≡☆ 石神井川緑道と王子散策 ☆≡

音無親水公園〜王子神社〜王子稲荷神社〜金輪寺〜名主の滝公園〜装束稲荷

6.音無親水公園 おとなししんすいこうえん

音無親水公園 正受院を過ぎると飛鳥山の緑や音無橋が見えて来ますが、その音無橋の辺りから石神井川も暗渠となり、飛鳥山の地下をくぐり抜け、再び地表に現れるとやがて隅田川に注ぎ込み、その役目を終えるの。嘗ての流水路が今では親水公園として整備され、市民の憩いの場となっているの。園内には流れ落ちる滝水や水車なども再現され、水路に沿って歩道が設置されていますので暑い日などは涼をとりながらの散策が楽しめそうね。

音無親水公園 ところで先程から出てくる音無の名称ですが、石神井川の別称の音無川に由来するの。と云っても板橋区を抜けて北区に入る辺りからの名称で、次に御紹介する王子神社に関係するの。後程改めて御案内しますが、王子神社は紀伊国(現在の和歌山県)の熊野三山から分霊勧請したもので、中でも本宮の麓を流れているのが音無川なの。そこで本家のそれに倣い、王子神社の傍らを流れる石神井川を音無川に見立てたと云うわけ。因みに地名にある滝野川ですが、今も昔も河川としては存在しないの。と云うことで舞台の主役は飽く迄も石神井川ね。

7.王子神社 おうじじんじゃ

王子神社 この王子神社は鎌倉時代後期の元享2年(1322)にこの辺りを治めていた豊島氏が新たに社殿を造営して紀伊国(現在の和歌山県)の熊野神社から改めて分霊勧請したことに由来するの。一口に熊野神社と云っても熊野三山の呼称があるように、実際は本宮・新宮・那智大社の三社からなる熊野信仰の総本山よね。鎌倉室町期になるとその熊野信仰が武士や庶民の間にも広がるのですが、豊島氏が新たに社殿を造営して崇めた背景もそこにあるようね。名称にしても熊野権現に因み、明治以前は若一王子宮とか王子権現と呼ばれていたの。

王子神社 現在の王子と云う地名もこの王子神社に由来しているのですが、元々の王子は御子の神さまを云い、王子社にしても熊野三山の神さま達を崇める遙拝所や分祀社を指すものだったの。京都から始まり、熊野本宮大社に至る熊野詣の道筋には○×△□王子と多くの王子社が祀られていますが、王子神社のルーツがそれね。ところで熊野権現はホントは一神では無いのですが、因数分解 (^^; すると話しがやたらややこしくなるのでここでは深追いせずに置きますね。

豊島氏以後も小田原北条氏の崇敬を受け、江戸時代になると将軍家の祈願所にも指定されるなど、為政者の加護を受けて隆盛したみたいね。中でも江戸幕府八代将軍の徳川吉宗は紀州出身だったことから熊野権現に由来する当社を殊の外崇敬したの。その象徴が飛鳥山の寄進で、吉宗の寄進があればこその飛鳥山公園ね。加えて歴代将軍の帰依を受けて社殿が造営されたこともあり、【江戸名所図会】に描かれる熊野権現社の境内図には主祭神の他にも白山、蔵王権現に八幡神、天満宮などのお社もあって神社の見本市状態。本宮と同じ高所に東照大権現を祀る社殿があるのは当たり前と云えば当たり前かしら。(^^;

一方で境内地には阿弥陀如来や薬師如来などを祀る本地堂や鐘楼も描かれているの。現在でこそ神社としての構えですが、明治以前は王子権現の社号に象徴されるように神仏混淆の世界で、神社と寺院の区別が無い神宮寺だったの。その王子権現の別当として任じていたのが禅夷山東光院金輪寺ですが、明治期の廃仏毀釈で廃寺にさせられ、楼門に祀られていた仁王像は他寺に移され、鐘楼は壊されてしまったの。王子権現社から王子神社へと改称したのはその時のことね。

王子田楽 参道脇には祭礼時に奉納される王子田楽を紹介する案内板が立てられていたのですが、掲載されている画像には鎧姿の武士が長刀を立てて左右に仁王立ちするなど説明文との関連が分からないの。田楽とあることから田楽舞のことだと思うのですが、五穀豊穣を祈る神事に由来する田楽舞に何故武士が登場するの?残念ながら実際に観たわけではないので何とも云えないのですが、実際の田楽舞を観ればその理由が分かるかも知れませんね。無責任モードで恐縮ですが、ここではその説明文を掲載するに留め置きますね。

王子田楽 王子田楽は豊かな実りと無事を祈って毎年八月王子神社の例祭で神前に奉納される伝統芸能です。花笠をつけ、鼓・筰・太鼓方が笛に合わせて躍る、全国でも数少ない芸能です。しばらく絶えていましたが復元され、王子田楽衆と王子田楽式保存会に依って保存・伝承されています。東京都北区教育委員会

前述のように記したところ、「田楽おじさん」さまより御丁寧な解説のメールを頂きました。鎧姿の武士の登場には意外な理由が隠されていたの。それを知ったξ^_^ξはまさに目から鱗状態。「田楽おじさん」さまの御了解を得ることが出来ましたので、皆さんにも御紹介してみますね。

平安時代、田楽の初段にあっては、御霊会(ごりょうえ)などに、田とは離れた田楽躍りが貴族の間にはやりました。貴族は、いかに優秀な田楽法師を召抱えているかは、当時の自らのステータスを誇るものであったようです。貴族と貴族の田楽衆が道にてすれ違うと、必ず小競り合いや石合戦にまで発展してしまったようで、それで、どの田楽衆にも警護の武者が付き添うのが常態だったようです。

このことは、京の都で宮中が空になるほど貴族が町に繰り出して田楽狂いをした当時の田楽というものが、農耕儀礼ではなくて別のものであったことの証明でもあります。平清盛が八坂神社に田楽衆をともなって入ったときも大きなケンカ合戦となり双方流血の惨事となって、出世前の清盛は朝廷から罰金を受けたという歴史事実がのこっているほどです。

田楽には大きく分けて、囃子田系のものと躍り系のものがあり、躍り系の中には、農耕儀礼系のものと、平穏無事を祈念する系のものがあります。農耕儀礼系のものは、ふつう、水を意味すると思われる、白い紙をさげた笠をつけておどります。王子の田楽は、赤い魔除けを意味する下げ紙の花笠をつけて躍る魔事災難除けをする踊りなのです。そして、田楽古来の伝統にそって、警護の仰々しい鎧武者が田楽衆を護っているわけです。

ξ^_^ξ達の感覚からすると普段は農作業などに従事する方が祭礼時に限り舞を奉納するものとばかりに思ってしまいますが、当時は専門の興行集団があったとは。加えてことばのイメージから田楽=農耕儀礼と理解しがちですが、当時はそれを離れて広く社会現象化していたなんて意外性の連続ね。まさに「現在の感覚で当時の習俗を理解しようとすると歴史認識を誤る」の好例ね。それにしても鎧姿の武士達が実は田楽衆を護る用心棒 (^^; だったとは・・・

ところで、後から知ったことなのですが、解説を寄せて下さった「田楽おじさん」さまは王子田楽衆の代表者の方だったの。更に驚いたことに、昭和19年(1944)以来途絶えていた王子田楽を、中心になって復興された方でもあるの。復興と口では簡単に云えるけど、踊りから衣装・楽器に至るまでその全てが試行錯誤と労苦を経てのもので、「田楽おじさん」さまがいなかったら今日に王子田楽が蘇ることもなかったと云っても過言ではないの。「田楽おじさん」さまの 王子田楽・祭りの花笠 には復興物語と共に、王子田楽の全てが紹介されていますので、是非、御覧になってみて下さいね。

関神社 境内の一角に緋い社殿を見つけ、何が祀られているのか気になったのですが、髪の祖神の蝉丸公・逆髪姫・古屋美女を祀る関神社とのことで、その左手には毛塚の石塔も建てられていました。聞き慣れぬ神名の登場に加え、知らない故事逸話の連続にξ^_^ξもすっかり目がテンになってしまったの。そこで御覧のみなさまにもその略縁起を御紹介してみますが、これを読む限りでは毛髪の神さまと云うよりもかつらの神さまの扱いね。因みに文中にある「かもじ」と云うのが髪の毛のことで、床山とは舞台役者や相撲力士などの髪を結うプロの方々のことなの。

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関−の和歌で有名な蝉丸公は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みな上、琵琶の名手であり、また、髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の古屋美女に命じてかもじ・かつらを考案し、髪を整える工夫をしたことから音曲諸芸道の神、並びに、髪の祖神と博く崇敬を集め、関蝉丸神社としてゆかりの地・滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達がかもじ業者を中心として江戸時代、ここ王子神社境内に奉斎したのが当・関神社の創始なり。昭和20年(1945)4月13日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地のかもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師の各界に呼び掛け浄財を募り、昭和34年(1959)5月24日これを再建せり。

【毛塚の由来】 釈尊が多くの弟子を引き連れて祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に代えて献じた光が大突風にも消えることなく煌々と輝き、世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く云い伝えられる由縁である。毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に昭和36年(1961)5月24日関神社境内に毛塚の塔を建立して永く報恩の一助とする。関神社奉賛会 東京人毛商工組合 東京床山協会 東京かつら協会 関西かつら協会

注)掲載に際しては一部改変を加えさせて頂きました。

公孫樹 社務所右手に続く脇道に入ると東京都の天然記念物にも指定される大きな銀杏の木があるの。説明には−荒川に落ちる支流、音無川の左岸高台に王子権現がある。かなり遠方からでもこのイチョウは見え、付近と異なる風致地区を形成している。大正13年の実測によると目通り幹囲は6.36m、高さは19.69mであったと云う。枝はあまり多くないが鬱蒼としており、樹相は極めて立派である。当社は豊島氏の旧跡であり、このイチョウもその当時植えられたものであると伝えられている−とあり、仮りに創建時に植樹されたものとすると樹齢は700年近くになるわね。

8.王子稲荷神社 おうじいなりじんじゃ

惣門 明治以前の王子稲荷神社は別当寺・金輪寺の管理下にあり、前述の王子神社と共に王子両社と呼ばれて崇敬を集めていたみたいね。江戸時代には歴代将軍からも社殿造営などの寄進を受け、文政5年(1822)には第11代将軍徳川家斉も社殿の再建をするのですが、今に残る拝弊殿はその時のもので、極彩色の華麗な造りは当時の隆盛を窺わせますよね。勿論、その時には本殿も建て替えられたのですが残念ながら空襲を受けて大破してしまったの。なので拝殿以外の社殿は戦後新たに再建されたもので、拝殿に比べると地味に見えるのはそんな背景に依るの。

拝殿 祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、宇気母智之神(うけもちのかみ)、和久産巣日神(わくむすびのかみ)の三柱で、宇迦之御魂神は倉稲魂命とも書かれるように稲荷神のことね。普通はお稲荷さんと聞くと狐=稲荷神と思われれる方が殆どでしょうが、実は狐は稲荷神のお使いなの。宇気母智之神は保食神と記すように食を司る神さまで、和久産巣日神は稚産霊神とも記され、作物の生育を象徴する神さまなの。紀記に描かれる神話の世界では、保食神の身体からは粟や稗などの五穀の他にも蚕や牛馬が生まれ出ているの。なのでこの王子稲荷神社では稲荷神の指揮の下に保食神が作物の種となり、稚産霊神が成長のエネルギーを与えると云うわけね。

神楽殿 縁起では−康平年中(1058-64) 源頼義 奥州追討の砌り 深く当社を信仰し 関東稲荷総司と崇む−と伝えられていることから平安期中頃には既にそれなりの社格を有していたみたいね。と云うことは、前述の王子神社が未だ創建されていない時代に、王子稲荷神社は既に関東稲荷総司云々にふさわしい陣容を構えていたと云うことね。尤もその頃は鎮座地の名から岸稲荷と呼ばれ、王子稲荷と改称したのは王子神社の創建時のことなの。現在でも岸町と名を残していますが、元々は荒川の岸辺の意に由来するものみたいよ。

本宮 願掛け石 願掛け石 願掛け石

社務所の左手に続く脇道を辿ると本宮があり、その右手の鳥居群をくぐると嬉野森、北村、亀山稲荷の合祀社があるの。ξ^_^ξが思うには周辺の開発で鎮座地を奪われたお稲荷さん達がこの地に遷宮して来たのではないかしら。その左手には御覧の願掛け石が祀られる小社がありました。おざぶに載せられて鎮座する「御石さま」ですが、願いごとのあるひとはそれを心に唱えつつ持ち上げるの。軽く感じたあなたには願いごとが叶う兆しあり、う〜重た〜いと思われたあなたは残念ながら願いごと成就せず−みたいね。因みに左手奥には小振りの「御石さま」が用意されていますので、ささやかな願いのあなたはこちらでチャレンジを。ダメよ、実現不可能な願いにも関わらず、小さい方で占なったりしたら。(^^;

狐穴 願掛け石を祀る社の左手からは崖の中腹に向かい石段が続きますので、何が祀られているのかしらと登ってみました。境内最奥部に位置することから奥院として御神体が祀られるのかしらと想像したのですが、そうでは無くて、実はこれ、神社側ではお穴さまと称する狐穴の跡だそうで、昔は杉の樹叢に覆われて昼尚暗く、山中には狐が多く安住して神の使いとして大切にされていたと伝えるの。神社には幼稚園も併設されますが今では、むか〜し、むかし、この辺りにお母さん狐が棲んでいたの、三匹の子狐たちはいつもその母さん狐にまとわりついていたの−の世界ね。

市杵島比売社 参道石段脇には市杵島比売神(いちきしまひめのかみ)を祀る境内摂社がありましたが、嘗ては弁財天として祀られていたのでしょうね。【江戸名所図会】では−本殿には聖観世音・薬師如来・陀枳尼天を、本宮には十一面観世音菩薩を祀る−としているのですが、この陀枳尼天( =荼枳尼天 )と云うのが仏教に習合された稲荷神で、同様にして市杵島比売神もまた弁財天に習合させられていたの。宗像三女神の中でもとりわけ容姿端麗とされた市杵島比売神が弁財天の金銀財宝に結びついたのですからこれに優る女神さまはいないわね。

その弁財天が明治期の神仏分離で習合が解かれると元の市杵島比売神に戻ったと云うわけ。でも、本当は純粋の弁財天になるハズが、神社に鞍替えした以上はそうもいかず、市杵島比売神に変身せざるを得なかったのではないかしら。斎(いつ)き祀る島の巫女−に由来する市杵島比売神は元々は航海の安全などを守る海の女神さま。稲荷神社の境内に祀るにはちょっと無理があるような気がするんだけど・・・何、ひとりで難しいこと云ってんだよ〜!そんなん、どっちでもえやないかい!だったかしら。

9.王子山金輪寺 おうじさんきんりんじ

金輪寺 次の名主の滝公園に向かう途中には金輪寺と云うお寺がありますが、既にお気付きのように嘗ては王子権現社・王子稲荷両社の別当寺を務めていたの。御案内したように明治期の神仏分離で廃寺となったのですが、当時12坊(閼伽井・池上・井上・観行・華上・月蔵・実相・杉本・増上・大乗・藤本・宝持坊)あった塔頭の中で二坊だけが残され、中でも藤本坊がその名を引き継いだと云うわけ。興味本位で境内に立ち入り出来るような雰囲気に無くて、ここでは門前に建つ庚申塔と不動明王像を収めて終えていますので御容赦下さいね。

阿弥陀堂 因みに残る一坊(院号は不明)が石神井川を挟んで正受院の対岸にあり、境外仏堂の阿弥陀堂としてその名残りを留めているのですが、無住であることから普段は拝観出来ないの。現在は王子山を山号とする金輪寺ですが、当時は禅夷山を号し、寺域は現在の王子神社の門前からこの阿弥陀堂のある辺り迄を占めていたと云うのですからその隆盛ぶりが窺えますね。創建年代にしても平安時代の康平年間(1058-64)に源義家が東夷征伐から帰京する際に造営されたとの伝えもあり、だとすると王子権現(神社)の創建以前から存在していたことになるわね。

10.名主の滝公園 なぬしのたきこうえん

名主の滝公園入口 次に訪ねたのがこの名主の滝公園で、安政年間(1854-59)に当時の王子村の名主・畑野孫八が自邸に開いた庭園を元に造られているの。孫八の詠歌には−宇治に似よ 新茶に水や 王子園−とあり、当初は王子園と称していたようね。園内には大小の滝が流れますが、中でも男滝は古くから王子七滝の一つに数えられて多くの人達が訪ね来たと云うの。とは云え、公園として現在に至るにはそれなりの経緯もあったみたいね。入口に掲示されていた案内板の記載を御紹介してみますが、西暦表示を加えるなど、一部を改変しましたので御了承下さいね。

名主の滝は王子村の名主畑野家がその屋敷内に滝を開き、茶を栽培して一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことに始まるもので、名称もそれに由来しています。その時期は定かではありませんが嘉永3年(1850)の安藤広重に依る【絵本江戸土産】に描かれた「女滝男滝」が名主の滝に当たると思われますのでそれ以前のことと考えられます。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は好んでいた塩原(栃木県)の景に模して庭石を入れ、楓を植え、渓流を造り、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。

名主の滝公園 名主の滝公園 名主の滝公園 名主の滝公園

昭和7年(1932)の文献に開園期間は4/1-11/20迄新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。昭和13年(1938)垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。昭和33年(1958)東京都は名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同35年(1960)11月から都市公園として公開されるに至りました。昭和50年(1975)4月1日、東京都から北区に移管、北区立の公園となり、同61年(1986)10月から一年半大規模な改修がなされました。

精養軒が運営していた頃は12,000坪と云う広大な敷地を有し、ボート遊びが出来る池や25mプールなどもあり、温泉付きの宿泊施設も造られていたの。まさに一大レジャーランドで、当時としては画期的な施設だったのではないかしら。

11.装束稲荷神社 しょうぞくいなりじんじゃ

王子稲荷神社で頂いた栞で装束稲荷のことを知り、後日改めて訪ねてみましたのでここでちょっと御紹介してみますね。
先ずは【江戸名所図会】に記される逸話に耳をお貸し下さいね。


装束榎 いづれの世にかありけむ この社の傍に稲荷明神をうつしいはひければ
いづれのよにかありけむん このやしろのかたはらにいなりみゃうじんをうつしいはひければ
毎年臘晦の夜 諸方の命婦この社へ集まり来たる その燈せる火の連なり続ける事
としごとのおほつごもりのよ しょほうのみゃうぶこのやしろへあつまりきたる そのともせるひのつらなりつづけること
そくばくの松明を並ぶるが如く 数斛の蛍を放ち飛ばしむるに似たり
そくばくのたいまつをならぶるがごとく すこくのほたるをはなちとばしむるににたり
その道野山を通ひ河辺を通へる不同を見て 明年の豊凶を知ると聞こゆ
そのみちのやまをかよひかはべをかよへるおなじからざるをみて あくるとしのほうきょうをしるときこゆ
命婦の色の白きと九つの尾あるは奇瑞のものなりと 古き書にありとなむとかや
みゃうぶのいろのしろきとここのつのおあるはきずいのものなりと ふるきふみにありとなむとかや

大晦日になると関東各地から神使の狐が集まり来て衣冠姿となり、王子稲荷に参詣したと云うの。その狐達が着替えをしたのが装束榎の木の下で、その年の狐火の多少で翌年の収穫を占ったの。残念ながらその装束榎も枯死してしまい、場所を違えて現在は装束稲荷が祀られているの。因みにその王子の狐火の正体についての推論が【動物信仰事典】北辰堂社刊に記載されていますが、ロマンに水を差してもいけないので敢えて内容には触れずにおきますので、気になる方は同著をお読み下さいね。(^^;

装束榎 装束稲荷 装束稲荷 装束稲荷

左端がその装束榎ですが何代目になるのかしら?ちょっと見では傍らの電柱の方が存在感があり、御神木の装束榎の幹と見間違うばかり。このまま葉を広げると送電に支障があるからと枝が切り落とされてしまうかも知れないわね。東京電力さん、特段の配慮を以て、御神木を傷付けずに済ませる方法を考えて頂けないかしら。因みに毎年大晦日の夜には逸話に倣い、狐のお面を被り、狐火ならぬ提灯をかざしながら王子稲荷神社までを練り歩く「狐の行列」が行われるの。下段は '07 の大晦日の時のものですが、王子狐ばやしに合わせて行進する子狐達の仕草が可愛いの。是非、御覧になってみて下さいね。



先程御紹介した「田楽おじさん」さまですが、「王子の小太郎」さまと名を変えて 王子の狐物語 では狐の行列についても紹介されているの。前掲の 王子田楽・祭りの花笠 と併せて御覧になってみて下さいね。

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