≡☆ 館林のお散歩 ☆≡
2016/04/30

館林と云えば名勝つつじが岡公園を紅に染め上げるツツジと分福茶釜のお話しで知られる茂林寺が有名よね。折角だもの、お出掛けするならそのツツジが咲く頃がいいわよね−と、開花時期を狙って訪ねてはみたのですが、少し遅すぎてしまったの。それはさておき、今回の散策ではつつじが岡公園の前に広がる城沼の畔に位置してある寺社にも足を向けてみたの。併せてトレジャーガーデンや茂林寺を訪ねてみると云う欲張りなお散歩よ。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

つつじが岡公園〜善導寺〜善長寺〜尾曳稲荷神社〜トレジャーガーデン〜茂林寺

1. 館林駅( 東武伊勢崎線 ) たてばやしえき

ツツジの開花時期を狙ってはみたものの、ξ^_^ξが訪ねたときは春先から温かな陽気が続いていて、季節が一週間〜10日間ほど早めに推移していたの。そのせいで例年なら5月のゴールデン・ウィーク期間中に開花の最盛期を迎えるツツジも、大方が見頃を終えてしまっていたの。なので、50種を超えるツツジが10,000株も植栽されていると云うつつじが岡公園のツツジですが、今回の散策ではその艶姿を充分にお伝え出来ませんので予め御了承下さいね。代わりに、”つつじが岡”に纏わる逸話をたっぷりと紹介しますのでお楽しみ下さいね。(^^;

今回の散策でお世話になったシャトル・バスですが、期間限定(4/29-5/4)ながらも館林駅⇔つつじが岡公園、つつじが岡公園⇔トレジャーガーデンの二系統が運行されていたの。料金は ¥500(片道)と、ちょっと高めだけど、ハイデッカー・タイプの観光バスなので快適よ。それに、このシャトルバスがあればこそ、今回の散策にトレジャーガーデンと茂林寺を加えることが出来たの。そうでなければ、館林駅まで戻り、伊勢崎線に乗り換えて茂林寺前駅で下車してからはひたすら歩くと云う、徒に手間と時間ばかりが掛かる移動手段をとらざるを得なかったと思うの。そういう意味では、今回のお散歩はツツジの開花時期でなければ実現不可能なお散歩かも知れないわね。

2. つつじが岡公園 つつじがおかこうえん

名勝・躑躅ヶ岡(躑躅)
指定年月日:昭和9年(1934)12月28日  所在地:群馬県館林市花山町3278番地他
指定の理由:ア、著名な公園及び庭園 イ、著名な花草・紅葉及び鳥獣虫魚の名所
説明:世界一とも評されているツツジの名園で、城沼(じょうぬま)の南岸に位置しています。館林城はこの城沼を天然の要害として築かれました。伝説に依れば、近世初代館林城主・榊原康政がこの地にツツジを植えたのが起こりと云われていますが、それ以前の古文書に躑躅ヶ崎と云う地名が見られ、古くから野生のヤマツツジが密生していたものと考えられています。

近世の歴代城主により手厚く保護・増植されてきましたが、明治以後、民間払い下げなどによって一時荒廃したこともありました。その後関係者の努力により復興し、昭和9年(1934)、名勝に指定され、現在に至っています。この名勝を含む園内には、樹齢800年を超えると考えられる樹高5mに達する古木をはじめ、約一万株のツツジが植えられています。特に、ヤマツツジ系やオオヤマツツジ系、キリシマツツジ系のツツジには古木や巨樹が多く、珍しい品種も数多くあります。ヤマツツジの巨樹群が自然形のまま保存されるなど、歴史的・学術的にも貴重なもので、シーズンには、紅色や淡紅色、紫色などの花が全山燃えるように咲き誇ります。〔 以下省略 〕 文化庁・群馬県教育委員会・館林市教育委員会

ここでは園内に咲いていた遅咲きのツツジを紹介していますが、園内には他にも多くの種類のツツジが植栽されているの。 館林つつじが岡公園ガイド にはそのツツジの種類を初め、イベント情報なども掲載されていますので、お出掛けの前に忘れずにチェックして下さいね。尚、このつつじが岡公園ではツツジの開花時期に限り入園料( 満開前後:¥310 満開時期:¥620 ) が必要なの。聞いたところでは今年(2016)は一週間前が見頃だったけど入園料は ¥310 だったそうよ。残念ながら、ξ^_^ξが訪ねたときには既に盛りを過ぎていたにも関わらず、しっかりと ¥620 とられたの。(^^; 開花時期が予想から外れた場合にはこの限りでは無いみたいなので、入園料はツツジの育成協力金として大目に見ましょうね。

ところで、何とか読むことは出来ても、とても書けそうに無いのが躑躅よね。それに、ツツジは樹なんだから漢字にするなら足偏じゃなくて木偏にしてもらいたいところよね。調べてみると、実は、この躑躅は宛字なの。お隣は中国の昔のお話しなのですが、飼っていたヒツジが毒性のあるツツジの葉を間違って食べてしまい、足踏みをしてもがき苦しみ蹲ってしまったの。元々の躑躅はそのときのヒツジのもがき苦しむ様子を表したもので、読みにしても「てきちょく」と訓んでいたのですが、いつの頃からかその故事を以てツツジに躑躅の字が宛てられるようになったのだとか。ツツジは樹なのに足偏の漢字が使われている理由がこれでようやく納得ね。因みに「てきちょく」と訓んだ場合の意味は「行っては止まり、行っては止まりして仲々進まない or トントンと足踏みをする」状態のことを云うのだそうよ。良かったわ、これからは躑躅状態と書かれていても「つつじじょうたい」と読まずに済むわ。(^^;

今では国内有数のツツジの名所として広く知られるつつじが岡公園ですが、実は、日本最古の公園でもあることは余り知られてはいないみたいね。明治6年(1872)、太政官布告で「社寺其ノ他ノ名区勝跡ヲ公園ト定ムル件」が制定されたのを受けて、このつつじが岡が公園に指定されたの。古くは花山とか躑躅ヶ崎と呼ばれていたつつじが岡ですが、そのルーツを辿ると江戸時代の寛永年間(1624-44)に当時の館林藩主・榊原忠次が花見塚(後述)に植えられていたツツジをこの地に移植したことに始まるとされているの。その後、館林藩主となった徳川綱吉が日光の山中に咲いていたツツジを移植するなどして、歴代藩主が保護するところとなり、何と、最後の藩主を務めた秋元家に至っては「一枝を折る者は一指を切る」と云う厳罰を以てツツジを保護、開花時期には上下合わせて6人もの役人を派遣して警護するなどの徹底ぶりよ。

But 明治維新を迎えるとそのつつじが岡も民間に払い下げられ、1,000余株あったと云うツツジも相当数が伐採されて700株程になってしまったの。と云うのも、薪や炭の材料となるナラ・クヌギ・クリなどの木が代わりに植えられるようになったの。単なる雑木林へと姿を変えつつあるつつじが岡の窮地を救ってくれたのが当時の県令・楫取素彦で、明治13年(1880)、郡長の案内で視察に訪れた彼はその荒廃を嘆き、復興を命じたの。そうして明治18年(1885)に復興開園式が執り行われ、躑躅ヶ岡と命名されたの。つつじが岡に改められたのは戦後のことですが、戦時中には植栽されていたツツジの樹を木炭にする計画も持ち上がっていたのだとか。そんな時代は二度と来て欲しくは無いわね。

と云うことで、一般的には寛永年間(1624-44)の榊原忠次に依るツツジの移植を以てつつじが岡の起源とするのですが、【関八州古戦録】や【上野國風土記】には躑躅ヶ崎や躑躅池の名で登場し、それ以前に既に野生のツツジが自生繁茂していたことが誌されているの。

更に伝説では、館林城初代城主の榊原康政に「お辻」と云う側室がいたのですが、容姿端麗にして康政の寵愛を一身にあつめたことから正室や腰元達に妬まれ虐待されていたの。「お辻」はその責苦に堪えきれずにとうとう侍女の「お松」と共に城沼に身を投げてしまったと云われ、時に慶長10年(1605)のことと伝えられているのですが、彼女の死を哀れんだ里の人々は「お辻」が生前愛していたと云うツツジ一株を城沼の南岸にある龍燈の松の傍らに植えてその霊を慰めたと伝えられているの。

勾当内侍遺愛のツツジ 勾当内侍遺愛のツツジ

後の寛永4年(1627)、榊原忠次は当時領内だった新田郡武蔵島村の花見塚 ※注)に数多く植えられていたツツジを僅か7株だけを残して808株をこのつつじ園に移植&拡張して広く一般に開放したと伝えられているのですが、その花見塚に植えられていたツツジと云うのが、新田義貞の愛妾・勾当内侍(こうとうないし)遺愛のツツジだと云われているの。園内では樹齢800年と云うヤマツツジの古木が「勾当内侍遺愛のツツジ」として紹介されていますが、その内の一株と云うわけ。

※注)  花見山とも。【南北朝新田覚心密記】に依ると、新田義貞は愛妾・勾当内侍のために所領の南田嶋郷に何と、東西100間、南北300間!もの御殿を新築しているの。仮に一間を1.8mとすると100ha規模となり、些か誇張の感は拭えないのですが、邸内に遠近から数多くのツツジを集めて植栽し、花見塚と称したと云われているの。その花見塚ですが、宝暦元年(1751)の火災で跡形も無くなったと伝えられているの。But 各地に残されている勾当内侍に関する伝承の多くが後世に付与されたものであるように、花見塚と勾当内侍遺愛のツツジに関する逸話もまた伝説の域を出ない作り話なのかも知れないわね。とは云え、ツツジの艶姿の向こうには「お辻」や勾当内侍の妖艶な立ち姿が見え隠れしているようにも見えるわね。

ここで紹介しきれなかったツツジの画像を、景観を含めてエリア毎に纏めてアップしておきますので御笑覧下さいね。
But 見頃を過ぎて茶色く褪色したツツジも写りますので、色彩、画質共に期待しないで下さいね。

名勝・躑躅ヶ岡(旧公園)

ドサクサに紛れて藤の花も・・・(^^;

見本園

園路(城沼畔)

花山日本庭園池

再び園路(城沼畔)

あなたも、将軍徳川綱吉公だワン!!
徳川幕府第五代将軍綱吉公の治めた元禄の世は、経済・文化・学問とも大いに栄えた時代でした。その綱吉公が将軍になる前、当時の館林藩二十五万石を二十年間、藩主として治めていたことから、その華やかな元禄時代のような元気を館林から発信することを目的とした事業の一環として設置致しました。館林商工会議所青年部

お出掛けの際には忘れずにこちらで記念撮影を。(^^;

新公園

3. 城沼つつじ緑道 じょうぬまつつじりょくどう

つつじが岡公園の前に広がる大きな湖沼が城沼(じょうぬま)で、対岸(南北)までの距離は200m足らずなのに、横幅(東西)は4km近くあるの。嘗ては要害堅固な城として知られた館林城の濠の役目を担っていたことからの呼称ですが、一部が埋め立てられたとは云え、それでもこの広さよ。印象としては沼と云うよりも湖よね。その城沼の外周に沿う形で一周約5Kmの城沼つつじ緑道が設けられていて、絶好のお散歩コースになっているの。

実際に歩いてみると、お散歩しているのは地元の方と覚しき方々ばかりでしたが、東側ではツツジの植え込みがあり、満開のツツジが迎えてくれたの。ツツジの他にも桜並木が続きますので、お花見の季節には城沼の佇まいと相俟って素敵な景観を見せてくれそうね。当初の予定では多くの時間をつつじが岡公園でのツツジ観賞に宛てていたのですが、見頃を過ぎたツツジが多くて結果的にあっという間の短時間(笑)で終わってしまったの。そこで、この城沼つつじ緑道を辿りながら、城沼の畔に建つ寺社を訪ねてみることにしたの。これが、個人的には大正解だったの。(^^;

4. 善導寺 ぜんどうじ

最初に訪ねたのがこの善導寺ですが、境内に足を踏み入れて最初に驚かされたのがその広さなの。確かに門柱には関東十八檀林や明治天皇勅願所とあり、由緒ある寺院であることは窺えたのですが、建物の悉くが新しく異な印象を受けたの。ξ^_^ξはてっきり近年再興されたものと独り合点していたのですが、改めて縁起を読んでみると、館林城初代城主の榊原康政縁の寺院でもあり、そのお墓があることなど、館林の歴史を知る上でも欠かせない存在で、館林駅前の開発に合わせて現在地に移転してきたことを知ったの。他力本願で恐縮ですが、先ずは左掲の山門脇に掲示されていた力の籠もった (^^; 縁起を転載しておきますので御参照下さいね。

〔 終南山見松院善導寺 〕  群馬県館林市楠町3692番地 宗派:浄土宗 所依の経典:浄土三部経
【 開創から明治まで 】  当寺は、第43代元明天皇 和銅元年(708)行基菩薩によって開創された。第82代後鳥羽天皇 建久4年(1193)3月 頓阿見性法師、行基菩薩の旧跡を偲び草庵を修建して終南山の鍾馗に擬え鎮守とし、浄業専修し、久しく住した。第91代後宇多天皇 建治2年(1276)10月 白旗流の祖、寂恵良暁上人により再興され、今日の基となる大伽藍となり一向専修の道場として、滋に初めて終南山見性院善導寺と呼称し、以後浄士宗に属する寺院となった。良暁上人以前は単に行基寺とか見性院と呼ばれて来たと云う。

以来、300余年間、代々の領主(由良氏・長尾氏・赤井氏・北条氏等)当寺を令法久住の檀林として特に庇護し、山門に制札を掲げ軍兵等の狼藉を禁じたが、元亀・天正の頃、下克上による戦乱東西に広がるや、当寺も荒れるに任されるに至った。後陽成天皇 天正18年(1590)徳川家康公四天王の一人、榊原康政候館林十万石に赴任するや、広範囲に亘る地域開発に着主した。時同じ頃、学徳兼備の高僧、幡随意上人は予てより行基菩薩開榛の勝地・白旗流流祖建堂の再興を念願としていたが、康政候篤く上人に帰依し、当寺域を谷越の地に移し本堂を初め七堂伽藍並びに付属堂宇を整備し、上人を中興第一世と定め榊原家の香華寺とし百石を付与された。後水尾天皇 元名元年(1615)家康公は、旧姓松平の「松」に十ハ公の嘉誉在るに因んで関東に18の檀林選定に当り、その一に加えられ、これを機に当寺の院号・見性院を現在の見松院に改められた。

後光明天皇 正保元年(1644)榊原家三代忠次侯館林在城28年、奥州白河への移封の折徳川三代将軍家光公より供田100石と諸役免除の御朱印を賜り、以来、各将軍時々の城主当寺を遇すること厚く、以後200余年間、歴代住職法燈護持に尽力し檀林としての責務を果たし教化当地に普く及ぶに至った。然しながら幕末の動乱・幕藩体制の崩壊・廃佛毀釈等によりその影響大なるものがあり次第に衰微することとなった。明治維新を迎え漸く体制も整い近代国家への脱皮と共に社会秩序も平穏となり、大正・昭和時代へと変遷したが、この間当寺は常に地域社会の要望と共に歩み続けてきた。

【 明治以降の歩み 】
*明治 2年(1869)  明治天皇より勅願所の綸旨を下賜される
*明治40年(1907)  寺域の一部に日清製粉を誘致
*明治末〜大正期  東武鉄道の誘致、境内中央部に館林駅建設を有志と共に図り、当地域の経済文化の発展の基となした。

昭和に入り、昭和4年(1941)に始まる世界的規模による経済大恐慌、昭和12年(1937)日中戦争、同16年(1941)第二次世界大戦勃発、同20年(1945)8月15日終戦、同時に連合軍による国内進駐、連合国最高司令官総司令部(GHQと略称する)の設置、続いてGHQの指令により、諸制度の改革が行われ、就中農地解放は広大な境内敷地・建物等、維持管理の為の基本的財源を失うこととなり、修理すら出来ぬありさまで茫茫として荒れるに任せる状態であった。現住職(第77世英誉)昭和34年(1959)、先住忍誉上人よりその職を承継するや、再建の方途につき鋭意努力し当寺山門外に在った不動・弁天両堂を山門内に移転・応急の修理を施し、長年通行の用に供し分断され、境内として使用し得ない境内地等の整理・本堂大屋根の修繕等を行い、残る境内地三千余坪に、保育園舎の改築・庫裡の改築等手掛け、一旦は旧地での再建に踏み切った。

薬師堂 不動堂 弁天堂 鐘楼

然るに、昭和54年(1979)都市近代化を推進する館林市より「館林駅広並びに駅前通り線拡幅事業」化に向けての協力要請があり、当寺役員会は諸事熟慮の結果公共に立って旧地(館林駅前)より全面移転することを決議した。ここに昭和大移転再建事業は発足、昭和58年(1983)11月当地において地鎮・着工式を挙行、平成2年(1990)秋、落慶遷座式を目標として本事業を推進し成満したものである。本移転再建に当たり特に留意したことは、境内建物・彫像・彫刻類について破損甚だしきものであっても何とか修復出来るものについては、先人の文化的遺産として後世に伝えるべく努力すること・彩色については400年前の色調を忠実に再現する二点とした。

【 事業の大要 】
*当境内地の対象となった開発地全域に付き、土地改良を行った。
*本堂は鉄筋コンクリート造、屋根は銅板葺きとし内陣のみ旧内陣を修復して400年前の形式を再現した。
*山門・不動堂・薬師堂・弁天堂・富士見門は、ほぼ旧来のとおり復元した。
*観音堂・鐘楼・庫裡・収蔵庫・閼伽門・竜井等は新築とした。
*勢至堂は旧境内庫狸のお内佛間と玄関唐破風を利用して新築した。
〔 規模 〕境内建物:本堂他16棟  境内面積:20,531m²  墓苑面積:3,394m²
平成元年(1989)5月吉日 英誉記

本堂を左手に回り込むとあるのが榊原家のお墓で、館林初代城主榊原康政をはじめとする縁故者の墓塔が建ち並んでいるの。左掲の大きな宝篋印塔が榊原康政の墓塔ですが、その左手で小さく脇侍するかのように佇む墓塔は康政の家臣・南直道のもので、彼は康政が没した二日後にこの善導寺で切腹して殉死を遂げているの。塔身には阿弥陀三尊の種子が刻まれ、慶長十一丙午季腹譽道切禅定門五月十六日と誌されているの。ちょっと生々しすぎる法名ですが、死した今も尚、主君・康政に近侍する姿には思わず目頭を熱くさせられるわね。

〔 群馬県指定史跡 榊原康政の墓 〕  榊原康政は天文17年(1548)三河国上野(現在の愛知県豊田市)に生まれ、幼名を亀、後に小平太と名乗り、12歳の時徳川家康の家臣となりました。初陣は永禄6年(1563)上野の合戦で、この時手柄をたて、家康から一字賜って康政と名乗り、以後姉川・三方ヶ原・長篠・小牧・長久手などの合戦を歴戦し、徳川幕府創立の功臣として、後に井伊直政・本多忠勝・酒井忠次と共に徳川四天王の一人に数えられています。天正18年(1590)家康の関東入国に際し、10万石を領し館林城主となりました。館林での業績は、城の拡張、城下町の整備、利根川・渡良瀬川の築堤を初め、日光脇往還を新設するなど、土木事業に於いて顕著で、郷土館林の礎を築きました。

ここにある墓は、初代康政をはじめ、榊原家関係者5基の墓石が並び、墓所を構成しています。群馬県(上野国)特に館林藩成立前後の歴史や、大名墓の研究、大名と寺との結びつきなどを知る上で大変重要なものとして昭和28年(1953)、群馬県の史跡に指定されました。
 生年没年墓塔法名 
南直道不詳慶長11年(1606)宝篋印塔 H:1.93m腹誉道切禅定門康政の側近で殉死者
榊原康政天文17年(1548)慶長11年(1606)宝篋印塔 H:5.46m養林院殿上誉見向大禅定門官位は従五位下式部大輔
大須賀忠正天正9年(1581)慶長12年(1607)五輪塔 H:2.72m華馨院殿泰誉叟安大居士康政の長子で遠江国横須賀城主
榊原康勝天正18年(1590)元和元年(1615)五輪塔 H:2.73m心光院殿長誉了英大禅定門榊原家二代
花房氏不詳承応2年(1635)宝篋印塔 H:4.37m周光院殿葉誉青荷大姉康政の側室、二代康勝の生母

墓の解体復元に伴った発掘調査で、康政・康勝・花房氏の墓から火葬にした遺骨が確認されました。
特に康勝の遺骨は伊万里焼の小壺に納められていました。館林教育委員会

案内板の引用転載に際しては追補&省略に加えて体裁も変更していますので御了承下さいね。それはさておき、最右端に建つ墓塔が花房氏のものですが、この場合の花房氏とは「花房氏の女(娘)」の意で、彼女の実際の名前は分からないみたいね。当時の女性の多くは「〜女」と記されるだけで、実名が記録に残される例は極めて稀なの。榊原家二代目の康勝の生母にしてこの扱いとは女性としては悲しい時代ですが、だからと云って彼女が榊原家で冷遇されていた訳ではなさそうね。と云うのも、彼女は康政の側室であって正室ではないの。この榊原家の縁故者に列せられているのも偏に榊原家二代目の康勝の生母と云う立場に負うところ大のハズで、生前は丁重に扱われていた証でもあるわね。一方、本来は列座していても不思議ではないはずの正室(大須賀康高の娘)のお墓はここには無いの。どこで眠るのかしらね?

御案内の最後になってしまいましたが、この善導寺は”つつじの館林七福神めぐり”の対象寺院の中で毘沙門天が祀られる寺院になっているの。山門右手に掲示されていた案内板の記述を転載しておきますが、掲載されていた館林七福神めぐり案内図には<コース長約25Km>とあるの。余程の体力と気力を以てしても一日での完歩は無理よね、これは。福禄寿が祀られる雷電神社に至っては、今回のコースからは完全に離れているのでカットよ。なので、今回の散策では四神(毘沙門天・寿老人・弁財天・大国さま)のみで終えていますので御了承下さいね。因みに、雷電神社は館林七福神めぐりと称してはいるのですが、お隣の邑楽郡板倉町にあるの。やっぱり、無理でしょ。(^^;

〔 毘沙門天 〕  此の天は、もとインドの神で「多聞天王(たもんてんのう)」の事。仏法と仏法に帰依するものを守護する四天王(四人の神)のうちの一人で、「信奉する積善の人に無量の福徳を与えて下さる神」である。毘沙門天(王)は、閻浮提(えんぶだい・古代インドの宇宙説で、須弥山(しゅみせん)を中心とした世界・私たちの住んでいる世界の事)の北方の護衛に当たり、仏法を護持し、財宝富饒(富みて豊・富裕に同じ)の善神としてインド及び西域(中国の西部)において広く信奉され、経典には多聞天王自ら神呪(言葉では説明出来ない特殊な霊的な力のある秘密語・呪文に通じる)を説き、「この呪を誦持(常に唱え祈ること)すれば常に災厄なく、如意宝珠及び伏蔵(地中に秘め隠された財宝)・神通自在を獲得し、所願皆成ぜしめん」と誓われた事が記されている。又時に、戦勝の神としても崇拝された所から、戦国時代には多くの武将が守護神として念持した。当善導寺に伝わる毘沙門天は、新田義重侯の守り本尊として日夜礼拝念持していたと伝えられている。此の天の真言(祈願のとき唱える文句・呪文の事)は オン ダンナダラヤ ソワカ

毘沙門天の画像は Harumi's Home Page さんに掲載されていたものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・

5. 城沼つつじ緑道(再) じょうぬまつつじりょくどう

善導寺を後にして再び城沼の畔を歩いて次の目的地・善長寺へと向かいましたが、善長寺の門前には渡船乗り場があるの。つつじまつりの開催期間中の限定ながらも、つつじが岡公園とを結ぶ渡船が運航されているの。つつじが岡公園⇔善長寺 とは別に、つつじが岡公園⇔尾曳稲荷神社 の渡船もあるので、余り歩きたくはないわ−と云う方にはお勧めよ。善長寺、尾曳稲荷神社とも渡船乗り場からは至近距離にあるのでアプローチが楽よ。ツツジを見終えた後にでも、渡船を利用してちょっと足を延ばしてみませんか?

6. 善長寺 ぜんちょうじ

当山は大永3年(1523)に大雲惟俊大和尚により現在の地に開山されました。開基家は館林城主赤井孫七郎家範侯でした。その後江戸時代になり、同じく館林城主榊原忠次侯(後に松平忠次侯)が、御生母・祥室院殿のご供養のために中興開基家となって、伽藍の整備を行われました。因みに、忠次侯は後に館林城主より姫路城主に移封されております。創建当時の諸堂伽藍は、文政8年(1825)に火災に遭い、惜しくも全て焼失しましたが、図面に焼失前の伽藍配置が詳しく記録されておリ、それによって開山当時の規模の壮大さを窺い知ることができます。更に第二次世界大戦末期、日本は極度の物資不足に陥り、、当寺も含め多くのお寺の梵鐘が無念の内に供出されていきました。

平成14年(2002)は大本山永平寺御開山、永平道元禅師の750回大遠忌の年に正当いたしました。この度の大遠忌の主題は「慕古心(もこしん)」です。意味するところは、道元禅師のお教えに戻りましょう−と云うことであります。お寺を昔の姿に戻すのも、この主題に添う報恩行と考えられます。ここに、寺檀一致協力して、檀信徒の浄財を募り、この鐘楼堂の再建が結実致しました。この梵鐘が尽未来際、私達の心の拠り処となりますことを、切に願うものです。平成15年(2003)11月3日

縁起を記した案内板でも無いかしら−と探してみたのですが見つからず、代わりに「鐘楼堂建立の記」を引いておきましたが、善長寺に伝えられる【源姓赤井系図】に依ると、大永3年(1522)に赤井孫七郎家範が、戦死した兄の源次郎信家の菩提を弔うために創建したのが、この善長寺だとされているの。因みに、信家の法名は善長寺殿舜庵全尭大居士だそうよ。それはさておき、開基・中興開基ともに館林城主とあれば、嘗ては七堂伽藍が建ち並んでいたのかも知れないわね。参道脇にはそれを思わせるような、一抱えもありそうな大きな瓦が屋外展示されていましたが、嘗ての本堂にでも使われていたものかも知れないわね。その大きさからすると、その瓦を載せた建物もまたかなりの豪壮さを有していたであろうことが察せられるわね。

〔 お辻・松女供養碑 〕  榊原康政(徳川四天王の一人・館林城主)の愛妾お辻の方は寵愛を一身に集めていたが、それを嫉む他の妻妾の仕打ちに堪えられず、侍女お松を伴い城沼に身を投じて自殺したという伝説が残されています。康政はその死を悼んでお辻を弔うために沼の丘に植えられた一株のつつじが今日の県立つつじヶ岡公園の起こりとも云われています。巨法山善長禅寺

この善長寺を訪ねる切っ掛けとなったのがつつじが岡公園で見掛けた「お辻が身を投げた城沼:初代館林城主・榊原康政にお辻と云う側室がいました。城主の寵愛を一身に集めたことから正室の妬みとなり、正室に虐待されました。お辻はその責めに耐えきれず、この城沼に身を投げ死を遂げました。時に慶長10年(1605)のことと伝えられています。ここから見える城沼北岸の善長寺には、お辻と共に死んだ侍女・お松の二人の供養塔が建てられています」と記されていた案内板なの。その二人の供養塔を是非この目で見てみたいと思ったの。帰宅後に改めて調べてみると、善長寺の過去帳にはお辻&お松のことが

泥蓮院殿浄養妙香大禅定尼 お辻の方
松室貞心禅定尼 こしもと まつ女(松女)
沼水死依位より尊牌者当寺以納む

−と、記されているのだとか。時に慶長10年(1605)3月6日のことだとされてはいるのですが、実際には年号の記述は無いそうよ。過去帳は何度か書き換えられているみたいなので、その際に単に書き忘れたものかも知れないわね。それにしても、伝説と云う割には供養塔が建てられていたり、過去帳に記述があったりするなど、摩訶不思議な世界よね。ξ^_^ξが思うには、やはり、伝説の元になるような出来事が実際に起きたのではないかしら。実は、お辻伝説にしても密かに別のお話が伝えられていたりするの。【古事記】や【日本書紀】に記される弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水伝説にも似たお話で、そこではお辻も側室ではなくて榊原康政の正室として語られるなど、巷で噂される一般的なお辻伝説とはかなり趣を異にするの。紹介記事を見掛けませんので、見知らぬ土地の咄しの面白さ−と云うことで御案内してみますが、ここでは脚色(デッチ上げとも云う)を加えて昔話風にアレンジしてみましたのでお楽しみ下さいね。題して、お辻生贄伝説よ。(^^;

とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども、この館林に最初にお城が造られた頃のお話しじゃ。その館林城の初代城主をしておったのが榊原康政と云う殿さまじゃったが、お辻と云う名の奥方さまがおられてのお。ある日のことじゃった、その奥方さまが腰元達を引き連れて城沼で船遊びを催したそうじゃ。奥方さまも興にのったと見えて、皆して三味や笛太鼓などの楽に合わせて歌い舞い踊り、時が経つのも忘れかけておったそうじゃ。ところがじゃ、船が沼の真ん中辺りに来た頃のことじゃったそうな。先程まではゆるりと水面を滑っておった船が急に動かんようになってしまってのお、船頭も櫂を巧みに操りながら艪に渾身の力を込めて水面を蹴ってみたんじゃがビクともせなんだ。そうこうしている内に、陽も西に傾きかけてきおってのお、一向に動き出す気配を見せない船の様子に、腰元達の間にも不安がよぎりはじめたそうじゃ。

やがて腰元達の中からは船が動かぬのはこの沼に住むと云う龍神のせいかも知れぬ−と云い出すものがおってのお、その者が云うには、その沼の主たる龍神に見込まれたものがこの船に乗っているがためにこの場に引き留められていると云うことじゃったが、誰がその龍神に見込まれた者かは誰にも分からんでのお。皆して話しおうた結果、龍神の神意を推し量るべく自分達の持ち物を沼に投げ入れてみることにしたそうじゃ。沈んだ品の持ち主こそ龍神に見込まれた者で、その者が犠牲となって沼に身を沈めない限りは船は動かぬであろうし、このままではいずれ沈没して沼底に吸い込まれてしまい、誰一人助かる者も無かろう−と云う話になったそうじゃ。

そうして皆して自分の持ち物を恐る恐る沼へと投げ入れると、息を凝らして水面を見つめておったんじゃが、はたして腰元達の持ち物はどれ一つとして沈む気配が無くてのお、お辻の方さまが投げ入れた品だけが水面を割ると沼底深く沈んでいってしまったそうじゃ。これには腰元達もことばを失うて互いに顔を見合わせるばかりじゃった。やがて腰元達が見守る中、意を決した奥方さまは身を翻すと、ざんぶとばかりに沼に身を投じてしまったそうじゃ。すると、はたして腰元達の乗った船は何事も無かったかのようにスルリと動き出したそうじゃ。お辻の方さまに助けられた腰元達が急ぎ城に立ち返り、ことの一部始終を殿さまに知らせたんじゃが、その話しを聞かされた殿さまは殊の外嘆き悲しんでのお、沼の畔にツツジを植えて奥方さまの霊を弔ろうたそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども。

いかがでしたでしょうか、お楽しみ頂けたかしら。目の前に広がる城沼は、沼底には龍神が潜むかも知れないなどと、およそ想像することすら出来ないくらいの穏やかな表情を見せていますが、天然の要害として館林城を堅固していた当時の城沼は、現在のそれよりもかなり広かったみたいね。西側は大分埋め立てられてしまったようですが、東側には今も古城沼が残されているの。当時の城沼は、その広さに加え、伝説を「さもありなむ」と思わせるだけの荒々しさも持ち合わせていたみたいなの。残念ながら、見て来たわけではないので、確かなことは分からないけど。(^^;

〔 寿老人 〕  七福神の一。長寿を授ける寿神と云われ、杖を携え、肩には桃の実を乗せておられる。瑞祥(めでたいしるし)のお像で長寿の願いをお聞きになると云われております。当山

最後になりましたが、境内の一角には「館林七福神めぐり」の一神・寿老人が祀られていますので、忘れずにお詣りして下さいね。寿老人は元々は中国の道教の神さまで、南極老人星の化身と云われ、不老長寿を司る神さまなの。中国は宋の時代に実在した人物(老子の化身とも)で、天に昇り、寿老人になったとも云われているの。

寿老人の画像は Harumi's Home Page さんに掲載されていたものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・

お辻生贄伝説で触れた弟橘媛の入水伝説が気になる方は、
「三浦半島・観音崎」の 走水神社 の項を御笑覧下さいね。CM でした。(^^;

7. 尾曳稲荷神社 おびきいなりじんじゃ

〔 尾曳稲荷神社創建と由来 〕
祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)・誉田別命・素戔鳴尊・日本武尊
第105代後奈良天皇の御代、第12代足利義晴将軍の時、天文元年(1532)、城主・赤井照光の創祀にかゝる。大袋城主の赤井山城守照光は享禄元年(1528)正月、舞木城主の許へ年賀の途中、子供が狐児を捕え殺そうとしているのを救ってやった処、その夜更一老翁が顕れて、子供の助かった礼を述べ、照光の居城大袋よりも館林が要害堅固の土地であると説き、明晩御案内申し上げようと云い終わると姿を消した。

翌晩果して老狐が顕れ尾を曳て先導し、字侍辺に始まり字加法師に来たりて夜が明けた。別れに臨み、もし築城完成の暁は永く当城の守護神に使えよう、私は稲荷の神使新左衛門であると云い終り形を没した。照光はこれに依つて築城し、その名も尾曳城と号し、城中に稲荷郭の一郭を設け、社殿を造営し尾曳稲荷神社を奉祀した。〔 一部修正加筆す 〕

境内に掲示されていた由来記を転載してみましたが、逸話は後程改めて昔話風にアレンジした上で紹介しますので、今少しお待ち下さいね。(^^;

植え込みの中には「田とすかれ畑と打れてよしきりもすまずなりたる沼ぞかなしき」と刻まれた田山花袋歌碑が建ち、参道脇に設けられた手水舎には徳川綱吉ゆかりの水鉢も置かれていたの。説明には「この水鉢は徳川綱吉が館林城の大改修を行った際、石垣等の工事に従事した江戸の石工らが寛文5年(1665)に完成記念として寄進したものであると伝えられる」とあり、綱吉が館林城の大改修を行った際の記念碑でもあると云うわけ。

お待たせしました。尾曳稲荷神社の由来記を昔話にしてお届けしてみますが、当社の他にも、老狐が初めて尾を曳き始めた場所には初曳稲荷神社が、夜が明けてしまったと云う場所には夜明稲荷神社があるの。逸話からは稲荷神が館林城の守護神として祀られたことが窺えるのですが、稲荷神と云えば五穀豊穣や商売繁盛などの御利益をもたらして下さる恵みの神さまよね。それがどうして守護神として祀られたのか不思議に思うわよね。実は、稲荷神は産土神とみなされてもいたの。産土は「うぶすな」と読み、産土神は豊かな恵みをもたらしてくれる大地に宿る土地神さまで、武士の間ではその産土神を稲荷神として祀るようになり、後に屋敷神としても祀るようになるの。

一所懸命のことばがあるように、武士にとっては安堵される土地こそが全てよね。なので、武士がその土地に宿る神さまを祀るのは必然よね。更に、屋敷神としての稲荷神が城などの守り神としてもみなされるようになると、やがて武士達はその稲荷神に武運長久を願うようにもなるの。一方で、商人や町人は稲荷神に専ら商売繁盛を祈願するようになるのですが、お稲荷さんもその時々の人々の要望に応じて姿を変えてきたと云うわけ。前置きが長くなってしまい、ごめんなさいね。改めて物語のはじまり、はじまり〜。(^^;

とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども、この城沼の南に大袋城と云う大きな城があってのお、その城主をしておったんが照光公じゃった。それはある年の正月のことじゃった。照光公が僅かばかりの供を従えて舞木城主の許へ年賀に向かう途中で近藤林に差し掛かったときのことじゃ。村のこども達が道端で捕まえた小狐をいじめておってのお、よくよく見れば未だ子狐で、打ち据えられて身を震わせている子狐の姿を哀れに思うた照光公はこども等に銭を与えて子狐を解き放つよう諭したそうじゃ。果たしてその夜、照光公の夢枕に一人の老翁が現れると「我は稲荷神が眷属の新左衛門なるぞ。きょう日、汝が我が児狐を助けくれたる恩は終生忘れじ。なれば一つ助言仕つるべし。沼の北岸・館林は要害堅固の地なり、汝速やかに城を移し築くべし。明晩改めて案内参らせ候」そう告げると姿を消したそうじゃ。

半信半疑の照光公じゃったが、果たして次の日の晩のことじゃった。照光公の前に老狐が現れると尾を曳きながら築城すべき勝地へと案内したそうじゃ。そうして加法師に至り来た頃に夜が明けかかると、老狐は「我が主・稲荷の大神は築城完成の暁には当地に留まりて汝が城を永く守護せんと欲す。なれば速やかに社を建ててこれを祀るべし」そう云うと、白みかけた空に吸い込まれるようにして姿を消してしまったそうじゃ。不思議な出来事じゃったが「稲荷神のお告げとあらば是非もなし」そう思うた照光公は早速城を館林に移し、名も尾曳城としたそうじゃ。そうして城の鬼門にあたるこの場所に社を建てて稲荷神を祀ったと云うことじゃ。それがこの尾曳稲荷神社と云うわけじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

社殿の背後に回り込むと、石段を下った先には弁財天が祀られていたの。

〔 つつじの館林七福神めぐり 〕  花の尾曳弁財天=市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)
七福神は福徳を授ける神と古来より信仰され、インド・中国・日本などの神々を組み併せた国際色豊かな福神です。弁財天(妙音楽天)は人の汚れを払い、雄弁と財宝を授け、子孫を恵み、又学問と技芸の神であり、琵琶はこの神の象徴である。その本源はインド神話の河川の神格化であり、端穂国日本では水を司る神として信仰された。河川は人間生活の基礎、白蛇はきれいな水と弁天様のシンボル「弁天様だ、殺すなと母はとめ」(古川柳)。昔、境内と続いていた城沼はウルム氷期(約二万年前)台地を削った鶴生田川の浸蝕谷。古くは、この沼の浮島に祀られ、昭和3年(1928)江島神社から勧請、平成7年(1995)上屋新築神紋を授与された。

弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。Saras は水を、Sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。川の流れの妙なる水音は人々の心を豊かにすることから福徳を齎らす女神となり、穀物の豊作を齎らす豊穣の女神ともなるの。やがてそのサラスバティーが同じく女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。その後の経緯は既に他の頁で幾度か紹介していますのでここでは省略しますが、弁才天信仰が庶民の間にも広まるようになると、現世利益的な側面が強調されて、福運の最たるものとして金銀財宝が持ち出され、弁才天は弁財天として更にパワーアップするの。弁才天は金銀を纏う前、弁財天は財宝を手にしてからね。


尾曳稲荷神社を後にして再びつつじが岡公園に戻りましたが、ツツジまつり開催期間中の限定ながら、つつじが岡公園とトレジャーガーデンを結ぶシャトルバスが運行されていたの。そのバスを利用すれば、トレジャーガーデンを観た後に分福茶釜の逸話で知られる茂林寺へも容易に歩いていけると知り、チャンスとばかりに足を延ばしてみたの。シャトルバスが利用出来ない場合には、一度館林駅まで戻り、伊勢崎線に乗り換えて茂林寺前駅で下車して歩くと云う経路を辿らなくてはならず、ちょっと効率が悪いの。時間が掛かることを覚悟すれば出来ないことはないけど、ワン・コイン(¥500)で時間と手間が節約出来るのはうれしいことよね。と云うことで、今回の散策のコース採りはこのシャトルバスの運行期間中に限られてしまいますので、追体験してみようかしら−と思われた方はご注意下さいね。因みに、ξ^_^ξが訪ねた平成28年(2016)は 4/24,29,30 & 5/1,3,4 のみの運行だったの。

8. 東武トレジャーガーデン とーぶ・とれじゃーがーでん

バラ

頂いてきたパンフには「美しきバラと千の花々」とあるように、約80,000m²と云う広〜い園内には4,000種100万株もの花々が植えられているの。園内には主にローズガーデン、芝桜のガーデン、青のガーデン、ブリリアント・ガーデンの四つのエリアが設けられ、中でもローズガーデンは中心的な存在で、季節には1,500品種3,000株ものバラが咲き誇り、芝桜のガーデンでは4月上旬から25万株の芝桜が、青のガーデンでは珍しい青系の芝桜やネモフィラなどが咲き乱れ、また、秋になるとブリリアント・ガーデンでは30万株もの宿根サルビアやウィンターコスモスなどが秋風に揺れる−とのこと。(^^;

アーチ

ξ^_^ξが訪ねたとき(2016)は、つつじが岡公園のツツジまつりに合わせて5/5迄芝桜フェスタが開催されていたの。見頃は過ぎてしまったかも知れないけど、多少は咲き残っているのではないかしら−と少しは期待していたのですが、つつじが岡公園のツツジ同様に、今年(2016)は温かな日が続いたせいですっかり見頃を過ぎてしまっていたの。芝桜には遅すぎて、かと云って春バラを観賞するには早すぎて、何とも中途半端なタイミングでの訪問でしたが、それでも園内には多くの花々が咲いていたの。ローズガーデンは更に7つのエリアに分かれていたのですが、バラは咲いていなくてもそれぞれに趣の異なる庭造りがされていて、素敵な空間になっていたの。

東武トレジャーガーデンの詳しいことは WebSite を参照して頂くとして、余り参考にはならないかも知れませんが、ここでは撮りためてきたものの中からエリア毎の景観の幾つかをピックアップして紹介しますね。

♥ Long Border Garden ♥

♥ さくらのトンネル ♥

♥ 水辺のローズガーデン ♥

♥ 芝桜のガーデン ♥   珍しいブルー系の芝桜が少しだけ咲き残っていたの。

♥ Mixed ♥

♥ ネモフィラ ♥

♥ Mixed ♥

ブリリアント・ガーデンと芝桜のガーデンが接するところには
何故か「分福茶釜」のモニュメントが。


〔 分福茶釜伝説 〕  元亀元年(1570)に茂林寺で千人法会が催された際、不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることのない茶釜が存在したことから、この茶釜は人々に福を分け与える「分福茶釜」と名付けられました。そして、この茶釜の湯で喉を潤した者は、開運出世・寿命長久などの功徳に授かると伝えられています。そして今、遙か400余年の時を超え、この地を訪れる人々に幸せを分け与えるために、茂林寺の茶釜と同様の御利益をもつ茶釜としてこの地に設置されました。茂林寺住職 古川正道



余談ですが、嘗てこの場所には「分福ヘルスセンター」と呼ばれるレジャー施設があったみたいね。紆余曲折を経て平成18年(2006)には「野鳥の森ガーデン」として、平成24年(2012)にはザ・トレジャーガーデン館林としてリニューアル・オープン、平成27年(2015)に東武トレジャーガーデンへと名称変更しているの。左掲の画像には円形ドーム状の建物(大浴場施設)が写りますが、現在もレストランの建物として有効活用されているみたいね。

後日、機会を得てローズガーデンで満開のバラの花に囲まれた素敵なひとときを過ごすことが出来ました。
景観と併せてバラの競演を御覧になりたい方は こちら から。以上、CM でした。(^^;

9. 茂林寺沼 もりんじぬま

東武トレジャーガーデンの出入り口からは車道に背を向けて西へと延びる小径を歩いていくと、茂林寺川に架かるこの五号橋があるの。それぞれの親柱には御覧の雌雄の狸と、茶釜に化けたかわいらしい子狸があしらわれているの。その五号橋の先には更に小径が続きますが、茂林寺への近道になっていて、路の両側には御覧のような湿原が広がるの。

〔 県指定天然記念物・茂林寺沼および低地湿原 〕  昭和35年(1960)3月23日指定 群馬県教育委員会
南に利根川、北に渡良瀬川が流れる東毛地方には池や沼、湿原が数多くありました。館林市には現在でも城沼(じょうぬま)、多々良沼(たたらぬま)、近藤沼(こんどうぬま)、茂林寺沼(もりんじぬま)などがあります。茂林寺沼は分福茶釜で有名な茂林寺の北側にあり、沼の周りには湿原が広がっています。この湿原は、平野に残る数少ない湿原として昭和35年(1960)3月、沼と湿原を合わせた約52,000m²が群馬県の天然記念物に指定されています。

10. 茂林寺 もりんじ

茂林寺の名は知らなくても、分福茶釜のお話は日本昔話の一つとしてお馴染みよね。みなさんも子供の頃に一度位は耳にされているのではないかしら。今回の散策の締め括りに、その分福茶釜のお話の舞台でもある茂林寺を訪ねてみたの。くぐり抜けた山門の先には、逸話に因み、沢山の狸像が参道の両側に立ち並ぶの。その多くが酒壺や大福帳を手にしていますが、分福は文字通り人々に福を分け与えることで、並び立つ狸像は皆して訪ね来た人々に福を分け与えようとしていると云うわけ。お酒も適量なら「百薬の長」よね。ダメよ、茂林寺の狸像に勧められたからと云って樽酒を飲んでは。(^^;

境内では茂林寺が古刹であることを物語るかのように、椹(さわら)や羅漢槙などの巨木が枝を広げているの。
本堂に昇殿する前に、それらの巨木の紹介と合わせて、境内の様子を少し御案内しておきますね。



参道を進むと左手に大きな露座の観音像が見えて来ますが、その観音さまを守護するかのように背後には幹回り4.9mと云う、大きな椹(さわら)の樹があるの。樹は観音像の建立に併せて植樹されたものと伝えられ、だとすると樹齢は優に300年を超えていることになるわね。

〔 聖観音 〕  上野国邑樂郡舘林大久保村に高瀬善兵衛直房と云ふ富厚にして信望ある住人あり。それに娘あり。同国川俣村金子茂右衛門重春に嫁せしが、貞享三丙寅年(1686)病に倒れ、元禄戊辰年(1688)に14歳で歿した。法名を凉室妙清大姉と號す。後に住職に鋳佛供養を勧められ、凉室妙清大姉の甥である直房の孫・清右衛門重房を施主として元禄三庚午年(1690)に建立した。鋳造は江戸神田鍋町の太田久右衛門正儀である。〔 一部修正加筆 〕

本堂前の左手に建つ守鶴堂には開山・大林正通大和尚と守鶴和尚の座像が祀られているの。後程改めて分福茶釜の縁起を紹介しますが、そのお話の中に登場する守鶴和尚こそが、実は狸の化身だったのでは−と語り継がれているの。なので、堂前で守護する狛犬もしっかり狸像で、狛犬ならぬ狛狸なら、勿論、奉納グッズも狸像や狸に因むものばかりよ。その守鶴堂の前には柊(ひいらぎ)の木が植えられているの。この柊は茂林寺が創建された際に魔除けのために植樹されたみたいね。今では見掛けることもめっきり少なくなりましたが、節分の際に鬼の侵入を防ぐ意味合いを込めて、玄関先に柊の木枝と鰯の頭が飾り付けられているのを見たことがある方もいらっしゃるのでは無いかしら。松や柊の葉のように、尖ったものには魔除けの効果があると信じられていたの。

替わって、本堂前の右手では羅漢槙の巨木が枝を広げているの。紫宸殿ではないけれど、「左近の桜」に「右近の橘」ならぬ「左近の柊」に「右近の羅漢槙」と云うことで、柊とは対になるこの羅漢槙もまた茂林寺の創建時に魔除けの意味合いを込めて植樹されたものみたいね。因みに、案内板には館林市指定としか記されてませんが、平成7年(1995)には群馬県の指定天然記念物にもなっているの。

館林市指定天然記念物「茂林寺のラカンマキ」  昭和53年(1978)5月25日指定
ラカンマキはイヌマキの変種とされるマキ科の植物です。原産地は中国、雌雄異株で毎年五月頃に花が咲き、一般的に高さは5m、葉は長さが5-8cm、葉の幅が0.5cm程に生長します。葉の幅がイヌマキより狭く短く、葉先は垂れないのが特徴で、庭木として良く用いられます。「茂林寺のラカンマキ」は雌株で、樹勢や保存状態も良く、樹高は約14m、幹の太さは目通りで2.88mあり、ラカンマキとしては群馬県内でも最大級のものです。寺伝によると、葉先が尖っているため、魔除けとして応永33年(1426)に本堂に向かって左側にあるヒイラギとともに植えられたとされ、樹齢は580年(平成18年現在)になります。群馬県教育委員会・館林市教育委員会

境内の御案内を終えたところで愈々本堂へ昇殿して寺宝とされる分福茶釜との御対面とへいきたいところですが、その前に改めてその逸話を紹介しますね。と云っても、お伽話の方はあちらこちらで紹介されていますし、みなさんも良く御存知だと思いますので、ここではそのお伽話の元ネタとも云える格式張った略縁起とやらを紹介してみますね。尚、茂林寺は応仁2年(1468)に小田原の最乗寺28世・大林正通禅師を開山に迎え、館林の青柳城主・赤井正光が開基したもので、大永2年(1522)には後柏原天皇により勅願寺にもなっているの。寛永19年(1642)には江戸幕府三代将軍・徳川家光から23石の御朱印を得るなど隆盛したの。宝物拝観料:¥300 ( 2016 現在 )

茂林寺側では大林正通禅師が来住して小庵を結んだ応永33年(1426)を以て創建としているのですが、それは前茂林寺とも呼ぶべきもので、禅師に帰依した青柳城主の赤井正光が改めて寺地を寄進して伽藍を整備した応仁2年(1468)を茂林寺の創建年代とするのが妥当だと思うの。茂林寺さん、イチャモンつけてゴメンナサイね。

【分福茶釜略縁起】  此の守鶴の茶釡は上野國邑樂郡舘林茂林寺の重寶なり 此の寺七代の住持月舟和尚は 名譽の大譱知識にて千人の大會を執行せられける時 茶堂の役僧參り 茶釡小さくして亊足らぬを悲しく思ひ 守鶴へ願ひ出ければ弌夜の内に何國ともなく攜へ來たり 尤普通の鑵子より大きには見へけれども 流石千人の湯はいかゞと怪しく思ひしに 不思儀に千人へ汲み渡りけるに盡くる亊無く 寺主も太衆も驚き入る 此の亊を守鶴へ語りければ守鶴か曰く さればこそ此の釡弍ツ天竺靈山會上にありて分福茶釡と云て呑めども汲めども盡くる亊無かりき 其の釡を當寺へ引き移し末代の重寶となす

故に此の釡にてたぎる湯に八ツの功徳ありてよき茶を此の釡にて煎り臼にて粉にして懷中する時は 生涯貧苦を免かる 弌には分福 弍には知惠 三には異相 四には文徳 五には武徳 六には無畏 七には愛敬 八には出丗 此の湯心信して弌度脣を潤す輩は八ツの功徳の内弌、弍ツ顯れずと云う亊なし 况や永く飢渇の煩いを免かるゝ亊疑ひ無しと 詞を放て云ければ皆人感じ入りにける 此の亊丗上にかくれなし 守鶴曰く 豫は元來天竺釋迦如來の御弟子也 いて靈山淨土を幻術して説法の真似して見せんと 有つる所に忽ち淨土となりて 其の身は蓮華の座に上り説法し給ふ躰、直に生身の釋迦如來の如く諸人感泪肝に銘じ 南無ふどやと唱る聲の内 貉となりて座より赱り振り返り 見るより早く見失ひ行衞知れすとなりければ 分福茶釡に毛が生へたと皆人唱出も希代の名物なり  〔 以下省略 〕

左掲が寺宝の分福茶釜なのですが、正面からだと前面のガラスに余計なものが映り込んでしまい、どうあがいてもまともな写真が撮れずに終わってしまったの。お見苦しい画像ですが御容赦下さいね。お出掛けの際には是非実物を御覧になってみて下さいね。併せて、展示室はミニ史料館にもなっていて、分福茶釜に関する資料や関連グッズなどが数多く展示&解説されていますのでお勧めよ。実は、分福ヘルスセンターのことも、ここで知ったの。

〔 分福茶釜の諸元 〕  金質:紫金銅 周囲:1.2m 重量:11.2Kg 容積:21.8L 口径:24.5cm

ところで、開山の大林正通禅師に付き従い上野国伊香保からやってきたと云う守鶴和尚ですが、その後も代々の住職に仕え、第10世天南和尚の代までの、何と160年間!を茂林寺で過ごしたと云われているの。その守鶴和尚ですが、ある日突然寺を去るとそのまま行方が分からなくなってしまったそうなの。ときに天正15年(1587)2月28日のことで、後に誰云うと無く、守鶴和尚は狸の化身だったのではあるまいか−と噂されるようになったのだとか。その守鶴和尚ですが、『甲子夜話』に収められる【分福茶釜縁起】では、茂林寺に住した期間を120年余とするなどの差違があるのですが、来歴や茂林寺を辞する際の情景がとてもドラマチックに描かれているの。機会がありましたら是非御一読下さいね。

茂林寺の御案内の最後にお伽話に出てくるような分福茶釜とコミカルな狸さん達の画像をアップしておきましたが、境内であなたに声を掛けてくる者があったら、それは人間ではない可能性がありますので、お出掛けの際にはくれぐれもご注意下さいね。(^^;

11. 茂林寺前駅 もりんじまええき

駅に向かう道すがらには「ぶんぶくちゃがま絵本案内板」が設置されていたの。案内板は数10m毎に立てられていて、全部で13枚あり、再話と絵はあべはじめさんの手に依るもので、一枚ごとに絵とお話が書かれていて「このお話のつづきはxxm先にあります」とアドバイスもあるの。それを頼りに次の案内板を探して行けば絵本を読むような感覚で楽しみながら歩くことが出来ると云うわけ。オマケに「茂林寺まで残りxxxm」の案内まであると云う至れり尽くせりなの。ξ^_^ξは逆順になってしまいましたが、茂林寺前駅から茂林寺へ歩かれる際には案内板を探しながら歩いてみて下さいね。


考えてみれば、今回の散策は茂林寺前駅〜茂林寺〜東武トレジャーガーデン〜つつじが岡公園〜館林駅のコース採りでも何の問題も無いわね。ξ^_^ξは東武トレジャーガーデン⇔つつじが岡公園のシャトルバスがあることを現地で初めて知ったことから、今回御案内した行程となりましたが、そうと分かれば、茂林寺前駅、館林駅のどちらからでも、好きな順路で訪ね歩くことが出来るわね。今回の散策でかえすがえす残念なのは肝心のツツジが見頃を過ぎていたことね。But あなたがお出掛けするときには、勾当内侍遺愛のツツジも満開の笑みで迎えてくれるハズよ。そればかりか、赤や朱色のツツジが公園全体を染め上げているかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
勉誠社刊 中野猛編 略縁起集成
平凡社刊 東洋文庫 松浦静山著 中村幸彦・中野三敏校訂 甲子夜話
館林市発行 館林市史編纂委員会編 館林市史 特別編第一巻 館林とツツジ
館林市発行 館林市史編纂委員会編 館林市史 特別編第四巻 館林城と中近世の遺跡
あかぎ出版社刊 川島維知・川島正一著 群馬県の歴史シリーズ(6) 図説 館林・邑楽の歴史
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など






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