≡☆ ソメイヨシノの古里・染井 ☆≡
2008/04/27 & 2008/12/06 & 2010/04/04 & 2010/07/28

お花見の季節に一度纏めて踏破してから−と決めてはいたのですが、怠けている内に季節がふた回りもしてしまいました。訪ねた時の記憶も遠ざかる一方でヤバイかも−と奮起して出掛けてみました。なので掲載する内容も季節も含めて新旧がごちゃまぜ状態ですので予め御了承下さいね。補:掲載画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント(^^;

染井よしの・桜の里めぐり〜妙義神社〜無量寺〜旧古河庭園〜城官寺〜飛鳥山公園

1. JR駒込駅 こまごめえき 10:53着 10:54発

桜の品種として広く知られるソメイヨシノですが、そのルーツはこの駒込にあるの。市町村制の変遷を受けて染井の名が地名から消えて久しいのですが、今でも施設や商店街の名にその名残りを留めているの。その染井で品種改良されて出来た吉野桜なので染井吉野桜となり、後に染井吉野、ソメイヨシノとして全国的に広められたの。その経緯などは後程改めて御案内しますのでお楽しみにね。尚、今回の散策では染井(駒込)に限らず、本郷通り沿いに飛鳥山公園までを歩きますが、桜を離れて寺社をめぐる歴史散策が中心になっていますので、御了承下さいね。

記述に際しては現地に掲示されていた案内板や文献からの引用・転載をしていますが
修正加筆をしていますので予め御了承下さいね。

2. 染井吉野桜記念公園 そめいよしのざくらきねんこうえん 10:54着 11:00発

公園の一角にはその由来に因む「染井吉野桜発祥の里」碑がありましたが亀裂だらけで。心ない人の悪戯にしては酷すぎるわね。相手はセラミック・パネルよ。それとも明らかに壊す意思があったと云うことかしら。それはさておき、説明には次のように記されているの。

駒込の一部は江戸時代に染井と呼ばれ、巣鴨と共に花卉・植木の一大生産地であった。この地で江戸時代以後数多くの優れた園芸品種が誕生したが、中でも染井吉野は、当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。

染井吉野桜記念公園 絵は、植木屋の第一人者、染井の伊藤伊兵衛の庭で大勢の人が花を愛でている様子である。染井之植木屋(絵本江戸桜)北尾政美画 享和3年(1803) 「花屋の伊兵衞といふ つつじを植しおびたゝし 花のころハ貴賤群集す 其外千草萬木かずをつくすとなし 江都第一の植木屋なり 上々方の御庭木鉢植など 大かた此ところよりささぐること毎日々々なり」とあります

その絵図が気になる方は上の「染井吉野桜発祥の里」碑の画像をクリックして見て下さいね。

地下鉄南北線駒込駅の出入口の傍で見掛けたのがこの錆び付いたモニュメント。(^^; 何の説明もなく、最初にこれを目にしたξ^_^ξは、この記念公園がある場所には嘗て明治・大正期頃に建てられていた銀行か、もしくはそれに相当するような建物があり、歴史的な価値からその一部が残されたものかしら−と勝手に想像したの。掲載の画像では分からないかも知れませんが、右端の石柱には駒込橋と刻まれているの。実はこれ、古い駒込橋の一部だったと云うわけ。普通、橋と云えば河川に架けられるものですが、駒込橋はJR山手線を跨ぐ跨線橋なの。この欄干はいつ頃架設されたときのものなのかは分かりませんが、重厚でいてお洒落な造りは大正浪漫の世界ね。

この旧駒込橋欄干のある植え込みの端にまたまた不思議な物体を見つけたの。その形から橋の敷石にでも使われていたものかしら?とも思ったのですが、何とタイム・カプセルだったの。説明には「1994年の私から2010年の私へ とあり、「私たちの未来の自分へ宛てた手紙がこの箱に眠っています。16年後の2010年にこの箱を開けます。そのため私たちは、この箱を と呼んでいます。2010年にまた会いましょう」と記されていたの。

更に 2010/08/20 と 08/21 の両日に行われる盆踊りの会場でその手紙と絵をお返し致します−と案内が付記されていました。訪ねたのが開封日を僅か一月後に控えてのことでしたので、既に皆さん誰れもが16年前の自分と対面を済ませたハズよね。16年と云う月日は人を大きく変えるに充分過ぎる時間ですが、手紙を読んだ印象もひとそれぞれだったでしょうね。そういうξ^_^ξの16年前はと云えば・・・。案内には駒込駅前通り商店街振興組合青年部の名がありましたが、タイム・カプセルを設置するなんて、仲々おシャレな商店街ね。

3. 六義園 りくぎえん 11:08着 12:06発

駒込橋を渡ると六義園の染井門が見えて来ますが、残念ながら普段は染井門からの入園は出来ないの。なので不忍通りに向けてもう少し歩いて下さいね。本郷通りに面して正面入口のある脇道への道標が立つのですが、駐輪場と化していて分からないかも知れませんので、角地に建つコンビニのサンクスを目印に歩いて下さいね。染井門からは結構歩くことになるのですが、道筋には藍染めの和装品を扱うお店もありました。染井の地名と藍染めの関係は?ですが、急ぐ旅でもないでしょうから Window-Shopping を含めて散策をお楽しみ下さいね。

この六義園ですが、姉妹編の 六義園のお散歩 で詳しく御案内済みですので、ここでは景観写真のみをスライドとして纏めてみました。それも思いっきりピーカン照りの陽射しの下でのものを。(^^; 園内に咲く枝垂れ桜も姉妹編を御笑覧下さいね。CMでした。

4. 染井通り そめいどおり

六義園の染井門から本郷通りを離れるようにして斜めにはしる道が染井通り。【武蔵風土記稿】に「此邊は薄土なれば樹木に宜しく穀物に宜しからず〔 中略 〕又庭樹及び盆栽等の草木を作りて産業とするもの多し」とあるように、嘗てはこの道の北側に多くの植木職人が軒を連ねていたの。中でも名を馳せた植木職人が伊藤伊兵衛で、【武江年表】には「正保中(1644-1647)日向國霧島山の躑躅を薩州より大坂へ登せ 大坂より京に登す 其の内富士山・麟角と名付けしものは大内に止め給ひ 面向・無三・唐松の三種は明暦2年(1656)の頃武江に下す」とあるの。

その3種類の霧島ツツジが運び込まれた先が彼の家の庭先だったの。夫より接ぎ足して諸州に分てり−とあるように、霧島ツツジが全国制覇 (^^; してゆくルーツもこの染井(駒込)にあると云うわけ。その伊兵衛に限らず、染井には多くの職人達がそれぞれに得意とする花木を扱い、庭園を配して植栽するなど、盛時には地域全体が自然庭園の様相を呈していたみたいね。さしずめ庭園の見本市会場だったと云うわけ。江戸時代末期にはその染井村の植木職人達の手で桜の新種が生み出されたの。エドヒガンとオオシマザクラを交配したもので、当初は大和(現:奈良県)の吉野山の桜が有名だったことから、吉野(桜)の名で売り出されたの。明治期になると、吉野山に多く咲く山桜と区別するために染井吉野と改称されたの。吉野山の人気にあやかって命名されたまがいものの吉野桜が、名実共に御本家を凌駕してしまったと云うわけ。

ソメイヨシノは花数も多く、葉が出る前に花を咲かせて美しいことから人気を得て日本中に広まったの。But ξ^_^ξも初めて知ったのですが、このソメイヨシノは種子では発芽せずに(仮に発芽しても生長しない)、接木・挿木など、人の手を経て殖やされて来たものなの。と云うことはそのルーツをたどると一本の苗木に辿り着き、今ある樹は全てそのクローンになるの。染井村に生まれた吉野桜はまさに元祖ソメイヨシノと云うわけ。でも、種子では殖やせないと云うのは哀しくもあるわね。人の手で造りあげられたソメイヨシノは人の手でしか種の維持が出来ないの。

5. 私の庭・みんなの庭 わたしのにわ・みんなのにわ 12:20着 12:24発

染井通りを歩いている時に小さな広場を見つけましたが、道沿いに建てられていたのが「花咲か 七軒町 植木の里」と刻まれた石碑なの。由来について何か分からないかしらと裏面も見てみたのですが、何の記述もないの。調べてみると、染井村が七軒町と名を変えたのは江戸時代中頃の元文2年(1737)のことで、染井町と再び名を変えたのは明治2年(1869)のことになっているの。だとするとその間に建てられたものと考えても差し支え無いわよね。

染井村へは享保12年(1727)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が自ら出向いて花木29種を求めて以来、歴代の将軍が幾度となく遊覧に訪れている程よ。菊作りや菊人形なども巣鴨と合わせてこの地が発祥の地になるのですが、まさに全盛期を迎えて染井村の花咲爺さん達は「咲かねば咲かせてみよう夢の華」状態だったと云う訳ね。

その石碑の背後に「私の庭・みんなの庭」と名付けられた小さな草地がありましたが、畑があり、池があり、田圃があり−と、ジオラマを見ているような雰囲気のお庭なの。貼り紙には「ここは私たちの町、染井の広場です。おおやさんは豊島区、運営は住民の運営委員会による自主管理。掃除、草むしり、作物の手入れ、門の開け閉めはみんなで行います。多くの草花、野菜、田の稲、池のメダカは皆で一緒に、または誰となく植えたり放したりしたもの。そんなに難しいルールを決めているわけではありません。庭の様子は何年かかけて皆で作ってきた成果です。どうぞおくつろぎください。お庭クラブ運営委員会」とありました。この緩さがとても素敵よね。

そしてξ^_^ξのお気に入りが「お庭の野菜のこと」と題された一文なの。抜粋で恐縮ですが、「運営委員だけでは手入れしきれないため、町の皆さんのお力を貸して下さい。赤カブ、ナス、きゅうり、トマト、豆類、果実のように順々にできていくものは、日々の水やりや雑草刈りのようなお仕事をしてくれた人のごほうびです。働いて下さった方は、どうぞ少しずつお持ち下さい」とあるの。この「お庭」には監視の目が光るわけでもなく、誰でも自由に出入り出来てしまうのですが、ここでは全てが性善説なの。都会のど真ん中に忽然と現れ出でたオアシスね。今回の散策で、ξ^_^ξが一番癒された空間がこの「お庭」なの。

スマイル・タクシー 左掲はそうとは知らずに訪ねた時に催されていた「染井よしの桜祭り」のイベントで見掛けたスマイル・タクシーなの。視線の先に見えた時にはクラシック・カーかしらと思ったのですが、そうでは無くて人力車ならぬ自転車タクシーだったの。この スマイル・タクシー、普段は立川市内を中心に走り回っているみたいね。

6. 染井よしの桜の里公園 そめいよしのさくらのさとこうえん 12:30着 12:36発

通りを歩いていると右手角地に染井駐在所が建つ十字路が見えて来ますので、それを右手に折れて脇道に入って下さいね。その四つ角から100mも歩かないところにあるのがこの染井よしの桜の里公園なの。日本興業銀行(現・りそな銀行)跡地を利用して平成21年(2009)に新たに開設された公園で、ソメイヨシノやその元になったエドヒガンやオオシマザクラが広場を囲むようにして植えられているの。けれど、最初の第一印象は閑散としているわね−と云うのが正直な感想よ。植樹本数が少ない上に若木だけなので余計感じてしまうのですが、公園は災害時には避難防災拠点としての使用を想定する−とのことなので限定的な植栽になっているのかも知れないわね。

隣接する空き地ではソメイヨシノが養生されていました。若木はこの後紹介する染井稲荷神社と西福寺に植えられているソメイヨシノの枝を譲り受け、新たに接ぎ木したものだそうよ。染井よしのプロジェクトと名付けられた活動で、この苗床で3〜5年掛けて生長させた後は区内の施設はもとより、広く全国の公園などにも提供していく予定なのだとか。なのでここではソメイヨシノではなくて「染井よしの」なの。染井生まれの染井育ちで、云うなれば血統書付きね。新たなブランドとして根付いてくれるといいわね。

7. 染井稲荷神社 そめいいなりじんじゃ 12:36着 12:41発

染井よしの桜の里公園とは道を隔てて建つのがこの染井稲荷神社。境内はすっかり駐車場と化していて、社殿はその片隅に鎮座するの。手水舎脇には「染井の里」碑が建てられ、参道脇には小さな摂社が祀られているの。社殿には何故か伊藤博文の筆跡を揮毫した「神徳惟馨」の扁額が掲げられていました。ところでこの染井稲荷神社がいつ頃創建されたものなのかは分かりませんが、【風土記稿】には「神體石像なり 祕して開扉せず 前立稻負老人荼枳尼天像共に木像なり 又伊弉諾尊伊弉冉尊共に石像聖天一躯皆相殿とす 染井一區の鎭守神なり」とあるの。

この神體石像が御神体の十一面観音を指しているのですが、像には「染井稻荷大明神本地 延寶2年(1674)2月吉日 染井村伊藤猪兵衞 同妻於松 西福寺祐心納之」の銘が刻まれているの。そうであれば330年は間違いなく経ている計算になるわね。あれ〜、変よね、神社なのに十一面観音像を御神体にするなんて、それじゃあお寺じゃないの−と思われるかも知れませんが、当時は神仏混淆で、この後に紹介する西福寺が別当を務めていたの。なので染井稲荷神社は西福寺の管理下にあったと云うわけ。像の銘に「西福寺祐心之を納む」とあるのはそんな背景に依るの。

それにしても色々な神さま仏さまがお祀りされているわね。稻負老人と云う神名は聞いたことが無いので分からないのですが、保食神(うけもちのみこと)を指すのかしら?由来記には十一面観音像の他にもう一つの御神体として保食命を祀るとありましたが、保食神は食物の起源神とされているの。詳しいことは【日本書紀】や【古事記】をお読み頂くとして、保食神の体からは牛馬や稲・粟・稗などの穀物が生まれているの。

荼枳尼天については既に他の頁でも触れていますが、元々はヒンズー教で自在の神通力を持つと云われたダーキニー神が仏教に取り入れられると荼枳尼と音訳されたの。荼枳尼天は人間の生死を半年前に見抜くとその心臓を喰らう鬼女だったのですが、大黒天に敗れた後は眷属となり、仏教の守護神になったの。その荼枳尼天が日本に伝えられるとその神使が狐とされたことから稲荷神と習合したの。本当はジャッカルだったのですが、日本にはいないので代わりに姿形の似た狐にすり替えられてしまったの。と云うことで荼枳尼天は仏教系の稲荷神になるの。

次の伊弉諾尊と伊弉冉尊は改めて説明するまでも無いわよね。ちょっと簡単には済みそうもないのが聖天さま。聖天とは大聖歓喜天のことで、その像容は人身象頭の男女二天が抱き合う姿を以て刻まれることが多く、男女の抱擁そのものなの。その歓喜天のお相手こそが実は観音さまなの。まさに破壊仏の感のある大聖歓喜天ですが、難しい教軌など分からない庶民からは大いに誤解を受けることになるの。(^^; その大聖歓喜天の詳しいことが知りたい方は鎌倉歴史散策−鶴岡八幡宮編の 青梅聖天社 の項を御笑覧下さいね。CMでした。

ところで、この染井稲荷神社を染井の地名発祥地だとする説があるの。【江戸名所図会】に「昔此所に染井と號(なづ)くる泉ありしが 今は水涸れてその跡を失ふ 村を染井と云ふもこの泉によるとぞ」とあるのを以てその根拠にしているみたいね。But 【江府名勝志】では染飯と記し、他にも蘇迷などと表記されることもあり、染井とは限らないことから地名発祥の地とするには難があるわね。心情的には充分理解できるのですが。(^^;

グリコのオマケのお話しですが、泉と云えば明治の頃迄はこの近くに「伊藤つつじ園」があり、入場料を取ってツツジと湯滝を見せていたのだとか。おでんやお煮染めなどの小品を出し、岩風呂よろしく庭園ではお湯を滝のようにして流していたそうなの。艶やかな霧島ツツジを愛でながら、温泉浴ならぬ足湯程度なら出来たかも知れないわね。染井は単なる植木の見本市会場ではなくて、季節毎の花見を兼ねた身近な行楽地でもあったと云うわけ。

8. 西福寺 さいふくじ 12:41着 12:50発

染井稲荷神社とは境内を接して建つのがこの西福寺。正式な山号寺号は藤林山西福寺ですが、気になるのが院号なの。【風土記稿】には「藤林山歡喜院と號す 眞義眞言宗西ヶ原村無量寺末 本尊彌陀の三尊を安ず 開基の年代を知らず云々」とあるの。今ではどこにも院号が表示されないのですが、嘗ては院号を用いていた証でもあるわね。歓喜と云えば先程紹介した大聖歓喜天よね。当時はその歓喜天像をしっかりと護持していたのでしょうが、やはり多くの誤解を生むからと、いつの間にか稲荷社に押しつけられてしまったのではないかしら。(^^; ちょっと茶化しすぎてしまいましたね、ごめんなさい。

真義真言宗に属す。藤林山と号し、西ヶ原無量寺の末寺である。創建の年代は明らかでないが、駒込に江戸時代から存在した寺である。本尊は阿弥陀如来であり、これは徳一大師の作と云われている。この寺は江戸時代、大名藤堂家の下屋敷に近く、家中の祈願寺となり、その規模が非常に広大であったと云われているが、明治維新後に縮小された。境内には、六道すなわち地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道について教えを説くための六体の地蔵が刻まれた六地蔵がある。これは明暦元年(1655)に造られたものであり、豊島区内では最古のものである。墓地には徳川将軍家の御用植木師として名高かった伊藤伊兵衛政武(4代目、宝暦7年(1757)没)の墓があり、これは東京都の史跡に指定されている。政武は樹仙と号し、【増補地錦抄】などを著している。また、ダダイストで知られた辻潤の墓もある。昭和57年(1982)1月 東京都豊島区教育委員会

門の右手に続く脇道を辿ると古い墓石や供養塔が寄せ集められた三界萬霊塔が建ちますが、その一部と化していたのがこの六地蔵。当然6体のお地蔵さまが並び立つと思い込んでいたξ^_^ξ。案内には豊島区最古−と記されていましたので、まさか邪険な寄せ集め状態になっているとは予想だにせず、短い道のりを行ったり来たり。この六地蔵には「武州豐島之郡染井村 明暦三年(1657)十一月十八日」と刻まれ、駒込を冠せずに染井村とあることから当時は独立した存在であったことが知れるとされているの。染井村にはそれだけのパワーがあったと云うことよね。案内に従い、墓苑への道を進むとあるのが次に紹介する4代目伊藤伊兵衛こと、伊藤政武のお墓なの。

江戸時代中期の園芸家。政武は江戸の北、染井村(現在の豊島区駒込6、7丁目付近)の伊藤三之丞の子として延宝4年(1676)に生まれた。号を樹仙と云う。伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしている内に植木屋となり、江戸第一の種苗商となった。その種苗目録を【地錦抄】と云う。4代目の政武は江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理していた。日本の園芸が独自に発達したのは江戸時代であり、キク、ツバキ、カエデ、ツツジ類、アサガオなどの園芸植物が改良され、また、朝鮮や中国をはじめ外国からも多くの植物が輸入されている。政武は特にカエデを好み、深山楓に舶来の楓を接ぎ木することに成功した。写実的な絵画を得意とし、園芸植物に関する著書に【草花絵前集】【増補地錦抄】【広益地錦抄】【地錦抄附録】などがある。宝暦7年(1757)10月2日81歳で死去した。平成5年3月31日 東京都教育委員会

訪ねた時には染井稲荷神社から駒込小学校に続く道の両袖でソメイヨシノが見事な開花を迎えていましたが、残念なのは興ざめの電柱と蜘蛛の糸のように張り巡らされたケーブルね。ちょうどこの辺りがソメイヨシノ発祥の地の中心地になるのですが、脳天気な旅人の希望を云わせて貰えば100mあるかないかの距離ですので、電柱は地中に埋設するなどして欲しいわね。その桜並木が駒込小学校にぶつかったところで北に延びる坂道が染井坂。無量寺や旧古河庭園へお急ぎの方はこちらでお乗り換えを。(^^;

9. 門と蔵のある広場 もんとくらのあるひろば 12:53着 12:57発

伊藤家と並んで植木職人として活躍していたのが今井・丹羽の両家で、広場はその丹羽家の邸宅跡を整備して造られているの。その名残りを留めているのが昭和11年(1936)に建てられたと云う蔵と、伊勢津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したとされる腕木門。蔵の内部は普段は非公開ですが、桜祭りなどのイベント開催時には見学が可能よ。文化財に指定される蔵と聞いて土蔵を想像したのですがコンクリート製なの。何でも丹羽家の8代目が9代目の結婚に合わせて母屋の増改築と共に、蔵もそれまでの木造からこのコンクリート製に建て替えたのだとか。良家同士の婚姻とあって、嫁入道具は「名古屋」状態だったのかしら?(^^;

〔 染井植木の里 〕 豊島区駒込3・6・7丁目付近は昔染井村と呼ばれており、江戸時代から植木の一大生産地として知られていました。嘉永7年(1854)に発行された【江戸切絵図】に「此辺染井村植木屋多し」と書かれるなど、植木職人が数多く住んでいた地域です。万延元年(1860)に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンはこの辺りの様子について「交互に樹々は庭、恰好よく刈り込んだ生け垣が続いている。公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いたと報せた。そこの村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイル(約1.6km)以上も続いている。

私は世界のどこへ行ってもこんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。(【江戸と北京】)」と述べています。この土地の元の所有者である丹羽家は天明年間(1780年代)から明治後期まで、この染井を代表する植木屋として活躍していました。代々「茂右衛門」を襲名して造り菊、石菖、蘭、ツツジなどを得意とした植木屋です。津藩藤堂家や尾張藩などの大名屋敷にも出入りするなど、武家にも信用を得ていました。八代目茂右衛門(明治29年生)の代で植木屋をやめましたが、当地域の旧家として知られています。敷地内にある門は、江戸時代後期の創建で、豊島区の指定有形文化財となっており、昭和11年(1936)に建てられた蔵は国の登録有形文化財になっています。

10. 大国神社 おおくにじんじゃ 13:07着 13:08発

この大国神社、その名から容易にお分かりになるように祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)なの。神社側では大己貴命(おおなむちのみこと)としていますが、大国主命の別称ね。因幡の白兎神話でも知られる大国主命ですが、素戔嗚尊の娘・須勢理比売(すせりひめ)との結婚を前にして素戔嗚尊からさまざまな試練を与えられるの。蛇やムカデ、蜂の棲む室に閉じ込められるなどの嫌がらせ (^^; を媛の助けもあってようやく切り抜けたの。その命の、次なる試練が火中の鏑矢を拾うことだったの。【古事記】には

鳴鏑を大野の中に射入れて その矢を採らしめたまひき 故 その野に入りし時 即ち火を以ちて その野を廻し燒きき
なりかぶらをおおののなかにいいれて そのやをとらしめたまひき かれ そののにはいりしとき すなわちひをもちて そののをもとほしやきき
是に出でむ所を知らざる間に 鼠來て云ひけらく 内は富良富良 外は須夫須夫 といひき
ここにいでむところをしらざるまに ねずみきたりていひけらく うちはほらほら そとはすぶすぶ といひき
如此云へる故に 其處を踏みしかば 落ちて隱り入りし間に火は燒け過ぎき
かくいへるゆえに そこをふみしかば おちてかくりいりしまにひはやけすぎき
爾に其の鼠 その鳴鏑を咋ひ持ちて 出で來て奉りき その矢の羽は その鼠の子等皆喫ひつ
ここにそのねずみ そのなりかぶらをくひもちて いできてたてまつりき そのやのはねは そのねずみのこどもみなくひつ

と記されているの。でも、これだけではな〜に云ってんだか−よね。脚色を加えて翻訳 (^^; してみると

素戔嗚尊は鏑矢を広〜い野原のただ中に撃ち込むとその矢を拾って来るように命じたの。そして大国主命が野原に足を踏み入れると素戔嗚尊は野原の周囲に火を放ったの。すっかり火に囲まれて大国主命も万事休す。すると、どこからか一匹のねずみが現れて「中は空洞になっていて外は狭いから大丈夫」とつぶやいたの。そのことばに命が力を込めてその場を踏みつけるとストンと地面が落ちて洞穴が現れ、そこに逃げ隠れている内に火は通り過ぎてしまったの。そこへ先程のねずみが鏑矢の鏑の方をくわえてやって来て命にその矢を差し出したの。見るとそのねずみのこども達も軽い羽の方をくわえて運んで来てくれていたの。

一方、大黒さまと親しみを以て呼ばれる大黒天ですが、元々は古代インド神話に登場するシバ神の化身 マハカーラ Mahakala がそのルーツ。袋を片手に憤怒の出で立ちで、何と破壊を司るこわ〜い神さまだったの。Maha が「大きな」を表し、kala が「黒」を意味することから仏教に取り入られると大黒天と名を変えたの。その大黒天が日本に伝えられると宝物が入ると云う袋も大きくなり、そこは宗教に寛容な日本人、大国主命が大きな袋を背負っていたことや、大国がダイコクと訓めることなどの共通項を見いだしていつしか同一神にしてしまい、荒ぶる神が福の神に化けてしまったの。その大黒さまの使いが大黒ねずみと呼ばれ、紹介した神話でも大国主命を助けたことからねずみが神使と見なされるようになるの。もうここまで来るとこじつけと云うか、連想ゲーム状態と云うか、(^^; 干支の「子」がねずみを表すことから甲子(きのえね)の日を以て祭日とされたの。

余談ですが、大黒天・毘沙門天・弁財天を合体させた三面大黒天なんて云う天部の仏さまも新たに編み出されたの。あの日蓮上人もその三面大黒天に対して「甲子の日毎に生黒豆百粒を以て然るべし 是秘中の秘」などとしているの。この黒豆と云うのがねずみに見たてた代物で、ねずみを百匹とっつかまえてお供えするわけにもいかんじゃろうから、その代わりに黒豆百粒を供えよ、だが、その意味するところは秘中の秘、教えてやる訳にはいかん−と云うことね。それにしても秘中の秘とは大袈裟ね。分かってしまえば大したことじゃないの。気になる方は雄山閣出版刊 笹間良彦著【大黒天信仰と俗信】を御参照下さいね。(^^;

ところでこちらの宮司さん(大島家)のご先祖さま、元は下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)の方だったそうなのですが、何を思ったか、安永年間(1772-81)に赤羽稲付村(現:北区赤羽西2丁目辺り)に居を移し、大黒天を屋敷内にお祀りしていたのだとか。更に後の天明3年(1783)に現在地に移転して来たの。【安政年代図説】ではそのご先祖さまのことを「大黒師」と記しているので、必ずしも神職 or 僧籍にあった訳でもなさそうなのですが、ちょっと紹介してみますね。

大黒師は自宅に大黒天を祀りて 自分も木彫りのまずい大黒天像を刻みおり
そして福運を望む人々此家に大黒天を拜し まずい大黒天を受けゆく
初め小像を受け 甲子の日毎に此家の大黒天を拜し
その都度順次大像を受け行くなり 〔 中略 〕 今は神社となりて駒込の大黒さまといふ

と、あるのですが、頂いた大黒さまを手にしたら真っ直ぐ自宅に帰るべきで、もし途中で寄り道したらその立ち寄ったところに福を置いて来てしまうのだとか。その大黒さまを一躍有名にしたのが江戸幕府11代将軍の徳川家斉で、将軍職に就く以前から信仰を寄せていたことから出世大黒とも呼ばれるようになったの。奥女中が甲子の日毎に代参するなど、盛時にはそれなりの隆勢をみたようね。訪ねたときには社殿・社務所の建替及び境内の全面的な改修中でした。案内に依ると平成23年(2011)の春に竣工予定だとか。大黒さまも打ち出の小槌を振りすぎてお疲れでしょうからしばらくの小休止ね。竣工の暁には福徳も更にパワーアップしていると思うわ。

お花屋さん 本郷通りを西ヶ原方面に向けて歩いていくと左手にフリーメルと云うお花屋さんが見えて来ます。お店の横には妙義神社参道近道入口と書かれた道標が立ちますので、見逃さないようにして下さいね。そこから脇道に入り、10mも歩けば、妙義神社の樹叢が見えて来るの。

11. 妙義神社 みょうぎじんじゃ 13:12着 13:18発

当社の祭神は高御産霊神(たかみむすびのかみ)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・神功皇后(じんぐうこうごう)・応神天皇(おうじんてんのう)である。文政11年(1828)に成立した【新編武蔵風土記稿】の記述に依れば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉2年(651)5月に社を建てて白鳥社と号したと云う。これに依れば、区内最古の神社と云うことになる。下って文明3年(1471)5月、足利成氏(あしかがしげうじ)との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは成氏を敗走させたと云う。

続いて道灌は、文明9年(1477)の豊島勘解由左衛門との戦いの際、更に文明11年(1479)の千葉孝胤(ちばたかたね)攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したと云われている。こうした故事から「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(1521-27)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄12年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573-91)に松田尾張守康秀が社領を没収した後衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波乱の時期でもあった。境内には寛永19年(1642)11月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。平成9年(1997)3月 東京都豊島区教育委員会

妙義神社は道灌と縁のあることから、道灌の木像や道灌寄進の菊一文字作の刀などが伝えられていたのですが、戦災で悉く失われてしまったそうなの。社殿右手には境内摂社の道灌霊社がありますが、勿論、祭神は太田道灌よね。その道灌霊社の左脇には稲荷神や弁財天、菅原道真(天神さま)が嘗て祀られていたことを窺わせる石碑が建ち、【風土記稿】にも弓箭社剱刀社とか月社など、得体の知れない (^^; 末社が記されているの。今ではその跡形もないのですが、どこへ行ってしまったのかしら?それ以上に「文明年中太田道灌戰陣に臨まんとして僧圓勸・宥鎭二人に修法を命ぜし時の本尊なり」と云う千手観音像は今いずこ?

豊島区文化財 庚申塔 寛文19年(1642)造立 「新編武蔵風土記稿」妙義社の項に「末社稻荷庚申 寛永寛文庚申の碑二あり是を神體とす」とありて江戸時代には稲荷として祀られていたことが分かる。昭和40年(1965)神社復興工事の際、境内土中より発掘され、社殿左側奥に建立されたが、今回の境内整備に伴い現位置に遷された。尚、寛文2年(1662)の碑は戦災で失われたと思われる。平成10年(1998)9月建立

12. 昌林寺 しょうりんじ 13:36着 13:40発

禪宗曹洞派橋場總泉寺末 補陀山と號す 古は補陀落壽院と號せしを應永18年(1411)足利持氏再營して祥林寺と改め 文明11年(1479)太田道灌田園24町を寄附せり 其後大永5年(1525) 丙丁に罹りし後本山4世勝庵宗再中興して今の文字に改む 此僧は天文13年(1544)7月15日寂す 本尊正觀音は行基の作にて 六阿彌陀彫刻の時同木の末木を以てこの像を作りしゆへ 末木の觀音と號と云ふ 昔は本堂の造りも莊嚴を盡せしにや 今の堂に用る所の扉獅子牡丹桐鳳凰等の彫刻最工にして 近世のものにあらず 是左甚五郎の作にて先年火災の時僅に殘りしものと云ふ−【新編武藏風土記稿】

多少の古雅を期待して訪ねた昌林寺ですが、伽藍は悉くが近代的なものになっていました。本堂の左手には昭和62年(1987)に建立されたと云う百寿観世音菩薩立像があるのですが、その傍らには「西国三十三ヶ所観音霊場藤井寺写 南無末木観世音菩薩 第五番補陀山昌林寺」と刻まれた石柱が建てられていました。門柱脇にも古色を帯びた石柱が消え入りそうな風情で残されていますが、河内国(現:大阪府)藤井寺写の札所として江戸時代より信仰を集めていたのだとか。左掲は北区の保護樹木に指定される藤ですが、アロエの方も負けてないわね。(^^; 現在は補陀山昌林寺を正式な山号寺号とする、曹洞宗永平寺末寺院。

13. 無量寺 むりょうじ 13:47着 13:56発

重厚な山門が脳天気な旅人を迎えてくれますが、伏見の柿浜御門を移築したものだそうよ。何でそんな立派なものが遠く離れたこの地にあるの?と不思議に思うわよね。これはξ^_^ξの推測でしかないのですが、【風土記稿】には「今の堂は昔村内に建置れし御殿御取拂となりしを賜りて建てしものなりと云」とあり、この御殿は江戸幕府3代将軍・家光がこの地で鷹狩を行う時の休憩所として造られた舟山茶亭を指していると云うのですから、その時既にこの門が使用されていたと考えるのが妥当よね。幕府の威光と財力を以てすれば移築は容易よね。

参道脇の駐車スペースでは梅干が天日干しされていました。うわ〜、酸っぱそう!−と思わず生唾が出ちゃうわよね。まさか東京の町なかで梅干しづくりの光景を目にするとは思いもしませんでしたが、無量寺の境内では穏やかな時間が流れているみたいね。見ていると思わず一粒摘みたくなるでしょ?(^^;

無量寺は仏宝山西光院と号し、真言宗豊山派に属する寺院です。創建年代は不明ですが、調査によって14世紀頃の板碑が多数確認されています。また、【新編武蔵風土記稿】や寺伝等には、慶安元年(1648)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたことや、元禄14年(1701)4月に5代将軍綱吉の生母桂昌院が参詣したこと、寺号が9代将軍家重の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことが記されています。本堂の正面には、平安時代後期に造られたと云われる阿弥陀如来坐像が安置されています。江戸時代には、江戸六阿弥陀詣 (豊島西福寺・沼田延命院・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院・亀戸常光寺)第3番目の阿弥陀として親しまれました。人々は春と秋の彼岸に極楽往生を願い、花見や紅葉狩りを楽しみながら各所の阿弥陀如来を巡拝していたようです。阿弥陀如来坐像の右手には、本尊である不動明王像が安置されています。云い伝えによれば、ある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから「足止め不動」として信仰されるようになりました。また、大師堂の中には恵心作の聖観音像が安置されており、「雷除けの本尊」としても知られています。平成15年(2003)7月 東京都北区教育委員会

参道を進むと正面に本堂が建ちますが、その前で可愛らしい狸の置物がお出迎え。これではお賽銭をはずまない訳にはいかないわね。(^^; 本堂の右手では住持の丹精あってのものでしょうね、大きな蕾をした蓮が明日には−と、開花を待っていました。

六阿弥陀第三番札所となる無量寺ですが、六阿弥陀は荒川に入水して果てた足立姫と侍女達の菩提を弔うために、この地を訪ね来た行基菩薩が一夜の内に6体の阿弥陀如来像を刻み、縁りある地に祀られたことに始まるとされるの。なので六阿弥陀縁起イコール足立姫悲哀伝説として語られるのですが、登場人物や背景などは六ヶ寺でそれぞれ異なるの。足立姫が荒川に身を投げた理由にしても、嫁ぎ先の姑にいびられ続け、里帰りを許されて帰る途中で前途を悲観して思わず・・・なんて云うお話しのものもあるの。残念ながら無量寺の六阿弥陀縁起の詳細が分からずにいますので紹介出来ませんが、阿弥陀像にしても一番札所のものが一番大きくて、徐々に小さくなるのだとか。尤も、その六阿弥陀縁起、後世の創作の匂いがプンプンするけど。(^^;

14. 旧古河庭園 きゅうふるかわていえん 14:06着 15:05発

旧古河庭園

この庭園は大正6年(1917)古河虎之助が経営した東京における大正初期の代表的庭園です。園は武蔵野台地の裾に入り込んだ低地を取り込み、土地の高低差を利用した和・洋両型式を巧みに使い分けた庭園です。洋風庭園は邸主の住居であるルネッサンス風の本館とそれを取りまく方式庭や、花壇、芝生等からなり、イギリスの建築家ジョサイア・コンドルの設計です。又、園の大半を占める日本風庭園は、京都の庭師・植治の作庭にかかり、山間の湖沼を思わせる泉水を中心として枯滝あり、自然風岩組あり、深山風細流を配するなど、自然趣味豊かな庭園となっています。明治時代から大正初期に掛けて作られた、東京における代表的庭園と云えましょう。〔 入園チケット裏面の解説より 〕

その面積は何と30,780m²もあり、植栽されている樹木にしても高木、低木共に2,400本余と云うのですから合わせて4,800本余り。あるは植木鉢の僅かな緑のξ^_^ξには羨ましい限りですが、ここでは多くを語る必要は無いわね。春と秋(と云うよりも冬かしら)の景観写真を纏めてアップしておきましたので、御覧になりたい方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。 春 2008/04/27 秋 2008/12/06

15. 平塚神社 ひらつかじんじゃ 15:09着 15:20発

参道 平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。

参道 これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明10年(1478)1月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。平成4年(1992)3月 北区教育委員会

通りから続く参道は奥に鎮座する社殿が見えない位長いの。距離にしたら200m以上あるんじゃないかしら?そのお陰で参道脇はしっかりと駐車場として有効活用されていましたが。(^^; 紹介した案内では平塚明神并別当城官寺縁起絵巻と略称されていましたが、正式名称は「武州豊島郡平塚郷上中里村平塚大明神の社并別当城官寺縁起絵巻」と云うのだそうよ、参道に負けず劣らずね。ところで、文中にある城官寺と平塚神社の関係ですが、城官寺は平塚神社の別当を務めていたの。簡単に云えば監督する立場にあったわけですが、当時は神仏混淆なので厳密な区別は無かったと云うことね。

両者が分断されたのは明治期に発布された神仏分離令に依るのですが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて「お宝もの」は殆どが平塚神社側に移されてしまったの。絵巻にしても本当は城官寺を中興した真恵住持が中心になり、元禄5年(1692)に完成させたものなの。ここで、境内に掲示されていた略縁起を紹介してみますね。

平塚神社の創立は平安後期元永年中(1118-1120)と云われている。八幡太郎源義家公が御兄弟と共に奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ、領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き、自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚とも呼ばれた。更に近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り、一族の反映を願った。徳川の時代に平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸に出たところ、検校と云う高い地位を得て、将軍・徳川家光の近習となり、立身出世を果たした。その後、家光が病に倒れた際も、山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。

源氏の棟梁 源義家将軍を祀る 平塚神社(旧 平塚明神社)
八幡太郎 源義家命 平安後期の武将で、源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号された。前九年の役(安部貞任・宗任退治)、後三年の役をはじめ、数々の戦を征された。「天下第一武勇之士」と称えられ、全国の武士達が臣従した。その武威は物の怪ですら退散させたと云われ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上された。
賀茂次郎 源義綱命 義家公の次弟。賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号された。
新羅三郎 源義光命 義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号された。笙の名手としても有名。

源義家ですが、当時の都の人々からは「八幡太郎はあなおそろしや」と怖れられたの。後の南北朝時代に作られたと云う【後三年合戦絵詞】には残虐非道の限りを尽くす義家軍の様子が描かれていますが、その刃は女子供にも容赦無く向けられ、絵詞のことばを借りると「逃ぐるものは千萬が一人なり」と、まさに地獄絵図そのものなの。そうして合戦に勝利を収めた義家ですが、意外にもその後は冷遇されているの。戦は私戦とみなされたことから朝廷側からの恩賞は一切得られず、義家は仕方なく付き従ってくれた郎党達には私費で応えているの。それは私的主従関係の先駆けとなり、後に源頼朝の許で東国武士団が纏まっていく遠因にもなるの。

境内の一角には色々な末社が鎮座していますが、石室神社(石神明神)には聞かない神名の神さまが祀られていました。

祭神は蘓坂兵庫頭秀次命とあり、説明には「豊島氏の後、平塚城主となった蘓坂兵庫頭秀次は平塚明神を篤く祀った。秀次はみまかりて社の外側に葬られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るようになった。村の長老は秀次の石墳を石神明神と崇めた。石神明神は崇めれば必ず応えてくれ、水害や日照や疫病の除災に御神徳を顕したと伝えられる」とあるの。この蘓坂秀次なる人物の正体が分からないのですが、縁起絵巻の詞書には「凡そ祀れば享 祈れば應ず 水旱疫病之禮驗あらずといふ事なし」と記され、村の鎮守さまの面持ちなの。残念ながら源三兄弟の威徳に負けて末社の地位に甘んじてはいるけど。(^^;

ここでは蘇坂ではなくて蘓坂になっているのが味噌醤油味ね。
異体字なんだけど、ちょっと見では騙されてしまうわね。

六阿弥陀道の途上でもある蝉坂という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編纂した地誌【新編武蔵風土記稿】上中里村の項に−平塚明神の傍にあり 登り三・四十間−とあり、この辺りから平塚神社の参道に沿って約54mから72m余を登る坂道だとあります。坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。明治時代初期の【東京府志料】では−或云攻坂の轉訛なりと−と、室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和18年(1943)7月、昔の坂を拡幅して出来た道です。北区教育委員会

16. 城官寺 じょうかんじ 15:23着 15:27発

次に訪ねたのがこの城官寺ですが、平塚神社と切っても切れない関係にあることは紹介しましたが、最初から城官寺と称していたわけではないみたいね。現在は平塚山城官寺を正式な山号寺号とする真言宗豊山派の寺院ですが、嘗ては安楽寺を寺号とする浄土宗寺院だったの。その名残りが安楽院の院号で、本尊とされる阿弥陀如来は元々は筑紫(九州)の安楽寺に祀られていたものだと云うのですが。【新編武蔵風土記稿】には「彼寺の僧回國の時當寺に旅宿し故有て是を附屬せしより安樂寺と稱す」とあるの。

回国の僧とあることから六十六部のことを指しているのかも知れないわね。彼らは厨子入りの仏像を背負い、鉦を鳴らして霊場を巡り歩いたの。【風土記稿】は「故有て」と逃げちゃっているけど (^^; 平塚大明神の傍らに建てられていた庵に宿を求めたところ、背中の仏像が重くなって歩くことが出来なくなってしまい、阿弥陀如来の思し召しと思い、当地に祀ったと云うの。それが安楽寺と云うわけ。でも、九州で安楽寺と云えば太宰府天満宮の別当寺よね。それとも同名の別な安楽寺かしら?阿弥陀如来の思し召し云々にしても、草鞋を脱いだ六部がそのまま草庵に居着いてしまった−と云うのが本当のところじゃないかしら。(笑)

門前には「西國六番 大和壺坂寺寫」と刻まれた石柱が建ちますが、西国三十三ヶ所観音霊場第六番札所壺坂寺を写したものですよ−の意なの。この場合の「写」とは神社では云えば分霊にあたるの。当時は今と違い、旅はまさに命懸け。経済的な余裕も必要だし、体力・気力も無ければ成し得なかったの。そこで遠く離れた四国の観音霊場まで赴かなくても済むようにとコピーがつくられたの。その札所めぐりの対象となるのが観音さまなのですが「當觀世音者八幡太郎義家公持佛の尊像也」と刻まれるように、義家が豊島近義に鎧と共に下賜した十一面観音像なの。持仏とあるように普段から肌身離さず持ち歩いていたことが窺えますよね。

絵巻 武士が仏像なんか持ち歩くわけがねえじゃんかよ〜と思ってはいけないわ。今でも交通安全のお守りなどを持ち歩くことがあるわよね、それと同じで、当時は神仏の加護を求めて髻に小さな観音像を収めるなどして持ち歩いていたの。尤も、当時の武士達は命懸けだったから今よりももっともっと真剣だったけど。下賜された近義にすれば、前九年の役や後三年の役に勝利を収めて凱旋して来た義家の持仏とあれば、その霊験もとびっきり灼かに思えたのではないかしら。

縁起に登場する次なる人物が山川城官貞久ですが、その出自となると詳しいことは分からないの。縁起では目の見えぬ貞久は平塚大明神に立身出世を祈願すると江戸へ出たの。その貞久が後に幕府に仕えることになり、三代将軍家光に近習するの。その家光が病に臥すことになるのですが、御違例おもかりし−とあることから一時は重症化したみたいね。それでも一月後には完治するのですが、家光が病に臥す間、貞久は昼夜を問わず看病を続けたの。加えて平塚神社に家光の病気平癒を祈願するのですが、自分の命と引き換えにしてでも−と誓願するほどだったと云うの。

後に貞久は家光の病気平癒に感謝してその神恩に報いようと平塚明神社と安楽寺の再建に着手するの。【風土記稿】に「寛永11年(1634)社領修理ありし時 金剛佛子を請して別當たらしめしより 今の宗門に改む」とあるのはこの時のことで、住持を招いて真言宗に改宗した上で、安楽寺を平塚明神社の別当寺としたの。時を経た寛永17年(1640)、鷹狩りで当地を訪ね来た家光は再興された社を前にして貞久の事績と知るの。その誠志に感動を覚えた家光は、貞久を召し出すと明神社へは社領50石と、貞久には知行地200石を下賜、併せて安楽寺を城官寺と改称するよう命じたの。

貞久の検校と云う地位ですが、目の不自由な人達は当道座と云う集団に属していて、そこには検校・別当・勾当・座頭の官位があったの。検校はその中で最高位にあり、箏曲・三味線・鍼・按摩などの試験をクリアした上で、一定の上納金を納める必要があったみたいね。とは云え、貞久の場合は極めて特殊なケースで、当道座に属していた訳ではなさそうで、将軍に近侍することからの官位だったようね。家光の病臥以前の寛永9年(1632)の時点で既に検校の地位を得ているのですが、当道座の重要な行事の頭役を務めることになった際には、貞久がお金に窮して準備が出来ずにいるのを知った家光が金200両を援助するなど、君臣水魚の交わり状態にあるの。名も無き身分から這い上がって来た盲目の貞久にしてみれば、重用してくれる家光の存在は何物にも代え難い存在だったと思うわ。その家光が病に伏せたのですから、我が命に代えてでも−と平癒を祈願した貞久の思いは充分に理解出来るわよね。

貞久のその後ですが、平塚大明神と安楽寺の再興を果たすと動静が表舞台からはパタリと消えてしまうの。未確認情報で恐縮ですが、寛永20年(1643)に没しているようなのですが、どこに眠るのかも分からず終まい。当然の如く城官寺に眠ると想像したのですが、【風土記稿】は【江戸砂子】の記述を引いて「今境内に城官が逆修の碑あり」とするので逆修塔ね。逆修塔は生前に自らの死後の冥福を祈願して建立した墓塔のことなの。逆(あらかじめ)修める−で「逆修」ね。逆修の反対は順修だけど、普通は死後に建立するものなので意識して使うことは余りないわね。

記述に依るとその逆修塔の銘には「施主山川檢校城官沒後戒名玉法院殿心譽高岸春郭上坐 寶永十五年戌寅六月二十四日欽言」とあるのだとか。残念ながら墓苑はξ^_^ξのような脳天気な輩が入れるような雰囲気に無く、未確認で終えていますが、宝永15年(1638)とあるので没年が正しいとするとその5年前に建てられたものよね。没年齢も不詳ですが、齢(よわい)を重ね、貞久の胸にも去来するものがあったのでしょうね、きっと。墓苑には代々徳川将軍の侍医を務めた多紀佳山一族のお墓〔東京都指定史跡〕もあるの。

ここからはξ^_^ξの想像のお話しなので読み物としてお楽しみ下さいね。先程、平塚神社のところで蘓坂兵庫頭秀次が葬られた墳墓の辺りでは毎年米が降るようになり、その石墳を石神明神として祀ったところ、水害や日照、疫病の除災に霊験灼かであったと云うお話しをしましたよね。何故お米が降るのか不思議に思っていたのですが、縁起絵巻に気になる記述があるの。平塚神社の拝殿裏側には鎧塚があるのですが(現在は立入禁止)、その塚の近くには8mにも及ぶ白蛇が棲みついていて、時折、社殿や森の中で目撃されていたと云うの。

ある日のこと、城官寺の真恵住持が御神体の三像をどうしても見たくなり、村人達が反対するのも聞かず、固く閉じられていた扉を開けてしまったの。何とそこには朽木が如き木像が三体並び、一ツ目の白蛇がしっかりと巻きついていたと云うの。その白蛇こそが三神の変化身で、鎧の精霊と知れたと云うわけ。その真恵住持こそが城官寺の中興住持で、縁起絵巻を創り上げた中心人物でもあるのですが、それはさておき、蛇は龍神の変化神であり、龍神は水を司る神さまでもあるのですが、その水を通して龍神は稲作にも繋がるの。時系列の問題は残るのですが、時を経て鎧塚と蘓坂秀次の石墳が同一視されてしまい、白蛇の目撃譚が白いお米に化けてしまったのではないかしら?

17. 滝野川公園 たきのがわこうえん 15:32着 15:35発

公園 公園 公園

平塚神社前から滝野川消防署を過ぎたところで見つけたのがこの公園なの。予定外でしたがぶらりと立ち寄ってみました。傍らには防災センターが建つように、この公園は災害時の避難場所であり、防災拠点としての利用を想定したものだそうよ。公園を挟んで大きな病院もあるので安心よね。訪ねた時には保母さんに引率された園児達が水路で戯れていましたが、その先には白糸の滝ならぬ人工滝がありました。北区HPの案内に依ると、そそり立つ壁は全て御影石だそうよ。高さ5m、幅22mにも及ぶ壁の上からは毎分12トンもの水が流れ落ちているのだとか。

土器

草花の植え込みに見つけたのがこのモニュメント。説明には「御殿前遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合する遺跡です。中でも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(地方役所)と推定されています。古代の武蔵国には21の郡が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻郡にあたります。この豊島郡衙の中心部分がこの一帯です」とありました。勿論、モニュメントにある土器はレプリカですが、御殿前遺跡の祭祀遺構からは畿内産の土師器(はじき)が幾つか出土しているの。その一部は北区飛鳥山博物館に展示されていますが、同館には租税として徴収された稲籾を収めていた正倉も復元展示されているの。正倉は郡衙の中でも最重要施設よね。だって稲籾は即ちお金だもの。(^^;

18. 西ヶ原一里塚 にしがはらいちりづか 15:42着 15:51発

中央分離帯の盛土にしっかりと聳える榎木の風情に、これが一里塚ね−と一人合点していたのですが、実は一里塚は一里塚でも南側の塚だったの。もう一つの北側の塚が次に訪ねる七社神社の一の鳥居脇に残されていたの。今でこそ片側二車線に拡幅された道路になっていますが、嘗てはこの南北二つの塚に挟まれた間を街道が通っていたの。尤も当時は人馬が陸上の主な交通手段。車があったとしてもせいぜい大八車の世界、なので道幅としては充分だったわけよね。But 当時の道は馬が辛うじて行き交うことが出来る程度の道幅が普通よね。それを考えると日光御成道は今の感覚で云えば東北自動車道に匹敵する街道だったと云うことだと思うのですが、どうかしら?

慶長9年(1604)2月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩槻宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。旧道を挟んで一対の怩ェ現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の怩ノは「二本榎保存の碑」と題される大正5年(1916)6月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑にはこうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝之川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものと云えます。平成7年3月 北区教育委員会 国指定史跡(大正11年03月08日指定)

北側の塚には紹介した案内板の他にもう一つ掲示されていました。大正5年(1916)に建てられたと云う「二本榎保存の碑」が車道の中央にある塚に残されているのですが、横断禁止の場所なのでどうしても見たい場合にはおまわりさんの許可が必要なの。強行突破の手が無いわけではないのですが、場所が場所だけに難しいかも。滝野川警察署の真ん前なんだもん。(^^; それを救ってくれたのが次に紹介する案内板よ。そこには「二本榎保存の碑」の碑文が全文引用されていたの。

二本榎保存之碑 北区西ヶ原2-47
一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。

二本榎保存之碑 公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ 行人 皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり 之を二本榎と云ふ 是れ 旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして 日本橋元標を距ること第二里の所なりとす 往昔 群雄割拠の世 道路久しく乞梗塞せしか 徳川氏覇府を江戸に開くに当り 先づ 諸街道の修築を命じ 道を夾みて松を植ゑ 里毎に塚を置き 塚には榎を植ゑしむ 之を一里塚と云ふ 然るに年を経て塚多くは壊れ 榎も亦斧片の厄を免れず 今存するもの甚少し 二本榎は実に其存するものゝ一なり 先年 東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり 一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが 幸にして市の当事者 学者故老の言を納れ 塚を避けて道を造り 以て之を保存せんとの議を決したり 法学博士 男爵 阪谷芳郎君 東京市長となるに及び 将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り 瀧野川町長野木隆歓君 及び 有志者と謀る所あり 男爵 渋沢栄一君 最も力を之に尽し 篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ 人家を撤して風致を加へ 以て飛鳥山公園の附属地となせり 阪谷市長 職を去るに及び 現市長 法学博士 奥田義人君 亦善く其事を継承す 今茲工成りて碑を建てんとし 文を予に嘱せらる 予嘗て大日本史料を修め 慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり 又 此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり 乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し 惟ふに史蹟の存廃は 以て風教の汚隆を見るべく 以て国民の文野をトすべし 幕府 治平を講ずるに当り 先づ施設せる所のもの 今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは 実に渋沢男爵 両市長町長 及び 諸有志者の力に頼れり 老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん 後の人 亦 諸君の心を以て心となさば 庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん 大正五年六月 文学博士 三上参次 撰 阪正臣 書 廣群鶴 刻

〔 裏面 〕 此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり 虎の門は慶長年間に始めて築造せられ 其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり 今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり 平成13年(2001)3月 北区教育委員会

転載に際しては独断と偏見のもとに体裁を変更しましたので御了承下さいね。それにしても「惟ふに史蹟の存廃は 以て風教の汚隆を見るべく 以て国民の文野をトすべし」とは胸にグサリとくる一文ですよね。史蹟を残すか取り払うかは国民の文化レベルを占う判断材料だと云うのですから。ξ^_^ξとて徒らに存続を願う訳では無いのですが、残された史蹟や遺物に悪戯書きや意図的な損壊の痕跡などを見ると同じ思いになるわね。興味が無いなら無いで一向に構わないので、その代わり、何の手出しもしないで欲しいわね。

19. 七社神社 ななしゃじんじゃ 15:53着 16:05発

〔 旧一本杉神明宮社地 〕 現在の七社神社の社地は、嘗ては神明宮の社地でした。神明宮は天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから、一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年に七社神社がこの地に移転して来たことに依り、神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治44年(1911)に地上3、4mのところを残して伐採されましたが、現在もその切り株は残っています。七社神社は、江戸時代には七所明神社と云い、西ヶ原村の鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものと云います。詳しい由来は、寛政5年(1793)の火災に依って、社殿を初め、古文書・古記録等を焼失したため良く分かりません。神仏分離に依って、明治初年に現在地である神明社社地に移されました。現在の祭神は伊耶那岐命、伊耶那美命、天児屋根命、伊斯許理度売命、市寸島比売命、品陀別命(応神天皇)、帝中日子命(仲哀天皇)の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に、末社として稲荷神社・菅原神社・三峯神社・熊野神社・疱瘡社があります。平成5年(1993)3月 東京都北区教育委員会

神社側の由緒書では

当神社は往昔の御創建ながら、寛成5年(1793)の火災により古文書、古記録等を焼失した為に詳ではありません。しかし、翌年9月23日に御社殿は再建され、故にこの日を当社の大祭日と定め、現在も賑やかなお祭りが執り行われています。当時は仏宝山無量寺の境内に祀られ、【江戸名所図会】には無量寺の高台(現・古河庭園内)に「七つの社」として描かれています。明治時代になり、元年(1868)に神仏分離が行われ翌2年に一本杉神明宮の現在地に御遷座になり西ヶ原・栄町の総鎮守として奉祀されるに至りました。また、【新編武蔵風土記稿】には−西ヶ原村七所明神社 村の鎮守とす 紀伊国高野山四社明神を写し祀り天照大神・春日・八幡の三座を合祀す 故に七所明神と号す 末社に天神・稲荷あり−と記してあります。更に、この境内から隣地にかけての一郭は七社神社裏貝塚として知られ、縄文式土器・弥生式土器・土師器(はじき)等が発見され古代人の生活の場であった事が窺われます。

とあるの。

社殿前には左右に異なる品種の八重桜が植樹されていましたが、右手に植えられていたのが福禄寿と云う品種なの。左手の御衣黄は幾度となく見掛けていますが、福禄寿は見たことがなく。説明には「花は大輪の淡い紅紫色で、花の中心がやや白色に近くふっくらした感じの桜です」とありましたが、これでは余計気になってしまいますよね。(^^; 社殿左手には何故か石造の孔子・孟子像が並び立てられていましたが、旧古河庭園の主だった古河家から寄贈されたものだそうよ。そう云えば孔子・孟子像は昌林寺にもあったけど、何か繋がりでもあるのかしら?

境内の左手には諸々の神さまが並び立ちますが、中でも異彩を放つ社殿が一本杉神明宮。今ではすっかり母屋を乗っ取られて (^^; しまった神明宮ですが、更にその祭神の天照大神よりも社殿背後に残される一本杉の方が注目を集めているの。なので傍目には一本杉こそが祭神に見えてしまう程よ。益々以て天照大神の居場所が(笑)。その一本杉ですが、伐採されてから既に100年になると云うのにしっかりとしているの。境内には替わって公孫樹が明日の御神木を夢見て枝を伸ばしていました。

20. 渋沢史料館 しぶさわしりょうかん 16:12着 16:31発

入口 今回の散策の締め括りに訪ねたのが飛鳥山公園なの。その飛鳥山公園には紙の博物館・北区飛鳥山博物館・渋沢史料館の3館があるのですが、紙の博物館と北区飛鳥山博物館は以前訪ねていたので、この日は渋沢史料館を見学しようと思ってはいたのですが、生憎と時間切れで入館出来ずに終えてしまいました。それでも庭園だけは無料で見学可能でしたので、16:30の閉園時間まで一巡りしてみました。

晩香盧(ばんこうろ):近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設梶jの清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ、壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。応接室の空調は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまやかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香盧の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。財団法人 渋沢栄一記念財団

説明には「山形亭跡(やまがたていあと):丸芝を挟んで本邸・西洋館と対した築山にあった亭(あずまや)です。六角堂とも呼ばれていました。この亭の名前は六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています」とありましたが、今は石を積み上げて造った基壇と、出来たとしてもせいぜい茶室か庵よ−程度の僅かな平地が木々に覆われてあるだけなの。

青淵文庫(せいえんぶんこ):渋沢栄一の傘寿(80歳)並びに男爵から子爵への昇格を祝い、当時の竜門社(現在の財団法人 渋沢記念財団)の会員が栄一に贈った「青淵文庫」。栄一の雅号「青淵」と建物の機能を表す「文庫」を組み合わせた名前の通り、2Fには書庫、1Fは閲覧室と云う設えです。栄一はこの文庫に自らの論語コレクションや徳川慶喜公伝編纂のために収集した史料等を収めて、未来に正しく史実を伝えることを図り、青淵文庫の完成を待ちました。ところが1923年9月、竣工間近の青淵文庫は関東大震災に遭い、予想外の被害を受け、当時兜町の渋沢事務所で青淵文庫への収蔵を待っていた史料や書籍は焼失してしまいました。

庭園跡の外れに小さな社を見つけたのですが、それが兜稲荷神社でした。説明には「日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社です。明治30年(1897)の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、昭和41年(1966)に破損が激しく、危険と云うこともあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです」とありましたが、フェンスに囲まれて厳重な防御態勢にあるの。元はと云えば兜町の守護神だもの、株券は元より何の蓄えも無いξ^_^ξが接近遭遇出来る訳が無いわね。(^^;

21. 飛鳥山公園 あすかやまこうえん 16:31着

庭園内を駆け足で巡ったところで閉園時間となり、追い出されてしまいましたが、先程触れましたように、飛鳥山公園にはこの渋沢史料館の他にも紙の博物館や北区飛鳥山博物館があるの。加えて飛鳥山公園は桜の名所でもあるの。詳しいことは既に「石神井川緑道と王子散策」の 飛鳥山公園 の項で紹介していますので、ここでは触れずにおきますね。その飛鳥山公園を抜けるとJR王子駅はすぐそこよ。因みに、飛鳥山公園には門限はありませんので、思いっきりお花見を楽しんで下さいね。(^^;


実は、ξ^_^ξも最初から駒込がソメイヨシノの発祥地だと知っていたわけではなくて、六義園を訪ねた時に初めて知ったの。加えて、駒込から王子に掛けての道筋には古社寺が点在することを知り、興味を覚えたの。それなら桜の咲く頃に通しで歩いてみてから−と思っている内に季節が二回りもしてしまいました。本当は全編を桜の花で飾りたかったのですが、実現出来そうにもなく、記憶が薄れない内に−と、この頁を作ってみました。コース採りにしても、六義園や旧古河庭園を訪ねた度に少しずつ足をのばした結果で決めていますので、必ずしも効率が良いとは云えませんが、お出掛け時の参考になればうれしいな。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
東京堂出版刊 朝倉治彦 他 共編 神話伝説辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
角川書店社刊 室伏信助 他共著 有職故実 日本の古典
新人物往来社刊 安田元久編 鎌倉・室町人名事典コンパクト版
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司・武田祐吉校注 古事記・祝詞
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々 −多彩な民俗神たち−
角川書店社刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版 江戸名所図会
平凡社刊 斎藤月岑著 金子光晴校訂 増訂 武江年表
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
雄山閣刊 笹間良彦著 大黒天信仰と俗信
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
角川書店社刊 五来重著 仏教と民俗
岩波文庫 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
吉川弘文館刊 国史大系 吾妻鏡
塙書房社刊 速水侑著 観音信仰
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
講談社刊 週間 TIME TRAVEL 再現日本史 平安(6)
名著出版社刊 東京にふる里をつくる会編 北区の歴史
名著出版社刊 東京にふる里をつくる会編 豊島区の歴史
豊島区著作・発行 豊島区史編纂委員会編纂 豊島区史 通史編
豊島区刊 豊島区立豊島図書館編 豊島の歳時記
豊島区刊 豊島区立豊島図書館編 豊島風土記
北区発行 北区史編纂調査会編 北区史 通史編
北区飛鳥山博物館刊 常設展示案内
滝野川仏教会発行 滝野川寺院めぐり案内
その他 各寺社発行の栞・パンフなど
【江府名勝志】は早稲田大学図書館が運営する 古典籍総合データベース を参照させて頂きました。






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