≡☆ 新河岸川沿いのお散歩《 ふじみ野市編 》☆≡
2025/12/13 & 2026/02/15 & 2026/04/11 & 2026/05/02

特集・川越歴史散策の 新河岸川沿いのお散歩 では立ち寄らずして終えていた福岡河岸記念館ですが、調べてみると川越市のお隣り、ふじみ野市側でも福岡河岸を中心に舟運が発達し、往時の名残りを今に伝えていることを知ったの。そこで今回は姉妹編としてふじみ野市側を歩いてみることにしたの。掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。また、隠し画像も随所に埋め込んでおきましたので是非クリックしてみて下さいね。

新河岸川沿いの歴史散歩

1. 上福岡駅( 東武東上線 )東口 かみふくおかえき 9:25発
Map : ふじみ野市上福岡1-1 Plus Code : VGF6+GM ふじみ野市、埼玉県

2. 福岡橋BS ふくおかばしばすてい 9:36着発
Map : ふじみ野市福岡 Plus Code : VGHV+65 ふじみ野市、埼玉県

全くの余談なのですが、訪問する前の下調べをしていた際に最寄りのバス停を地図上に見つけて喜び勇んで運行系統を調べたのですが、それが西武バスの大宮駅西口行で、瞬間救世主が現れたかと思いきや、その運行ダイヤを見て思わず目が点になってしまったの。何と平日 12:43 の便のみ!で、土日の運行が無かったの( 2026.02 現在 )。脳天気な旅人には殆ど廃止路線としか思えないのですが、平日一日一便、それもお昼時の運行に多くの利用者がいるとは思えず、コストが嵩むであろう路線の維持にどんな意味があるのかしらね。因みに、左掲の画像で奥側に高く聳え立つ方が西武バスのバス停標で手前がふじみん号のものよ。

3. 早船発祥の地 はやぶねはっしょうのち 9:40着 9:43発
Map : ふじみ野市福岡536 Plus Code : VGJV+4F ふじみ野市、埼玉県

ここでちょっと気になったのが最初に早船を始めた砂村の善兵衛にしても、引き継いだ下福岡の栄次郎にしても船持船頭なのでその身分は農民だったのではないのかしら、碑には吉野栄次郎とあるのですが当初は名字を持っていなかったのでは−と云うことなの。そんな疑問を持ちつつ他にもふじみ野市のことを色々と調べていたときに、ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館&大井郷土資料館発行の資料館通信第72号に偶然にもズバリの解答を見つけたの。結論から先に云うと、名字を得たのは川越藩から御用荷物の運搬を任された吉五郎からで、栄次郎の代には名字を持っていなかったみたいなの。吉五郎はその功績が認められて名字帯刀が許されるようになったのですが、実は単に御用荷物の運搬をしただけではなかったの。

資料館通信の記述を要約してお伝えすると、当時の時代背景として黒船来航以来江戸湾の防衛強化を進めてきた江戸幕府は品川沖に台場( 砲台 )の建設に着手、川越藩にもその警固を命じるの。川越藩は以前から三浦半島に領地を有していたことから相模国の沿岸警備を受け持つことになり警固の武士などの人員や物資を輸送していたのですが、台場が新たに加わったことから更に大量の人員物資輸送の必要性に迫られるの。一方、新河岸川の舟運も周辺地域の経済的な発達にともなう大量輸送の必要性に応えるべく盛んになっていたの。そうなると回漕問屋や河岸場同士、また船頭らの間でも色々と揉め事が起こるようになってきて、監督する立場の川越藩でも難儀していたみたいね。その現状に意を決して立ち向かったのが吉五郎なの。

川越藩と協力して回漕問屋と河岸場の統制を図ると共に御用荷物の効率的な運搬を上申するの。自らもまた川越藩の御用荷物を江戸まで運び、更に品川の陣屋や台場までの運搬を指揮したの。何と御用物資に関しては継続してタダ(!)で運搬したみたいよ。更には私費で御用船を建造して川越藩に提供するなどしたの。それらの功績が認められて吉五郎は嘉永6年(1853)12月に名主格と名字帯刀が許されるようになるのですが、異例の大出世で、時流をよむ機知に富み、決断力もある人だったみたいね。下記は嘉永6年(1853)12月に発行された川越藩からの名主格と名字帯刀の許可状( ふじみ野市指定文化財・早船屋文書 )ですが、残念ながらこの書状だけでは何故吉野姓になったのかまでは分からないわね。因みに、その名がみえる井上清兵衛は川越藩士で、吉五郎と二人三脚でことにあたった人物ですが、二人には身分を超えた信頼関係があったのかも知れないわね。

御用向被仰付候控
福岡村吉五郎
其方儀、品川御台場附船御用申附、井上清兵衛与申者江附属申付候
依之其身一代名主格申付井苗字地廻( 帯刀差許候 )

4. 下福岡墓地 しもふくおかぼち 9:48着 9:54発
Map : ふじみ野市福岡492 Plus Code : VGHV+9W ふじみ野市、埼玉県

5. 大杉神社 おおすぎじんじゃ 10:00着 10:06発
Map : ふじみ野市福岡新田107 Plus Code: VGGR+XJ ふじみ野市、埼玉県

天狗は大杉神社の御神体とされているのですが、当初の天狗面は無くなってしまい、今あるのは昭和51年(1976)に改めて造られたものだそうよ。それにしても新河岸川や荒川筋のみならず、鬼怒川や那珂川・霞ヶ浦筋の船頭らも奉納者に名を連ねるなど、徳川家康江戸入府以来の関東諸河川の大幅な流路変更や河川改修が背景にあるとはいえ、舟運関係者のネットワークの広さには感心させられるわね。因みに、この後に訪ねる歴史民俗資料館にこの奉納額( 複製 )が展示されているので、間近に詳細を確認することができますので忘れずにね。また、福岡河岸記念館には嘗て大杉神社の境内に建てられていたという石灯籠が移設・展示されているのでそちらも忘れずにね。ここでグリコのオマケで昔話を一つ紹介しておきますのでお楽しみ下さいね。

とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども、その日も江戸から沢山の積み荷を乗せた船がこの新河岸川を上ってきたときのことじゃった。それまでは青空が広がり陽射しもたっぷりとあって穏やかな川面だったんじゃが、西の空に黒い雲が現れ強風が吹き始めたかと思うと稲妻が飛び交い俄に大雨が降り出してきたそうじゃ。船頭達は急いで船を横付けできるような岸辺を探しながら船を走らせてみたんじゃが見つからんでのお、水嵩もみるみるうちに増してきて風の勢いもあって船倉にも水が流れ込んできたそうじゃ。それはまるで嵐のようでのお、このままでは大事な積み荷が水浸しになってしまうと船頭達は皆して水をかい出してみたんじゃが、流れ込む水の方が多くてのお、それでも何とかせにゃならんと必死に水をかい出しておったそうじゃ。そうしてどの位時間が経った頃じゃろうかのお、船頭達もすっかり疲れ切ってしまい諦めかけたときのことじゃったそうな。目の前が急に明るくなったかと思うとその光の中から大きな天狗が現れたそうじゃ。そうして「 我こそは大杉大明神に仕える大天狗じゃ。汝等平素より大杉大明神に帰依すること誠感心なり。褒美にこの嵐を鎮めてやるから安心いたせ 」と云うなり忽然と姿を消してしまったそうじゃ。半信半疑の船頭達じゃったが、間もなくして吹き荒れていた風も止み、川面も嘘のように元の静けさを取り戻したそうじゃ。これはまさしく大杉大明神のなせる業、その威徳に感謝した船頭達は舳先に祀られている神棚に手を合わせていると、果たしてそこには巻物が置かれておったそうじゃ。これぞ大杉大明神の御神体に相違ないと思った船頭達は、その巻物をこの大杉神社に納めて大切に護り続けたそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

大杉神社の総本社とされるのが茨城県稲敷市阿波にある大杉神社で、あんば様の別称でも呼ばれているのですが、伝説によると、海が荒れて遭難する船も多くあったことから大杉大明神に航海の安全を祈願をしたところ、天狗が現れて航海の安全を約束したと云われているの。そうしたことから漁師や船乗りなどから信仰をあつめ、河川では江戸川や利根川流域の舟運関係者の間でも篤く信仰されるようになるの。下福岡の大杉神社もその延長線上にあり、阿波・大杉神社から勧請されたものになるの。紹介の最後になりますが、敷地の一角には梅年句碑も建てられていたの。

〔 梅年句碑 〕「 兎角して、来須に盤おかぬ、し九連哉 」とかくして こずにはおかぬ しぐれかな
明治時代に日本の俳壇に於いて重きをなした俳人の一人、雪中庵梅年の句です。梅年は文政4年(1821)、現在の川越市並木の小林家で生まれました。父親と早く死別し、下福岡にある母親の実家の原田家で育てられ、原田幸次郎と名乗りました。川越での足袋職人修行の後に、江戸深川で足袋店を営み、その傍ら俳諧を学びました。天保8年(1837)、17歳で松尾芭蕉の系譜を引く雪中庵対山の門下となり、明治7年(1874)に8世雪中庵を継承し、引退後は不白軒( ふはくけん )を名乗りました。晩年の梅年は、東京と福岡村( 現在のふじみ野市 )をはじめ、川越南部から入間郡東部一帯の地域との間を往復して熱心に活動しました。昭和46年(1971)1月、雪中庵梅年顕彰会と福岡町教育委員会( 当時 )は、当地方に於ける俳諧の伝統文化を遺した梅年の功績を讃え、後世に伝えるために句碑を建立しました。

6. 慶珍地蔵尊 けいちんじぞうそん 10:32着 10:34発
Map : ふじみ野市富士見台 Plus Code : VGFF+2G ふじみ野市、埼玉県

−元弘3年(1333)5月13日早暁、小手指河原( 所沢市 )の北部に陣を張った新田義貞の軍約1,700人と、久米川( 東村山市 )の線に部隊を集結した鎌倉軍( 総大将・北条泰家 )約3,000人の合戦でした。13日の午後、曇り空が雨に変わった頃には、数で劣っている新田義貞軍は250人もの死者を出し、相手にもそれに近い損害を与えたけれど、これだけの死者と、それに倍する負傷者を抱えてこれ以上の合戦を続けることは不可能だった。義貞は、夜明けとともに攻め寄せてくる敵軍をとてもくい止めることは出来ないとみて久米川を渡って退いて将兵を休ませ、負傷者の手当てをした。ここで北条軍が今一押し攻撃をすれば、新田軍は散々になったのだが、北条泰家は今日の戦勝におごって陣を分倍河原に移して酒を飲み、ゆっくりと寝てしまった。その隙を突いて14日の深い霧の中を新田軍が一気に突入してきた。驚いた北条軍は、大将の北条泰家をはじめとして鎌倉目指して逃げ散ってしまった。戦いは15日朝まで続いたが、この戦が北条氏の運命を決定することになった−

しばし思いに耽って、武将は疲れ果てた身をようように起こし短刀を脇腹に突き刺して自害しました。その後数日の間冷たい雨の日が続いたと云います。それから随分後になりますが、慶珍と云う僧がこの地を通り掛かり、地蔵を建ててこの武将を弔ったと云われています。

7. 上福岡歴史民俗資料館 かみふくおかれきしみんぞくしりょうかん 10:44着 11:43発
Map : ふじみ野市長宮1-2-11 Plus Code : VGGH+88 ふじみ野市、埼玉県

の字は「 はけ 」と読み、本当は土偏付きの( 土+赤 )が正しいのですが、表示不能ですので代用文字にて御容赦下さいね。御嶽塚のあった場所ですが、現在は民家が建ち、往時を偲ばせるものは何も残されていないの。

建物の入口玄関前にも破損した謎めいた石柱が・・・

〔 植桜樹の碑 〕銘文に「 紀元二千六百年記念 植桜樹二百本 」とあるように、神武天皇即位から2,600年経ったとされる昭和15年(1940)を祝って当時の火工廠( 東京第一陸軍造兵廠福岡工場 )の従業員が桜の苗木200本を共同で購入して火工廠に寄付して植えた。火工廠の門鑑( バッジ )は、桜の花をあしらっており、東京第一陸軍造兵廠廠歌の歌詞にも「 われらの胸の桜花 」と云うフレーズがあることから、祝賀に相応しいとして桜の植樹が行われたと思われる。火工廠は軍事工場であるため、中が容易にのぞけないように高い塀と桜の他にも多くの樹木で覆っていた。福岡中央公園から市役所へ向かう県道の歩道の旧第二小学校跡地付近に11本のシイの大木があるが、そういった樹木の名残である。この碑は昭和46年(1971)頃まで現本庁舎増築部分にあった池付近にあったが、新庁舎建設に伴い旧上福岡公民館の敷地内に移された。ステラ・イーストへ建て替える際に貴重な歴史資料として上福岡歴史民俗資料館へ移転した。

〔 上福岡歴史民俗資料館の敷地の歴史 〕明治15年(1882)9月に花の木中学校の北側を流れる新河岸川のほとりに、福岡村・中福岡村・福岡新田3村の学校として三福学校の校舎が建設され、大正6年(1917)まで使用されてきました。その校舎が、現在の歴史民俗資料館の場所に移築し、大正8年(1919)から福岡村役場の庁舎として使用され、昭和35年(1960)の町制施行で町役場となりました。昭和47年(1972)に福岡町が上福岡市として市制施行するに先立ち、現在のふじみ野市役所本庁舎の場所に、旧上福岡市役所が建設されて、役場は移転し、空き家となりました。昭和51年(1976)から郷土資料館開設準備室の事務所兼収蔵庫が設置され、土器、石器などの考古資料や衣食住用具や農具などの民俗資料を収蔵していました。昭和56年(1981)6月に「 上福岡に郷土資料館をつくる会 」など4団体によって「 新郷土資料館早期建設の要望書 」が市長宛に提出され、年内に郷土資料館( 仮称 )の基本構想が発表されました。郷土資料館開設準備室として使用されていた町役場庁舎は、昭和57年(1982)に解体撤去、跡地に上福岡歴史民俗資料館の建物が建設され、昭和58年(1983)11月に開館しました。以来43年にわたって、特別展、企画展、学習講座、体験学習などを行ってきました。

8. 長宮氷川神社 ながみやひかわじんじゃ 11:45着 12:04発
Map : ふじみ野市長宮2-2-4 Plus Code : VGGG+RX ふじみ野市、埼玉県

それを見届けた命はすかさず腰の十握剣( とつかのつるぎ )を抜いて大蛇をずたずたに切り刻んでしまったのじゃ。ところがじゃ、大蛇の尻尾を切り刻もうとしたときのことじゃった。命の剣が刃毀れしてしまってのお。不思議に思うた命が切り裂いてみると、そこからは剣が出て来たそうじゃ。それこそ後に伝わる草薙の剣( くさなぎのつるぎ )じゃった。命は「 この剣は不思議な剣じゃ。吾如きがどうして持っておられようぞ 」そう云って姉神の天照大神に差し出したそうじゃ。

そうして命は奇稲田姫と婚姻する場所を求めて最後に辿り着いたのが出雲の国の清地( すが )と云うところじゃった。命は「 吾が心、此の地に到りて清々しいものよ 」と云うと、そこに宮殿を建てて住んだそうじゃ。奇稲田姫と遘合( みとのまぐあい )して大己貴神( おおなむちのみこと )が産まれたのじゃが、その命もやがて根の国に赴いて行ったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

9. 西養寺跡 さいようじあと 12:11着 12:15発
Map : ふじみ野市滝3-4-6 Plus Code : VGJH+69 ふじみ野市、埼玉県

10. 権現山古墳群史跡の森 ごんげんやまこふんしせきのもり 12:19着 12:30発
Map : ふじみ野市滝1-4-18 Plus Code : VGJH+42 ふじみ野市、埼玉県

周囲には溝が廻らされ、くびれ部は溝幅5m80cm、深さ1m。前方部は溝幅1m、深さ40cmです。古墳の上には、葬送儀礼のために食べ物などを持った高坏や壺などの土器が供えられました。発掘調査により周囲の溝からは墳丘から転がり落ちた状態の土器4点が発見され、その中には儀礼専用に使用されたもので、わざと底を打ち欠いているものもありました。これは後の埴輪へと変容していったと考えられます。「 権現山 」の名前は、江戸幕府を開いた徳川家康が鷹狩りのときにここで休憩したという伝承から、家康の別称「 東照大権現 」に由来しています。現在、古墳の上には江戸時代後期に建てられた「 東照神祖命 」の石の祠が祀られています。平成22年(2010)・令和6年(2024)3月改訂 ふじみ野市教育委員会

墳上に祀られている「 東照神祖命 」碑は、天保11年(1840)に回漕問屋「 吉野屋 」の吉野吉蔵により建てられたものだそうよ。

市道の敷設などで墳丘が破壊、あるいは欠損・削平されていたりしてるなど保存状態はかなり厳しくて、2号墳は未だしもどれが何号墳なのか容易には判別出来ないの。墳丘の大きさも2号墳を別格として、比較的大きいもので3号墳が一辺10m70、5号墳が13m、7号墳は約16mほどで、他は一辺が概ね4m〜10m未満の方形墳と見做されているようね。発掘調査は完全な形で行われたわけではなくて一部は周溝のみの調査で終えているなど、今後の調査次第では新たな知見が得られる可能性も大いにありそうだけど。

11. 茂兵衛地蔵 もへいじぞう 12:40着発
Map : ふじみ野市福岡3-4-5 Plus Code : VGPF+36 ふじみ野市、埼玉県

ここ福岡河岸は対岸の古市場河岸から少し遅れて享保18年(1733)頃に福岡村の人達が農業の傍ら僅かな手間賃を得て回漕業を営んだのが始まりとされているのですが、初めは富田紋右衛門と云う人が個人的に始めたものだったみたいよ。地元に残る【近藤光男家文書】には「 古へは此地藪なりしが 享保の頃 當村民冨田紋右衞門と云ふ者 此處に住し 始めて此河岸を始めけるより紋右衞門河岸と稱しけるが 後に福岡河岸と傳ふ 云々 」とあり、当初は紋右衛門河岸と呼ばれていたみたいなの。その後安永2年(1773)に幕府から正式に公認されるのですが、その際に福岡河岸に名称変更したのかも知れないわね。そのときに船問屋として営業していたのが吉野半兵衛( 吉野屋 )・吉野三之助( 江戸屋 )・富田門左衛門の三者だったの。因みに、この後に訪ねる旧・福田屋は遅れて天保2年(1831)の開業になるの。

これはξ^_^ξ個人の想像の域を出ないのですが、その辺りに茂兵衛さんの生き埋め伝説が生みだされた素地があるような気がするの。想像を逞しくしすぎかしら。それはさておき、その茂兵衛さんの生き埋め伝説とやらを昔話風にアレンジ( 俗にデッチアゲとも云う )してお届けしてみますね。

とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども、この福岡に茂兵衛さんと云うお百姓さんがおってのお、そん頃はこの辺りの田圃はみな泥田で、田植えも稲刈りも腰まで泥にどっぷりと浸かりながら作業する大変な重労働じゃった。加えて川が氾濫して洪水になることも多くてのお、収穫を前にして稲が皆なぎ倒されてしまうなど、充分な収量が得られんときも間々あったそうじゃ。そんなときでも役人からの年貢の取り立てはやかましくてのお、百姓はみな飲まず食わずの厳しい生活をしておったそうじゃ。そん日も茂兵衛さんは泥田に腰まで浸かり田舟を押しながら稲刈りをしておったんじゃが、役人が名主を引き連れて見廻りにやって来たそうじゃ。じゃけんども、役人が見廻りに来ると百姓は作業の手を休め、道端に土下座して迎える決まりになっておってのお、当然じゃが、その間作業が出来ず稲刈りが遅れてしまうので、茂兵衛さんは日頃から何かとやかましく云う役人が憎らしくてしょうがなかったそうじゃ。

そんなんで役人が茂兵衛さんの目の前に来たときのことじゃったそうな。我慢出来なくなった茂兵衛さんはいきなり役人に飛びかかるとそのまま泥田の中に引き釣りこんでしまったそうじゃ。さすがの役人もこれにはびっくりしてのお、泥だらけのまま慌てて城に逃げ帰ったそうじゃ。じゃが今度は役人が大勢を引き連れて茂兵衛さんを取り押さえに来ることになってのお。じゃけんども茂兵衛さんは最初からそうなることが分かっておってのお、家に帰り白装束に身を固めると養老橋の袂近くに穴を掘り、竹筒を口に咥えると鉦を叩きながら自らその穴の中に入っていったそうじゃ。そうして、この鉦の音が聞こえなくなったら死んだと思うてくれ−と云うと、集まり来た村人達に穴を埋めてくれるよう頼んだそうじゃ。村人達はどうしたものかと思案しておったのじゃが、役人達に捕まれば打首は免れず、村人達はしかたなく皆して穴を埋めてしまったんじゃが、何でも鉦の音は明け方近くまで鳴っていたそうじゃ。茂兵衛さんが自らの命を以てして諫めてくれたお蔭じゃが、それからというもの、野良仕事の邪魔になるような土下座はせずともよくなったと云うことじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

如何でした?お楽しみ頂けましたでしょうか。紹介した茂兵衛さんの生き埋め伝説ですが、他にも幾つか内容の異なるお話があるみたいね。気になる方は by your self と云うことで。(^^;

12. 福岡河岸記念館( 旧・福田屋 ) ふくおかかしきねんかん 12:41着発
Map : ふじみ野市福岡3-4-2 Plus Code : VGPF+45 ふじみ野市、埼玉県

13. 吉野屋土蔵 よしのやどぞう 12:44着 12:45発
Map : ふじみ野市福岡3-4-12 Plus Code : VGPF+66 ふじみ野市、埼玉県

14. 福岡河岸跡 ふくおかかしあと 12:45着 12:46発
Map : ふじみ野市福岡3-4-2 Plus Code : VGPF+6C 川越市、埼玉県

15. 川崎阿弥陀堂 かわさきあみだどう 12:52着 12:55発
Map : ふじみ野市川崎2-7 Plus Code : VGPC+JF ふじみ野市、埼玉県

16. 仙元塚 せんげんづか 13:02着発
Map : ふじみ野市川崎 Plus Code : VGP9+PV ふじみ野市、埼玉県

17. 川崎氷川神社 かわさきひかわじんじゃ 13:03着 13:07発
Map : ふじみ野市川崎147 Plus Code : VGP9+WM ふじみ野市、埼玉県

18. 川崎遺跡 かわさきいせき 13:13着 13:16発
Map : ふじみ野市川崎174?2 Plus Code : VGQ9+CF ふじみ野市、埼玉県

最後に足を向けてみたのがこの川崎遺跡ですが、手許の地図ではバス通りの道沿いに位置してあるように見えたことから周辺の空き地を探し歩いてみたの。But 見つけられず、探しあぐねてようやく地元の方を見つけて訊ねてみたのですが「 もう何10年もここに住んでるけどよお、知らねえなあ 」と云われてしまい、最初に訪ねたときは仕方なく諦めたの。二度目にしてやっと場所が分かった次第よ。追体験される場合はコミュニティーバス「 ふじみん号 」の第三分団前と云うバス停を見つけて下さいね。そこから東に20〜30m歩いたところに、上掲の標柱が建てられている場所が見つかるハズよ。後はその標柱の後ろに続く民家脇の細い道を辿って下さいね。

現地案内板では川崎遺跡は古墳時代の住居跡として紹介されていますが、遺跡自体は旧石器時代に始まり、縄文時代早期から後期を経て古墳時代、奈良平安時代、更には戦国時代から江戸時代と中近世におよび営まれて来た重層的な複合遺跡なの。その中でとりわけふじみ野市の指定史跡とされているのが古墳時代の住居跡ということみたいね。ですが、石が置かれているのでそれと分かる程度で、復原住居が建てられているわけでもないので直感的に理解するのはちょっと難しいわね。それと、案内板では触れられてはいませんが、遺跡からは市内最大規模とされる平安時代の集落跡も見つかっており、竪穴式住居や高床式の建物跡、井戸、更には鍛冶工房の遺構も見つかっているのだそうよ。未調査の区域も多く残されているようなので、今後の調査次第では新たな発見が多いに期待できそうね。

19. 川崎橋BS かわさきばし 13:21着 13:31発
Map : ふじみ野市川崎 Plus Code : VGPC+WM ふじみ野市、埼玉県

実は当初の予定では福岡河岸跡への立ち寄りを以て散策終了の予定でいたの。ところがバス時間をみるとかなりの待ち時間があることが分かり、時間潰しに何か見るべきものが付近にないのかしら−と、探して見つけたのが仙元塚と川崎氷川神社に川崎遺跡を加えた三ヶ所だったと云うわけ。その一方で最初に訪ねたときに川崎遺跡が見つけられないまま途中で断念したのは乗車予定のバス時間が迫っていたからなの。But そのお蔭で再訪する機会を得た訳で、三ヶ所の事蹟に限らず、他にも色々なことを知り得たの。結果的には最初に諦めたのが良かったみたいね(笑)。

それはさておき、今回のお散歩は福岡河岸記念館を除けば見学時間含めても全行程4時間ちょっとの所要時間。出発時間にも依りますが、帰宅時間とするには早めの時間ですので、健脚を自負するあなたならバスに頼らずに駅まで歩いてしまうと云う手もあるわね。

20. 上福岡駅 かみふくおかえき 13:40着
Map : ふじみ野市上福岡1-1 Plus Code : VGF6+GM ふじみ野市、埼玉県

ふじみん号のバス乗り場の傍らには「 福岡駅碑 」が建てられていたの。最初に紹介しても良かったのですが、新河岸川舟運や星野仙蔵氏のことが記されていることから、散策の最後に御案内することにしてみたの。福岡駅碑と併せてその案内板も建てられているのですが、解説に加えて碑文の読み下し文と現代語訳が記されてはいるものの、肝心の碑文( 漢文 )となると活字化されてなくて。仕方なく碑文だけは独自に目視拓本してみましたが、旧漢字が使われていることに加えて難解な文字も多くて、誤読があるかも知れません。お気付きの点がありましたら御指摘下さいね。m(_ _)m

〔 福岡駅碑について 〕大正3年(1914)5月1日に東武東上線の前身・東上鉄道が開通し、上福岡駅が開業しました。福岡駅碑は開業前の2月につくられ、表面には東上鉄道の開通に尽力した星野仙蔵の功績を讃える文と漢詩が、裏面には建碑に関わった人々の名前が刻まれています。星野仙蔵(1871-1917)は、新河岸川舟運で繁栄した福岡河岸の回漕問屋福田屋の10代目当主で、新しい輸送手段である鉄道に注目し、東京と川越を結ぶ鉄道敷設計画に積極的に関わりましたが、仲々実現できずにいました。明治37年(1904)衆議院議員に当選した星野仙蔵は、同じ衆議院議員で東武鉄道株式会社社長でもあった根津嘉一郎と出会い、東武鉄道の敷設に関わって貰うよう働きかけていきました。星野仙蔵は、鉄道敷設事業に明るい根津の協力を得て、地域の人々に鉄道の必要性を訴え用地取得にも尽力し、その結果、池袋と川越を僅か一時間で結ぶ東上鉄道の開通を実現させることが出来ました。鉄道の開通により、この地域の近代化・都市化は急速に進み、人の交流や文化交流も深まり活気あるまちづくりが促進されました。この碑は、駅開設当時ホームに建てられたもので、上福岡駅東口駅前広場の整備に伴い、この場所に移設しました。平成25年(2013)2月 ふじみ野市

福岡驛碑
中武之地土壤豐腴農桑甚盛然交通之便運輸之利尚未開若福岡
邑等葢其尤也邑豪族星野仙藏君常以爲憾衆庶亦慕君徳嘗爲縣
會議員又爲衆議院議員君嘗以功敍勳四等出則盡力於國亊入則
用心於農桑屡損私貲圖交通運輸二十年偶明治四十二年根津嘉
一郎君等首唱東上鐡道敷設之議根津君亦爲衆議院議員勳四等
而其名夙重於實業者間君聞此議欣然曰吾亊成矣乃與倶謀議以
克合衆庶亦徳二君爭醵金獻地經營數年軌路成焉火車通爲斯邑
敷一大車站命曰福岡驛驛當東上鐡道襟喉於是交通之便運輸之
利始開行旅群集百貨輻輳衆庶舞躍歡呼曰是二君之賜也不及今
建碑紀徳吾儕非人也及价人請文于余余不辭而叙之仍系叺銘曰
   國曰武藏 驛曰福岡 鐡路所通 車站有塲
   彼此相濟 民業以昌 勒功貞石 千載傳芳
大正三年歳次甲寅二月下澣
       鐡道院總裁正四位勳三等 床次竹二郎 篆額
              從六位勳六等 樫田三郎 撰
                  上毛 高松彦六 書

[ 書き下し文 〕中武の地土地豊腴( ほうゆ )農桑甚だ盛んなり。然れども交通の便、運輸の利、尚ほ末だ開けず。福岡邑( むら )等蓋( けだ )し其の尤たるものなり。邑の豪族・星野仙蔵君常に以て憾( うら )みと為す。衆庶亦た君の徳を慕ひ、嘗 [ ママ=拳 ] げて県議会議員と為し、又衆議院議員と為す。君誉て功を以て勲四等に叙せらる。出ででは則ちカを国事に尽くし、入れば則ち心を農桑に用ゐ、しばしば私貲を損して交通運輸を図る。二十年偶々( たまたま )明治42年(1909)根津嘉一郎君等東上鉄道敷設の議を首唱す。根津君亦た衆議院議員勲四等たり。而( しこう )して、その名夙( つと )に実業者の間で重んぜらる。君此の議を聞き欣然として曰く吾事成れりと。乃( すなわ )ち興に倶に謀り議を以て克( よ )く合う。衆庶亦たに君を徳とし争ふて醵金( きょきん )を献ずるなり。経営数年軌路成り火車通ず。斯の邑一大車站を設け命して福岡駅と曰う。駅東上鉄道の襟喉( きんこう )に當る。是に於てか交通の便運輸の利始めて開け、行旅群集百貨輻湊( ふくそう )す。衆庶舞躍歓呼して曰く、是れ君の賜なり。今に及んで碑を建て徳を紀せずんば、吾儕( ごせい )人にあらざるなりと。乃ち人を价して文を余に請う。余辞せずして、之を叙す。仍( よっ )て系くに銘を以てす。曰く
国を武蔵と曰ひ、駅を福岡と曰う。鉄路の通る所、車站の場あり。
彼此相済みて、民業を以て昌( さか )ふ。貞石に功を勒( きざ )み、千載に芳を伝ふ。

( 現代語訳 )武蔵中部の土地は肥沃で、農業や養蚕が盛んではあるが、交通の便や運輸を行う地の利が未だ不十分であった。福岡村もその例にもれず不便な状況であった。福岡村の名望家である星野仙蔵氏は、このことを残念に思っていたが、村の住民の人望によって、県会議員や衆議院議員になった。仙蔵氏は( 議員になったら )国のために尽力し( 地元にあっては )農業や養蚕業が発展するように配慮した。私財をなげうって交通運輸のために尽くし、その功績により勲四等に叙勲された。明治42年(1909)に( 東武鉄道の創始者で社長の )根津嘉一郎氏と出会い、東上鉄道を敷設しようという主張を唱えた。根津氏も衆議院議員で勲四等に叙勲されており、その名声は実業者の間でも重んじられていた。仙蔵氏はこの議論を大いに歓迎し、根津氏と話し合って、これで私の考えていたように東上鉄道が実現できると仰った。人々は仙蔵氏の立派な行為に対して争って金銭を寄付した。東上鉄道の敷設事業は数年間にわたって行われ、線路が敷かれて汽車が走るようになった。福岡村に規模の大きな駅が設けられ、福岡駅と命名された。東上鉄道でもまさしく重要な駅の一つとなった。交通・運輸の便や地の利が生きるようになり、旅行を行うにも便利になった。多くの人々や物資が( 福岡村に )集まるようになり、村の住民は躍り上がって喜び、「 これは仙蔵さんの素晴らしい業績です 」と口々に讃えた。この功績を記念して我々としては何としても碑を建てないわけにはいかない。銘文について依頼されたので私は喜んで記述した。
武蔵という国に福岡という駅がある。鉄道が通って駅がある。
色々と取引が行われて、民の商売は繁栄する。石碑に功績を刻んで、その名声を千年に至る将来まで伝える。
※書き下しに当たっては福田屋文書を参考にしました。












ふじみん 今回のお散歩は 新河岸川沿いのお散歩 を機に同じく舟運で栄えた福岡河岸のことが気になり足を延ばしてみたものですが、結局訪ねること数度に及んでいるの。散策を終えて今思うことは、当時を生きた人達が何と多くの事績を今に残してくれているかと云うことね。それは建物であったり、時には路傍に佇む石仏であったりしますが、その向こうには当時の人々の息づかいが今も感じられ、自然を相手に己の力が及ばざるを知ったときにはひたすら神仏に加護を求めながら、それでもたおやかに、そして懸命に生きた当時の人々の姿が見え隠れしているの。ときには自然に抗う術を持ち、ありとあらゆる文明の利器に囲まれて暮らす今のξ^_^ξ達には物質的なもの以外に一体何が残せるのかしらね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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【参考文献】
岩波書店刊 日本古典文学大系 日本書紀
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
光文社刊 花山勝友監修 図解・仏像のすべて
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール
埼玉県神社庁刊 埼玉県神社庁神社調査団編 埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父
ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館 編集・発行 第23回特別展示図録「 河岸場と河岸道〜新河岸川舟運を中心に〜 」
ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館&大井郷土資料館発行 資料館通信第72号
ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館&大井郷土資料館発行 資料館通信第79号
ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館&大井郷土資料館発行 資料館通信第81号
ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館&大井郷土資料館発行 資料館通信第85号
ふじみ野市立福岡河岸記念館 展示解説シート No.1 〜 No.5
上福岡市教育委員会刊 市史調査報告書第13集 上福岡の社寺と指定文化財
川越市立博物館刊 常設展示図録
その他、現地にて頂いてきた栞・パンフレットなど






どこにもいけないわ