≡☆ 長勝院旗桜 ☆≡
2016/04/09

今年(2016)のお花見はどこへ行こうかしら−と考えている内に、気がついたときには既に関東近県でのソメイヨシノの見頃は過ぎていて、そんなときにふと思い出したのが埼玉県の志木市にある世界に一本しか無いと云う長勝院旗桜なの。ソメイヨシノより一週間遅い開花と案内されていたので、ひょっとしたら未だ間に合うかも知れないわ−と出掛けてみたの。補:掲載する画像は幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

長勝院旗桜( ちょうしょういんはたざくら )

♥ 長勝院旗桜の原木 ♥

実は、ξ^_^ξも最初から長勝院旗桜のことを知っていた訳ではないの。切っ掛けは平成27年(2015)5/8付の朝日新聞に長勝院旗桜の記事が掲載されていて、世界に一本しか無いという珍しい品種の桜と案内されていたのを目にしたことからなの。場所も埼玉県志木市とあり、な〜んだ、そんなに近いところにあるの、それならお散歩気分で出掛けられるわね、今年(2015)はもうお花見シーズンは終わってしまったから、来年(2016)こそは出掛けてみなくちゃ−とメモ (^^; しておいたの。そうでなければ、長勝院旗桜のことは完全に忘却の彼方だったかも知れないわね。

ξ^_^ξは最寄り駅となる東武東上線の柳瀬川駅から歩いて向かいましたが、場所が不案内なこともあって柳瀬川に架かる富士見橋からはユリノ木通りを経て脇道に入り、道に迷いつつも地元の方に訪ねながらようやく辿り着きましたが、駅の東口からはひたすら柳瀬川沿いを歩けば良かったの。帰りにそのルートで歩いてみたのですが、ξ^_^ξののんびりとした足取りでも15分程の道程でした。余談ですが、柳瀬川の堤上には桜並木の遊歩道がつくられているのでソメイヨシノの開花時期には素敵なお花見散歩が出来そうよ。残念ながらξ^_^ξが訪ねたときは既に見頃を終えていたので紹介することが出来ませんが、今度はソメイヨシノを観に来なくちゃいけないわね。(^^; それはさておき、長勝院旗桜のある長勝院跡地ですが、地図上では ここ になるの。

〔  長勝院旗桜  〕  目通り樹周り(  目の高さ位の所の樹の周囲  )3.05m、高さ11.20m、推定樹齢400年以上の旗桜。花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁(1〜2枚)を生ずる山桜(バラ科)の一型で、開花時の花付きは極めて賑やかです。県内各地の桜と比較しても巨木の中に入るもので、樹齢等の点からみても大変貴重な桜です。また、嘗てこの地にあったとも云われる柏の城の歴史を語る生き証人としても大変重要な桜で、今後大切に保護保存していくべき桜です。平成6年(1994)2月25日 志木市教育委員会

現在は市の天然記念物にも指定される長勝院旗桜ですが、ヤマザクラの一変種で、その最大の特徴が通常の花弁の他に旗弁と呼ばれる特殊な花弁を持つことにあるの。サクラの花弁は通常5枚が普通ですが、この長勝院旗桜では雄しべが変化して花弁のように見える旗弁がかなりの頻度でみられるの。その旗弁が時に1枚だったり2枚だったりして、花弁全体では6〜7枚あるように見えると云うわけ。とは云うものの、普通の花弁に較べたら小さな存在なので、近づいて見ないと良く分からないわよ。ソメイヨシノのような華やかさはないけれど、旗弁の白く清楚な佇まいは、春風に優しく揺れる耳許のパール・イヤリングといったところかしら。

長勝院旗桜は平成5年(1993)10月6日に志木市天然記念物に指定され、平成12年(2000)の5月5日には「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」の一つにも選ばれているの。また、平成15年(2003)4月1日には「市民の木」にもなっているの。志木市では長勝院旗桜のことを知らずして志木市民を名乗る事なかれ−のようね。(^^;

ところで、この長勝院旗桜ですが、掲載した画像を見て既にお気付きの方もいらっしゃるかも知れませんが、目通り樹周り3.05mと云う主幹は地上から2〜3m程の樹高を残して上部が折れて無くなっているの。損壊してしまった時期や原因などの詳しいことはξ^_^ξには分かりませんが、樹齢を重ねてきたが故に、あるいは台風時の強風に耐えられずに折れてしまったのかも知れないわね。その主幹に代わって現在は根元近くから伸びた若木が枝を広げているの。その姿からは樹木のもつ生命力の逞しさが感じられるわね。

替わって、長勝院旗桜の名前の由来となる長勝院ですが、嘗てこの場所に清瀧山薬王寺長勝院と云う寺院が建てられていたことに由来するの。院号は平安時代末期にこの辺りを支配していた田面(たのもの)郡司藤原長勝(おさかつ or ちょうしょう)の名をとったものと云われ、【舘村風土記】に依れば、その長勝の死後に時の地頭が源頼朝の妻・政子の安産祈願のために長勝の霊を祀って建てたのが始まりだとされているの。But これだけだと、長勝の霊を祀ることが何故北条政子の安産祈願に繋がるのかが分からず、単なるこじつけの印象も無きにしも非ずで、論理としては今ひとつ釈然としないわよね。

【舘村旧記】※ には「当所柏城 文明年中(1469-1487)の頃 田面長者の住居ありし跡を城に築きて大石信濃守殿居城となれり云々」とあるのですが、長勝院は元々はその柏城の城主・大石信濃守の持仏堂ではなかったか−とする説の方が現実味があるとされているみたいね。その長勝院ですが、為政者側のための祈願寺だったと見え、後盾を失うと衰微。本来は檀家も無いことから財政的には厳しい状況が続いていたみたいね。嘗ては新義真言宗寺院として、新座市大和田にある普光明寺末に属していたこともあったようですが、無住期間も長くて堂宇の傷みも酷く荒寺の様相となり、遂に昭和60年(1985)廃寺となり、翌年には建物が解体されてしまったのだかとか。

※ 補:【舘村旧記】は舘村(現在の志木市柏町三丁目を中心とした地域)の名主を務めていた宮原仲右衛門が享保12年(1727)から享保14年(1729)にかけて著した地誌。後程「田面長者以来年数荒間敷之事」の段の記述を紹介しますね。

伽藍を失った今となっては往時の姿を知る由もありませんが、樹齢を重ねたこの桜の木だけが長勝院の栄枯盛衰を見守り続けて来たと云うわけね。その老桜にはこんなエピソードも伝えられているの。田面郡司藤原長勝には皐月前(さつきのまえ)と云う、それはそれは美しい娘がいたのですが、その娘に一目惚れしたのがかの有名なプレイボーイ (^^; の在原業平(ありわらのなりひら)で、東下して来た際に長勝の屋敷に滞在すると皐月前を見初めてしまったの。言葉巧みな誘惑と、業平の放つ都の香りに皐月前もすっかり惑わされてしまったのかも知れないわね。そうして恋におちた二人はとうとう駆け落ちしてしまったの。

それを知った長勝は直ちに二人の探索を命ずるのですが、広〜い武蔵野のことゆえ、行方は杳として知れず、たまりかねた長勝は家来に野火を放つよう命じたの。やがてその猛火が二人の間近に迫り、もはやこれまでと観念した皐月前が「武蔵野は今日はなやきそ若草の  つまもこもれり我もこもれり」と詠むと、不思議なことに、それまで燃えさかっていた野火が、いつの間にか消え失せていたの。そうして、見つかってしまった二人は長勝の家来の手により、館に連れ戻されてしまったの。後に、業平と皐月前の二人が隠れていた場所は業平塚と呼ばれるようになり、野火止の地名もこの故事に因んで名付けられたものだそうよ。

時は流れ、諸国を巡歴していた高僧・道興が当地に訪ね来てその悲恋物語を耳にするの。道興は業平塚を前にして「わか草の妻も籠らぬ冬されに  やがてもかるる野火止の塚」と詠むなど、遠い昔の出来事に思いを馳せているの。そうしてこの長勝院で追善供養が行われたのですが、そのときに道興が手向けとして挿した一本の杖からは桜が芽吹いたの。その桜こそがこの旗桜だと伝えられているの。因みに、道興は【廻国雑記】の著者として知られているの。今となっては聖護院門跡としての功績よりもそちらの方が大ね。(^^;

お話しが前後して恐縮ですが、【伊勢物語】にはちょっとニュアンスが違う形で物語が語られているの。
折角ですので紹介しておきますので、その違いをお楽しみ下さいね。

むかし、をとこありけり。人の娘を盗みて武蔵野へゐて行くほどに、盗人なりければ國の守にからめられにけり。女をば草叢の中にをきて逃げにけり。道来る人「この野は盗人あなり」とて火つけむとす。女、わびて「武蔵野はけふはな焼きそ 若草のつまもこもれり我もこもれり」とよみけるをききて、女をばとりて、ともにゐていにけり。

〔 意訳&脚色 〕 昔、一人の男がおってのお。とある娘を見初めた男は親元からその娘を盗むようにして駆け落ちしてしまったそうじゃ。そうして武蔵野まで逃げて来たんじゃが、好きおうた者同士の駆け落ちとは云え、人の娘を盗んだことには変わりなく、男は娘の親でもある国司に捕らえられてしまったのじゃ。男は最初は娘を草叢に隠して逃げようとしたんじゃが、追手の者が「どうやら盗人はこの野に逃げ込んだらしい」と野原に付け火するところじゃった。それを見た娘はすっかり困り果ててしまってのお、「武蔵野はけふはな焼きそ 若草のつまもこもれり我もこもれり( 武蔵野の、この野原をどうかきょうだけは焼かないで下さい。愛する夫と一緒に、私もこうして隠れているのですから)」と詠んだそうじゃ。そうして隠れ潜んでいた場所を知られた娘は捕らえられて荒縄で縛られ、別に捕らえられた男と共に国司が引き立てていったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

お話しの序でにもう一つ。物語には別伝があるの。そこでは田面郡司藤原長勝は元貴族で、関東へは流罪されて来たことになってはいるのですが、それはさておき、駆け落ちした二人が引き戻されてからのお話しに続きがあるの。在原業平は長勝の婿となり、一旦は「めでたしめでたし」となるのですが、皐月前の美貌の噂を耳にした平清盛が長勝に娘を差し出せ−と命じてきたの。長勝が拒否すると、あろうことか清盛は一万騎の軍勢を引き連れて下向して来たの。その圧倒的な軍勢に攻め込まれて長勝の居城であった柏の城は敢えなく落城し、長勝は討ち死にしてしまったの。そうして皐月前は都へ連行されると清盛の愛妾となったと伝えられているの。

But 在原業平が平安時代初期の貴族なら、平清盛は平安時代末期に活躍した人物で、互いに生きた時代が異なるわよね。なので、バレバレの創り話であることは一目瞭然なのですが、お話としては面白いわよね。(^^; 実は、田面郡司藤原長勝にしてもこの辺り一帯の土地を取り仕切る地頭をしていたと伝えられてはいるのですが、実在の人物かどうかは分からないの。どちらかと云うと、伝説上の架空の人物とする見方が優勢のようね。

旗桜の傍らには何故か河童が寝そべっていたの。But 何でこんなところに河童の石像が置かれているのかしら−と思うわよね。見ると案内板には「カッパの郷・志木 (16)さくら子」とあり、帰宅後に調べてみると、河童の伝説から志木市は河童の棲む街として、市内各所に河童の像を置いているの。その数何と23体( 2016 現在 )もあり、一体一体が異なる造形に加えて、みな人なつっこい表情をしているの。それぞれの像には設置されている場所に因む名前がつけられていて、この像は旗桜の傍らに置かれているので「さくら子」と云うわけ。その元になる河童伝説ですが、市内に寳幢寺(ほうどうじ)と云うお寺があるのですが、その寳幢寺のお地蔵さんと河童のお話なの。

むか〜し、昔のお話じゃけんども、寳幢寺にはお地蔵さんがまつられておったんじゃが、雨模様のある日のことじゃったそうな。雨風の音に混じって、かすかに馬の啼き声がどこからか聞こえて来たそうじゃ。尋常な啼き声とも思えず、一向に啼き止む様子もないので気になったお地蔵さんは、馬の啼き声を辿ってみたそうじゃ。果たして柳瀬川の畔まで来ると、川の流れの中で一頭の馬が脚を踏ん張って啼いておったそうじゃ。さては泥にでもはまってしまったものか−と思うたお地蔵さんが馬に近づいてみると、何と、こどもの河童が馬の尻尾を引っ張りながら馬を川の中へ引きずり込もうとしておったそうじゃ。それを見とがめたお地蔵さんは河童の悪戯をきつく諫めて、人間の、日々の暮らしの中で馬がどれほど大事にされているかをこんこんと説いてやったそうじゃ。お地蔵さんのことばにすっかり改心した河童は許されて川の流れの中に消えていったそうじゃが、その後、寳幢寺の厨房には獲ったばかりの鯉や鮒などの川魚が時々置かれるようになってのお、誰が届けてくれたものか、その姿を見た者も誰一人おらんでのお、きっとお地蔵さんに諫められて改心した河童が届けてくれておるんじゃろう−と云われるようになったそうじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども。

♥ 長勝院旗桜の若木 ♥

替わって、上掲は同じ長勝院跡地の一角で養生されていた旗桜の若木なの。案内板には「市民の木制定記念植樹 平成15年(2003)4月6日志木市」とあるので、長勝院旗桜が平成15年(2003)に「市民の木」に選ばれたことを記念して植樹されたものね。世界に一本しか無いと云う貴重な長勝院旗桜ですが、原木はと云うと既に樹齢400年を優に超えていて、いつ何時枯れてしまうかも知れないわよね。そこで志木市では種の保存を始めたと云うわけ。現在ではこの若木の他にも、志木駅前をはじめ、志木市市役所や中学校などにも植樹されているみたいね。

♥ 柏の城西の曲輪跡 ♥

長勝院旗桜の話題からは離れますが、長勝院跡地の一角には枝垂れ桜と鬱金桜(うこんざくら)の香華を受ける石仏達の姿があったの。その前には「柏の城西の曲輪跡(かしわのしろにしのくるわあと)」を示す案内板が立てられていたので紹介しますね。併せて参考までに【舘村旧記】の「田面長者以来年数荒間敷之事」の段の記述を引いておきますね。

〔 柏の城西の曲輪跡 〕  柏の城は、関東管領山内上杉家の重臣大石氏一族の戦国初期からの居館と云われていますが、その築城年代などは一切不明です。江戸時代の享保12年(1727)から同14年にかけて舘村(現在の志木市柏町・幸町・館地区付近)の名主・宮ヶ原仲右衛門仲恒により執筆された【舘村旧記(たてむらきゅうき)】に依ると、志木第三小学校地に本城が、その東側に二の曲輪、市道を挟んだ南側に三の曲輪が、そしてこの辺りには西の曲輪があったとされています。この辺りは嘗て亭の台(ちんのだい)とも呼ばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であると云う伝説も伝わっており、古来よりこの地域を統括するような有力な人物に関係する何等かの施設があったらしいことが推測できます。また、舘村八景の一つに「亭の下の夕照(ちんのしたのゆうしょう)」とあるように、この付近は秩父連山から富士山まで眺望できる景勝の地としても有名な所でした。平成6年(1994)2月25日 志木市教育委員会

当村は田面郡司長勝殿の頃より享保年中に及んで凡そ年数九百年余に及びけれども、夫より以来当所に百姓町人等住居せし事、又は守護人誰人と云ふことなど云い伝え侍らざる也。然れども古昔は人家多くこれありと聞こへて、所々に墓所の跡多くこれある也。さて亦当所柏城、文明年中の頃、田面長者の住居ありし跡を城に築きて大石信濃守殿居城となれり。而も相州小田原北条家の幕下にして小田原附十一ヶ城の内也。当村をたて村と云ふに付きて「舘」と「館」との二字あり。或人の云はく、「舘」の字は高官の御方の旅行へ御出でありてお泊まりなどの旅館の時に「館(たびや)」の字を書する也。又「舘」と云ふ字は高官の御方のその所に御殿など建ちて御住居ありたる所を「舘」と云ふ也と。故に村里の村名に「舘」の字付きたる所は必ず位高き御方の御舘(みたち)ありし故に「舘(たて)」云ふ也。然れば当所は柏城の西の丸に侍り、殊に亭(ちん)の建ちたる所などこれあり、則ちその下の田所を今に「亭の下」と字を呼ぶ也。さればこそ「舘村」を名付けたるも尤もにて理也。【舘村旧記】

最後に長勝院旗桜のお花見に彩りを添えてくれた枝垂れ桜と鬱金桜を載せておきますが、この鬱金桜にも実は旗弁があるらしいの。これもボランティア・ガイドさんが教えて下さったのですが、鬱金桜そのものが珍しい桜なのに、旗弁があるなんて、この桜もまた貴重な桜よね。残念ながらξ^_^ξには花びらが多すぎてどれが旗弁なのかまでは分からなかったけど。(^^; 旗弁があると云っても、全ての花びらにあるわけではないので、単にξ^_^ξが見つけられなかっただけかも知れないわね。なので、お出掛けの際にみなさんご自身の目でお確かめ下さいね。

その鬱金桜の前には御覧の案内板が立てられていたの。歴史散策の好きなξ^_^ξの好奇心を何気な〜く煽りたててくれているような。(^^; 多分、もう一度この地に訪ね来そうな気がするの。それはさておき、長勝院旗桜の紹介の積もりが旗桜に纏わる逸話の紹介になってしまいましたが、みなさんがお出掛けの際には、この長勝院旗桜を前にして在原業平と皐月前の二人の悲恋物語に思いを馳せ、旗桜の花びらに彼女の面影を偲んで頂けたらうれしいな。穏やかな春の一日、あなたも世界に一本しかないと云う貴重な長勝院旗桜のお花見に出掛けられてみては。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

・世の中に  たえて櫻のなかりせば  春の心はのどけからまし  〔 在原業平 〕
・散ればこそ  いとど櫻はめでたけれ  うき世になにか久しかるべき  〔 詠み人知らず 〕

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〔 参考文献 〕
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
岩波書店刊 日本古典文学大系 竹取物語 伊勢物語 大和物語
志木市編集発行 志木市史 通史編〔 上 〕 原始・古代・中世・近世
志木市編集発行 志木市史 中世史料編
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など






どこにもいけないわ
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