≡☆ 九品仏と等々力界隈の史跡散歩 ☆≡
2013/08/04

だいぶ昔のお話しだけど (^^; 学生の頃に友達と出掛けた等々力渓谷のことをふと思い出したの。当時は史跡や寺社にはさしたる興味も無く、お花見が目的のお散歩だったのですが、それでも木立に覆われた疏水を歩いて辿り着いた等々力不動尊の幽隠な佇まいは、街の喧騒と隣り合わせにありながら、渓谷の存在以上に意外な印象を受けたの。時を経て当時の記憶も薄れ、緑の中を歩くのなら夏の陽射しもあまり気にならないかも−と、再訪してみることにしたの。併せて等々力界隈の史跡めぐりもしてみたので、よろしくお付き合いくださいね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

浄真寺〜玉川神社〜満願寺〜等々力渓谷〜六所神社〜善養寺

1. (東急)九品仏駅 くほんぶつえき 9:22発

駅改札口 再訪する前に改めてアクセス方法などを調べていたら、等々力駅の二駅手前の九品仏駅には徒歩3分圏内に浄真寺と云うお寺があることを知ったの。その浄真寺には9躰もの丈六阿弥陀如来像が祀られ、それぞれの像が異なる来迎印を結ぶことから九品仏と呼ばれ、浄真寺の通称にも、また、駅名の由来にもなっていることを知り、加えて、これもまた昔のお話しですが、京都府木津川市にある浄瑠璃寺を訪ねたことがあるのですが、同寺には同じく丈六の阿弥陀如来像が9躰安置され、浄真寺の九品仏はその浄瑠璃寺の九躰仏と東西の双璧をなすものとも案内されていたの。そうであれば尚のこと、九品仏とやらをこの目で観てみたいと思ったの。

2. 浄真寺 じょうしんじ 9:23着 10:29発

駅から歩くこと僅か1,2分でこの参道入口に到着よ。周囲には閑静な住宅地が広がることから、街中にあるにも関わらず、静寂と呼ぶに相応しい景観なの。少しだけど、総門までの道のりを疑似体験出来るようにしておきましたのでお楽しみ下さいね。

〔 扁額 般舟場(はんじゅじょう) 〕 当山第二世珂憶(かおく)上人の高弟・珂慶(かけい)上人の御筆で、流麗雄渾な筆致である。般舟とは般舟三昧(ざんまい)の事で、常に行道念仏(ぎょうどうねんぶつ)して現前に諸仏を見奉るを云う。般舟三昧経三巻は弥陀経典中最古のもので、浄土三部経と共に、古来より重ぜられている。当山は院号を唯在念仏院(ゆいざいねんぶついん)と称し、念仏の道場であり、参ずる人々に願往生の心を自然に発さんが為書かれたものである。

参道の突き当たりにこの総門が建てられているの。
扁額には般舟場とあり、難しい説明が付されていましたが、はやい話しが念仏道場のことね。

〔 創建の由来 〕 当山は広く「九品仏くほんぶつ」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院淨眞寺くほんざんゆいざいねんぶついんじょうしんじ」と云い、浄土宗に属し、境内約12万m²(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩かせき上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経かんむりょうじゅきょうの説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図会」に描かれている堂塔の配置と現状とは殆ど変わりはないが、昭和40年(1965)に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。

境内周囲の土手は、この地が嘗て奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期に於ける築城学上「土塁」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高野槇・菩提樹及び公孫樹(天然記念物)など古大木があり、常に参拝する人々が絶えない、武蔵野の面影を残存する霊域である。参道・総門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂(じきどう)など、所謂七堂伽藍の完備した僧房として数少ない寺院である。また、寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六(さぶろく)の願いに即して、境内三万六千坪、三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂欅柱三十六柱、更に三仏堂と本堂の間三十六間と云うように、細部にわたって往生に因んだ数字が当てはめられ、一度九品仏境内に歩を運び参拝結縁したならば、往生浄土の信心を得ることが出来ると云う願いがこもっているのである。このような緑の境域は、周囲の変化に伴い次第に失われてゆく都内の現状の中で極めて大切なものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願致しておる次第である。

境内参道の右手には閻魔堂が建てられ、興味本位で覗き込んだ脳天気な輩σ(^_^;)を睨みつける閻魔大王の姿が。(^^; 信心深い方で無くとも死後に極楽浄土へ行けるのか、はたまた地獄へ突き落とされてしまうのかは気になるところよね。そんなことをしていると地獄に堕ちるよ−なんて今でも耳にしますが、云われた方は一瞬ドキッとしますよね。地獄ということばには人を恐れさせるに充分なインパクトがありますが、あなたがその生を終えて冥府の世界に赴いたとき、地獄に堕ちるか極楽に行けるかは、この閻魔大王に象徴される十王達の裁き如何なの。

人はこの世に生を受けたときから両肩には倶生神が宿り、片方の神は悪行を、もう一方の神は善行を生涯にわたり監視するの。あなたの死後にその倶生神からの報告を受け、あなたの生前の行いが帳面に記載されるのですが、その帳面こそが世に云う閻魔帳なの。その後、七日毎に秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王の七王があなたの生前の善悪所業を取り調べ、その結果を踏まえて最終的に断を下すのが、十王の中でも冥府を代表する閻魔大王なの。その間、亡者の魂は極楽へ行くことも出来ず、さりとて地獄に堕とされるわけでも無くて、死後の世界を彷徨うことになるのですが、その魂を安らかたらしめ、審判を有利に進めるために生者が力を貸すべく行われるのが初七日や四十九日などの法要なの。

生前に善行あらば、あなたの死を多くの生者が哀れむはず−と、十王達は冥府から娑婆の様子をじっと窺っているの。この後には平等王・都市王・五道転輪王と続き、更に十王達の裁きを経た後も七回忌には蓮上王、十三回忌には抜苦王、三十三回忌には慈恩王が亡者の縁故者を監視しているの。なので、日頃から善行を積み重ね、節目節目には亡者の生前の善行を慮って追善供養をする必要があるの。お墓参りの際に十三回忌追善供養などと書かれた卒塔婆を目にすることがありますが、このことなの。

堂内右手には奪衣婆像もあるの。その薄気味悪い表情はいつみても目を背けたくなってしまい、今回もまた写真には収めて来ませんでしたので、気になる方は現地にて御対面下さいね。その奪衣婆についても少し触れておきますね。あなたが生前に犯した罪の軽重に基づき、秦広王から三途の川のどこを渡ることが出来るのかが告げられるのですが、川幅は何と300Kmにも及ぶ大河で、この時必要なのが渡り賃なの。地獄の沙汰も金次第−とはここから生まれ出たことばなのですが、それはさておき、お金を払ったからと云って安穏に川を渡して貰える訳ではないの。

それこそ数多の苦行難行があなたに襲いかかるの。やっとの思いで川を渡り終えたあなたを次に待ち受けているのが奪衣婆で、あなたの着衣を無理矢理剥ぎ取ると傍らの懸衣翁に渡すの。懸衣翁はそれを衣領樹の枝に掛けてその枝の下がり具合であなたの生前の罪の軽重を計るの。因みに、奪衣婆は脱衣婆とも記されることから「だついばばあ」と訓まれる方もいらっしゃいますが、それだと水木しげるの世界になってしまうわ。(^^; ここでは「だつえば」と読んで下さいね。

〔 開山堂 〕 当寺開山珂碩上人のお像を安置する。この御尊像は上人自彫のもので、御姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657)上人が如来のお告げ三度により、水鏡に御姿を写し彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運として広く信仰を集めている。尚、開山堂では、上人の御命日に当たる毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要と御法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。上人は元禄7年(1694)10月7日、御年77歳で示寂され、当山の西北にその御廟がある。

珂然和尚編珂碩上人行業記に曰く

元禄7年(1694)6月22日珂碩上人疾有り 日と共に進む 9月23日高弟珂憶上人河内國より来る 師珂憶上人に告げて曰く 九品佛像造佛の本擔已に成就せり 堂宇荘嚴志有つて遂げず 老朽体疲れて今往生の素懐を遂げんとす 汝宜しく修立せよ 身後の事は皆汝に付嘱す 汝それ忽にすること勿れ 又門人に告げて曰く 我が後に珂憶あり 憶はわれに異なる所なし 汝等謹みてその教命に従ふべしと 10月7日夜半合掌し弥陀の寳号を唱し寂す

珂憶上人師の遺命を奉じ力を林碩上人に協せ 材木一式を河内玉手山にて切り舩にて下し 元禄11年(1698)10月15日現本堂三佛堂の揚棟を成し給えり 閲世270年十方有縁の合力により諸堂の大修築成る これを昭和大修築と称し いささか祖恩に酬いんとす 即ち昔日の血汗の御労苦を偲び 之を碑面に刻し以つて記念とす 乞ふ来山の諸氏弥陀の名号を唱し、恭敬礼拝し給はん事を 昭和41年(1966)5月7日佛歓喜日 九品山唯在念仏院淨眞寺 第16世 心譽順碩 花押

珂憶(1635-1708)上人は7歳のときに江戸・霊巌寺で珂山上人について出家しているの。その珂山上人の高弟にいたのが珂碩上人で、その多くを珂碩上人から学んだみたいね。25歳のときに江ノ島の巌窟で断食行を修した後、寛文4年(1664)には山城国山科竹鼻に草庵を結び、同6年(1666)には荒廃していた河内国玉手山安福寺を再興、延宝7年(1679)には同じく洛西の木辻にあった護念庵(後の念仏寺)を復興するなどしているの。元禄7年(1694)に珂碩上人が病床に伏したのを知ると、珂碩上人の許へ駆けつけ、つきっきりの看病をしたみたいね。その珂碩上人が亡くなると、珂憶上人はその遺骨を持って河内国玉手山に戻り、材木を切り出して提供するなどして堂宇建設のために尽力したの。

それにしても、師の珂碩上人が珂憶上人に寄せたと云う「我が後に珂憶あり 憶はわれに異なる所なし 汝等謹みてその教命に従ふべし」のことばには思わず目頭があつくなってしまうわね。師の病床につきっきりで看病をしたのが珂憶上人なら、師の珂碩上人が珂憶上人に寄せる思いにも並々ならぬものがあるわね。師弟関係と云う醒めた見方もあるのかも知れませんが、人が人を慈しみ、信頼を寄せる姿は荒んだ心にはとりわけ響き渡るの。

開山堂の左手には木々に隠れて小堂があるのを見つけたの。奉納された西国三十三番札所供養塔の脇には三十三観音と墨書きされた木札があることから、その三十三観音を祀る観音堂かしらと思いきや、石造の三十三観音像は堂の前面左右に置かれていたの。となると肝心の観音堂には何が祀られているのか気になりますよね。残念ながら未確認ですが、堂内には不空羂索観音像が安置され、地蔵菩薩立像が脇侍するみたいよ。その地蔵菩薩像ですが、【新編武蔵風土記稿】には「寺傳に昔丹波國箕濃山の麓にありしが いつの頃か紀州高野山に移し その後珂碩上人に傳はりしと云ふ」とあり、その製作年代は藤原期に比定され、恵心僧都作とも伝えられているのだとか。

新たに登場した三十三観音ですが、法華経普門品に説かれる、観音さまの三十三変化身を基に33種類の観音さまがつくられたの。観音さまは観世音菩薩 or 観自在菩薩と呼ばれるように、「若し衆生ありて諸の苦悩を受けんに 是の観世音菩薩を聞いて一心にその名を称うなれば 即時にその音声を観じて皆解脱を得しむ」とあり、苦悩する人々がその名を唱えると、その人の悩みに応じて異なる姿で現れ、その願いを聞き届けてくれるの。そのときの姿が33通りあると云うのが観音さまの三十三変化身で、三十三態のお姿をした観音さまが三十三観音なの。But 像容や持物などは根拠となる教軌がある訳ではなくて、中国で作られた経典や説話等から創作されたものなの。

1.
2.
3.
4.
5.
6.
7.
8.
9.
10.
楊柳観音
竜頭観音
持経観音
円光観音
遊戯観音
白衣観音
蓮臥観音
滝見観音
施薬観音
魚籃観音
ようりゅう
りゅうず
じきょう
えんこう
ゆうげ
びゃくえ
れんが
たきみ
せやく
ぎょらん
11.
12.
13.
14.
15.
16.
17.
18.
19.
20.
徳王観音
水月観音
一葉観音
青頸観音
威徳観音
延命観音
衆宝観音
岩戸観音
能静観音
阿耨観音
とくおう
すいげつ
いちよう
しょうきょう
いとく
えんめい
しゅうほう
いわと
のうじょう
あのく
21.
22.
23.
24.
25.
26.
27.
28.
29.
30.
阿麼提観音
葉衣観音
瑠璃観音
多羅尊観音
蛤蜊観音
六時観音
普悲観音
馬郎婦観音
合掌観音
一如観音
あまだい
ようえ
るり
たらそん
こうり
ろくじ
ふひ
めろうふ
がっしょう
いちにょ
31.
32.
33.
不二観音
持蓮観音
灑水観音
ふに
じれん
しゃすい
観音さま

因みに、三十三所の札所めぐりもまた単なる数字合わせが元になっているの。それに、札所の観音さまは三十三観音ではなくて、実際は七観音(聖観音・十一面観音・千手観音・不空羂索観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音)の内の幾れかよ。

観音さまの画像は Harumi's Home Page さんに掲載されるものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・

〔 仁王門 〕 重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ、寛政5年(1793)の建立である。一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。則ち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間(1789-1801)の建立である。当山の伝統相続行事である二十五菩薩来迎会(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の神髄を示現していることになる。

残念ながら登楼は出来ないので、阿弥陀如来像と二十五菩薩像は未確認なの。
代わりに、仁王さまと風神・雷神さまを紹介しますね。御覧になりたい方は上の仁王門の画像から・・・

〔 鐘楼 〕 仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名楼の誉れ高く、宝永5年(1708)の建立である。梵鐘は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖が二親菩提のために鋳造され、当山に寄進されたものである。また、楼の四周に刻まれた十二支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者で賑わっている。

梵鐘は、世田谷領深澤の谷岡又左衛門尉庸重が父母の菩提供養のために宝永5年(1708)に寄進したもので、神田鍛治町の河合兵部卿藤原周徳の作と伝えられ、都の指定文化財なの。

辺りを彷徨いているときに見つけたのが鷺草園なの。加えて、浄真寺の敷地内にも関わらず、世田谷区立となっている摩訶不思議。掲示されていた「お知らせ」にも−鷺草は7/20頃植え付け、見頃は7月下旬から8/10の予定です。よろしくお願いします。玉川公園管理事務所−とあり、維持管理も間違いなく世田谷区で行われているみたいなの。But その意外性も説明を読めば納得ね。その鷺草ですが、昭和43年(1968)に「区の花」に指定されているの。世田谷区内ではこの浄真寺境内の鷺草園でしか見られなくなってしまった以上、世田谷区のメンツにかけて種の維持に努めなくてはならないと云うわけ。(^^; ちょっと茶化してしてしまいましたね、ごめんなさい。

鷺草(さぎそう)について
鷺草〔 ラン科 〕は陽の当たる湿地原野に生える多年生草本で7,8月頃、高さ2,30cmの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷺の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し、奥沢には「鷺の谷」、また地続きの目黒区自由が丘には「鷺草谷」と云う小字の地名がありました。この鷺草に纏わる悲話も幾つか伝えられておりますので、その一つを紹介します。

室町時代世田谷城主・吉良頼康には、家臣の奥沢城主・大平出羽守の娘で常盤姫という美しい側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これを妬んで常盤が不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をしていた頼康が白鷺を射落としたところ、脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遺書であった。頼康は驚いて急いで帰館したが、とき既に遅かった。白鷺の射落とされた場所から一本の草が生え、やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです・・・世田谷区

お話しの詳細が気になる方は『名残常盤記』を御参照下さいね。But 現在伝えられるのは写本で、それも幾つかの異本があり、お話しの展開にも異同があるみたいね。世田谷区発行「世田谷区史料」にはその内の大平本が収録されているのですが、鷺草園に掲示されている内容とは大分異なるの。それはさておき、『常盤記』のことばを借りると「容顔美麗にして 一度君にまみえしに御所中花を飾 色をあらそいし女房達顔色無がごとく成し云々」とあるのですから、頼康の寵愛を一身に受けるのは必然よね。(^^; But それゆえに悲劇が起きてしまうの。途中の経緯は省略しますが、『常盤記』の常盤最期之事の段には「終に死しける 其怨念鷺の形に而 奥沢の下 衾村谷に是有成」ともあるの。鷺草には常盤の面影と共に彼女の怨念がひそんでいると云うのですが、その怨念も遙かな時の流れの中で一羽の鷺となって昇華したものと思いたいものですね。

鷺草園を後にして更に境内を進むと「九品仏のイチョウ」として都天然記念物に指定されている大きな公孫樹の木があるの。傍らには「掃きよせて落葉焚く間も銀杏の樹 やまずしこぼす黄なるその葉を」と刻む福島泰樹の歌碑も建つの。ξ^_^ξが訪ねたのは夏のことでしたが、境内にはモミジも多く植栽されていることから、公孫樹の木が黄色く色づく秋の紅葉期の景観も素敵でしょうね、きっと。

〔 仏足石 〕 大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足に対して、接足作礼(せっそくさらい)により人々は哀心慕情の誠を示した。御入滅後凡そ六百年、仏像が創まり、それが広範に行われるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられてのである。当山の仏足石の中央に千輻輪相(せんぷくりんそう:法輪)が刻されているが、磨滅している。天保年間(1830-1844)のもので、近年その土台を補修した。

お釈迦さまの存命中は身近にそのお姿を拝することが出来たのですが、入滅されてしまうとそれが出来なくなってしまったの。かと云って代わりにお釈迦さまの姿を模した像を作ることは恐れ多くも−と畏怖されたの。お釈迦さまの遺徳をいつも身近に感ずることが出来る何か良いものはないものかのお、そうじゃ、お姿はダメじゃが足跡なら良かんべえ−と考え出されたのが仏足石と云うわけ。後に仏像がつくられるようになる迄は、お釈迦さまを偲ぶものとして法輪や菩提樹と共に、この仏足石が礼拝対象とされたの。因みに、千輻輪相は数多の供養や救済を衆生に施した後に得られる妙相で、お釈迦さまにのみ与えられたものなの。

〔 本堂 〕 本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼如来(文化財)を安置し、当山第二世珂億上人代、元禄11年(1698)三仏堂共々上棟した。世に珂億造りと称せられ、雄大荘重なる茅葺きの大殿である。近事、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。本堂はまた龍護殿(りゅうごでん)とも云われ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)を表す。当山独特の行事である来迎会(おめんかぶり)は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)との間に橋を架け、阿弥陀仏と二十五菩薩が、来迎・往生・還来(げんらい)と三回橋を行道するものである。

〔 来迎会(おめんかぶり) 〕 当山には、広く「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは3年毎に奉修される阿弥陀如来二十五菩薩来迎会(らいごうえ)のことで、無形文化財に指定されている。念仏行者が臨終の夕べに、阿弥陀さまが二十五の菩薩さまを従えて西方浄土より御来迎になると云う、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面を被って行道する尊くもまた厳粛な儀式である。この「おめんかぶり」は、3年に一度の行事であり、8月16日の午前11時・午後5時の一日2回お勤めする。関東に於いては当山のみの行事であり、是非一度御結縁あらんことをお勧めする。尚、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観下さい。

〔 九品仏と三仏堂 〕
珂碩上人(1617-1694)は、念仏行者として一代の高僧であると共に、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数に及んだ。中でも18歳で発願、51歳のとき完成した九躰の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶と云われる代表作で、未代衆生化益(けやく)の尊い御仏像である。九躰とも文化財の指定を受け、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三躰ずつ安置してある。上品堂の内、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。

中品堂、下品堂と同様で、従って阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置及び印契が異なっている。何故に阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たる我々の機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身と口と意(こころ)の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功積もり死なば浄土に参りなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」と云う念死念仏の心境に至る道程を示したものと云うことが出来る。京都府下の浄瑠璃寺(九躰寺)と共に我が国に於ける東西の九品仏像の双璧である。

本堂と対峙するかのようにして建てられているのが三仏堂で、それぞれの堂宇には三体の丈六阿弥陀如来像が祀られているの。上掲は本堂側から見た上品堂の佇まいですが、本堂側が娑婆を表す此岸なら、三仏堂側は浄土たる彼岸を表していると云うわけ。説明では難しい解説がなされていますが、菩薩のときに48の誓願を立てて修行した後、如来となった阿弥陀さまは西方に極楽浄土を開いたの。その阿弥陀さま、極楽浄土に衆生を導く際には生前の行いや信仰の浅深に応じて9種類の来迎方法があるの。その九つの来迎印を結ぶのが九品仏と云うわけ。左掲は勿論、最上級の上品上生印を結ぶ阿弥陀さまよ。

上品
中品
下品
じょうぼん
ちゅうぼん
げぼん
:親指と人差指で輪をつくる
:親指と中指で輪をつくる
:親指と薬指で輪をつくる
  上生
中生
下生
じょうしょう
ちゅうしょう
げしょう
:定印
:説法印
:来迎印

上品堂と中品堂の間に石塔が建つのが見えて、何かしら−と近づいてみたところ、阿育王塔だったの。
But ξ^_^ξは阿育をアショカとは読めずに、最初は何なの、これ−状態。(^^;

阿育王(あしょかおう)は西紀前第三世紀の印度の王で仏教を国教とし、慈悲の教えによって如法に国民に臨み、その恩徳一切世間に満ちたと云はれる。仏陀釈尊の徳音を普及せんが為、今に残る釈尊の遺跡に多くの石柱を建てた。現在の印度の国旗はこの石柱の頭部の法輪である。阿育王は84,000の宝塔を造り、遍く世界に頒った。我国に於て阿育王塔と称するものはこれを模している。幾れも三重の石塔である。当山の石塔は寺門の清寧を祈念して、天保年間(1830-1844)第12世俊譽珂彦上人が発願せられ、第13世香譽柳観上人が造立せられたものである。

阿弥陀さまに来たるべきときに備え、極楽浄土への来迎をしっかりお願いしたところで浄真寺を後にしましたが、等々力渓谷に向かう途中で、少しばかり寄り道をしましたので、お急ぎで無ければよろしくお付き合いくださいね。

3. 玉川神社 たまがわじんじゃ 10:51着 11:01発

祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神 例祭:9月28日
文亀年間(1501-1504)に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、別当は満願寺で等々力村の鎮守であった。明治5年(1872)に村社に定められ、同41年(1908)に熊野神社の社号を玉川神社と改め、付近の天祖神社、諏訪神社、御嶽神社を合祀した。境内には、郷土開発の偉人、豊田正治翁の碑などがある。昭和54年(1979)3月 世田谷区教育委員会

浄真寺から歩くこと20分余でようやく辿り着いたのがこの玉川神社なの。最初に、鳥居脇に立てられていた案内板の記述を紹介してみましたが、熊野神社からの改称であれば、祭神は天照大神に代えて素戔嗚尊とすべきではないのかしらね。天照大神は本来なら合祀されてきた天祖神社の祭神だもの。おまけに、同じく相殿となった諏訪神社や御嶽神社の祭神に至っては、その存在感の薄いこと。気の毒なことに神名さえ明らかにして貰えていないの。(^^; あまりこだわらなくてもいいじゃん−と云うことで先へ進みますが、鳥居をくぐり抜けた右手には世田谷区の名木百選の一つでもあるクスノキがあるの。樹齢は分かりませんが、その特異な姿形は樹木を通り越して、別世界のいきもののようにも見えるわね。替わって社殿の右手には岩獅子の像があるの。

獅子は子を産むとその子を深い谷底に投げ落とし、生き残ったものだけを育てるという俗説から、自分の子に苦しい試練を与え、その才能を試し、立派な人間に育てることのたとえとして、遠き昔より、このような子育ての信仰があった。

境内の一角には天満宮・祓戸神社・八幡神社の合祀社や、三峯神社・稲荷神社・大國神社が並び建つの。その大國神社ですが、えびす神の幟が奉納されていることからすると七福神の扱いみたいね。But 祭神が大国主命なら、幟はえびす神じゃなくて大黒さまのハズなんだけど。

その末社に引き続き、社殿の左手には社殿再建之碑が建てられていたの。碑文には当時の等々力は僅か300戸程の寒村だったと誌されているのですが、現在の高級住宅地が広がる景観からはとても想像出来ないわね。

當社は文亀年中(1501-1504)の創建と伝へ 等々力郷の鎮守として遠近に崇敬せられ今日に至れるも 大正7年(1918)不慮の災火に罹りて社殿其他建造物を烏有に歸してより 氏子議りて直に之か復舊の計を立つるや 當時此地は三百餘戸の寒村なれ共 速に神慮を安じ奉らんの赤心は凝つて火と燃へ 昭和4年(1929)先づ本殿を再現し 爾来春風秋雨歳を累ぬる事多年幾多の困難と闘ひつつ 只管目的の達成に邁進せり 然るに昭和10年(1935)境内地の一部都市計畫線道路の敷地に編入せられ 創業の前途に多大の支障を生じたりと雖も 耕地整理組合より背面に換地を得るに至りて社殿建設の気運は俄に揚り

時の總代豊田正治氏建築委員長に推され 仝小池駒次氏副委員長に其他總代世話人を委員に委嘱し 工事は當所小林棟梁請負ひ 設計監督に荏原吉野直吉氏を嘱託し 神職専ら其の衡に當りて諸般の準備を整へ 台檜を御用材として翌年11月遂に待望の工を起し 又 鳥居石階参道石垣等も逐次工を進めて昭和15年(1940)11月7日菊花薫る晩秋の佳辰を卜し 盛大なる正遷座祭を執行せり 即ち本事業は實に二十餘年の長き歳月を要したりと雖も 氏子一致の奉賛により 茲に全く舊態を一新して荘厳なる社殿の再建を仰ぎ観たるは真に同慶の至りに堪へず 今回記念の碑を建立するに際し之が概要を誌し以て偉業を後生に傳えんとす 昭和24年(1949)11月建立 氏子中 撰文竝書 禰宜 高橋 秀利

4. 満願寺 まんがんじ 11:05着 11:09発

〔 致航山満願寺 〕 文明2年(1470)吉良氏によって開基され、開山は定栄和尚、本尊は大日如来である。江戸時代には、御朱印寺領13石が与えられていた。山門の額は細井広沢(こうたく)、本堂の額は広沢の子・九皐(きゅうこう)の筆である。細井広沢は元禄年中(1688-1704)その学識を以て柳沢吉保に重用され、晩年は玉川を愛して蕉林庵玉川(ぎょくせん)と号した。当代の代表的名筆家として知られている。寺内の墓は国の史跡に指定されている。昭和54年(1979)3月 世田谷区教育委員会

玉川神社と左程距離を置かずして満願寺があるの。次に訪ねる等々力渓谷には等々力不動があるのですが、その本院とされるのがこの満願寺と知り、興味を覚えて足を向けてみたのですが、御覧のような近代的な造りに加えて、中では法事が執り行われていて、脳天気な物見遊山の来訪者の入域を拒むかのような雰囲気にあり、山門からの景観を写真に収めただけで終えてしまったの。なので、詳しい御案内が出来ませんが、御容赦下さいね。因みに、この満願寺、元々は深沢の兎々呂城に開創されたのですが、火事で焼失したのを機に、天文18年(1549)、第二世栄心和尚の代に現在地に移転して来たの。現在は致航山感応院満願寺を正式な山号寺号とする新義真言宗智山派の寺院で、京都智積院末。

5. 等々力渓谷 とどろきけいこく 11:18着 12:29発

満願寺から歩くこと10分程で等々力渓谷の入口に到着よ。その入口にしても、お店が建ち並ぶ用賀中町通から脇道に折れて10m歩くか歩かないかの距離にあり、等々力渓谷は街中にある渓谷なの。加えて都内唯一の渓谷でもあり、その存在は奇跡と云っても過言では無いの。そうは云っても、清流が奇岩怪石を縫うようにして流れる大自然の渓谷美を期待されても困るのですが、普段、川底の見えない川の流れを見慣れた目には、等々力渓谷を流れる谷沢川も清流に見えるの。尤も、その裏には、等々力渓谷公園を主管する自治体の世田谷区を始め、地元に住む方々の努力や支えがあればこそのお話しなの。

〔 等々力渓谷公園の由来 〕 等々力渓谷は、武蔵野台地の南端に位置する延長約1Kmの渓谷です。谷沢川が多摩川と合流する手前で、国分寺崖線を侵食して出来ました。等々力の地名は、渓谷内にある「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ことからついた−との云い伝えがあります。昭和8年(1933)、国は等々力渓谷を風致地区として指定しました。世田谷区は、昭和49年(1974)に渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園しました。世田谷区

〔 東京都指定名勝 等々力渓谷 〕 所在地:世田谷区等々力二丁目外 指定:平成11年(1999)3月3日
等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約1Kmの都区内唯一の渓谷である。谷沢川(やさわがわ)が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約10mある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどと共に、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。玉川全円耕地整理組合が、昭和5年(1930)から13年(1938)にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要である。平成11年(1999)9月 東京都教育委員会

〔 等々力渓谷と谷沢川 〕 等々力渓谷は、世田谷区南部の武蔵野台地南端に位置する延長約1,000m(現在地のゴルフ橋から矢川橋までの区間)の渓谷です。この渓谷を流れる川は「谷沢川と呼ばれ、世田谷区上用賀6丁目、桜丘3丁目周辺を水源とする河川です。谷沢川は、世田谷区の用賀方面から中町にかけての上流部は武蔵野台地の傾斜方向と同じく、南東方面に緩やかに流れていき、大井町線等々力駅付近から急に南に流れを変え、渓谷を形づくり、多摩川に注いでいます。嘗ては、この谷沢川の上流部の緩やかな流れは、呑川(のみかわ)の支流であった九品仏川の上流でした。そこの段丘面の南に形成された谷沢川が九品仏川に向かって浸食を深め、やがて九品仏川の上流部と谷沢川が繋がり、段丘を南北に横断する形になりました。このため谷沢川の水量が増し、浸食を深め等々力渓谷の地形が形成されました。現在は、川の水量を確保するため、区内を流れる仙川(せんかわ)の浄化した水を、この谷沢川まで導水しています。等々力渓谷保存会

〔 不動の瀧 〕 利剱の瀧、等々力の瀧とも稱ばれて来た等々力不動の瀧は、今から八百数十年の昔、高野山を中興し、根来寺を開創して両山の座主となられた興教大師(覚鑁上人:かくばんしょうにん 1095-1143)が、役の行者の刻された不動尊の夢告により、この尊像を奉持して渓谷を逆上ると、幽玄な霊気に満ちた所に到った。見上げるばかりの断崖中腹を錫杖を振って穿つと霊泉がほとばしり出て瀧を成した。この瀧の上に奉持した不動尊を安置したのが、崖の上の御本堂の等々力不動尊である。四季に涸れることのないこの瀧を「お瀧」と呼んで、一心不乱に修行する人は今も多い。

等々力の地名は、一説に瀧の轟く音に由来すると云い、瀧轟山(りゅうごうさん)と云う山号にもなっている。他の一説は、満願寺が深沢兎々呂城内にあり、兎々呂城(とどろき)の満願寺と呼ばれ、現在地(等々力三丁目)に移転後も、とどろきの満願寺と云った事から地名になったと云う。瀧轟山等々力不動尊 満願寺別院

不動滝の右手に続く石段を登ると等々力不動尊があるのですが、その坂道の途中に神変大菩薩が祀られる巌窟を見つけたの。聞き慣れない菩薩号ですが、これは役行者(えんのぎょうじゃ)の江戸時代の呼称なの。役行者こと役小角(えんのおづぬ)は実在の人物で、修験者の祖と仰がれるように、原始密教と日本古来の山岳信仰を融合させたの。その出自は賀茂役君(かものえんのきみ)家で、司祭職を務める家系の呪術家だったの。その彼が死後に伝説化するのですが、孔雀明王呪法を会得した後に鬼神を自在に操り、大和国の葛城山や大峰山を雲に乗り行き来したなどと伝えられたの。


ここで一度等々力不動尊を離れて、山門前から見えた御岳山古墳に足を伸ばしてみたので紹介しますね。But 東京都指定史跡とあるのですが、厳重なフェンスに護られて立ち入り禁止なの。何か特段の思い入れでも無い限りは省略可よ。(^^; 因みに、名称は嘗て墳墓上に御岳神社が祀られていたことに由来するの。

都指定史跡 御岳山古墳 所在地:世田谷区等々力1-18 指定:昭和55年(1980)2月21日
御岳山古墳は多摩川の左岸、標高31mの舌状台地先端部に位置しており、西側には等々力渓谷を臨んでいます。世田谷区野毛から大田区田園調布にかけて多摩川左岸の台地縁辺部一帯には、連なるように50数基からなる荏原台古墳群が形成されており、本古墳はこの内の一つです。西方には野毛大塚古墳(都指定史跡)があり、これに次ぐ規模を有しています。全長57m、現在高7mを測り、野毛大塚古墳と同じく帆立貝形です。河原石による葺石、円筒埴輪を伴い、五世紀後半から六世紀中葉の築造と考えられています。

学習院大学の調査によって、埋葬施設である内部主体は、木棺を粘土で覆った粘土槨(ねんどかく)であると推定されています。副葬品として内行花文(ないこうかもん)を文様とする七鈴鏡(しちれいきょう:都指定有形文化財)、短甲、直刀等が出土しており、特に短甲は二領文の破片があり、その製作時期が五世紀後半に位置づけられます。平成22年(2010)3月 東京都教育委員会

〔 弁天堂 〕 本尊弁財天は仏法の外護の女神、胎蔵曼荼羅外金剛院に住す、人の福智を増し寿命を延べ自由な弁才を保させ災厄を除くをその徳とする。弁財天と稱するのは俗に財宝と名誉を与えるその徳に依る。もと水神の故に、多く河岸島に祀る。当堂もその形式に従っていて池を弁天池、島を弁天島と稱す。等々力不動尊 滝轟山満願寺別院

境内から少し離れて弁天堂があるのを知り、足を向けてみたのですが、弁天池には水のみの字も無いの。これでは弁財天も妙音を奏でることが出来ず、福徳を期待しても無理かも知れないわね。

等々力不動尊を後にして再び渓谷沿いの小径を歩きましたが、道端に日本庭園の案内を見つけたの。
入園自由とありましたので寄り道してみましたので紹介しますね。

6. 六所神社 ろくしょじんじゃ 12:45着 12:55発

等々力渓谷から左程離れずして六所神社があるのを地図上に見つけて足を伸ばしてみたの。余り期待せずに訪ねてみたと云うのがホントのところでしたが、いざ石段を登ってみると立派な社殿が建てられていたと云うわけ。創建は元和年間(1615-1623)の頃と伝えられ、その縁起は多摩川の氾濫に由来するの。【新編武蔵風土記稿】には「昔洪水の時多摩郡府中の方より流れ来るものあり 此所の榎の枝にかゝる 取上みれば僅かの祠なり されど何の祠なることも知られず たゞ府中の方より流れ来りぬればとて 土人打よりて六所明神と崇め、此へ一社を草創して村の鎮守とす」とあるの。府中と云えば六所宮(現:大国魂神社)よね。

But 逸話は後世に付与された作り話のような気がしないでもないわね。実際は府中六所神社から分祠勧請したものではないのかしら。それはさておき、時を経た明治31年(1898)には、旧野毛村の五社を合祀したのを機に現在地へ移転して来ているの。残念ながら、それまでどこに鎮座していたのかまでは分からないけど。

御祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・譽田和気神・大山都見命・菅原道真公
六所神社は往古より下野毛村鎮守として斎祀せられ、明治31年(1898)、村内の天祖神社・山際神社・日枝神社・八幡神社・北野神社を合祀し、下野毛村総鎮守として神社の礎を定めました。境内は松柏欝茂し神気清浄の地にして地元守護神と普く人心のより処と尊崇されて参りましたが、社殿並に附属舎の老朽化が甚々しくなり、その復興を希う氏子崇敬者有志により、昭和42年(1967)6月、六所神社造営奉賛会が結成せられ、尓来二ヶ年有半の歳月と五千萬円の資金を費し、昭和44年(1969)秋に至り、社殿・神楽殿・社務所・手水舎・御輿庫等を完成し、同年11月1日、御神霊を新社殿に遷座奉鎮いたしました。

境内の一角にはこの水神社が祀られているの。この場合の水は即ち多摩川よね。何でもこの水神社には梵字で「水」と刻まれた石が祀られているそうよ。それも、洪水時に掘り出されたものだとか。その水神社の社殿前にはナマズや鯉のオブジェの他にも舟を象ったオブジェが置かれていたの。傍らの石碑には「砂利舟の詩(うた)」が誌されていましたが、舟のオブジェとの関係は?なの。採取した砂利を載せた舟の形とは思えないので、漁船を模したものと考えるのが妥当よね、きっと。その関係はひとまず置いておき、「砂利舟の詩」とやらを紹介しておきますね。

身を切るような冬の川 腰までつかる砂利ッ掘り 鋤簾(じょれん)をふるう玉の汗
凍る肌着もとけゆきぬ 舟いっぱいの砂利の山 浅瀬は川底みをかきて
引き潮なれ風帆をあげて 六郷原河岸をめざしゆく
上げ潮東風帆に受けて 野毛の岸辺に帰りきぬ
あゝ一寸二分の玉の砂利 都の礎築きたり
夢を運びし帆掛け舟 多摩川ロマンの寳舟

7. 善養寺 ぜんようじ 13:00着 13:12発

玉川神社とは道を隔ててあるのがこの善養寺。と云っても訪ねるには大きく回り込まなくてはいけないの。事前の予備知識は何も持たずに訪ねたので、いきなり参道両脇に奇妙な石像が並び立つ景観を目にしたξ^_^ξはてっきり新興宗教のそれかしらん−と、一瞬気後れしそうになったの。それでも山門脇に世田谷区教育委員会が立てた案内板を見つけてようやく一安心したと云うわけ。因みに、山門前の石段下左右に狛犬然とした一対の石像が建つのですが、海駝(かいだ)だそうよ。お隣の韓国では火除けの神さまで架空の動物とされ、さしあたり韓国版の狛犬と云ったところかしら。先ずは、その案内板の記述から紹介しますね。