嘗ては武蔵国六浦荘から塩や海産物が鎌倉に運び込まれ、塩の道と呼ばれていた六浦道も、今では金沢街道と名を変え、鎌倉と金沢八景を結ぶ幹線道路として車の往来も多くなりましたが、脇道に逸れて小径を行けば、静かに歴史を物語る史跡にも出逢えるの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。
1. JR鎌倉駅 かまくらえき
今回の散策コースはバスで最初に大刀洗水に向かい、沿道の寺社を訪ねながら金沢街道を道なりに歩いて鎌倉駅まで戻る設定をしてみました。訪ねた季節が12月でしたので紅葉には遅すぎたかしら?と危惧していたのですが、いざ出掛けてみると、冬を間近に控えた木々が最後の彩りを添えて迎えてくれました。運賃:¥230 京急バス「鎌倉霊園前大刀洗」行 鎌倉駅東口5番乗場
2. 鎌倉霊園前大刀洗BS かまくられいえんまえたちあらい
バス停の背後には鎌倉霊園の広大な敷地が広がっているの。手許のガイドブックではこのバス停傍に梶原大刀洗水の名所旧蹟マークが附されていましたので、この辺りにあるはずよね−と金沢街道を更に歩いてみたりしたのですが見つからず、先程下車したバス停で折り返しの発車を待つバスを見つけて運転手さんに訊ねてみたのですが、話しには聞いたことがあるんだけど分からないねえ−とのことでした。一緒に地図を覗き込んだりして丁寧な応対をして下さったのですが。
その内、お墓参りを済ませて霊園から出て来られた方を見つけて、あの人達に聞いてみたら分かるかも知れないよ−と云われて駆け寄り訊ねてみたのですが、やはり同じような答えでした。地元の方に聞いてみても分からないとあっては諦めるしかないわね。折角ここまで来たのに残念。人の手が加わり、当時の景観も変わってしまったんだわ、きっと。これがその大刀洗水の流れかも知れないわ−と勝手に決めて撮したのが左掲なの。梶原景時と大刀洗水については後述しますが、勿論、これは本当の大刀洗水ではなかったの。
ξ^_^ξの二の舞とならないように簡単な地図を作ってみましたので御役立て下さいね。十二所の信号の所に十二所神社前のバス停がありますので、そちらで下車しましょうね。左手には神社の杜が見えますが、信号右手に続く小径を道なりに歩いて下さいね。しばらく歩くと泉橋という小さな橋が見えて来ますが、それを右手に折れて大刀洗川に沿って歩きます。嘗ての六浦道は十二所の信号から脇道に折れた大刀洗川沿いの道だったのですね。分かってしまえば何のことは無いのですが、訪ねた当初は六浦道=現在の金沢街道と思っていたの。
話しが前後してしまい恐縮ですが、親切な応対をして下さった京急バスの運転手さんに礼を云って次なる目的地の十二所神社へ向かいました。歩き始めて間も無く御輿を車に積み込んでいらっしゃる方に出会いました。見ると御輿の製作工房のようで、そのような仕事をされている方なら或いは大刀洗水の場所も御存知かも知れないわ、折角ここまで来たんだもの、納得して帰りた〜いと訊ねてみたのですが、この先の信号から横道に入って歩くと見えてくるよ−と、御輿に乗った神さまから、それこそ御宣託を得たような気分。訊ねてみた甲斐がありました。ところが、教えて頂いたように十二所の信号から脇道に入り、しばらく歩くと道が何と二手に分かれているの。辺りを見回してもそれらしき案内標もなく、橋の上でしばし立ち往生。
3. 大刀洗水 たちあらいすい
左に行こうか右に行くべきかと思案していたところ、御掃除されている御夫婦の方がいらっしゃいましたので、再び道を訊ねてみたのですが、とても丁寧な道案内をして下さったの。改めて、ありがとうございました。左掲がその訊ね重ねてようやく辿り着いた大刀洗水。確かに注意して歩かないと見過してしまいそうよ。周囲の岩肌から湧き出した水が筧(かけい)を通してチョロチョロと小川に流れ落ちているの。滑川の源流でもある大刀洗川に注ぐこの湧水は、鎌倉五名水の一つにも数えられているの。どうしてそんなにこだわるの?と思われたあなたはもう少しおつき合い下さいね。
当時、六浦道の東端に屋敷を構えていたのが千葉広常なの。広常と云えば石橋山の合戦に敗れた頼朝が房総に落ち延びて、再び挙兵した際に二万騎の軍勢を従えて加わった功労者ですよね。尤も【吾妻鏡】には「武衞頗る彼の遲參を瞋り 敢えて以て許容の氣無し」と記されるように、頼朝は仲々戦列に加わらずにいた広常をあまり評価していないの。寧ろ「この數萬の合力を得て感悦せらるべきか」と期待する広常を前に、その遅延を責めてもいるの。そうは云っても頼朝が鎌倉入りすることが出来たのは、広常の加勢があればこそ。けれど、頼朝にしてみれば−我が旗揚げ時に日和見して遅参した此奴、功績有ると雖も機あらば我が寝首を掻くとも限らん−と痛し痒しの存在だったのかも知れないわね。
そうして寿永2年(1183)12月に事件が起こるの。広常に謀反の疑いありと聞いた頼朝は直ちに梶原景時を呼びつけ暗殺を命ずるの。景時は石橋山の合戦時には平家方についていたのですが、敗れた頼朝が鵐の窟(しとどのいわや)に隠れ潜んでいたところを発見しながら敢えて見逃しているの。【吾妻鏡】は次のように記しているの。
景親武衞の跡を追い嶺溪を搜し求む 時に梶原平三景時と云う者有り
慥に御在所を知ると雖も有情の慮を存じ この山人跡無しと稱し 景親が手を曳き傍峰に登る
僅か七騎に守られて岩窟に潜む頼朝にすれば、九死に一生を得たこの時の景時の対応の方が広常の参陣よりも余程嬉しかったのでしょうね。日和見した広常よりも敵方にありながら見逃してくれた景時に心を許していたのかも知れないわね。なに!広常に謀反の疑いありとな。さも有りなん。然らば景時、汝速やかに広常を誅すべし!と云ったところかしら?
何喰わぬ顔をして屋敷を訪ねた景時を広常は酒を以て饗応するのですが、やがて二人は双六に興じ始めるの。広常がすっかり気を許したところで景時は厠から戻ると、俯いて碁盤の目を読む広常の首を目掛けて一瞬の内に刀を振り下ろしたの。そうして広常の首を携えて屋敷を後にした景時が、血糊のついた刀を洗ったというのがこの大刀洗水なの。ところが、事件後に千葉氏一族から広常に謀反の意志無しと無実を訴えられた頼朝は後悔して一族を厚遇しているの。鎌倉幕府の半公式記録でもある【吾妻鏡】がこの事件に関しては何故か口を閉ざしているのも変よね。
その功績から同じく有力御家人となりつつあった北条氏が裏で画策していたのかも知れないわね。元々伊豆の弱小豪族に過ぎなかった北条氏にすれば、房総を拠点に強大な勢力を誇る千葉氏一族の存在は驚異。北条義政の唯一の頼みは娘・政子が頼朝の妻であるという外戚関係だけなのですから。
4. 朝夷奈切通 あさひなきりどうし
でも、上総を主領とする広常が何故この地に屋敷を持っていたのかしら?
ちょっと気になるわね。
鎌倉幕府第三代執権の北条泰時が朝夷奈切り通しの開削を指示したのは仁治元年(1240)ですが、その時には既に和田義盛や朝夷奈義秀を初めとする和田一族は北条義時の権謀に嵌められ、和田一族の乱を引き起こすものの、敗れて悉く斬首されているの。義秀だけは生き延びたという伝説もあり、悲運の死を遂げた義秀を英雄視した後の人々が勇猛無比の豪傑振りを伝説化していったものみたいね。大刀洗川も三郎の滝を境にして更に姿を変え、周囲の岩盤からの湧水を集めながら適当な窪地を探して流れていると云った趣きね。
古都・鎌倉も今では行く先々に家々が建ち並び、その蔭に隠れるようにして残される旧蹟ですが、さすがにこの辺りには未だ自然が多く残されているの。古道の面影を残した景観を見ていると、馬の背に塩を乗せて手綱を引きながらやってくる行商人達の姿も瞼に浮かんで来るようよ。
5. 朝夷奈砦跡 あさひなとりであと
朝夷奈切通入口で踵を返し、来た道を戻る途中で見掛けたのが御覧の岩窟なの。崖の上部に大きな口がぽっかりと開いているの。何なのかしら?と大いに気になり、連れが制止するのも聞かず、意を決して登ってみました。内部は奥行もあり、意外なほど広く刳り貫かれていましたが、やぐらなら何かの石仏が残されていても良さそうね−と探してみたのですが、それらしきものは何も無いの。朝夷奈切通に続くこの六浦道は海産物や塩を運ぶ要路であると共に、軍事的にも重要な道で、嘗ては砦も築かれていたと聞きますので、この洞窟はその砦跡なのかも知れないわね。
この岩窟から六浦道を見下ろしてみたのが右端ですが、今では車も入れるように道幅も広げられていますが、当時は馬一頭に人一人がやっと通れる程の狭い道だったはずですから、駆け抜けようとする敵兵に矢を射かけるには距離も角度も手頃だったような気がするわね。
6. 切通庚申塚 きりどうしこうしんづか
大刀洗川沿いを歩きながら十二所の信号のところまで戻って来ましたが、その数10m手前に切通庚申塚の案内を見つけ、どこ?どこ?と辺りを見渡したのですが見当たらず、ふと上を見上げてようやく見つけたのが御覧の 庚申塔 なの。
それにしてもこの土塁の高さ。普通に歩く視線では先ず見つけられないわよね。鎌倉に幕府が置かれていた頃はこの辺りが鎌倉の東境で、土塁はその頃に防塁として造られたものみたいね。鎌倉幕府が滅び、再び静かな山あいの郷となると、辺りを見渡すことが出来るこの土塁上に庚申塔を祀るようになったものかも知れないわね。それとも、土塁を残して辺りが削られたのかしら?傍らには畑もあり、今でも里山の風情を残していますが、この辺りにはたおやかに暮らす庶民の姿があったのかも知れないわね。
左端の庚申塔は種子(梵字)にキリークを刻むので阿弥陀如来を主尊とする庚申塔ね。右手を挙げて左手を垂れる施無畏・与願印は、人々から恐怖を取り除き、安心を与える阿弥陀さまのお姿を表しているの。右端は馬頭観音を主尊とする庚申塔ですが、仏教では、馬頭を戴き忿怒の形相をした馬頭観音像は日本人には余り好まれなかったみたいね。古代インドの神話の中で天輪王が宝馬に股がり、須弥山を疾駆するかのような勢いで衆生摂化するさまを現したものだとか云ってみたところで、庶民にすれば何のこっちゃ?ですよね。
ところが、馬頭の馬と農耕馬が単純に結び付けられて馬の守り神、農耕の神として庶民の間で崇められるようになると、庚申塔にも多くの彫像が作られるようになるの。今と違い、トラクターや耕運機があった訳ではないので、馬は大事な働き手。厩も母屋続きで作られることも多く、如何に大事にされていたのかがお分かり頂けるかと思うの。飼馬が丈夫でいることが貧しい日々の暮らしの支えだったの。
7. 十二所神社 じゅうにそじんじゃ
街道を挟み、庚申塚の反対側に位置するのがこの十二所神社。弘安元年(1278)に創建された古社で、元々は後述する光触寺境内に建てられていたですが、十二所の里人達が土地や材木を寄進して土木工事も行うなどして天保9年(1838)に現在地に遷宮したの。明治期には熊野十二所権現社から十二所神社と改称し、村社に列格されているの。訪ねた時にも境内には幼児を連れたお母さんが子供と一緒に遊ぶ姿があるなど、すっかり村の鎮守さまの風情よ。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
祭神として天神(あまつかみ)七代の十二神、地神(くにつかみ)五代として五柱を祀る十二所神社ですが、知るのは伊邪那岐命・伊邪那美命と天照大神の三神だけでした。天神七代の神さまには、林業を司る神さまなのかしら、角材神と活材神の名があるの。それにしても17柱も祀られる十二所神社は庶民の願いも悉く聞き入れて下さるのでしょうね。17柱の神名全てを知りたい方は御み足をお運びの上、御参拝下さいね。
上掲はいずれも境内摂社ですが、左から境内の一角に祀られる地主神と本殿右手に鎮座する山の神。二つ並ぶ祠は左手が疱瘡神で、右側は宇佐八幡社。右端は鳥居脇に転がっていた石で百貫石と呼ばれ、お祭りの時には里人達が興に任せてこの石を持ち上げて力比べを競ったものなの。でも、実際の重さは110Kg位と云うのですから110÷3.75で三十貫程。なので百貫は些か誇張ですが、それでも容易には持ち上げられませんよね。ξ^_^ξもトライしてみたのですが、ビクともしませんでした。力自慢の方はお試し下さいね。
鎌倉春秋社刊 大藤ゆき著『鎌倉の民俗』では【鎌倉覧勝考】の記述を引いて、十二所の地名は昔戸数が12戸だったからとの説もあるが、熊野信仰のあるところには多く十二所と云う社があり、熊野を祀る土地に十二所という名称が付けられていると云われ、熊野信仰から来たもの−としているの。更に女史は、熊野信仰は山の神の信仰と結びついていて、山の神は女の神さまで一年に12人の子供を産み、熊野の十二所権現と呼ばれることから、その王子信仰と関係があると思われると説いているの。紹介したように、明治期に改称する前は熊野十二所権現社と呼ばれていたと云うのですから、間違いなさそうね。
8. 光触寺 こうそくじ
十二所神社から金沢街道を南下して十二所バス停から続く脇道に入ると滑川に架かる光触寺橋が見えて来ますが、そこから光触寺までは目と鼻の先。参詣に訪れる方も少なく、静かな佇まいを見せていました。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
山門を潜ると参道左手に苔むして建ち並ぶ石仏に迎えられますが、光触寺は作阿上人が弘安2年(1279)に創建したもので、元々は真言宗のお寺だったの。その光触寺を弘安5年(1282)に諸国遊行中の、時宗の開祖・一遍上人が立ち寄ったのを機に、作阿上人が一遍上人に帰依したことから時宗に改宗し、念仏道場としたの。本堂に掲げられる光触寺の扁額は後醍醐天皇の御宸筆で、堂内には第4代鎌倉公方の足利持氏が寄進した厨子もあるの。鎌倉公方ってなあに?足利持氏って何者なの?と気になる方は、鎌倉歴史散策−小町大町編の 別願寺 の項を御笑覧下さいね。
厨子の中には阿弥陀如来に観音菩薩と勢至菩薩が脇侍する阿弥陀三尊像が安置されていますが、阿弥陀如来像は運慶作と伝えられ、頬焼阿弥陀とも呼ばれているの。身代わり地蔵の逸話は耳にする機会も多くありますが、光触寺では珍しい身代わり阿弥陀なの。
むか〜し昔のお話しじゃけんども、町局(まちのつぼね)という女御が鎌倉殿(源頼朝)に仕えておってのお。その頃、京には運慶という有名な仏師がおってのお、仏像を彫らせたら右に出るものは一人もおらぬほどじゃった。その運慶が招かれて鎌倉の地にやって来た時のことじゃ。お局さまはその運慶に48日以内に阿弥陀さまの像を彫って下さらぬかと頼んだのだそうな。期限をきられるとは運慶も思ってもみなかったじゃろうのお。
それでも苦心の末に運慶は立派な阿弥陀さまの像を彫り上げたそうじゃ。そうして出来上がったばかりの頃はお局さまも喜んで像を前にして日々題目を唱えておったのじゃが、そう長くは続かんでのお。そのお局さまには万歳(まんざい)という男が仕えておったのじゃが、お局さまに代わって毎日拝んでおったのがその万歳じゃった。日頃から信仰心の厚い男じゃったが、どうも性格は良くなかったみたいじゃのお。他の家人達からは嫌われておったそうじゃ。
そんなある日のことじゃった。お局さまが大事にしておった物が無くなってしまってのお、さては他ならぬ万歳の仕業に違いあるまい−と皆して万歳を取り押さえてしまったのじゃ。怒ったお局さまは万歳を縛り上げて左頬に焼印を押すよう家人に命じたのじゃ。ひえ〜ッ、この万歳が盗みをはたらいたとは濡れ衣にございまする。どうか、どうか焼印だけはお許しを!と万歳は必死に南無阿弥陀仏の題目を唱えて、み仏に救いを求めたそうじゃ。けんども−お前のような盗人をどうしてみ仏が助けてくれようぞ−と家人達に取り押さえられて、遂には真っ赤に焼けた轡で左頬に烙印されてしまったのじゃ。
ところがのお、翌朝万歳の顔を見た家人達は皆驚いたのじゃ。焼印を押したはずの万歳の左頬には何の火傷痕も無かったそうな。万歳!貴様我らを謀りおったな。今度こそは目にもの見せてやる!と再び家人達に捕らえられて焼きごてを押されたのじゃ。けんども翌朝になると万歳の頬はまた元通りになっておったそうじゃ。お局さまからきつく申し付けられた我ら、万歳の頬に烙印無くば我らもまた懲罰を受けようぞ−と家人達は何度も烙印を繰り返してみたそうじゃ。
そんなこととは知らずにおったお局さまはある夜、夢をみたそうじゃ。夢の中に阿弥陀さまが現れて左頬を押さえながら「汝は何ゆえ我が頬に何度も烙印を押すのじゃ。わしにはそのようなことをされる覚えはないのじゃが。そちにもわしのこの痛みがわかろうや」と語りかけてきたそうじゃ。お局さまはもうびっくりしてのお、飛び起きると安置しておった阿弥陀さまの仏像のところへ駆け込んでいったそうな。そうして恐る恐る厨子を開いてみたんじゃが、果たして阿弥陀さまの左頬には黒〜い大きな火傷痕があったそうじゃ。こ、こ、これは何としたこと、万歳の代わりに阿弥陀さまが身代わりになられたとは−そう得心したお局さまは大いに悔やんでのお。万歳を赦すと、早速阿弥陀さまの修復に仏師を呼びつけたのじゃが、金箔を何度塗っても火傷跡は消えなかったそうじゃ。
今までの不信心を恥じたお局さまは出家して比企ヶ谷に岩蔵寺というお寺を建ててこの阿弥陀さまを祀ったそうじゃ。それからというもの、お局さまは阿弥陀さまの前で一心に題目を唱えておったそうじゃ。万歳のような嫌われ者でも熱心に信仰しておればお救い下さると人づてに伝わると寺を訪ねる者も多くなってのお。そうしていつの頃からか、この阿弥陀さまは頬焼阿弥陀と呼ばれて親しまれるようになったのじゃ。万歳も大磯に庵を建てて移り住み、万歳法師と名乗り、念仏の題目を一心に唱えてやがて大往生したということじゃ。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。
頬焼阿弥陀を見てみたいなあ−という方に。残念ながら10名以上で事前の予約申し込みが必要なの。
特別拝観料:¥300 お問い合わせは TEL:0467-22-6864 へ
本堂手前の地蔵堂に祀られる塩嘗地蔵にも面白い逸話があるの。このお地蔵さんは元々は光触寺橋の袂にあったという地蔵堂に祀られていたのですが、ある日、六浦郷から鎌倉に塩を運ぶ商人が初穂として塩を供え、帰りに立ち寄ってみたところ、その塩が無くなっていたと云うの。これはきっとお地蔵さんが嘗めてしまったのじゃろうのお。お地蔵さんも塩を所望されておられたのじゃな。それからと云うもの、鎌倉入りする度に塩が供えられ、誰云うとなく塩嘗地蔵と呼ばれ親しまれるようになったの。
9. 大江広元屋敷跡 おおえひろもとやしきあと
十二所バス停から50m程歩くと左手に小さな橋が見えてきますが、その橋を渡り、滑川沿いに歩くと民家の塀に隠れるようにして石碑が建てられているの。気をつけて歩かないと見過してしまいそうよ。少し分かりにくい場所にありますので簡単な地図を作ってみましたので参考にして下さいね。対岸に公民館が建つ辺りよ。ガソリンスタンドのある明石橋まで歩いてしまったら行き過ぎですので戻りましょうね。
大江広元は元々は公家の出身ですが頼朝に請われて鎌倉入りするの。公文所別当となり、後に政所も統括して鎌倉幕府の組織造りを行った最大の功労者。公家出身ということからそのコネクションを使い、幕府と朝廷の争議にも調整役として活躍し、頼朝亡き後も北条氏の執権独裁体制を支えた人物。腕力には強い関東武士も決め事は苦手だったみたいね。屋敷跡と云っても現在は石碑が建つのみで、残念ながら往時の縁を今に求めることは出来ないの。大江広元の墓は西御門にある源頼朝墓の背後の山中にあるのですが、異説ではこれから訪ねる明王院の背後の山中にも残されていると云うの。But 残念ながら未体験で終えているの。見学する機会がありましたら改めて紹介してみますね。
大江氏奕世學匠として顯る 嘗て匡房兵法を以て義家に授く 廣元は其の匡房の曽孫なり 頼朝に招かれて鎌倉に來り 常に帷幄に侍し機密に參畫す 幕制創定の功 廣元の力與りて多きに居り 相模毛利莊を食む 子孫依りて毛利を氏とす 而して因縁奇しくも此の幕府創業の元勳が七百年後の末裔は王政復古に倡首たり 此の地即ち其の毛利の鼻祖大膳大夫の邸址なり 大正14年(1925)3月 鎌倉町青年團
10. 大慈寺跡 だいじじあと
大江広元屋敷跡から明石橋に抜けて金沢街道を少し戻ったところから脇道に入ると大慈寺跡を示す石碑があるの。【吾妻鏡】の建暦2年(1212)4/18の条に「将軍家の御願として大倉郷に一勝地を卜し 一寺を始めしめ給う」と記されるように、大慈寺は鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が創建したものなの。【吾妻鏡】は「地形の勝絶 恐らくは仙室と謂うべき」この地を実朝が視察に訪れた際に、御家人の三善善信が山水画を献上して云うには、頼朝も造営を望んでいたと云うの。
去る建久九年十二月の比夢想に云く 善信 先君の御共として大倉山の辺に赴く 爰に一老翁有りて云くこの地 清和の御宇 文屋康秀 相模の掾として住する所なり 精舎を建つべし 我鎮守と為らんと欲すと 夢覚めての後 この由を上啓す 時に幕下将軍御病中なり 忽ち御信心を催し もし御平癒に及ばば堂舎の造営有るべきの由仰せらるるの処 翌年正月薨御す 果たされざるの條 愚意潛かに恨みと為す 而るに当御代自然の御願に依ってこの草創有り 併しながら霊夢の感応する所なり 境内の繁栄なりと
文屋康秀:六歌仙の一人 掾(じょう):当時の官制で四等官の内の第三位の官。公文書の審査を司る(=判官)
何云ってんだか全然わかんな〜いと云うあなたに ・・・
拙者善信が鎌倉殿の御供をして大倉山に赴いた時の事に御座りまする。夢に一人の老翁が現れて申すには−この地は清和天皇の御代に文屋康秀が住した程の景勝地 然らばこの幽峡の地に堂宇を建つるべし わしが鎮守となりて護らん−とお告げが御座いました。この事を病に伏せっておりました鎌倉殿に申し上げましたところ、俄に霊感を得られたようで、我が病平癒の後は必ずや堂宇を建つるべし−と仰せられたので御座いまする。而るに御殿、翌年には薨御せられ、堂宇造営も叶わず甚だ無念に存じておりました。それがこうして実朝殿の御願いにて創建されるに及び、まさに霊夢のなすところとなれば将軍家の御繁栄も疑いの無きものと存ぜられまする。
そうして健保2年(1214)7/27には落慶法要が行われますが、何とそれから二週間もしない内に惣門が洪水で流されてしまうの。9/1には日食、9/22と10/6には大地震、10/10には甚雨雷鳴と、天変地異が重なるの。霊夢を元に造営された大慈寺ですが、異変を畏怖したのでしょうか、10/15には舎利会が執り行われているの。大慈寺の仏舎利は実朝が宋の能仁寺から委譲されたもので、おまけに貴重な仏牙舎利。お釈迦さまの慈悲を以て天変地異を鎮めようとしたのかも知れませんね。余談ながらこの仏牙舎利、元は勝長寿院に安置されていたものですが、大慈寺に移された後、変遷を経て現在は円覚寺舎利殿に収められているの。
11. 明王院 みょうおういん
明王院は鎌倉幕府第4代将軍の九条頼経が紆余曲折を経て嘉禎元年(1235)に創建しているのですが、その経緯がちょっと面白いので紹介してみますね。寺院(五大堂)建立を思い立った頼経は寛永3年(1231)、手始めに従臣達と陰陽師3名を引き連れて二階堂や六浦道などの候補地を巡検するの。その10日後には、普請奉行に指名された藤原親実や伊賀光宗らが陰陽師の安部晴賢を連れて大慈寺背後の飯盛山を視察しますが、永福寺敷地内にある、北条政子の追善供養のために建てた丈六堂に対する方角が悪いからと白紙撤回されてしまうの。
陰陽師の占いに依るものとは云え、御家人の北条氏が建てた丈六堂に邪魔された頼経にしてみれば−泰時め、コケにしおって−と思ったのかも知れないわね。泰時もそんな頼経の意思を感じたのでしょうね、候補地選定が振り出しに戻ったというのに、視察を終えた晩に泰時館では造営日時だけが先に決められているの。おれ達が担ぎ上げてやってるのにうるせえ将軍だ、ちゃんと造営してやっから黙っておれ!と云ったところかしら。【吾妻鏡】にはその間の経緯が記載されず、詳細が不明ですが、白紙撤回された3日後には甘縄郷(長谷〜由比ヶ浜の北部一帯)が代替候補地となるの。ところが「方角その憚り無し」と最終決定された5日後に、今度は鎌倉で大火事が発生するの。盗人の付け火に端を発した火災は折りからの激しい風に煽られて公文所を始め、頼朝の法華堂などを焼き、その焔は勝長寿院辺りまで迫ったと云うの。
晩に及び大風吹く 戌の四刻 相州公文所燒亡す
南風頻りに扇き 東は勝長壽院の橋の邊に及び 西は永福寺惣門の内門に至り 烟炎飛ぶが如し
右大將家びに右京兆の法華堂 同本尊等灰燼と爲す 凡そ人畜の燒死その員を知らず
これ盜人放火の由 その聞こえ有りと
その被災復興の為に頼経の悲願でもある五大堂の造営は無期延期となってしまうの。それでも頼経はその五大堂に安置する予定の尊像造立を指示するのですが、次から次へと障壁が現れて頼経も意地になったみたいね。一方、被災で全焼した頼朝の菩提を祀る法華堂は再興が決められ、直ちに棟上げされているの。源氏の嫡流の扱いには配慮しながら、よそ者の将軍・頼経には適当にそぶりでも見せておけば良かろうて−という雰囲気が御家人達の間にはあったのかも知れないわね。
頼経の許へ嫁いだのが鎌倉幕府第二代将軍の源頼家と木曽義仲の娘との間に生まれた竹ノ御所。頼経13歳にして新婦・竹ノ御所は28歳の政略結婚。鎌倉歴史散策−小町大町編の 妙本寺 の項でも触れましたが、比企ヶ谷の竹林に住んでいたことから竹ノ御所と呼ばれていたの。難産が原因で32歳の若さで亡くなってしまいますが、存命時には前掲の大慈寺境内に亡き父・頼家の菩提を弔うために堂宇を造営しているの。
頼経悲願の五大堂は発願から4年後の文暦2年(1235)にようやく落慶式を迎えるの。創建時には鶴岡八幡宮寺に比するほどの伽藍を有する大寺でしたが、現在は僅かに本堂だけが残されているの。嘗ては祀られる不動明王を始め、降三世、大威徳、軍荼利、金剛薬叉の五大明王が五方に配置され、各々に堂宇があてがわれていたことから五大堂と呼ばれていたの。仁王経では三宝(仏・法・僧)を敬えば、以下の五菩薩が忿怒の出で立ちをした明王に化身して国を護持すると説かれ、全ての魔障を降伏することから人々の信仰を集めたの。
不動明王 金剛波羅蜜多菩薩 中央 |
密教の主尊としても御馴染みの不動明王はヒンズー教のシバ神がそのルーツ。仏教に習合されて如来の使者となり、後に大日如来の化身として明王の中でも最高位に位置するようになるの。 |
降三世明王 金剛手菩薩 東 |
人の善心を損なう貪瞋痴(とんしんち)の三界(毒)を調伏する明王で、貪は強欲を表し、瞋は怒り、痴は物事の真理を理解できないこと。無闇に物を欲せず、怒らず、理性を磨くことに専念せよ−というところかしら。 |
大威徳明王 金剛利菩薩 西 |
元々は夜摩を調伏する明王でしたが、世間一切の悪鬼を退治すると信じられるようになったの。闇夜に恐怖を感じてしまうのは今も昔も変わりませんよね。ひょっとしたら痴漢が隠れているかも知れない?ちょっと違ったかしら。 |
軍荼利明王 金剛宝菩薩 南 |
様々な障碍を取り除く明王で、軍荼利(ぐんだり)は甘露を入れた瓶のこと。障魔はその甘露に誘き寄せらてこてんぱんにやつけられてしまうのかも知れないわね。 |
金剛薬叉明王 金剛薬叉菩薩 北 |
欲心など人の汚れた心を食い尽くして真実の悟りに導いてくれる明王。元々古代インドでは森林の神でもあり、ヒマラヤ山中にあるという天界の財宝を守護する福神のヤクシャ Yaksa が薬叉、夜叉と音訳されたの。妙齢美貌の女神としても彫像されたヤクシャが仏教の守護神となり、後に明王として忿怒の形相で描かれたことから後に悪鬼として人畜を喰らう夜叉になってしまったの。ここでは叉(二股の金剛杵)の威力を以て薬(癒し)を与えて下さる薬叉のイメージね。 |
明王院に安置される五大尊明王像ですが、寛永年間(1624-44)の火災で不動明王以外の4体を焼失し、現在あるのはいずれも後世の作なの。残念ながら本堂内の拝観は不可とのことでしたが、訪ねた時には住持の方が読経中で、本堂内からは静謐な声聞が流れていました。明王達もその願いに耳を傾けていたのかも知れないわね。境内を抜き足差し足で拝観させて頂きました。
訪ねた時には本堂右手に立つ大銀杏が見事に色付いていました。創建時にも景勝の地として選定されていますが、背後の飯盛山を御覧の大銀杏が今まさに黄色く染め上げていました。本堂内の見学は出来ませんでしたが、紅葉した大銀杏を見ることが出来ただけでも大いに得した気分。ξ^_^ξの拙い写真ではその見事さが伝え切れませんので、皆さんも是非季節を捉えて御覧になってみて下さいね。
明王院の門前から金沢街道に向かう途中に二ツ橋という小さな橋が滑川に架けられていますが、その橋の袂には嘗て五大堂の礎石に使われていた大きな石が二つ転がっているの。でも、どれだかお分かりになりますか?橋から落ちても怪我する者が無かったことから不動明王のお蔭とされ、けがなし石と呼ばれていたと伝えるの。袂と云うよりも橋の真下にありますので覗き込まないと見えないのですが、何故こんなところに?大慈寺の惣門も建ててから僅かの内に洪水で流されているように、嘗ての滑川は暴れ川だったことから、洪水で橋脚が流されないようにしてたのかしら?
橋から落ちる人がいたということは、手摺りの無い橋だったのでしょうね、きっと。今では余程小さな橋でもない限りは手摺りが設けられますので、橋桁から川面に落ちることは考えられませんが、逸話には当時の情景が隠されているのですね。エッ?手摺りの無い太鼓橋だったかも知れないって?う〜ん、四つん這いで渡らなくっちゃ。
12. 足利公方邸跡 あしかがくぼうていあと
金沢街道を西に向かい、泉大橋の信号を過ぎて虹の橋が見えて来たら右手に注意して歩きましょうね。脇道に10m程入ったところに足利公方屋敷跡を示す石碑が建てられているの。
頼朝開府の初め足利義兼居を此の地として以來二百數十年間子孫相嗣いで此に住す 尊氏覇を握りて京都に還るの後 其の子義詮二代将軍となりて京都の邸を嗣ぎ 義詮の弟基氏關東管領となりて兵馬の権を此の邸に執る 而して之を子孫に傳ふ 子孫京都に比擬して公方と僭稱す 享徳四年公方成氏執事上杉憲忠との不和の事より下総古河に還るに及びて遂に永く廢墟となる 大正9年(1920)3月建之 鎌倉町青年會
頼朝が鎌倉入りすると、足利義兼もこの地に屋敷を構えたことから足利家代々の居館となったの。足利姓を名乗る義兼ですが、母親は源頼朝の母の妹ですから頼朝にすれば義理の甥にあたるの。ちょっとややこしいのですが、その頼朝に勧められて政子の妹と結婚し、義理の従弟ともなるの。後に足利尊氏が室町幕府を開くと政治の舞台は再び京都に移りますが、尊氏の嫡男・義詮が将軍職を継ぐと、次男の弟・基氏が鎌倉公方の初代の長官を務めることになるの。鎌倉公方(鎌倉御所)とは室町幕府が鎌倉に設置した行政機関の長官職で、それを補佐するのが関東管領。鎌倉公方の4代目に就任した足利持氏は管領の上杉憲実と対立したことから後に一大騒動(永享の乱)が起こるの。その永享の乱が気になる方は鎌倉歴史散策−小町大町編の 別願寺 の項を御笑覧下さいね。
永享の乱の後、足利持氏の遺児・成氏(しげうじ)が鎌倉公方職を継ぎ、上杉憲実の嫡男・憲忠が関東管領職に就き、鎌倉府は再興されるのですが、再び対立して享徳3年(1454)には憲忠を謀殺し、成氏は茨城県の古河へ移り(古河公方)住み、不住となった屋敷は荒廃するままに捨て置かれたの。
13. 青砥藤綱屋敷跡 あおとふじつなやしきあと
足利公方邸跡から程なくして見えてくるのが御覧の青砥橋。横断歩道を渡り、青砥橋に続く道を歩いて行くと、正面に建つ民家の塀に埋もれるようにして、と云うより、殆ど塀の一部と化したかのような趣きで青砥藤綱屋敷跡の石碑が建てられているの。青砥藤綱は幕府の名吏と評される人物ですが、中でも有名なのが無くした十文を五十文かけて探させた故事。
鎌倉歴史散策−小町大町編の 東勝寺橋 のところで、その逸話を昔話風にアレンジして紹介してみました。
道徳の匂いがプンプンするお話しですが、気になる方は御笑覧下さいね。
青砥橋からしばらく歩くと右手に浄妙寺の駐車場が見えて来るの。青砥橋から浄妙寺までは金沢街道を歩きますが、車の往来が多くあるにも関わらず、ガードレールが無いので、車には充分注意をして歩いて下さいね。
14. 浄妙寺 じょうみょうじ
頼朝や政子も帰依し実朝に重用されますが、実朝亡き後は上洛して師の栄西上人が開山した建仁寺に住し、その後再び高野山に入るの。金剛三昧院を開山して密・律・禅三教の道場を開き、晩年は再び鎌倉に下り、永福寺や大慈寺の別当にもなり、自ら開山した東勝寺で幽寂しているの。鶴岡八幡宮寺に始まり東勝寺に死すとは、まさしく鎌倉時代を象徴する高僧よね。その退耕行勇の晩年の姿を塑像したという木像坐像が本堂内に安置されているのですが、残念ながら非公開。本堂には他にも本尊の釈迦如来坐像を始め、婦人病に御利益がある淡島明神が祀られているの。
ねえねえ〜、淡島明神ってどんな神さまなの?
女性の病気や安産に霊験灼かな神さまで、親しみを込めて淡島(粟島)さまと呼ばれているの。
淡島って淡路島に関係あるの?
そうじゃないわ。でも地理的には近いかしら。淡島明神は和歌山県の加太町にある淡島神社に祀られているの。その淡島神社の沖合いに友の島という名前の島があるんだけど、元々はその島の傍らに浮かぶ小島の淡島に祀られていたのよ。
粟島明神とも書くのはどうしてなの?
【扶桑略記】などには粟島とも記されているので昔は両方の表記があったみたいね。その淡島が住吉大社の神領だったことから淡島明神の面白い縁起が生まれるの。ちょっと長くなるので纏めて紹介するわね。
住吉大社(大阪市住吉区)に祀られる住吉明神(大神)は伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰り、海水で禊をした際に生まれた神さまなの。一神と思われるかも知れないけどホントは三神なの。禊の時には大勢の神さまが生まれてるのだけど、水底の水で清めた時に生まれたのが底筒之男命、中程の水から中筒之男命、海面近くの水をすくい清めた際に生まれたのが上筒之男命なの。だから本当は住吉明神を一人称で呼んではいけないはずなんだけど。因みに、左眼を洗った時に生まれたのが天照大神よ。
実は、元々一神だった住吉明神は記紀の編者らにより意図的に三神にされたの。
なので住吉明神を一人称で呼ぶのは本来の姿を表したものと云えるの。
さて、【記紀】が意図したものは・・・
その住吉明神の許へ嫁いだのが天照大神の六番目の娘とされる婆利塞女(はりさいじょ)という女神なんだけど、その仏教的な名前からすると神代というよりも後世に作られた逸話の匂いがプンプンするわよね。住吉明神の妃となった彼女なんだけど下の病にかかり、夫婦の契りが出来なくなってしまったの。彼女はその病を癒そうと人形(ひとがた)を作り、思いを託して海に流すのだけど一向に癒える兆しが無くて。とうとう住吉明神から離縁され、可哀想に彼女は舟に乗せられて流されてしまうの。そうして流れ着いたのが淡島なの。
島の者に助けられた彼女は自分と同じような病で苦しむ女性達を助けようと誓い、彼女が亡くなると島の者達は淡島さまとして祀ったの。舟で流されて漂着し、土地の人々から神さまとして祀られるようになる縁起は夷神(恵比寿さま)と似てるわね。彼女が流れ着いたのは3月3日のことで、3月3日と云えば雛祭りよね。雛祭りは流し雛がそのルーツ。夫婦の契りを結ぶことが出来なかった彼女が我が身を嘆き悲しみ、人形を作り、海に流したことに始まるの。伊邪那岐命が禊をしたように、海は穢れを祓い清める力を持つと信じられていたの。その海に通じる川へ身代わりの人形を流すことで日々の安寧を願ったの。その縁起を全国的に広めたのが淡島願人と呼ばれる修験者達。彼らは淡島明神の由来を語りながら門付けして歩いたの。
淡島明神の縁起に似た由来を持つのが七福神の一神・恵比須さま。そのルーツは蛭子神と云われていますが、その蛭子神が気になる方は 蛭子神社 を御笑覧下さいね。CMでした。
余談ですが、【記紀】では蛭子神に前後して淡島が生まれていますが、「今吾が生める子良からず」と二神とも御子には加えられていないの。その淡島と淡島明神(婆利塞女)は別神ですが、蛭子神と淡島明神の縁起が似ていることを重ね合わせると、どこかで繋がっているのかも知れないわね。
本堂左手には枯山水の庭園を前にして喜泉庵が建てられているの。嘗ては境内に僧侶達が一同に会して茶を喫する庵があり、喜泉庵はそれを復元して建てられたものなの。僧侶達が飲んだお茶は煎茶では無く抹茶ですが、当時は養生や長寿延命をもたらす仙薬として飲用されていたの。抹茶を薬用として最初に説いたのは退耕行勇が師事した栄西上人ですが、【吾妻鏡】では建保2年(1214)病に伏す実朝に「良薬と称し 本寺より茶一盞を召し進す 而るに一巻の書※を相副えこれを献らしむ」と飲用を勧めているの。因みに、日本に初めてお茶そのものを伝えたのは最澄上人(伝教大師 )よ。※一巻の書は【喫茶養生記】のこと。
実朝に飲用を勧めた翌年、その栄西上人も寿福寺に於いて75歳で入滅しているの。【吾妻鏡】には痢病を患ったとありますが、当時の平均寿命からすれば大往生ですよね。抹茶の薬効も赤痢には及ばなかったようですが、延命長寿にはかなりの効能があったのでしょうね。喜泉庵では庭園を賛でながら抹茶(¥500)を頂くことが出来ますのでお立ち寄り下さいね。
その喜泉庵から石窯ガーデンテラスへ向かう石段道では、御覧のように、鮮やかな紅葉が目を楽しませてくれました。見頃を過ぎて茶色く色褪せた葉も混じりますが、それでも、この一角だけは京都の寺院の参道を歩いているかのような風情でした。
境内を抜けて本堂右手に続く坂道を辿ると山中にひっそりと鎌足稲荷神社が鎮座しているの。神社というよりは祠ですが、藤原鎌足に因む逸話が残され、鎌倉の地名の由来にもなっているの。鎌足と云えば大化の改新ですが、その鎌足が鹿島神宮(茨城県)に詣でる途中で由比の郷を訪れた際に、夢の中に稲荷明神が現れ、「汝が持てる鎌槍をこの地に収むべし 然らば天下安く治まらん」と告げ、翌朝目覚めた鎌足の前に、一匹の白狐が現れて、この地に導いたと云うの。鎌足は産まれた際に稲荷明神から鎌を授かり、その後お守りとして肌身離さず身につけていたの。
大化の改新を成し遂げた今では、最早、鎌槍を護持する必要も無かろうと、稲荷明神から諭された鎌足は、その鎌槍を埋納すると、小堂を建てて祀ったの。京に戻り、孝徳天皇に事の次第を話した鎌足は、天皇から鎌倉郷を名乗るが良かろう−と、この地を拝領したと云われているの。倉は谷(くら)に通じることから、鎌倉は鎌槍を納めた谷−の意なのかも知れないわね。
鎌倉の地名由来については他にも諸説があるの。【古事記】には日本武尊が玖玖麻毛理比賣(くくまもりひめ)との間にもうけた御子として足鏡別王(あしかがみわけのきみ)の名をあげて、鎌倉の別(わけ)、小津、石代の別、漁田の祖なり−と説き、初めて鎌倉の名が出てくるの。別とは郷を意味することばですので、鎌倉の別で鎌倉郷となるの。But 残念ながら記述もそこ迄で、肝心の由来については触れてはいないの。
ところで、源氏の流れをくむ一族の足利氏、その足利氏は下野国足利庄を領地としていたことから足利姓を名乗るのですが、地名の足利も足鏡別王の足鏡が転じたものなのかしら?祠は近年再建されたものですが、参道の石段は踏みならされてかなり摩り減っているの。足利義兼を初め、貞氏や尊氏も藤原鎌足の成功例にあやかろうとこの参道を登り、祠に詣でていたのかも知れないわね。今では参道のすぐ手前まで民家が迫りますが、境内から参道を見やれば、装束に身を固めた古人が登り来たる姿も瞼に浮かんで来るの。
鎌足稲荷神社から山門に向かう途中で見つけたのがこの本寂堂なの。火除・厄除・災難除けに霊験灼かと云われる三宝荒神を祀りますが、仏・法・僧の三宝を守護することから浄妙寺の鎮守として祀られたものなの。三宝荒神とは聞き慣れない神さまですが、元々はカマドに祀られる竃神がそのルーツ。人々にとって食は根源的なものですから、その象徴としてのカマドには神が宿ると信じられていたの。竃神は火を司る神の性格の他にも、食を司る神として、農業神にも祀られるようになるのですが、後に仏教に採り入れられて仏・法・僧の守護神となったの。
荒ぶる神さまですので、不信心な輩に対しては祟りを及ぼす恐〜い神さまですが、逆に礼を尽くして祀れば、その霊験は殊の外灼かと云われているの。大黒天が寺院の厨房に祀られて、後に大黒さまとして大変身を遂げたのに較べると、竃神は些かマイナーな変身振りですよね。アッ!いけない。竃神をコケにすると祟りがありそう。
15. 報国寺
ほうこくじ
浄妙寺を後にして金沢街道を歩くと程なくして華の橋が見えて来ますが、その信号を左手に折れて緩やかな坂道を登った先にあるのがこの報国寺。足利尊氏の祖父・家時が建武元年(1334)に天岸慧広上人(仏乗禅師)を開山に迎えて創建した寺院。足利家歴代の当主は元服するに当たり、北条得宗家の当主から名前の一字を貰い受け、婚姻関係を結ぶなど、足利家と北条家には深い繋がりがあったのですが、家時の父・頼氏がそれまでの習いを破り、上杉重房の娘を側室として迎えて産まれたのが家時なの。拝観料:¥200 抹茶付は¥700
重房は藤原氏の流れをくみ、当初は勧修寺姓を名乗っていたのですが、丹波国上杉荘を領していたことから上杉姓を名乗るようになるのですが、重房は公家出身という血脈を活かして、京都に於ける足利氏の足場固めを援助するの。そうして足利頼氏が重房の娘を側室に迎えると、重房は外戚関係から足利家筆頭執事の高階氏と肩を並べる程の地位を得るようになるの。重房の娘を母として生まれた家時は雅びな京の世界を聞かされて育ったのでしょうね。家時は重房や重房の嫡男・頼重を殊の外頼りとしますが、そんな家時が六波羅探題職の上杉時茂から娘を妻に迎えたのは必然だったのでしょうね。
そうして益々京かぶれしていく家時でしたが、高階重氏から足利家の執権職を引き継いだ師氏がそれを諫めるの。その時、師氏が家時に差し出したのが足利家の祖とされる源義家の置文(遺言書)で、そこには「吾より後七代の孫子に吾生まれ変わりて天下を取るべし」と書かれていたと云うの。置文には続けて「その大願を成就せんがため 嫡流は如何なる試練にも堪えて七代目に繋げ」と厳命されていたの。その七代目に当たるのがこの家時だったと云うわけ。
そんなこととは知らず、北条氏に媚びする一族の血脈を恨み、京での暮らしを希求していた家時は己の所業を大いに恥じ、「南無八幡大菩薩 願わくはこの命引き換えに三代の後再び生まれ変わりて天下を取らせ給え」と遺言し、自刃して果てたと云うの。以上は今川了俊が著した【難太平記】の記述を元に脚色を加えたものですが、八幡大菩薩は源氏の守護神ね。岩清水八幡宮で元服した後は八幡太郎と名乗る義家ですが、都の人々からは八幡太郎はあな恐ろしやと評され、【後三年合戦絵詞】には義家の残虐非道の限りを尽した合戦の様子が描かれているの。
家時が逸話にあるように本当に義家の生まれ変わりとしたら鎌倉の地に血の雨が降っていたかも知れないわね。その家時から数えて三代目に当たるのが御馴染みの足利尊氏。家時の遺言に符号するようにして天下を治め、室町幕府を開設していますが、偶然の一致とも思えず、足利一門の出である今川了俊が後に作り上げた逸話なのでしょうね。虚実入り乱れてのお話しですが、足利家と上杉家に蜜月期があったのは事実みたいね。ですが、その両者が後に鎌倉公方と関東管領職の地位に就き、後世大騒動の永亨の乱を起こすなど、当時の家時は想像だにしなかったでしょうね。その永亨の乱が気になる方は鎌倉歴史散策−小町大町編の 別願寺 の項を御笑覧下さいね。
重厚な構えを見せる鐘楼ですが、その左手には数多くの五輪塔が並び建てられているの。報国寺は永亨の乱に際し、第4代鎌倉公方職にあった足利持氏の嫡男・義久が僅かに10歳という若さで自刃して果てたという悲劇の地でもあり、苔むして時の流れを知らしめる石塔群はその従臣達を供養したものかも知れないわね。
写真は左から本尊の釈迦如来坐像が安置される本堂と、その右手に建つ迦葉堂(かしょうどう)ですが、その迦葉堂の前では名を知らない植物の群落が緑色の絨毯を敷き詰めたように広がり、振り返れば銀杏が空を黄色く染め上げていました。
拝観受付の左脇から本堂裏手に回り込むと孟宗竹の竹林が広がっているの。その竹林を縫うようにして散策の小径が設けられ、所々には石仏が並び建つなど、風情ある佇まいを見せているの。竹林の一角に設けられたお休処では抹茶で一服することも出来ますので、静寂に包まれながら古都の風情を味わってみては?。御希望の方は拝観時にお申し出下さいね。
竹林を抜けると岩盤にぽっかりと口を開けた二つのやぐらが見えて来ますが、そのやぐらには、足利家時のお墓や、永亨の乱に敗れた足利持氏と嫡男・義久のお墓が設けられているの。どれが誰のものなのか分からず、後で受付の方にもお伺いしてみたのですが、今となってはどの供養塔が家時のものなのか、持氏のそれなのかは判らなくなってしまったとのこと。猛き人もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ【平家物語】と云ったところね。
16. 杉本寺 すぎもとでら
杉本寺は坂東三十三所観音霊場の第一番札所。縁起に依れば、天平3年(731)、諸国遊行の途にあった高僧・行基がこの地を訪れ、大蔵山に登ってみたところ、俄に霊感を得て、自ら十一面観音像を彫って安置したのが始まりで、夢の中に現れた観音菩薩から「汝 大蔵山に座す吾を奉るべし 然らば吾れ 民を救いて東の国安く治まらん」と告げられた光明皇后が、後の天平6年(734)に堂宇を創建したと伝えられているの。杉本寺は奈良時代の創建と鎌倉一の古刹ですが、当時の仏教は鎮護国家の目的から厚く保護された一方で、庶民への布教は制限されていたの。拝観料:¥200
そんな中で行基は畿内を中心に諸国を遊説しながら灌漑用水路や橋を架設するなどのインフラ整備も行っているの。所謂、勧進聖のはしりですね。勧進聖は仏教の教えを説いて廻りながら人々から寄付を募り(勧進)、寺院の造営や仏像建立に限らず道路の整備や橋の架設などのインフラ整備を行ったの。一方、光明皇后は藤原不比等の娘で、聖武天皇が即位すると臣下からの出自としては初めての皇后となり、悲田院や施薬院を設けて病に苦しむ者達や貧しい人々の救済事業も行っているの。杉本寺は仏教に依る衆生救済に目を向けた、そんな二人を縁(えにし)としているの。
以上は寺伝に依る縁起ですが、行基が実際に東国の地を訪れたという記録は存在せず、専ら畿内を中心に活躍しているの。当初は弾圧を以て臨んだ聖武天皇もその勢力を無視できず、東大寺大仏建立事業などにも行基を参加させ、天平17年(745)には大僧正に任じているの。後に菩薩の称号を以て呼ばれる程になりますが、伝行基作の仏像はその威徳にあやかり結びつけられたものなのでしょうね。
参道の石段両脇には奉納十一面杉本観音と書かれた幟が数多く奉納され、中程には大蔵山の扁額が掲げられた仁王門が建てられているの。享保10年(1725)に再建されたものですが、左右には運慶作と伝えられる仁王尊(金剛力士)が脇侍するの。その仁王尊ですが、実は二分身なの。仁王さまの口許に御注目下さいね。一方は口を開けて、他方は口を結んでいらっしゃいますが、この二態を各々阿(あ)形・吽(うん)形と呼ぶの。阿吽の呼吸と云うのはここから生まれたことばなの。一心同体の如く呼吸を合わせて、仁王さまはそれこそ阿吽の呼吸で仏法を護持しているのよ。
仁王門を潜り抜けた右手には鳥居が建てられていますが、どんな神さまが祀られているのかしら?と気になり訪ねてみたのが大蔵弁財天堂よ。弁財天と知り、江ノ島弁財天のような優しい御尊顔を想像したのですがちょっと強面なの。弁財天はインド神話の河の神・サラスバティー Sarasvati がそのルーツなの。
弁財天堂の鳥居から本堂へは風情ある佇まいの石段が続きますが、残念ながら通行禁止なの。苔むした石段は摩耗が激しく、古より参詣する方々が多くあったことを物語っているの。現在は登り方向左手に迂回路が設けられていますので、そちらを登りましょうね。右側の写真は本堂前から参道を見下ろしてみたものよ。
茅葺き屋根の本堂が山懐に抱かれるようにして建てられているの。現在の建物は延宝6年(1678)に再建されたものですが、堂内に祀られる十一面観音像を初めとする諸仏は、幾れも鎌倉一の古刹にふさわしい陣容なの。石段を登り、先ずはお賽銭をあげて安穏を祈念。折角坂東三十三観音霊場第一番札所の杉本寺を訪ねたのだからと蝋燭も献灯してみました。外陣右手から靴を脱ぎ、昇殿して内陣に祀られる諸仏を拝観させて頂きました。
大悲殿 | 十一面観音 | 観音三十三身 | 運慶作 | 内陣側 | |||
![]() |
不動明王 | 作者不明 | ![]() |
||||
毘沙門天 | 宅間法眼作 | ||||||
十一面観音(前立) 源頼朝寄進 |
運慶作 | ||||||
堂内に祀られる諸仏の位置関係 | |||||||
恵心僧都作 (国重文) |
地蔵菩薩 | 運慶作 | 十一面観音 | ||||
慈覚大師作 (国重文) |
地蔵菩薩 | 安阿弥作 | 沙門慈海上人作 | ||||
行基作 | 寶頭廬尊者 | 作者不詳 | (前々代住持) |
観音さまの画像は Harumi's Home Page さんに掲載されるものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・
正式な山号寺号を大蔵山観音院杉本寺とするだけあって、本堂には合計五体もの十一面観音像が安置されているの。残念ながら身近に接することが出来るのは内陣に祀られる、頼朝寄進のものと先々代住持の沙門慈海僧正が三年の歳月を掛けて彫られた前立本尊二体のみ。頼朝は建久2年(1191)に参詣した際に「累年風霜侵して甍破れ軒傾けり 殊に御憐愍有り」【吾妻鏡】と感じて再興を支援。併せて運慶作の十一面観音像を寄進しているの。残る三体は秘仏本尊とされ、本殿最奥部に続く大悲殿に安置されているの。内陣からは仄かな明かりの向こうに少しだけ御尊顔を拝することが出来るの。
【吾妻鏡】にはこの杉本寺に纏わる逸話が記されていますので皆さんにも紹介してみますね。頼朝の十一面観音像寄進から2年程遡った文治5年(1189)には火災で堂宇を焼失しているのですが、その際に別当を務める浄臺房上人が猛火に飛び込み、無事観音像を助け出しているの。猛火に包まれながら浄臺房上人は火傷一つ負わなかったことからこれも観音さまの霊力に依るものと信じられ、後に観音さまが自力で杉の根元に避難されたと云う伝説を生むようにもなるのですが、杉本寺の名称はこの伝説に由来するの。
別当浄臺房煙火を見て涕泣し 堂の砌に到り悲歎す
則ち本尊を出し奉らんが為焔中に走り入る 〔 中略 〕
衆人の思う所万死を疑わざるに忽然これを出し奉る
衲衣纔に焦げると雖も 身躰敢えて恙無しと
【吾妻鏡】にはその時の火災の際に観音さまが自力で杉の根元に避難された逸話も記される−とする案内が多く見受けられるけど、記載しているのは江戸時代に著された【板東観音霊場記】の方ね。そうとは知らずに【吾妻鏡】の記述を一所懸命探しちゃった。
左掲は行基作と伝えられる十一面観音像の御影ですが、【新編相模国風土記稿】に依れば、この観音さまは馬に股がったまま拝礼せずに通り過ぎようとすると落馬する者が多く、以来、この杉本寺の門前を通る際には下馬して通るようになったことから下馬観音とも云われ、北条時頼の命を受けた大覚禅師が袈裟を頭に被せてしまったところから覆面観音とも呼ばれるようになったと伝えるの。得宗家として権勢を極めた時頼にしてみれば、観音さまも畏るに足らぬ存在だったのかしら。それにしても時頼の意を受けて袈裟を掛けてしまった大覚禅師も大覚禅師ですよね。心眼を以て衆生をお守り下さる観音さまにしてみれば、目隠しをされたからと云ってどうということは無いのでしょうけれど。
同じく本尊に祀られる円仁上人(慈覚大師)作と伝わる十一面観音像は、仁寿元年(851)、中興開山の円仁上人が海岸に流れ着いた香木を彫られたものと云われ、右端に安置される恵心僧都源信作の観音像は、寛和2年(986)、花山天皇の勅命に依り、恵心上人が彫像したものと伝えられているの。室町時代の永禄3年(1560)に著された【杉本寺縁起】では、霊夢に東国巡業を告げられた花山天皇がこの地を訪れた際に、杉本寺を坂東観音霊場第一番札所に指定したとしているの。
恵心僧都こと、源信上人は僅か9歳にして比叡山に登り、天台宗の奥義を究めたと云われているの。後に貴族化した叡山を嫌った源信上人は、横川の恵心院に隠棲して著作に励むの。恵心僧都の名はその庵の名に由来しますが、有名な【往生要集】はその時に執筆されたものね。晩年、病に伏した上人は、阿弥陀仏の手に掛けた糸を執りながら眠るようにして息を引き取ったと云われているの。享年76歳の大往生でした。
But 研究者の間では寧ろ頼朝の観音信仰に触発されて鎌倉を中心に観音霊場が形成されていったとする説の方が有力みたいね。西国三十三所霊場の本拠地・三井寺と源氏とは繋がりが強く、頼朝も領地の寄進などをしているの。頼朝は東国にそのコピーとも云うべき観音霊場を創ろうとしていたのかも知れないわね。そうは云っても、観音霊場巡りに庶民が参加するようになるのは更に時代を経た後のことね。三井寺(園城寺)を開山したのは慈覚大師ですが、頼朝も杉本寺の中興開山が慈覚大師と知り、不思議な縁を感じたのかも知れないわね。
本堂右手には数多くの五輪塔が密集して建てられているの。鎌倉幕府を倒した功労者の足利尊氏は鎮守府将軍となり、陸奥・出羽の両国に権勢を奮いますが、それを良しとしない後醍醐天皇は北畠顕家を鎮守府将軍に任じて尊氏の勢力拡大を阻止しようと画策するの。対抗するようにして足利尊氏は鎌倉公方にいた嫡男・義詮の補佐役、斯波家長を陸奥守に任命。顕家が義良親王(後の後村上天皇)を奉ずれば尊氏の弟・直義は成良親王を担ぎ、鎌倉の地に赴任。
尊氏と後醍醐天皇の対立は決定的となり、後醍醐天皇の意を受けた北畠顕家は尊氏追討のために大軍を率いて再び上洛を決意。延元2年(1337)、南征する顕家の軍勢は手始めに足利直義や義詮のいる鎌倉に攻め入るの。敗退を余儀なくされた義詮は三浦半島へ逃れますが、斯波家長は杉本寺で自刃して果てたと云われているの。その際の戦闘で一族郎党三百余人も討ち死にし、五輪塔はその供養塔になるの。
観音堂の右手には熊野権現と白山権現が合祀されたお社があるの。熊野信仰は和歌山県の熊野本宮大社・速玉大社(新宮)・那智大社の熊野三山を中心としたもので、熊野は古代より神秘なる幽峡の地として崇められていたの。平安後期になると在来の神仙思想が仏教の浄土信仰と結び付けられて熊野は阿弥陀浄土と考えられるようになり、三社の祭神も各々阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩を本地と見做す信仰(本地垂迹説)が生まれるの。権現とは仏や菩薩が衆生救済のために現した仮姿(垂迹身)のことなの。
和歌山県東牟婁郡本宮町に鎮座する熊野本宮大社は熊野三山の首座として熊野信仰の総本山として崇められていますが、その祭神が家津美御子神(けつみのみこ)で素戔鳴尊のことなの。その家津美御子神が本地垂迹説に依り阿弥陀如来に比せられて熊野権現と呼ばれるようになりますが、熊野の山嶽信仰は修験者に依り全国各地へと伝えられたの。蟻の熊野詣−と形容されるほど流行した熊野信仰ですが、前述の花山天皇は山籠もりして千日修行もしているの。信仰心の薄れた現代ではちょっと考えられない世界ですが、当時の信仰の有り様が垣間見える逸話ね。
一方の白山権現を祀る白山神社は石川県鶴来町に鎮座する白山比刀iしらやまひめ)神社が総本山で、菊理媛(くくりひめ)・伊邪那岐命・伊邪那美命の三神を祀るの。秀麗な白山連峰に対する山嶽信仰から生まれた白山比唐ヘ霊峰白山が神格化されたもので、後に【日本書紀】に登場する菊理媛神に結びつけられますが、白山権現はその後、養老元年(717)に入山した泰澄が妙理大菩薩(白山比刀jを感得して十一面観音菩薩をその本地仏としたのが始まりなの。
菊理媛神の名が【記紀】に登場するのは伊邪那岐命が黄泉国(よもつくに)に伊邪那美命を訪ねてみたものの、その姿に驚き這々の体で泉津(よもつ)平坂口まで逃げ帰って来た場面。伊邪那美命は「わたくしはそなたと共に多くの国造りをしてまいりました。どうしてこれ以上御子を生むことを希みましょう。わたくしはこの黄泉国に留まります。もう御一緒にゆくことはできないのです」と別れを告げますが、【記紀】は「是の時に菊理媛神 亦白す事有り」と記すのみで、菊理媛神が何を告げたかについては全く触れていないの。加えて菊理媛神の名は他には一切出て来ないため、どんな女神さまだったのか不明なの。【記紀】では黄泉国への出入口を守る泉守道者(よもつもりびと)と一緒に登場していますので、結界を守る巫女的な存在の神さまだったのかも知れないわね。
17. 杉本城址 すぎもとじょうし
杉本寺の背後には杉本城跡があると知り訪ねてみたのですが、御覧のように立入禁止となっていたの。杉本城を最初に築いたのは三浦氏一族の総帥・三浦義明の嫡男・義宗と云われ、前掲の七地蔵尊最右端の石仏はその義宗の守り本尊だと伝えられているの。杉本城は頼朝が鎌倉入りする以前から築城されていたのですが、城と云っても砦のようなものだったのでしょうね。小坪の合戦では苦戦する和田義盛が杉本城の弟・義茂に急使を遣わして援軍を求めていますが、三浦義明や小坪の合戦が気になる方は鎌倉歴史散策−材木座編の 来迎寺 の項を御笑覧下さいね。
前述の斯波家長はこの杉本城を根城にして北畠顕家と戦闘を繰り広げたの。それにしても、観音堂とは至近距離にあり、義宗も観音さまの御加護を求めたのでしょうね。杉本城跡の見学を諦め、再び杉本寺の境内に戻りました。鐘楼脇から細い下山道が続きますが、頭上の梢からは鳥のさえずりならぬタイワンリスの鳴き声が。
18. 歌の橋 うたのはし
杉本寺から金沢街道を西に200m程歩くと二階堂川に架かる歌の橋が見えて来るの。普通に歩いていたら見落としてしまいそうな橋で、今となっては取り立ててどうのという代物ではありませんが、嘗ては鎌倉十橋の一つにも数えられていたの。この橋を架設したのは泉親平の乱の際に謀反人として捕らえられた渋河刑部六郎兼守なる人物で、事件のあらましを【吾妻鏡】から辿ると、おおよそ次のようなことみたいね。
建暦3年(1213)、千葉成胤は阿静房安念なる僧侶から、信濃国の泉小次郎親平が先の将軍・頼家の遺児・千寿丸を次期将軍として担ぎ、執権の北条義時を誅殺しようとしているので加担せぬかと持ちかけられるのですが、逆に捕らえて義時の前に差し出してしまうの。白状を強要された阿静房安念の口からは次々に謀反人の名が告げられ、即刻捕えられてしまうの。そうして捕えられた者は首謀者に準ずる者130余人に、類する者200人に及んだと云うのですから、義時の政に反対する御家人達はかなり多かったみたいね。
張本人の泉親平は筋替橋近くに潜伏しているところを見つけられますが、追手を斬り殺して逃亡してしまうの。一方、捕えられた者の中に和田義盛の四男・義直、六男の義重や甥の胤長も連座していたことから、事件は後に和田義盛の乱が起きる切っ掛けにもなるの。そして、安達景盛に預かりの身となったのが渋河刑部六郎兼守で、翌朝直ちに斬首の刑に処せられることを知り、和歌の十首をしたためて人伝てに 荏柄天神社 に奉納したの。
その時、荏柄天神社に参籠していたのが工藤祐高で、兼守が奉じた和歌を翌朝写し取り、実朝に見せたところ感心して兼守に恩赦を与えたと云うの。実朝は【金槐和歌集】を編纂する程の一流の歌人でもあり、その作風は後に正岡子規なども絶賛しているの。残念ながら【吾妻鏡】には兼守の奏じた和歌の一首足りとも記されていませんが、実朝を以てして「御感の余り 則ち その過を宥めらる」と云うのですから、秀でた才能の持ち主だったのかも知れませんね。そうして恩赦を得た兼守は荏柄天神の神徳に感謝すると共に、この橋を架設したと云うの。歌の橋とは優雅な名称ですが、この逸話に由来するの。
19. 文覚上人屋敷跡 もんがくしょうにんやしきあと
歌の橋から更に西へ歩くと大御堂橋の信号が見えて来ますが、それを左に折れて橋を渡ると御覧の文覚上人屋敷跡碑があるの。文覚上人は頼朝が伊豆に流されていたときに同じく配流されて来た怪僧で、懐から父・義朝の髑髏を取り出して頼朝に打倒平氏の挙兵を盛んに勧めたりしているの。元々は遠藤高遠と名乗る北面の武士でしたが、ある事件から剃髪出家したの。その事件というのが何と人妻への横恋慕(笑)なの。事件のあらましが気になる方は 補陀洛寺 の項で詳説していますので御笑覧下さいね。歴史が嫌いなあなたも、読むと歴史が好きになるかも知れないわよ。
20. 勝長寿院跡 しょうちょうじゅいんあと
往時の縁を今に求めることは出来ませんが、住宅街の一角に義朝と忠臣・鎌田正清のお墓が残されているの。勝長寿院造営に関しては多くを語る【吾妻鏡】ですが、最大の見せ場は京都から大江公朝一行が義朝の首を鎌倉に持ち帰って来た時の場面ね。
法皇また勲功を叡感するの余り 去る十二日 判官に仰せ 東の獄門の辺に於いて故左典厩の首を尋ね出され 正清(鎌田次郎兵衛の尉と号す)の首を相副え 大江判官公朝勅使としてこれを下さる 今日公朝下着す 仍って二品これを迎え奉らしめんが為 自ら稲瀬河の辺に参向し給う 御遺骨は文覺上人の門弟僧等頸に懸け奉る 二品自らこれを請け取り奉り還向す 法皇:後白河法皇、左典厩:源義朝、二品:源頼朝、稲瀬河:現在の片瀬川
あれ〜変よねえ、伊豆配流中に文覚上人は義朝の髑髏だと云って頼朝に見せて挙兵を促したとさっきは云っていたじゃないの?実はそれは文覚上人の嘘なの。【源平盛衰記】には「奈古屋が沖に曝たる頭の有けるを以て假初に偽申たりける也」とあるの。【盛衰記】には併せて義朝の首が見つけられた経緯が記述されているのでちょっと紹介してみますね。
その前に少しだけ歴史のお勉強を。平治の乱に敗れた義朝は従臣鎌田正清の娘婿・長田忠致(おさだただとも)を頼り、尾張国野間内海荘(現:愛知県知多郡美浜町)に落ち延びるのですが、忠致に裏切られて殺されてしまうの。湯屋で裸姿の義朝は「せめて木太刀の一刀ありせば」と叫んで討ち死にしているの。他力本願で恐縮ですが 知多半島の風 にその時の情景が詳しく描かれていますので、是非御一読下さいね。討ち取られた義朝の首は京都に運ばれて「東の獄門の前の樗木に係たりける」状態で放置されていたの。それを憐れんだ紺五郎と云う藍染職人が、獄門からは乾(北西)の方角に当たる地に墓を造り、埋めたと云うの。そうして、いざ墓を掘り起こしてみたところ「額には義朝と云ふ銅の銘を打たれり 正清が首も同じく在りけり」状態で
それを「首をば蒔絵の手箱に入りて錦袋に裹むを文覚上人頸に懸たり 清が頭をば檜木の桶に入りて布袋に裹め 弟子たる僧が頸に懸けて」鎌倉の地に持ち帰って来たの。文覚上人の鎌倉到着を知った頼朝は自ら片瀬川まで出迎え、涙を流しながら袖衣で抱え込むようにして義朝の首を受け取っているの。その情景に居並ぶ郎党達も皆一様に涙に濡れた袖を絞ったと描かれ、鎌田正清の首は娘の手に渡されているの。勝長寿院跡地を示す一角にはその義朝(左)と正清(右)の墓が並び建ちますが、鎌田政家とあるのは正清のことで改名後の名称なの。
ところで【吾妻鏡】には建久10年(1199)に14歳で亡くなった政子の娘・三幡も勝長寿院の墳墓堂に、建保7年(1219)には公暁に暗殺された実朝も勝長寿院の傍らに葬られたと記載されているのですがどうなったのかしら。実朝は「御首の在所を知らず 五體不具なり その憚り有るべきに依りて 昨日公氏に給う所の御鬢を以て御頭に用い入棺し奉る」状態なの。その実朝の首は秦野市の東田原にある首塚に眠ると聞きますが ・・・
21. 筋替橋 すじかえばし
勝長寿院跡地から金沢街道に戻り、鶴岡八幡宮方面に向かってしばらく歩くと道が左に大きく曲がる場所に出るの。嘗て辺りには滑川に注ぐ西御門川という川が流れ、鎌倉十橋の一つにも数えられた筋替橋が架設されていたと云うのですが、現在はそれを記す石碑が残されているだけなの。養和元年(1181)に鶴岡八幡宮寺の本格的な造営が始まりますが、翌年の寿永元年(1182)には放生池(現在の源平池)が造られることになるの。
【吾妻鏡】には「鶴岡若宮の辺の水田三町余り 耕作の儀を停められ池に改めらる」とあり、三町と云えば約9,000坪。当時は現在のそれよりも大分大きな池だったみたいね。その池の設営に伴い、筋替橋辺りから 鉄の井 まで直線的に通じていた横大路の旧道は大きく迂回させられることになったの。【吾妻鏡】では須地賀江橋と表記していますが、東は六浦道、南は小町大町を経て和賀江島(材木座海岸)に通じる分岐点として、筋替橋と呼ばれるようになったのでしょうね。
今回は晩秋の金沢街道を散策してみましたが、源頼朝が入部する以前から六浦道と呼ばれ、人々が往来していた古道には鎌倉一の古刹もあり、足利氏所縁の寺院や史跡が数多く点在しているの。嘗て大伽藍を有した勝長寿院や大慈寺も今は僅かにその跡地を示す石碑が建てられるのみですが、街道を歩けば頼朝や実朝が勝地を求め、郎党を引き連れて馬に揺られる姿も瞼に浮かんでくるの。猛き人もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ−とは【平家物語】の一節ですが、その跡地に立てば、遙かなる時を経た今でももののふ達の思いが伝わってくるようね。この頁が少しでも皆さんのお出掛け時の参考になればうれしいな。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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〔 参考文献 〕
実業之日本社刊 鎌倉なるほど事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記祝詞
PHP研究所社刊 中江克己著 日本史「謎の人物」の意外な正体
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
鎌倉春秋社刊 大藤ゆき著 鎌倉の民俗
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
塙書房社刊 速水侑著 観音信仰
講談社刊 窪 徳忠著 道教百話
岩波文庫 龍肅訳注 吾妻鏡
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