≡☆ 雑司が谷界隈のお散歩 ☆≡
2008/04/12 & 2008/04/20

今回の散策コースの最後を飾るのが護国寺よ。都心にあるとは思えない程の広い境内には、多くの堂宇や事蹟が残されているの。その護国寺を訪ねる前に道すがらの寺社にも寄り道してみましたので併せて紹介してみますね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。画像にマウス・カーソルをのせてみて下さいね。

本納寺〜大鳥神社〜宝城寺〜清立院〜護国寺

14. 本納寺 ほんのうじ

再び鬼子母神の門前に戻り、大門の欅並木参道を先程は左折したのですが、今度は右折して道なりに進みます。程なくしてあるのがこの 本納寺 ですが、注意して歩いていないとそれと気付かずに通り過ぎてしまいそうなくらい、控えめな門構えなの。その清楚な佇まいは俗垢にまみれたξ^_^ξのような俗人の入境を拒むかのようで、深入りは出来ませんでした。その装いから尼寺、それも禅宗系のそれを勝手に想像したのですが、この本納寺も日蓮宗系寺院で法明寺末なの。その開創は寛永5年(1628)に実蔵院日相上人が三宝諸尊を祀ったことに始まるとされるの。

この実蔵院日相上人ですが、法明寺第22代住持の日相上人とする記述が多いのですが、【櫨楓】では片や延宝6年(1678)、片や享保7年(1722)の死寂を記していますので、別人として考えた方が良さそうに思えるのですが。

境内 本納寺にはその三宝諸尊の他にも寺宝とされる三光天子像が祀られているの。聞きなれない尊名ですが、調べてみると日月星を象徴する日天子、月天子、明星太子のことだそうよ。何故、三光天子なのか気になるところですが、縁起でも「開山実蔵院日相聖人 信仰に依りて安置すといへ共 其の伝来の由不詳」と正直 (^^; に告白しているの。今でも行われているのかどうかは分かりませんが、その三光天子像を前にして嘗ては七夜待と呼ばれる修法が行われていたそうよ。

内容としては毎月17日の夕べから23日の明け方まで日月星の三つが同時に天空に昇るのを待ち、終夜連続で読経唱題するのだとか。何やら不思議な修法ですが「月々此尊影を再拝して起念志願の行者は 己心の明鏡に仰天の日月星辰を写奉り 我其心妙法より出現し給ふ応身の三光尊天なれば 霊験威応は真如の日月諸天の影向に異なる事なし」だそうよ。難し過ぎてξ^_^ξにはな〜に云ってんだか・・・の世界。皆さんの御賢察にお任せモードよ。

手入れの行き届いた植え込みには幾つか石碑が建てられていましたが、月花塚の風流な名前に惹き付けられて収めてみたのがこの一枚。何が記されているのか気になるところですが、達筆過ぎてξ^_^ξには○×□△の世界。調べて見ると揮毫したのは狂歌師の蜀山人こと大田南畝(1749-1823)で、狂歌を好んだ料亭・茗荷屋の二代目沖右衛門が碑文にある両名の夭逝を悼み、社中の仲間に呼びかけて建てたものだそうよ。碑には
今宵見る月の外にもさかづきにみちてこぼるる酒も又よき 信仁亭月和孝
花のみか酒さへあるがおもしろしゆめのよし原夢の世の中 花信亭明鐘起

と刻まれているの。石碑の完成時には追悼の狂歌会が盛大に催され、多くの狂歌仲間が手向けの歌を寄せているの。とりわけ石碑建立の主管者・沖右衛門には両名は無二の友だったようで、次の句と共に追悼文を寄せているの。いつの世でも友を失うと云うのは辛く悲しいことよね。因みに、監梅舎幸伎は二代目沖右衛門の雅号よ。
おもひ出てなみだに絞る袖袂花の曙月の夜すがら 監梅舎幸伎

15. 大鳥神社 おおとりじんじゃ

この大鳥神社ですが、嘗ては鷺明神社とか鷺大明神と呼ばれていたの。縁起に依れば、正徳2年(1712)、松江藩主・松平宣維(まつだいらのぶすみ)は嫡子の萬千代(後の宗衍:むねしげ)が疱瘡を罹病した際に、領国の出雲国神戸郡鷺村鷺浦(現:島根県出雲市大社町鷺浦)より鷺明神を勧請したものとされているの。鷺明神とは聞き慣れない神名ですが、素戔嗚尊の妻女とされ、その正体は十羅刹女の第九皐諦女だと云うの。神威は疱瘡除けの守護神にあり、その鷺明神が告げて云うには「我 これより鬼子母神の神籬(ひもろぎ)の内に鎮座し衆人を衛護せん 若し広前の石を拾い取りて護符とせば決して悪瘡に悩まされることなかるらん」と宣うたとか。

本当は妻女と云うよりも妾女 (^^; みたいだけど、十羅刹女と素戔嗚尊の組み合わせは神仏混淆のなせる業で、後世の創作の匂いがプンプンするわよね。【新編武蔵風土記稿】では鷺明神社の祭神を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)としているの。瓊瓊杵尊は天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫にあたり、天照大神が栽培した稲穂を携えて地上に降り立ち、此花咲耶姫と結ばれると海幸彦、山幸彦など3人の神子をもうけているの。その姿は季節になると新たな生命を宿して芽吹く稲穂の象徴でもあり、古人は田に降り立つ白い鷺の姿に瓊瓊杵尊の姿が重なり合うようにして見えたのではないかしら。その生命の輝きには疱瘡さえも封じ込める力があると信じられていたとしても不思議では無いわよね。

【編集余滴】無病息災を祈願して神前で奉納される鷺舞神事。元は京都の八坂神社で行われていたものとされるのですが、現在では島根県の津和野などでしか見ることは出来なくなりましたね。鷺明神と鷺舞、一見すると何の繋がりもないように思われるかも知れませんが、鷺に寄せた古人の思いには共通するものがあったのではないかしら。

御神体にしても【風土記稿】では「一寸五分許の白茶色の小石なり」とされているの。異な感じがするかも知れませんが、石に神霊が宿るとする考え方は太古の昔からあるの。大きさや色や形、文様など、その特徴故に特別な霊力を宿すものと考えられ、御神体として祀られる例も少なくないの。その名もずばり、疱瘡石と名付けられたものもあるくらいよ。尤も、その場合には力石のように漬物石ほどの大きさをしているケースが多くて、お守り代わりに普段から身につけておくと云うことは出来ないけど。(^^;

ところで、縁起で云うところの御神体とされる鷺明神、出雲から飛来して最初に鎮座したのは鬼子母神堂の境内地だったの。それが明治期の神仏分離令で退去を余儀なくされて、当時は欅並木の東側で営業していた料亭・蝶屋の庭先に移されてしまったの。それはあんまりよね、来いと云うので遙々出雲の地からやって来たのに、今度は料理屋の庭先に押し込められて。これでは殆ど氏神さまの扱いよね。それを憂いた矢島昌郁(まさよし)氏が耕向亭跡地(現在地)を社地に寄進して、改めて遷座したと云うわけ。ところで、矢島昌郁なる人物ですが、御由緒書には旧幕臣とあり、自己の宅地を社地として奉献したと記すのみで、詳しいことは触れられていないの。なので背景が不明ですが、旧幕臣と云うところが味噌醤油味ね。

御神体として祀られていた鷺明神の御神像も遷座の際には鬼子母神側に留めおかれているの。替わりに新たに迎えられたのが日本武尊なの。明治の新政府が意図したところは見え見えで、余りにもやりすぎよね。神社側では現在の祭神を日本武命としているのはそんな背景に依るの。願わくば国家権力の名の下で再びこのような愚行が繰り返されないよう祈るのみね。

境内 鬼子母神参詣の隆盛に合わせて門前には茶屋が軒を連ね、盛時には茶屋を貸し切る豪華な遊びも行われ、それこそ上を下への大騒ぎだったようよ。その中で門前から少し離れてある耕向亭は庭に大きな池を配して弦巻川から流水を取り入れ、木々を植栽するなどして庭園風の造りにしてあったみたい。茶室なども設けられ、春には梅ややまぶきの花を、秋には萩を愛でるなど、季節毎の彩りを楽しめる趣向が凝らされ、文人墨客などが雑踏を避けて清遊を楽しんだとされているの。その耕向亭も文政年間(1818-30)の終わり頃には廃業してしまったみたいね。

記念碑 境内の一角には昭和4年(1929)の立案を受けて開始された大規模な治水工事の竣工記念碑が建てられていました。工事内容は旧高田町を流れる弦巻川の流れを暗渠化(現在の弦巻通り)すると共に道路網の整備をするもので、碑文には「公衆衛生の根本的解決策」や「失業救済事業」などのことばが並び、昨今の公共事業のそれと較べても遜色のないもので、当時の感覚からすると、その規模や目的など、寧ろ先進的と云えるものだったのではないかしら。碑文の文末には「昭和七年九月 高田町長 海老澤了之介 識」とあるのですが、氏は今回の掲載記事の多くを依存している【新編若葉の梢】の著者でもあるの。

案内板 既に昭和32年(1957)に故人となってしまわれていますが、ξ^_^ξがこうして知ったか振りして書けるのも、同著を残して下さったからこそなの。この場にて改めて御礼申し上げます。その記念碑の後には雑司ヶ谷ナスの案内板が立てられていました。ナスってあの茄子のこと?でもその茄子が雑司が谷とどんな関係があるの−と思いますよね。立てたのは東京あおば農業協同組合とありましたが、さすがに今では作られていないようね。折角ですからその案内文を転載してみますね。尚、掲載に際し、独断と偏見で改変を加えていますので御容赦下さいね。案内板には英文での記載もあり、ナスは英語では Eggplant だそうよ。な〜んだ、見たまんまじゃん。(^^;

江戸時代、清戸坂の北側一帯は雑司が谷村の畑(現在の雑司が谷墓地は一部)で、坂の道沿いには雑司が谷清戸村百姓町があり、江戸への野菜供給基地として茄子のほか、大根や青菜などを生産していました。特に味がよいと評判になった雑司が谷茄子は、江戸時代後半から大正時代の中頃までもてはやされていました。茄子の栽培には下肥(人糞尿)や馬糞が多く使われていました。茄子はその用途が広いため需要も多くて胡瓜と並んで夏野菜の中で重要な地位を占めていました。大正時代の中頃まで伝統的栽培技術は引き継がれ、その後年毎に早く収穫出来る技術が開発されたことから、昭和の初めには種蒔きの最盛期は2月15日前後となりました。文献に依ると当時北豊島郡(現在の荒川・板橋・北・豊島・練馬の各区)に於ける茄子の作付け面積は約200haと記されています。平成9年(1997)度JA東京グループ 農業協同組合法施行50周年記念事業 東京あおば農業協同組合

稲荷社

ここでちょっとグリコのオマケのお話しを紹介してみますね。【櫨楓】には天保年間の一時期に鷺明神の裏手に吉多明神が祀られていたことが記されているのですが、何とその主(祭神?)は殺された一匹の狸だったと云うの。何で狸が?と気になる方は同著をお読み下さいね。(^^; その奇瑞に触れようと多くの人が参集したとあるのですが、その逸話は鬼子母神の出現譚よりも遙かにおもしろいの。残念ながら、寺社奉行の取り調べを受けて祠は取り払われてしまったと伝えますが、どの辺りに祀られていたのかしら。左掲は社殿右手に建つ境内摂社の三杉稲荷神社で、昭和の半ばに首都高速5号線の開通に伴い、日出町(現:南池袋二丁目)より遷座して来たもので、残念ながら吉多明神では無いの。

16. 宝城寺 ほうじょうじ

都電荒川線を跨ぎ、雑司が谷霊園に向けて歩くと最初にあるのがこの宝城寺。興味本位で訪ねるのも気が引けて門前からの拝観で終えていますが、石標には祈雨日蓮大菩薩とあり、何やら逸話が残されていそうな予感がしたのですが。現在は不動山宝城寺を正式な山号寺号とする、経王山妙法華寺(静岡県三島市玉沢)末の寺院。本尊には大覚大僧正妙実上人作の日蓮上人像が祀られるとのこと。開創されたのがいつ頃のことか分かりませんが、当初は真言宗系の寺院だったような雰囲気よ。妙実上人にしても最初は京都嵯峨の大覚寺に真言を学び、日蓮上人の弟子・日像上人の京都弘法の際にその法話に触れて弟子入りしたみたい。後に全国的な大干魃に見舞われた際には桂川の畔で降雨祈願をするの。

すると忽ち降雨に及び、数日間にわたって雨が降り続いたと云うの。その功績が認められて妙実上人は大僧正に、また日蓮上人には大菩薩の称号が与えられたと云うわけ。尊像は紆余曲折を経て、現在は宝城寺の本尊に祀られるのですが、その紆余曲折の中から一つだけおもしろそうな逸話を紹介しておきますね。経緯は不明ですが、「享保年中天小僧了海大和尚と云人の所持と成 此和尚談義の高座に此尊像を置 日蓮宗門 法華経の文義 及び高祖の行法を笑妨 此尊像を叱責す 其時此像ふしぎや光を放 了海和尚悶絶して高座にたまらず」とあるの。と云うことは、了海和尚は日蓮宗系のお坊さんではなかったと云うことよね。でも、何でまた他宗の僧侶の手に堕ちた (^^; のかしら?

17. 清立院 せいりゅういん

宝城寺とは道幅僅か2m余の細い道を隔ててあるのがこの清立院。石段右手に建つ、かさもり薬王菩薩安置と刻まれた石碑に興味を覚えて訪ねてみたの。現在は完璧にお寺ですが、寺史を遡ると最初にこの地に祀られたのは御嶽蔵王権現なの。「昔此権現飛来の時 鷲に乗給ふて此地に止り給ふ 其節神送りして来る人々村中に有 其人々は長嶋氏也 今は地名の字となり 誤りて中嶋と呼り」と伝えられることからすると、当初はこの地に移住(?)して来た長嶋氏の氏神さまとして祀られたのではないかしら?以来千余年にわたり村持としていたと伝えるのですが、千年と云うのはちょっとマユツバモノね。それはよしとして、その権現社がある時を境にして大きく変身するの。

正嘉年間(1257-59)と云うんじゃから鎌倉時代の中頃のことじゃのお、この雑司が谷だけじゃのおて、東国の村という村に熱病がはやってのお、大勢のものが命を落としたそうじゃ。ちょうどその頃に権現さまには一人の修行僧が寄宿しておってのお、ならばと願い出た村人を前に疫病退散の祈祷をしてくれたそうじゃ。するとありがたいことに、一人二人と治るものが出て来てのお、そのことを知るとこの村だけじゃのおて、近在からも多くの老若男女が集まり来てのお、祈祷を受けると皆たちどころに病いが癒えたそうじゃ。

そんなことがあったものだで、村のものは皆してその修行僧にこのまま権現さまにおって欲しいと願い出たんじゃが、修行の身の上じゃからと聞き留めては下さらんかった。やがて行き先も告げずにこの村を去っていったそうじゃ。じゃが村人の願いに感ずるところもあったのじゃろうのお、権現さまの社の中には一躯の木像が残されておったと云うことじゃ。その木像こそが当寺に伝わる日法上人が作られたと云う日蓮上人像だったと云うわけじゃ。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。

寺伝を昔物語風にアレンジしてお届けしてみましたが、お楽しみ頂けたかしら。逸話には更に続きがあり、その像を奪おうと権現社に忍び込んだ盗人の前に突然仁王像のような怪物が現れ、盗人の襟首を掴むとそのままどこかへ飛び去った、なので盗難除けの権現とも呼ばれるようになったとか、住持が過ちを犯した際には尊像が忽ちの内に霊験を現して戒めるであろうなどと伝えられたことから恐れられ、しばらくは住職になろうとする者もいなかった、更に極めつけが、尊像が日法上人作だったので、更に別な像を造立してその胎内に収めていたのを、ある住職が中の尊像を是非この眼で見てみたいものよと思い、17日間の祈祷の末に、いざ引き上げようとして尊造の髪の毛に触れた途端に壇上に頭から真っ逆さまに堕ちてしまった、立ち上がろうとしても立てずに、遂に尊像を見ることが出来なかった−とあるの。奇瑞と云うよりも子供騙しみたいなお話しなのですが、当時は霊威あることを示すには充分だったのでしょうね。

話を戻しますが、権現社に修行僧が投宿していたと云う逸話からすると、修行僧は修験者だったのではないかしら。だとすると祈祷はお手の物で、嘗ては真言宗系の寺院だったと云うのも頷けますよね。その修験者と日蓮上人像を結びつけたのは後世の演出創作と思っていいのではないかしら。逸話には「真言を改め法華の霊場となる」とあり、正嘉年間(1257-59)を境にして改宗したことにしたいようなのですが、それはちょっと無理みたいね。と云うのも、日蓮上人が日蓮宗を開宗したのは建長5年(1253)のこととされているの。正嘉年間は未だ上人自ら他宗や鎌倉幕府を相手にドンパチやってる頃よ。思うに修行僧が立ち去った後はしばらく無住が続いていたところへ、今度は法華の行者(六十六部)が住みついたと云うのはどうかしら?(^^;

清立院の山号・御嶽山は紹介した御嶽権現社に由来するの。清立院の右手を回り込む御嶽坂の呼称も同じね。後に本立寺(現在は豊島区南池袋二丁目)の第4世住持の清涼院日顯上人が隠棲して来たことから復興し、故に中興開山となり、時を経て清立院と改称したの。寺号は日顯上人の法号・清涼院より一字を譲り受けたものだとも云われているの。文献や参考資料には清立院を常唱寺の寺号を以て紹介する記述も見受けられますが、改宗後は権現堂が常題目堂に改称されたことからの派生みたいね。清龍院の寺号も散見するのですが、噂では真言宗寺院だった頃に三嶽山清龍寺を号していたと云うのでその名残りかしら。その開基は寛喜年間(1229-89)のことだとするのですが。

石段を登り切り、山門を潜ると近代的な装いの本殿が眼の前に立ちはだかりますが、傍らの石仏群と隣り合わせにしてあるのがこの「雨乞の松」なの。正嘉年間(1259)  雨乞に霊験ありとて旱魃の年は農民この所に集りて雨乞す(清立院縁起)−と案内されていますが、正嘉年間と云うのはちょっと疑問よね。前述の逸話の年代とごちゃ混ぜになってしまっているような気がするの。それはそれとして雨乞いの中味が気になりますよね。お経を唱えるだけかと思いきや、そんな生易しいものではなかったようよ。【豊島風土記】(豊島区発行)に依ると、屈強な若者を数人選抜して、竹筒を手に白鉢巻きで霊山の山頂に登り、そこで霊水を手にしてくると云う荒行が最初にあるの。

勿論、全行程を一人で走り抜けるのは不可能なのでリレー式で持ち帰るの。その霊山ですが、巣鴨村や雑司が谷村では榛名山、長崎村では御嶽山だったそうよ。そうして持ち帰った霊水を前にして今度は夜通し焚火を燃やし続けたの。勿論、降雨祈願の読経も間断なく続けられたのでしょうね。翌朝になると藁で作りあげた大蛇に霊水を浴びせ、それを担いで村中を練り歩いたと云うの。御住職にお布施を奮発して読経して貰うだけではなかったのね。(^^; 祈願する村人達が真剣勝負なら、受けてたつ御住職の方でもまさに気合いを入れての祈願だったわけね。ところで、逸話の主とするには余りにもか細い松の樹ですが、何代目かしら?

浄行菩薩 本堂の左手には頑丈なコンクートと分厚いガラスに守られて浄行菩薩(?)が祀られていますが、その右脇でグリコのオマケ状態で祀られているのが瘡守(かさもり)薬王菩薩で、石段下の薬王菩薩安置碑の大きさに較べるとちょっと意外ね。その名称にしても薬師如来の名は良く耳にしますが、薬王菩薩とは聞き慣れない仏さまの名前よね。何でも大昔のインドにすっごくお金持ちの兄弟がいて、手にした良薬を衆生に施し、病苦から救ったことから菩薩になったとされるの。どちらが兄なのかは知りませんが、一人は薬王菩薩で、もう一人は薬上菩薩の尊称だそうよ。

ところで、この瘡守(かさもり)薬王菩薩ですが、嘗てはお稲荷さんで、日蓮宗に改宗した際に併せて変身させられてしまったみたいなの。【櫨楓】には瘡守稲荷社とあり、境内図には先程の権現社脇に描かれているの。この瘡と云うのは疱瘡のことで、天然痘や痘瘡に代表される皮膚病を指すの。種痘の開発で既に撲滅宣言がなされ、医療技術の発達した今では恐れるに足りない病ですが、当時は死亡率が高く、特に皮膚の表面に現れる水泡は当時の人々を驚かせ、仮に癒えたとしても皮膚にはその痕が残ることから疫病神のなせる業として恐れられたの。加えて伝染性の疱瘡は患者が一人出るとたちどころに蔓延することから、疱瘡神は村境などから窃かにやってきては村中を暴れ回ると考えられたの。

そこで人々は村の出入り口に石祠などを建てて疱瘡神を祀ったの。この村ではこうして疱瘡神さまをお祀りしておりますで、どうか安心してそのまま旅をお続け下せえまし−と云うわけ。ここでは疱瘡神を祀る代わりに稲荷神に祈願したのでしょうね。稲荷神は本来は五穀豊穣をもたらす神さまですが、土着の産土神と結びつくなど人々には身近な存在で、氏神さまや村の鎮守さまとして活躍することも多くあり、その守備範囲はドーム球場の比ではなかったの。この瘡守稲荷ですが、嘗ては霊験灼かなことから多くの参詣客を集め、門前には市が立つ程だったそうよ。参詣者は土で作った団子を供えて治癒を願い、快復した暁にはお米の団子を供えて感謝したと云うの。土とお米はお稲荷さんだからこその供物よね。

18. 雑司が谷霊園 ぞうしがやれいえん

順路 紹介した宝城寺と清立院の間にある坂道を上ると雑司が谷霊園があるの。この地は江戸幕府三代将軍・徳川家光が寛永15年(1638)に薬草園を拓いたのが始まり(と云ってもその前に安藤対馬守の下屋敷があったみたいだけど)だとか。その後、将軍家の鷹狩りに使用する鷹の飼育・訓練施設の御鷹部屋に変わるなど曲折を経て、明治初期には東京市の種苗園となり、明治7年(1874)に現在の共同墓地になったの。墓苑には教科書でお馴染みの人物だけでも永井荷風や小泉八雲、夏目漱石に始まり、ジョン万次郎や小栗上野介など、多くの著名人が眠るの。その眠りを妨げるのも憚られて通り抜けただけで終えていますので多くを紹介出来ません。ごめんなさいね。

19. 護国寺 ごこくじ

今回の散策コースの最後を飾るのがこの護国寺よ。都心にあるとは思えない程の広い境内には、多くの堂宇や事蹟が残されているのですが、嘗ては更に右隣にある豊島岡御陵の敷地をも含めた広大な寺域を有する大寺だったの。それもそのハズ、この護国寺は天和元年(1681)に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が生母・桂昌院の発願を受けて開基したものなの。開山には上野国(現:群馬県高崎市)碓氷八幡宮の別当・大聖護国寺より亮賢僧正を迎えているのですが、桂昌院は江戸城に移る前の館林城在城時の正保3年(1646)、後に綱吉となる男児を産むのですが、それは亮賢僧正の加持祈祷に依るものとされたの。その綱吉が今は将軍の座にあるのですから桂昌院が亮賢僧正を開山に迎えるのは当たり前と云えば当たり前よね。現在は神齢山悉地院護国寺を正式な山号寺号とする、真言宗豊山派の大和長谷寺末で、別格本山の扱いよ。

本尊に祀られる如意輪観世音菩薩像ですが、桂昌院の念持仏だったと云われ、オマケにその菩薩像は何と!天然琥珀製なの。何でも元禄期中頃に前川三左衛門入道道寿と云う人が異国より持ち帰り、師弟の縁があることから上野国黒滝山不動寺の潮音和尚(道海上人)に授け、その潮音和尚が今度は江戸幕府第3代将軍・徳川家光に奉じたものと伝えられているの。その家光の側室が桂昌院で、彼女は特にこの尊像を崇敬したと云われているの。異国からの渡来に加えて、とりわけ琥珀の輝きは桂昌院の目にはまさに「絢粲(きらきら)し」に映ったのかも知れないわね。

時を同じくして綱吉&桂昌院のコンビに柳沢吉保が普請奉行として加わり、神田橋・一ツ橋外にも将軍家祈願所として護持院が創建されるの。開山に迎えられたのが当初は奈良・長谷寺の子院・西蔵院の住職をしていた隆光上人。将軍・綱吉と桂昌院の庇護を良いことに虚飾の権化となり、不埒な悪行三昧 (^^; を重ねて行くの。その最たるものが「生類憐れみの令」の献策ね。

将軍家祈願所たる護持院の貫主としてはちょっと難のある隆光上人ですが、意中の人物が既に他界していたので代わりに連れて来られたと云う説があるの。【江戸砂子】には「京西山邊真言宗三鈷寺の境内に庵を結び住る僧 人相を看る 京大宮通米屋の裏に住 寡婦が女七才なるを見て 天下取を産む相ありと云ふ 此女 名は於玉と云ふ」とあり、この於玉こそが桂昌院であり、見事に言い当てていたことから後にその時の老僧を呼び寄せようとしたのですが既に死寂していたの。そこでやむなく老僧の弟子・隆光上人に白羽の矢が立てられたと伝えているの。

その隆光上人は桂昌院と綱吉の信厚を良いことに、当時の常陸筑波山の別院・知足院を一ツ橋に移し、大伽藍を開創するのですが、それが紹介した護持院で、その護持院も享保2年(1717)の火災で堂宇の悉くを焼失してしまうの。一方、宝永2年(1705)には桂昌院が、宝永6年(1709)には綱吉が薨去。後盾を失った隆光上人は再び奈良に帰ったと云うの。「贋法の積悪顕れ 文昭公御代追寺せられ 和州長谷辺に蟄居して 或る夜盗賊に財宝悉く奪い取られ 閑然として終に死す」とも伝えられているの。「驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き人もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」ね。

ちょっと寄り道してしまいましたが、後に第8代将軍となった徳川吉宗はその緊縮政策から焼失した護持院の再建を許さず、護国寺へ併合してしまったの。併合と云ってもそれ迄の護国寺を護持院へ、元禄11年(1698)に完成していた観音堂を護国寺に改称すると云った変則的なものだったの。それでも双方共に将軍家祈願所として、また江戸庶民の信仰も集めたのですが、明治期になると両寺が合併され、護国寺の名のみが残されることになったの。その後、明治16年(1883)の失火、関東大震災や戦災などの度重なる被災から多くの堂宇を失い、現在ある建物は後世の再建に依るものが多いのですが、それでも本堂(観音堂)や、近江の園城寺(通称:三井寺)より移築した月光殿など、重要文化財に指定される建物が往時の隆盛を今に伝えているの。

仁王門 〔 護国寺仁王門 〕 区指定有形文化財
八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍家の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立の年代については、元禄10年(1697)造営の観音堂(現本堂)などよりやや時代が下がると考えられる。正面(南側)両脇に金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背画(北側)の両脇には、二天像(右側増長天・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。東京都文京区教育委員会

枝垂れ桜 その仁王門を潜り抜けて石畳の参道を歩くと右手にオフィスビルを思わせるような建物がありますが、庫裏と寺務所を兼ねた本坊に、書院、内仏殿、桂昌殿と続くの。桂昌殿は云わずと知れた桂昌院の名に因む施設でしょうね、なので桂昌院に縁りある遺品などが展示&保管される資料館の類かしらと期待したのですが、そうではなくて斎場になっているみたいね。本坊の前には枯山水式の庭園が設けられ、訪ねた時には建物脇に咲く枝垂れ桜が彩りを添えてくれました。

不老門石段下の水屋右手の植え込みに楽譜を模した石碑を見つけ、何かしら?と近づいてみたのがこのからすの赤ちゃん歌碑なの。最初にこのからすの赤ちゃんの題名を見た瞬間にξ^_^ξが思い浮かべたのは♪カ〜ラ〜ス〜なぜ鳴くのぉ〜カラスは山にぃ〜の童謡よ。けれど記された歌詞を見るとそうではなくて、海沼実と云う方の作詞作曲されたもので、別物だったの。音楽や美術など凡そ芸術と呼べるものには縁の無いξ^_^ξなので知らないだけかも知れませんが、ちょっとだけ調べてみました。

音羽ゆりかご会 に依ると、童謡作曲家の海沼実が当時の護国寺貫首の好意に依り、境内に練習会場となる教室の無償提供を受けて児童合唱団を創設しているの。詳しいことは同HPを御覧頂くとして、昭和39年(1964)以降は童謡のみならずアニメソングも手掛け、エッ?あのアニメソングもこの音羽ゆりかご会が唄っていたなんて知らなかった!と驚くハズよ。創設から70年以上経た今もその活動は現在進行形と云うのは素晴らしいことよね。歌碑は創設者・海沼実の代表作と併せてその功績を記念するものだった訳ね。

民謡碑 どちらかと云えば「からすの赤ちゃん歌碑」よりも遙かに存在感のある佇まいの石碑ですので、こちらの民謡碑から先に御案内しなければならなかったのでしょうが、民謡のみの字も知らないξ^_^ξには解説は完璧に無理。ここでは背面に刻まれる碑文を紹介して次に進ませて下さいね。


加茂の咲く花 矢立で開く 矢立松原 花どころ

新潟「加茂松坂」の里に青木好月先生が生まれたのは明治24年9月1日 17才で上京 やがて鮮魚商を営みながら江差追分の研究に励み 好月の号を許され 指導を始める 大正の末から ラジオ放送 レコード吹込みに上京する各地の民謡人の世話を続け 追分連合会を設立したが 第二次大戦が激しくなり自然消滅となる 戦火が治まり 再建の槌音と共に 民謡の唄声も高くなり 昭和24年有志と共に 日本民謡協会の発足に尽力し 全国組織へと発展させた 更に民謡の普及は著しく 36年には日本郷土民謡協会が創立 その中心人物として努力 43年2代目理事長就任 49年秋 その功績が勲五等双光旭日章の叙勲となった なお 斯道の向上に腐心され 57年1月16日91才の高令を以つて永眠された 民謡の興隆を記念し その功績を末永く讃えるため 全国4万名を超す有志の喜捨に依り この碑を建立する 昭和57年4月23日 青木好月先生の功績を讃える民謡碑建立委員会

富士塚 顕彰碑に続いて小さな鳥居が建てられていますが、寺院なのに鳥居があるなんてちょっと変よね、何が祀られているのかしらと近づいてみると富士塚だったの。神社の境内などでは良く見掛けますが、この護国寺の富士塚は大きなもので、こだわりのある造りになっているの。それだけ講の方々の信仰が厚かったと云うことね。因みに、富士塚は富士山を模したもので、富士山を霊地として崇める富士信仰に由来するの。

富士塚 実際の富士登山が本来の姿なのですが、健康上の理由や、経済的な事由などで誰でもが簡単に出来る訳ではないわね。そこで代理登山や、富士塚に代参することで信仰の証としたの。富士塚を一日の内に七ヶ所巡る七富士参りなども行われていたみたいね。勿論、実際に登山する場合もあり、富士塚に○×講中云々と刻まれた石碑には富士詣を記念して献納されたものも多くあるの。その富士信仰の総本山が富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)で、御神体は云うまでもなく富士山よね。

不老門 仁王門から続く石畳の参道を経て、石段中腹に建つのがこの不老門。その佇まいから古い建物に見えますが意外に新しく、昭和13年(1938)に建立されたものなの。その名の如く、この門を潜り抜けて参詣する全ての人々に、健やかで長寿であって欲しいとの願いが込められているの。ですが、この不老門を潜る前に石段を制覇しなければならず、第一関門をクリアした方だけに許される不老長寿よ。と云っても僅か数十段の石段だけど。(^^; 不老門を潜り抜けて右手最奥部に建つのが次に紹介する大師堂ですが、参道傍らには筆塚や針供養塔なども建てられていました。

そんな中でξ^_^ξが気になったのが御覧の阿部仲麿塚。阿部仲麿って、あの阿部仲麻呂のことよね、きっと。でも、どうして此処に?状態。調べてみると阿倍仲麻呂と護国寺との直接的な関係はなく、意外な理由から建てられたことが分かったの。不老門を間にして両脇には趣きある佇まいの小庵が建ち並びますが、塔頭の類かしらと思いきや、実は茶室なの。左手から順に羅装庵・円成庵・不昧軒・宗澄庵・化生庵・月窓庵、更に右手には三笠亭・仲麿堂・箒庵と続きますが、箒庵は高橋義雄の雅号・箒庵に因む名称なの。

じゃあ、高橋義雄って何者?となるのですが、明治期に活躍した実業家の一人なの。慶應義塾を卒業後は現在の時事新報社に入社するのですが、後に三井に転職。三井鉱山や王子製紙などの社長も歴任しているの。良く知られたところでは、当時の越後屋呉服店を日本初のデパートとしての三越にしたのも高橋義雄なの。実業界で活躍する一方で茶道にも造詣を深め、51歳にして実業界から離れ、茶道三昧の日々を過ごしているの。好きなことをして暮らすなんて羨ましい限りね。(^^; それはさておき、紹介した茶室の多くが同氏の手に依るものですが、その切っ掛けになったのがこの阿部仲麿碑で、この石碑を骨董屋(?)で見つけて買い求めたことから茶室の仲麿庵を作ったの。石碑の佇まいには茶の湯に通じる何かが見えたのでしょうね、きっと。

記述に際しては「京都大学歴史研究会」より、NFさまの 続茶の湯 数寄者たち の論考を参照させて頂きました。
この場にて御礼申し上げます。

大師堂は「元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に大修理し、大師堂として現在地に移築したものである」と案内板には記されていましたが、大師堂は大師をお祀りする堂宇で、ここでの大師は勿論、弘法大師のことよね。扁額には遍照瑠璃とあり、薬師堂だった名残りを今に伝えているの。南蔵院の項でも御案内しましたが、薬師如来の正式名称・薬師瑠璃光如来に由来し、瑠璃色の光で衆生を遍く照らせよ−の意となるの。大師堂に変わった今は本来なら何色が相応しいのかしら、やはり仏法の光と云うことで金色かしら?

大師堂から元の参道へ戻りますが、右手には御覧の大仏さまが鎮座していました。何の説明も無いことから縁起などは不明ですが、これはちょっとした発見ね。と云うのもこの護国寺に大仏さまがあるなんてどこにも案内されてはいないの。大きさは奈良・東大寺の大仏や、高徳院の鎌倉大仏などには到底かないませんが、東京にも意外なところにしっかりといらっしゃるのね。訪ねた時には境内で骨董市が開かれていましたが、台座前でも所狭しと並べられた品々が。大仏さまのお目に留まったものがあったかも知れないわね。エッ?物欲を呼び起こされて悟りの境地から呼び戻されてしまった?(^^;

大仏さまの背後には骨董市とは無関係なのですが、石灯籠の見本市会場のような一角がありました。日本各地にある寺院から代表的な形をしたものが集められているのですが、どれも同じ形だと思っていた石灯籠でもかなりバリエーションがあるのね。こうして一堂に集めて展示してみるとその違いが良く分かるわね。このオレも自分ちに回遊式の日本庭園を造って灯籠なんぞ建てて演出効果をねらってみるのもいいかも知れねえな−と云うリッチな方は一度お訪ねになってみてはいかがかしら。期間設定の無い常設展ですので、今はダメだけど10年後には商売が化けるかも知れねえからその時に行ってみべえ−と云う方でもOKよ。(^^;

鐘楼 鐘楼の中では、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造の形式で、江戸時代中期の造営である。都内同種の遺構がほとんど失われているなかで、当時の様式を伝える貴重な文化遺産である。また、この鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたものである。銘文は五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられ、護国寺が、将軍家の祈願寺として、幕府のあつい庇護を得ていたことを示す貴重な歴史資料である。文京区教育委員会

護国寺の中心となる建物がこの本堂なのですが、紹介したように元々は護持院の観音堂だったの。生母・桂昌院の願いを受けて徳川綱吉が大号令を発して建造された観音堂は、桂昌院の念持仏・観世音菩薩を奉納するためのものでもあったの。護国寺側では現在の本尊を平安時代後期作の如意輪観音像としていますが、創建の経緯からすれば桂昌院が愛した (^^; 琥珀製の観世音菩薩像こそが本来の本尊よね。この本堂はそれまでの建物が大正15年(1926)の火災で焼失してしまったことから観音堂を移築して本堂に代えたもので、現在は元禄期の建築技術を今に伝える貴重な建物として国の重要文化財にも指定されているの。

本堂左手に位置する薬師堂ですが、案内板には「元禄4年(1691)の建立になる一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用するようになったものである。大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えていることなど禅宗様建築の手法をとりいれていることである。小規模であるが、創建以後大きな改変もなく、元禄期の標準的な以降として価値ある建造物である」とあり、先程紹介した旧薬師堂の大師堂への転用を受けて、順送りに今度は一切経堂が薬師堂に改められたと云うことのようね。その背景には大正15年(1926)の火災での大師堂焼失があるみたい。宗祖の弘法大師を祀る堂宇が焼けたままではちょっと体裁が悪いものね。

閼伽井 薬師堂の前には立派な屋根に護られた井戸がありましたが、井戸は井戸でも閼伽井(あかい)なの。素っ気なく、傳法潅頂用と説明されていましたが、それだけでは何のこっちゃ?よね。閼伽はサンスクリット語の arghya の音訳で、仏さまにお供えするお水のことなの。その神聖な水を汲み上げる井戸なので閼伽井と云うわけ。閼伽は功徳水とも呼ばれ、8種類の功徳があるとされ、香木を添えて香り付けがなされることもあり、その場合には香水(こうずい)とも呼ばれるの。潅頂(かんじょう)は同じくサンスクリット語の abhisecana の音訳で、本来は水を頭に注ぐ−の意になるの。

仏教、とりわけ真言宗では剃髪出家する時や、僧侶が階位を昇進させる場合などにこの閼伽(水)を頭上に注ぐ儀式を潅頂と云うの。仏さまが慈悲の水を菩薩に注ぐ姿に由来するのですが、キリスト教でも教会のミサなどで使う聖水 Holy Water が同じような考え方に依るものよね。

閼伽井屋の後の植え込みに象の姿を陽刻した石碑があるのですが、最初にこれを見つけた時には何で護国寺の境内に象が葬られているの?将軍家の意向を受けてインド辺りから連れて来られたのかしら、それとも見せ物小屋で奇異の視線を浴びている内に死んじゃったのかしら、「生類憐みの令」を進言した隆光上人が住持を務めた護国寺だもの、供養碑があってもおかしくは無いわよね−などと思ったのですが、そうではなくて、これ、象牙加工業者が建てた供養碑だったの。傍らの石灯籠には−東京象牙美術工芸協同組合−とあるの。

御衣黄 薬師堂の左手には忠霊堂が建ちますが、渡り廊下前の植え込みにちょっと変わった桜を見つけました。ξ^_^ξ達が見慣れている桜はソメイヨシノに代表される、薄紅色の花びらよね、それがこの桜の花びらは黄緑色をしているの。お世辞にも綺麗だとは思えない色(ごめんなさい)なので突然変異の代物かと思いきや、御衣黄(ぎょいこう)と呼ばれる種類の桜で、鬱金桜と並ぶ黄桜の代表だそうな。黄緑色の花びらもやがて中心部から徐々に赤みを増し、開き始めの頃とは趣きも異なると云うのですが、残念ながら未体験で終えています。

月光殿 月光殿は桃山時代の書院風建築を今に伝える貴重な建物として国の重要文化財に指定されているの。あれえ、変よね、護国寺は江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉とその生母・桂昌院が願主となって創建された寺院よね、なのにどうして桃山時代の建物があるの?実はこの月光殿、元々は近江の園城寺(通称:三井寺)にあったもので、塔頭の一つ、日光院の客殿だったの。それを明治期に実業界で名を馳せた原六郎が品川御殿山の私邸に移築し、更に昭和になってから先程紹介した高橋義雄(箒庵)が中心となり、現在地に移築したの。

多宝塔は昭和13年(1938)の建立と新しいもので、モデルとされたのが鎌倉期建立の近江(滋賀県)石山寺多宝塔なの。実は、この多宝塔の建立にしても高橋義雄(箒庵)が発起人となり、進められているの。同氏がいなかったら護国寺の境内はもっと閑散としたものになっていたかも知れないわね。余談ですが、宝塔は塔の形を表すものではなく、仏塔の美称として用いられていたことばで、七宝づくりの塔(=七宝塔)を簡略したものなの。法華経見宝塔品に依ると、多宝如来は東方の宝浄世界に住む教主として釈迦如来の説法を聴くために塔に坐して地中より湧き出すと空中に聳え立ち、半座を釈迦如来に譲ると多宝如来と竝座したと説かれているの。

この釈迦多宝二仏が並座する塔が本来の宝塔の姿なの。じゃあ、多宝塔の由来は何なの?となるのですが、どうやら明確な根拠は無さそうで、宝塔と多宝如来がゴッチャ混ぜにされた造語のようね。

不昧軒 八重桜 不老門


怪談・乳房榎のお話しに登場する南蔵院と云うお寺が実在すると知り、訪ねた歩いた今回の散策ですが、思いもよらない事跡に巡り会うことも出来ました。山吹の里や面影橋には豊かな自然と共に緩やかに過ごしていた当時の人々の姿が、また雑司が谷鬼子母神には信仰と併せてつかの間の遊興に日頃の疲れを癒した庶民の姿も垣間見えるの。今では乱立するビルに取り囲まれるようにしてある雑司が谷界隈ですが、寺社の境内に一歩足を踏み入れると遠い昔にタイムスリップしたような静けさが安らぎをもたらしてくれました。耳を傾けるとき、傍らに建つ石塔など、普段はものを云わない彼らもまた語り部となり、多くを物語ってくれるの。いかがですか、いつもよりちょっと多めの疑問符を片手にぶらりと訪ね歩いてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
新人物往来社刊 鎌倉室町人名事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
東京堂出版刊 金岡秀友著 古寺名刹辞典
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
堀書店刊 安津素彦・梅田義彦監修 神道辞典
東京堂出版刊 朝倉治彦 他 共編 神話伝説辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説歴史散歩事典
新編若葉の梢刊行会 海老澤了之介著 新編若葉の梢
岩波書店社刊 岩波文庫 湯浅常山著 森銑三校訂 常山紀談
中央公論社刊 森銑三・野間光辰・朝倉治彦監修 燕石十種
角川書店社刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版 江戸名所図会
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々 −日本の神霊たちのプロフィール−
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々 −多彩な民俗神たち−
雄山閣社刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿 第一巻
角川書店社刊 室伏信助 他共著 有職故実 日本の古典
角川書店社刊 上垣外憲一著 空海と霊界めぐり伝説
雄山閣社刊 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
光文社刊 花山勝友監修 図解 仏像のすべて
吉川弘文館刊 国史大系 吾妻鏡
小学館社刊 週刊古寺をゆく 12 長谷寺と飛鳥の名刹
小学館社刊 週刊古寺をゆく 42 三井寺と近江の名刹
豊島区立豊島図書館編 郷土シリーズ・第一集 豊島風土記
豊島区立豊島図書館編 郷土シリーズ・第三集 豊島の歳時記
名著出版社刊 林英夫著 豊島区の歴史






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