≡☆ 菖蒲の散策 Part.2 ☆≡
 

あやめ・ラベンダーのブルーフェスティバルを機に幾度か訪ね歩いた菖蒲町ですが、見沼代用水路の開削などを通して水運が発達したことから嘗ては地域経済の中心地として栄えていたの。陸上輸送の発達に伴い、人・物・金の流れも変わり、往時の賑わいからは遠ざかってしまいましたが、残された事跡を辿れば、喜怒哀楽に一喜一憂していた当時の人々の姿が垣間見えてくるの。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

菖蒲町寺社めぐり〜道のオアシス菖蒲〜八間堰・十六間堰

1. JR桶川駅 おけがわえき 9:10着 9:26発

Printing 今回の散策では朝日バスの菖蒲仲橋BSを起点にしていますので、桶川駅だけでなく宇都宮線を利用して蓮田・白岡・久喜駅からのアプローチも可能ね。久喜駅と云えば、紹介する菖蒲町も平成22年(2010)3月にそれまでの旧・久喜市、北葛飾郡栗橋町及び鷲宮町と合併して誕生した新・久喜市の一部になっているの。なので、合併以前と以降では同じ菖蒲町でも微妙に異なるのですが、一部合併以前に訪ねたときの内容を掲載しています(実害は殆ど無いとは思うけど)ので御了承下さいね。所要時間:18分 ¥390

2. 菖蒲仲橋BS しょうぶなかはしばすてい 9:45着発

バス停 最初に新堀地区を歩きますので、下車後は少し戻ると交差点があるのでそれを右折して下さいね。菖蒲町は幾度か訪ね歩いたことからようやく道に迷うこともなく歩けるようになりましたが、地図を持ち歩いていたとしても得てして迷うものよね。名の知れたところならまだしも、ξ^_^ξが訪ねるようなマイナーな代物 (^^; では地図にも載らず、地元の方でも知らないことがあるの。それに幹線道路から離れて細い道を歩くことは日常茶飯事。やはり知っている方に訊くのが一番。と云うことで、不安を感じたあなた、歩き出す前に交番へ立ち寄りましょうね。交番はバス停の目の前にあるの。(^^;

最初に訪ねる永昌寺ですが、交差点からは200m位かしら、「ほりべストアー」さんがあるので、その脇道に折れて下さいね。直ぐに永昌寺への出入口が見えて来ますが、それは車で出入りするときの通用口になるの。ダメだとは云いませんが、訪ねるのであれば、やはり山門を潜り抜けて参詣したいものよね。

3. 永昌寺 えいしょうじ 9:49着 10:00発

その山門の前には不許葷酒入山門と記された戒壇石(結界石)が建てられていましたが、不許葷酒入山門は葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず−と読み、葷はネギやニンニクなどの臭い匂いを発する野菜のことで、穢れたものとして忌み嫌われているの。お酒も座禅や仏道修行するには論外のものよね。山門は清浄な修行地である境内と俗界を分ける境界でもあり、ここから先へは両者を持ち込むことは罷りならぬ−と云うことになるの。

山門には「菖蒲城主佐々木六角 大塚家菩提寺」とも記されるのですが、菖蒲の散策 Part.1 をお読み頂いている方は、オイオイ、変じゃねえのか、初代の菖蒲城主は金田式部則綱で、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めを受けて廃城となるまでその金田氏が菖蒲城主だったと書いてあったじゃねえか、嘘を書いてたのかよ−と思われるかも知れないわね。実は、金田氏も佐々木氏の分流なら大塚氏もまたその一流なの。菖蒲城趾に建てられている菖蒲城阯之碑の碑文からは三氏の関係を知ることが出来るの。参考までに再掲しておきますので御参照下さいね。

菖蒲城阯之碑 埼玉縣史蹟調査委員 柴田常惠題額
菖蒲城は一に新堀城といい 東北に星川 西南に小林沼を擁する要衝に營まれ その形勢羽生・騎西の諸城に類似し 康正2年(1456)5月 金田式部則綱の創始と傳う。金田氏は近江佐々木氏にして 秀義12代の孫氏頼の長子滿高初めて金田氏を稱して 東國に來住し その子友綱應永26年(1419)埼玉郡須賀に留まり關東管領に屬す。則綱は友綱の子にして佐々木氏を稱し 一族大塚氏と共に新堀に居り 古河公方成氏に仕え 菖蒲領十二郷を領有し 宮宿の吉祥院を以て祈願所と爲す。鎌倉大草紙に享徳4年(1455)6月 成氏上杉勢の爲に鎌倉を逐われ菖蒲に落著 敗軍の士卒を集めて 總州下河邊城に篭ると曰えるもの 即ち此地にして蓋し則綱を頼りしものなるべく 以て其勢力を察するに足る。則綱の子氏綱は新堀の久伊豆神社を崇めて城の鎭護と爲し 又慈母の爲に永昌寺を開創す。4代の孫頼綱は原の東雲院を開基し 其子秀綱の時には忍城成田氏の旗下に屬し 天正18年(1590)小田原北條氏の滅亡と共に遂に廢城となり 子治部の柴山移住により その跡陸田と化し大塚氏の有となれり。今茲皇紀2,600年を期し有志相謀り碑を城阯に建て 以て往時を顯彰せんとす。則ち囑に依り沿革の大概を敍す。昭和15年(1940)6月 埼玉縣史編纂囑託 稻村擔元撰竝書

現在は久林山花巌院永昌寺を正式な山号寺号とする曹洞宗寺院ですが、その縁起を辿ると室町時代中頃の天文9年(1540)、現:白岡町の興禅寺第2世華巌楚清和尚を開山に、金田則綱の孫が開基したもので、中興開山は浙酉州松和尚と伝えられているの。日頃から仏教に帰依していた則綱夫人は夫の則綱が没すると落飾出家し、その菩提を弔うために念持仏の地蔵尊を安置して供養の日々を過ごしたと云われているの。後に、その祖母の菩提供養のためにと一宇を建立したのが永昌寺の始まりで、寺号は祖母の法名・久林院殿繁室永昌大姉に因むものなの。

盛時には本堂や庫裏を始めとして観音堂・地蔵堂・鐘楼などが建ち並ぶ七堂伽藍を備えたのですが、明治11年(1878)の火災で灰燼に帰してしまい、山門だけが辛うじて焼失を免れたの。その山門には「大塚家菩提寺」とあることから墓苑には大塚家の墓所があるハズなのですが、境内には何の案内もないの。徒にウロウロ出来るような雰囲気にはないので探索は諦めましたが、禅寺ですので物見遊山の参詣客などは論外で、「不許脳天気輩入山門」なのかも知れないわね。最後に墓苑の入口傍らに建てられていた本堂落慶記念碑の碑文を紹介して永昌寺の参詣を終えますね。

当山は約500年の歴史を有する古刹なり。『新編武蔵国風土記稿』永昌寺の項に「禪宗曹洞派 白岡村興禪寺末久林山と號す 開山は本寺二世の僧楚清 文亀元年(1501)正月廿四日寂せり 本尊釋迦を安ず」と見えたり。按ずるに 草創は更に数年乃至十数年前の室町時代中期と推定せらるなり。旧本堂は明治14年(1881)の建造にして老朽せり。因りて昭和58年(1983)末、本堂再建の議起こり、住職檀徒相詢り再建の事と決定せり。佛法僧の三寶に帰依する檀信徒の、浄財の寄進により、昭和59年(1984)9月、再建に着工せり。併せて山内の整備を行へり。檀信徒待望の裡、建築関係者の卓越せる技法により、荘厳なる本堂の竣功を見るに至れり。高く聳ゆる甍、清雅にして見事なる結構、青空に映えて、清浄の氣山内に滿てり。伋りて昭和60年(1985)11月16日、本堂落慶供養を檀信徒共々、諸大徳を請じ大法要を厳修せり。是正に当山の昭和の中興と稱すべきなり。永昌寺24世白雲忠昭和尚の代なり。茲に佛恩に感謝し、顛末を記し、賛助を寄する芳名を録し、其の厚志に酬い、後世に伝ふるものなり。維時 昭和62年(1987)11月吉祥日 永昌寺本堂再建建設委員長 大熊正久謹撰

4. 下新堀・久伊豆神社 しもにいぼり・ひさいずじんじゃ 10:02着 10:07発

次の西願寺に向かう道筋の途中に鎮座していたのがこの下新堀久伊豆神社なの。今回の散策コース上には当社を含めると同名の久伊豆神社が三社もあり、混乱を避けるために地名を冠して御案内しますので煩わしいかとは思いますが御了承下さいね。久伊豆の読み方にしても「くいず」と「ひさいず」の二通りがあり、今となってはどちらが正しいのかも分からないの。ここではξ^_^ξの個人的な趣味から「ひさいず」で御案内しますね。その久伊豆神社の総本社とされるのがお隣の旧・騎西町(現:加須市)に鎮座する玉敷神社で、古くは久伊豆明神と呼ばれていたの。

その玉敷神社ですが、【新編武蔵風土記稿】(以降【風土記稿】と略しますね)には「郡内所々に久伊豆社と唱ふるもの多くあれど 何れもさせる古社とも思はれざれば 若くは式に見え【東鑑】にも沙汰あるは當社ならんか」とあるの。but 「されど千百年の古へを後の世より論ずれば 如何にともいひがたし 久伊豆と改めしは騎西郡内にありて騎西久伊の語路相通ずれば 唱へ改めしといへど 是も附會の説とおぼしく 社傳等には據なし」とも記されているの。

『久喜市史 通史編』(久喜市発行)では、【吾妻鏡】の建久5年(1194)6月30日の条に「武藏國に於て大河戸御厨と伊豆宮神人等と喧嘩出來たるの由 其聞こえ有り 驚き思食すに依て 尋ね沙汰せしめんが爲 掃部允行光を下し遣わさると」と、大河戸御厨の住人達と伊豆宮の神人が争ったことが記されているのを引いて、伊豆宮を伊豆山権現(現:伊豆山神社)に比定して伊豆山信仰の流入を推考しているの。【吾妻鏡】には喧嘩の内容についてまでは記されていないのですが、御厨(みくりや)と云えば元々は皇室や伊勢神宮が領した庄園のことよね。

事件が起きる2年程前のことですが、【吾妻鑑】の建久3年(1192)12月28日の条には「伊勢太神宮御領武藏國大河戸御厨所濟の事 員數を増し 神主に對して定め下さるる當所の田代八百餘丁なり 平家知行の時 本宮に御上分國絹百拾三疋の外 神用すること能わずと雖も この御時に當りて 公私の御祈祷の爲に 正官物併せて免じ奉らるる所なり 所謂本田別に二疋四丈 新田町別に二石 所當田町別に一石三斗と云々 因幡前司藤民部丞等之を奉行すと云々」とあり、大河戸御厨は伊勢神宮の荘園であることが分かるわね。

一方の伊豆山権現は鎌倉幕府とは深〜い関係にあり、その後盾を良いことに大河戸御厨の利権をぶんどろう (^^; としたのかも知れないわね。ローカルな事件なのにわざわざ政所寄人の藤原行光を遣わしたことなどからすると、事件の背後には深い意味が隠れているみたいね。その大河戸御厨ですが、現:埼玉県北葛飾郡松伏町大字松伏の地がそれにあたるみたいね。詳しいことは【風土記稿】の葛飾郡松伏領の項を御参照下さいね。ちょっと脱線してしまいましたね、ごめんなさい。お話しを元に戻しますね。

この下新堀久伊豆神社の創建ですが、詳しいことは分からないの。【風土記稿】には「久伊豆社二宇 共に村の鎭守にして一は南藏院、一は觀音寺持」とあるのですが、この下新堀久伊豆神社は観音寺(後述)持になるの。祭神にしても明治42年(1909)に郷内各社を合祀したことから現在は大己貴命(おおなむちのみこと)を始めとして市杵島比売神・倉稲魂命・迦具土命・国常立命・菅原道真・誉田別命の他にも11柱が祀られていて、神さまの見本市会場状態にあるの。その神さま達が祀られる正殿は本殿内に鎮座するのですが、容易にはその姿を披露しては頂けないみたいね。

久伊豆神社 埼玉県指定有形文化財・建造物 下新堀久伊豆神社本殿 一棟 附棟札二枚
指定年月日:平成3年(1991)3月15日 所在地:久喜市菖蒲町新堀600 所有者:下新堀久伊豆神社
下新堀久伊豆神社は元荒川流域に現存する57社ある久伊豆神社の内の一社です。菖蒲城が建てられた康正2年(1456)には存在し、二代佐々木氏綱に依り城の鎮護として崇められたと云われています。本建物は間口・奥行とも二尺八寸(約85cm)の一間社流造と云う形式で建てられ、前面に軒唐破風及び千鳥破風を持った江戸時代中期の代表的な神社建築です。屋根は柿葺で仕上げられ、各部均整がとれた保存状態の良好な建物です。この本殿の特徴は壁面彫刻と向拝柱の巻龍にあります。特に向拝柱は巻龍を一木から掘り出し、柱部分を几帳面取りしたもので、県内でも最古の形式を示すものとして貴重です。妻飾りは力士の彫刻で棟木を受け、三斗を支える珍しいものです。浜縁は中央に平三斗組、左右に三斗組の変形で受ける数少ない形式です。脇障子は高砂の尉と姥の彫刻で、姥は箒を担ぎ左褄をとった奇抜な構図です。この建物は、擬宝珠銘と棟札から宝永6年(1709)の造立と確認され、裏書きから江戸神田かうや町の清右衛門と云う宮大工に依り建てられたことが分かりました。また、文化10年(1813)の棟札に依ると、彩色などの補修が施されています。この建物は、社寺建築史上・彫刻史上重要なものです。平成6年(1994)3月15日 埼玉県・菖蒲町教育委員会

5. 西願寺 さいがんじ 10:10着 10:16発

道の突き当たりに見えてくるのがこの西願寺。創建は室町時代の文安年中(1444-49)に西願房意存和尚が開山したと伝えられ、現在は萬霊山放生院西願寺を正式な山号寺号とする浄土宗寺院ですが、寺号は開山の西願房意存和尚の名に由来するの。でも、それ以上のこととなると【風土記稿】にも「淨土宗 足立郡鴻巣宿勝願寺末 萬靈山と號す 本尊阿彌陀を安ぜり」とあるだけで詳しいことは分からないの。なので、ここでは境内に建てられていた案内板の内容を転載して紹介に代えますね。

菖蒲町指定有形文化財 木造如来形立像 一躯
指定年月日 平成10年(1998)2月20日 所在地:久喜市菖蒲町新堀667 所有者:西願寺
西願寺は浄土宗の名刹で山号を萬霊山放生院※西願寺と云います。関東十八檀林の一つとして知られる鴻巣市の天照山勝願寺の末寺で、勝願寺5世良意上人酉性大和尚の法弟である西願房意存和尚の開山になります。創立は文安年中(1444-49)と伝えており、本尊に阿弥陀如来を安置しています。この如来形立像は、江戸時代前期の遊行僧である円空上人に依り作られ、所謂「円空仏」と呼ばれるもので、町内で二体確認されています。本堂の右脇壇に古くから保存されて来たと云われています。如来は仏陀と同じく「修行を完成し、悟りを開いた人」を意味し、「真理の世界から衆生救済のために迷界に来た人」と理解されています。一般的には袈裟に身を包み、装身具を一切身に着けない出家者の姿で表されます。如来には釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来・大日如来などがありますが、本像がどの如来を表したものか、その表現からは判りません。如来形立像と云う名称になっているのはそのためです。

記述では院号が放光院とあるのですが、石柱には放生院とあるの。
なので、ここでは放生院として御案内しますね。

本像の形状は、頭頂部を肉髻状に掘り出し、胸の辺りで法衣中に印を結び、やや右に体を傾けて岩座に立っています。スギ材の一木造で彫眼を施し、素地のまま仕上げています。小さめの丸材を二つに割り、二面をそぎ落として三角柱とし、その木表の稜部側に彫刻しています。全体は黒く煤けていますが、保存状態は良好です。この円空仏は、いつ誰に依ってどのような経路を経て西願寺へもたらされたかは明らかではありませんが、この像の発見は、確認例が少ない南埼玉郡北部の例として貴重です。また、埼玉に於ける円空の活動範囲を知る上でも見落とすことの出来ない高い資料的価値を持っています。総高:36.3cm 像高:31.0cm 平成12年(2000)9月25日 菖蒲町教育委員会

6. 観音寺 かんのんじ 10:20着 10:26発

地図上にその名を見つけて訪ねたみた観音寺ですが、広い敷地に観音堂が建つだけの簡素な佇まいでした。【風土記稿】には「同末(南藏院:後述)にて大悲山と號す 本尊不動を安ぜり 觀音堂」とあるように、嘗ては大悲山観音寺を山号寺号とする独立した寺院として営まれていたのですが、昭和52年(1977)に吉祥院(後述)に吸収合併されたの。境内の広さからは、嘗てはそれなりの陣容の伽藍が建てられていたことが窺い知れ、現在は車道が境内の右手を通りますが、以前は畑の中を通る参道を経て参詣していたみたいね。『菖蒲町の歴史と文化財』(菖蒲町教育委員会編)に依ると、戦争で観音寺の浄心住持も徴兵され、悲しいことに昭和19年(1944)に南京で戦死してしまい、以後は吉祥院の住持が兼務していたとのこと。仏の道を説く者をも戦場に駆り出してしまうような時代は二度と来て欲しくはないし、決してあってはならないことよね。

7. 上新堀・久伊豆神社 かみにいぼり・ひさいずじんじゃ 10:41着 10:46発

次の南蔵院に向かい、県道R313を歩きましたが、車には充分気を付けて下さいね。車の往来が少ないことから時折大型車が唸りを挙げて傍らを通り過ぎて行くの。歩道が無いので恐い位よ。しばらく歩くと埼玉原種育成会と云う会社のビルの少し手前に鳥居が建てられていたので寄り道してみたのがこの上新堀久伊豆神社なの。【風土記稿】に「久伊豆社二宇 共に村の鎭守にして一は南藏院、一は觀音寺持」とある内の南蔵院持になるのですが、その創建となると詳しいことは分からないみたいね。現在の祭神は宇賀御魂命と軻遇突智命の二柱とされているの。

宇賀御魂命(宇迦之御魂神 or 倉稲御魂命)とは稲荷神のことで、早い話しがお稲荷さんのことなの。
因みに、お狐さまはお稲荷さんのお使いなので誤解の無いようにね。

境内に建つ上新堀久伊豆神社修築記念碑には「上新堀久伊豆神社は天明の飢饉(1780年頃)の際、村民が京都に赴き、村内繁盛・五穀豊穣・子孫長久を願って伏見稲荷から正一位宇賀御魂久伊豆大明神を勧請したとの記述がある」と紹介されていることからすると、最初に祀られたのがその稲荷神と云うことになるわね。出所が不明ですが、記述には宇賀御魂久伊豆大明神とあり、余計なものがくっついてしまっているけど、それは後世に付与されたものと考えた方が良さそうね。だって、伏見稲荷のお稲荷さんは飾りっ気無しの純真無垢だもの。(^^;

一方、軻遇突智命も祭神として祀られていることからすると、後に愛宕社が合祀されたのかも知れないわね。軻遇突智命は火産霊神(ほむすびのかみ)の名でも呼ばれ、この神を祀る本社が現:京都市右京区嵯峨愛宕町に鎮座する愛宕神社なの。片や静岡県熱海市に鎮座する伊豆山神社の祭神は伊豆山神で、火牟須比命(ほのむすひのみこと)、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三柱とされ、この火牟須比命と云うのが火産霊神ではないかとも噂 (^^; されているの。伊豆山神社と久伊豆神社に同じ火産霊神が祀られることからしても、伊豆山との関連性が想起されるわね。

絵馬 菖蒲町指定有形民俗文化財 上新堀久伊豆神社絵馬 16面
指定年月日:平成4年(1992)3月23日 所在地:久喜市菖蒲町新堀2364
上新堀久伊豆神社は天明2年(1782)9月、白川家※より許可を受け、正一位宇賀御魂久伊豆大明神を当地に勧請して今に至っています。この上新堀久伊豆神社には町内で最も多い広義の意味での大絵馬(『繭額』2面を含む)16面が残されています。この絵馬は、江戸時代から明治時代に掛けての絵馬です。画題としては武運長久を願う武者絵が多く、神功皇后・鞍馬山・川中島など6面があります。また、商売繁盛図・上棟式・刀鍛冶・女拝みなどバラエティーに富んだ画題が多いのも特徴です。年号は12面に残されており、安永3年(1774)から文久3年(1863)までの9面が江戸時代の作品です。繭額2面と「布袋と唐子」が明治時代のものです。絵師は安政2年(1855)「刀鍛冶」の伊白榮厚と明治10年(1877)「布袋と唐子」の藤田愛宕の2面で判明しています。「上棟式」は天明2年9月、正一位宇賀御魂久伊豆大明神を勧請し、神社本殿を建立したときの棟上図と思われる同年霜月の年号が見られます。また、江戸下谷斎藤清兵衛、斎藤市衛門の裏書があります。これは民俗学上貴重であるばかりでなく、江戸時代中期の上棟式を表現した絵画資料として建築学的にも重要なものです。「商売繁盛図」の年号は安永3年(1774)で、久伊豆大明神を勧請する以前の奉納と云うことになります。「刀鍛冶」は安政2年(1855)の年号の他、「行年65歳」と絵師・伊白榮厚の年齢を記入しています。伊勢太々講中の奉納です。これらの絵馬は、町の歴史を知るために重要なものばかりです。平成8年(1996)3月15日 菖蒲町教育委員会

※白川家は神祇伯(全国の神社を総管する神祇官の長官)を世襲していたの。

8. 南蔵院 なんぞういん 10:53着 11:02発

南蔵院の入口は当然県道R313に面しているものとばかり思っていたのですが、山門は脇道に入って回り込んだ反対側にあるので御注意下さいね。その南蔵院ですが、創建は安土桃山時代の慶長元年(1596)、加栄和尚を開山にして秀養和尚が開基したもので、中興開山は快印和尚とされているの。【風土記稿】には「眞義眞言宗 戸ヶ崎村吉祥院末 愛宕山福聚寺と號す 中興開山快印天和3年(1683)寂すと云 本尊不動を安ぜり」と記され、観音堂を始め、愛宕社・山王社・天神社の摂社が建てられていたことを記すのですが、それ以上のことになると詳しいことが分からないの。

と云うのも、昭和12年(1937)の火災で古記録の類一切を焼失してしまい、本尊の不動明王像にしても辛うじて火中より救い出されているの。現在は愛宕山福聚寺南蔵院を正式な山号寺号とする真言宗智山派の寺院。

境内にはタブの木に護られるようにして山王社が建ちますが、祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で、その総社は滋賀県大津市坂本に鎮座する日吉大社東本宮になるの。大同元年(806)、最澄(伝教大師)が比叡山(日枝山)に延暦寺を創建する際に、地主神として古くから比叡山に鎮座していた大山咋命を勧請して守護神としたの。その日吉社を唐(中国)の天台山国清寺に鎮座する山王祠に倣い、日吉山王社と呼ぶようになり、仏教的に日吉権現とか山王権現と呼ばれるようになったの。その山王権現に対する信仰は最澄の天台宗流布を通して全国に広がっていったの。

その山王社では沢山の猿が奉斎しているのですが、猿は山の神の化身とする素朴な信仰も古くからあり、大山咋命の使いともされていたので、山王神の名が全国的に知られるようになると神使の地位を得たの。その山王信仰が後に 庚申信仰 と結びつき、山王神の使いとしての猿が庚申塔にも登場すようになるの。そうなるとそこは民俗信仰の為せる業で、庶民の願いを受けてその意のままに姿を変えるの。猿は繁殖力の強い動物でもあることから子授・子育・安産の神さまとみなされるようになり、縁結びにも霊験灼かで、ひいては婦人病をも治してくれると信じられるようになったの。

左掲は平成12年(2000)に久喜市の保存樹木に指定されたタブの木で、精霊が宿る面持ちなの。その右手に建つ小堂には観音菩薩と薬師如来像が安置されているみたいね。この南蔵院には嘗て薬師堂もあり、祀られている薬師如来は眼病に霊験灼かと云われていたのだとか。その薬師如来かも知れないわね。余談ですが、最初は何が祀られているの分からず、失礼して中を覗かせて頂いたのですが、その瞬間にドキリとさせられたの。何と上人挫像が扉側を向いて置かれていたの。そのリアルさに瞬間住持の方がそこに坐しているのかと思ってしまったくらいよ。

9. 菖蒲高校 しょうぶこうこう 11:32着発

菖蒲高校 南蔵院からは元来た道を戻り、菖蒲新橋(11:27着発)を経て次の吉祥院を目指しましたが、その途中で寄り道してみたのがこの菖蒲高校なの。菖蒲の散策 Part.1 で紹介した「ラベンダーの町」の歌詞に惹かれて訪ねてみようと思っていたの。と云っても、歌詞の中にその名が出て来る訳ではないのですが、菖蒲町で「今とあの頃の私・時を越えた青春 お祭り・初恋そして故郷への想い」とあれば菖蒲高校は避けて通れないわよね。But その菖蒲高校も平成22年(2010)4/1を以て埼玉県立蓮田高等学校と統合し、現在は蓮田松韻高校(所在地:旧蓮田高校)になっているの。

菖蒲高校 ξ^_^ξが最初に訪ねたのは平成21年(2009)のことですが、菖蒲高校としては平成20年(2008)に既に生徒募集を停止していたの。立ち寄ってみたのも休日のことですが、それでも部活に汗する生徒達の姿があるいはあるかしら−と思っていたのですが、グランドには人影もなくて静まりかえっていたの。その時はそんな事情があるとは知らずにいたのですが、統合とは云うものの、実質的には廃校よね。多感な時期を先生や友達と共に過ごした校舎が無くなると云うのは寂しいわよね。かく云うξ^_^ξの母校の小・中学校も今となっては跡形もないの。

菖蒲高校の跡地利用をめぐっては議論の真最中(2011年現在)で、結論は出ていないようですが、どういう形になるにしても、せめてこの地に嘗て菖蒲高校があったことを記すモニュメントでも設けて欲しいものよね。出来たら最後の卒業生の手になるもので、それが例え小さくても。

10. 吉祥院 きちじょういん 11:36着 11:53発

【吉祥院縁起】に依ると、奈良時代に高僧・行基が当地に立ち寄った際に夢の中に毘沙門天と吉祥天が現れて「汝は今より薬師を刻みて病苦を患う衆生を救うべし」と告げたのだとか。驚喜した行基は自ら薬師像を彫ると一宇を建てて毘沙門・吉祥天と共に安置し、瑠璃山吉祥院安穏寺と号したと云うの。But これは寺格を高めるために後世に付与された逸話ね。行基が活躍したのは専ら畿内のことで、実際に東国に下向して来たと云う傍証は何もないの。とは云え、行基云々を離れてみると、前吉祥院とも呼ぶべき寺院の類が古くから建てられてはいたのは確かみたいね。

引き続き【縁起】では、応永年間(1394-1428)に弘鑁和尚が中興開山して不動・愛染明王像を安置したとされ、菖蒲城主で中興開基の佐々木源四郎以降代々が帰依し、家伝の義経の短刀と弁慶筆の法華経普門品一軸を寄進したとされるの。永禄年間(1558-70)にはその佐々木氏の母を袋田明神として祀り、山号を袋田山と改めたと云うの。その袋田明神社が現在の菖蒲神社(後述)に当たるの。その吉祥院も天正18年(1590)には小田原攻めの煽りを受けて兵火を罹り、本尊や寺宝を除いて一切を焼失。慶安元年(1648)に第20世住持の真祐和尚が復興したと伝えるの。

現在は袋田山安穏寺吉祥院を山号寺号とする真言宗智山派の寺院。【風土記稿】には「吉祥院 新義眞言宗 山城國醍醐報恩院末 袋田山安穩寺と號す 寺領二拾石九斗 慶安2年(1649)御朱印を附せられ 本尊不動は立像にて 長三尺餘 弘法大師の作と云傳ふ 開山を弘鑁(こうばん)と云 開基は古菖蒲の城主佐々木源四郎と云人なりと 〔 中略 〕 鐘樓 元和8年(1622)鑄造の鐘を掛 辨天社 稻荷天神青龍權現合社 地藏堂 地藏は行基の作なりと云 長三尺許の立像なり」と記されるの。

一方の袋田明神については「祭神は稻田比売神と云 神體銅鏡にて本地藥師の像を彫れり 裏に寛文9年(1669)9月と見ゆ 合殿に鷲宮・久伊豆の兩社を置り 吉祥院持 末社 稻荷天神合社 雷電 大黒天 金毘羅秋葉聖徳太子合社」とあることから、実体としては袋田明神=薬師如来とされていたみたいね。

11. 菖蒲神社 しょうぶじんじゃ 11:56着 12:02発

県道R12を挟み、吉祥院と離れて鎮座するのが菖蒲神社で、紹介したように嘗ては袋田明神社(袋田社)と呼ばれて吉祥院の摂社だったの。その後明治期の神仏分離を受けて独立し、明治42年(1909)には在地の各社を合祀したのを機に菖蒲神社へと改称、大正2年(1913)には更に秋葉社を合祀しているの。なので主祭神は稲田比売神なのですが、天津児屋根命・伊弉諾尊・伊弉冉尊・倉稲魂命・軻遇突智命・ 金山彦命・菊理姫神・菅原道真・素戔嗚尊・速玉男命・誉田別命・水波女之神なども祀られ、菖蒲神社を参拝すると総ての願いが成就出来そうね。

菖蒲神社は、古くは袋田社、袋田明神社とも呼ばれ、奇稲田比売神(くしいなだひめ)を祭神とする神社で、境内は東西25間(約45m)、南北43間(約77m)で、面積は1,715坪を有していた。現在の祭神は、袋田大明神、鷲宮大明神(武夷鳥命:たけひなとりのみこと)、久伊豆大明神(大己貴命:おおなむちのみこと)の三神で、五穀豊穣、厄除、病気平癒に霊験灼かと云う。御神体は銅鏡で、本地薬師の像が彫られており、裏に寛文9年(1669)9月の銘がみられる。

【新編武蔵風土記稿】には末社として稲荷天神合社、雷電社、大黒天金毘羅秋葉聖徳太子合社があり、他に村内には稲荷社(村民持)、愛宕社(慈眼院持)、若宮八幡社、三所権現社があったと記されている。毎年1月15日には、注連飾や古いお札を持ちより左義長が行われる。左義長は「どんど焼き」とも云われ、長い竹数本を立て、門松や書初めなどを焼き、その火で焼いたモチを食べると一年間の病が除かれると云うものである。尚、3月下旬から5月下旬までの2,7の日には、鳥居前の通りに植木市が立ち賑っている。昭和58年(1983)3月 菖蒲町教育委員会

補:境内には摂社の八雲神社・大黒社・聖徳社・琴平社(金毘羅社)の他にも庚申堂が建てられているの。

菖蒲町指定有形民俗文化財 菖蒲神社絵馬 六面
指定年月日:平成4年(1992)3月23日 所在地:久喜市菖蒲町菖蒲552 所有者:菖蒲神社
菖蒲神社は【新編武蔵風土記稿】に依れば「袋田明神社 祭神は稲田比売神と伝」とあります。同社には現在6面の大絵馬が残されています。三面一組の「百人一首」や、町内で唯一の「飾馬」、幕末の狩野派の絵師・伊白榮厚の描いた「鞍馬山」などです。「百人一首」は天明8年(1788)5月、平沢喜兵衛他百名の伊勢大々御神楽講中に依って奉納されています。三面に百枚の絵札を描く、他に例を見ない珍しい絵馬で、百人の奉納者が一首ずつ奉納すると云う形式を採ったものです。絵師は藤原守直、細工人は辻幸八とある他、執筆が道祖土(さいど)負栄とあります。「鞍馬山」は画題としては珍しいものではありませんが、細工人・斎藤八五郎に依り荘厳な大型の絵馬に仕上げられ、絵師・伊白榮厚が下絵を描き、川原塚白泉が彩色すると云う大掛かりな作品となっています。伊白榮厚は上新堀久伊豆神社・台久伊豆神社など、町内に6面の作品を残していますが、「狩野」を名乗るのはこの絵馬だけです。裏書には天保9年(1838)穀屋茂吉など16人の商人と思われる人々の名前が墨書されています。天明8年(1788)8月吉日奉納の「飾馬」は、中央の白馬と左右に配された黒馬が三頭向かい合う構図で描かれたもので、町内には唯一残された絵馬らしい絵馬です。嘉永5年(1852)5月の「神功皇后」と合わせて、江戸中期以降見沼通船で栄えた町の様子を伝える資料として貴重です。平成8年(1996)3月15日 菖蒲町教育委員会

埼玉県指定天然記念物 菖蒲のフジ 指定年月日:昭和27年(1952)3月31日
菖蒲のフジは国指定特別天然記念物「牛島のフジ」(春日部市)と同じ野田フジと云う品種です。樹齢は300年を越すと云われています。大正の初め頃に広い棚を作ったところ、樹勢が良くなり、1.8mにも達する見事な花房を付けるようになったと云われています。そこで大正天皇の即位に因み「君万歳の藤」と名付けられました。その後一時期樹勢が衰えたため、平成9年(1997)から三ヶ年にわたって、地元の皆さんの手により、樹勢回復のための土壌改良や、腐食した幹・枝の治療、日陰になる木の移植等が行われました。現在では、樹勢も回復の兆しを見せ、毎年5月の上旬には見事な花房を付けるようになりました。根回り9m、幹回り1.5m、藤棚面積266m² 平成13年(2001)2月 埼玉県教育委員会 菖蒲町教育委員会

境内の片隅(鳥居の右手)にはちょっとした休憩所があり、お手洗いもあるので忘れずにトイレ休憩しておいて下さいね。
ここから先は道のオアシス菖蒲まで無いの。

12. 三箇神社 さんがじんじゃ 12:08着 12:15発

先ず最初に地名の三箇ですが、【風土記稿】には「此地明應(1492-1501)の頃 辻・寺中・大藏といへる三ヶ所を合て一村となせし故の村名なりと云 今も是等の名殘村内小名にあり」とあるの。その三箇村も明治22年(1889)に臺・河原井の二村と、昭和29年(1954)には菖蒲町を始めとした周辺4町村と合併したの。その菖蒲町も平成22年(2010)に久喜市と合併したことから、現在の地割は久喜市菖蒲町三箇となっているの。地図を見ると、辻・大倉の小名は今でも残されているみたいだけど、寺中は無いわね。代わりに寺田と云う小名を見つけたのですが、寺中に関係するのかしら?

【風土記稿】に「富士淺間社 東光院持」とあるのがこの三箇神社の前身になるの。当初は浅間社を号していたのですが、大正2年(1913)に郷内各社を合祀したのを機に三箇神社へと改称したの。木花咲耶媛神は浅間社の祭神ですが、他にも伊弉諾尊・伊弉冉尊・市杵島比売神・倉稲魂命・大雀命(おおささぎのみこと)・大山咋命・軻遇突智命・菅原道真・素戔嗚尊・誉田別命・日本武尊が祀られているのはそんな理由からなの。因みに、大雀命は応神天皇の第4皇子で、後の仁徳天皇のことですが、この地に祀られた背景が気になるわね。


三箇神社から少し足を伸ばすと金山神社があるのですが、【風土記稿】には「金山明神社 村の鎭守なり 永勝寺持」とあるだけで詳しいことは分からないの。大正2年(1913)には他の郷内各社と共に三箇神社に合祀されたものの、再び分祠されて現在地に遷座しているの。祭神は金山彦神(かなやまひこのかみ)とされますが、普通は金山姫神(かなやまひめのかみ)と合わせて祀られることが多く、鉱山や金属の神として、また鋳物の神さまでもあり、後に二神の子供とされる金屋子神(かなやこがみ)と共に金山明神として祀られるようになるの。
But 菖蒲町の地勢は平地ですので鉱山と直接関係するようには思えないわね。砂鉄がとれたと云う話しも聞かないし、残るは馬具や農耕具を鍛造する職人達が古くからこの地に住していたからかも知れないわね。傍証となるかどうかは分かりませんが、野口鍛冶店 さんは明治20年(1887)の創業だそうよ。一方で扁額には「金山香取大明神」ともあるので香取神社との関連もあり−みたいね。

13. 永勝寺 えいしょうじ 12:23着 12:30発

永勝寺は功徳山永勝寺を山号寺号とする曹洞宗寺院で長龍寺(後述)末になるの。縁起に依ると、室町時代の天文5年(1536)に創建され、長龍寺第5世の勅賜洞圓明素禅師・州翁全哲和尚が開山したと伝えられているの。戦時中、学童疎開を受入中の昭和20年(1945)、戦禍を受けて山門を残して諸堂の悉くが灰燼に帰してしまったの。その際には住持が火焔をあげて燃えさかる本堂に身を挺して飛び込み、辛うじて本尊の地蔵菩薩を救い出したと云うの。そのために像の右側と背面が黒く焼け焦げているのだとか。

その後、昭和22年(1947)に庫裏を、昭和46年(1971)には本堂を再建したのを機に、宗旨に従って本尊もそれまでの地蔵菩薩から、釈迦牟尼仏と永平寺開山道元禅師・総持寺開山瑩山禅師の三尊仏に改めているの。平成8年(1996)には再建した堂宇も老朽化したことから新たに伽藍を造営しているの。

白い聖観音像は平成14年(2002)の宗祖・道元禅師750回遠忌を記念して造立されたものですが、傍らの小堂には嘗ての本尊・地蔵菩薩が祀られているの。延命・子育に霊験灼かとされるのですが、今では一部と云わず、全身が真黒なの。自ら地獄に赴き、火あぶりの刑に苦しむ亡者を我が身に代えて救おうとするお地蔵さま。全身が黒くあるのは火災のせいだけでなく、そんな理由があるのかも知れないわね。諸仏が高所から手を差し伸べるのに対して、お地蔵さまはいつも苦しむ者の傍に降りてきてくれるの。そんなお地蔵さまにξ^_^ξも斉しく合掌よ。拝

14. 長龍寺 ちょうりゅうじ 12:37着 12:53発

長龍寺幼稚園の校舎と運動場に挟まれた参道を進むと重厚な楼門が目の前に聳え立つの。こんな立派な仁王門があるくらいだもの、さぞかし名の知れた古刹と思われたのですが、【風土記稿】には「禪宗曹洞派 伊豆國加茂郡宮下村最勝院末 慈高山と號す 寺領12石は慶安2年(1649)10月賜へり 開山大洞存奝永正16年(1519)10月廿日寂せり 本尊十一面觀音を安ず 鐘樓 鐘は寛文2年(1662)鑄造なり 阿彌陀堂」とあるだけで、詳しいことには触れられていないの。それを救ってくれたのが山門前に掲示される【慈高山長龍寺由緒略記】。少し長いのですが、紹介してみますね。

当山は平安時代中期に阿弥陀堂と称して建立されたと伝えられています。その昔、源氏の猛攻にやがてさしもの平氏も滅び、その一族は一部東北方面に逃れました。その途中病のため力尽き落伍した落武者が当寺を頼り阿弥陀仏一体を奉納、頭を丸め平氏一門の菩提を弔ったと伝えられています。その因縁を以て以来平氏の家紋「丸に揚羽の蝶」を以て寺紋とするようになりました。鎌倉時代元軍の第一回襲来の文永の役に先立つこと三年前、弘長の銘のあります菖蒲町内最古の逆修供養塔の存在から伝承されていますように、平安時代中〜末期には既に長龍寺の前身であります阿弥陀堂の設立が推測されるのであります。

その後永正16年(1519)10月20日没の、小田原最乗寺直末寺伊豆国最勝院第四世大洞存奝大和尚禅師様に依りまして新たに曹洞宗慈高山長龍寺として禅院に改められました。禅師様は児玉に長泉寺、東松山に永福寺、奥州白河に関川寺を御開山なさいました名僧であります。当寺の第11代住職が慶安年間に寺社奉行に提出致しました文書に依りますと、その当寺の規模は東西120間、南北100間約12,000坪の境内を有し、既に末寺七ヶ寺の存在を報告しております。多くの山内堂宇が古書に記されておりましたが、その後の度重なる火災のために今は昔の面影はありません。現在昭和62年(1987)春を目途に五ヶ年計画で山内諸堂の再建復興整備事業が進められております。昭和59年(1984)一月中旬に開山堂完成、お正月には楼門式仁王門完成の予定、昭和62年(1987)春には大客殿完成となります。当寺の御本尊仏は恵心僧都作と伝えられます十一面観世音菩薩であり、また、新板東二十二番札所寺、歴代徳川将軍より御朱印状を受けて参りました。

略縁起には落武者云々とあるけど、寿永元年(1182)に平重隆の妹・雲禅尼が東国に落ち延びる途中で、所持していた阿弥陀仏を乞われて当寺に納めたと云う別伝もあるの。その時に一族の一人が病を得ていたこともあり、本寺に留まると髪を下ろして平家の菩提を弔ったとも伝えられているの。残念ながらその阿弥陀仏も盗まれてしまったのだとか。因みに、伝恵心僧都作とされる現本尊の十一面観音像は、開山の大洞存奝和尚が最勝院から持参して来たものだそうよ。山門を潜り抜けた右手には菖蒲七福神が並ぶので七福神巡りも一度でOKよ。初詣にはぴったりかも。(^^;

15. 明昌寺 みょうしょうじ 13:01着 13:04発

次の台久伊豆神社に向かい県道R212を歩いていたときに見掛けたのがこの明昌寺。お寺と云うよりも民家(にしては立派過ぎるけど)の佇まいで、現在は無住であることから長龍寺の管理下にあるみたいね。【風土記稿】には「長龍寺の末 大藏山と號す 本山は本寺五世劦翁 天正4年(1576)10月22日寂せり 本尊釋迦を安ず 閻魔堂」とあるように、先程紹介した永勝寺を開山した長龍寺第5世州翁全哲和尚が同じくこの明昌寺を開山しているの。その閻魔堂に安置されていた閻魔像ですが、現在は長龍寺仁王門の中の片隅に置かれているのだとか。それは気が付かなかったわね。

参道の入口には御覧の愛宕社が建てられているの。扁額には「愛宕宮」とあるのですが、祭神は火防せの神として知られる軻遇突智命(かぐつちのみこと)よね。【風土記稿】には「愛宕社 明昌寺持」とあるので、僧堂を火災から護ってくれる守護神として勧請したのでしょうね。堂内には石祠と併せて、青面金剛が陽刻された庚申塔も祀られているの。

16. 台・久伊豆神社 だい・ひさいずじんじゃ 13:13着 13:16発

三箇小学校BS先の脇道を辿ると小学校のグランドに境内を接してあるのがこの台久伊豆神社。But 最初からここに鎮座していたわけではなくて、元は小名・宮野の地に鎮座していたみたいね。遷座した理由は分からないのですが、明治42年(1909)に現在地に移転してきたのを機に郷内各社を合祀しているの。なので、主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)ですが、他にも大山祇命を始めとして13柱もの神さまが祀られているの。本殿の右手には八坂神社が、左手には神明神社・天満神社・九ヶ所神社・熊野神社の合社殿があるので数的には合うかしら。(^^;

菖蒲町指定有形民俗文化財 台久伊豆神社絵馬 11面
指定年月日:平成4年(1992)3月23日 所在地:久喜市菖蒲町台855 所有者:台久伊豆神社
台久伊豆神社は江戸時代の地誌【新編武蔵風土記稿】に依ると「村の鎮守なり 久伊寺持」とあります。同じく久伊寺は「真義真言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、蓮臺山無量壽院と号し 多聞坊と云ふ 開山秀深寛文8年(1668)10月7日寂す 本尊阿弥陀を安ぜり」とあります。このことから、台久伊豆神社は江戸時代初期には既に存在していたものと考えられます。現在、台久伊豆神社には『繭額』一面を含む11面の大絵馬があります。これは町内で二番目に多い数です。画題としては伊勢大々神楽・楠公桜井駅の別れ・岩国錦帯橋・桃園の誓い・獅子などです。伊勢大々神楽の絵馬は明治20年(1887)松林斎亀山画と明治29年(1896)豊重画の二面があります。どちらも保存状態は良好で、赤・白・紫・緑・水色の色彩鮮やかな絵馬です。松林斎亀山は幸手に在住した絵師で、本名を大久保謙吉と云い、狩野探妙の弟子に当たります。亀山の作品は千葉県・茨城県方面に多く残されています。文久2年(1862)の「岩国錦帯橋」は絵馬の画題としては珍しいもので、土産用の版画を元に描かれています。伊勢参宮を済ませた一行が錦帯橋まで足を延ばし、無事に帰ったお礼として奉納したものと思われます。文化13年(1816)「獅子」、弘化2年(1845)「楠公桜井駅の別れ」、安政2年(1855)「武者絵」は共に伊白榮厚の作品です。安政2年(1855)の「武者絵」には「行年六十五翁」の添書があり、これから計算して「獅子」文化13年(1816)は26歳、「楠公桜井駅の別れ」弘化2年(1845)は55歳の時の作品と分かります。伊白榮厚は法眼の位を受けた狩野派の絵師ですが、同じ形の絵馬は一つもありません。狩野派絵師としての意地でしょうか、特別な板面に描いています。「桃園の誓い」文政4年(1821)は、三国志の蜀漢の創始者である劉備と関羽、張飛がその昔桃園で義兄弟の契りを結んだ故事を題材としたものです。平成9年(1997)3月15日 菖蒲町教育委員会

境内には摂社の他にも弁財天や庚申塔などの石仏・石祠が建てられているのですが、その中に出世石尊宮と彫られた石を見つけたの。普通は石尊宮と云うと大山石尊権現のことで、現・神奈川県中郡大山町大山に鎮座する大山阿夫利神社を指すの。祭神は大山祇命ですが、大山は別名雨降山とも呼ばれ、降雨祈願に霊験灼かとされたことから農業を営む人達からの信仰を集めたの。嘗ては関東近県から多くの人達が参詣(大山詣)して賑わいを見せたの。But 石には出世の文字もあるので、その石尊宮とは違うのかも知れないわね。

左掲は三箇小学校の南門ですが、台久伊豆神社も遷座してきた当初はかなり広い境内地を有していたみたいよ。それがこの三箇小学校に敷地を分割譲渡を繰り返す内に現在の広さになってしまったのだとか。その三箇小学校の校庭ですが、嘗てはどの辺りまでが久伊豆神社の社地だったのかしらね。余談ですが、右手に残されている門柱に御注目下さいね。良く見ると三箇村立圖書館とあるの。これだけでは開設されていたのがいつのことなのかは特定できませんが、旧漢字で記されていることからするとかなり昔のことよね。何よりも村立と云うのがスゴイわね。

調べてみると三箇小学校の校庭にある大公孫樹は、元は久伊豆神社の御神木だったものだそうよ。
村立図書館も小学校に付設する形で、大正2年(1913)に開設されているの。

この三箇小学校は次の道のオアシス菖蒲で紹介する本多静六博士の母校でもあるの。と云っても、在籍した当初は校舎も河原井の幸福寺に間借りしたものだったのだけど。それはさておき、苦学して大成した博士は育英基金の設立を条件に山林を県に寄付するなど、教育にも力を注いでいるの。村立図書館もあるいは博士が私財を投じた資金を元手に開設されものかも知れないわね。But 未確認モードですので鵜呑みにしないで下さいね 。

17. 道のオアシス菖蒲 みちのおあしすしょうぶ 13:24着 13:48発

国道R122と県道R78の合流地点に設けられている小さなパーキングエリアが道のオアシス菖蒲で、花菖蒲をあしらったステンドグラスが嵌め込まれたモニュメントがシンボルになっているの。道の駅ではないので食事が出来るような施設があるわけでもなく、あるのは道端に設けられた自販機だけよ。(^^; 余談ですが、バス停を見つけて時刻表を覗き込んだξ^_^ξは思わず目が点になってしまったの。蓮田駅行とあるのですが、何と平日でも 5:51 6:21 6:58 15:08 の4便だけなの。朝は通勤などで利用する方がいらっしゃるハズですが、乗り遅れでもしたら大変なことになりそうね。

地元の方は専ら車で通勤されているのかも知れないわね。脳天気な旅人が云々してみたところで詮無いことですが、それはさておき、この道のオアシス菖蒲を訪ねた理由は、エリア内の一角にある本多静六博士の生誕地記念園にあるの。御覧の胸像は彫刻家・荻野敏雄氏の作で、台座に使われている石は秩父郡大滝村中津川県有林産のものだそうよ。その県有林ですが、元は博士が育英事業の実施を前提に埼玉県に寄贈した山林がベースになっているの。最初にその台座に記される顕彰文から紹介してみますね。

わがふるさとの偉大な先人、菖蒲町名誉町民本多静六博士の偉業をたたえ、没後40年の今日、ここに生誕地記念園を整備しました。博士はいま、生誕の地河原井を背に、こよなく慈しまれた秩父の地に目を向けられております。そして今、博士が寄贈した大滝村中津川の県有林には森林の重要な意義をふえんするため「二十一世紀の森」が整備されつつあります。博士は慶応2年(1866)、現在の菖蒲町大字河原井の折原家に生まれました。長じて本多家の養子となり、苦学を重ね東京農科大学(現:東京大学)、更にドイツのミュンヘン大学を卒業し、日本最初の林学博士となりました。博士は日本林学界の基礎を築くと共に、日比谷公園や大宮公園などの建設に携わりました。因みに日比谷公園に掲示されている「首かけいちょう」の逸話はよく知られているところです。また、博士の努力主義を旨とした処世の教訓は広く敬服されており、多くの著書や県の「本多静六博士育英事業」からもこれを伺い知ることが出来ます。このような博士の業績と人柄はまさに郷土の誇りであり、茲に栄誉を称え永く後世に伝えるものです。平成4年(1992)10月 菖蒲町

〔 首かけイチョウの分木 〕 このイチョウは日比谷公園にある本多静六博士縁の「首かけイチョウ」から分木したものである。親木は明治32年(1899)日比谷見附にあった大イチョウで、道路拡張により伐採されることになりましたが、これを知って驚いた日比谷公園の生みの親本多静六博士が、東京市参事会の議長に強く進言し、現在の日比谷公園に移植したものです。当時では、大木のイチョウは移植不可能との意見が多かったものを、博士が「自分の首をかけても移植させる」と云って実行された木なので、首かけイチョウの呼び名が付けられています。日比谷公園でこの親木の大木を是非御覧下さい。

左掲は道のオアシス菖蒲を振り返り見たものですが、歩き出す前にこちらで忘れずにトイレ休憩しておいて下さいね。街路灯の支柱脇にある尖り屋根をした建物がそれよ。画面の左端に写る欄干は黒沼橋のもので、その下を中島用水が流れ、川沿いに設けられた小径が水と緑のふれあいロードになっているの。その遊歩道を歩くとしらさぎ公園を経てアミーゴへと辿り着くことが出来るのですが、少し寄り道しながら戻ることにしたの。結果的には敢えてお薦めするようなものがあった訳ではないので、お急ぎの方はふれあいロードを歩いて下さいね。

18. 金剛院 こんごういん 13:59着 14:00発

星川に架かる手城橋を渡り、右手方向に続く道を辿ると田畑の中に御覧の樹叢が見えて来るの。その直ぐ手前に建つのが金剛院ですが、僧堂と云うよりも村の集会所の佇まいなの。神倉山龍蔵寺金剛院を正式な山号寺号とする新義真言宗寺院ですが、現在は無住であることからお隣り白岡町の正福寺持となっているの。【風土記稿】には金剛院と共に神倉龍蔵権現社の名を挙げて「村の鎭守なり 祭神詳ならず 十一面觀音・愛染の二像を本地佛とす 金剛院持」とあるので、金剛院の山号寺号はその神倉龍蔵権現社に由来すると云うことよね。

今ではその面影を偲ぶことさえ出来ませんが、江戸時代にはこの地を治めていた南條氏が開基したと云う普門院も近くにあり、この金剛院と共に門前町を形成して寺町と呼ばれた時期もあったのだとか。今でも糸屋・さらし屋・風呂屋・ろうそく屋などの屋号が残されていると云い、その屋号からは盛時の賑わい振りが伝わってくるわね。その金剛院も明治20年(1887)には火災で悉くが灰燼に帰してしまい、明治41年(1908)には普門院と合併。大正6年(1917)には権少僧都・阿部秀尊が堂宇を再建して一時は隆盛したものの、時代の流れの中で衰微を余儀なくされてしまったようね。

19. 大崎神社 おおさきじんじゃ 14:00着 14:12発

紹介した金剛院と境内を接してあるのが大崎神社ですが、鳥居の前に立ったときに御覧の松並木が目に留まったの。嘗ての参道の名残りかも知れないわね−と境内の探索を中止して松並木の端まで歩いてみたの。立派な松並木の参道は確かに大寺・大社の装いで、往時の隆盛は確かなものみたいね。大崎神社の縁起ですが、重複しますが、【風土記稿】には「神倉龍藏權現社 村の鎭守なり 祭神詳ならず 十一面觀音、愛染の二像を本地佛とす 金剛院持」とあり、江戸時代の安永年間(1772-81)に勧請されたとも伝えられているの。その神倉龍蔵権現社も合社を経て昭和19年(1944)には大崎神社へと改称したの。【風土記稿】には「祭神詳ならず」とあるけど、現在の祭神は級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)の二柱が祀られているみたいね。

【風土記稿】の記述から、この上大崎には他にも愛宕社・八幡社・稲荷社が祀られていたことが分かるのですが、幾れも合祀されたと考えて良さそうね。左掲の小社には御神輿が納められ、建物の左手にはお祭りのときに余興で行われる「力比べ」に使われた力石が並べられているの。今でこそ農作業も機械化されましたが、その多くを人手に頼っていた頃は力持ちであることが第一条件で、米俵一俵(約60Kg)を持ち上げることが出来て初めて一人前とみなされたの。右端の石には三十貫とあるので、一貫を3.75kgとすると112.5Kgにもなるの。想像しただけでも力が入ってしまうわね。

平成2年(1990)に大崎神社境内及び参道の木々が保存樹林に指定されているの。左掲は僅かに残る樹叢ですが、嘗ては周囲に堀が巡らされて今よりも鬱蒼とした樹林が繁茂し、その中心に神倉龍蔵権現が鎮座していたみたいね。今はその神倉龍蔵権現に替わって秋葉社が鎮座しますが、残されているその広さからするとそこそこの社殿が建てられていたみたいよ。それはさておき、最初に訪ねたのは平成21年(2009)のことですが、再訪したときには社殿が新しく建て替えられていたの。今でも大切に護られている証ね。

20. 長松寺 ちょうしょうじ 14:28着 14:29発

長松寺は正保年間(1644-48)に長龍寺第9世量山和尚が開山したもので、慈雲山を山号とする曹洞宗寺院で長龍寺末になるの。【風土記稿】には「禪宗曹洞派 三箇村長龍寺末 慈雲山と號す 觀音を本尊とせり 地藏堂」とあり、現在は本尊の十一面観音像と共に大黒天や達磨像が安置されているの。明治初期には村役場も置かれれていたと云う長松寺も、大正2年(1913)に第16世旭出龍謙和尚が入寂してからは無住になってしまったの。境内の一角には往時の名残りを留める石塔が三基並び建ちますが、荒寺とならずにあるのは心ある方達の手によるものなの。

菖蒲中学校 菖蒲中学校 次の八間堰に向かう道の途中にはこの菖蒲中学校があるの。グランドからは女の子達の嬌声も聞こえて来ましたが、中学生と云えば多感な時期を迎えて、忙しい (^^; のは勉強やクラブ活動だけじゃないわよね。「ラベンダーの町」の歌詞にも、♪愛が芽生えて 憧れた その人は先生 それとも友達♪とあるように、初恋の想い出と共に中学生の頃を懐かしく思い出される方も多いのではないかしら?

21. 八間堰・十六間堰 はちけんせき・じゅうろっけんぜき 14:37着 14:49発

利根大堰(行田市下中条)から取水した灌漑用水を必要に応じて分流する役目を担っているのがこの八間堰と十六間堰なの。今では下流域の宅地化と人口増加で飲料水などの生活用水としての利用が主となりましたが、嘗ては5月初めから9月中頃までの水田に水が必要な時期と、水路を通船に使う時期だけ十六間堰を閉じて八間堰を開き、見沼代用水路に通水していたの。逆に水が不要な時期は八間堰を閉じて十六間堰を開き、星川に放流していたの。因みに、当時の物流の主流は水運で、中でも流域から収穫された年貢米の輸送は見沼通船が重要な役割を担っていたの。

左掲が八間堰ですが、見沼代用水路の開削に併せて享保12年(1727)に井澤弥惣兵衛為永の設計により築造されたものなの。堰枠も当初のそれは横8間・幅4間・高さ8尺の木製で、水圧で浮き上がらないようにと堰枠の上には重り代わりに土橋が架けられていたの。鉄筋コンクリートに依る建造技術の無い時代のことですから仕方のないことなのですが、木造だったことから度々修理改築が行われているの。大正2年(1913)にレンガとコンクリートに依る改修が行われ、昭和32年(1957)にようやく鉄筋コンクリート製となり、現在の施設は昭和61年(1986)に建造されたものなの。

十六間堰もまた築造当初の堰枠は木造で横16間・幅6間・高さ8尺の大きさを有し、同じく堰枠が浮かないようにと長さ18間・幅3間余の土橋が架けられていたの。その十六間堰も伏替を繰り返し、昭和28年(1953)にそれまでの木造堰枠を鉄筋コンクリート製に改める工事を経て、昭和62年(1987)に現在の十六間堰へと改修されているの。今では屈強な鉄筋コンクリート製の施設になっていますが、ネームプレートの下には十六間堰の諸元と共に「製造 丸島水門製作所」とあるの。現在は 丸島アクアシステム と名こそ変えてはいますが、創業は何と昭和3年(1928)のことだそうよ。

それまでのξ^_^ξは水門を専門に造る会社があるとは思いもしませんでしたが、
為永が生きていたら狂喜乱舞してしまいそうな会社ね。(^^;

22. 見沼弁天社 みぬまべんてんしゃ 14:49着 14:56発

十六間堰の傍らには弁財天を祀る社が建てられているの。井澤弥惣兵衛為永は見沼代用水開削に併せ、その守護神として要となる三ヶ所に弁財天を勧請したのですが、その内の一つがこの見沼弁天社なの。弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。saras は水を、sarasvati は水の流れの美しいさまを表しているの。河の流れの妙なる水音は人々を心豊かにすることから福徳を齎す女神となり、穀物の豊作を齎す豊穣の女神ともなるの。

やがてそのサラスバティーが同じ女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、河のせせらぎが弁舌にも繋がるの。そのサラスバティーが仏教に取り入れられて弁才天となり、そこでは川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。後にその弁才天が金銀財宝を得て (^^; 福富の女神となり、弁財天へと変身するのですが、為永が望んだのは豊穣を齎す水の神さまとしての弁才天ね。因みにこの弁天社、現在は見沼土地改良区と水資源機構が維持管理しているのですが、以前は堰番を預かる家系の方が代々護って来たものだそうよ。

井澤弥惣兵衛為永は見沼開発の際に水路沿岸要所に弁財天社をお迎えし、灯明料を寄進して水路の平安と豊作を祈願したと伝えられています。現在、見沼土地改良区では水路沿線の三つの見沼弁天社と関係しており、この見沼弁財天(別名を星川弁天)は、星川と見沼代用水路の兼用区間の終点である南埼玉郡菖蒲町大字上大崎(現:久喜市菖蒲町上大崎)の十六間堰の畔にあります。この場所は、見沼代用水路と星川が分かれる場所で、見沼代用水路にとって用排水調節の要となる場所です。三つの弁財天は、享保16年(1731)頃の創建で水利組合当時より社殿を度々改修しており、最近では昭和53年(1978)に見沼土地改良区で改築しました。見沼土地改良区・水資源開発公団

為永が勧請した弁才天はこの見沼弁才天の他にも下記の二ヶ所に鎮座しているの。中でも右側の加田屋弁財天は最近覆屋が改築されたみたいで綺麗よ。参考までにアップしておきますね。

元圦樋守弁財天:埼玉県行田市下中条
加田屋弁財天(溜井弁財天):さいたま市見沼区加田屋新田

23. アミーゴ あみーご 14:57着発

廃寺の類を見慣れた目には殊の外新鮮な驚きを以て飛び込んで来たのがこの菖蒲町生涯学習文化センター(現:久喜市菖蒲文化会館)で、最初に目にした瞬間は何でこんな立派なホテルがこんな所にあるの?状態だったの。愛称のアミーゴ(amigo)は公募の中から選ばれたもので、スペイン語で「友達・友人・仲間」という意味で、町内外の仲間達に輪が広がり、施設が気軽に利用出来るようにとの願いが込められているのだそうよ。それはさておき、このアミーゴ2Fの一角には「本多静六記念室」が設けられているの。

その記念室には、菖蒲町名誉町民でもある本多静六博士の身廻品や著作などの展示品に併せて業績や人柄が紹介されているの。以前訪ねたときに見学済みでしたので今回の散策では立ち寄らずに終えていますが、中折A3サイズのリーフレットが用意されているので、お立ち寄りの際には忘れずに入手して下さいね。博士は「日本の公園の父」と呼ばれるだけあって、北は北海道から南は九州まで多くの公園設計に携わっているの。訪ねたことのある公園の幾つかが実は博士の設計だったなんて、ξ^_^ξも初めて知ったの。その博士のことが気になる方は 久喜市HP を御参照下さいね。歴史・文化財の頁から小学生向の顕彰冊子「日本の公園の父・本多静六」が Download 出来るわよ。小学生向けと云うけどξ^_^ξには充分よ。(^^; 最後に博士のことばを一つ紹介しておきますね。では Adios, amigos !

家族が打ち揃って互いに信じ、互いに助け合うことのできる家庭は、誠に人生の慰安所であり、休憩所であり、そこに精神生活の温かみと、誠を味わうことができ、真に人生の幸福に浸り得るのである。著作『処世の秘訣』より

24. 菖蒲仲橋BS しょうぶなかはしばすてい 15:07着

菖蒲仲橋BS 菖蒲仲橋BT 左端は桶川駅行のバスが停車する菖蒲仲橋BSですが、久喜駅西口や白岡駅・蓮田駅東口行のBSも別に設けられていたの。下車時には気付かずにいたのですが、建物の背後がBTになっていたの。桶川駅東口行では通過点のBSも、他の路線ではここが始発になっているの。でも、これだけの広さの場所に駐車するバスが2台だけと云うのも勿体ないお話しね。ξ^_^ξの懐が傷む訳ではないけど。(^^;

今回の散策はこれにて終了ですが、最後に菖蒲神社の例祭時に行われる夏祭りの様子を少しだけ紹介しておきますね。本当は陽が落ちてからの方が盛り上がるのですが、お家に帰ることを考えると時間的に難しいわね。静止画9枚にショートムービーも2本だけですがアップしておきましたので、ちょっぴりお祭り気分を味わって下さいね。


あやめ・ラベンダーのブルーフェスティバルに出掛けたときに、ご当地ソングの「ラベンダーの町」を耳にしたことから興味を持って訪ね歩いた菖蒲町ですが、残されている寺社の数には驚かされるの。嘗ては穀倉地帯を抱えて豊かな稔りと共に、水運を利用して物資輸送を担うなど地域経済の中心を成していたと云う菖蒲町。寺社もまた人々の信仰を集めて隆盛していたの。今ではモラージュ菖蒲などの大型施設が出来て人の流れも大分変わってしまったようですが、意外なところに商店が並んでいたり、老舗の和菓子屋さんが頑張ってくれていたりするの。お店もそれぞれに個性があり、FCを見慣れた目には殊の外新鮮なの。嘗ての賑わいは薄れたものの、道を訊ねたときに応えてくれた地元の方々の表情はどこか誇らしげなの。ラベンダーの香りだけでなく、歴史に彩られたふるさと・菖蒲の香りにも触れてみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
さきたま出版会発行 秋葉一男著 吉宗の時代と埼玉
菖蒲町教育委員会編 菖蒲町の歴史と文化財 通史編
菖蒲町教育委員会編 菖蒲町の歴史と文化財 資料編
久喜市発行 久喜市史−通史編






どこにもいけないわ
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