≡☆ 鎌倉歴史散策番外編−湯河原 Part.2 ☆≡
 

鎌倉歴史散策番外編− 湯河原 Part.1 では訪ねずして終えていた史蹟などを纏めて紹介してみますが、かなりマイナーな史蹟めぐりとなりますので、予め御了承の上で御笑覧下さいね。個人的にも今回の散策では星ヶ山にある小道地蔵堂跡と自鑑水がメインになるの。先ずは相模灘に面して点在する吉浜地区の寺社めぐりから御案内しますね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。

一日目:ホルトの樹叢〜吉浜稲荷神社〜素鵞神社〜吉浜小道地蔵堂

1. 小京都風ポケットパーク しょうきょうとふうぽけっとぱーく

湯河原駅前のロータリーから道を隔てて造られているのが小京都風ポケットパーク。小さいながらも風情ある佇まいの庭園ですが、敷かれている玉石は一升石と呼ばれ、文化14年(1817)京都仙洞御所を造るにあたり、州浜を作庭する際に、当時の京都所司代に任じられていた小田原藩主・大久保忠真は、湯河原の吉浜海岸の玉石を集めて運んだの。その時に、小石一升を米一升と交換したことから一升石と呼ばれるようになったの。この庭園は、平成11年(1999)6月に全国京都会議に於いて湯河原町が小京都に認定されたことを記念して、その御所に因み、造園されたものなの。

2. ホルトの樹叢 ほるとのじゅそう

入口 民家 城願寺に向かう城堀ガードを潜り抜けたら、右手に折れて線路際の道を真鶴方面に歩いて下さいね。しばらく歩くと民家が途切れて御覧のような入口が見えて来るの。標識が無ければ気付かずに通り過ぎてしまいそうで、傍目には竹藪への入口よね。意を決して上り始めると薮の中に突如現れ出でたのが御覧の民家で、思わず道を間違えたのかしら?でも変よねえ、標識には矢印で示されてたのに ・・・

立ち止まり思案していると奥に道が通じているようでしたので、失礼して玄関先を通り抜けさせて貰ったの。不安を覚えつつ、更に道を進むと、空に向かいポッカリと口を開けた空間が見えて来たの。樹叢と聞いて鬱蒼とした木立ちを想像していたのですが、辺りには大樹の無残な姿が。

樹叢 石祠 樹叢 ホルトノキ

この山神の樹叢は源頼朝が旗揚げした頃には既にあったものと云われ、鬱蒼とした木立ちの森に山の神の存在を感じた当時の人々は、この地に祠を建てて崇めていたのでしょうね。

樹叢は昭和14年(1939)に国の天然記念物に指定され、名称の由来となるホルトノキはタブノキ・カラスザンショウ・イヌマキなどと共に高木層を形成して、ヤブニッケイ・ヒサカキ・エノキ・シロダモなどが低木層を成しているの。と云うか、していたの。620m²に及ぶ面積からなるこの山神の樹叢は、暖帯性常緑広葉樹のホルトノキを擁するものとしては北限に当たることから貴重なものだったの。嘗ては、樹高が最大で30mのものを含めて4本程が自生していたのですが、その幾れもが枯死してしまい、今では幹を伐採された根株が朽ち果てるに任せたままにされてるの。「この天然記念物を許可無く伐採すると罰せられますので御注意下さい」の警告が今となっては哀しいわね。案内板には平成4年(1992)3月の日付があり、その頃は未だホルトノキも元気だったみたいね。山の神の存在が、人々の意識の中から忘れ去られて行く中で、ホルトノキもまた深い眠りに就いた、と云うか、再び土に還り行くのみね。

ホルトノキって変わった名前の木ね。 そうね。モガシとも呼ばれているけど、一般的にはホルトノキね。
逸話では、平賀源内が「ポルトガルの木」を間違えたことから名付けられたと云われているの。
そうなんだ。じゃあ、源内さんは何の木と間違えたの? 答えはオリーブの木よ。
ポルトガルの木と云われて、ホルトノキをすっかりオリーブの木だと信じたと云うわけ。

3. 産土八幡神社 うぶすなはちまんじんじゃ

祭神=誉田別尊(ほむだわけのみこと):産土とあることから安産祈願に霊験灼かなお社かしら?と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、ここでは五穀豊穣などの豊かな恵みを齎す大地に宿る神さまを意味し、転じて村人達の鎮守さまとなった産土神のことなの。産土はうぶすなと訓み、古くは本居・宇夫須那・生土・産須那などとも表記され、うぶは産なり則ち土なり−と云うことで、生まれた土地に宿る神さまを指し、氏神さま、或いは村人達の共通の守護神としても祀られるようになったの。拝観料:境内自由 初穂料:志納

本殿 この産土八幡神社ですが、元々は地神的な産土神が祀られていたところに、後世になり、八幡神こと誉田別命に習合されるようになったのでしょうね。創建は天仁元年(1108)と伝えられるとのことですが、合祀されたのはその時のことかしら。誉田別命は応神天皇のことですが、実は、応神天皇よりもそのお母さんの神功皇后の活躍振りの方が凄いの。何と、応神天皇を宿した身重の身体にも関わらず、男装すると戦陣の先頭に立ち、玄海灘を渡り大陸へと攻め入っているの。と云っても史実では無くて、神話の世界でのお話しなのですが ・・・

石仏 八幡神や神功皇后のお話しが気になる方は鎌倉歴史散策の 鶴岡八幡宮編 を御笑覧下さいね。鳥居の右手には湯河原町の天然記念物に指定されている推定樹齢600年の楠の巨木が聳え立つの。樹高25m、胸高周囲6.3mの威風堂々とした幹周りは木の精霊が宿る面持ちですが、根元には嘗て村人達が頭を垂れて掌を合わせていたのでしょうね、石仏や石塔が建てられているの。その素朴な佇まいを見やれば、当時の人々が神仏の区別無く心を寄せていた様子が垣間見えて来ますよね。

石祠 替わって鳥居左手の草叢には三基の石祠と庚申塔が残されているの。今でこそ民家が密集して並び建ちますが、嘗てはこの辺りにも畑が広がっていたと聞きますので、村人達は武神・軍神としての八幡神よりも、五穀豊穣を齎す稲荷神や流行り病から護ってくれる疱瘡神などの身近な神さまを日頃の拠り所にしていたのでしょうね。今では初詣や苦しい時のみの神頼みですが、それでは神さまもξ^_^ξ達の願いを聞き届けては下さらないかも知れないわね。

4. 門川八幡神社 かどかわはちまんじんじゃ

R135に接するようにして祀られるのがこの門川八幡神社。既に産土八幡神社の項で御案内済みですが、祭神の誉田別命は応神天皇のことで八幡神を指しているの。由緒書に依ると創建は天禄2年(971)と伝えられているのですが、残念ながらそれ以外のことは分からないの。憶測でしかありませんが、この門川八幡神社もまた産土八幡神社と同じように、元々祀られていた土着の神さまに八幡神が習合したのではないかしら。拝観料:境内自由 初穂料:志納

石祠 周囲の環境からすると創建年代に違和感を覚えますが、地名に扇田とあるように、嘗てこの辺りには古くから田圃が広がっていたの。今でこそ千歳川は海浜公園の南側を経て相模灘に注ぎ込みますが、土肥実平が統治した頃はその千歳川も吉浜海岸方向に大きく蛇行していたの。その千歳川流域で水田耕作が行われていたので必然的に扇形となり、扇田の地名を残すことになったのでしょうね。当時の景観を知る由もありませんが、この八幡神社はその扇田を護る門川村の鎮守だったのかも知れないわね。

5. 吉浜稲荷神社 よしはまいなりじんじゃ

道祖神 R135を離れて新崎川を辿るとあるのがこの吉浜稲荷神社ですが、その入口が分かりづらく、訪ねる際には地元の方に訊ねてみることをお勧めしますね。祭神は稲荷神こと宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、その創建は元暦元年(1184)と伝えられているの。紹介記事を見掛けない神社ですが、源頼朝は房総に逃れ行く船上からこの稲荷社を遙拝し、その加護に感謝して後に社殿を寄進しているの。鳥居脇には道祖神が佇みますが、その傍らに建てられていた由緒書の文言が秀逸なの。折角ですのでその全文を皆さんにも紹介してみますね。拝観料:境内自由 初穂料:志納

人皇52代嵯峨天皇御宇 福州劉氏大鑒和尚来朝して相州金隆山多宝院に錫を留め 四民快楽五穀豊穣を祈らんと本地に尊神を勧請し給ふ その後 治承四年 源頼朝公石橋山の合戦に敗れ 真鶴ヶ崎より乗船 房総の方に落ち給うの時 土肥次郎実平 源頼朝公に申す様 臣が領する地に往古より鎮座まします稲荷大善神は妙法蓮華経を唱えて祈る時は如何なる大願と雖も不叶ということなし 特に海上安全を守護し給うなりと 言上し奉るに 頼朝公海上から遙かに拝し給ふ

心中法華経如来寿量品を誦し祈念し給ふに 紫雲俄に靉靆(あいたい)として棚曳吉瑞ここに現る 時に三浦和田の一党の頼朝公を捜すに遇い 安らかに渡海し給ふ 之に依り 頼朝公天下平定の後 土肥次郎実平に堂宇の建立を命じ給い 吾先年海路無難であったのは稲荷大善神の妙法功徳によってである と頼朝公終生稲荷大善神を尊崇し給う 土肥次郎実平が嫡嗣遠平 建久4年(1193)命に依りて堂宇建立す

鳥居 社殿 石祠 鐘楼

縁起には稲荷神をこの地に勧請したのは人皇52代嵯峨天皇御宇とあるので弘仁年間(810-824)のことになるけど、今でこそ祭神は宇迦之御魂神とされていますが、当時は荼枳尼天と習合した稲荷神だったのでしょうね。社殿の扁額には妙法稲荷社とあり、明治期の神仏分離政策を受けて稲荷社の祭神の多くが宇迦之御魂神に戻された今でも、当時の名残りを伝えていると云うわけね。加えて、神社なのに境内には鐘楼があるの。掲示されていた縁起にしても、文言は流麗で素敵なのですが、内容的には難があるわね。房総半島に逃れ行く船上から妙法蓮華経を唱えて法華経の如来寿量品を読誦したとあるのですが、日蓮宗が開宗されたのは建長5年(1253)のことなので、時系列としては矛盾があるような気がするわね。

最上寺 神社の裏手高台には御覧の僧堂が建ちますが、山号寺号を千歳山最上寺とする歴とした日蓮宗のお寺なの。稲荷社との関係が今一つ明らかではありませんが、想像するに、建前上では分かれてはいるものの、稲荷社と寺院の習合状態のような気がするの。稲荷神が寺院の守護神として祀られるケースは見掛けることもありますが、ここでは渾然一体になっているのではないかしら。明治期の神仏分離で習合を解かれた今も嘗ての神仏混淆状態が続いているというわけ。

6. 宗徳院 そうとくいん

宗徳院 宗徳院は正式な山号寺号を海福山宗徳院とする曹洞宗寺院。詳しい縁起は不明ですが、天山梵舜を開山に小澤伊勢之助が開基したもので、寺号の宗徳院は小澤伊勢之助の法名・海濱宗徳に因むものなの。本尊の聖観音像の腹籠には運慶作と伝えられる仏像が安置されると聞きますが、残念ながら未確認で終えているの。尚、宗徳院では関係者以外の拝観不可とのことで、石段下から眺めたところで踵を返していますので、境内の様子も分からず終い。境内:拝観不可

不動堂 石段の参道右手にある風間不動堂前には道祖神が佇み、堂内には不動明王像が祀られているのですが、その不動堂も扉が固く閉ざされていますので、内部は見学出来ないの。現在は曹洞宗を宗旨とする宗徳院も嘗ては真言宗寺院だったみたいね。不動明王は真言宗、とりわけ密教系で重要視され、大日如来の使者となるのですが、今でも大切に護られているのは宗徳院の縁起に由来するのでしょうね。

7. 素鵞神社 すがじんじゃ

石段 祭神=素戔鳴尊・伊邪那岐命・伊邪那美命  素鵞神社の創建年代や縁起などは不明ですが、伝えられる鹿島踊りは各地に残る踊りの中でも、とりわけ古い様式を今に伝えるものとして、国や県の無形文化財に指定されているの。元々は茨城県の鹿島神宮に起源を持つ鹿島踊りですが、本家側では江戸時代の文政年間(1818-30)に途絶えてしまったの。その踊りの装束や内容は、各々の地域で異なりますが、素鵞神社では烏帽子に白足袋・白緒の草履といった白丁姿で、腰には物忌の印の白紙を付けて踊るの。拝観料:境内自由 初穂料:志納

社殿 そのルーツは鹿島神宮の巫女が御神託を告げて廻ったことに由来すると云う鹿島踊りにあると云われているの。吉浜や真鶴は古くから小松石の産地として石材産業で賑わいを見せ、同じく海との関わりを持つ鹿島神宮に対する信仰が定着したみたいね。素鵞神社の鹿島踊りは石材搬出の安全祈願、大漁祈願や豊作、疫病退散などの諸々の願いを込めて行われるの。

摂社 社殿左手には境内摂社の比叡社と牛頭大王社が祀られますが、牛頭大王は陰陽師の安倍清明ですっかり有名になりましたので、改めて御案内する必要も無さそうね。一方の比叡社ですが、ここでは猿田彦神を祭神としているの。比叡と云えば比叡山延暦寺。その比叡山には元々大山咋神(おおやまぐいのかみ)が鎮座していたのですが、延暦寺の開創に合わせて守護神として祀られたの。

この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し 亦葛野の松尾に坐して鳴鏑を用つ神ぞ
このかみはちかつあふみのひえのやまにまし またかづぬのまつのおにましてなりかぶらをたもつかみぞ

と【古事記】に記されるように、全国各地に鎮座する日吉山王社の祭神がこの大山咋神ですが、比叡=日枝=日吉で、元々は日枝山の山神さまだったの。「葛野の松尾に坐して」とあるように松尾大社にも鎮座しますが、そちらの方は後に分祠されたものみたいね。そうして延暦寺の守護神にさせられた大山咋神は、中国の天台山国清寺やインドの霊鷲山の山王信仰に因み、山王権現や日吉権現と呼ばれるようになったの。その山王権現の神使とされたのが猿と云うことで猿田彦神が導かれ、ここでは大山咋神に代わり、祀られるようになったのでしょうね。

実は、その日吉大社には東本宮に大山咋神、西本宮に大物主神の二神が鎮座しているの。大山咋神は後に大物主神が三輪山から勧請されたのを機に格を下げられて小比叡となり、大物主神は大比叡と呼び区別されたの。神さまもランク付けされて大変ね。その大山咋神からすると、この素鵞神社に祀られる素戔鳴尊はお祖父ちゃんにあたるの。因みに、東京都千代田区に鎮座する日枝神社は、江戸城築城時に太田道潅が日吉大社の神霊を守護神として勧請したことに始まるの。

紹介した牛頭天王社と比叡神社の石祠の前には爬虫類を思わせる狛犬がいるの。
ちょっと気持ちが悪いので画像の掲載は見送りますが、気になる方はお訪ねの際に御覧下さいね。

石祠 境内の一角には、山の神こと大山祇神(おおやまつみのかみ)を祀る石祠が建てられているの。素戔鳴尊が大山咋神のお祖父ちゃんなら大山祇神は曾祖父ちゃんに当たり、大山咋神が日吉山の山神さまなら大山祇神は全国津々浦々に鎮座する山神さまの総元締ね。大山祇神の身の上は鎌倉歴史散策番外編-真鶴の 貴船神社 の項で紹介していますので、気になる方は御笑覧下さいね。CMでした。(^^;

8. 英潮院 えいちょういん

英潮院は正式な山号寺号を金華山英潮院とする曹洞宗のお寺で、現在は福井県の永平寺、神奈川県横浜市の総持寺を本山とする小田原海蔵寺末。詳しい縁起は不詳ですが、大州梵守を開山として要嶽上人が永正元年(1504)に開基したものと伝えられ、本堂には本尊の聖観音像が安置されているの。次に紹介する吉浜小道地蔵堂ですが、この英潮院の境外堂になるの。小道地蔵堂は英潮院の管理下にあると云うので、何か略縁起を記した栞でも入手出来たら−と訪ねてみたの。残念ながら何も得られずに終えてしまいましたが。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

9. 吉浜小道地蔵堂 よしはまこみちじぞうどう

現在は吉浜に建つ小道地蔵堂ですが、元々は椙山(すぎやま)の山中に建てられていたの。石橋山の合戦に敗れた源頼朝は土肥郷を領していた土肥実平に導かれながら逃れるのですが、敵方の大庭軍の追撃を受け、その際に小道地蔵堂の修行僧・純海の命懸けの庇護を受けて無事に真鶴に逃れることが出来たの。後に頼朝はその時の大恩に報いようと、椙山々中に新たに勝地を卜して僧堂を建立し、寺田を純海に与えたの。残念ながらその堂宇も文永2年(1265)に焼失し、寺田もまた海潮により流失してしまったの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

六地蔵 その後かなりの期間を経て、岩本勘兵衛と云う人が貞亨2年(1685)に焼跡から石造の地蔵像を探し出し、その30年後に禅廊上人が現在地に地蔵堂を再建したの。その縁起に因み、嘗ては小道山頼朝寺とも呼ばれた小道地蔵堂ですが、紹介したように、現在は英潮院の飛び地境内堂として同院の管理下にあるの。そうは云うものの、本院に比べると邪険に扱われ、境内は雑然の感が拭えず、縁起を知る者としてはちょっと残念ね。

道祖神 ところで、地蔵堂の由来となる地蔵像は、実は、四面の石塔の正面に彫られたもので、残りの三方には梵字が刻まれているの。延暦23年(804)に造られたと云う石塔ですが、大同4年(810)に漁網に懸かり引き揚げられたもので、漁師が椙山々中に小堂を建てて安置したと伝えられているの。堂内には他にも延命地蔵菩薩像や閻魔大王を始めとする十王像が安置されると聞きますが、残念ながら普段は非公開ですので拝観出来ないの。

力石 替わって、境内の一角に残されていたのがこの力石。大きい方は44貫(≒130Kg)で、小さい方でも27貫(≒100Kg)もあるの。神社の境内などでは良く見掛ける大石ですが、祭りの時の余興として力競べをする際に使われたものが多いの。この力石も大正3年(1914)に当時の青年達が吉浜村中部落からここ迄担いで来たものだそうですが、どんな力競べだったのかしら?想像しただけでも身体中に力が入って筋肉痛になりそうね。(^^;

宝篋印塔 境内左手には底部が1.63m、高さ5m余の大きな宝篋印塔が聳え建ちますが、勿論、吉浜で産出した本小松石で造られたものなの。説明に依ると、江戸時代の文政11年(1828)の銘を持ち、湯河原の石匠全盛時代の技術を物語る遺物として貴重なものとされ、現在は湯河原町の文化財に指定されているの。宝篋印塔は方形の基台に、同じく方形の塔身を載せ、笠を重ねてその上部に相輪部を置くと云う特徴のある石塔ですが、その呼称は当初塔身に龕(がん)を設けて宝篋印陀羅尼経を納めたことに由来するの。龕とは仏像や経文を納めるための窪みのことね。

10. 吉祥院 きちじょういん

吉祥院 この吉祥院は天正18年(1590)に庵主の輪轉全法が空山為徳を開山に迎えて開基したものと伝えられ、山号の如意山は如意輪観音を本尊とすることに因むもので、現在は曹洞宗寺院。入口の右手には御覧の庚申供養塔と六十六部供養塔が並び建てられていたの。庚申塔については折りに触れて紹介済みですが、聞き慣れないのが六十六部供養塔ね。

吉祥院 六十六部を略して単に六部(りくぶ)とも呼ばれますが、66部から成る法華経を書写しながら同じく66ヶ所の社寺に納経して歩いた行脚僧のことを指しているの。そうは云っても厳格に66部・66ヶ所を運用したわけではなさそうね。彼等は厨子入りの仏像を背負い、鉦や鈴を鳴らしながら諸国を遊行したの。一方で、観音霊場を巡りながら社寺の縁起や仏教説話を伝えるなど、口承文芸の伝播にも一役買っていたの。因みに、北条時政の前世はその六部だったとする逸話もあるの。お話しが気になる方は鎌倉歴史散策−江の島編の 龍宮 の項を御笑覧下さいね。CMでした。(^^;

羅漢 本堂の建物の前には「語らい」と題されて二体の羅漢像が祀られていましたが、背後に箱根権現を控えて修験者達の行場が形成されるなど、古くから信仰の霊地として崇められていたこの地方には、多くの遊行僧も往来していたのでしょうね。羅漢像は六部の語る仏教説話に耳を傾ける姿にも通じますが、寺院に限らず、石材産業に支えられた吉浜の村人達には貧しい中にも彼等を厚遇するだけの経済力があったのかも知れないわね。経済力と云えば、こちらの吉祥院さん、2006/05/21 に、何と!客席数300席にも及ぶ総檜造りのコンサートホールを完成させているの。再訪してみた訳ではないので不詳ですが、吉祥院さんに何が起きたのかしら?(^^;

11. 吉浜古道 よしはまこどう

道標 吉浜の寺社巡りを終えたところで吉浜古道を歩いてみたの。吉祥院で折り返して元来た道を戻り、今度は小道地蔵堂脇の道を山側に向かいます。今でこそ車も通行出来るようになり、沿道には民家が続きますが、当時は人馬が辛うじて通行出来るだけの細い道だったの。今となっては道端には当時の面影を慕ばせる石標や石祠がポツンと残されているだけですが、嘗ては吉浜の寺社を繋ぐ幹線道路だったと云うわけ。今では吉浜海岸沿いのR135が幹線道路となっていることから、舗装されて車の往来が可能となったとは云え、時折地元ナンバーの車が通るだけなの。

寸景 左掲は英潮院背後の高台からの展望ですが、晴れていれば相模灘に初島や大島の島陰が浮かぶ景観を堪能出来たハズなのですが。ちょうどこの辺りが吉浜古道の一番のビューポイントで、視線を左手に転ずれば真鶴半島が相模灘の洋上に伸びて、先端には三ツ石も見えるハズなの。生憎と訪ねた時には小雨混じりの空模様のために残念な結果で終えているの。なので、絶景が紹介出来ませんので、申し訳ありませんが、お出掛けの際に皆さんの目でお確かめ下さいね。

小堂 旧道の途中で見つけた天地不動尊には石造の不動明王像が祀られていたの。縁起は不明ですが、建物も最近再建されたもので、植栽された花木にも手入れが行き届いていたの。と云うことは、今でも信仰を寄せる方がいらっしゃると云うことで、多くの寺社が佇む吉浜ゆえのことでしょうね。ところで、紹介しましたように、吉浜にある小道地蔵堂は後世に移築再建されたもので、元は星ヶ山の山中にあったの。修行僧の純海が命を賭して頼朝を匿ったのは山中にあった頃のことなの。明日はその小道地蔵堂跡を星ヶ山に訪ねますので、引き続きお付き合い下さいね。

再訪時の最大の目的がこれから紹介する小道地蔵堂跡と自鑑水なの。【源平盛衰記】などに描かれる逸話の舞台として知られる旧蹟ですが、いざその紹介記事となると見当たらず、時空を越えて想像だけが独り歩きを始め、是が非でも訪ねてみたいと思うようになっていたの。加えて、「さつきまつり」の開催期間中ならさつき郷までの臨時バスが運行され、アプローチも容易なことが分かったの。とは云え、かなりの距離を歩くことにはなるのですが。

二日目:さつきの郷〜星ヶ山公園〜小道地蔵堂跡〜南郷山〜自鑑水〜幕山

12. さつきの郷 さつきのさと

湯河原町と真鶴町、小田原市の境に位置する星ヶ山は標高815m足らずの低山ですが、眼下に相模湾を望みながらの散策が楽しめるなど、自然に親しむための公園として整備されているの。その星ヶ山公園の入口にあるのがさつきの郷で、その数何と50,000株と云われるさつきが植樹されているの。左掲はさつきの郷から真鶴半島を臨み観たものですが、手前に見える煙突は湯河原美化センターのもので、早い話しが塵焼却場の煙突よ。(^^; ちょっと茶化してしまいましたが、晴れた日なら相模湾に延びる真鶴半島や相模灘に浮かぶ初島など、素敵な景観が広がるハズよ。

残念ながら訪ねた時には晴れていても霞みがかった空模様で、群青の水平線は望めませんでしたが、それでも梅雨時の天候としては恵まれた方かも知れないわね。展望台の背後に広がる傾斜地一面にはさつきが植樹されていますが、その入口に建てられているのがこの石碑で、題字は湯河原さつきの郷づくり実行委員会名誉会長でもある五月みどりさんの揮毫なの。訪ねた時にはその五月みどりさんを迎えて、園内ではジューンブライド宣誓式が行われていました。満開のさつきに囲まれて五月みどりさんの立ち会いのもとに永遠の愛を誓い合うイベントで、右端は記念植樹されたさつきなの。

今年( ′05 現在 )で3回目となるさつき祭り。
イベントの詳しい内容などは 湯河原町HP を御参照下さいね。

さつき さつき さつき さつき

さつき さつき さつき さつき

13. 星ヶ山林道 ほしがやまりんどう

さつきの郷を取り囲むようにして周回道路が敷設されていますが、その急坂を喘ぎながら登ると駐車場の手前左手に御覧の標識が目に留まるの。星ヶ山公園を巡るハイキングコースへの入口を示す案内板ですが、見晴台から小道地蔵堂跡へと通じている道なの。そうは云っても、どこからどこまでが星ヶ山公園になるのかξ^_^ξには分かりませんし、案内板では単に作業用の道路としていますが、ここでは勝手に星ヶ山林道と称して話しを進めますので御了承下さいね。尚、白銀林道がさつきの郷に接していますが、紹介する星ヶ山林道とは別物ですので御注意下さいね。

林道 白銀林道は一般車両は通行禁止ですが、星ヶ山林道側は規制の対象外みたいね。But 道幅も狭く、ハイカーの方もいらっしゃいますので、車で乗り入れる際には最徐行をお願いしますね。林道をしばらく歩くと道端に再び案内板が見えて来ますが、この先どの位歩けば良いのか、距離も方角も記載されず、分からないの。加えて、この案内板が最後で、この後どこにも標識が無いの。湯河原駅構内の観光案内所で小道地蔵堂跡への道筋を訪ねた際の係りの方の、「本当に行く積もりなのかしら?」と顔に書かれた (^^; 表情を思い浮かべながら歩いていると、不安は募るばかりで ・・・

茶畑 道を訊ねたくても茶畑が広がるだけで人影も見当たらず、観光案内所の方からさつきの郷からなら15分程の道程でしょうか−とアドバイスを受けたことを思い出して、のろまなξ^_^ξのことですのであと15分程歩いてみても見つからないようなら諦めようと決めた時のことでした。何やら進行方向から歓声が聞こえて来たの。エ〜ッ、人の声がするう〜。昼間だから狐でも狸でもなさそうね。(^^; と云うことで、やって来られたのがハイキングを楽しむ方々でした。この時ばかりにと助けを求めましたが、皆さん、とても親切に教えて下さいました。

南郷茶 今思うと親切な方々に出会えたからこそ寺屋敷跡を訪ね当てることが出来ましたが、そうで無ければ彷徨った挙げ句に挫折していたでしょうね。この頁を御覧になり、訪ねてみようと思われる方が中にはいらっしゃるかも知れません。ξ^_^ξの経験を踏まえて、後程御案内してみますので参考にして下さいね。実は、寺屋敷跡は山の中にあると聞いて多少びびって (^^; いたのですが、実際に訪ねてみると、細いながらも舗装された道が続き、沿道には御覧のような茶畑が広がっていたの。そのお茶の葉も、陽の光を浴びて緑色に輝いていたの。聞けば南郷茶と呼ばれ、さつきまつりの会場でも直売される逸品なの。湯河原を訪ねられた際には、是非、御試飲下さいね。

パノラマ

林道を歩いていると、傍らに見晴台が設けられている高台を見つけましたが、左掲はその見晴台から箱根方面を望み観たものなの。本来なら真鶴半島や相模灘の景観を楽しむための展望台なのですが、ちょうど相模灘を背にした格好になるかしら。拡大表示が可能ですのでクリックしてみて下さいね。印を付けた位置に目的の小道地蔵堂跡があるの。位置さえ分かれば後はそこへ向かい、歩くのみね。けれど、最初はこの位置が分からずに、不安で不安でしょうがなかったの。季節で景観の印象も異なるかとは思いますが、地勢を頼りに歩いてみて下さいね。

分岐路 上の画像では目的地が茶畑の向こうに見えることから、その茶畑に分け入ろうと思われる方がいらっしゃるかも知れませんが、そのまま素直に林道を道なりに歩いた方が良さそうよ。やがて御覧の分岐路が見えて来ますので、右側の道を辿って下さいね。行先を示す標識も何もありませんので、要注意なのですが、実は、この分岐路を右手に辿るように教えて下さったのも先程出会ったハイカーの親切な方々なの。因みに、左手の道は南郷山ハイキングコースに続き、小道地蔵堂跡には永久に辿り着けないの。運命の別れ道よ。(^^;

丘陵地ですので分岐路を経た道は一度逆「く」の字を描くようにして蛇行するの。なので、瞬間、目的地から遠ざかるような感覚を憶えますが御安心下さいね。背の高くなった草は刈り込まれるなど、公園として整備されているお蔭でしょうね、足許には陽の光を浴びて小さいながらも野草たちの生命の輝きがあるの。植木鉢の緑を見慣れた目には名も知らない草花の、楚々として咲く姿が殊の外新鮮ね。葉の緑にしてもまばゆいばかりなの。

14. 小道地蔵堂跡 こみちじぞうどうあと

入口 入口 逆「く」の字に蛇行する道を大きく左に折れたら、今度は進行方向右手山側に注意しながら歩いて下さいね。左手に駐車スペースが設けられた場所がありますが、その少し先の右手に植え込みされたツツジの木に隠れるようにして木製の階段がチラリと見えて来るの。これを見逃してしまうと、ちょっと探し出すのは大変かも知れないわ。標識も何も無いので要注意よ。

入口 林道側からは人一人がようやく通れる位の道幅にしか見えませんが、階段を登るとちょっとした広場に出るの。そこが史蹟・寺屋敷跡なの。嘗てこの地には大庭軍の追撃を受けて逃れ来た頼朝を命を賭して匿った純海上人が修行していた小道地蔵堂が建てられていたと云うの。前頁で紹介した吉浜小道地蔵堂は、元の小道地蔵堂が文治2年(1186)に焼失していたことから、時を経た貞享2年(1685)に新たに現在地に再建されたものなの。ここで、【源平盛衰記】の小道地蔵堂事の段に記される逸話を、皆さんにも脚色(デッチ上げとも云う)してお届けしてみますね。

石橋山の合戦に敗れて椙山に逃げ込んでおった頼朝主従じゃったが、敵方の大庭軍の探索の手が間近に迫ってきておってのお。小道の峠に差し掛かった時のことじゃ。土肥の実平が辺りの様子を窺おうと木によじ登ると小さな御堂が見えたそうじゃ。取り敢えずそこに身を隠そうと近付いてみたんじゃが、果たして仏像を前に修行する一人の法師がおったそうな。それが純海上人じゃった。実平は純海上人に「この御方こそ源氏の大将軍・頼朝殿じゃ。敵方に追われて難儀しておる。身を隠す場所は無いか」と聞いてみたのじゃが

「おお、噂に聞く源氏の大将軍・頼朝殿とな。このような名も無き愚僧に手を合わせられるか。悦んでお助け致しましょうぞ。かように人里離れた深山なれば、用心の為に床下に隠れ場所を造り、用意致しておりますゆえ暫時そこへお隠れなされ」と、床下に案内されたのじゃ。そうして床板を閉じると、その上に元のように仏具を並べ、素知らぬ振りをして再び座禅を始めたのじゃ。そこへ郎党を引き連れて現れたのが大庭景親じゃ。

「誰ぞ居らぬか!今しがた此所に落ち武者が逃げ込んだ筈じゃが知らぬか!」と、堂内に向かい再三叫んだのじゃが、何の返事も無くてのお。近付いて堂内を覗き込むと、そこには一人の法師が座禅をしておったと云うわけじゃ。じゃがのお、返事もせずにいたことから景親はすっかり怒ってしまってのお。上人を庭に引き出すと拷問を始めたのじゃ。じゃがのお、何度もその責苦に気を失いながらも景親の問いには知らぬ、存ぜぬを繰り返すばかりじゃった。

そうなると景親の拷問は更に厳しさを増してのお、純海上人が気絶すると喉元に水が流し込まれて息を吹き返されたのじゃ。さすがの純海上人もその責苦に耐えかねて「よもやこれまで。人を助けようとしたが我が身こそ大事。これ以上の仕打ちには耐えられぬ、白状してしまおうか」と思うたのじゃが、釈迦の前世に於ける苦行を思い起こして一心に責苦に耐えたのじゃ。そうして遂には責め殺されてしまったのじゃ。法師の死に絶えた姿を見た景親はその場に捨て置くとそのまま真鶴方面に向かったのじゃ。

ねえねえ、釈迦の前世の苦行ってなあに? 一つは摩訶薩埵王子の時のことね。七匹の子供を産み落した虎が、我が子に与える食事が無くて悲嘆する姿を不憫に思い、我が身を切り刻み、餌として与えたと云うの。二つ目は尸毘迦大王の時のことで、鷹に追われて逃げ込んで来た鳩を助けようとして、同じく我が身を切り刻んで鷹の餌にしたの。お釈迦さまは前世でも我が身を賭して生けるもの全ての幸せを願ったと云うわけ。

礎石 やがて陽も暮れて床下に潜む頼朝主従の耳にも遠くから寺々の刻(とき)を告げる鐘の音が聞こえて来たのじゃが、この地蔵堂の鐘の音はいつまでたっても聞こえてこんでのお。法師のことが心配になった頼朝は実平に命じて辺りの様子を窺わせてみたのじゃ。すると果たして上人は庭先に横臥しておったそうじゃ。頼朝は我が身を助けんが為に命を失うとは余りにも不憫−と、上人の身体を抱き起こして涙を流したのじゃ。ところがじゃ、その涙が上人の口許に溢れ落ちると再び息を吹き返してのお。頼朝と上人は二人して夜更けまで語り合うたと云うことじゃ。

観音像 そうして上人は「取り敢えず我が身を以て御護りしましたが、疑い深い景親のことゆえ再び舞い戻り、この堂内を探索するやも知れませぬ。夜も更けた今なら落ち延びるのも容易いことでしょう」と、小堂を離れることを頼朝に奨めたのじゃ。頼朝もその上人の志に深く感謝すると「この頼朝、貴僧より得たる報恩決して忘るべからず。さればこれにて暇仕り候ん」と闇夜に乗じて地蔵堂を後にしたそうじゃ。後に鎌倉入りした頼朝は、純海上人の報恩に感謝して寺領を寄進して堂宇の造営もしたそうじゃ。確かに上人の助けが無ければ頼朝の命も無かったかも知れんのお。

寺屋敷跡

跡地中央最奥部にある史蹟寺屋敷跡碑は昭和59年(1984)に当時の湯河原町長を初め、湯河原中央農業協同組合並びに南郷協同組合の方々により建立されたもので、替わって跡地右手に建つ純海上人之像は平成2年(1990)に、同じく両協同組合の方々に依り奉納されたもの。我が身の命を賭して頼朝一行を助けた純海上人ですが、こんな山中で一人修行していたのですから、やはり強靭な意志の持ち主よね。

15. 南郷山 なんごうさん

指導標 小道地蔵堂跡の見学を終えて再びさつきの郷に戻り、次なる目的地の自鑑水を訪ねてみようと白銀林道を幕山方面に向かい歩き始めたのですが、しばらくして見つけたのがこの指導標なの。実は、この時は自鑑水のある場所を知っていた訳では無くて、単に幕山と南郷山を結んだ北側にあるみたい−と云う程度の理解で、この道を辿り、南郷山の北側に行けば何か所在を示す案内板があるかも知れないわ−と云う極めて安易な発想でした。案の定、報われぬ行脚を繰り返してしまいましたが。(^^;

登山道 登山道 それでも最初は道も確かなもので、つい今しがた誰かが通ったと思しき足跡も残されていたので安心もしたのですが、少しずつ怪しくなり、道幅も狭まり獣道の趣きとなるといつの間にか人の歩いた痕跡が消えていたの。さりとて後戻りするには大分距離を歩いていましたので、今更引き返す気にもならず、意を決して突き進んだの。ところが、遂には背丈の高い雑草に覆われて足許も見えない状態に。

指導標には確かに南郷山々頂と書いてあったけど、どこかで道を間違えたのかしら?でも、どこにも分岐路は無かったわよね〜それとも見逃してしまったのかしら?んもう〜こんなところを歩かされて、ホントに山頂に辿り着けるのかしら。道なんか無いじゃないのよ〜と殆ど泣きべそ状態。左掲はその泣きべそ状態で登り来た道を振り返ってみたところですが、道では無くて草叢よね。嘘かと思われるかも知れないけど、御覧のように人の背丈程ある草叢の中を登って来たの。遠くに真鶴半島が霞むようにして見えているけど、霞んでいたのは涙のせいかもネ。(^^;

泣きべそ状態に加え、石橋山の合戦に敗れて大庭軍の追撃を躱しながら椙山々中を逃げ惑う頼朝の心境でしたが、草叢の向こうに南郷山々頂を示す指導標が見えた時の嬉しさ。ですが、苦労させられた割りには報われない山頂からの眺めと云うのが正直な感想ね。その山頂広場には御覧の案内図が掲示されていましたが、悪戯で削られたのか、肝心のところが分からないの。

指導標 結局、この時点でも自鑑水の所在地はおぼろげで、当然ですが、道順も分からずに終えてしまいました。山頂からは案内板の左手に続く細い道を下りましたが、程無くして左掲の指導標が立つ分岐路に出ましたが、この道標も不親切よね。分岐路としては指導標に向かい「┫」の字の状態なのですが、左手方向の幕山2000mは良しとしても、右手方向の白銀林道480mはいただけないわね。何故なら右手は竹藪で道なんて無いし、本来なら指導標も90度に交叉すべきところですが、百歩譲って許したとしても南郷山々頂とすべきよね。

指導標には何も示されてはいませんが、実は、この指導標の背後にも道が続いていたの。自鑑水の所在場所が分からずにいたξ^_^ξは、ひょっとしてこの道を行けば辿り着けるかしら?と分け入ってみたの。南郷山の登山道と同じく、最初の頃は竹藪も刈られて比較的歩きやすい道でしたが、案の定、次第に怪しい道になって来たの。それでもつい今しがた草を薙ぎ倒しながら歩いた方々の気配が残されていたのですが、その道もやがて右手方向に曲がり始め、見ればその先には先程の星ヶ山公園が。ひょっとしてこの道は小道地蔵堂跡を訪ねる際に出会った方々が歩かれた道なのかも知れないわ。だとすると目的の自鑑水への道では無さそうね−と諦めて引き返したの。今思うと無駄なことばかりしていたような気がするけど。(^^; と云うことで、この道標は本来なら三方向を案内する指導標とすべきよね。ブ〜ブ〜

南郷山ハイキングコース 自鑑水も見つけられず、諦めて幕山ハイキングコースを経て湯河原に戻ろうと、不親切な指導標が示す幕山2,000mの道を辿ることにしましたが、歩き始めて直ぐに目の前に現れたのがこの急坂なの。上から見下ろした画像では傾斜角の感覚が伝わらず、下から見上げたものを掲載してみましたが、あの状況はちょっと伝えきれないわね。体感的には60度前後の傾斜角で、訪ねた時には前日の降雨で足許が滑りやすく、危うく直滑降となるところだったの。

南郷山ハイキングコース 南郷山ハイキングコース ハイキングコースと名付けられてはいますが、足許は泥だらけで、周りは竹藪が広がり、何も見えないの。時折見え隠れするのは山の木々だけで、一体ξ^_^ξはどこへ連れて行かれるの?状態。急坂の途中にある指導標が辛うじてハイキングコースであることを教えてくれましたが、無ければただの山道、獣道ね。

南郷山ハイキングコース 斜面を下り切ったところで、ぽっこりとアスファルト舗装された道に出ましたが、それが白銀林道だったの。中には幕山・南郷山を経て、星ヶ山ハイキングコースを縦走される強者の方もいらっしゃるかもしれませんが、南郷山ハイキングコースは何か特別の思い入れがある方でも無い限りはお薦め出来ないわね。ξ^_^ξも事前に知っていたら南郷山を経ずに、さつきの郷からは素直に白銀林道を歩いたのですが。ここでは馬鹿なヤツが一人いた (^^; と云うことで、その体験記をそのまま紹介してみました。

16. 自鑑水 じがんすい

入口 指導標 順路 順路

幕山に向かいながらトボトボと白銀林道を歩いていたのですが、傍らにこの指導標を見つけた瞬間にξ^_^ξは思わず小躍りしてしまったの。幕山と南郷山の道標に隠れるようにして、諦めていた自鑑水への道が示されていたの。But 喜び勇んで登り始めてはみたものの、殆ど杣道の状態で、前日の降雨で泥濘もあり、これでは大雨の後などではそのまま水が流れる沢となり、行く手を阻まれてしまうわね、きっと。頼朝が逃れ来た頃はこの杣道も山からの湧水を集めて水が流れる沢だったのかも知れないわね。登り行く先を見やれば、そこには鎧に身を固め、足跡を気取られぬようにと沢道を登り行く頼朝主従七騎の姿も浮かんでくるの。

自鑑水 自鑑水 自鑑水

杉林に入る辺りになるとようやく下草も消えて歩きやすい道が続くの。今年も花粉症に思いっ切り悩まされたξ^_^ξとしては、恨めしいことこの上ない杉林ですが、しばらく歩くと辺りから水が染み出して来ている場所が見えて来たの。その水のか細い流れの先にあったのが自鑑水なの。聞いたところでは、近年ではその水も枯渇する場合が多いとのことで、溜まり水のある自鑑水を見ることが出来たのも、前日の降雨がもたらしてくれた幸運ね。

石橋山の合戦に敗退を余儀なくされた頼朝は土肥郷に逃げ延びますが、堀口の合戦にも敗れて這々の体でこの椙山に逃げ込むの。そうして土肥実平の案内で身を隠すのですが、その時にこの水溜まりを見つけて喉の渇きを癒そうとしたの。そうして水面に身を乗り出した頼朝ですが、そこにはやつれ果てた我が身の姿が映っていたの。「こ、これなるは源家の嫡流たる我が身の姿たらんか。斯くの如き無様を曝してまでも生き延びる必要がよもやあるまいて・・・」頼朝はその惨めさに思わず小刀を引き抜いて自害しようとしたの。

自鑑水 その手を空かさず抑えてひき留めたのが土肥実平なの。「其は大将たらん者の軽挙かな。我等は既に日本国を敵とする者なり。されば一度や二度の敗け戦に我が身を捨つるは大将の器にあらず。佐殿、我等が大願成就 よもや忘れまいぞ!」そこでこれを水鏡にして衣服の乱れを直したことから自鑑水とも、またその無残な己が姿によもやこれまでと自害をしようとしたことから自害水とも呼ばれているの。嘗て鎧姿に身を固めた頼朝主従の姿がここにあったと思うと、決して綺麗だとは云えない雨の溜まり水でも、俄然清冽な湧き水のそれに見えてくるから不思議よね。

17. 幕山 まくやま

出入口 出入口 幕山ハイキングコース

自鑑水のある杉林を通り抜けるとこの指導標のある場所に出て来ますが、白銀林道を間にして対面するのが幕山ハイキングコースへの出入口なの。杉林の中を歩くと直ぐに幕山と大石ヶ平への分岐路を示す指導標が見えて来ますので、ここでは迷わずに幕山へと順路を辿りますが、次に控えているのが幕山々頂への急な登り道なの。

実は、先程までは晴れていた空模様も、自鑑水を見終えて白銀林道に戻った頃から雲行きが怪しくなり、幕山に登り始めた頃には急に雨が降り出してしまったの。雨具の用意もせずにいたのでずぶ濡れは覚悟したのですが、それでも幕山に登らずに迂回する術は無いものかしらと思案してみたの。結局は、幕山を縦走して登山口に降りるのが最短と判断したのですが。そんな訳で、幕山の紹介が駆け足になってしまいますが、御容赦下さいね。

幕山 幕山 幕山は標高625mと決して高い山ではありませんが、周囲を遮るものが無いことから360度の展望を堪能することが出来るハズでしたが、雨模様のために視界が利かず、残念な結果で終えているの。また、山頂の周囲には一周800m程の散策道が巡りますが、右はその周回遊歩道の入口を示す指導標なの。

幕山 左掲は山頂からの展望を駄目押しで収めてみたものですが、やはり何も見えないわね。諦めて麓の登山口へと向かいましたが、山頂からは曲がりくねった急坂を延々と下ることになるの。距離にしたら2kmはあるかしら?それでもずぶ濡れにならずに済んだのは、木立ちに覆われていたことから雨の直撃を受けずに下山することが出来たお蔭ね。幕山の豊かな緑が傘となり、雨から護ってくれたわけで、幕山の自然に感謝しなくてはダメね。

岸壁 この時は南郷山側から幕山に登頂したので急坂を下山する形になりましたが、登山口側から登頂される方は逆に延々と登らされることになるわけですから、余程健脚の方でなければキツイと思うわ。加えて、当時は状況を知らずにいたからこそ歩くことが出来ましたが、今では身体が拒否反応を示すの。これから挑戦してみようとされる方を脅す積もりは毛頭ありませんが、途中には休憩舎があるものの、そこから先はそれこそ急傾斜よ。余程の覚悟が必要かも。(^^;

その休憩舎で雨が小振りになるのを待って再び下山し始めたのですが、しばらく歩いていると遠くからキャーーッ!と女性の悲鳴が聞こえて来たの。え〜っ、何?なに?何なの〜?と不安を感じながらも更に下っていると、再び叫び声が聞こえ、その方向を見ると何と!岸壁に人が貼り付いていたの。と云うことで、ロック・クライミングをしていたわけですが、それにしても直角の断崖絶壁を登ろうと思うこと自体が凄いわよね。見ている方もドキドキ冷や冷やものですが、思わず声援を送りたくなるわね。

梅林 岩壁が見え始めた辺りが幕山梅林の最高地点となり、登山口からは日本一と云われる4,000本程の梅の木が植樹されているの。幕山ハイキングコースの踏破は遠慮しますが、梅の花が咲く頃にはこの梅林だけでも再訪してみたいものね。梅の開花時期に合わせてイベントなども開催され、併せて湯河原駅からは臨時バスも運行されるみたいね。お出掛け時には(社)湯河原温泉観光協会が運営される WEBゆがわら などで御確認下さいね。

幕山 左掲は登山口から幕山を仰ぎ見たところですが、麓に辿り着いた頃にはすっかり雨も上がり、所々からは御覧のような青空が。そうと分かっていたらもう少し幕山の山頂に踏み止まっていたものを。そうは云っても、幕山の山頂には雨宿りが出来るような休憩舎も無かったし、自然が相手ではどうにもならないわね。余談ですが、同じハイキングコースでも城山ハイキングコースの城山々頂には確か休憩舎があったような気がしますね。どちらにしても Afrer The Carnival だけど。幕山登山口からは新崎川の川沿いにキャンプ場やアスレチック広場などが造られているの。

新崎川 この日も河原ではバーベキューを楽しむ親子連れの姿もありました。残念ながら公園として整備されながらも、公共の交通手段となるとバスの便が日に僅かに4往復あるのみで、仕方なく登山口から宮の入橋までは再びトボトボと歩きました。その宮の入橋の近くには五郎神社があるのですが、歩き疲れた今回は見送りましたので、幾れの日にか再訪した際に紹介しますね。湯河原駅に辿り着き、歩き疲れたアンヨに少しだけ御褒美と云うことで、散策の最後に湯河原町営の日帰り温泉・こごめの湯で汗を流すことにしたの。

18. 光風荘 こうふうそう

光風荘 光風荘 湯河原駅前から不動滝行のバスに乗車して公園入口BSで下車すると、目の前にあるのがかながわの橋100選の一つ、権現橋で、橋を渡り切ったところに残されているのが二・二六事件のもう一つの舞台となった光風荘なの。事件のあらましは生々しすぎて苦手ですので、気になる方はお出掛けの際に掲示されている案内板をお読み下さいね。

19. こごめの湯 こごめのゆ

こごめの湯 権現橋を渡り終えて坂道を登るとこのこごめの湯があるの。現在は湯河原温泉の名で親しまれますが、その古名が実はこのごごめの湯でもあるの。こごめには奥まった場所を表すと共に、子を込めるの意にも通じ、子宝の湯としても知られていたみたいね。その湯河原温泉のルーツとも云うべき呼称を冠した入浴施設がこのこごめの湯なの。その子宝の湯も、現在では美人・美肌の湯として売り出し中よ。全国各地に美人の湯を謳う温泉があるけど、それにはやはり根拠が必要みたいね。こごめの湯の泉質を案内する掲示板にはその条件が記載されていたの。

それに依ると、美人の湯と呼ぶには美肌効果のある泉質が必要で、単純泉・石膏泉・重曹泉などがこれに当たるそうな。かと云って単純泉・石膏泉・重曹泉なら何でもいいかと云えばそういう訳でもなくて、成分含有量にも一定の条件があるみたいね。残念ながらその条件についての記載はありませんでしたが、こごめの湯の含有量が記されていたので転載しておきますので、美人の湯にこだわりのあるあなたは参考にしてみて下さいね。尚、入浴料金などの詳しい情報は前掲の(社)湯河原温泉観光協会が運営される WEBゆがわら などでお確かめ下さいね。

成分条件 必要数値 こごめの湯の数値
弱アルカリ性 8.5>pH≧7.5 pH:8.4
Naイオン含有量 - 421mg
Caイオン含有量 - 125mg

苦言だけどカムランは考慮の余地ありね。ワン・アクションでお湯が飛び出して自動的に止まるようになっているのですが、湯量も時間も調節出来なくて、そのシャワーの勢いたるや凄まじくて痛いくらいなの。これでは消防車の放水銃よ。なので、誰か隣に来ようものなら容赦無いシャワーの洗礼を浴びることになり、ひとこと注意を促したところ「あんた一人で入ってんじゃないんだからねッ!」と反対に怒鳴られてしまったの。それってξ^_^ξが云いたいセリフなんだけど。最初に隣にいらした方は気遣いながら利用して下さっていたのですが、十人十色ね。と云うことで、折角の「美人の湯」も良い印象が持てずに終えているの。紹介しておきながら気が引けるのですが、個人的にはこの先二度と足を向けることも無さそうね。


源頼朝に因む逸話が数多く残される湯河原ですが、その史蹟の紹介記事となると意外に見つからないの。今回の散策では前回訪ねきれずに終えた小道地蔵堂跡や自鑑水を観ることも出来ました。柔なξ^_^ξからするとかなりの強行軍となった今回の散策ですが、目指す史蹟に出会えた時の感動はひとしおでした。逸話が史実かどうかは門外漢のξ^_^ξには分かりませんが、史蹟を見やれば時代を駆け抜けた当時の人々の姿も瞼に浮かんでくるの。あなたも史蹟が語り掛けてくる問わず物語にしばし耳を傾けてみませんか。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
岩波書店 日本古典文学大系 日本書紀
岩波書店 日本古典文学大系 古事記・祝詞
岩波書店 龍肅訳注 吾妻鏡
新人物往来社 新定源平盛衰記
新人物往来社 鎌倉・室町人名事典
新人物往来社 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
雄山閣出版社 大日本地誌大系 新編相模国風土記稿
新紀元社 戸部民夫著 八百万の神々
新紀元社 戸部民夫著 日本の神々
講談社 山本幸司著 頼朝の精神史
講談社 和田英松著 官職要解
角川書店 田村芳朗著 日本仏教史入門
至文社 大野達之助著 日本の仏教
掘書店 安津素彦・梅田義彦監修 神道辞典
東京堂出版 白井永二編 鎌倉事典
東京堂出版 大野達之助編 日本仏教史辞典
東京堂出版 朝倉治彦他編 神話伝説辞典
吉川弘文館 佐和隆研編 仏像案内
塙書房 村山修一著 山伏の歴史
塙書房 速水侑著 観音信仰
湯河原町商工会 なるほど情報局
渡辺氏著 主な湯河原の神社と寺及び石仏
渡辺氏著 歴史ロマン 頼朝と政子
昭文社 上撰の旅12 箱根
その他、現地にて頂いてきた栞、パンフ等






どこにもいけないわ
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