≡☆ 館林・歴史の小径散歩 ☆≡
2016/09/10

5月の大型連休につつじが岡公園のツツジを見に来た折りに、駅前で配布されていた まち研 発行の『まちなか散策ガイド』を頂いて来たの。その時はそのままシャトルバスでつつじが岡公園に直行してしまいましたが、帰宅後に改めて手にしてみると、街なかにも往時の姿を留める建物などが残されていることが紹介されていたの。後程紹介しますが、初引稲荷や夜明稲荷社のこともあり、改めて出掛けてみることにしたの。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

歴史の小径〜第二資料館( 旧・上毛モスリン事務所&田山花袋旧居 )〜善長寺〜善導寺

1. 館林駅( 東武伊勢崎線 ) たてばやしえき 8:57着 9:15発

この館林駅は、明治40年(1907)の東武鉄道開通にともない開設されたもので、現在残されている旧駅舎は昭和12年(1937)に増改築されたときの姿を留め、平成10年(1998)には「関東の駅100選」の一つにもなっているの。その後も幾度か維持保存のための修築が行われてはいるようですが、時計塔を始めとした洋館風の造りがレトロ感を醸し出していて素敵なつくりの駅舎よね。 旧駅舎 新駅舎

替わって木立に遮られて外観が分からないかと思いますが、背後に建つのが平成21年(2009)に造られた新駅舎で、橋上駅舎と東西連絡通路からなるの。その新駅舎の前に設けられているのが、クールクール cool² ゾーン 〜緑のミスト通り〜 で、最近は夏場の最高気温記録地としてTVのお天気情報コーナーなどでは埼玉県の熊谷市に替わり、常に館林の名が挙げられるようになりましたよね。熊谷駅の冷却ミストを御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、この館林駅でも新駅舎の建設に合わせて設置されたみたいね。因みに、現在は移設されていますが、画面右手には嘗て榊原康政のお墓があったの。

(ふ)分福茶釜の茂林寺  〔 童話・ぶんぶく茶釜 〕
ある日、お寺の和尚さんがどこからか茶釜を手に入れてきた。早速火にかけたところ、茶釜に化けていた「たぬき」。たまらず、手足を出して「あっちっち」。これに驚いた和尚さん、この茶釜を古道具屋に売ってしまった。助けられた茶釜たぬきは、恩返しをしようと見世物小屋で曲芸をする。忽ち古道具屋は大儲け。思わぬ福にありついた古道具屋は、これも茶釜を売ってくれたお寺のお蔭と、茶釜を寺に返すことにする。その後、ぶんぶく茶釜と崇められ、寺の宝物になったと云う。
福を分け与えると云われる茶釜のたぬき、このたぬき像をここに設置し、市の繁栄と市民並びに本市を訪れる全ての人々に幸福になっていただきたいと思います。平成11年(1999)6月吉日 館林市
※このお話に出てくるお寺とは、館林市堀工町にある茂林寺のことです。
茶釜は、今でも寺の宝物として大切に保管されています。

分福茶釜のお話や茂林寺のことが気になる方は、
姉妹編の 館林のお散歩 を御笑覧下さいね。CM でした。(^^;

自転車

お話が前後してしまい恐縮ですが、今回の散策では『まちなか散策ガイド』のモデルコースから離れて夜明稲荷神社や、善長寺&善導寺などにも足を延ばしているの。見学時間を含めると、徒歩で全行程を廻るのは時間的に難しそうね−と思ったξ^_^ξが選んだのが、館林市が運営するレンタサイクルの「ぽんチャリ」なの。前回、ツツジを見に来た折りに茂林寺駅前にある駐輪場で見掛けたことから知ったのですが、今回の散策では館林駅前の観光案内所側にある木村商店でお借りしたの。料金は無料( タダ! )ですが、貸出時に保証金( ¥500 )が必要なの。But 返却時には返して貰えるの。詳しいことは群馬県HPの「駅からのりかえガイド」から 館林駅 の項を御参照下さいね。それから、これはお願いですが、それぞれの見処ポイント毎に発着時間を案内していますが、「ぽんチャリ」で走行したときもあれば、町並みを眺めつつ自転車を曳き歩いたときもあるので、ポイント間の所要時間は目安程度にして下さいね。

2. 歴史の小径入口 9:15着 9:17発 れきしのこみちいりぐち 9:15着 9:17発

「歴史の小径」は館林駅前から館林城土橋門に至る約1.5Kmの散策路で、所々に残されている町屋の建物や、移築復元された武家屋敷などに嘗ての城下町・館林の面影を偲ぶことが出来るの。その起点となるのが、この「歴史の小径入口」で、現在は駅前の再開発にともない、楠町に移転していますが、嘗てはこの辺り一帯に大伽藍を有する善導寺があったの。地元・館林の生んだ文豪・田山花袋も「停車場で下りる。そしてその前の大きな路を真直に少しの間行く。それを曲ると、左に大きな山門が見える。杉の林を背景にした大きな寺である。これは関東十八檀林の一なる善導寺である」と書き記しているの。

時の流れの中で姿を変えたものも多くあり、当時と様相は大きく異なりはしますが、
花袋に倣い、ここから散策を始めてみることにしますね。それでは、みなさんもご一緒に。(^^;

3. 龍の井 たつのい 9:18着 9:25発

この井戸は、龍の井と呼ばれ、嘗てここにあった善導寺の本堂前に所在した井戸です。善導寺は、元は土橋村と加法師村の間にありましたが、榊原康政が館林城主として入城した際の城下町の整備に伴い、この地に移転しました。移転に際して寺で説教が行われたとき、城沼に棲む龍神の妻が美しい女性に姿を変え、真剣に聞いていたと云われ、その後、この女性は迷いから救われたお礼として、この井戸に入ってお寺をお守りしたいと井戸の中に姿を消したと云います。昭和61年(1986)、善導寺は館林駅前広場の整備に伴い、楠町へ移転しましたが、この井戸は、寺に縁あるものとして現在地に残されました。この井戸と清龍の井戸、城沼が繋がっていると云う伝説も伝えられており、沼や水に由来する龍神の伝説に関わる、城下町・館林に縁の井戸です。

4. 毛塚記念館 けづかきねんかん 9:29着 9:34発

国登録有形文化財・分福酒造店舗
登録年月日:平成10年(1998)1月16日
登録番号:第10-0025
構造:木造二階・瓦葺
建築年代:江戸時代末期(推定)

本建物は、江戸時代に建築された分福酒造の店舗である。分福酒造は、江戸時代に創業し、嘗て丸木屋本店を名乗った造り酒屋である。建物の正確な建築年代は、棟札が残っていないため不明だが、地籍図等から江戸時代末期と推定される。一階は帳場として開放的に造られ、二階は外の光を室内に採り入れるために格子が建て込まれるなど、いずれも町屋の特徴を良く残している。館林は、江戸時代の館林城と城下町が母体となった町である。本建物が所在する一帯は、当時、本紺屋町と呼ばれた町人町であった。近年は、城下町の面影を残す建物は少なくなっており、本建物は市内に現存する数少ない町屋の建造物として重要である。登録文化財制度に基づき、国土の歴史的景観に寄与しているもの−として、平成10年(1998)に登録され、平成9年(1997)から平成11年(1999)にかけて保存修理工事が行われた。店舗部分が現在地へ曳き移転され、現在に至っている。館林市教育委員会

江戸時代から続く造り酒屋の記念館で、江戸時代の建物が残され、当時の酒造りの史料などが展示されていると知り、足を向けてみたのですが、生憎とξ^_^ξが訪ねたときには開いてなかったの。後で知ったことですが、開館時間は11:00-16:00だったの。早い話が訪ねた時間が早過ぎた (^^; だけのことですが、追体験される場合にはご注意下さいね。と云うことで、内部の見学は未体験ですので、展示内容などは紹介することが出来ませんので、他力本願で恐縮ですが 分福酒造 を御参照下さいね。

5. 大道寺 だいどうじ 9:39着 9:48発

江戸時代には善導寺の役寺をしていたこともあると云う大道寺。役寺とは本寺に代わって寺務を執り行う末寺のことで、平たく云えば、寺院運営に関わる庶務雑用の類を取り仕切っていたことになるの。云うなれば、善導寺の執事役と云ったところかしら。その善導寺とは境内を接するかのようにしてあったのがこの大道寺と云うわけですが、境内には「戸泉鋼作ゆかりの寺」として、また、生田萬(いくたよろず)父祖の墓についての案内があるのみで、肝心の大道寺の創建由来となると、残念ながら委細不詳なの。

〔 田山花袋算術の師・戸泉鋼作ゆかりの寺 〕  大道寺は田山花袋の算術の師・戸泉鋼作ゆかりの寺である。戸泉鋼作(1836-1909)は館林藩主・戸泉善治の子として生まれ、明治13年(1880)頃から青少年を対象に和算(算術・珠算等)を教えていたと伝えられる。田山花袋は明治16年(1883)頃から進藤長作らと共に、登校前に戸泉鋼作の和算塾(現・大手町10番25号付近にあった)で算術を学び、授業終了後に吉田陋軒(よしだろうけん:1809-1886)の休々草堂(きゅうきゅうそうどう)で漢詩や漢文を学んだと云う。鋼作の墓は、本堂の東側、生田萬父祖の墓の左奥にある。館林市教育委員会

生田萬は、享和元年(1801)松平(越智)藩士として館林に生まれた。20歳頃から国学の道に進み、24歳の時に平田篤胤の門下となる。藩政改革に係る書を提出し、文政11年(1828)館林藩を追われ、天保7年(1836)に越後国柏崎に移った。翌8年(1837)天保大飢饉に困窮した領民を救おうとして乱を起こしたが失敗し、自刃した。ここには、生田萬の曾祖父・正宴とその妻、祖父・正秘とその妻、父・信勝、実母、信勝の次女の5基の墓石が並び、生田家の墓所を構成している。墓石にはそれぞれ「義峰院生田君 想厳院鈴木氏之墓」「善立院生田君 普明院黒沢氏之墓」「生田寿叟之墓」「春迎院誓誉接引大姉」「爽容童女」と刻まれている。館林藩士であった国学者・生田萬に係わる数少ない遺跡である。

6. 青梅天満宮 あおうめてんまんぐう 9:55着 10:01発

手水鉢には「菅霊山」と刻まれていることからもお分かりのように、太宰府天満宮と同じく、青梅天満宮もまた菅原道真を祀るお社ね。道真は一時は右大臣の地位にまで昇りつめるのですが、娘の嫁ぎ先の斉世親王を天皇に擁立せんと謀ったと藤原時平から讒言され、遂には太宰権帥に左遷されてしまうの。都を離れる際には自邸の紅梅殿に植えられていた梅の木に向かい「東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んでいるの。ところが、その梅の木が道真を慕って都から太宰府の地まで一夜にして飛んで来たと云うの。それが飛梅伝説で、飛梅は代替わりした今も太宰府天満宮の御神木として祀られているの。因みに、太宰府天満宮の飛梅は現在は白梅ですが、代替わりして白梅となったものの、元々は紅梅だったみたいよ。

その飛梅伝説ですが、この青梅天満宮では別伝が語り継がれているの。都を離れる際に「東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠歌するところまでは同じなのですが、道真が4つの梅の実を枝に刺して投げたところ、その梅の実が日本各地に散らばり、根付いたと云われているの。その4ヶ所と云うのが、福岡県太宰府市・太宰府天満宮( 飛梅 )の他に、島根県松江市・菅原天満宮( 花久里梅 )、香川県高松市・綱敷天満神社( 四季梅 )と、この青梅天満宮( 青梅 )だと云うの。青梅天満宮の創立年代が不詳ですが、状況証拠から判断して(笑)、太宰府天満宮と同時期と見做すのは無理なお話だと思うの。多分に、後世に付与された逸話のような気がするわね。その前に、怨念のエネルギーが爆発寸前にあったとしても、京都と館林は400Km近くも離れてるんだぜ、道真が梅の実をそんなに遠くまで飛ばせるわけねえじゃんかよ〜だったかしら。(^^;

余談ですが、東京大学名誉教授の義江彰夫氏が「平安時代から東国武士の間には菅原道真の怨霊への信仰があり、源氏は天神信仰を通じて東国武士を結集していった。八幡神と天神が一緒に祀られることもあった」と云う説を唱えていらっしゃるの。今では学問の神さまとして知られる天神さまこと菅原道真公ですが、嘗ては平将門や崇徳上皇と共に日本三大怨霊に数えられていたの。その猛威の程は折に触れて紹介済みですのでここでは省略しますが、この青梅天満宮もまたその頃に勧請されたものではないかしら。群馬と云えば、足利氏や新田氏の名が挙げられるわよね。そのルーツは御存知のように両者共に源氏なの。ちょっと、こじつけかも知れないわね。なので、鵜呑みにしないで下さいね。だったら、書くな−だったかしら?(^^;

現在は本町二丁目に地割りされますが、嘗てこの辺りは谷越町(やごえまち)と呼ばれていたようね。参道脇には「城下町建設に伴い、谷越村の人が移り住んだので、谷越町と呼んだ。谷越は、谷(湿)地を越えて行き来するの意から起こったものと考えられる」と書かれた案内標がありましたが、この青梅天満宮にしても、元々は館林城の大手門付近に建てられていたようね。それが榊原康政が城主の際に城下町整備に合わせて現在地に移転してきたの。因みに、本殿は寛永18年(1641)の再建で、社殿は文久2年(1862)に改築され、現在に至っているの。とは云え、改築後にも幾度か修復の手は加えられているのでしょうが。

7. 初引(曳)稲荷神社 はつひきいなりじんじゃ 10:07着 10:10発

青梅天満宮の参道と直交する大通りが本町通りですが、嘗ての日光脇往還で、江戸時代には重要な交通路だったの。遡って元和3年(1617)には、徳川家康の棺を久能山から日光へ移す際にも利用されているの。その本町通りと駅前通りが交わる館林駅入口交差点から少し東側にある脇道を入るとあるのがこの初曳稲荷神社で、尾曳稲荷神社や夜明稲荷神社とともに、館林城築城時の逸話が残されているの。尾曳稲荷神社のことは 館林のお散歩 で紹介していますので既に御覧頂いたかも知れませんが、後程訪ねる夜明稲荷神社のこともありますので、その逸話を昔話風にアレンジした上で再掲しておきますね。

とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども、城沼の南に大袋城と云う大きな城があってのお、その城主をしておったんが赤井照光公じゃった。それはある年の正月のことじゃった。照光公が僅かばかりの供を従えて舞木城主の許へ年賀に向かう途中で近藤林に差し掛かったときのことじゃ。村のこども達が道端で捕まえた小狐をいじめておってのお、よくよく見れば未だ子狐で、打ち据えられて身を震わせている子狐の姿を哀れに思うた照光公は、こども等に銭を与えて子狐を解き放つよう諭したそうじゃ。果たしてその夜、照光公の夢枕に一人の老翁が現れると「我は稲荷神が眷属の新左衛門なるぞ。きょう日、汝が我が児狐を助けくれたる恩は終生忘れじ。なれば一つ助言仕つるべし。沼の北岸・館林は要害堅固の地なり、汝速やかに城を移し築くべし。明晩改めて案内参らせ候」そう告げると姿を消したそうじゃ。

半信半疑の照光公じゃったが、果たして次の日の晩のことじゃった。照光公の前に老狐が現れると尾を曳きながら築城すべき勝地へと案内したそうじゃ。そうして加法師に至り来た頃に夜が明けかかると、老狐は「我が主・稲荷の大神は築城完成の暁には当地に留まりて汝が城を永く守護せんと欲す。なれば速やかに社を建ててこれを祀るべし」そう云うと、白みかけた空に吸い込まれるようにして姿を消してしまったそうじゃ。不思議な出来事じゃったが「稲荷神のお告げとあらば是非もなし」そう思うた照光公は早速城を館林に移し、名も尾曳城としたそうじゃ。そうして城の鬼門にあたる場所に社を建てて稲荷神を祀ったと云うことじゃ。それが尾曳稲荷神社と云うわけじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

と云うことで、老狐が初めて尾を曳き始めた場所に城の安泰と繁栄を願い建てられたのが、この初曳稲荷神社と云うわけ。But 尾曳城の名でも呼ばれたことのある館林城の城下町にありながら、この佇まいには寂しいものがあるわね。せめて境内に逸話を語る案内板でもあれば−と思うのはξ^_^ξだけかしら。因みに、夜明けとなり、老狐が託宣を残して姿を消した場所に建てられたのが夜明稲荷神社になるの。後程紹介しますのでお楽しみにネ。(^^;

8. 青龍の井戸 せいりゅうのいど 10:13着 10:15発

〔 青龍の井戸(青龍神社)〕  この井戸は、江戸時代に福寿院(現在は廃寺)の境内にあり、伝説によると、延宝年間(1673-81)に突然清水が噴き上がり、中から女官姿の青龍権現が姿を現したことから青龍の井戸と呼ばれるようになったと云われています。当時は、徳川綱吉が館林の城主となった頃で、城下は、御三家の一つである水戸家に並ぶほどの、これまでに例を見ない隆盛を誇っていたことから、益々良い兆しであるとして、人々の大変な噂となりました。この話を聞いた綱吉の生母・桂昌院は井戸の傍らに青龍権現社を再建したと云われ、綱吉も五代将軍となると、10石の朱印地を寄進したと伝えられており、神社の入口には、現在でも葵の御紋が見られます。

また、この井戸と善導寺(現在は楠町に移転)境内の「龍の井」と「城沼」とが一つに繋がっていたという伝説もあり、こうしたことから、7/10の縁日には、延命長寿の霊験あるこの井戸の水を参拝者に与える習わしがありました。平成10年(1998)に、井戸の調査が行われましたが、井戸の深さは7m程、井戸の断面は、深さ約3mのところで大きく膨らみ、集水のための工夫が施されていることが分かりました。現在でも、冷たくてきれいな水がこんこんと湧き出しています。

現在は青龍の字を充て青龍神社と称していますが、福寿院の境内にあった頃は清龍の字を充てて清龍宮と呼ばれていたようね。いざ訪ねてみれば、その由緒正しき身の上にも関わらず、目にした佇まいは雑然以外の何ものでもなくて、ちょっと残念な結果で終わったの。説明には「現在でも、冷たくてきれいな水がこんこんと湧き出しています」とあったのですが、戦意を喪失してしまい、井戸がどこにあるのかも探さずに諦めてしまったの。訪ねたとき(2016)には、改めての掲示はありませんでしたが、何やら整備工事の途中にあるような様子も窺えましたので、或いは、今頃は綺麗になっているかも知れないわね。

9. 旧・二業見番組合事務所 きゅう・にぎょうけんばんくみあいじむしょ 10:18着 10:20発

最初は二業の意味するところが分からず、何だか分からないけど「二業」と云う生業が嘗てあり、それを取り締まる見番所だと思っていたの。分かってしまえば何のことはなく、冒頭に紹介した『まちなか散策ガイド』によれば、二業とは芸妓屋業と甲種料理店業のこととあり、簡単に云ってしまえば、芸者さんの置屋と飲食店のことね。見番ではその取り次ぎや料金の精算などと併せて取り締まりも行っていたと云うわけ。ここでちょっと気になったのが甲種料理店なる呼称で、敢えて甲種とあるからには何か特別の意味があるハズよね、どんな料理店なのかしら、それに甲種があるのなら乙種もあったのではないかしら−と思ったの。

調べてみると甲種料理店とは芸妓が接客し、酌婦が接客する場合には乙種料理店と云うことのようよ。因みに、接客する女性がいない場合には単に飲食店とされたみたい。実は、この分類は当時の群馬県独自の半公娼制度と密接に関係していて、三種に分類された料理店の中でも、酌婦が接客する乙種料理店においてのみ、売春が黙認されたの。それ以上のことになると、この旧二業見番組合事務所の紹介からは離れてしまいますので、余り深追いはせずに次に進みますが、気になる方は by your self にて御探究下さいね。(^^;

残念ながら一般公開はしていないようで、建物の中がどうなっているのかまでは確かめられずに終えているの。当時は事務所として使用されていたと云う1Fは、覗き見た限りでは、今でも地域のコミュニティー活動※などの際に利用されているような様子が窺えましたが、情緒ある外観を見せる2Fはどうなっているのか、気になりますよね。表からだと幾つかの小部屋に分かれているかのような印象を受けますが、嘗ては芸者さん達が稽古に利用していた、舞台付きの大広間(36畳)があるのだとか。ちょっと見が、愛媛県松山市にある道後温泉の本館を思い起こさせますが、あちらが国重要文化財なら、少し控えめですが (^^; こちらも国登録有形文化財に指定されているの。
※現在は本町二丁目東区会館として地域住民の利便に供されているの。

この旧・二業見番組合事務所が面してある通りには「肴町通り」の名が残されているように、嘗てこの辺りは肴町(さかなちょう)と呼ばれていたの。「肴」=「魚」で、魚を扱う商人が多く住んでいたことに由来するのだとか。魚商から発展して小料理屋や料亭が出来、やがて花街が形成されていったのかも知れないわね。現在の通りにもスナックや飲食店らしきお店を数軒見かけはしましたが、どのお店も店仕舞いしてからかなりの年月を経ているような佇まいにあり、盛時の賑わい今何処−が正直な印象ね。尤も、それはこの肴町通りに限ったことではないのですが。そんな中で旧二業見番の建物が残されているのは奇跡かも知れないわね。

現在ある建物は昭和13年(1938)に建てられたものですが、その重厚にして華麗な佇まいが故に、一時は教会として、また、館林商工会議所の事務所にも使われるなどして生きながらえて来たの。これからはせいぜい労ってあげないといけないわね。

10. 外池商店 とのいけしょうてん 10:22着発

建物の外観が前述の毛塚記念館(分福酒造)と似ていることから同時期のものかと思いきや、現在の建物は比較的新しく昭和4年(1929)に建てられたものだそうよ。それでも100年近く経て来ている訳ですから、貴重な建物よね。詳しい経緯は不明ですが、江戸時代中期に当主が近江国( 現・滋賀県 )からこの地に移り住み、和泉屋の屋号で造り酒屋を始めたことにルーツがあるの。後に、味噌・醤油醸造業を営むようになり、現在はお酒の販売に変わっているの。通りからは見ることが出来ませんが、店舗の背後には創業当時からある蔵が残され、コンサートなどにも利用されていたと云うのですから、かなり大きな蔵みたいね。

ここで、ちょっとコーヒーブレイクして一休み。
次の鷹匠町長屋門に向かう途中で見掛けた気になるモノを紹介しますね。

最初は地元のスーパー「とみおか」の店先に置かれていたカボチャなの。掲載する写真では一部しか写りませんが、奥から・・・栃木・芳香かぼちゃ、群馬かぼちゃ、館林・中山かぼちゃ、群馬・白雪、館林・雪景色、館林・瓢箪かぼちゃ ¥150、足利・坊ちゃんかぼちゃ ¥50/pce、館林・坊ちゃんかぼちゃ ¥30/pce、グリコのオマケで足利・ずいき ¥98 とあったの。地元・館林では色々なカボチャが作られているのね。それにメチャクチャ安いし。(^^; 御覧のみなさんは幾つ御存知ですか?替わって町屋の趣を活かしながら建物の中をリニューアルして店舗としているのが麺処の「森田屋支店」と「 Bistro Cafe SUGIE 」の両店。But 建物の外観に惹かれて撮しているときに知っただけですので、どんなお店なのかはグルメサイトなどを御参照下さいね。

11. 鷹匠町長屋門 たかじょうまちながやもん 10:30着 10:37発

先程までの街並みが町人達が暮らした旧城下町なら、この辺りからが旧武家地で、嘗ては武家屋敷が並び建っていたの。その最初となるのが鷹匠町で、町の名は江戸時代に鷹匠が住んだことに由来するの。その入口に建つかのようにしてあるこの長屋門は、旧・邑楽郡三野谷村の豪農・松澤家から平成21年(2009)に移築復元したものなの。長屋門の呼称は、長屋の間に門があることに由来するのですが、武家屋敷に長屋なんてあったの?と思うわよね。ξ^_^ξも、長屋と聞くと、時代劇などに出てくる、専ら自分の家を持たない庶民が店賃を払って身を寄せる棟割り長屋しか思い浮かばないのですが、大名などは屋敷の周囲に長屋を建てて家臣や使用人などを住まわせていたの。

その長屋に門を設けて通行が出来るようにしたのが長屋門の始まりだそうよ。長屋門の両側に設けられた部屋は門番が寝泊まりするものであったり、家臣や使用人の居所としても利用されたの。やがて、その長屋門が武家のみならず、豪農や庄屋などの屋敷でも建てられるようになったの。松澤家にあった当時の長屋門では、両側の部屋は使用人の住居として、また、納屋・物置として利用されていたのでしょうね。

長屋門を潜ると、そこは広い草地になっていたの。草地のままにしておくなんて、何かの跡地なのかも知れないわね、何か案内板でもないのかしら?と辺りを探してみたの。そうして見つけたのが片隅にポツネンと残されていた石碑で、「十五週年記念」と刻まれていたの。碑文からは、嘗てこの場所に劇場が建てられていたことが知れたの。それにしても劇場が作られた理由と云うのが凄いわね。上毛モスリン株式會社のことは、後程、第二資料館「旧上毛モスリン事務所」の項で改めて紹介しますので、今しばらくお待ち下さいね。

館林の中央に芝園あり、冨貴座と称す。抑も當劇場の起因は、本郡渡瀬村の人・家富忠三郎氏が上毛モスリン株式會社を創設するに當り、千有餘名の從業者の勞務を慰安するの機関なきを違感とし、劇塲を建設して是が娯樂場とし、一には本町殷盛の一助たらしむる爲、明治42年(1909)盛夏8月起工、翌43年(1910)4月開場式を擧行したり。爾來、松本来助氏興業主任として鋭意經営に方りたるが、大正7年(1918)12月、老齢の爲隱退し、梅澤紋三郎氏其後を継ぎ、愈々斯道の改発と劇場改善に盡す所あり。時恰も開場十五週年に際し、紀念の爲關係者一同相企り建之 大正14年(1925)9月 〔 以降省略 〕

12. 武鷹館 ぶようかん 10:39着 11:18発

〔 侍町と鷹匠町 〕  この周辺は、鷹匠町と呼ばれた旧館林城の侍町の一角に当たります。鷹匠とは、鷹狩の鷹を訓養する武士のことで、鷹匠が居住する場所として鷹匠町の町名が起こりました。日本各地の城下町にその名前がみられます。館林の鷹匠町は、藩の中級の武士が住んでいた地域と伝えられ、今も残る屋敷割や屋敷構、土塀や門、庭木などに当時の雰囲気を良く伝えています。

〔 旧館林藩士住宅 〕  館林市指定重要文化財・指定年月日:平成11年(1999)10月18日
旧館林城の侍町の一つである外伴木(そとばんき:現在の尾曳町)に現存した館林藩の中級武士の住宅です。木造茅葺平屋建の建物で、部屋を横一列に配置する武家住宅特有の間取りが特徴です。大きさは間口8間半、奥行4間半、建坪は28坪あります。棟札が見つからなかったことから建築年代は明確ではありませんが、柱間の長さや間取り柱配りなどから江戸時代後期の住宅で、江戸時代の建築様式や武家の暮らしの様子を伝える歴史的な建造物です。平成11年(1999)に館林市の重要文化財に指定、平成12年(2000)〜13年(2001)に解体・移築・復元を行いました。

館林藩士・伊王野惣七郎(いおうのそうしちろう)
幕末にこの住宅(旧館林藩士住宅)に住んでいた武士。伊王野家は秋元家二代泰朝(やすとも)以後、代々家臣として仕えたとされる。惣七郎は禄高100石で留守居役を務め、明治21年(1888)に没した。

武鷹館での滞在時間の長さにお気付きの方もいらっしゃるかも知れませんが、こちらで「館林城郭・城下町図」を買い求めたことを切っ掛けにして、ボランティア職員の方でしょうね、宜しかったら冷たいお茶を用意してありますので、休んでいって下さい−と勧められ、再び藩士住宅の縁側に移動して職員の方とすっかり「お茶」してしまったの。(^^; 旅先で地元の方とお話しする機会は、ありそうでいて仲々無いものよね。今回は、その「お茶」のお蔭で世間話を含めて(笑)館林に纏わる四方山話をお伺いすることが出来、つい時間が経つのを忘れてしまったの。普通なら10分程度の所要時間で十分見学可能だと思いますので、追体験される場合には各自時間調整をお願いしますね。そうそう、この武鷹館ですが、公開日は土日祝日に限られていますので、併せてご注意下さいね。

13. 田中正造記念館 たなかしょうぞうきねんかん 11:18着 11:56発

日本初の公害事件として知られる足尾銅山の鉱毒事件は公害の原点とも云われているの。明治維新後に民間に払い下げられた足尾銅山では採鉱の近代化が進められ、日本最大の産出量を誇る鉱山となるの。But 黄銅鉱からの銅製錬時に生成された亜硫酸ガスや亜砒酸が大気中に放出され、酸性雨などの煙害を生んだの。また、その一部は粉末化して地表へ付着し、雨水や川の水に流されて硫酸・硫酸銅・亜砒酸となり、重金属の溶出を生む結果となったの。一方、鉱滓(カラミ)も廃石や泥砂などと共に投棄され、雨水の中に汚染物質が溶け出し、坑内の汚染水と同じように渡良瀬川に流れ込むことになったの。

その結果、渡良瀬川に棲息する魚類や植物にも大きな影響を与え、被害が甚大化したの。中でも渡良瀬川から水利を得ていた水田では稲が立ち枯れする被害が発生、銅山の廃液の影響として怒った農民が蜂起するの。そんな中で一人の人物が立ち上がったの。それが田中正造で、彼は当初農民の直接行動には否定的だったのですが、一向に改善しようとしない足尾銅山側や政府の態度に業を煮やし、衆議院議員を辞すると、農民らと共に積極的に鉱毒問題に取り組んでいくの。当館ではその田中正造の生涯と共に、足尾鉱毒事件のことが詳しく展示解説されているの。鉱毒事件の背景には、当時の明治政府の殖産興業・富国強兵策があり、採掘精錬した銅を海外に売却して、代わりに鉄や機械を購入する原資となっていたの。加えて、銅山の近代化を進めたのは古河財閥の創業者でもある古河市兵衛で、政府高官との密接な繋がりがあったの。それは、今も昔も変わらない構図ね。扱っているテーマとしては少し重たいかも知れませんが、当館にお立ち寄りの上で、足尾鉱毒事件のことについて、しばし耳を傾けてみて下さいね。入館:無料

肖像 田中正造 (1841-1913):下野国安蘇郡小中村(現・佐野市小中町)生まれ。明治23年(1890)衆議院議員に当選、足尾銅山鉱毒問題についての質問書を提出し、政府の責任を追及した。同29年(1896)渡良瀬川に大洪水が起こり、鉱毒被害が深刻化すると、被害民の人権問題に生涯をかける。被害民の鉱毒停止請願運動も政府に受け入れられず、同34年(1901)正造は議員を辞職し、明治天皇に直訴した。その後、鉱毒処理のための栃木県下都賀郡谷中村(現・栃木市)の遊水池計画に抗議し、谷中村民と共に社会に訴えた。鉱毒問題に取り組む中、正造は渡良瀬川沿岸の足利郡吾妻村(現・佐野市)の民家で生涯の幕を閉じた。

田中正造は祖父の代から続く旗本・六角家領の名主の家に生まれ、正造自身は作男を一人二人置く農家だったの。館内にある説明には「若き名主・正造は朝飯前に馬の餌の草を刈る。朝夕、藍玉生産に励む。浄蓮寺で村の子ども達を教える。夜学で、村の青年達と学ぶ。松苗を植え、松材を売る。桑苗を植え、養蚕を奨励。池や沼を埋め、開墾を進める」とあり、「教育を重んじ、皆と学んだ」ことが記されていましたが、衆議院議員の職を辞してまでして農民と共に行動を共にした彼の原動力は、若い頃に育まれたものだったようね。

左掲は田中正造が明治天皇に直訴しようとしたときの様子を描いたものですが、警護の警官に阻まれて直訴状を手渡すことは出来なかったの。それでも、そのときの様子が新聞に掲載されたことで、足尾銅山鉱毒事件の存在が広く世に知られることになったの。But その後も根本的な汚染対策はなされずに、あろうことか汚染水を閉じ込める遊水池の造営計画が持ち上がるの。本末転倒の対応策に憤る正造でしたが、鉱毒事件の解決を見ることもなく、大正2年(1913)に没しているの。享年73歳で、財産は反対運動で使い果たし、殆ど無一文だったと云われているの。遺品は菅笠と合切袋で、袋の中には帝国憲法とマタイ伝の合本・新約聖書・日記3冊・河川調査の草稿・川海苔・小石3個にちり紙が僅か数枚入っていただけだそうよ。

記念館の紹介の最後に、館内に掲示されていた「田中正造の文明批評」を転載しておきますが、今から一世紀も前の時代に、既にこのような視点で文明を捉えていた日本人がいたことは驚きね。難しい問題ですが、改めて考えさせられてしまうわね。

物質上、人工人為の進歩のみを以てせば社会は暗黒なり。でんき開けて世間暗夜となれり。然れども物質の進歩を怖るる勿れ。この進歩より更に数歩すすめたる天然及無形の精神的の発達をすすめば、所謂文質彬々知徳兼備なり。日本の文明今や質あり文なし、知あり徳なきに苦むなり。悔改めざれば亡びん。今已に亡びつつあり。否已に亡びたり。予の眼を以て今の国を見る、実に済度救護のみちなきなり。人心已に亡び形また亡びたればなり。米を見よ。米は開国のはじめより天然自然神を愛せり。今日の末流その水源は皆富みたり。日本を見よ。一つも天然を発起せしものなく、却て天然を破る事に汲々して、その間僅に物質の力をかりて小利を得るもの多し。天然の大なるをしらず。有限物質の仮力を借りて辛らき小利に汲々たり。その小利また私利、自然公共の大益をしらざるなり。これ現今現在のありさま。今日日本官吏及資本富豪の向意及目前の事業、皆暗黒の中にあり。一つも天日の光りある公明正大の義務たるべきものを見ず。大正2年(1913)7月21日

14. ポケットパーク・やぶつばき 11:57着 12:00発

田中正造記念館を後にして通りを歩いていると直ぐに小さな「お休み処」を見つけたの。善意から敷地の一角を無料開放して下さっている様子が窺えましたが、「ポケットパーク・やぶつばき」との案内があり、傍らには樹齢400年のヤブツバキ(赤藪椿)が枝を広げていたの。

このヤブツバキは寺島家の椿として館林市の保存樹木にも指定されているとありましたが、寺島家ではこのポケットパークの他にも、たてばやしオープンガーデンとして、邸内にあるつばき庭園( 椿仙苑:ちんせんえん )も公開しているの。つばき園には50種類以上もの椿の木があり、開花時期の2月上旬から3月上旬にかけて公開され、見学させて貰えるみたいね。因みに、たてばやしオープンガーデンは他にもあり、館林市HPに依ると「花と緑豊かなまちづくりを目指し、丹精込めて作られた庭を、庭主の善意により広く公開していただくものです」とのこと。素敵な取り組みよね。

15. 竹生島神社 ちくぶしまじんじゃ 12:07着 12:09発

ここで『まちなか散策ガイド』のモデルルートから離れて、ちょっと寄り道をしてみたの。『散策ガイド』マップに小さく竹生島神社とあるのを見つけて足を向けてみたのですが、竹生島神社と云えば、総社は滋賀県長浜市にある都久夫須麻(竹生島)神社で、神奈川県の江ノ島にある江島神社や広島県の宮島にある厳島神社とともに、日本三大弁財天の一つに数えられているのは皆さんも御存知よね。その竹生島神社から分祠&勧請されたものだとすれば、何か特別の理由があったのではないかしら−と勝手に想像して興味を覚えたの。境内に建てられていた社殿新築落成記念碑の記述を引いておきますが、残念ながらξ^_^ξが期待していた程の縁起由来ではないようね。嘗ては浮島弁天とも呼ばれ、現在では傍らを駅前から続く幹線道路が走りますが、当時は直ぐ脇を濠が廻っていたみたいね。田山花袋の『一日の行楽』にも、近くに「弁天の渡し場」があり、そこからつつじが岡まで渡船が出ていたことが記されているの。

〔 竹生島神社建営碑 〕  天正18年(1590)榊原康政公は、10万石の領主として館林に入城すると間もなく、城下町の南に接する今の本町三丁目付近の開拓、更にその南方新宿方面に連絡する大通りの新設などを検断職・青山出雲、小寺丹後両氏に命じた。その結果、慶長2年(1597)には城下町を縦貫する大通りが完成、両名はこれらの功により江戸口門外に給田地を与えられ、付近は忽ちの内に商家軒を並べると云う活況を呈した。そこで両検断は協議の末、古くから住民が信仰していた弁財天を鶴生田川北岸の大通り付近に建立した。ところが、年月を経ると人家が増え、境内も手狭になったので、東方に当たる城沼続きの池水に囲まれた現在地に移し、浮島弁天と称した。弘化3年(1846)城主・秋元家の位牌所が城内鷹匠町に建てられると、同寺住職が別当となった。

それから三年後の嘉永2年(1849)堂宇を再建。そのときの棟札に別当泰安寺、検断青山素右衛門ほか、地守・世話人ら地元関係者の名がある。明治元年(1868)神仏混淆の禁令により、弁財天は仏であるため、鎮守とすることが出来なくなり、やむなく検断・青山四郎二は戒屋が近江国の商人で、毎年業務見回りに来館する同店主人に依頼。翌2年(1869)同国琵琶湖北部に鎮座する竹生島神社(市杵島姫命)を勧請した。明治6年(1873)11月谷越村(俗称・田町荒宿)鎮守として村社に列せられ崇敬された。大正4年(1915)  〔 中略 〕  社務所修理を機に増築し社運の隆昌を図った。また、昭和5年(1930)4月神饌弊帛料供進神社に指定された。同11年(1936)11月3日夜社務所から出火、全社殿を焼いたが、幸い御神体は焼失を免れた。太平洋戦争勃発・敗戦により、昭和20年(1945)12月15日神道指令の大変革により苦境に追い込まれたが、地域住民の信仰厚く、現社屋は昭和61年(1986)氏子関係者・一般崇敬者の協力を得て神職総代の尽力に新築落成した。昭和61年(1986)5月1日 〔 以下省略 〕

16. 館林城土橋門 たてばやしじょうどばしもん 12:15着 12:20発

館林駅前の入口から始まる「歴史の小径」もこの土橋門が終着点になるの。と云っても『まちなか散策ガイド』のモデルコースは更に城沼の畔まで続き、ξ^_^ξが御案内している今回の歴史散策では、城沼東岸の善導寺まで足を延ばしていますのでお楽しみ下さいね。(^^; それはさておき、この土橋門の呼称ですが、嘗てこの冠木門の前に濠を跨ぐ土橋が架設されていたことに因むの。また、土塁沿いには散策路が設けられていましたが、城沼に繋がっていた堀の跡だそうよ。埼玉県行田市に嘗てあった忍城ではないけれど、館林城もまた浮き城と呼ぶにふさわしい構えを見せていたのかも知れないわね。

館林市指定史跡・館林城跡 昭和48年(1973)4月1日指定
館林城は、城沼を自然の要害とした平城で、別名を尾曳城と云う。その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸・二の丸・三の丸・八幡郭・南郭を置き、これを取り囲むように、稲荷郭・外郭・惣曲輪を構え、更に、その西方の台地に城下町を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたものの中に、赤井照光により築かれたとするものがあり、狐の尾曳伝説と相俟って広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は現在まで発見されていない。

現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471)に上杉軍が赤井文六・文三の居城である立林(館林)城を攻略したと云う記録である。その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つどもえの攻防の中で、長尾氏・北条氏などが館林城を支配するようになった。天正18年(1590)の徳川家康関東入封に伴い、徳川四天王の一人、榊原康政が10万石で城主となり、江戸時代を迎えると、館林は利根川を押さえることが出来る東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置付けられ、最後の城主・秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。

城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸・三の丸・稲荷郭・城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。土橋門は、城の中心・三の丸への出入り口の一つで、在城当時は、正門の千貫門に対し、通用門として使用されたものである。この土橋門は、昭和57年(1982)の発掘調査の結果を基に復元したもので、事前の発掘調査により、三基の門の基礎と二基の井戸が発見されている。また、門と併せて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。特に、門からカギの手状に延びる土塁は蔀土居(しとみどい)と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことが出来ないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で、貴重なものである。館林教育委員会 〔 以下省略 〕

17. 夜明稲荷神社 よあけいなりじんじゃ 12:25着 12:29発

ここで再び寄り道よ。先程初曳稲荷神社のところで紹介しましたが、夜明けとなり、老狐が託宣を残して姿を消した場所に建てられたのがこの夜明稲荷神社になるの。鎮座する場所ですが、分かってしまえば何のことはないのですが、初めて訪ねるには少し分かりづらいところにあるの。と云っても、脇道に入って直ぐのところにあるのですが、通りに面して鳥居があるはずだから直ぐに分かると思うわ−と、脳天気に構えていたξ^_^ξは一度通り過ぎてしまったの。(^^; 地図だと ここ になるので、皆さんは通り過ぎてしまわないようにして下さいね。

当社は天文元年(1532)館林城築城の際に城主・赤井照光により創建されたと伝えられ、城の守護神として、また、当地の産土神(うぶすながみ)として尊崇されている。築城4年前の享禄元年(1528)正月、当地大袋と云うところに住んでいた照光は、近藤林で子狐の危難を救った。すると、その親狐は報恩のため、天下にまたとない城地を案内することを約束、その年の七夕の宵、約束に違わず、親狐は姿を現し、尾を曳きながら縄張りを先導、たまたまこの地に来たとき引き終わると「私の主人の稲荷神は、永く城下に留まり守護し給うお考えである。築城の上は社殿を造り給い」と告げると姿を消した。そのとき已に夜明けであった。その後、入城した榊原康政は社殿を再建、以後歴代城主は入封の都度参拝し、また年々蔵前五俵を奉納し、神社の維持に務めた。

18. 館林城千貫門跡 たてばやしじょうせんがんもんあと 12:37着発

千貫門は館林城の牙城部・三の丸北面中央に位置し、城の正面である大手門と同様、城内にある重要な門の一つであった。その形態は渡櫓門で、三の丸北面部の土橋門(通用口)に対して、武士の正門とされていた。千貫門の内側には、城内を敵に見透かされぬように築かれた鉤の手状の蔀土居が絵図等により確認されている。また、その名は三の丸と外郭を結ぶ千貫橋から由来すると云われるが、当時の面影は失われ、現在は隣接する土橋門周辺の土塁等にその姿を留めるに過ぎない。

碑面のレリーフは、館林を代表する芸術家・藤牧義夫(1911-1935?)の作品「三岳画集」に所収されているものであり、尾曳稲荷神社に奉納されている館林城絵馬を参考に描いたものとも云われる。此所に碑を建設し、城下町・館林を後世に伝えると共に、文化の発展に寄与するものである。昭和59年(1984)3月31日 館林市教育委員会

19. 八幡宮 はちまんぐう 12:42着 12:49発

八幡神は源氏の氏神で、広く武家の間で信仰され、各地に八幡宮として勧請されています。この八幡宮は、江戸時代には、武家の守り神として、また、城の守護神として、館林城の八幡郭に奉られ、歴代城主の厚い崇敬を受けてきたものです。明治になって、廃藩とともに尾曳稲荷神社に合祀されましたが、明治の終わり頃に城跡に進出してきた上毛モスリン株式会社により現在の地に移され、再び八幡宮として奉斎されました。館林市教育委員会

嘗ての館林城本郭に当たる敷地には、現在では向井千秋記念こども科学館と田山花袋記念文学館が建ちますが、二館の間を抜けて進むと左手には八幡宮が、正面には本丸土塁の遺構があるの。残念ながら、館林城は明治7年(1874)の大火で焼失してしまいましたが、八幡宮は説明にもあるように再建されて現在地に鎮座しているの。因みに、元々の八幡宮は本郭の東側に堀を隔てて八幡郭があり、そこに祀られていたの。代わりに、現在八幡宮が建つ場所には籾蔵があったみたいね。

館林市指定史跡・館林城本丸土塁及び八幡宮 指定年月日:昭和62年(1987)8月7日
館林城は館林・邑楽地方の代表的地形である低台地と低湿地を巧みに利用して造られた平城で、別名を尾曳城と云います。城の中心は、現在の文化会館敷地の三の丸から東に、現市役所敷地の二の丸、その東に本丸、南に南郭、本丸の東へ八幡郭と並び、城沼に突出した舌状台地を土塁と堀とで区画して造られていました。ここは本丸に当たり、この土塁は本丸の南側土塁の一部です。徳川綱吉が城主であった時代の絵図には、ここに三重の櫓(天守)が描かれており、25万石の城主にふさわしい荘厳な城であったことが見て取れます。その後、綱吉の子・徳松の夭折により、館林城は一時廃城となりますが、次の城主・松平(越智)家時代の「館林城地目録」に依れば、延享年間(江戸時代中期)の本丸は、東西約75間(約136m)・南北約25間(約45m)の長方形の郭で、周囲を長さ約224間(約407m)、高さ約2間(約3.6m)の土塁が囲んでおり、その上には瓦を載せた塀が走り、北東隅には天守閣に当たる二重の櫓があったと伝えられています。館林城に関わる遺構として、大変貴重なものです。

20. 第二資料館 だいにしりょうかん 12:51着 13:22発

赤煉瓦をあしらった趣のある門柱には館林市第二資料館とありましたが、第二とあるからには当然第一があるわけで、今回の散策では立ち寄らずに終えていますが、館林市立図書館に併設される第一資料館では、地元・館林の歴史や文化に係わる考古・民俗資料や郷土が生んだ芸術家の作品などを収集&展示しているの。その目的とするところは同じで、この第二資料館は大規模な資料のための屋外展示施設と云ったところね。その中心となるのが瀟洒な佇まいを見せる旧・上毛モスリン事務所と、移築復元された田山花袋の旧居になるの。第一資料館には立ち寄らずに終えてしまったせめてものお詫びに (^^; ここでは第二資料館の展示物をしっかりレポートしますね。

♥  旧・上毛モスリン事務所  ♥

群馬県指定重要文化財〔 旧上毛モスリン事務所・附棟札 〕  昭和53年(1978)10月13日指定
木造2階建入母屋造・1F255m²、2F208m²のこの建物は、上毛モスリン(株)の事務所として、明治41年(1908)から43年(1910)にかけて、館林城二の丸跡に建てられたものです。外観はシンメトリー(左右対称)を基調とし、窓は上下開閉式、屋根の張り出しは浅く、基礎は近県産の花崗岩と大谷石を組み合わせ、柱・階段の手すり・天井などに洋風の意匠が取り入れられている一方、和風建築の基本である尺貫法や小屋組構造を用いた建物であり、明治期の洋風指向の特徴を良く現しています。上毛モスリン(株)は、館林周辺の伝統技術である機業を活かして近代的製織会社として設立されました。

産業振興と共に、鉄道の敷設に伴い道路の新設(モスリン新道)を行うなど、町の近代化を支え、その後、共立モスリン、中島飛行機、神戸生絲として変遷しますが、いずれも館林の基幹産業として地域の発展に寄与してきました。擬洋風建造物として群馬県下でも有数のもので、この地域の近代史を知る上で、欠かせない重要な文化財です。昭和54年(1979)から55年(1980)にかけて現在地に移転しました。群馬県教育委員会・館林市教育委員会

上毛モスリン(株)は、館林地方の伝統産業である機織業を活かした近代的織物会社として荒井藤七、鈴木平三郎らが中心となって明治29年(1896)毛布織合資会社として設立されました。明治35年(1902)には、上毛モスリン(株)と改称し、明治42年(1909)に旧館林城二の丸跡に工場を移転します。この工場は、当時の館林では比較的大型の工場や近代的な設備を導入し、町の基幹産業として近代化の発展に寄与してきました。最盛期の大正中頃には、従業員約2,000人の大工場として町の発展を支えてきましたが、大正末期に倒産し、その後、共立モスリン、日本毛織、中島飛行機、神戸生絲と会社が変遷し、上毛モスリン時代の建物は増改築が繰り返されてきました。昭和53年(1978)には、工場内にあった本建造物が旧上毛モスリン事務所として、群馬県の重要文化財に指定され、移築保存が図られましたが、平成4年(1992)の神戸生絲(株)の新工場移転に伴い、翌5年(1993)には全ての建造物が解体されました。

ところで、モスリンとはどんな生地かしら−と思われる方もいらっしゃるのではないかしら。館内に掲示されていた説明では「羊毛などの繊維を伸ばし、長さをそろえ、ケバなどを取って糸にしたものを織りあげる、梳毛織物の一つで、柔らかく手触りの良い布地。はじめ、アジアのティグリス河畔のモスール地方で造られたと云う。明治初年日本に輸入され、一般にメリンスとも呼ばれた。上毛モスリンでは、モスリンを独自に開発したものであった」とありましたが、これだけでは今ひとつイメージがつかめないかも知れないわね。そんな方には、上毛モスリンからは少し離れてしまいますが、魅惑の布 毛斯綸 をお薦めしますね。

〔 上毛モスリンのレンガ 〕  明治・大正期の西洋風の建物は、赤煉瓦の使用が一つのステイタスシンポルであり、近代化を特徴づけるものであった。しかし、煉瓦は組積造のため、関東大震災(大正12年)などでその弱点が露呈し、地震国日本では構造材に向かないものであった。上毛モスリンの工場では、煉瓦造りの建物が敷地内の各所に見られ、特に工場・倉庫・受電室・煙道・ボイラー室などに大規模に使用されていた。また、使用されていた煉瓦の種類は、赤煉瓦と耐火煉瓦が殆どであるが、受電室壁面の一部に白色施釉(しゆう)煉瓦も使用されていた。また、煉瓦積みの工法としては、レンガの長い面と短い面を交互に積む「オランダ積み」が多く使用されていた。

〔 工場建築 〕  平成5年(1993)当時、旧神戸生絲は土地面積43,300m²の中に約24,000m²の建物があった。その中で、明治期の建物として煉瓦造りの鋸屋根工場・受電室・ボイラー室、また、大正期のものとしては煙突等があった。また、倉庫として使われていた旧食堂や低温倉庫、2棟の寮も明治期からの建物であった。特に揚返工場と神戸電子工場は、それぞれ7棟の鋸屋根で、大規模なものであった。また、受電室は最も高い煉瓦造りの建物で東側の外壁に大谷石を組み入れ美しい造りになっていた。いずれも、明治期の洋風建築の特徴を良く表していた。

旧・上毛モスリン事務所の建物の左手には工場内にあった受電室の壁の一部が保存&展示されていたの。

明治43年(1910)に館林城旧二の丸跡に開業した旧上毛モスリン(株)の受電室の壁の一部。受電室は高圧電気を受け入れて工場内の各所に配電するための建物で、高さ約11m、幅約5m、長さ約64mの煉瓦造になっていました。鋸屋根の工場の中に一際高く聳えるシンボル的な建物で、屋根の破風や窓枠には御影石が使われ、西洋風のデザインが施されていました。平成5年(1993)の工場解体に伴い、破風と窓の御影石を採取し、それらを利用して当時の姿を復元しました。

上毛モスリン事務所の概要がお分かり頂けたところで、建物内に展示されていた資料からその幾つかを紹介しますね。

〔 正田貞一郎氏使用馬車 〕  館林市の第一号の名誉市民である正田貞一郎氏(1870-1961)が日清製粉(株)の社長時代である昭和10年代に、鳥取県の大山の麓にある会社の農場で場内視察のために使用していた馬車。馬車の形態は幌付一頭立馬車(幅1.5m、長さ3.2m、高さ1.6m、前輪直径82cm、後輪直径1.08m)で、昭和初期に作られた国産製のもの。本馬車は日清製粉(株)館林工場で保存されていましたが、その後館林市へ寄贈され、修復を行ったものです。

正田貞一郎氏は、明治3年(1870)に横浜で生まれましたが、父・作次郎氏の死去に伴い、館林の正田本家で育てられました。明治12年(1879)に館林西学校を卒業後上京。明治24年(1891)、神田一橋の高等商業を卒業すると館林に戻り、本家の醤油醸造業に従事します。明治30年(1897)、館林の商工業振興のため館林実業談話会を設立し、明治33年(1900)には、館林製粉を市内代官町に創立するなど、館林の発展に大きく貢献しました。館林製粉は、その後明治41年(1908)に日清製粉(株)と合併・改称し、本社を東京に置き、以後貞一郎氏は会社代表として尽力しました。また、貞一郎氏は美智子皇后の祖父にもあたります。昭和33年(1958)には館林市の名誉市民第一号に選ばれました。

〔 工場で使用した機械 〕  上毛モスリンの操業の目的はモスリン(毛織物)の製織であった。当時、導入された主な機械は、紡毛部では粗紡機や精紡機、織布部では仕拵機やモスリン織機などであった。この内、精紡機についてはイギリス製のミュール精紡機が使用されていた。この精紡機は上毛モスリンの工場内で256台が整然と並べられていたことがわかる。しかし、上毛モスリンの倒産後、機械は処分され、現在では当時の機械を見ることは出来ない。その後、昭和22年(1947)から工場を引き継いだ神戸生絲(株)では、繭から生糸を取る操業に替わった。平成5年(1993)の工場解体の際には、自動繰糸機など製糸関係の機械などが残されていた。

1Fに設けられた展示スペースには工場で使われていた機械の一部や建物の装飾枠などが展示されていましたが、ちょっと気になるものを見つけたの。それが左掲のスプリンクラーで、「工場内の天井には、消火用のスプリンクラーが設置されていた。このスプリンクラーは Grinnell 社の改良型で、1903年製のものである。日本での生産は戦後であるから、このヘッドは外国からの輸入品ということになる。しかし、このスプリンクラーが作動したというような大火災の記録は見られない」と案内されていましたが、当時、既にスプリンクラーなるものが存在していたとは、ましてや、日本の織物工場で導入されていたとは思いもしなかったの。

旧上毛モスリン事務所の見学を終えて田山花袋旧居へと向かいましたが、
途中には、館林城ゆかりの石垣の一部などが置かれていたの。

間知石 間知石 角石

〔 間知石と角石 〕  園路の両側にある石は、館林城の二の丸・三の丸等から出土したお城の石垣の一部です。園路の西側の石は間知石(けんちいし)と云い、館林城の石垣を構成していた石です。平石、築石とも云います。一つ一つの石は、四角錐の形で石垣の面に組み込まれ、四角形の部分が石垣の表面に現れます。二の丸と三の丸を結ぶ二郭門(現・市役所敷地)のほか、二の丸・三の丸の敷地などから出土したものを集めたものです。園路の東側の石は角石(すみいし)と云い、間知石と共に館林城の石垣を構成していた石です。一つ一つの石は、直方体の形で、石垣の隅角部に算木状に組み込まれ、石垣の稜線を作ります。館林城の三の丸(現・文化会館)の敷地から出土したものです。

〔 道標 〕  寛延元年(1748)、旧小泉街道沿いの追分(おいわけ)に建てられたもので、現在の道路案内標識に当たります。表面には、「右 こいづみおじま」、「左 あかいわふつと」と記されています。
〔 浜田藩中奉納手水鉢 〕  天保7年(1836)、館林城主であった松平斉厚が、石見国浜田に移封された際、松平家の家臣達が館林に在住中の感謝の意を表すため、館林城下の八坂神社に奉納したものと考えられています。手水鉢の側面に当時の家臣らの名前が見えます。
道標 手水鉢

♥ 田山花袋旧居 ♥

文豪・田山花袋は名を録弥と云い、明治5年(1872)尾曳町27番に生まれた。父は秋元藩士で、維新の後、窮乏の裡に成長し、小学校初等科を出ると丁稚に出されたりしたが、向学心堅く、刻苦して文学に進み、小説三百余篇と紀行文の多くを残した。その間、男女人間性の深層を描いた『蒲団』により自然主義作家の第一人者となった。また、花袋の秀作『田舎教師』で「絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得られる云々」の名言を残し、晩年まで創作を続けた。花袋は実に館林の誇るべき最高の大作家である。日本は今、青少年の健全な育成が焦眉の急務である時、少年録弥の逆境にめげず進んだ道は、深い教訓を与える。ここに、その偉大な業績を敬慕し、胸像を建設する。昭和58年(1983)5月13日 〔 以下省略 〕

館林市指定文化財〔 田山花袋旧居 〕  昭和46年(1971)5月1日指定
木造平家建、茅葺屋根のこの建物は、自然主義文学作家の田山花袋(1871-1930)が明治11年(1878)から明治19年(1886)まで、凡そ8年間住んだ家です。面積は22.5坪(74.25m²)あり、玄関の土間に続いて3畳、左手に8畳が二間、裏に4畳半の板の間と土間、東側に4畳と、合わせて5つの部屋からなり、特に玄関東の4畳の部屋は田山花袋が勉強した部屋と伝えられ、花袋の小説『ふる郷』(明治32年刊)には「なつかしきこの家」と描かれています。

また、この建物は、江戸時代末期の秋元藩時代は武家屋敷の一つで、当時の絵図によると、館林城内である総郭(侍屋敷)の中の裏宿六番町( 現・館林市城町678番地の2 )に建てられていました。館林市の文化財第一号として史跡に指定され、昭和56年(1981)度に保存と活用を目的に館林市第二資料館に解体移築されました。現在、旧居跡地は史跡公園として保存され、記念碑が建てられています。また、平成10年(1998)度には保存修理工事として茅葺屋根の葺き替えが行われました。

田山花袋(本名・録弥)は明治11年(1878)4月より同19年(1886)7月まで、凡そ8年間をこの家で過ごし、玄関東側4畳の間で勉学したと云われる。花袋は近代日本文学に於いて自然主義文学の大作家として文豪の名を高め、その作品は長短を合わせて、凡そ320編にも及び、代表作に『田舎教師』等がある。また、この家は明治維新前の武家屋敷でもあり、永久保存を図るため、昭和56年(1981)、これより北方600m( 城町14-37 )から解体移築したものである。

第二資料館からぽんチャリで走ること7分程で城沼の畔に到着よ。城沼の北側の畔には御覧のような「朝陽の小径(あさひのこみち)」が整備されていて、素敵な散歩道になっているの。勿論、ぽんチャリでの通行もOKよ。歩くとなると少しシンドイ (^^; かも知れませんが、自転車ならノンビリと景色を眺めながら気楽に見て回れるわね−と、善長寺や善導寺を訪ね、その後は城沼を一周してみることにしたの。尚、善長寺や善導寺の記述は前回訪ねた際の 館林のお散歩 と同一の内容ですので、既に御覧になった方は読み飛ばして下さいね。また、今回の散策では尾曳稲荷神社への立ち寄りもカットしてしまいましたが、気になる方は同じく 館林のお散歩 を御笑覧下さいね。

21. 善長寺 ぜんちょうじ 13:36着 13:45発

〔 善長寺鐘楼堂建立の記 〕  当山は、大永3年(1523)に大雲惟俊大和尚により現在の地に開山されました。開基家は館林城主・赤井孫七郎家範侯でした。その後、江戸時代になり、同じく館林城主・榊原忠次侯( 後に松平忠次侯 )が、御生母・祥室院殿のご供養のために中興開基家となり、伽藍の整備を行われました。因みに、忠次侯は後に館林城主より姫路城主に移封されております。創建当時の諸堂伽藍は、文政8年(1825)に火災に遭い、惜しくも全て焼失しましたが、図面に焼失前の伽藍配置が詳しく記録されておリ、それにより開山当時の規模の壮大さを窺い知ることができます。

更に第二次世界大戦末期、日本は極度の物資不足に陥り、当寺も含め、多くのお寺の梵鐘が無念の内に供出されていきました。平成14年(2002)は大本山永平寺御開山、永平道元禅師の750回大遠忌の年に正当いたしました。この度の大遠忌の主題は「慕古心(もこしん)」です。意味するところは、道元禅師のお教えに戻りましょう−と云うことであります。お寺を昔の姿に戻すのも、この主題に添う報恩行と考えられます。ここに、寺檀一致協力して、檀信徒の浄財を募り、この鐘楼堂の再建が結実致しました。この梵鐘が尽未来際、私達の心の拠り処となりますことを、切に願うものです。平成15年(2003)11月3日 〔 以下省略 〕

縁起を記した案内板でも無いかしら−と探してみたのですが見つからず、代わりに鐘楼堂の前に建てられていた『鐘楼堂建立の記』を引いておきましたが、善長寺に伝えられる【源姓赤井系図】に依ると、大永3年(1522)に赤井孫七郎家範が、戦死した兄の源次郎信家の菩提を弔うために創建したのが、この善長寺だとされ、寺号は信家の法名・善長寺殿舜庵全尭大居士に因むものだそうよ。それはさておき、開基・中興開基ともに館林城主とあれば、嘗ては七堂伽藍が建ち並んでいたのかも知れないわね。

参道脇にはそれを思わせるような、一抱えもありそうな大きな瓦が屋外展示されていましたが、嘗ての本堂にでも使われていたものかも知れないわね。その大きさからすると、その瓦を載せた建物もまたかなりの豪壮さを有していたであろうことが察せられるわね。残念ながらξ^_^ξが訪ねたとき(2016)には本堂の建替中でしたが、今頃は木の香もかぐわしい立派な本堂を見ることができるのではないかしら。

〔 寿老人 〕  七福神の一。長寿を授ける寿神と云われ、杖を携え、肩には桃の実を乗せておられる。
瑞祥(めでたいしるし)のお像で、長寿の願いをお聞きになると云われております。当山

境内の一角には館林七福神の一神・寿老人が祀られているの。寿老人は元々は中国の道教の神さまで、南極老人星の化身と云われ、不老長寿を司る神さまなの。中国は宋の時代に実在した人物(老子の化身とも)で、天に昇り、寿老人になったとも云われているの。

〔 お辻・松女供養碑 〕  榊原康政(徳川四天王の一人・館林城主)の愛妾お辻の方は寵愛を一身に集めていたが、それを嫉む他の妻妾の仕打ちに堪えられず、侍女お松を伴い城沼に身を投じて自殺したという伝説が残されています。康政はその死を悼んでお辻を弔うために沼の丘に植えられた一株のつつじが今日の県立つつじヶ岡公園の起こりとも云われています。巨法山善長禅寺

この善長寺を訪ねる切っ掛けとなったのがつつじが岡公園で見掛けた「お辻が身を投げた城沼:初代館林城主・榊原康政にお辻と云う側室がいました。城主の寵愛を一身に集めたことから正室の妬みとなり、正室に虐待されました。お辻はその責めに耐えきれず、この城沼に身を投げ死を遂げました。時に慶長10年(1605)のことと伝えられています。ここから見える城沼北岸の善長寺には、お辻と共に死んだ侍女・お松の二人の供養塔が建てられています」と記されていた案内板なの。改めて調べてみると、善長寺の過去帳にはお辻&お松のことが

泥蓮院殿浄養妙香大禅定尼 お辻の方
松室貞心禅定尼 こしもと まつ女(松女)
沼水死依位より尊牌者当寺以納む

−と、記されているのだとか。時に慶長10年(1605)3月6日のことだとされてはいるのですが、実際には年号の記述は無いそうよ。過去帳は何度か書き換えられているみたいなので、その際に単に書き忘れたものかも知れないわね。それにしても、伝説と云う割には供養塔が建てられていたり、過去帳に記述があったりするなど、摩訶不思議な世界よね。ξ^_^ξが思うには、やはり、伝説の元になるような出来事が実際に起きたのではないかしら。実は、お辻伝説にしても密かに別のお話が伝えられていたりするの。【古事記】や【日本書紀】に記される弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水伝説にも似たお話で、そこではお辻も側室ではなくて榊原康政の正室として語られるなど、巷で噂される一般的なお辻伝説とはかなり趣を異にするの。紹介記事を見掛けませんので、見知らぬ土地の咄しの面白さ−と云うことで御案内してみますが、ここでは脚色(デッチ上げとも云う)を加えて昔話風にアレンジしてみましたのでお楽しみ下さいね。題して、お辻生贄伝説よ。(^^;

とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども、この館林に最初にお城が造られた頃のお話しじゃ。その館林城の初代城主をしておったのが榊原康政と云う殿さまじゃったが、お辻と云う名の奥方さまがおられてのお。ある日のことじゃった、その奥方さまが腰元達を引き連れて城沼で船遊びを催したそうじゃ。奥方さまも興にのったと見えて、皆して三味や笛太鼓などの楽に合わせて歌い舞い踊り、時が経つのも忘れかけておったそうじゃ。ところがじゃ、船が沼の真ん中辺りに来た頃のことじゃったそうな。先程まではゆるりと水面を滑っておった船が急に動かんようになってしまってのお、船頭も櫂を巧みに操りながら艪に渾身の力を込めて水面を蹴ってみたんじゃがビクともせなんだ。そうこうしている内に、陽も西に傾きかけてきおってのお、一向に動き出す気配を見せない船の様子に、腰元達の間にも不安がよぎりはじめたそうじゃ。

やがて腰元達の中からは船が動かぬのはこの沼に住むと云う龍神のせいかも知れぬ−と云い出すものがおってのお、その者が云うには、その沼の主たる龍神に見込まれたものがこの船に乗っているがためにこの場に引き留められていると云うことじゃったが、誰がその龍神に見込まれた者かは誰にも分からんでのお。皆して話しおうた結果、龍神の神意を推し量るべく自分達の持ち物を沼に投げ入れてみることにしたそうじゃ。沈んだ品の持ち主こそ龍神に見込まれた者で、その者が犠牲となって沼に身を沈めない限りは船は動かぬであろうし、このままではいずれ沈没して沼底に吸い込まれてしまい、誰一人助かる者も無かろう−と云う話になったそうじゃ。

そうして皆して自分の持ち物を恐る恐る沼へと投げ入れると、息を凝らして水面を見つめておったんじゃが、はたして腰元達の持ち物はどれ一つとして沈む気配が無くてのお、お辻の方さまが投げ入れた品だけが水面を割ると沼底深く沈んでいってしまったそうじゃ。これには腰元達もことばを失うて互いに顔を見合わせるばかりじゃった。やがて腰元達が見守る中、意を決した奥方さまは身を翻すと、ざんぶとばかりに沼に身を投じてしまったそうじゃ。すると、はたして腰元達の乗った船は何事も無かったかのようにスルリと動き出したそうじゃ。お辻の方さまに助けられた腰元達が急ぎ城に立ち返り、ことの一部始終を殿さまに知らせたんじゃが、その話しを聞かされた殿さまは殊の外嘆き悲しんでのお、沼の畔にツツジを植えて奥方さまの霊を弔ろうたそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども。

いかがでしたでしょうか、お楽しみ頂けたかしら。目の前に広がる城沼は、沼底には龍神が潜むかも知れないなどと、およそ想像することすら出来ないくらいの穏やかな表情を見せていますが、天然の要害として館林城を堅固していた当時の城沼は、現在のそれよりもかなり広かったみたいね。西側は大分埋め立てられてしまったようですが、東側には今も古城沼が残されているの。当時の城沼は、その広さに加え、伝説を「さもありなむ」と思わせるだけの荒々しさも持ち合わせていたみたいなの。残念ながら、見て来たわけではないので、確かなことは分からないけど。(^^;

22. 善導寺 ぜんどうじ 13:59着 14:07発

〔 終南山見松院善導寺 〕  群馬県館林市楠町3692番地 宗派:浄土宗 所依の経典:浄土三部経
【 開創から明治まで 】  当寺は、第43代元明天皇 和銅元年(708)行基菩薩によって開創された。第82代後鳥羽天皇 建久4年(1193)3月 頓阿見性法師、行基菩薩の旧跡を偲び草庵を修建して終南山の鍾馗に擬え鎮守とし、浄業専修し、久しく住した。第91代後宇多天皇 建治2年(1276)10月 白旗流の祖、寂恵良暁上人により再興され、今日の基となる大伽藍となり一向専修の道場として、滋に初めて終南山見性院善導寺と呼称し、以後浄士宗に属する寺院となった。良暁上人以前は単に行基寺とか見性院と呼ばれて来たと云う。

以来、300余年間、代々の領主(由良氏・長尾氏・赤井氏・北条氏等)当寺を令法久住の檀林として特に庇護し、山門に制札を掲げ軍兵等の狼藉を禁じたが、元亀・天正の頃、下克上による戦乱東西に広がるや、当寺も荒れるに任されるに至った。後陽成天皇 天正18年(1590)徳川家康公四天王の一人、榊原康政候館林十万石に赴任するや、広範囲に亘る地域開発に着主した。時同じ頃、学徳兼備の高僧、幡随意上人は予てより行基菩薩開榛の勝地・白旗流流祖建堂の再興を念願としていたが、康政候篤く上人に帰依し、当寺域を谷越の地に移し本堂を初め七堂伽藍並びに付属堂宇を整備し、上人を中興第一世と定め榊原家の香華寺とし百石を付与された。

後水尾天皇 元名元年(1615)家康公は、旧姓松平の「松」に十ハ公の嘉誉在るに因んで関東に18の檀林選定に当り、その一に加えられ、これを機に当寺の院号・見性院を現在の見松院に改められた。後光明天皇 正保元年(1644)榊原家三代忠次侯館林在城28年、奥州白河への移封の折徳川三代将軍家光公より供田100石と諸役免除の御朱印を賜り、以来、各将軍時々の城主当寺を遇すること厚く、以後200余年間、歴代住職法燈護持に尽力し檀林としての責務を果たし教化当地に普く及ぶに至った。然しながら幕末の動乱・幕藩体制の崩壊・廃佛毀釈等によりその影響大なるものがあり次第に衰微することとなった。明治維新を迎え漸く体制も整い近代国家への脱皮と共に社会秩序も平穏となり、大正・昭和時代へと変遷したが、この間当寺は常に地域社会の要望と共に歩み続けてきた。

【 明治以降の歩み 】
*明治 2年(1869)  明治天皇より勅願所の綸旨を下賜される
*明治40年(1907)  寺域の一部に日清製粉を誘致
*明治末〜大正期  東武鉄道の誘致、境内中央部に館林駅建設を有志と共に図り、当地域の経済文化の発展の基となした。

昭和に入り、昭和4年(1941)に始まる世界的規模による経済大恐慌、昭和12年(1937)日中戦争、同16年(1941)第二次世界大戦勃発、同20年(1945)8月15日終戦、同時に連合軍による国内進駐、連合国最高司令官総司令部(GHQと略称する)の設置、続いてGHQの指令により、諸制度の改革が行われ、就中農地解放は広大な境内敷地・建物等、維持管理の為の基本的財源を失うこととなり、修理すら出来ぬありさまで茫茫として荒れるに任せる状態であった。現住職(第77世英誉)昭和34年(1959)、先住忍誉上人よりその職を承継するや、再建の方途につき鋭意努力し当寺山門外に在った不動・弁天両堂を山門内に移転・応急の修理を施し、長年通行の用に供し分断され、境内として使用し得ない境内地等の整理・本堂大屋根の修繕等を行い、残る境内地三千余坪に、保育園舎の改築・庫裡の改築等手掛け、一旦は旧地での再建に踏み切った。

然るに、昭和54年(1979)都市近代化を推進する館林市より「館林駅広並びに駅前通り線拡幅事業」化に向けての協力要請があり、当寺役員会は諸事熟慮の結果公共に立って旧地(館林駅前)より全面移転することを決議した。ここに昭和大移転再建事業は発足、昭和58年(1983)11月当地において地鎮・着工式を挙行、平成2年(1990)秋、落慶遷座式を目標として本事業を推進し成満したものである。本移転再建に当たり特に留意したことは、境内建物・彫像・彫刻類について破損甚だしきものであっても何とか修復出来るものについては、先人の文化的遺産として後世に伝えるべく努力すること・彩色については400年前の色調を忠実に再現する二点とした。

【 事業の大要 】
*当境内地の対象となった開発地全域に付き、土地改良を行った。
*本堂は鉄筋コンクリート造、屋根は銅板葺きとし内陣のみ旧内陣を修復して400年前の形式を再現した。
*山門・不動堂・薬師堂・弁天堂・富士見門は、ほぼ旧来のとおり復元した。
*観音堂・鐘楼・庫裡・収蔵庫・閼伽門・竜井等は新築とした。
*勢至堂は旧境内庫狸のお内佛間と玄関唐破風を利用して新築した。
〔 規模 〕境内建物:本堂他16棟  境内面積:20,531m²  墓苑面積:3,394m²
平成元年(1989)5月吉日 英誉記

今回の散策で最後に立ち寄ってみたのがこの善導寺ですが、冒頭に紹介した「龍の井」の項で御案内しましたように、館林駅前の再開発に合わせて現在地に移転してきたの。最初に、山門脇に掲示されていた力の籠もった (^^; 縁起を引いておきましたが、嘗ては関東十八壇林の一つに数えられるなど、由緒ある寺院だったの。縁起にもあるように、この善導寺は館林城初代城主・榊原康政ゆかりの寺院でもあり、康政のお墓があるなど、地元館林の歴史を知る上でも欠かせない存在になっているの。

本堂を左手に回り込むとあるのが榊原家のお墓で、館林初代城主榊原康政をはじめとする縁故者の墓塔が建ち並んでいるの。一番大きな宝篋印塔が榊原康政の墓塔ですが、その左手で小さく脇侍するかのように佇む墓塔は康政の家臣・南直道のもので、彼は康政が没した二日後にこの善導寺で切腹して殉死を遂げているの。塔身には阿弥陀三尊の種子が刻まれ、慶長十一丙午季腹譽道切禅定門五月十六日と誌されているの。ちょっと生々しすぎる法名ですが、死した今も尚、主君・康政に近侍する姿には思わず目頭を熱くさせられるわね。

〔 群馬県指定史跡 榊原康政の墓 〕  榊原康政は天文17年(1548)三河国上野(現在の愛知県豊田市)に生まれ、幼名を亀、後に小平太と名乗り、12歳の時徳川家康の家臣となりました。初陣は永禄6年(1563)上野の合戦で、この時手柄をたて、家康から一字賜って康政と名乗り、以後姉川・三方ヶ原・長篠・小牧・長久手などの合戦を歴戦し、徳川幕府創立の功臣として、後に井伊直政・本多忠勝・酒井忠次と共に徳川四天王の一人に数えられています。天正18年(1590)家康の関東入国に際し、10万石を領し館林城主となりました。館林での業績は、城の拡張、城下町の整備、利根川・渡良瀬川の築堤を初め、日光脇往還を新設するなど、土木事業に於いて顕著で、郷土館林の礎を築きました。

ここにある墓は、初代康政をはじめ、榊原家関係者5基の墓石が並び、墓所を構成しています。群馬県(上野国)特に館林藩成立前後の歴史や、大名墓の研究、大名と寺との結びつきなどを知る上で大変重要なものとして昭和28年(1953)、群馬県の史跡に指定されました。
 生年没年墓塔法名 
南直道不詳慶長11年(1606)宝篋印塔 H:1.93m腹誉道切禅定門康政の側近で殉死者
榊原康政天文17年(1548)慶長11年(1606)宝篋印塔 H:5.46m養林院殿上誉見向大禅定門官位は従五位下式部大輔
大須賀忠正天正9年(1581)慶長12年(1607)五輪塔 H:2.72m華馨院殿泰誉叟安大居士康政の長子で遠江国横須賀城主
榊原康勝天正18年(1590)元和元年(1615)五輪塔 H:2.73m心光院殿長誉了英大禅定門榊原家二代
花房氏不詳承応2年(1635)宝篋印塔 H:4.37m周光院殿葉誉青荷大姉康政の側室、二代康勝の生母

墓の解体復元に伴った発掘調査で、康政・康勝・花房氏の墓から火葬にした遺骨が確認されました。
特に康勝の遺骨は伊万里焼の小壺に納められていました。館林教育委員会

最右端に建つ墓塔は花房氏のものですが、この場合の花房氏とは「花房氏の女(娘)」の意で、彼女の実際の名前は分からないみたいね。当時の女性の多くは「〜女」と記されるだけで、実名が記録に残される例は極めて稀なの。榊原家二代目の康勝の生母にしてこの扱いとは女性としては悲しい時代ですが、だからと云って彼女が榊原家で冷遇されていた訳ではなさそうね。と云うのも、彼女は康政の側室であって正室ではないの。この榊原家の縁故者に列せられているのも偏に榊原家二代目の康勝の生母と云う立場に負うところ大のハズで、生前は丁重に扱われていた証でもあるわね。一方、本来は列座していても不思議ではないはずの正室(大須賀康高の娘)のお墓はここには無いの。どこで眠るのかしらね?

御案内の最後になってしまいましたが、この善導寺は”つつじの館林七福神めぐり”の対象寺院の中で毘沙門天が祀られる寺院になっているの。

〔 毘沙門天 〕  此の天は、もとインドの神で「多聞天王(たもんてんのう)」の事。仏法と仏法に帰依するものを守護する四天王(四人の神)のうちの一人で、「信奉する積善の人に無量の福徳を与えて下さる神」である。毘沙門天(王)は、閻浮提(えんぶだい・古代インドの宇宙説で、須弥山(しゅみせん)を中心とした世界・私たちの住んでいる世界の事)の北方の護衛に当たり、仏法を護持し、財宝富饒(富みて豊・富裕に同じ)の善神としてインド及び西域(中国の西部)において広く信奉され、経典には多聞天王自ら神呪(言葉では説明出来ない特殊な霊的な力のある秘密語・呪文に通じる)を説き、「この呪を誦持(常に唱え祈ること)すれば常に災厄なく、如意宝珠及び伏蔵(地中に秘め隠された財宝)・神通自在を獲得し、所願皆成ぜしめん」と誓われた事が記されている。又時に、戦勝の神としても崇拝された所から、戦国時代には多くの武将が守護神として念持した。当善導寺に伝わる毘沙門天は、新田義重侯の守り本尊として日夜礼拝念持していたと伝えられている。此の天の真言(祈願のとき唱える文句・呪文の事)は オン ダンナダラヤ ソワカ

毘沙門天の画像は Harumi's Home Page さんに掲載されていたものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・

23. 城沼( 東岸 ) じょうぬま 14:15着発

善導寺の拝観を終えたところで、今回の散策も全行程を終了。城沼の周囲を全長約6Kmほどの遊歩道がめぐりますが、歩くとなると一時間を優に超えてしまいますが、今回はぽんチャリが相棒にいてくれるので、引き続き城沼の畔を走ってみることにしたの。残念ながら躑躅が咲く時期でも無ければ、沼面を彩るハスの花が見られたわけでもありませんが、それでも沼面を渡り来る風に吹かれながらのサイクリングは楽しいものね。

24. 城沼( 西岸 ) じょうぬま 14:27着発

25.館林駅 たてばやしえき 14:45着

今回のぽんチャリ散策はつつじが岡公園にツツジを見に来た際に館林駅前で頂いた『まちなか散策ガイド』を元にしましたが、館林は戦災による家屋の焼失を免れたこともあり、古い町屋の建物などが今も残されているの。館林ではツツジの他にも、季節には菖蒲やハスの花が城沼を彩りますが、花々の競演を愛でた後にでも時間をつくり、旧城下町や武家屋敷街をそぞろ歩きながら江戸時代の館林の風情に触れてみてはいかがかしら。この頁がそのときの一助となれば幸いです。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
館林市発行 館林市史編纂委員会編 館林市史
館林市教育委員会編 館林古環境復元図 館林城郭・城下町図&解説書
有志舎刊 三浦顕一郎著 田中正造と足尾鉱毒問題
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など






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