切の願いをかなえてくれると云う如意宝珠に見立てて舎利塔に納めたの。
ふう〜ん。じゃあお米の種籾にはどんな意味があるの?
稲穂は見たことあるわよね?最初は一握りの籾でも田圃に植えるとやがて沢山のお米が出来るでしょう。お釈迦さまの教えもお米と同じように最初は少なくてもやがて皆んなを救ってくれるようにとの願いを込めて納められるようになったの。
そうなんだ。じゃあ龍口寺の舎利塔には何が納められているの?
ごめんなさいね、本当は知らないの。最近では経典を納めることも多いから経典かしら?経典はお釈迦様の教えを凝縮したものよね。そこにはお釈迦様の魂が宿っている−と云うことからお釈迦様の分身として納められるようにもなったの。
俗に寿司御飯のことをシャリとも云うけど本来は別物よ。舎利 Sarira がお米を指す同じサンスクリット語の Sali に発音が似ていることから、お米と舎利が同一視されるようになったの。仏舎利塔が建つ広場からは御覧の眺望が開けるの。嘗ては洋上に浮かぶ江ノ島を望むことも出来たのですが、今は建ち並ぶマンション群の向こうに少しだけ頭を覗かせてくれるだけなの。そのせいか鉄製の小さな櫓が組まれていて上ることが出来るようになってはいますが、その内、仏舎利塔の頂にでも登らなければ江ノ島を見ることが出来なくなってしまうかも知れないわね。
広場を後に再び七面堂迄戻り、今度は右方向に歩くと木立ちの中から五重塔が見えて来るの。建物自体は明治45年(1912)の創建と比較的新しいものですが、威風堂々とした造りはやはり他を圧倒する迫力がありますよね。この五重塔も、そのルーツはお釈迦さまが葬られた墳墓にあるの。陽射しを浴びてはお釈迦さまも暑かろうと、墳墓の上には幾重にも日傘が立てられ、周囲にも基壇が何段も造られたの。その後中国に仏教が伝えられると、楼閣建築と結び付いて、墳墓の基壇は多層屋根に、日傘は相輪に転じたの。
紹介しましたように、最初の頃の塔には仏舎利を納めていたのですが、後には仏像などが安置されるようになったの。サンスクリット語では墳墓を「高く現れる」の意味のステューパ stupa と呼んでいたのですが、卒都婆と音訳されたの。今でもお彼岸などの際には題目が書かれたお塔婆をお墓に添えますが、五重塔もお塔婆も、実は皆同じルーツなの。元々のお塔婆は「ここには仏さまが眠っていらっしゃいますよ」と云う目印だったの。
五重塔からは本堂の右手に降りてくることが出来るの。境内の一角には鐘楼が建てられ、延寿の鐘が釣り下げられているの。この鐘は誰でも自由に衝くことが出来ますのでお試し下さいね。ですが、延命長寿を願うあまり欲をかいて二突き三突きするのは止めましょうね。あなたのそんな煩悩が、逆に寿命を縮めてしまうかも知れなくてよ。エッ?煩悩の数だけ鐘を衝く?それでは除夜の鐘になってしまうわ。清廉にして無欲故の延命長寿と云うことで・・・(合掌)ゴ〜〜〜ン。
5. 昼食(於:かきや)
龍口寺の拝観を終えて江ノ電の線路が併設された道を腰越駅方面に歩いて満福寺へ向かいました。その途中にあるのが かきや さんですが、腰越名物のしらす丼や新鮮な地魚が低料金が食べられる−と云うのでこちらで昼食を。店内は地元の方や行楽客で空席の順番待ちなの。美味しいものは皆さん良く御存知ですよね。お薦めはやはりしらす丼をメインにした「しらす三昧セット」¥1,250ね。
6. 満福寺 まんぷくじ
龍口寺の次に訪ねてみたのが満福寺。檀ノ浦の戦いで勝利を収めた義経は鎌倉を目指しますが、頼朝は義経の鎌倉入りを許さなかったの。その時に滞在したのが満福寺。通りから案内板につられて脇道を入ると江ノ電の踏切間際から続く石段が見えて来ますが、満福寺の参道はまさに線路脇から始まっているの。江ノ電ならではの光景よね。感心して見ている横から現れてくれたのがこの江ノ電よ。
正式な山号寺号は龍護山医王院満福寺で、現在は真言宗大覚寺派の寺院。寺伝に依れば行基が何と!天平16年(744)に開山、中興開山は高範上人とされているの。行基は所謂勧進聖のはしりとも云うべき高僧ですが、その功績が認められて後に東大寺の大仏建立にも関わっているの。残念ながらその完成を待たずして亡くなっていますが、大仏建立以前は朝廷から迫害を受けながらも民衆教化に努め、今でもその功績は各地に残されているの。拝観料:境内自由 但し、宝物&本堂内見学は志納
ねえねえ、行基は庶民救済に奔走したのに何故迫害を受けたの?
当時の仏教は国家護持の手段として天皇を始めとする支配者側のものだったの。朝廷も仏教界も庶民救済なんて頭に無いから「聖道と詐り称して百姓を妖惑」する不届きな輩として弾圧するの。当時は民衆を導くのも天皇で「朕を差し置き、民を愚弄するとんでもねえヤツ」と云うわけ。
そんな中で、聖武天皇は庶民が労役や資金を提供して建てたと云う知識寺を訪ね、そこで運命の盧遮那仏に出会うの。民衆の教化は則ち国家安寧にも繋がるとの理解を得た聖武天皇は、以後、急速に行基へ接近してゆくの。そうして盧遮那仏の威徳を以て、遍く万民を救い、国家を安泰足らしめんと造られたのが東大寺の大仏なの。知識寺は寺院造営や仏像建立など仏道事業を行う知識と呼ばれる人達がいて、彼等の手に依り造営された寺院のことなの。中でも一番大きな存在だったのが行基率いる知識集団だったの。行基は民衆教化に努めながら喜捨を勧め(勧進)、橋や道路の建設など社会事業も行っていたことから、衆徒の中には土木事業に精通する人達も多くいたの。彼等の活躍が無ければ東大寺の大仏も無かったかも知れないわね。
話を元に戻しますね。この満福寺の名を一躍有名にしたのが義経が書いたと云う腰越状なの。義経は悲劇の英雄として数多くの伝説が生れますが、満福寺はその悲劇の始まりの舞台でもあるの。元暦2年(1185)、壇ノ浦の戦いで勝利を収めた義経は平家方の総帥・平宗盛父子を捕虜にして鎌倉に凱旋しようとするのですが、兄・頼朝は義経の鎌倉入りを許さなかったの。行合川では頼朝配下の手勢が行く手を阻み、仕方なく義経は腰越に戻り、頼朝の勘気が解けるのを待ったの。当時の腰越は鎌倉に一番近い宿駅で、高貴な方は満福寺に宿泊するのが普通だったみたいね。
ところで、頼朝は義経の何に怒っていたの?平家を討ち負かせた功労者なのだから、寧ろ歓待すべきじゃないの?確かに義経の戦功に負うところ絶大なのですが、元暦元年(1184)に源義仲を討ち、一ノ谷に平家方を破り、上洛した義経は、頼朝の許可無く、後白河法皇から検非違使や左衛門少尉の官位を得てしまうの。な〜んだ、そんな事なのと片付けてしまってはいけないわ。武士に恩賞を与えるのはその頭領である頼朝以外であってはいけなかったの。武士に依る武士の為の政治を行おうとしていた頼朝にしてみれば、朝廷に隷属するような義経の行動は許せなかったの。
検非違使は非法・違法を検校する検非違使庁の長官で、今で云うところの警察庁長官に当たるかしら。と云っても現在のような民主的なものではなく国家警察なの。一方、宮殿警護を司る役職に衛門府があり、組織も左右に分かれて置かれていたの。少尉はその武官で、天皇が行幸する際には弓箭を背負い身辺警護に当たり、武士としては名誉ある職掌だったわけ。ここでは尉は「じょう」と訓んで下さいね。
折角平家を倒して次の時代を創ろうとしていたのに朝廷からも官位や報償を得られたらまた元の時代に逆戻りしてしまうもの。まして身内からそんな輩が現れては御家人達の手前収拾がつかなくなってしまうの。悲しいかな、戦略に長けた義経も頼朝のような政治的な判断には思い至らなかったの。そうして、一向に頼朝の勘気が解けぬと知った義経は、頼朝の信任厚い公文書別当の大江広元に執り成しの嘆願書を送るの。それが腰越状と呼ばれるもので、満福寺にはその下書きが残されているの。【吾妻鏡】にも腰越状の全文が引用されていますので、その一部を紹介してみますが、仲々の名文ですよね。
或る時は峨々たる巖石に駿馬を策ち 敵の爲に命を亡ぼすを顧みず
あるときはががたるいわおにしゅんめをむちうち てきのためにいのちをほろぼすをかえりみず
或る時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ 身を海底に沈め 骸を鯨鯢の鰓に懸くるも痛まず
あるときはまんまんたるたいかいにふうはのなんをしのぎ みをかいていにしずめ むくろをけいげいのあぎとにかくるもいたまず
しかのみならず甲冑を枕と爲し 弓箭を業と爲す
しかのみならずかっちゅうをまくらとなし きゅうせんをなりわいとなす
本意併しながら亡魂の憤りを休め奉り 年來の宿望を遂げんと欲するの外他事無し・・・(略)・・・
ほんいしかしながらぼうこんのいかりをやすめたてまつり ねんらいのしゅくぼうをとげんとほっするのほかたじなし
偏に貴殿廣大の御慈悲を仰ぐ 便宜を伺ひて高聞に達せしめ
ひとえにきでんこうだいのおんじひをあおぐ べんぎをうかがひてこうもんにたっせしめ
祕計を廻らされて誤り無きの旨を優ぜられ 芳免に預からば 積善の餘慶を家門に及ぼし 永く榮花を子孫に傳へん
ひけいをめぐらされてあやまりなきのむねをゆうぜられ ほうめんにあずからば せきぜんのよけいをかもんにおよぼし ながくえいがをしそんにつたへん
仍って年來の愁眉を開き 一期の安寧を得ん
よってねんらいのしゅうびをひらき いちごのあんねいをえん
満福寺に残る腰越状は弁慶の筆になるもので「敵の爲に命を亡ぼすを顧みず」の文言を義経自らが書き足したために下書きとして残ったものと云われているの。腰越状は【平家物語】の腰越の段にも引用されていますが、両者には若干の文言の違いがあるものの、内容的には同じものですね。義経が万感の思いを託した腰越状ですが、大江広元はこれを黙殺してしまったみたいね。そうして頼朝の勘気の解けぬことを知った義経は、仕方なく腰越を後に再び京へ向かうの。
義経はやがて自分に対する追討令が発せられたことを知り、逃避行が始まるの。探索が厳しく義経は奥州藤原氏を頼り、平泉に向かいますが、秀衡亡き後家督を継いだ泰衡は頼朝の恫喝に怯え、竹馬の友でもあった義経を遂に殺害してしまうの。その馘は美酒に浸されて腰越に運ばれ馘実検されるのですが、その馘は何処に葬られたのかも分からないの。義経の悲劇はこの腰越に始まり、腰越に終わったの。補:馘は藤沢の白旗神社に埋葬されたとする逸話があるの。
堂内の襖には静御前との別れの場面や義経弁慶主従の逃避行の様子を描いた漆画が描かれているのですが、訪ねた時には法事が行われていましたので、残念ながら昇殿しての見学は出来ませんでした。歌舞伎等の演題にも多く取り上げられて人々の涙を誘う義経伝説ですが、それも弁慶の存在あっての物語。安宅の関所のことも、義経が最期を遂げた持仏堂の前で全身に矢を受けながら敵勢を寄せつけぬように仁王立ちした逸話など、史実の程はさておき、聞けば思わずホロリとさせられますよね。
本堂の右手には墓苑への隧道入口がありますが、その右脇に弁慶が腰越状を書く際に水を汲んだと云う、硯の池が残されているの。弁慶が墨を摺っていると池の畔で頻りとコオロギが鳴き、弁慶が「止めよ!」と命じたところ、鳴くのを止めたと伝え、それからというもの、満福寺のコオロギは決して鳴かないのだとか。鎌倉春秋社刊 鎌倉の寺小事典 補:ここではコオロギと云っていますが、本当はマツムシのことね。
本堂の裏手には崖が迫りますが、その崖下には「義経の手洗水」や、行基上人が加持祈祷を行った際に使用したと云う「瑠璃光水の井戸」が残されているの。右端はξ^_^ξのお気に入りで、本堂右手に置かれていた小僧さん。木魚にもたれて夢見心地のお昼寝中よ。純真無垢の穏やかな寝顔には心洗われる思いがしますね。
7. 小動岬 こゆるぎみさき
満福寺を後に再び元の道に戻り、七里ヶ浜方面に向けて歩くとR134に出ますが、相模湾の景観が眼前に広がるの。左端は砂浜に降りて七里ヶ浜を望んでみたものよ。腰越と云えばしらすが有名ですが、砂浜ではそのしらすを天日干しする光景も見られました。ところで、岬の周囲を御覧のような岩が取り囲みますが、岩伝いに一周出来ないものかしら?と様子見をしてみたのですが、やはり無理でした。
しらすの揚がる腰越漁港が小動岬を間にしてこの砂浜とは反対側にあるの。その腰越漁港まで岬の周囲を廻る遊歩道があるのではと密かに期待していたのですが。仕方なくR134を江ノ島方面に歩いて次の目的地の小動神社へと向かいました。
〔 編集余話 〕 太宰治はこの小動岬で最初の心中未遂事件を起こしているの。「その前夜袂ヶ浦で心中があつた。一緒に身を投げたのに男は歸帆の漁船に引きあげられ命をとりとめた。けれども女のからだは見つからぬのであつた」と、後の小説『道化の華』で主人公・大庭葉藏に寄せてその時のことを述懐していますが、お相手の田辺あつみ(本名:シメ子)さんは亡くなってしまうの。太宰ファンの方には申し訳ありませんが、女性だけが亡くなるなんて、ちょっと哀しいわね。
8. 浄泉寺 じょうせんじ
間も無く小動神社の鳥居前に出ますが、道の反対側に朱塗りの門を見つけて訪ねてみたのがこの浄泉寺なの。小動山松岩院浄泉寺が正式な山号寺号で、開山はあの有名な弘法大師こと空海上人と伝えられているの。次に訪ねる小動神社と嘗ては一体の建物で、明治の神仏分離令発布以後も大正7年(1918)まで当寺の住持が小動神社も管理していたそうな。神社を思わせる朱色の山門はそんな背景もあってのことなのかも知れないわね。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
R134に面していながら山門を潜ると車の往来も気にならず、不思議な静寂感に包まれるの。取り立てて見るべきものはありませんが、風情ある佇まいの境内よ。右手に続く道を行けば弘法大師の名が刻まれた石碑と共に、嘗て山門が建てられていたという礎石跡が残されているの。R134が造られる以前は腰越通りが幹線道路で、こちら側に山門が建てられていたのね。往時には本堂もその腰越通りに向かって建てられていたと云うの。
9. 鬼子母神堂 きしぼじんどう
R134を挟んで浄泉寺の反対側には小動神社の鳥居が建てられているの。その鳥居の左側の木立ちの下に小さなお堂を見つけて覗いてみたのですが、中には鬼子母神が祀られていたの。その名から何やら恐ろしい鬼神を想像してしまいがちですが、鬼子母神は幼児を擁護することから、安産・子育てに霊験灼かな神さまとして崇敬されているの。でも、最初はあなたがお察しのように、人肉を喰らう怖〜い鬼神だったの。けれど、その彼女も人間と同じように母親でもあったの。彼女が鬼神から善神となったその切っ掛けは、お釈迦さまの手になる誘拐事件。え?あのお釈迦さまが誘拐事件?嘘でしょ、そんなの。まあ、それは読んでみてのお楽しみよ。
鬼子母神は元々はインドの神さまでハーリティー Hariti と呼ばれていたの。優しそうな名前とは裏腹に夜叉神の一族で、同じ鬼神の般闍迦(はんじゃか)に嫁ぎ1,000人(!)ものこどもを産むの。そんな大勢のこども達を食べさせるのはた〜いへん。夫婦揃って人間界のこどもをさらってはその肉を我が子達に分け与えていたの。ところが、こどもをさらわれる人間の方はたまらないわよね。泣き叫び、挙げ句の果てに狂乱する母親や、悲嘆に暮れるあまり病に伏せてしまう母親も多くて、次はうちの子がさらわれる番かも知れないわ−と不安で不安でしょうが無かったの。その後もこどもさらいは一向に減る様子が無くて。そんな時、耳にしたのがお釈迦さまの噂なの。ハーリティーから我が子を救う方法がありましたら、是非お教え下さいと、お釈迦さまを訪ねて相談してみたの。
嘆き悲しむ母親達の願いを哀れとお思いになったお釈迦さまは、こどもを失う母親の悲しさを悟らせるために、彼女が一番可愛がっていた末っ子のピンガラを隠してしまうの。最愛の愛児がいなくなり、さすがの彼女も悲しみに暮れてしまうの。そして、同じようにしてお釈迦さまに救いを求めるの。そんな彼女を前にしたお釈迦さま、1,000人ものこどもを持つお前が、たった一人の我が子がいなくなったというだけで、それだけ悲しい思いをするのだ。ましてやほんの数人しかいない我が子をさらわれた母親の悲しみ、苦しみが、今のお前に分からぬはずはあるまい−そう諭されたの。そうして、彼女の子供達には人肉の代わりにザクロを食べさせるように諭すの。彼女は今までの罪滅ぼしのために人間界のこども達を永遠に守ることを誓い、ようやく我が子を返して貰うの。すっかり改心した彼女は、こども達を守る一方で、仏法を護持する神さまにもなったの。
ザクロは人肉の味がするという巷の風評は、この逸話に由来するの。鬼子母神はハーリティーが音訳され、訶利帝母(かりていも)とも呼ばれますが、その像の多くが左手に幼児を抱き、右手にはザクロの実を持つ天女の姿で描かれ、その腕に抱かれる最愛の末子・ビンガラは音訳されて、氷掲羅天(ひょうぎゃらてん)と呼ばれているの。
10. 小動神社 こゆるぎじんじゃ
江ノ島弁財天堂に祀られる弁天さまは琵琶を抱え、羽衣どころか一糸纏わぬお姿をされているの。
盛綱にはそのお姿が見えなかったのでしょうね。見えていたら眼が潰れていたかも知れないわね。
佐々木盛綱は鎌倉幕府創成期に活躍した武将で、平治元年(1159)の平治の乱では源義朝に与して敗れ、父の秀義と共に相模国渋谷荘に下り、伊豆に流されていた頼朝を支えるの。頼朝挙兵の際には逸早く参陣し、寿永3年(1184)には西走する平家を追い、備前国(現・岡山県)児島で平清盛の孫の行盛軍を破り、一躍名を馳せるの。頼朝の存命時には伊予や越後の地頭職に任ぜられ厚遇されますが、頼朝の死去に伴い剃髪出家しているの。晩年は所領を没収されるなど不遇だったみたいね。
多紀理毘売命=たきりひめのみこと(田心姫=たごりひめ)
市寸島比売命=いちきしまひめのみこと(市杵島姫)
多岐都比売命=たぎつひめのみこと(湍津姫命)
補:( )内は【日本書紀】での表記
次に素戔鳴尊が天照大神から身に着けた玉飾を貰い受け、噛み砕いて生まれたのが下に掲げる五男神。ところが、天照大神は素戔鳴尊に「五人の御子は自分の持ち物から生まれたのだからわたしの子よ。先に生まれた三神はあなたの剣から生まれたのだからあなたのこどもよ」と区別しているの。五柱の御子はその後各地で国造の祖となりますが、大和朝廷の覇権拡大に合わせて創られた逸話なのでしょうね、きっと。
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命=まさかつあかつかちはやびあめのおしほみのみこと
天之菩卑能命=あめのほひのみこと
天津日子根命=あまつひこねのみこと
活津日子根命=いくつひこねのみこと
熊野久須毘命=くまのくすびのみこと
最初に生まれた天之忍穂耳命の何と長名なこと。ξ^_^ξは一度で読めませんでしたが、早口言葉の練習には最適かも知れないわね。御子の名は、素戔鳴尊が我が意の託宣を得たりとばかりに「正に吾勝利す」と悦んだことから名付けられたの。でも何に勝ったの?それは天照大神と素戔鳴尊の誓約。一体何を賭けたの?と気になった方は【記紀】を御読み下さいね。
【日本書紀】では十拳剣は天照大神のもので、三女神は天照大神の御子として、五男神は素戔鳴尊の角髪に結ぶ玉から生まれたことから素戔鳴尊の御子としているの。【古事記】では素戔鳴尊の御子が女神だったことから勝利を収めますが、【日本書紀】の方では、逆に五男神が生まれたことで勝利宣言しているの。【古事記】が女性上位なら【日本書紀】は男尊女卑ね。因みに【古事記】は天武天皇が太安万侶に命じて稗田阿礼の誦するところを記録したものですが、阿礼は実は女性だったとする説があるの。真偽の程は不詳ですが、叙事詩的な語り口は女性ならではのものかも知れないわね。阿礼が女性なら女性上位も頷けますよね。
小動神社には素戔鳴尊、日本武尊、建御名方神の三神が祀られているの。素戔鳴尊や日本武尊の名はすっかり御馴染みですが、建御名方神とは聞き慣れない神さまですよね。【古事記】では天照大神が前述の天之忍穂耳命に葦原中国を統治させようと、使いを派遣して従属させようとするのですが、荒ぶる神さま達が多く、悉く失敗してしまうの。思案の末に派遣されたのが建御雷之神と天鳥船神。補:葦原中国=あしわらのなかつくに(実際は出雲を指すの)
建御名方神=たけみなかたのかみ
建御雷之神=たけみかづちのかみ (武甕槌神とも書き、茨城県・鹿島神宮の祭神)
天鳥船神=あめのとりふねのかみ
建御雷之神はその名が象徴するように、雷神で刀剣の神さまなの。当時は雷は船に乗り、地上と天空を往来すると信じられ、建御雷之神が葦原中国に降臨するためには、天鳥船神の存在が必要不可欠だったわけ。そうして二神は出雲の小濱に降り立ちますが、その時葦原中国を治めていたのが因幡の白兎神話でも有名な大国主命なの。その大国主命に「この葦原中国は御子の天之忍穂耳命こそが治めるべきものと天照大神が申しておるが、そなたはどうじゃ?」と詰め寄るの。
大国主命と御子の事代主命は国譲りに同意するのですが、もう一人の御子・建御名方神はそれを聞きつけ、引くには千人は必要な大岩を携えて二神の前に現れるの。そうして「どこのどいつじゃ、オレさまの土地に来てコソコソと戯れ言を云っているヤツは?何なら力比べしようじゃねえか」と云って相手の建御雷之神の手を取ったところ、建御名方神の身体は忽ち氷柱となり、腕は剣の刃にされてしまうの。
ビックリして後退りした建御名方神の手を今度は建御雷之神が掴むと葦を引き抜くように建御名方神の身体を軽々と投げ飛ばしてしまったの。こりゃかなわん−と建御名方神はその場を逃げ出して信濃国(現在の長野県)諏訪湖に逃げ延びますが、追い詰められて「どうか命ばかりは御助けを。この土地からは一歩も踏み出しませんし、父・大国主命が申したようにこの葦原中国は天照大神の御子・天之忍穂耳命に差し上げましょう」と約束させられてしまうの。以上が【古事記】の大国主命の国譲りの段に描かれる逸話ですが、建御名方神の扱いはボロボロよね。
But 裏を返せばそれだけ建御名方神には強い力があり、無理にでも屈伏させたという物語を創る必要があったの。建御名方神は大国主命の系譜には無い神さまですが、それもそのハズで、元々は諏訪地方に祀られる一地方神だったの。諏訪神社の縁起譚に依れば、諏訪地方にやって来た建御名方神が在来の自然神を初め、地主神や諏訪湖にひそむ龍神などを支配下に置いて、後に諏訪神として祀られるようになったと伝えますので、征服者が神格化されて在来神と習合されていったものなのでしょうね。
その諏訪神も後に荒ぶる神として武神に変身するの。周囲を山に囲まれた諏訪では狩猟も盛んで、諏訪神は狩猟の神としても崇められ、その神霊は狩猟の弓矢に宿ると信じられるようになったの。鉄砲なんて無い頃の戦闘は専ら弓矢に負うところが多く、部族対立や戦闘の中で弓矢に宿るという諏訪神に、その戦勝を祈願するようになったのでしょうね。鶴岡八幡宮編 で紹介した神功皇后伝説の中で、新羅征伐の際には神功皇后はその諏訪社に戦勝祈願をしているの。と云うか、八幡神と共にその諏訪神も動員しているの。記紀編者の目論見とは裏腹に、無視出来ないほど武神としての信仰を集めていたと云うわけね。そうして鎌倉時代になると諏訪神は八幡神と並び、武神・軍神としての地位を不動のものとするの。
社殿左手には綿津見神(わたつみのかみ)を祀る海神(わたつみ)社が鎮座するの。綿津見神は船玉神(ふなだまのかみ)とも呼ばれるように、漁業・航海の安全を司る神さま。黄泉国から逃げ帰った伊邪那岐命は筑紫国の阿波岐原の河口で禊祓いをしますが、身につけていたものから多くの神々が生まれているの。着衣を脱ぎ捨てた伊邪那岐命が川の中で身体を清めた時に住吉三神と共に生まれたのが底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神なの。元々は一柱の綿津見神も政治的な思惑から三神に分身させられたの。
因みに、伊邪那岐命がその後左眼を洗った時に生まれたのが天照大神なの。
影の薄い綿津見神ですが、天照大神のお兄さんだったのね。
その神話の原型になったのではないかしら?と思わせるのが三重県鳥羽市の石鏡で昭和30年頃迄続けられていたと云う垢離(こり)かき神事。元旦の早朝、村人達は老若男女を問わず一糸纏わぬ姿となり海水に浸かり沐浴し、日の出と共に太陽に向かい礼拝して一年の幸を祈念したと云うの。総ての穢れはやがて海に流されると信じられていた一方で、海は人々に恵を齎し、この世を遍く照らしてくれる太陽は万物の生長には無くてはならないもの。人智を越えた存在に人々はそこに神の存在を認め、そのエネルギーを一身に受け止めようとしたの。残念ながらその神々しい神事も好奇の目に曝されるようになり廃れてしまったの。
龍王なのに亀とは変に思われるかも知れませんが、亀も龍も同じく水を司る神として信じられていたの。亀は海と陸地を取り繋ぐ神でもあり、浦島太郎の昔話に象徴されるように、龍宮伝説でも重要な役割を担っていますよね。小動岬の隣は腰越漁港。漁師の皆さんが海神龍王に航海安全を祈願するのも当然のことですよね。それにしても大国主命が亀に変身なされていたとは。竜宮城の主は大国主命だった?じゃあ乙姫さまは?
赤い鳥居側は稲荷社で、祭神は稲荷神こと宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)ね。倉稲魂命とも書き、元々は食を司る神さま。ここでは猿田彦神と天細女命(あめのうずめのみこと)が併祀されているの。猿田彦神は天孫降臨の際に道案内役を務めた神さまで、その容貌は天狗のルーツとも云われているの。一方、天細女命は天照大神が岩戸に隠れた際に神懸りして舞い、天照大神を誘引していますが、その舞いは神楽の原型とも云われ、技芸の祖神でもあるの。
そして金刀比羅宮や稲荷社から離れて木立の蔭に隠れるようにして祀られているのがこの第六天社。第六天とは淤母陀流神(おもだるのかみ)のことで、神世七代の六代目に生まれた神さま。【日本書紀】では面足尊と記され、総てが整い揃ったことを表す神名なの。第六天の呼称は淤母陀流神が仏教の三十三天の六番目の天部に比定されたことに依るの。建長寺近くの第六天社は建長寺の守護神として祀られていますが、此所では諸願成就の神さまとして祀られているの。
海側にある展望台からは相模灘に浮かぶ江ノ島が見えるの。幕末には黒船来航に合わせて小動岬にも砲台が設営されたと聞きますが、江ノ島に祀られる弁天さまも砲身が向けられていては肝を潰していたかも知れないわね。歴史なんて興味無いわと云うあなたも、是非この眺めをお目当てに小動神社にお出掛け下さいね。江ノ島に向かい手を合わせれば、弁天さまが飛来してあなたに金運を齎してくれるかも知れませんよ。えっ?来ないかも知れないじゃん?心配な方は江島神社に押し掛けましょうね。
風光明媚な小動岬からの眺望を瞼に収め、江ノ島弁財天に金運招来の念力(笑)を送ったところできょうの散策も終了。腰越通りを歩いて腰越駅に戻りました。以降は後日再訪した際の散策記で、云わば腰越散策の番外編となるの。七里ヶ浜の霊光寺や稲村ガ崎を訪ねてみましたので興味のある方は引き続きお付き合い下さいね。
11. 諏訪神社 すわじんじゃ
龍口寺輪番七ヶ寺の内の五ヶ寺の一つ、本成寺を訪ねる途中の道筋で見つけたのがこの諏訪仮宮なの。祭神は建御名方神で、現在は小動神社に合祀されていると云うの。小動神社が腰越地区の鎮守として村社に列格されたのは明治6年(1873)のことですから、きっとその時に遷宮されたのでしょうね。小動神社に建御名方神が祀られる理由がここにあったのね。But 仮宮と称している割には立派な社殿よ。建物にしても近年に再建された様子が見て取れ、小動神社に合祀された今でも腰越地区では昔の儘にお祀りしているみたいね。
12. 本成寺 ほんじょうじ
13. 勧行寺 かんぎょうじ
14. 妙典寺 みょうてんじ
妙典寺は延慶元年(1308)に同じく日蓮の弟子・美濃阿闍梨天目上人に依り開山されたものですが、岩山を切り開いて創建されたことから、嘗ては「腰越の谷戸寺」とも呼ばれていたと伝えられているの。建物自体は新しいものですが、次に紹介する東漸寺と共に、狭い谷(やつ)を分かちながら端正な佇まいを見せているの。
15. 東漸寺 とうぜんじ
東漸寺は正平7年(1352)に下総国(現・千葉県市川市)の中山法華経寺の日東上人がこの地に開山したもので、山門の薬医門が一際目を惹きますが、山門を潜り抜ければここにも落ち着いた静かな佇まいの境内が広がるの。薬医門の傍らには小さな石碑が建てられ、薬医門建立の由来が記されていたの。それに依ると、薬医門は昭和55年(1980)に建てられたもので、龍口寺門前で和菓子屋さんを営む上州屋の先代・新倉守蔵氏が奥様の喜代子さんが52歳の若さで早逝されたことを痛み、その菩提を弔うために建立されたものなの。守蔵氏は併せてこの山門を潜り参詣する人達が投薬を受けずとも等しく長寿が得られるようにと祈願して、この薬医門を選んだと云うの。
そこには生前の喜代子さんが守蔵氏に愛されながら二人して店を切り盛りする姿も瞼に浮かんでくるようで、思わず目頭が熱くなってしまう由来記ね。
16. 本龍寺 ほんりゅうじ
他の四ヶ寺とは少し離れて建つ本龍寺は、龍口寺輪番八ヶ寺の中では一番古い創建で、乾元元年(1302)、妙音阿闍梨日行上人に依り開山されたもの。嘗てこの地には比企大学三郎高家の屋敷が建てられていたと伝えられるの。高家は比企氏一族で【新編相模国風土記稿】では比企能員(よしかず)の末子・能本(よしもと)に比定していますが、別人とする説もあり、確かなところは分からないの。比企の乱で一族は北条氏の手に依り滅ぼされますが、京に修行していた能本は難を逃れ、後に父・能員の屋敷跡に 妙本寺 を創建しますが、本龍寺はその妙本寺末でもあるの。
17. 腰越庚申塔 こしごえこうしんとう
五ヶ寺の拝観を終えてR304を跨ぎ、裏道を龍口寺目指して歩いてみました。沿道両脇に静かな住宅街が続きますが、その途中で見つけたのがこの石塔群なの。最初に目にしたときには、瀟洒な住宅街の中に忽然と現れた異次元世界の印象だったの。
石塔群には墓塔も混じりますが、馬頭観音の文字を刻むことから 庚申塔 ね。忿怒の形相で描かれる馬頭観音の像容は日本人には余り好まれなかったようですが、馬の文字を冠することから単純に農耕馬と結び付いて馬の守り神となり、転じて農耕の神として崇められるようになるの。トラクターや耕運機などの農業機械が無い時代のことですから、飼馬は貧しい日々の暮らしの支えだったの。人々は自分の飼馬が病に倒れぬようにと馬頭観音に祈ったの。
左端は庚申主尊の青面金剛を刻む庚申塔で、寛政5年(1793)の銘がありますので、江戸時代中頃に建てられたものね。中央の石塔は中心に堅窂大地神と彫られ、両脇には天下泰平・五穀豊穣の文字が刻まれているの。数々の異名を持ち、数多くの英雄伝説を以て語られる大国主命ですが、別称の一つに大穴牟遅神(おおなむちのかみ)が挙げられるの。そこでは大地の神・農耕神としても崇められているのですが、この石塔はその大穴牟遅神を祀るものなの。
右隣には道祖神の文字を刻む石碑が建てられていますが、昭和6年(1931)と刻まれていますので庚申塔が道祖神とすっかり同一視されるようになってからのことね。その右脇には庚申供養塔が建てられていますが、こちらは弘化3年(1847)とありますので江戸時代の後期に建てられたものね。興隆当時は青面金剛や三猿を刻むなど、技巧を凝らした庚申塔も、この頃になると経済性が優先されて簡素な造りになるの。庚申待ちの主眼もやがて飲めや歌えやに置かれるようになり、庚申塔彫像の経費は飲食代に消えてしまったの。
医療技術の進歩に合わせて庚申信仰も衰退し、今では庚申塔が建てられることも無くなりましたが、苔むす儘に朽ち行く石塔を見やれば、古の人々が日々の安寧を願い、頭を垂れて合掌する後姿も瞼に浮かんで来るの。
余談ですが、道祖神は峠の分岐路や村の境界に多く祀られるように、元々は悪鬼の侵入を防ぎ、流行り病や災禍から村を護る守り神として祀られたの。また、悪霊の侵入を阻止する一方で、村境を通る旅人の守り神としても崇められるようになったの。当時の旅は今と違い、まさに死と隣り合わせ。怪我や疫病に倒れ、見知らぬ土地で命を亡くすことも多くあり、無事故郷の村に帰れますようにと祈ったの。一方、庚申塔も疫病は異界からやって来ると信じられていたことから境界に建てられることが多く、両者は次第に同一視されるようになったの。
庚申塔に続いて小堂が建てられていますが、中には御覧のように六地蔵が祀られているの。地蔵菩薩は釈迦の入滅後、次の弥勒菩薩が仏として現出するまでの無仏期間(56億7千万年!)に現われて衆生を救済すると云われる有り難〜い存在なの。お地蔵さんは六道の辻に立ち、亡者を救済してくれることから、鎌倉時代になると十王思想と結び付き、六道、とりわけ地獄道に於ける救済を求めて広く六地蔵として祀られるようになるの。十王思想?なあにぃ〜それ?と云う方は 円応寺 の項を御笑覧下さいね。但し、日頃の行いに自信がある方だけにして下さいね。
六道とは天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄のこと。お地蔵さんは我が身を六つに分かちて各々の辻に立ち、艱難辛苦から迷える衆生を救済してくれると信じられるようになったの。結界の地でもある寺院の境内や墓地の入口などはその六道に通ずる辻と見做されて、六地蔵が祀られるようになるの。この六地蔵が祀られる小堂の先にも墓苑が広がっているの。
18. 霊鷲寺 りょうじゅじ
19. 法源寺 ほうげんじ
霊鷲寺の門前を過ぎて程なく道端に御覧の法源寺の石標が見えて来るの。鎌倉ではぼたもち寺と云うと、大町の 常栄寺 のことを指しますが、この法源寺もまたぼたもち寺と呼ばれているの。日蓮上人にぼた餅を捧げた桟敷尼の実家の菩提寺でもあったことからそう呼ばれるようになったとの説もありますが、石碑に誌される由来記には違う物語が展開されていますので、皆さんにも脚色して紹介してみますね。
むか〜し昔のことじゃ。鎌倉に幕府と云うもんが開かれておった時のことじゃ。八幡さんの隣に源氏山という小高い丘があるんじゃが、そこからは材木座の海岸がよう見えてのお。その頃は未んだ和賀江嶋と呼ばれておったんじゃが、異国の品々を運んでくる船や材木を積んでくる船やらで大賑わいじゃった。そんなんで源氏山から港の入り船出船を見物する者も多くおってのお、その見物客相手に茶店を出していた婆さまがおったんじゃ。暮らし向きはよう無かったんじゃが、日頃から法華経の題目を唱えておってのお、日蓮上人さまの説法には欠かさず足を運ぶほどの帰依者じゃった。
そんなある日のことじゃった。日蓮上人さまが幕府に捕らえられてしまってのお、自分の主張は決して曲げなかった上人さまじゃ、とうとう打ち馘の刑に処せられることに決まったのじゃ。そん頃の龍の口には処刑場があってのお、そこで打ち首と云うことになったのじゃ。そうして日蓮上人さまは馬に乗せられてのお、この龍の口に連れて来られたのじゃ。
その途中でのことじゃ。自分ちの前を通る過ぎようとする一行に、事の次第を知った婆さまは最期の供養にと家に駆け込むと、握り飯を抱えて日蓮上人さまの後を追ったのじゃ。ところがじゃ、すっかり慌てた婆さまは上人さまに声を掛けた途端に躓き転んでしまってのお。折角の握り飯が砂まみれになってしもうた。だけんども日蓮上人さまは婆さまの心遣いを殊の外喜んでのお、警護の者の許しを乞うと、砂まみれの握り飯を嬉しそうに頬張ったのじゃ。そうして日蓮上人さまは婆さまに礼を告げると再び刑場へと向かったのじゃが、御仏の御加護があってのことじゃろうのお、赦されて佐渡配流で済まされたそうじゃ。
その婆さまじゃが、亡くなるとこの法源寺に懇ろに葬られたと云うことじゃが、日蓮上人さまが法難にも関わらず生き長らえたことに因んでのお、いつの頃からか婆さまの差し出した握り飯は「延命のぼた餅」とか「御難除けのぼた餅」と呼ばれるようになってのお。婆さまの供養にと、9/12には握り飯がぼた餅として皆に振る舞われるようになったのじゃ。
石標から続く坂道の先に見えてくるのがこの本堂なの。法源寺も龍口寺輪番八ヶ寺の一つで、先に紹介した本龍寺と同じく、妙音阿闍梨日行上人が開山したもので、その創建は嘉元元年(1303)と伝え、本龍寺が兄貴分なら法源寺は弟分と云ったところかしら。本堂右手にはサルスベリが植栽され、緋い花が少しだけ咲き始めていましたが、満開の頃には見事な景観を披露してくれそうね。余談ですが、地図の上では法源寺の石標が建つ辺りを、かなり蛇行はしますが、鎌倉市と藤沢市の市境が走るの。この法源寺の門前を過ぎれば龍口寺は目と鼻の先よ。
20. 扇屋 おうぎや
江ノ島駅に戻る途中、龍口寺の前で江ノ電車両が店先から今にも飛び出して来そうな光景に出会い、あれは一体なあ〜に?と気になり、訪ねてみたのが江ノ電もなか本舗・扇屋さん。店内には江ノ電グッズが所狭しと飾られて、肝心の商品のもなかが申し訳程度のスペースに。御主人の御尊顔を拝することは出来ませんでしたが、奥様が店先のお菓子で作られたと云う江ノ島のミニチュアを指さして「仕事そっちのけでこんなのばっかり作ってて困るんですけどねえ〜」(笑)
この江ノ電車両も運んで来てから此所に据えるのに3時間以上も掛かって、もう大変だったんですよ〜。そう云いながらも笑顔の絶えない奥様でしたが、御主人の趣味も奥様の懐の深さに支えられてのものなのでしょうね。扇屋さんのお薦めはやはりもなかの詰め合わせ。小箱に入った一口サイズのもなかで抹茶やゆず風味、チョコレート味のもなかが入っているの。勿論、その小箱も江ノ電車両を模したもので、上部には切符がデザインされているの。甘いものには目がないあなたのみならず、江ノ電ファンなら見逃せない逸品ね。
21. 謎の石標 なぞのせきひょう
七里ヶ浜駅で下車したのなら大海原を前にして潮風に吹かれて深呼吸してみたいところですが、今回の散策の目的は飽くまでも史蹟めぐり。後髪を引かれつつ海岸とは逆方向に歩き始めました。程無く小さな公園が見えて来ますが、その手前に建てられていたのがこの石標なの。南無妙法蓮華経・行合川と刻まれているだけですので、由来の程は分からないのですが、下側には本所の文字も見えているの。これで終わりにしてしまっては御読み頂いている皆さんに申し訳ありませんので推理してみました。南無妙法蓮華経・行合川・本所の三つのことばから見えてくるものは・・・
一. 南無妙法蓮華経
これについては改めて説明する必要も無いわよね。
法華経の題目ですから、日蓮上人に因む何等かの霊蹟であることが分かりますよね。
二. 行合川
これはキーワードですね。これが見えてくるとこの石標の正体が分かるような気がしますよね。エッ?何勿体ぶってんだって?まあそう焦らずに。行合川の行合は行き合いのこと。じゃあ、何と何が行き合ったの?賢明な皆さんであれば既にお分かりですよね。龍ノ口刑場跡のところで書きましたように、龍ノ口法難の際には題目を唱える日蓮上人目掛けて電光石火の光り物が飛来して、首切役人の振り上げた刀が折れてしまい、首切役人は元より、周囲の検番役の武士達も皆一様に畏れおののき処刑は中止になるの。
怪異現象に畏怖した平頼綱は、事の次第を告げて指示を仰ぐ急使を御所に走らすの。今まさに日蓮が馘を切り落とさむ際の奇怪なり 強いて之を斬らば天地鳴動し魑魅魍魎百出したらんか−と云ったところかしら。一方、将軍御座所でも閃光を発する巨星が雷鳴轟かせ上空を駆け抜けていったことから月天子の出現と見做され、処刑中止の急使が派遣されるの。そうして互いの急使が出会ったのがこの行合川なの。川の名はその逸話に由来するものだったのね。But 日蓮上人の龍ノ口の法難の逸話は後世の造作に依るもので、龍口寺の土牢(御霊窟)に監禁されるなど、実際には幾つかの段階を経て執り行われているの。減刑されて佐渡配流となるのも御台所の懐妊に伴う恩赦と云われ、史実としてはゆったりとした時間の中で事は進められたみたいね。
三. 本所
と云うことで、ここまで来ると残された本所を改めて説明するまでもありませんが、一応能書きを。辞書を紐解くと「ほんしょ=当所・此の所」とありますので、「ここよ、ココ。この場所なのよお〜」と云うことね。因みに、「ほんじょ」と訓むと荘園領主とか本家の意味になってしまうの。ξ^_^ξはずっと「ほんじょ」と訓んでました。深い積もりで浅いのが知識−ね。
以上のことから、この石標は日蓮上人の龍ノ口の法難に際し、互いの急使が出会った、正にその場所を示すものと云う結論となるのですが、どうかしら?間違っていたらごめんなさいネ。
石標を後に歩みを進めると正面に坂道が見えて来ますが、間違ってもその坂道を登ってはダメよ。左手に続く平坦な道の方を選んで下さいね。道なりにしばらく歩くと日蓮聖人雨乞霊跡道と刻まれたこの道標が見えて来るの。視線を左に転ずれば坂道が見えますが、今度はその坂道を上りましょうね。掲載写真では左方向になるの。余談ですが、この辺りはリッチな方々が多く住んでいらっしゃるようで、短い間にも見慣れない海の向こうの車がエンジン音を唸らせて坂道を駆け登って行くの。由比ヶ浜の由比ヶ浜たる由縁ね。
その坂道を登りきると右端の脇道が右手に見えて来ますが、傍らには御覧の石柱が建てられているの。その石標に引き続き、日蓮上人祈雨旧跡の石碑があるのですが、入口からは見えない位置に建ちますので見逃さないようにして下さいね。
22. 霊光寺 れいこうじ
霊光寺は日蓮上人祈雨の霊蹟とあって、総てが雨乞いの逸話に関係するの。
なので、先ず最初にその逸話から紹介してみますね。
鎌倉に幕府が開かれると為政者や御家人達の帰依を得て禅宗や念仏宗などの鎌倉新仏教が隆盛するの。勿論、日蓮宗もその一つよね。一方の旧来仏教でも新仏教の擡頭に危機感を募らせ、こりゃ負けちゃあおられんわいと、鎌倉に下向して来て布教を始めたのが南都仏教の流れをくむ真言律宗の忍性(にんしょう)上人なの。51歳で極楽寺を開創すると、施薬悲田院を造るなどして貧民救済にあたり、極楽寺切り通しを開削するなど、社会事業も精力的に行うの。幕府からは築港された和賀江島の管理を委ねられるなど大いに信任を得るの。
そんな中で文永8年(1271)大旱魃に襲われ、飢饉を恐れた幕府(執権・北条時宗)は忍性上人に降雨の祈祷を命ずるの。それを好機到来とばかりに忍性上人に挑戦状を送りつけたのが日蓮上人と云うわけ。日頃から公然と他宗を排斥して憚らない日蓮上人にしてみれば、律国賊の忍性上人が幕府の信任を得ているのが何としても許せなかったの。「忍性七日の内に雨降らせなば日蓮は忍性の弟子たらん 能わずば日蓮が弟子となるべし」と挑戦を受けた忍性上人は、120余人もの弟子達を総動員して雨乞いの祈祷を始めるの。そうして忍性上人は頭から煙を出しながら(笑)必死に祈願するの。忍性上人は7日間祈祷を続けるのですが、降雨の兆しは見えず、更に7日間の延長戦に臨みますが、結局、一滴の雨粒さえ降らせることが出来なかったの。
そこで「忍性が虚妄此所に極まれり」と忍性上人に代わり、日蓮上人が題目を唱え始めると俄に雨雲湧き起り、雷鳴と共に大雨が降り出し、その雨も三日三晩にわたり降り続いたの。法華経の題目が八大龍王の歓喜を呼び、日蓮上人を助けたと云うの。その雨乞いの舞台となったのが田辺ガ池で、それ以来「雨乞いの池」と呼ばれるようになったの。八大龍王とは難陀・跋難陀・阿那婆達多・沙伽羅・徳叉迦・摩那斯・優鉢羅・和修吉の八龍王のことで、元々は異教の神々が仏教を護持する眷属になったの。古代インドでは大蛇でしたが中国では龍に変身。水中にひそみ、雨を呼ぶ魔力を持つと信じられ、釈迦降誕の際には難陀・跋難陀の二龍王が空から甘露の雨を降り注いだと云われているの。
山門には龍王山の扁額が掛けられていますが、前述の八大龍王に因み名付けられた山号よね。霊光寺の正式な開創は昭和32年(1957)と新しいのですが、明治の末に初代住持となる方が田辺ガ池周辺を調査した際に、日蓮大菩薩祈雨之旧跡地と記された石標を発見したことからこの地に本堂を建てて日蓮上人像を祀ったの。残念ながらその田辺ガ池もその後埋め立てられ、現在は自然に任せた草茫々状態なの。住み処を失った龍王は今何処(いずこ)?ね。
境内に続く石段の先には田辺ガ池を前に遙か相模湾を臨みながら題目を唱える日蓮上人の祈雨像が建てられているの。祈祷なんかで雨が降る訳ねえじゃんかよ〜と、現代人であれば一笑に付してしまう逸話も、気象衛星などの観測機器はおろか、自然科学の概念すら無かった当時は、降雨も龍神の為せる業と信じられていたの。時代は遡りますが、弘法大師こと空海上人も勅命を受けて神泉苑に乞雨祈願を行い、降雨に成功しているの。その際に空海上人は善女龍王と呼ぶ龍王も現出させているの。
霊光寺を後に再び七里ヶ浜駅に戻りましたが、霊光寺に向かう際には背にした海岸も、帰り道では誘惑に負けて少しだけ寄り道してみました。砂鉄を含む黒い砂浜が遙か向こうの小動岬まで続き、洋上には江ノ島が浮かびます。気が済んだところで七里ヶ浜駅へ向かい、次の稲村ガ崎を目指しました。因みに七里ヶ浜の実際の長さは僅か2Km足らずですので、七里(≒28Km)と云うのは嘘ね。当時は六町で一里としたことから七里となり、それに因むとする異説もあるのですが、ここでは実際の長さと云うよりもフィーリングね。
23. 稲村ガ崎 いなむらがさき
左掲は江ノ電の稲村ガ崎駅ですが、嘗てはこの辺りからも七里ヶ浜の海岸線が見えていたのでしょうが、今では民家が密集して何も見えないの。時折、民家の軒先から稲村ガ崎の頂上だけが見え隠れしますが、遠くから眺めた際に稲藁を積み上げた稲叢(いなむら)の形に似ていることから名付けられたと云うの。けれど、R134に抉られた今となっては似て非なるものの面持ちね。
傳へ奉る 日本開闢が主 伊勢の天照太神は
つたへたてまつる やまとかいびゃくがあるじ いせのてんしょうたいじんは
本地を大日の尊像に隱し垂跡を滄海の龍神に呈し給へりと
ほんぢをだいにちのそんぞうにかくし すいじゃくをさうかいのりゅうじんにていしたまへりと
吾が君は其の苗裔にして逆臣が爲に西海の浪に漂ひ給ふ
わがきみはそのびょうえいにしてぎゃくしんがためにさいかいのなみにただよひたまふ
義貞今臣たる道を盡さんが爲 斧鉞を把りて敵陣に臨む
よしさだいましんたるみちをつくさんがため ふえつをとりててきじんにのぞむ
其の志 偏に王化を資け奉りて蒼生を安から令むところなり
そのこころざし ひとへにおうかをたすけたてまつりてさうせいをやすからしむところなり
仰せ願はくは 内海外海の龍神八部
おおせねがわくはないかいげかいのりゅうじんはちぶ
臣が忠義を鑒て 潮を萬里の外に退け 道を三軍の陣に開き令しめ給へ
しんがちゅうぎをかんがみて うしほをばんりのそとにしりぞけ みちをさんぐんのじんにひらきせしめたまへ
そうして義貞は、自らの腰に差す黄金の太刀を海中に投じたの。果たしてその夜月が傾く頃に稲村ガ崎の海岸は二十余町にも亘り潮が引いたと云うの。海上の幕府側の軍船も遙か沖に追い遣られて「六萬餘騎が一手に成りて 稻村が崎の遠干潟を眞一文字に懸け通り 鎌倉中へ乱れ入る」と、悠然と軍馬を進めたの。一町を仮に109mとすると、何と2Km以上(!)も海岸線が沖合いに遠ざかったことになり、横一文字の隊列となり進軍したなんて、そんなアホな(笑)と思いますが、ここでは余り深くは追究しないようにしましょうね。先程触れましたように、七里ヶ浜の実際の長さは2Km程で、二十余町に相当しますよね。恐らくはその七里ヶ浜を隊列を組んで鎌倉入りする義貞軍の縦横を取り替えて伝説化したのでは?(<=勝手な推論モード)
ここでタイムマシンの時間を少しだけ遡らせて下さいね。
設定は建久9年(1198)12/27よ。
北条時政の娘を妻に迎えていた稲毛重成は3年前にその妻を亡くし、追善供養に相模川に架かる橋を修造するの。その完成記念の法要に出席した頼朝は、帰路の途中、八的ケ原と云うところでは義経や行家等の亡霊に、稲村ガ崎では檀ノ浦に消えた安徳天皇だと名乗る童子に出会うの。その怨霊達に脅されたのか、頼朝は落馬してしまうの。年が明けた建久10年(1199)1/13、頼朝は53歳で死去するのですが、その時の落馬が原因と云われているの。頼朝の前に現れた安徳天皇が龍神の化身なら、鎌倉に攻め込む新田義貞を助けるなど、稲村ガ崎に潜む龍神の正体は平家方の怨霊だったのかも知れないわね。
左掲は義貞率いる軍勢が進軍して来たのでは−と思わせる七里ヶ浜の砂浜ですが、砂鉄を多く含むことから黒々としているの。近くを極楽寺川の流れが海に注ぎますが、鎌倉時代にはこの辺りでは砂鉄採取が盛んに行われ、鍛冶職人も多く住み、砂鉄を元に刀や鏃が造られていたの。防衛戦略上の重要拠点の稲村ガ崎は、砂鉄の確保と云う二重の生命線でもあった訳ね。
この辺りでは昭和30年代頃まで砂鉄採取が続けられていたの。あちらこちらにそれらしき窪地が残りますが、これはその中でも大きいもの。寄せる波に、自然と砂鉄を含む砂がこの窪地に集められるのでしょうね。今では輸入した方が遙かにコストが安く済むことから採取はされていないの。ねえねえ、鉄って海水に濡れると直ぐ茶色く錆ちゃうけどどうしてここの砂鉄は錆ないの?う〜ん、不思議ね。どうしてなのかしらね。
岬の頂きには展望広場が設けられていますが、そこから眺め降ろした限りでは、岬の周囲は冠水していて、とても進軍出来るような状態には見えないの。確かに水底が見えるなど遠浅にはなっているようですが、当時の海岸線はもう少し陸側にあったと云われ、関東大震災の時に隆起して現在の海岸線になったと聞きます。だとすると岬の磯伝いに行軍するのは余計無理だったのではないかしら?一説には龍神祈願は潮の干満を知る義貞が士気を高めるために行ったパフォーマンスだったとも云われているの。
大潮の退潮時間を睨み、海中に刀を投げ込んだ義貞は干潮を見届けると「龍神の加護を得たり」と、配下の軍勢に檄を飛ばして強行突破させたと云うの。義貞の率いる軍勢は山国育ちで潮の干満を知らない者も多く、義貞の言は素直に受け止められたと云うわけ。でも、それって詐欺師じゃん(笑)。【太平記】には「月が傾く頃」と記述されることから、干潮を見計らい、夜陰に乗じて泳ぎ渉ったと云うのが本当のところではないかしら?義貞は勇猛果敢な武将にして知略に長けたペテン師だったのかも。
展望広場から下る石段途中からはこの景観が広がるの。嘗ての古戦場も遠い昔のことで、本番間近の夏を控え、気の早い方々が砂浜で甲羅干しをしたり、小さな子供を連れたお父さんが一緒に波打ち際に戯れるなど、思い思いのひとときを過越されていました。その姿こそ見ることは出来ませんでしたが、檀ノ浦の海中に消えた安徳天皇も今は一緒になって波と戯れていると思いたいものですね。
園内の一角には少年二人のブロンズ像が建てられていますが、明治43年(1910)1/23、七里ヶ浜の沖合いで逗子開成中学校所有のボートが沈み、乗っていた少年12名全員が溺死する事故が起こるの。中でも人々の涙を誘ったのが徳田兄弟で、引き上げられた兄(勝治・19歳)の遺体には、小学校に通う弟(武三・10歳)の遺体がしっかりと抱きかかえられていたの。鎌倉女学校教諭・三角錫子さんはその哀しみを「真白き富士の根」の詞に託し、鎌倉女学校生徒と共に開成中学校庭で行われた合同法要の席上で披露して鎮魂としたの。事件は後に映画化され、そのメロディーと共に多くの人々の知るところとなるの。像はその事故で無くなった少年達の慰霊碑なの。
真白き富士の根 緑の江の島 仰ぎ見るも 今は涙 帰らぬ十二の雄々しきみたまに 捧げまつる 胸と心 |
今回は腰越を中心に紹介してみましたが、龍口寺輪番八ヶ寺も二ヶ寺を残し、稲村ガ崎の周辺の見処も見ずして散策を終えてしまいました。腰越は日蓮上人に所縁ある史蹟が多く、某宗教団体の存在から来る印象のせいで眉をしかめる方もいらっしゃいますが、史実から見えてくる日蓮上人は意外に泥臭いと云うか、人間味溢れる人だったのではないかしら。為政者や他宗の僧侶には凄んで見せる上人も、女人禁制が蔓延る当時の仏教界にあって、女人の成仏を説くなど、弱者には優しかったの。女性の生理を不浄なものとしていた当時でも、日蓮上人はそれを生命の営みとして是認しているの。腰越を訪ねみれば、華やいだ湘南のイメージの蔭で、庶民の信仰が今でも守られているの。大寺の華やかさはここにはありませんが、強靭な意志で殉教の使徒となり、時代を駆け抜けた上人の確かな思いが残されているの。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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〔 参考文献 〕
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
実業之日本社刊 三浦勝男監修 楠本勝治著 鎌倉なるほど事典
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
PHP文庫 中江克己著 日本史「謎の人物」の意外な正体
角川ソフィア文庫 佐藤謙三 校注 平家物語(上)・(下)
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
PHP文庫 森本繁著 北条時宗と蒙古襲来99の謎
昭文社刊 上撰の旅11 鎌倉・湘南・三浦半島
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
彩流社刊 清川理一郎著 猿田彦と秦氏の謎
秀英出版社刊 筑紫申真著 神々のふるさと
弘文堂社刊 大林太良著 日本神話の構造
まんぼう社刊 大里長城著 八幡神の謎
成美堂出版社刊 八尋舜右著 北条時宗
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
岩波文庫 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
河出書房新社刊 日本異界絵巻
【太平記】の記述に際しては 日本文学電子図書館 を参照させて頂きました。
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