≡☆ 南房総館山・沖の島 ☆≡
潮風香る岬の道シリーズ 2012/05/27

南房総の館山には沖の島と呼ばれる無人島があり、島内は公園として整備され、磯遊びなどが楽しめると云うので出掛けてみたの。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

鷹之島弁天閣〜沖の島〜館山神社〜城山公園

1. 京急久里浜駅 けいきゅうくりはまえき 7:56着 7:58発

以前、TVのお天気情報のコーナーで紹介されていた島の景観に魅せられて訪ねてみたのが今回の沖の島めぐりなの。その沖の島がある南房総館山へのアプローチは内房線を利用するのが定石ですが、今回は趣向を変えて東京湾フェリーに乗船してみたの。時間的には陸路を利用した方が断然有利なのでお勧めは出来ないのですが、潮風を受けてのプチ船旅は楽しいものね。それはさておき、京急久里浜駅からは 路線バス に乗車して久里浜港に向かう積もりでいたのですが、乗船時間に間に合うかどうか微妙なタイミングでしたので、今回はやむを得ずタクシー〔 ¥890 2012.05 現在 〕を利用しているの。公共の交通手段に頼らざるを得ない身としては仕方のない選択ね。

2. 久里浜港 くりはまこう 8:06着 8:20発

余談ですが、今回はプチ船旅気分が味わえることからフェリーを利用しましたが、時間を掛けてクルージングを楽しみたいと云う方には遊覧乗船往復割引切符も用意されているの。残念ながら相手先港での下船は出来ないのですが、タイミングが良ければサンセット・クルージングとナイト・クルージングが片道運賃+αの僅か¥1,000で楽しめてしまうと云う優れものよ。本格的なクルーザーを利用したものにはかなわないけど、気軽に乗船できるのが何よりの魅力よね。ξ^_^ξには例え夕陽が見られなくても船上からの景観が楽しめるだけでも充分なのですが、久里浜港に来るまでがちょっと大変。(^^; でも、一度チャレンジしてみたいわね。詳しいことは 東京湾フェリー を御参照下さいね。乗船料:¥700 〔 片道 〕

3. 金谷港 かなやこう 9:00着 9:07発

乗船時間40分余で金谷港に入港です。左掲は接岸間際の様子ですが、中央に見える青い看板のある建物の ザ・フィッシュ では房総産の海産物や郷土産品などが数多く取り揃えられ、地魚料理を始めとした食事も楽しめるの。目の前に広がる海を見ながら軽めの食事も勿論OKよ。これから未だ未だ歩き廻らなくてはならないこともあり、今回は素通りしましたが、新鮮な魚介類をお土産にしたい場合には早めのお立ち寄りがお勧めよ。以前帰り際に立ち寄ったことがあるのですが、めぼしいものは殆どが売り切れ状態だったの。先に買い求めてクール便で自宅に送るのも手よね。

見たところ、車でお出掛けの方が多くて、徒歩だとしても浜金谷駅に向かう方よりも鋸山を目指す人の方が多い位なの。なので、下船後は皆さんの後に黙ってついていくと云うわけにはいかないの。(^^; 道が不案内な場合には、フェリーの改札出口に用意されているB6サイズの金谷マップを忘れずにGetして下さいね。簡略な地図だけど、とても分かり易いの。

4. JR浜金谷駅 はまかなやえき 9:14着 9:25発

左掲が浜金谷駅の駅舎ですが、水色の屋根瓦がレトロな雰囲気にマッチしていて素敵よね。ところで、港は金谷港と称しているのに対して、同じ金谷の地番にありながら、駅名だけが浜金谷になっていると云う摩訶不思議。実は、開業当初は金谷駅とする積もりではいたのですが、既に敷設されていた東海道線に金谷駅があり、両者を区別するために、やむなく浜の字を冠して浜金谷を駅名にしたのだとか。因みに、東海道線側の金谷駅は明治23年(1890)5/16に開業しているのに対して、内房線の浜金谷駅の開業は大正5年(1916)10/11のことなの。乗車券:¥400 〔 館山迄 〕

5. JR館山駅 たてやまえき 9:52着 10:20発

左掲は館山駅の駅舎ですが、オレンジ色の屋根と白い外壁が地中海沿岸の南仏をイメージさせてくれるの。2Fにはオープンテラスもあり、気分はすっかりリゾート・モード。なので、ここでは日常を忘れてゆったりとした時間の中で過ごさなくてはいけないわね。と云うことで、乗車予定の 館山日東バス の「館山航空隊」行は一時間に一本の運行よ。(^^; もう一つの選択肢として JRバス関東 の西岬方面行きのバスに乗車して宮城BSで下車後に歩く方法もあるけど、運行ダイヤは同じく一時間に一本なの。だとすれば少しでも余計に歩かずに済む館山日東バスの方が有利ね。料金:¥230 館山日東バス「館山航空隊」行

6. 館山航空隊BS たてやまこうくうたいばすてい 10:32着発

宮城BSと館山航空隊BS間の距離は200-300m離れているだけなので、館山航空隊行のバスを待つよりも、西岬方面行きのバスに乗車して宮城BSで下車してさっさと歩いてしまった方が早いかも知れないわね。どちらを利用するかは両社の運行ダイヤ次第と云ったところね。追体験される場合には最新情報を御確認の上でお決め下さいね。余談ですが、ξ^_^ξが出掛けたときに終点の館山航空隊BSまで乗車したのはξ^_^ξ達の他には誰もいなくて。途中下車した方を含めてみたところで乗降客よりも空席の方が遙かに多かったような。利用者の数がこれではいずれ廃止されてしまうかも知れないわね。因みに、左掲は館山航空基地のメインゲートよ。

7. 鷹之島弁天閣 たかのしまべんてんかく 10:44着 10:55発

沖の島に向かう途中で鳥居を見つけて寄り道してみたのがこの鷹之島弁天閣で、植樹記念碑には「此處に鎭坐まします嚴島大神は 嘉保年間(1094-96)當國の國司源親元公の勸請する所にして 靈驗灼かに 漁人の崇敬常に淺からざりしも 年代の久しき神域 漸く荒廢せんとするを憾とし 茲に大正9年(1920)極月12の網主相議り 神威を永遠に仰かん爲め 修理を施し 營繕を行ひ 馬刀葉椎300本 杉50本を植え 輪奐の美を昔日に復するを得たり 因て碑を建て 此企に與れる者の芳名を録し 永く後昆に傳へんとす 大正10年(1921)舊3月15日 博士 漁翁岡村 撰」と記されているの。

碑文にある嚴島大神とは宗像三女神の一柱・市杵嶋比売命(いちきしまひめのみこと)のことで、元々は斎(いつ)き祀る嶋の巫女−の意なの。三女神の中でもとりわけ容姿端麗とされ、海上交通の守護神として祀られたの。後に弁財天信仰が全国的な広がりをみせるようになると、その市杵嶋比売命が弁財天と習合するの。弁財天もまた美の象徴として祀られることもあり、漁師さん達が厚い信仰を寄せるのも頷けるわよね。(^^; その弁財天が明治期の神仏分離で再び市杵嶋比売命に戻されたの。But 地元の人達は今でも弁財天の方に親しみを感じていると云うわけ。

ところで、この鷹之島ですが、島とあるように元々は館山湾に浮かぶ島だったの。それが昭和6年(1931)の旧海軍館山航空基地開設に先立ち埋立造成されて陸続きとなったの。加えて、現在は後程訪ねる沖の島とも陸続きになっているの。鷹之島の鷹の字にしても、以前は高の字を充てて高之島としていたようね。高之島から鷹之島に転じた理由は分からないけど。

公園 お話しは替わりますが、鷹之島弁天閣を後にして道を進むとこの鷹之島公園があるの。公園と云っても御覧のように単なる空地(草地?)なのですが、画面の更に右手にお手洗いがあり、お世辞にも綺麗とは云えないのですが、ここでは水道のお水が使えるので忘れずにお立ち寄り下さいね。沖の島にもお手洗いがあることはあるのですがバイオ・トイレで、お水も雨水を利用したエコ・トイレなの。序でにもう一つ。公園と道を隔てて斜め前に造船会社(極洋船舶工業)があり、その入口に飲料水の自販機が並んでいるの。下車したBSの少し手前、宮城信号傍にCVがあるけど、買い忘れたりしたときなど、緊急避難時に利用可能よ。〔 2012.05 現在 〕

8. 沖の島 おきのしま 11:24着 13:25発

先程鷹之島でも触れたように、この沖の島も元々は館山湾の南岸に浮かぶ島だったの。それが大正12年(1923)の関東大震災時に1.6m程隆起したことに加え、昭和2年(1927)から始められた旧海軍館山航空基地の埋立造成で陸地が近付き、砂の堆積で昭和28年(1953)には遂に陸続きとなったの。島の周囲には黒潮の分流が流れ込むことから沖合には造礁珊瑚が生息し、珊瑚生育の北限域とも云われ、島内は亜熱帯性の植物が生育するなど特異な環境にあるの。現在は標高約13m、周囲約1km、面積4.6ha余の小島ですが、砂浜や荒磯に加えて洞窟探検が楽しめるなど、変化に富んだ磯遊びが出来るの。

今回はその沖の島を反時計回りにひとめぐりしてみたの。
その景観写真を全部で74枚程アップしておきましたので御覧になりたい方は こちら を。

〔 沖ノ島宇賀明神由来記 〕  宇賀明神は嘉保3年(1096)〜康和元年(1099)安房守として赴任した安房国司、源親元卿が地域産業の発展を願い、嘉保3年(1096)倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を勧請し、鷹ノ島の弁財天と共に建立しました。倉稲魂神は稲作の神、農業神とされるほか漁業神、商業神、福神として平安時代以降、絶えること無く人々の厚い信仰を受けてきました。あらゆる産業の神様です。一説によると、宇賀明神の宇賀は「なが−」と同じであるとされ、「なが−」は蛇のことで、宇賀は「白い蛇」とも云われています。

平成12年(2000)12月17日沖ノ島宇賀明神再建委員会にて再建され、落慶法要が執り行われ現在に到りました。再建委員会は保存委員会となり、以後毎年12月第3日曜日を例祭日と定め、益々の豊漁と家内安全更には館山市の発展を祈っています。平成17年(2005)正月吉日 沖ノ島宇賀明神保存委員会

傍らには英語の案内板も建てられていたのでお話しの序でに併せて紹介しておきますね。(^^;

The Origins of Oki no Shima's Uga-myojin Shrine
Uga-myojin shrine was made in 1096 in dedication to 'Uka-no-Mitama' ( the rice farming god ) , at the same time as a dedication to 'benzaiten' ( the Goddess of wealth, music, eloquence and water ; one of the Seven Deities of Good Fortune ) on 'Taka no Shima'. They were made on the wishes of 'Minamoto-no-Chikamoto', who reigned over the Awa area ( Southern Chiba prefecture ) between 1096-99; he was newly appointed in 1096, and offered the Shrines with the hope that industries from the area could develop more. "Uka-no-mitama" is the god of rice farming, fishing industries, commerce, and good fortune. Since the Heian period ( 794-1185 ), believers deep faith in this god have been unaffected by time. Uka-no-mitama is the god of almost all industries. In another opinion, Uga-myojin's "Uga" reads "naga" instead, and means "Snake". Furthermore "Uga" in this instance means "White Snake".

On the 17th of December 2000, there was a completion ceremony held, as the reconstruction of Uga-myojin was completed through the "Oki no shima Uga-myojin Shrine Reconstruction Committee". The Reconstruction Committee then became the Preservation Committee, and from then every year on the third Sunday of December we allocate the day to pray for a development of Tateyama City. January 2005 Oki no shima Uga-myojin Shrine Preservation Committee

9. 館山神社 たてやまじんじゃ 14:50着 14:56発

城山公園を訪ねる前に館山神社に立ち寄ってみたのですが、古社と思いきや、昭和5年(1930)の創建と新しいお社だったの。調べてみると、この館山神社は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊した館山地区の各社を合祀したものだったの。合祀とは云え、境内には末社が多く鎮座することから必ずしも本殿を合殿としているわけではなさそうね。館山市立博物館で頂いてきた資料に依ると、新井・下町と上町・中町からそれぞれ諏訪社が、上須賀からは八坂神社と稲荷社、楠見から厳島神社、加えて、城山南麓に鎮座していた稲荷社が合祀されたことになっているの。

10. 里見茶屋 さとみちゃや 14:57着 15:23発

何も食べずに歩き回っていたのですっかりお腹が空いてしまい、この 里見茶屋 でかなり遅めの昼食をとることに。歩いてきた道筋には食事処らしきものも見掛けず、半ば諦めかけていたの。茶屋とあるように軽食がメインですので、地魚料理などを食べたい向きにはお勧め出来ませんが、テラス席があるので風に吹かれながらゆっくり出来るのがうれしいわね。それにこの里見茶屋ではお土産品も扱っているので、併せて御利用下さいね。(^^; 尚、ξ^_^ξは里見茶屋とは何の関係もありませんので誤解しないで下さいね。

紹介した「里見茶屋」ですが、おいしいお茶とお団子のお店として装いも新たに平成27年(2015)8月30日にリニューアル・オープンしているの。But 残念ながら未体験ですので詳しい情報提供が出来ないの。ここでは訪時のままとしていますので、御了承下さいね。

〔 里見桜の由来 〕  里見氏は戦国時代の房総に君臨した一族です。里見氏は元々安房の武士ではなく、上野国の出身です。今の群馬県高崎市(旧榛名町)に里見と云う土地があります。そこから戦国時代初頭に安房に現れたのが、房総里見氏の祖となる里見義実(さとみよしざね)です。豊臣秀吉の時代に、安房国を拠点に栄華を誇った里見氏でしたが、江戸時代になり、外様大名を取り潰す政策にのまれ、慶長19年(1614)9月、安房国10代の里見忠義は安房領地を没収され、鹿島三万石の替え地として倉吉(鳥取県倉吉市)に移され、8年後29歳の若さで亡くなりました。

忠義公と8人の家臣の墓は倉吉市の大岳院にあり、曲亭馬琴の【南総里見八犬伝】のモデルと云われています。この桜は、里見家の所縁で交流のある倉吉市の宇崎正雄氏らにより、「倉吉で無念の最期を遂げた里見忠義公が里見桜となり館山へ里帰りした」と云うストーリーと共に、倉吉で桜の苗木を育て館山に贈って頂きました。その由来により、里見桜と名付けました。記念植樹日 平成21年(2009)4月吉日 NPOたてやま海辺のまちづくり塾

11. 城山公園 しろやまこうえん 15:25着 16:27発

散策の最後に城山公園を訪ねてみたの。山頂に建てられた天守閣様式の館山城は館山市内の至る所から見ることが出来るように、館山の象徴とも云える存在で、館山に訪ね来たからには是非とも立ち寄っておきたい見処ポイントよね。補足ですが、ξ^_^ξも今回訪ねて初めて知ったのですが、山頂に向かう坂道を登り切ったところに茶室の設けられた日本庭園があったの。訪ねた時にはまばゆいばかりの木々の緑が出迎えてくれましたが、訪ね来る方も少なく、隠れた穴場的スポットかも知れないわね。残念ながら未体験ですが、木々が赤く紅葉する時期も素敵かも知れないわね。お城に直行する前に是非お立ち寄りになってみて下さいね。茶室のみ有料・要事前予約

館山の城山公園(館山城跡)この地には、嘗て房総の戦国武将里見氏の居城がありました。園内の館山市立博物館本館には、里見氏を中心に館山市の歴史と民俗資料、分館(館山城)には、【南総里見八犬伝】に関係する資料が展示されています。日本庭園、茶室、万葉の径、梅園、つつじ園、つばきの径、彫刻の径も整備され、四季折々の花が楽しめます。山頂からは鏡ヶ浦、市街地が一望できます。千葉県

〔 浅間神社の由来 〕  城山は関東の富士見百景に選ばれた土地で、古代より富士山に対する信仰が厚く、文明2年(1782)には富士山本宮の明細帳に富士浅間宮として記載されている。関東大震災後に間口五尺、奥行四尺の神社が再建され、昭和12年(1937)に戦争のため北下台に移転されましたが、戦後の昭和25年(1950)に再び城山の山頂に復現され、平成21年(2009)老朽化が著しく、氏子からの寄進により改修されました。社前にある小御嶽様の石碑は、慶応2年(1866)に富士講中より奉納されたものです。

祭神:神話の海幸・山幸の母である木花佐久夜比売命(このはなさくやひめのみこと)
行事:毎年6/30夜8時頃から祭典を始め午前0時近く、氏子が海から潮華(その日誰も踏まない砂)を持って法螺貝を吹き、「六根清浄」を唱えながら山頂の社殿にお供えし、海と大地に感謝し「家内安全無病息災」「豊漁」「五穀豊穣」を祈願する。
平成21年(2009)6月30日 上須賀区氏子総代

〔 館山城跡 〕  館山城は天正18年(1590)夏、里見氏九代の当主・義康が築いた名城である。この地は鏡ヶ浦に臨む標高73.9mの独立した小丘であって要害の地であるので、既に保元(1156-59)の昔、沼ノ平太こと平ノ判官貞政が居館した所と伝えられている。里見代々記によると、この頃里見氏の居城であった岡本城(富浦町岡本)は位置に恵まれず、八代義頼の時から館山築城を計画していた。義康は父の遺志を継いで、天正16年(1588)築城に掛かり、二年半を費して竣工、館山城と命名した。房総里見誌に「石塁峨々として築き上げ 堀は深満に等しく 矢倉高くして蒼天を仰ぎ ・・・ 郭を真倉と云い 大手を根来下 搦手を藤井と云う

並びに上・中・下と町割して 四民ども日々群集して繁昌す」とあるように、城郭・堀・楼閣・武家屋敷・城下町など計画造成され、城そのものは地積約43万m²(約13万坪)の壮麗堅固な平山城であった。かくして館山城は武門の誉れ高い房総里見氏の居城として、鏡ヶ浦湾頭にその威容を誇ること27年、10代・忠義の時、外祖父小田原城主大久保忠隣の罪科に関係ありとして安房国を没収、伯奢国倉吉に国替(9月9日)されると共に、惜しいかな城は破却され、10代170年の栄華の夢も空しく、今はただ残塁破壁を残すのみとなった。時に慶長19年(1614)9月20日のことである。昭和46年(1971)9月9日 千葉県文化財専門委員 君塚文雄 誌

里見城跡碑の傍らに「里見の千力猿」と台座に刻む猿の石像が建てられていたの。その位置関係からして里見城とは特別な関係があるように見受けられたのですが何の説明も無くて。でも、無いとなると余計気になってしまうわよね。帰宅後に改めて調べてみると、この千力猿には哀しい物語が伝えられていたの。と云ってもお隣の富浦町にあった岡本城でのお話しなのですが、ここでは昔話風にアレンジしてお届けしてみますね。物語は猿に姿形を変えて語り継がれてはいますが、実際のところは猿ではなくて忠誠を尽くした家臣だったような気もするのですが、先ずは御一読下さいね。

むか〜し昔のことじゃけんども、富浦にあった岡本城にはめっぽう戦さが上手な里見の大将がおってのお、対岸の三浦半島から北条方が攻めてきても決して負けるようなことはなかったそうじゃ。と云うのも、里見の大将は城内に大きな猿を一匹飼っておってのお、戦さの際にはいつもその大猿を戦陣に連れておったからじゃそうな。大猿は大将の云うことなら何でも良く聞いてのお、戦さでは千人力を発揮して敵を散々懲らしめておったそうじゃ。そのお陰で里見の大将は負け知らずじゃった。じゃが、ある年のことじゃった。里見の大将はその岡本城が手狭になってきたことに加えて、些か古くなってきたこともあって場所を変えて新たに築城することを決めたそうじゃ。それがこの館山城じゃった。堅固にして御殿のような城が出来ると里見の大将は家来を引き連れてさっさとこの館山城へと移ってきてしまったのじゃ。大将にすっかりなついておった大猿はと云えば、岡本城の城内にあった大きな松の木に繋がれたまま捨て置かれてしまったそうじゃ。大猿は大将を慕っていつまでも泣いておったそうじゃが、とうとう死んでしもうてのお、館山城に移ってから間もなくして里見家は潰されてしまったんじゃが、大猿を連れて行かなんだからかも知れんのお。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。

史実としては里見家九代義康が館山城を築城して岡本城から移って来ているの。物語が云うところの里見の大将とはその義康のことだと思うのですが、そうなると大猿は誰のことになるのかしらね。それはみなさんの御賢察にお任せするとして、その岡本城には妖怪が夜毎現れて城内の者達を悩ませたとする伝承もあるの。後程館山城破却時の逸話も紹介しますが、里見家終焉の悲劇性が様々な物語を創りあげたのかも知れないわね。

〔 館山市立博物館 〕  館山城跡は里見義康公忠義公居城跡で房総における里見氏終焉の地であります。館山市は由緒あるこの地を永く記念すると共に広く皆様に親しんで頂くために、城郭様式の博物館を建設しました。建物は城郭研究の権威藤岡通夫工学博士(故人)の考証によるもので二重櫓に入母屋の大屋根をかけ、その上に小望楼をのせた天正年間の天守の姿にしてあります。建築:鉄筋コンクリート造り 三層四階建て 延床面積:492m²(約150坪)総高:19.1m 竣工:昭和57年(1982)3月31日 開館:昭和57年(1982)10月31日

城山公園内には館山市立博物館があるのですが、こちらの天守閣はその分館となり、専ら【南総里見八犬伝】に関する資料を展示する、通称八犬伝博物館となっているの。【八犬伝】は曲亭馬琴こと滝沢馬琴が房総里見家の存亡にヒントを得て28年もの歳月を費やして著した全53巻106冊からなる日本最長の長編歴史小説で、その長さ故にタイトルは知っていても全編を読破された方はそう多くはいらっしゃらないのではないかしら。かく云うξ^_^ξも御多分に漏れずですので語る資格はありませんので、物語のあらすじなどは他のサイトを御参照下さいね。一番良いのは博物館に足を運んで頂くことだけど。(^^; それはさておき、この天守閣の最上部にある望楼からの展望は必見よ。周囲に視界を遮る物がないので360°のパノラマが眼前に広がるの。その景観を幾つかアップしておきましたのでお楽しみ下さいね。尚、詳しい説明は現地のパネルを御参照下さいね(笑)。

東 East 西 West 南 South 北 North

研究者の間では当時の館山城に天守閣があったか否かで喧々囂々のようですが、その論争は別にして、館山城が築城された頃は里見家のみならず、城下も大いに隆盛したみたいね。

【房総里見誌】には「石疊峨々と築き上げ 堀は深淵に齊しく 矢倉高くして蒼天を仰ぎ 多聞麗々として見るに窮りなし 本・二の丸の造營結構言語に及ばず 内外の曲輪盤石を以て礎とし 大木を以て標とす 其の要害又耳目を驚かす 城外の武官小士の家宅美を粧ひ 農工商の居住まで丹誠を盡しければ 天正16年(1588)春より企て 天正18年(1590)庚寅の夏悉く成就しけり 城を館山城と號し 郭を眞倉と云ひ 大手を城下と云ひ 搦手を藤井と云ふ 竝に上・中・下と町割して四民とも日々群集して繁昌す 幸ひ川の流有て之に構へ 運送の便とせられて この川入江となりて民家鹽を焚く者多し」とあり、館山城の偉容もさることながら、城下の賑わいぶりが目に浮かぶようね。

その里見家繁栄の最中に悲劇が襲うの。里見家第10代忠義は徳川家譜代大名の名門大久保忠隣(ただちか)の孫娘を正室として迎えていたの。慶長10年(1605)に家康は将軍職を秀忠に譲り駿府城に隠退するのですがその後も実権を握り続け、家康・秀忠の二元政治の様相を呈するようになるの。そんな中で秀忠の側近として仕えていた忠隣は、家康の側近、本多正信・正純父子と対立するようになったの。互いに失脚を望む中である事件が起きるの。慶長18年(1613)、銀山開発などで功績のあった大久保長安が死去するのですが、生前の不正蓄財が発覚して関係者の悉くが処罰されたの。忠隣はその長安を庇護していたこともあり、その責任を追及されて遂には改易させられてしまうの。事件の煽りを受けて忠義も忠隣に連座した咎で、慶長19年(1614)の9/9、突然安房国の所領没収を宣告されたの。

13日には館山城請取の幕府軍が編成され、僅か5日後の18日には忠義の荷物は残された鹿島領へと運び出され、程なくして館山城は破却されたの。10月に入ると今度は鹿島領3万石の代替地として伯耆国(現・鳥取県)倉吉への移封が決まるのですが、実際には4千石の領地しか与えられなかったの。更に元和3年(1617)、播磨国から移封されてきた池田光政が鳥取藩主となると、その4千石も召し上げられて僅か百人扶持とされてしまったの。元和5年(1619)には倉吉から更に十数里も離れた山奥の堀村に屋敷を移され、里見家再興の希求も虚しく、忠義は元和8年(1622)に29歳の若さで病没してしまうの。後を追うようにして側近の8人も殉死し、忠義の亡骸と共に大岳院に葬られたと伝えられ、その八遺臣が【南総里見八犬伝】に登場する八犬士のモデルとされているの。忠義の倉吉移封は外様大名取り潰しの一環で、幕府にしたら東京湾の入口で強力な水軍を擁して睨みをきかせる里見家の存在が何よりも邪魔だったの。先程訪ねた沖の島は嘗ては鷹之島と共に里見水軍の根拠地でもあったの。

ところで、忠義には継嗣が無いことから里見家は廃絶したとする史料が多いのですが、正室が産んだ女子が二人、側室が産んだ男子が三人いたとする説もあるの。その説が正しいものだとすると、里見家再興の夢は果たせずとも血脈を後世に伝えることが出来たのはせめてもの救いかも知れないわね。戦国の世に感傷を持ち込んでみても詮無いこと−と云われてしまいそうだけど。

ここで「城山のお玉狐」のお話しを紹介してみますね。
舞台は館山城が取り壊される前後のことよ。

むか〜し昔のことじゃけんども、里見家が倉吉に移封されて館山城が取り壊しとなり、鎧姿に身を固めた徳川方の軍勢が大勢やってきた時のことじゃ。徳川方の若い侍連中が数人徒党を組んで町中を闊歩しておったんじゃが、向こうから綺麗な武家娘が老僕の一人を従えながら歩いてきたそうじゃ。大方、里見家に仕えておった家人の娘じゃろうて、一つからかってやろうぜ−と、若い侍連中は娘に云い掛かりを付け、挙げ句の果てはさらっていこうとしたそうじゃ。見たところ七十を優に越えんとする腰の曲がった老僕じゃったが、頭を地べたに付けてひれ伏して娘の釈放を哀願したんじゃが聞き入れてはもらえんかった。ことばの通じない相手と知った老僕は娘に向かうと「お嬢さま、きょうまで事を荒立てずに御身を御護りしてまいりましたが、今日ばかりはこの爺、この刀にかけてお護りせねばなりませぬ。お許し下され」と許しを請うたそうじゃ。娘はそれに応えて「爺、思う存分働きなされ」と告げたそうじゃ。

じゃが、若い侍連中は老いぼれごときに何が出来るとせせら笑っておってのお、老僕を無視して娘を拐かそうとしたんじゃが、娘の方はその度にヒラリと身をかわすばかりで一向にその場から逃げようとせなんだ。その間に老僕は鉢巻き襷がけとなり、若い侍連中が気付いた時には娘の前に立ちはだかっておったそうじゃ。それを目にした若い侍連中は何を小癪な−とばかりに刀を引き抜いて老僕に斬りつけたんじゃが、不思議なことよのお、老僕の腰はすっくと伸び、脚は舞い踊り、刀を振る腕は風を切ってひょうと鳴り、気付いた時には居並ぶ侍連中を一人残らず討ちはたしてしまっておったそうじゃ。そうして娘主従は何処へともなく行ってしまったそうじゃ。

その後町方のもんが死骸の始末を侍大将にお伺いをたてたんじゃが、左様な不埒な弱い侍は我が方の侍ではないと引き取りを断られてしまってのお、仕方なく無縁仏として葬ったそうじゃ。ところでその娘のことじゃが、城山の北側には里見家が祀ったと云うお稲荷さんがあったんじゃが、そのお稲荷さんに仕えるお玉狐だったのかも知れんのお。老僕はその昔里見家に仕えて幾戦場生き残りの剛の者だったのかも知れんのお。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。

余談ですが、【房総志料續編】には「或云 九月九日落城 八日の夜は年毎に鬨の聲し鬼火燃ゆ」とあるの。忠義を奉じた家臣達の怨念の炎が時を経ても尚赤々と燃え上がっていたのかも知れないわね。

〔 八遺臣の墓 〕  大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取潰しの策を回らせた。この策により改易を命ぜられ、伯耆の倉吉に移された房総里見氏十代忠義は、憂悶のうちに元和8年(1622)29歳で倉吉在の堀村に卒した。この悲運の主君に従って殉死した八人の家臣は、その氏名は不詳であるが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されているのは、何を暗示しているのであろうか。慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が、主君忠義と八人の殉死者の遺骨を房州に持帰るべく漁師の姿に身をやつして、遙々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、窃かに館山城の南麓に埋めたのが、この八遺臣の墓であると云う。この八人の殉死者が、八犬士のモデルであるとも伝えられている。平成3年(1991)2月 館山市

墓 記述にある慈恩院は館山市真倉にある里見氏の菩提寺で、第9代義康のお墓もあるのですが、その義康の弟が剃髪出家して玉峰と号し、慈恩院を開基したと伝えられているの。家臣の8人が忠義の死に殉じたとの報せを受けた玉峰は、当地に残っていた忠義の遺臣を幾人か連れて倉吉に赴き、大岳院から8人の遺骨を貰い受けるとそれを蛸壺に納め、皆して漁夫に変装し持ち帰るの。そうして玉峰が寧ろに供養して建てたのがこの八遺臣の墓とされているの。八遺臣墓誌には里見安房守忠義公殉死八遺臣の名が記されているの。因みに、右端の墓塔には高源院殿華山放牛居士とあるので里見忠義の供養塔ね。

雲凉院心晴海賢居士〔徳治郎〕
雲凉院心相龍賢居士〔権八郎〕
雲凉院心龍盛賢居士〔権之丞〕
雲凉院心凉晴賢居士〔安五郎〕
雲凉院心晴叟賢居士〔総五郎〕
雲凉院心房州賢居士〔房五郎〕
雲凉院心盛宗賢居士〔総太夫〕
雲凉院心顔梅賢居士〔堀之丞〕
これらの五輪塔は元々は「やぐら」の中に立てられていたみたいで、その「やぐら」が崩れて埋もれていたところを明治期に掘り出されたものだとか。加えてその様式から推していずれも里見氏が館山城を居城とする以前の室町時代のものだそうよ。そうなると八遺臣の墓とするには無理があるような気もするのですが、この際だからと墓塔だけを流用してしまったのかも知れないし、真偽の程はみなさんの御賢察にお任せしますね。余談ですが、慈恩院では「この地は房総里見氏五代義尭が里見家累代菩提供養のために慈恩院の前身持仏堂を建立したところにして九代義康が築城にあたり慈恩院を現在地に移した」としているの。

今回の散策はこの八遺臣のお墓に詣でたところで終了ですが、
最後に【里見九代記】の記述を紹介して散策の余韻としますね。

里見四位侍從忠義公の御事 〔 略 〕 落足の事は 御臺所 江戸代官町へ御越え 公儀より百俵宛の御扶持方下され居給ふなり 四歳になり給ふ姫君も御一所なり 後に姫君は御守の人に預け置き給ひて 御臺所は鎌倉へ御引込みなされ 比丘尼になり給ふ 三の御所と申すは即ち藤澤より美濃國へ御越しあるなり 上下の人々 爰彼所に迷ひし事哀れといふも餘りあり 忠義公は元和八年六月十九日廿九歳にて逝去 雲晴院前拾遺心叟賢隱(凉)居士※と號す 御葬禮は伯州にて執行 御骨は高野山へ納め奉り 御位牌は本織村延命寺にて立置き給ふなり 天運と云ひながら哀なる次第なり※雲晴院前拾遺心叟賢隠(凉)居士は伯州での法号

12. 城山公園前BS しろやまこうえんまえばすてい 16:36着 16:40発 料金:¥180 JRバス関東

13. JR館山駅 たてやまえき 16:48着 17:05発 3番線 「千葉」行 乗車券:¥2,210 〔 山手線内 2012.05 現在 〕

14. JR千葉駅 ちばえき 18:48着 19:01発 快速「東京」行

15. JR東京駅 とうきょうえき 19:41着


このところ海を見てないわ、久しぶりに磯の香に触れながらのお散歩がしたいわね−と出掛けてみたのが今回の散策なの。フェリーだけどクルージング (^^; も出来たし、沖の島では磯遊びに興ずることも、自然の造形美に触れることも出来たの。後半はいつものクセで歴史散策になってしまいましたが、館山には紹介した沖の島や城山公園の他にも自然や歴史遺産などの見処が沢山あるの。今回の散策記を御覧になり、少しでも南房総・館山に興味を持って頂けたらうれしいな。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
千葉日報社刊 岡本東三著 房総半島の先端から列島を考える
うらべ書房刊 藤平量郎・山井廣・吉原洋著 南房総自然ガイド
うらべ書房刊 戸田七郎著 ロマンと不思議の里南房総
洋泉社刊 山本博文監修 あなたの知らない千葉県の歴史
昌平社刊 川村優編 郷土史事典 千葉県
郷土出版社刊 天野努監修 図説・安房の歴史
富浦町発行 富浦町史編纂委員会編 富浦町史
有峰書店刊 府馬清著 房総の古城址めぐり
日本城郭協会刊 千葉燿胤著 館山城趾
国史研究会刊 黒川眞道編 里見九代記
房総叢書刊行会編 改訂房総叢書






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