城ヶ島は以前にも幾度か訪ねたことはあるのですが、♪雨はふるふる〜城ヶ島の磯に〜♪の歌につられながらも、ゆかりある白秋碑には立ち寄らずに済ませてしまうなど、中途半端な形で終えていたの。タイミング良く、TVのお天気情報のコーナーでは「明日は絶好の行楽日和!」を伝え、思い出したのが吉日とばかりに、改めて出掛けてみることにしたの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;
1. 京急・三崎口駅 みさきぐちえき 08:49着 9:11発 京急バス「城ヶ島」行 2番乗場
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¥1,900( 品川発着 ′13.05現在 )で往復の乗車券と京急バスの乗り降りが自由なの。
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2. 白秋碑前BS はくしゅうひまえ 9:35着 9:38発
3. 白秋碑苑 はくしゅうひえん 9:40着発
〔 城ヶ島大橋 〕 三崎漁港の天然の防波堤になっている城ヶ島は、北原白秋の詩で有名な叙情の島です。島の発展のために、従来の渡し舟に替わって三崎と島を結ぶ城ヶ島大橋が昭和35年(1960)4月に完成しました。城ヶ島大橋は全長575m、幅7mの車道、その両側に幅2mの歩道があります。橋の海上部分の長さは235m、当時最長であり、我が国初の本格的な鋼製の橋で、箱形の橋桁を用いて軽量化を図り、高度な技術を用いて20tの重量にも耐えるようにしてあります。
また、橋脚の海面からの高さは22m、海面下は18mで、安定度の高い構造で千トン級の船がこの下を楽に航行できるボックス、ガータ式の橋としては東洋一を誇っています。使った鋼材1,000t、セメント5,300t、工費は7億円でした。この橋上からの眺望は、三浦市の新しい名所となりました。特に、ここから望む房総半島からの日の出と、伊豆半島に沈む夕陽を背にした富士山は、天下一と詠われています。三浦市
4. 白秋記念館 はくしゅうきねんかん 9:45着 10:11発
5. 白秋碑 はくしゅうひ 10:12着 10:23発
〔 城ヶ島の雨 〕 作詞:北原白秋 作曲:梁田貞
大正2年(1913)5月、白秋は家族と共に東京から三崎に移り向ヶ崎に新居を構えました。ときに白秋27歳の春でした。これは、世に云う「桐の花事件」に依る挫折、傷心から再起を図るにあたり、この三崎の地が白秋の心を深く捉えていたからでした。そして、白秋は三崎を訪れた数多い詩人の誰よりも三崎を愛し、懐かしんだ人でもありました。それは翌年大正3年(1914)3月まで10ヶ月ほどの三崎時代でしたが、この間、詩、歌、「雲母集きららしゅう」、「真珠抄」、「白金独楽はっきんのこま」 の他、多くの作品が残されていることでも分かります。このように三浦三崎は、市内各所に青年白秋の足跡のしるしがあり、まさに白秋詩魂のふるさとと云うことが出来ます。「城ヶ島の雨」は大正2年(1913)若き音楽家中山晋平、梁田貞をはじめ音楽学校生徒等に依る日本の新しい音楽の時代を拓く活動に参加するためのものです。白秋は舟唄として「城ヶ島の雨」を作詞し、これに梁田貞が作曲して出来たものです。この詩碑は、白秋の筆跡を彫り、昭和24年(1949)7月、ここから50m東の磯に建てられ、後、現在地に移りました。
白秋が死を意識するまでに至った「桐の花事件」ですが、実は人妻との恋愛事件なの。当時の白秋は若干25歳と云う若さながらも第一詩集の「邪宗門」に引き続き、第二詩集「思ひ出」を出版するなどしてその才能が広く認められ、詩壇の寵児となっていたの。明治43年(1910)、白秋は千駄ヶ谷に引っ越しをするのですが、やがて隣家に住む松下俊子さんと云う女性と親しくなるの。But 俊子さんには夫と、産まれて間もない幼児(おさなご)がいたの。夫は国民新聞社に勤める写真技師と云うのですから、今で云えば報道カメラマンといったところかしら。問題はその夫・長平の性格と云うか、人格なの。当時はそんなことばは無かったかも知れないけど、思いっきりのDV(配偶者間暴力)なの。そのせいで俊子さんは生傷が絶えなかったと云うのですからひどすぎるわよね。おまけに、長平にはハーフの愛人がいて、ことある毎に片言の日本語を交えて俊子さんに罵声を浴びせていたと云うの。
君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
きみかへすあさのしきいしさくさくとゆきよりんごのかのごとくふれ
昨日君がありしところにいまは赤く鏡にうつり虞美人草の咲く
きのふきみがありしところにいまはあかくかがみにうつりひなげしのさく
人妻のすこし汗ばみ乳をしぼる硝子杯のふちのなつかしきかな
ひとづまのすこしあせばみちちをしぼるコップのふちのなつかしきかな
そうは云っても、二人の恋は禁断の恋。やがて夫・長平の知るところとなり、告訴されてしまうの。女性週刊誌などの紙面を大いに賑わす不倫スキャンダルですが、当時は更に刑法に「有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ処ス 其相姦シタル者亦同ジ」と、懲役刑の姦通罪が規定されていたの。告訴は明治45年(1912)7月5日のことで、翌日には早くも「女と共に他の窃盗人殺印鑑偽造などの囚徒達と囚人馬車に同車して市ヶ谷の未決監に送られ」勾留されることになったの。事件は新聞でも大いに報道されたことから白秋は一夜にして罪人となり、社会的な制裁を受けることになるの。それでも白秋の弟・鐵雄氏の奔走により示談&免訴がかない、収監二週間を経て保釈されたのですが、この投獄は「わが世は凡て汚されたり わが夢は凡て滅びむとす わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき」とあるように、白秋の心を奈落の底へと突き落としてしまったの。
因みに、夫の長平が告訴した背景には相手が当時名の売れていた白秋ゆえの金銭目的だったとの見方もあるの。夫婦関係は既に破綻し離婚寸前だったのですが、法律的には未だ婚姻関係にあることから白秋から慰謝料をせしめるつもりで告訴したと云うの。現に長平は示談金300円を得ているの。当時、保険会社の代理店に勤めていた白秋の弟・鐵雄氏の給料が15円だったと云うのですから、その金額の大きさが分かるわね。事実ならあさましくて卑しい動機ね。
世間からの指弾に喘いだ白秋は死を決意して木更津に赴くものの死にきれず、この三崎町に渡り来るの。その滞在中に俊子さんの行方も白秋の知るところとなり、再会した二人は当時向ヶ崎にあった異人館と呼ばれていた家を借りて両親や弟妹らと共に移り住むの。大正2年(1913)5月のことで、三崎での生活は翌年2月までの短い期間だったのですが、白秋のことばを借りれば「この約九ヶ月の田園生活は極めて短日月であつたが、私に取つては私の一生涯中最も重要なる一転機を劃したものだと自信する。初めて心霊が甦り、新生是より創まつた」の。
とは云え、現実の生活は厳しく、父親と弟・鐵雄氏が三崎で魚の仲買を始めるのですが、悪徳業者に売上金を掠め取られるなどして事業に失敗し、白秋と俊子さんを残して帰京してしまうの。その後は異人館を引き払い、見桃寺に寄寓して窮乏をしのぐのですが、大正3年(1914)2月、胸を病んだ俊子さんの療養のために小笠原諸島の父島へ渡るの。結局はそこでも生活は困窮を極め、弟・鐵雄氏の金策を得てようやく帰京すると、夫婦して父親の元へ居候することになるの。But 鐵雄氏の給料のみでは一家の生活がままならず、母と妹が着物を質入れして補填すると云う窮乏生活。その生活苦に加え、俊子さんと両親の折り合いも悪かったことなどから、大正3年(1914)、白秋は俊子さんとの離別を決意するの。
But 大正2年(1913)8月に俊子さん宛に出した書簡には「夫の真の生活を理会し、自分も信実に高い意味で生きてゆかうとしなければならぬ」と記すなど、芸術家の妻としては不満を持ちつつあったようね。互いのすれ違いや誤解などもあり、再出発を図る白秋にすれば、恋愛感情のみに生きてみえる俊子さんのことが次第に疎ましく感じられるようになっていったの。白秋自身もその狭間で葛藤した様子がみてとれるのですが、選択を迫られた白秋は最終的には己が信実とするところの文芸の道に生きることを選んだの。それを裏付けるかのように、この時期の白秋は、生活苦に喘ぎながらも創作活動には精力的に取り組んでいるの。
大正2年(1913)1月には第一歌集「桐の花」を刊行したのに引き続き、大正3年(1914)9月には短唱集「真珠抄」を、12月には詩集「白金之独楽」を発刊しているの。悲しきは俊子さんの立場で、文芸の道に生きようとする男を愛してしまったことよね。女性なら誰しも愛に生きようとするのは当たり前のことで、良家の出故に窮乏生活には耐えられなかったと云う面は確かにあったのかも知れないけど、それ以上に白秋の心が次第に自分から離れてゆくのをみている方が遙かにつらかったのではないかしら。女は愛し、愛されてさえいれば一緒に毒さえ喰らうことも出来る・・・どこかにそんなことばがあったような気がするけど。余談とするにはちょっと長すぎましたね、ごめんなさい。
白秋はこれを舟歌として作詞したと記してはいるのですが、当時の心情を詩に託して詠み上げたものだとも云われているの。哀愁を帯びたメロディーもまたそれを物語るかのようね。
6. 城ヶ島公園第二駐車場 じょうがしまこうえんだいにちゅうしゃじょう 10:30着 10:33発
7. 城ヶ島公園入口 じょうがしまこうえんいりぐち 10:52着発
左掲が城ヶ島公園の入口になるの。見えている建物は公園事務所で、中央に入口ゲートがあるのですが、係員の方がいらっしゃるわけでもなくて誰でもフリーパスよ。画面には映りませんが、左手にはお手洗いがあるので園内を巡る前に忘れずにお立ち寄り下さいね。敷地面積14.6haの広さを誇る公園なのですが、お手洗いはこの入口を過ぎてしまうと後は第二展望台の近くにあるだけなの。因みに、飲み物の自販機も入口建物の右手に置かれていた他は、同じく第二展望台近くのお手洗いの前に数台置かれているのみでしたので御参考までにね。
第一展望台の前に広がるピクニック広場の一角には宮柊二(みやしゅうじ)の歌碑があるの。
宮柊二は白秋の直弟子で、秘書としての役割も果たすなど、白秋にとっては、なくてはならない存在だったみたいね。
先生のうたひたまへる 通り矢のはなの さざ波光る雲母のごとく
8. 安房崎 あわさき 11:48着 13:04発
〔 安房崎と州の御前 〕 安房の国と云えば当地より望見する南房総一帯を云いますが、その安房に向く岬と云う意味から安房崎の地名が付いたと云われています。海の彼方に憧れる人の心は昔も今も変わりありませんが、往時この岬に立って海越しに安房の国を眺めた人の想いはどのようであったでしょうか。州の御前社は三崎の海南神社の祭神・藤原資盈の家臣四郎を祀ったと云われていますが、この祭神は、石を噛み砕き鉄を爪で切るほどの勇猛大剛なので、始め州荒御前と称したと云われます。
境内には、源頼朝が州の御前社参詣の折に催した宴に使った楊子を挿したのが育って周囲3m余にもなった「びゃくーん」の大樹がありましたが、貞亨3年(1686)4月大風の日、自然発火して焼失したと伝えられています。安房崎の「はな」は海中に突出した磯のため浅瀬が多く、航行する船舶の難所であったため、昭和37年(1962)現在ある白亜のスマートな無人灯台が設置されました。三浦市
ねえねえ、「びゃく〜ん」ってどんな木なの?
その音からすると柏槇(びゃくしん)じゃないかしら。柏槇はヒノキ科の常緑高木で、中でも鎌倉・建長寺の境内にある開山・蘭渓道隆のお手植えと伝えられる巨木は推定樹齢が750年と、立派なものよ。
じゃあ、もう一つ、「はな」ってなあに?
「城ヶ島の雨」の中でも♪通り矢のはなを〜♪と歌っているけど。
漢字を充てるとすぐ分かるわよ。「はな」は「端」と書くの。
「端」は突き出たり、尖ったりしたものの先端部分を云うの。
注):嘗て源頼朝の御所(別荘)がこの地にあり、来島した際には「水っ垂れ」の湧水をお茶や墨を溶く水として使用したの。
城ヶ島の最東端に位置する安房崎には、磯釣りや貝殻拾いを楽しむ子供連れの姿が多くあるなど、磯遊びが楽しめる岩礁地帯になっているの。その突端に建つのが安房崎のシンボル的な存在の安房埼灯台。ここでは改めての説明は不要よね。撮り溜めてきたものを思いっきりアップしておきましたので、海蝕が生み出した自然の造形美を御堪能下さいね。御覧になりたい方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。
9. 角川源義句碑 かどかわげんぎくひ 13:23着 13:24発
10. 松本たかし句碑 まつもとたかしくひ 13:51着 13:52発
このような島の抒情が、たかしの高い詩心によって詠いあげられた。松本たかし=子規、虚子の写生を根本にした俳人。三崎の風光を愛し、しばしば来遊。昭和31年(1956)没。その墓も三崎本瑞寺にある。三浦市・俳誌「笛」同人会
紹介した松本たかしの句碑は第一駐車場脇に群生するスイセン苑の中に建てられているの。左掲は以前訪ねた時に撮影したものですが、例年一月下旬から二月初めにかけて約30万株と云われる八重水仙が咲き誇るの。一足早い春の訪れを見にお出掛けするのも良いかも知れないわね。
11. 海鵜展望台 うみうてんぼうだい 13:58着 14:04発
白秋文学コース ウミウ展望台
城ヶ島のウミウ・ヒメウ及びクロサギの生息地
繁殖期に近づくと足の付け根に白斑が見られます。クロサギ(サギ科)は、留鳥として生息し、磯や干潟で餌をとります。城ヶ島でも繁殖が確認されており、本種の分布の北限と考えられています。三浦市
海鵜展望台を後にして次の景勝地、馬の背洞門を目指しますが、森の中を抜ける遊歩道から望む周囲の景観が素敵なの。木々の切れ目からは岬の景観が垣間見え、視線の先には雄大な大海原も広がるの。1Kmにも満たない僅かな距離なのですが、適度のアップダウンがあり、変化のある散策が楽しめるの。馬の背洞門に少しでも早く辿り着きたい気持ちは分かるのですが、歩く際には周囲にも視線を泳がせてみて下さいね。ここではその中からの幾つかを紹介してみますので、気になる方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。
12. 馬の背洞門 うまのせどうもん 14:17着 14:34発
〔 馬の背洞門 〕 これは自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪・風雨等に浸蝕されてこのような見事な形となったものです。地層は第三紀層・鮮新統・三浦層群に属し、土質は凝灰質砂礫岩という軟かい岩質です。高さ8m・横6m・厚さ2mで、土地の人は「馬の背の洞門」のほか「めぐりの洞門」、「眼鏡の洞門」などと呼んでいます。そのどの名前もみな洞門の形から推して名付けたものです。明治の文豪、大町桂月はここを訪れて次のように述べています。「−馬の背に至る、怒濤脚下の巌を噛む、左は房州、右は伊豆、前には雲の峰聳ゆ、その雲の峰少し薄らぎて中より大島あらわる、馬の背はやがて馬の首となり、長巌海に突出す云々」三浦市
13. 島外海岸 すまひとかいがん 14:34着 14:52発
馬の背洞門のある赤羽崎に続いて島外海岸が広がるの。先程歩いた安房崎の岩礁伝いの道に比べれば砂地も多く、割と歩きやすい道が続くの。波打ち際の景観にしてもそれほど大きな変化があるわけではないのですが、お勧めは後ろを返り見たときの馬の背洞門の景観なの。間近に見る馬の背洞門はダイナミックで荒々しい姿で迫りますが、遠ざかるにつれて優しい表情を見せてくれるの。この島外海岸を過ぎてしまえば、城ヶ島ハイキングコースの行程も残りあと僅か。やがて前方に城ヶ島灯台が顔をのぞかせるようになるの。
以前訪ねたときには長津呂崎の入り江から「あそび舟」が出ていたの。漁船の小舟を使用したスリリングな海上遊覧が楽しめたのですが、もう一度乗船してみようと案内所を訪ねたのですが、誰もいなくて。城ヶ島にお出掛けの際には是非チャレンジしてみて下さいね。
14. 城ヶ島灯台公園 じょうがしまとうだいこうえん 15:17着 15:25発
〔 海への祈り 〕 海、それは無限の可能性とロマンを秘めた人類最後のフロンティアである。古来日本は蛋白資源の多くを海に求め、今も海との共存が続いている。そしてこの果てしなく広がる大海原には海に殉じた男達の物語がある。母なる海は、時には怒りの海ともなる。怒涛逆巻く海の彼方で妻子を偲びつつ奮闘したあたな達がいたからこそ、今の水産日本がある。この像は海に関わる有志が集い、遙かなる海へ、航海の安全と豊漁、家族のしあわせを願ってこの丘に建て、あなた達の勇姿を永遠に顕彰するものである。平成4年(1992)5月 三崎港海の顕彰碑建立実行委員会 委員長 四宮秀雄 海への祈り像 制作 山崎溥之 溥の字ですが、正しくは「冫」偏なの。 表示不能ですので、代用文字で御容赦下さいね。
15. 城ヶ島灯台 じょうがしまとうだい 15:26着 15:33発
〔 城ヶ島灯台 〕 城ヶ島灯台の歴史は古く、慶安元年(1648)当時三崎奉行であった安部次郎兵衛が徳川幕府の命に依り、航行する船のために島の東端安房崎に烽火台を設けたのが始まりで、延宝6年(1678)にこれを廃して島の西端に灯明台を設けました。その後、享保6年(1721)に代官・河原清兵衛が再度篝火に代えましたが、この火光については晴夜光達約30Kmと伝えられ、燃料費は浦賀入港の船舶から徴収していたと云われます。この篝火に依る灯台は明治3年(1870)8月12日夜まで続きましたが、以後フランス人技師の設計造築に依る新灯台に代わりました。
この新灯台は我が国5番目の洋式灯台で、関東大震災(1923)で損壊しましたが大正15年(1926)に改築、現在の灯台は「灯質 閃白光15秒に1閃光、光度31万カンデラ、光達距離 約29km、灯高 基礎上9.1m、水面上30.1m」で、今日まで城ヶ島沖を航行する船人の心の灯となっています。三浦市
16. 磯料理・かねあ いそりょうり・かねあ 15:38着 16:14発
17. 楫ノ神社 かじのじんじゃ 16:23着 16:38発
お腹を満たしたところでお土産屋さんの店先を覗き見ながら城ヶ島BTに向かいましたが、陽射しが陰るにはまだ早く、乗車予定のバスの到着時刻にも今少しの余裕があることから、楫の三郎伝説の残る灘ヶアに足を伸ばしてみたの。楫ノ三郎神社は山頂に小さな供養塔が祀られるだけの小さなお社なのですが、三郎が漂着した当時は、山頂から俯瞰する周囲の景観も現在のものとは大きく異なっていたハズよね。今となっては当時の景観を知る由もありませんが、現在の展望を紹介して往時を偲ぶ縁(よすが)とし、此度の散策を終えますね。
18. 城ヶ島BT じょうがしまばすたーみなる 16:41着 16:52発
19. 京急・三崎口駅 みさきぐちえき 17:18着 17:23発
20. 京急・品川駅 しながわえき 18:40着
紹介した城ヶ島の岬めぐりですが、ガイドブックなどには所要時間2時間余などと案内されていますが、とてもそんな時間では廻り切れるものではないわね。城ヶ島は周囲僅か4Km程の小さな島なのですが、岩礁の道は変化のある景観が楽しめ、見所も多いの。出来れば時間の余裕を持ってお出掛け下さいね。今回の散策で印象に残るのはやはり「城ヶ島の雨」の一小節が刻まれた白秋碑で、歌の創られた背景に思いを馳せれば、石碑に刻まれた文字が俄に情感を伴い語りかけてくるの。城ヶ島にお出掛けの際には是非お立ち寄り下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように・・・・・・・
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
尚、記述中で現地案内板や碑文の内容を紹介していますが、転載にあたり一部修正加筆しています。
なので、必ずしも原文のままとは限りませんので、予め御了承下さいね。
〔 参考文献 〕
新書館刊 川本三郎著 白秋望景
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など
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