![]() ≡☆ 石神井川緑道と王子散策 ☆≡ | |||||||
音無親水公園〜王子神社〜王子稲荷神社〜金輪寺〜名主の滝公園〜装束稲荷 | |||||||
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6.音無親水公園
おとなししんすいこうえん | |||||||
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7.王子神社
おうじじんじゃ | |||||||
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豊島氏以後も小田原北条氏の崇敬を受け、江戸時代になると将軍家の祈願所にも指定されるなど、為政者の加護を受けて隆盛したみたいね。中でも江戸幕府八代将軍の徳川吉宗は紀州出身だったことから熊野権現に由来する当社を殊の外崇敬したの。その象徴が飛鳥山の寄進で、吉宗の寄進があればこその飛鳥山公園ね。加えて歴代将軍の帰依を受けて社殿が造営されたこともあり、【江戸名所図会】に描かれる熊野権現社の境内図には主祭神の他にも白山、蔵王権現に八幡神、天満宮などのお社もあって神社の見本市状態。本宮と同じ高所に東照大権現を祀る社殿があるのは当たり前と云えば当たり前かしら。(^^; | |||||||
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一方で境内地には阿弥陀如来や薬師如来などを祀る本地堂や鐘楼も描かれているの。現在でこそ神社としての構えですが、明治以前は王子権現の社号に象徴されるように神仏混淆の世界で、神社と寺院の区別が無い神宮寺だったの。その王子権現の別当として任じていたのが禅夷山東光院金輪寺ですが、明治期の廃仏毀釈で廃寺にさせられ、楼門に祀られていた仁王像は他寺に移され、鐘楼は壊されてしまったの。王子権現社から王子神社へと改称したのはその時のことね。 | |||||||
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![]() 平安時代、田楽の初段にあっては、御霊会(ごりょうえ)などに、田とは離れた田楽躍りが貴族の間にはやりました。貴族は、いかに優秀な田楽法師を召抱えているかは、当時の自らのステータスを誇るものであったようです。貴族と貴族の田楽衆が道にてすれ違うと、必ず小競り合いや石合戦にまで発展してしまったようで、それで、どの田楽衆にも警護の武者が付き添うのが常態だったようです。 | |||||||
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このことは、京の都で宮中が空になるほど貴族が町に繰り出して田楽狂いをした当時の田楽というものが、農耕儀礼ではなくて別のものであったことの証明でもあります。平清盛が八坂神社に田楽衆をともなって入ったときも大きなケンカ合戦となり双方流血の惨事となって、出世前の清盛は朝廷から罰金を受けたという歴史事実がのこっているほどです。 | |||||||
田楽には大きく分けて、囃子田系のものと躍り系のものがあり、躍り系の中には、農耕儀礼系のものと、平穏無事を祈念する系のものがあります。農耕儀礼系のものは、ふつう、水を意味すると思われる、白い紙をさげた笠をつけておどります。王子の田楽は、赤い魔除けを意味する下げ紙の花笠をつけて躍る魔事災難除けをする踊りなのです。そして、田楽古来の伝統にそって、警護の仰々しい鎧武者が田楽衆を護っているわけです。![]() | |||||||
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ξ^_^ξ達の感覚からすると普段は農作業などに従事する方が祭礼時に限り舞を奉納するものとばかりに思ってしまいますが、当時は専門の興行集団があったとは。加えてことばのイメージから田楽=農耕儀礼と理解しがちですが、当時はそれを離れて広く社会現象化していたなんて意外性の連続ね。まさに「現在の感覚で当時の習俗を理解しようとすると歴史認識を誤る」の好例ね。それにしても鎧姿の武士達が実は田楽衆を護る用心棒 (^^; だったとは・・・ | |||||||
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ところで、後から知ったことなのですが、解説を寄せて下さった「田楽おじさん」さまは王子田楽衆の代表者の方だったの。更に驚いたことに、昭和19年(1944)以来途絶えていた王子田楽を、中心になって復興された方でもあるの。復興と口では簡単に云えるけど、踊りから衣装・楽器に至るまでその全てが試行錯誤と労苦を経てのもので、「田楽おじさん」さまがいなかったら今日に王子田楽が蘇ることもなかったと云っても過言ではないの。「田楽おじさん」さまの 王子田楽・祭りの花笠 には復興物語と共に、王子田楽の全てが紹介されていますので、是非、御覧になってみて下さいね。 | |||||||
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これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関−の和歌で有名な蝉丸公は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みな上、琵琶の名手であり、また、髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の古屋美女に命じてかもじ・かつらを考案し、髪を整える工夫をしたことから音曲諸芸道の神、並びに、髪の祖神と博く崇敬を集め、関蝉丸神社としてゆかりの地・滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達がかもじ業者を中心として江戸時代、ここ王子神社境内に奉斎したのが当・関神社の創始なり。昭和20年(1945)4月13日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地のかもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師の各界に呼び掛け浄財を募り、昭和34年(1959)5月24日これを再建せり。 | |||||||
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【毛塚の由来】 釈尊が多くの弟子を引き連れて祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に代えて献じた光が大突風にも消えることなく煌々と輝き、世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く云い伝えられる由縁である。毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に昭和36年(1961)5月24日関神社境内に毛塚の塔を建立して永く報恩の一助とする。関神社奉賛会 東京人毛商工組合 東京床山協会 東京かつら協会 関西かつら協会 | |||||||
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注)掲載に際しては一部改変を加えさせて頂きました。 | |||||||
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8.王子稲荷神社
おうじいなりじんじゃ | |||||||
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社務所の左手に続く脇道を辿ると本宮があり、その右手の鳥居群をくぐると嬉野森、北村、亀山稲荷の合祀社があるの。ξ^_^ξが思うには周辺の開発で鎮座地を奪われたお稲荷さん達がこの地に遷宮して来たのではないかしら。その左手には御覧の願掛け石が祀られる小社がありました。おざぶに載せられて鎮座する「御石さま」ですが、願いごとのあるひとはそれを心に唱えつつ持ち上げるの。軽く感じたあなたには願いごとが叶う兆しあり、う〜重た〜いと思われたあなたは残念ながら願いごと成就せず−みたいね。因みに左手奥には小振りの「御石さま」が用意されていますので、ささやかな願いのあなたはこちらでチャレンジを。ダメよ、実現不可能な願いにも関わらず、小さい方で占なったりしたら。(^^; | |||||||
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その弁財天が明治期の神仏分離で習合が解かれると元の市杵島比売神に戻ったと云うわけ。でも、本当は純粋の弁財天になるハズが、神社に鞍替えした以上はそうもいかず、市杵島比売神に変身せざるを得なかったのではないかしら。斎(いつ)き祀る島の巫女−に由来する市杵島比売神は元々は航海の安全などを守る海の女神さま。稲荷神社の境内に祀るにはちょっと無理があるような気がするんだけど・・・何、ひとりで難しいこと云ってんだよ〜!そんなん、どっちでもえやないかい!だったかしら。 | |||||||
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9.王子山金輪寺
おうじさんきんりんじ | |||||||
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10.名主の滝公園
なぬしのたきこうえん | |||||||
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名主の滝は王子村の名主畑野家がその屋敷内に滝を開き、茶を栽培して一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことに始まるもので、名称もそれに由来しています。その時期は定かではありませんが嘉永3年(1850)の安藤広重に依る【絵本江戸土産】に描かれた「女滝男滝」が名主の滝に当たると思われますのでそれ以前のことと考えられます。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は好んでいた塩原(栃木県)の景に模して庭石を入れ、楓を植え、渓流を造り、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。 | |||||||
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昭和7年(1932)の文献に開園期間は4/1-11/20迄新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。昭和13年(1938)垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。昭和33年(1958)東京都は名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同35年(1960)11月から都市公園として公開されるに至りました。昭和50年(1975)4月1日、東京都から北区に移管、北区立の公園となり、同61年(1986)10月から一年半大規模な改修がなされました。 | |||||||
精養軒が運営していた頃は12,000坪と云う広大な敷地を有し、ボート遊びが出来る池や25mプールなどもあり、温泉付きの宿泊施設も造られていたの。まさに一大レジャーランドで、当時としては画期的な施設だったのではないかしら。 | |||||||
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11.装束稲荷神社
しょうぞくいなりじんじゃ | |||||||
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王子稲荷神社で頂いた栞で装束稲荷のことを知り、後日改めて訪ねてみましたのでここでちょっと御紹介してみますね。 先ずは【江戸名所図会】に記される逸話に耳をお貸し下さいね。 | |||||||
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いづれのよにかありけむん このやしろのかたはらにいなりみゃうじんをうつしいはひければ 毎年臘晦の夜 諸方の命婦この社へ集まり来たる その燈せる火の連なり続ける事 としごとのおほつごもりのよ しょほうのみゃうぶこのやしろへあつまりきたる そのともせるひのつらなりつづけること そくばくの松明を並ぶるが如く 数斛の蛍を放ち飛ばしむるに似たり そくばくのたいまつをならぶるがごとく すこくのほたるをはなちとばしむるににたり その道野山を通ひ河辺を通へる不同を見て 明年の豊凶を知ると聞こゆ そのみちのやまをかよひかはべをかよへるおなじからざるをみて あくるとしのほうきょうをしるときこゆ 命婦の色の白きと九つの尾あるは奇瑞のものなりと 古き書にありとなむとかや みゃうぶのいろのしろきとここのつのおあるはきずいのものなりと ふるきふみにありとなむとかや | |||||||
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大晦日になると関東各地から神使の狐が集まり来て衣冠姿となり、王子稲荷に参詣したと云うの。その狐達が着替えをしたのが装束榎の木の下で、その年の狐火の多少で翌年の収穫を占ったの。残念ながらその装束榎も枯死してしまい、場所を違えて現在は装束稲荷が祀られているの。因みにその王子の狐火の正体についての推論が【動物信仰事典】北辰堂社刊に記載されていますが、ロマンに水を差してもいけないので敢えて内容には触れずにおきますので、気になる方は同著をお読み下さいね。(^^; | |||||||
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左端がその装束榎ですが何代目になるのかしら?ちょっと見では傍らの電柱の方が存在感があり、御神木の装束榎の幹と見間違うばかり。このまま葉を広げると送電に支障があるからと枝が切り落とされてしまうかも知れないわね。東京電力さん、特段の配慮を以て、御神木を傷付けずに済ませる方法を考えて頂けないかしら。因みに毎年大晦日の夜には逸話に倣い、狐のお面を被り、狐火ならぬ提灯をかざしながら王子稲荷神社までを練り歩く「狐の行列」が行われるの。下段は '07 の大晦日の時のものですが、王子狐ばやしに合わせて行進する子狐達の仕草が可愛いの。是非、御覧になってみて下さいね。 | |||||||
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先程御紹介した「田楽おじさん」さまですが、「王子の小太郎」さまと名を変えて 王子の狐物語 では狐の行列についても紹介されているの。前掲の 王子田楽・祭りの花笠 と併せて御覧になってみて下さいね。 | |||||||
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