≡☆ 菖蒲の散策 Part.3 ☆≡

幾度か訪ね歩いたことのある菖蒲町ですが、その時の散策記を載せようと調べ事をしている際に 久喜市HP に掲載されていた「菖蒲4時間コース」の観光ウォーキング・マップを見つけたの。訪ねたことがあるとはいえ、合併以前のことなので、この際だからと改めて出掛けてみることにしたの。But 今までの経験からするとξ^_^ξが歩くと標準的な所要時間の倍以上掛かることが多く、4時間とあるからには少なくとも8時間は必要かも知れないわ−と、覚悟を決めたの。補:一部画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

小林神社〜妙福寺〜正眼寺〜見沼代用水路〜常福寺〜柴山伏越

1.JR桶川駅 おけがわえき 6:43着 6:51発

Printing 推奨コースでは「菖蒲城趾あやめ園」や「八束緑地グラウンド」を見処として挙げているのですが、アヤメやラベンダーが咲く時期なら必見ポイントも時季を外してしまうと見るべきものは何も無いの。一方でコースからは外されたポイントもあり、推奨コースを基本にアレンジを加えて歩いてみることにしたの。なので本来の「菖蒲4時間コース」ではなくなってしまいましたが、実際の所要時間が予想出来ないことには変わりなく、意を決して陽の昇らぬ内に電車に飛び乗り、朝日バスの桶川駅東口6:51発「菖蒲車庫」行に乗車したの。標準所要時間:15分 ¥330

結果的には見学時間を含めて7時間程で散策することが出来たので、早起きしなくても構わなかったのですが。参考までに各ポイント毎の実時間を載せておきますね。多分、これ以上はゆっくりと観ることも、歩くことも出来ないと思うわ。(^^;

2.野々宮BS ののみやばすてい 7:08着発

野々宮バス停 バスの下車後はそのまま進行方向に歩くと小林交差点があるので、それを左折した後は道なりに進んで下さいね。因みに、小林は「おばやし」と読んで下さいね。「こばやし」だと地元の方に道を訊ねても「オラの町にそげなとこはねえけんども」と会話が成り立たないの。なので、菖蒲町では「おばやし」と読まないと町を歩けないわよ。(^^; ちょっと茶化してしまいましたが、何でも室町時代の長禄元年(1457)に江戸城を築いた上杉家の家宰・太田道灌の家臣・太田修理がこの地を開いた後、小林と姓を改めて小林周防守(おばやしすおうのかみ)と称したことに由来するのだとか。

3.小林神社 おばやしじんじゃ 7:23着 7:39発



【神社合祀碑】武藏國南埼玉郡小林村々社小林神社は 字本村に鎭座せし村社三上神社をはじめ10あまり 三の字内なる無格社12社 其境地の末社6社を合せ祀り 産土大神と齋ひ奉れるなり 此里竒しくも石上ふるき御代より神を敬ふ風習のいと厚かりしかば 小字内處々に社殿を建てて齋きまつりしかど 新玉の年經るまま小社殿の修理祭事の式も欽ることの出來ぬるをいと畏きことに思ひ居たりしに 遇公の御さとしもありければ 去にし大正2年(1913)2月20日御ゆるしを得て これの京手なる白山社に合祀し 社名を小林神社と改稱し 境地を擴め 本殿拜殿及び神樂殿社務所をも新に築き 資金1,500餘圓をさへ得て 基礎もいよいよ確立しぬることは 全たく氏子の人々の神を敬う志のあつきによれる事にして 大神達の御めでもまた淺からざるべし あはれ氏子の人々の かく一致和合して斯の盛擧をなししことよ 誠に皇國の風儀にも叶ひ 此村内の榮えもしのはれてゆかしくなん 茲に事のゆえよしを碑石に彫りて後世に傳へむとて 其文をおのれに乞はるるままに いなびがたくて斯くはしるしぬ 大正6年(1917)12月 官幣大社氷川神社宮司正六位勳六等額大直 篆額 正八位東角井福臣 撰書 (一部修正加筆)

4.観音堂 かんのんどう 7:48着 8:11発



ここでの所要時間が異常に長いのはそのためなの。状況からすると堂内にはその聖観音菩薩像と厨子が安置されていると思うわよね。でも、そんな大事なものを今にも雨漏りしそうな佇まいの建物に収めていて大丈夫なのかしら。鍵も頼りなげで簡単に壊されてしまいそうよ。もっとも目の前が駐在所なので盗難の心配は無いのかも知れないけど。(^^;

菖蒲町指定有形文化財 聖観音菩薩坐像及び厨子
指定年月日:昭和60年(1985)6月4日 所在地:菖蒲町大字小林(現:久喜市菖蒲町小林)
観音菩薩は正しくは観世音菩薩あるいは観自在菩薩と云い、衆生の救いの声を観じて自在にこれを救う菩薩であると云われている。聖観音は変化観音(如意輪・十一面・千手観音等)に対する普通の観音である。本来は阿弥陀如来の左脇侍となり、宝冠に阿弥陀如来の化仏を戴くが、単独像としての信仰も厚い。飛鳥時代から江戸時代にかけて造られるが平安時代の作が最も多い。本観音像は鎌倉時代(13世紀後半)の木造の単独像である。輪光背を配し、左手に蓮華を持つ。ケヤキの寄木作りで玉眼を嵌入し、像底部を浅く内刳りしている。頭部耳前で前後二材、体幹部背面寄りで前後二木をそれぞれ寄せる。頭部は差首と思われる。作風は運慶様式を基調に当時影響の強かった宋風を加味している。時代及び作風の知れる仏像として菖蒲町にとって貴重なものである。この仏像は60年に一度御開帳する秘仏として古くより人々に崇拝されて来た。厨子は年代が明らかではないが、豪壮で巧緻極まる彫刻が特徴的である。寸法 像高 50.4cm 光背高 54cm 台座高 21.5cm 昭和61年(1986)3月 菖蒲町教育委員会
(一部修正加筆)

この観音堂は、次に訪ねる妙福寺とは敷地を接して建てられていたので、妙福寺の境外堂かしらと思ったのですが、そうではないみたいね。久喜市HP には聖観音菩薩像と厨子の管理者は「池元院」とあるの。じゃあ、その池元院(ちげんいん)はどこにあるのかと云うと、埼玉県鴻巣市加美2-7-76 に建つ池元院がそうみたいね。管理者だからと云って地権者とは限らないので断言は出来ないけど、妙福寺とは無関係のようね。だとしたら、同じ日蓮宗寺院なのに余計分からないわね。何かそうしなくてはならない特段の理由でもあるのかしら。脳天気な旅人の感想を云わせて貰えば、宗派が同じなのですから折り合いを付けられないのかしらね。妙福寺には新しくて綺麗な堂宇がいっぱいあるわよ。(^^;

次に訪ねる妙福寺には嘗て多くの塔頭があり、その中に「地現坊」の名があるの。「地現」と「池元」の違いはあるものの、何かしらの関係がありそうよね。これはξ^_^ξの想像ですが、僧坊を残したまま鴻巣に転出し、今に至っているのかも。

5.妙福寺 みょうふくじ 8:12着 8:19発

妙福寺 所在地:南埼玉郡菖蒲町大字小林(現:久喜市菖蒲町小林)
妙福寺の創立は応安年間(1368-1374)と伝えられ、法宣院日英の開山で、本尊は三宝祖師である。当初は5,000余坪の境内を有し、近在の名刹であった。元は真言宗延命山金剛院と称したが、千葉県中山の法華経寺僧日英の教化で改宗し、日蓮宗延命山妙福寺と改める。慶安2年(1649)には三代将軍家光から寺領21石6斗の御朱印を賜っている。天正4年(1576)に本堂、客殿を焼失したのを始めとして、再三に亘り火災にあったが、現在の本堂や庫裏は天保8年(1837)に再建されたものである。その後は火災に遭うことはなく、大正7年(1918)と昭和44年(1969)に本堂屋根の葺き替え、昭和8年(1933)に山門が再建された。毎年11月12日の夜に行われる「御会式」は、日蓮上人に報恩の信心を捧げる会式であって、現在も存続して行われている。昭和58年(1983)3月 菖蒲町教育委員会
(一部修正加筆)





6.正眼寺 しょうげんじ 8:40着 8:53発



当山は医王山正眼寺と称し、慶長2年(1597)幸手市波寄の宝持寺第6世豊山東雪禅師を迎えて開山。開基は柴崎家一門の総本家・現柴崎美男家の初祖・道慶泰應麟宗座元と伝えられる。慶安2年(1649)三代将軍家光公より10石2斗の朱印状を受けており、 禅寺として近隣にも名を知られ連綿と法燈を護持してきた。然るに弘化3年(1846)火災により本堂・禅堂・庫裏外殆どの堂宇を焼失。時の住職19世本光泰然大和尚は責を負って退任、20世大道王林大和尚を経て21世大嶠広学大和尚を大宮市(現:さいたま市)西福寺より迎えて寺檀一丸となり復興に全力を挙げ、嘉永5年(1852)実に7年がかりで本堂と仮庫裏が再建された。本堂は明治36年(1893)22世戒学宗孝大和尚代に屋根を茅葺きから瓦に葺き替えるなどかなりの補修を施したようであるが、長年の風雨に晒されて年毎に損傷が目につくようになり、そこで総代世話人会に計り、昭和61年(1986)開山四百年祭実行委員会を結成し、本堂・山門の改修、開山堂新築が記念事業として計画された。<以下省略>平成7年(1995)銘の山内諸堂落慶記念碑より一部抜粋の上修正加筆

縁起にその名がある柴崎家初代の泰應麟宗と云う方ですが、柴崎与五右衛門が本名みたいね。でも【新編武蔵国風土記稿】には「開基は名主七兵衛が先祖柴崎与五右衛門にて 明暦三年二月廿五日終り泰休常安と諡す<中略>本尊薬師を安ず」と異なる名を挙げているの。どちらが正しいのかはξ^_^ξには分からないけど。







鐘楼には嘗て元文5年(1740)に鋳造された梵鐘が掛けられていたのですが、第二次世界大戦の際に戦時供出させられてしまい、現在の釣鐘は昭和25年(1950)に新たに鋳造されたものなの。二度とあっては欲しくはないし、また、あってはならないことだけど、この吊鐘が再び戦時供出させられるようなことがおきないようにと、切に思う次第よ。その願いを込めて、ゴ〜〜〜ン。

7.こんぴらさま 8:54着発



金毘羅はサンスクリット語の Kumbhira の音訳で、元々はインドのガンジス川に棲む鰐を神格化したものと云われているの。日本各地に鎮座する金毘羅社の総社とされるのが讃岐国(現:香川県)の金刀比羅宮(琴平神社)で、海上安全の守護神なの。現在は大物主命を祭神としますが、明治期の神仏分離令発布以前は象頭山金刀比羅大権現を祭神としていたの。琴平神社の背後にある象頭山は古来より瀬戸内海を航行する漁民達の信仰を集め、航海の無事を祈願していたの。後に仏教が伝えられ、現在の琴平神社が建つ地に松尾寺が創建されると、象頭山の海上守護神が金毘羅神に習合されて寺院の守護神にされたの。象頭山の名にしても、元々は金毘羅神の宮殿があるとされた山の名前なの。その金毘羅神に対する信仰が広がりを見せたのは室町時代以降のことで、海運業の隆盛に併せて各地に祀られるようになったの。嘗ては正眼寺の傍らを流れる野通川にも荷を載せて行き交う船が多くあったのかも知れないわね。

8.しょうぶの梨百年記念碑 しょうぶのなしひゃくねんきねんひ 9:02着 9:07発



「こんぴらさま」で折り返して北へ200m程歩くと、車道と見沼代用水路遊歩道に挟まれるようにして御覧の石柱が建てられているの。碑には「彩の国さいたま しょうぶの梨百年記念園」とあるように、左手には小さな梨園が造られていたのですが、既に収穫期を終えていて実の一つさえ見つけることが出来ずに終えてしまったの。それはさておき、最初ξ^_^ξは「しょうぶの梨百年記念碑」とはこの石柱のことかしら?と思ったのですが、そうでは無かったの。右手に休憩処が造られていたので一息つこうかしらと足を向けたのですが、記念碑はそこに建てられていたの。併せて「俳句の碑」と「短歌の碑」も並び立てられていたの。先ずはその「しょうぶの梨記念碑」から御紹介してみますね。

菖蒲町は梨の栽培が普及して百年が経過しました。現在、本町には350戸程の梨栽培農家があり、埼玉梨の産地としてその名を博しています。本町に梨栽培を普及させたのは「埼玉梨の元祖」として知られる五十嵐八五郎さんです。八五郎さんは安政元年(1854)に現在の菖蒲町大字台字向野の大久保家の次男として生まれました。八五郎さんは明治4年(1871)に剣道修行という大志を抱いて生家をたち、しかし偶然、群馬県において梨の栽培に関心を持ちました。その後千葉を始め各地で梨の栽培技術を習得した後、大里郡武川村(現:川本町)の五十嵐家に縁付いて姓を変えました。梨の栽培は収益も多く、農家の有望な事業となることに着目した八五郎さんは、親類縁者を通し明治17年(1884)に旧三箇村へ、同23年(1890)には旧栢間村へと梨の栽培技術を伝えました。そして今から百年前に当たる明治26,7年頃には、埼玉梨の代表種「長十郎」が発見されたこともあり、それ以降、本町においても柴山枝郷を中心に有力な農業経営の副業となっていきました。梨の栽培が町内全域で広く普及するようになったのは明治末期からで、同43年(1910)の大水害の際に、田畑の被害に比べ、梨の被害が少なかったことから急速に広まっていったと云われています。このように、本町において梨の歴史は農業の歴史でもあります。今、私たちは百年の歳月を振り返り、梨とのめぐりあいを感謝し、五十嵐八五郎翁の偉業をここに刻し、これを末永く伝えようとするものであります。平成6年(1994)8月15日 埼玉県・菖蒲町



9.見沼代用水路遊歩道 みぬまだいようすいろゆうほどう 9:08着発





But 云うは易し、行うは難し−で、工事費用約20,000両に、延べ90万人もの労働者が投入された巨大事業で、まさに国家的プロジェクトだったの。と云うことで、「見沼(溜井)の水の代わりの用水路」の意から見沼代用水路と呼ばれるようになったの。



ねえねえ、水田ではどのくらいの水が使われているの?
最大で 37.51u/s よ。一年間に使う水の量は東京ドーム(124万m3)の約300杯分にもなるの。
この見沼代用水路の水を使う水田の面積は15,400haで、東京ドーム(28,000u)の広さの5,500倍もの広さがあるの。
じゃあ、水道で使われる水はどれくらいなの?
水道用水は約 4.26u/s よ。一日当たり100万人が使う量で、学校の25mプールだとおよそ1,000杯分になるの。
4人家族のお家に例えると、一人当たりが使う水の量は約360Lで、バスタブ2杯分にもなるの。

推奨される「菖蒲4時間コース」では神ノ木橋からは小学校跡地記念碑やフラワーガーデン実野里を経て八雲神社へ向かうことになっているのですが、ここで「菖蒲3時間コース」で立ち寄りポンイントに挙げられている柴山伏越に足を伸ばしてみたの。見学を終えたところでもう一度神ノ木迄戻り、「菖蒲4時間コース」に復帰しましたが、今にして思えばそのまま元荒川沿いを歩いて一本木橋へ向かっても良かったかも知れないわね。この時は未だ小学校跡地記念碑や八坂神社のことを知らずにいたので気になり、訪ねてみたの。それはさておき、「しょうぶの梨100年記念碑」から常福寺までは45分程歩かなくてはならないの。今回の散策では一番のロング・アプローチですが、頑張って下さいね。尚、途中の通過タイムは 神ノ木橋 9:31着発 稲荷神社 9:35着発よ。

10.常福寺 じょうふくじ 9:51着 9:55発







11.柴山堰 しばやまぜき 9:55着 10:20発







対岸にある伏越の出口側も訪ねてみたので、気になる方は上の画像をクリックよ。
画像毎にコメントを付けてアップしておきましたので御参照下さいね。


12.柴山観音堂 しばやまかんのんどう 10:21着 10:26発



柴山観音堂 白岡町大字柴山字宮野 柴山観音堂の由緒については明らかでないが、江戸時代末期の【新編武蔵国風土記稿】の柴山村の項には「観音堂玉蔵院持」という記載がある。またその「玉蔵院」の山号が「瑠璃山観音寺」とも述べられているので、柴山観音堂は元来この「玉蔵院」に属するものであったと思われる。尚、玉蔵院とは菖蒲町の吉祥院の末寺であったが、明治4年(1871)に廃された。伝承では、同院は尼寺で、ここより南東の畑の中にあったという。また、現観音堂の境内にある薬師堂は、玉蔵院跡から移したものであるという。現在は焼失してしまったが、旧本堂の正面には、戦国時代の菖蒲城主だった佐々木氏が、当地に移り住み墓所を守るために観音堂を建てたと記された額が掲げられていた。また、町内では二番目に古い、享保11年(1726)銘の半鐘も伝わっている。その他、筆子塔など江戸時代前期の奉納物が数多く残されており、町の貴重な歴史を伝えている。平成11年(1999)1月 白岡町教育委員会 (一部修正加筆)

13.柴山諏訪八幡神社 しばやますわはちまんじんじゃ 10:27着 10:38発



諏訪八幡神社 所在地:南埼玉郡白岡町大字柴山 諏訪八幡神社は、大字柴山のほぼ中央に位置し、古来、地域住民の信仰の対象として、中心的役割をなしてきた神社である。当神社は、昭和19年(1944)に大山神社と改名されているが、現在でも諏訪八幡神社として親しまれている。祭神は、応神天皇と建御名方命である。寛文12年(1672)に藤原氏天野康寛(あまのやすひろ)が書いた【諏訪八幡神社之神記】に依れば「霊験の記は紛失して証拠となるものはないが、伝説に依ると宇多源氏の後胤佐々木四郎秀綱がこの地を領していたとき、霊験があり、諏訪社と八幡社の両社を合祀した」とある。当社には、地域の信仰を物語る各種の絵馬が多く奉納され、よく保存されている。また、祭礼時には大太鼓、小太鼓、鉦による囃子が奉納される。昭和58年(1983)3月 白岡町 (一部修正加筆)



14.見沼代用水路遊歩道 みぬまだいようすいろゆうほどう 10:42着発



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