≡☆ (続)指扇・歴史街道のお散歩 ☆≡
2016/06/18 & 2017/02/04

指扇・歴史街道のお散歩ではJR川越線の北側に残る史跡や寺社を訪ね歩いてみましたが、今回の散策では南側のエリアに足を向けて見たの。But 実際には土屋や馬宮などの地区を対象としていることから、指扇のお散歩とするには難があるのですが、JR指扇駅を起点としたお散歩と云うことで御了承下さいね。補:掲載する画像は幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたがクリックしてみて下さいね。

永田家長屋門〜高城寺〜金山神社〜慈眼寺〜林光寺〜観音寺〜足立神社

1. 馬宮コミュニティ−センタ−BS まみやこみゅにてぃーせんたーばすてい 9:25着発

実は、今回のお散歩は 指扇氷川神社の紫陽花 を見に出掛けた際に、足を延ばしてみたものなの。立ち寄りポイント毎の所要時間が予想出来ずにいたことから鶏並みの早起きをして、最初に指扇氷川神社を訪ねておいたの。散策の後半では足立神社の境内に咲く紫陽花も紹介しますが、紫陽花の開花時期であれば、指扇氷川神社での紫陽花観賞を加えていただければ、一度のお出掛けで二度の美味しい体験が出来てしまうと云う筋書きよ。と云うことで、実際の行程としては指扇氷川神社での紫陽花観賞後は駅には戻らず、歩いて来たの。参考までに指扇氷川神社からの所要時間ですが、ξ^_^ξののんびりとした足どりでも23分程でした。

尤も、どの道を歩くかで所要時間も変わってきますので、追体験される場合には自己責任でお願いしますね。それはそうと、追体験の時期が紫陽花の開花時期とは限らないわよね。今回は指扇氷川神社には立ち寄らずにおくわ−と云う方は、JR指扇駅から9:21発(土曜ダイヤ)の「大宮駅西口」行に乗車して下さいね。運賃:¥180- ( 発車時刻、運賃共に'16.06 現在 )  上掲の写真では電柱の傍らがバス停になりますが、画面右手の植え込みの中に「土屋陣屋と永田家」のことを記した案内板が立てられているの。お見逃しのないようにね。

〔 土屋陣屋と永田家 〕  永田家屋敷のルーツは、江戸時代初期に遡ります。徳川家康の家臣で、関東郡代の要職にあった伊奈備前守忠次が荒川改修・新田開発を行うために当地に居住、回りに堀を巡らし陣屋( 土屋陣屋 )としたもので、堀は現存しています。新田開発・治水に係わる業績は現在の暮らしにも活かされており、金山神社北側の堀( 通称・代官堀 )もその内の一つです。永田氏は、伊奈氏と共に荒川改修・新田開発に尽くし、陣屋跡地を拝領して現在に至っているものです。明治期に活躍した永田荘作〔 ながたしょうさく・大正9年(1920)没 〕は、大隈重信率いる改進党に属し地域の発展に尽くし、また、漢詩をよくし西里と号して文化活動にも力を注ぎました。その子・二郎〔 昭和46年(1971)没 〕は県内の洋画家の先駆として大正〜昭和期に活躍、馬宮村村長も務め地域の発展に尽力しました。屋敷一帯は、長屋門や松並木が美しく、心落ち着く風景を残しています。さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課

紹介するにあたり、散策の起点を馬宮コミュニティーセンターバス停にしていますが、ちゃんとバス停からバスの到着時間に合わせて歩き出していますので御安心下さいね。(^^;  それはさておき、鶏みたいな早起きは嫌だぜ、もう少しゆっくりさせろよ−と云う方は 西武バス にてバス時刻表を御確認の上でお出掛け下さいね。また、掲載する画像は再訪時のものを含めて掲載していますので、季節がごちゃ混ぜなの。併せて御了承下さいね。

CoffeeBreak 今回の散策エリアには難読の地名が幾つかあるの。
単にξ^_^ξが知らなかっただけのことかも知れないけど、挙げてみますね。

・遊馬‥‥‥‥
「あすま」と読むの。ξ^_^ξはずっと「ゆうま」と読んでいたの。西遊馬は、勿論、「さいゆうま」よ。(^^;
・水判土‥‥‥
「みずはた」が正解よ。ξ^_^ξ的には「みずはんど」よ。変な地名だとは思っていたの。
  ちょっと、微妙なところでは、
 
・馬宮‥‥‥‥
「まみや」なの。「馬」=「うま」から抜け出せずにいたξ^_^ξは「うまみや」よ。
・佐知川‥‥‥
「さぢかわ」だそうよ。因みに、「さちがわ」と読んでいたξ^_^ξです。
・植田谷本‥‥
「うえたやほん」と読むのが正しいらしいの。普通なら「うえだたにもと」よねえ。

いかがでした?みなさんはチャンと読めたかしら。この後、あちらこちらでこれらの地名が出てきますので、当該地区にお住まいの方々の郷土愛に応えるためにも、チャンと読んであげて下さいね。Me too !

2. 永田家長屋門 ながたけながやもん 9:27着 9:32発

〔 永田家長屋門及び築地塀 〕  大宮市指定文化財( 建造物 )平成11年(1999)4月1日指定  長屋門の建築規模は桁行21.16m、梁間4.75m、棟高6.18m、面積100.51m²と市内最大規模を誇ります。門の両端に接続しているのが忍び返しの付いた築地塀です。門扉と潜り戸は堅牢な開き扉で、銅製の八双金具や乳房状の饅頭金具が付いています。また、右手には出格子が二つありますが、市内では希有な例です。長屋門及び築地塀の正確な建築年代は判っておりませんが、凡そ江戸時代の後期と考えられます。永田家の屋敷地は、江戸時代初期に関東郡代伊奈忠次が陣屋を設置した地で、家臣であった永田氏が拝領しました。長屋門及び築地塀は、周辺の景観によく融合し、嘗ての陣屋の雰囲気を今に伝えているばかりではなく、木造日本建築の美を併せ持つ貴重な建造物となっています。平成13年(2001)3月 大宮市教育委員会

案内板の文責には大宮市教育委員会とありますが、大宮市は平成13年(2001)に浦和・与野両市と合併して現在はさいたま市になっているの。この頁では現地案内板に記載される説明文を紹介していきますが、幾れも記載されるままとしていますので、適宜読み替えをお願いしますね。

永田家は現在でも医院や歯科医院を開業するなどしていて、地元では名士のようね。But 現地に立てられている案内板では伊奈忠次や長屋門のことについては多く触れられているのですが、肝心の永田家のルーツとなると何も記されていないの。それに永田氏がいくら伊奈氏の家臣であったからと云って、それだけで「ほな、お前にくれてやるわい」とはならないわよね。やはり、それなりの理由があってのお話しだと思うの。 その辺りのことが気になっていたら、【新編武蔵風土記稿】(以降は風土記稿と略します)にズバリの記述を見つけたの。少し長くなってしまいますが、引いてみますね。土屋村の「舊家・庄左衛門」の項には

世々名主を勤む 氏を永田と稱し 先祖を市太夫可清と云 三州(=三河国、現在の愛知県東部)押鶴村の産にて天正3年(1575)長篠の役に 伊奈が手に屬して戰功を顯し 其後御入國の砌 備前守忠次に從て當國に移れり 忠次命を蒙り關八州を指揮し 所々の長堤を築て水利を導き 數多の水田を開きしも可清が功莫大なり 因て忠次願い上て東照宮に拜謁せしむ 夫より愈々勤勞して專ら水利農耕のことに心を竭せしが 遂に老耄に及びければ當所に引籠り 慶長19年(1614)2月26日病にて卒す 諡して薫宅道香と云 即ち遺言によりて村内に一寺を創建す 道香院是なり  とあるの。「可清が功莫大なり 因て忠次願い上て東照宮に拜謁せしむ」なんて、忠次が可清と云う良き家臣を得られたのなら、可清もまた忠次と云う良き主を得られた証しね。

部下の功績をさも己が功績のようにして喧伝する輩が多くいる中で、家臣の功績をときの最高権力者たる徳川家康の前で披露するなど、忠次もまた人格者よね。大分昔のお話しですが、ある方のスピーチの中に「サラリーマンの三つの幸せ」と云うのがあったの。一つ目は「良き上司に恵まれること」、二つ目は 「良き部下に恵まれること」、そして三つ目は「良き仕事に恵まれること」で、忠次と可清の関係は単なる上司と部下の関係とするにはレベルが違い過ぎるけど、まさに「サラリーマンの三つの幸せ」の世界よね。閑話休題、ここで今少し可清の後代のことを【風土記稿】から引いておきますね。

可清が子八兵衞可次亦よく父の業を續て水土のことに委しく 寛永11年(1634)伊奈半十郎忠治命を蒙り 富士川の水害を治めしとき 可次あづかりて其功少からず 又常によく村民を教諭し 傍ら禪學を嗜み 明暦4年(1658)2月14日卒す 可次が子を彌兵衞寛長と云 此寛長の時父祖累代の勤勞を賞せられて 陣屋の迹を宅地に賜はりしより 子孫連綿として今の庄左衞門に至ると云

可清に続く可次もまた良く忠治を補佐して水利事業に貢献したみたいね。陣屋跡地の下賜は可清・可次の父子二代にわたる献身的な務めがあればこそのものだったわけね。


ここでちょっと寄り道をしますね。永田家長屋門から少し離れてこの道香院があるの。可次が可清の遺言に従い創建したと云う一宇がこの道香院で、【風土記稿】には「禪宗曹洞派 遊馬村高城寺末 青蓮山と号す 本尊釋迦 當寺は名主庄左衞門が先祖 市太夫可清が爲に其子可次創建せり 由て其諡をもて院號とす」とあるの。遺言により創建されたと云う道香院ですが、可清は何を託そうとしたのかしらね。己が後生、それとも子々孫々の安寧かしら。墓苑にはその可清をはじめ、永田家歴代の墓塔が建ち並んでいるの。また、永田家長屋門からは300m程離れますが、土屋氷川神社があるの。併せて紹介しておきますので、気になる方は足を向けて見て下さいね。

〔 土屋氷川神社 〕  当社は荒川と入間川の合流地点から東に約2Km程離れた自然堤防上に鎮座している。西隣の遊馬村には荒川の乱流を防ぐため大囲堤(おおかこいづつみ)が築かれており、江戸期には遊馬村と組合を結成し維持管理に当たっていた。しかし、川の湾曲点のために水当たりが強く、大雨の際には決壊し、その度に両村で修復を行ったと云う。【風土記稿】には「氷川社 村の鎮守なり 薬王寺持」とある。創建については明らかでは無いが、当地は荒川の氾濫によって、しばしば被害を受けたことから、治水の神として、当社を荒川に最も近い村の西端に祀ったのであろう。別当の天台宗青光山薬王寺は別所村(現・西区指扇領別所)福正寺の末寺である。口碑に依れば、昔の社殿の瓦には卍が刻されていたと云い、当社の創建には薬王寺が関わっていたと思われる。本殿には、神祇管領(じんぎかんれい)吉田家から拝受した宝暦7年(1757)3月21日銘の氷川大明神幣帛(へいはく)と宗源祝詞(そうげんのりと)が奉安されており、この頃には既に村の鎮守として位置付けられていたものであろう。この他に、天保2年(1831)に一宮の氷川神社から拝受した木札が納められており「武蔵国一宮氷川神社御祈啓疫神斎村中安全守護ᦊ大宮神主角井出雲守」との墨書がある。神仏分離後、薬王寺は廃寺となり、当社は明治6年(1873)に村社となった。〔 以降省略 〕

3. 高城寺 こうじょうじ 9:38着 10:12発

高城寺は、西遊馬の「宿」と呼ばれる所にあります。天文12年(1543)の開創と伝える古い寺で、御本尊は室町時代の様式をもつ薬師如来坐像です。境内にある観音堂は嘗ては堤外にあったものと伝えられ、荒川の改修に伴い移転したものです。西遊馬の旧家の殆どが当寺に墓地を持っており、地域に密着した寺院です。江戸時代の後期には寺子屋が開かれており、氷川神社( 山門を南へ約50m )境内には高城寺10代の泰範賢州( たいはんけんしゅう )和尚が”先生”をしていたことを伝える天満宮が祀られています。また、明治6年(1873)には遊馬学校が当寺にて開校、現在の馬宮東小学校へと発展していきます。このため、寺紋と馬宮東小学校の校章は同じ”五七の桐”になっています。

本堂は昭和53年(1978)に新築されましたが、山門や鐘楼は歴史のある寺院にふさわしい重厚な造りで、大晦日には除夜の鐘を撞く大勢の参拝者で賑わいます。馬宮地区は大宮の中心街と川越の城下のほぼ中間に位置しており、旧道が地区内を通り、人や物資の流通が盛んに行われました。高城寺・さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課

永田家長屋門を後にして県道R57を横断、そのまま南に歩いて行くとJAさいたまと馬宮東小学校に挟まれた参道が見えてくるの。その先にあるのが高城寺で、古刹と知り、興味を覚えていたの。

訪ねてみれば詳しい開創縁起が分かるかも知れないわ−と期待していたのですが、紹介した現地案内板の説明でも、伝天文12年(1543)の開創とあるのみで、詳しいことは分からず終い。頼りとする【風土記稿】にも「禪宗曹洞派 大成村普門院末 遊馬山と號す 本尊薬師を安ず 當寺は天文12年(1543)僧正春なるもの基を興し 元龜3年(1572)安清記室其功を卒ふと云 由て正春を開山とす 記室一に文公と號せり 鐘樓 寶暦年中(1751-64)に鑄し鐘をかく 觀音堂 此堂元堤外にありしを元和6年(1620)ここに引移せりと 貞和元酉年(1345)2月とえれる古碑一基立り 秋葉社 白山社」と誌されるだけで、委細不明なの。

記述にあるように、正春が開山だとすると開基は誰なのかしらね。天文12年(1543)と云えば世は戦国時代、この辺りを治めていた武士が開基したと考えられなくもないわね。戦乱で負傷することも、それどころか命を失う可能性も当然あった訳で、薬師如来に疵の治癒を願い、ときには命の長らえを祈願していたのかも知れないわね。それとも、武士に依る開基を離れて、罹病などの流行り病で亡くなる村人達が多かったことなどから、病魔退散の御利益を期待しての開創かしら。今となっては創建された背景を詳しく知る術は無さそうだけど。

〔 荒川土手の庚申塔 〕  この庚申塔は、荒川堤防河川側に安置されておりました。平成20年(2008)末から始まりました堤防拡幅工事の為、移転することに相成りました。拡幅後も同じような形でお祀り出来ることを望んでいたのですが、河川法と云う法律に依りますと、それはままならないのだそうであります。そこで、高城寺の敷地内にお祀りし、上手外にあった当時の面影、雰囲気を再現してみました。延宝4年(1676)に建立されたと云われております。どうか、ここに安置されたのも一つの縁、これも世の流れ、全てのものごとは移り変わってゆく、無常と云うものを感じ、これからも変わらずお参りしていただけることを願います。平成21年(2009)5月吉日 高城寺住職 充可 合掌

山門の右手に祠堂が建つので何が祀られているのかしら−と気になり、覗き込んでみると御覧の庚申塔が祀られていたの。この高城寺に限らず、庚申塔に目を留めた方の殆どは「何だ、墓石(はかいし)じゃねえか」 (^^; と、そのまま素通りされて行かれますが、庚申塔は庚申信仰の隆盛に合わせて造られるようになった石塔のことで、決して墓石じゃないのよ。そうなると庚申信仰とやらが気になるわよね。次に紹介する「高城寺の庚申塔」の案内板でもチラリと触れられているのですが、庚申塔や庚申信仰のことを分かりやすく別途解説していますので宜しければお立ち寄り下さいね。興味のある方は こちら からどうぞ。

〔 高城寺の庚申塔 〕  大宮市指定文化財(有形民俗文化財)  昭和50年(1975)2月7日指定
江戸時代前期の寛文3年(1663)3月に造立しています。基礎の上に角柱の塔身、更に笠を載せています。総高は170cmです。塔身上部中央の浮き彫りは、主尊の青面金剛です。火焔光背を持ち、三顔で、右手に剣、左手に索を持ち、一匹の邪鬼を踏みつけています。両脇に童子、下部に二猿、その下に二鶏を浮き彫りしています。銘文に「于時寛文三癸卯年(1663)三月吉日 植田谷領 遊馬村□衆拾四人」とあり、遊馬村の村民14人が結衆して建てたことが分かります。庚申信仰の基本は、庚申の夜、人間が熟睡すると、体の中にいる三尸という虫が体から抜け出し、天帝にその人間がどのような善悪を行ったかを報告しに行き、天帝はその報告により人間の寿命を決定するという信仰です。高城寺の庚申塔は、主尊・邪鬼・童子・鶏・猿が揃い、江戸時代前期の庚申塔及び庚申信仰を知る上で貴重な資料となっています。平成5年(1993)3月 大宮市教育委員会

本堂への上がり框左手には、般若心経こと佛説摩訶般若波羅蜜多心経が刻まれた摩尼車(まにぐるま)が置かれていたの。説明によると、この摩尼車は「一回一誦」と云われていて、経典の彫られた車を一回転させることで般若心経を読誦したことと同じ功徳が得られるのだそうよ。依然、鎌倉の長谷寺で取り付けられた把手を持ち、一回りさせることで経典の全てを読破したことになると云う、転輪蔵(経蔵)と呼ばれる便利なものを見掛けたことがありますが、この摩尼車はそのサブ・セット版といったところね。残念ながら般若心経の何たるかを知らないξ^_^ξにはいかなる功徳が得られるのかは分かりませんが、意のある方はお試し下さいね。

境内を探索 (^^; していたら「瑞巌の小径」と名付けられた素敵な小径を見つけたの。案内板には「晩年、先代住職が散歩していた小径です」とも記されていましたので、ξ^_^ξも真似てお散歩させて貰ったの。距離にしたら僅かに数10mほどの道程でしかないのですが、手入れの行き届いた木々の植栽や、季節柄、紫陽花の花が咲き誇り、素敵な空間が広がっていたの。夏になれば蝉時雨が、秋になれば葉を赤く染めた木々の紅葉が見られるなど、この小径を辿れば居ながらにして季節の移ろいを肌で感じることが出来そうね。ここがお寺の境内であると云う環境からすると、本来なら思索のための小径なのかも知れませんが、脳天気な旅人にも優しい憩いの小径になっていたの。

引き続いて客殿(?)を紹介しますが、御覧のように、アプローチの両側には色とりどりの花々が植えられていたりして、お寺なのに、どこか女性的な気配りが感じられたの。寺院と云えば、日頃、無機的な景観ばかりを見慣れた目には殊の外新鮮ね。この高城寺では煩悩さえも是とするような、そんな優しい時間が流れているような気がするわね。

本堂の左手には墓苑が広がりますが、その前には観音堂があり、白亜の観音像も建てられているの。先程紹介した【風土記稿】の記述に「觀音堂 此堂元堤外にありしを元和6年(1620)ここに引移せりと」とあるように、元々は高城寺のものではなかったのですが、近年新たに建て替えられ、今ではすっかり高城寺の伽藍の一つとして同化しているの。最後に、その観音像を紹介して高城寺の御案内を終えますね。

4. 西遊馬氷川神社 にしあすまひかわじんじゃ 10:14着 10:22発

〔 西遊馬・氷川神社 〕  嘗ての遊馬村の鎮守で、”宿の氷川様”と呼び親しまれています。当地は大宮と川越のほぼ中間に位置し、「宿」の名が示すように、遊馬では神社前の道の両側に集落が営まれていました。鳥居前の道は、江戸時代から大宮と川越を結ぶ重要な道で、南は馬宮保育園前を左折し県道に出て右折、水波田観音※を経て大宮や与野へと結ばれ、北は馬宮東小学校前を通り、荒川堤防上を北進、丸堀の北側を通り、千手堂の渡しで荒川を越えて川越へ至りました。丸堀の北側から先の道はゴルフ場になっており、辿ることが出来なくなっています。7月中旬に、天王様の祭礼が催され、神社入口に大きな幟を立て、子供神輿や山車が出て大変賑わい、地区内を巡行します。さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課

この案内板に限らず、地名を指す場合には水判土だけど、その水判土の慈眼寺境内にある観音堂のことを云うときには何故か水波田を当てることが多いの。水判土と水波田の使い分けは何に依るのかしらね。

当地は荒川左岸の低湿地にあり、古くは大風雨の際には度々堤が決壊して田畑が冠水した。戦国期の成立とされる「市場之祭文(いちばのさいもん)写」に「足立郡遊馬郷指扇村市祭成之」とあり、指扇村や当地を含む付近一帯は中世末には遊馬郷と呼ばれていたことが分かり、既に当地も開発されていたと思われる。当社は、地内の南部に当たる字宿に鎮座し、すぐ近くには天文12年(1543)の草創と伝える曹洞宗遊馬山高城寺がある。創建については明らかでないが、口碑に依ると、当社は初め堤外にあったが、荒川の大囲堤を築く際に今の地に移ったと云う。【風土記稿】遊馬村の項には「氷川社 村の鎮守なり 華蔵院の持」とある。

これに見える別当の華蔵院は、当社の南南西250mほどの所にあった天台宗の寺院で、その開基は明らかでない。明治4年(1871)に廃寺となった。【明細帳】に依ると、当社は明治6年(1873)に村社となり、同40年(1907)から翌41年(1908)にかけて、地内の字上(か)サの八幡杜をはじめとする無格社七社を合祀し、更に大正9年(1920)に字浄蓮坊の無格杜稲荷社を合祀したとあるが、その内の数社は実際の合祀を免れている。本殿に奉安される神像( 全高47cm )は正面に八幡宮の神紋である巴紋(ともえもん)が描かれていることから、上サの八幡社の八幡大明神像と推測され、その台座底部には「安永元天辰(1772)ノ十二月吉日」の年紀が見える。

□御祭神と御神徳
・素戔鳴尊‥‥‥武運長久、厄除け、商売繁盛
□御祭日
・元旦祭(1月1日)・春祭り(3月7日)・御例祭(4月1日)
・天王様(7月14日に近い日曜日)・新嘗祭(11月23日)

ここで再び地名のお話になりますが、歩いていて不思議に思ったことがあるの。下車したバス停の傍らには馬宮コミュニティ−センターがあり、高城寺の隣には馬宮東小学校があるので、当然、この辺りは馬宮と云う町名なのね−と思うわよね。But 紹介した氷川神社は西遊馬氷川神社になっていたので、道を隔てて西遊馬に変わったのかも−と思った矢先、今度はさいたま市西区の馬宮支所兼馬宮公民館があり、再び馬宮に戻ってしまったの。そんなこんなでξ^_^ξの頭は「何なのよ、ここは。馬宮と西遊馬が入り乱れていて、一体全体ここは何町になるの?それとも飛び地なのかしら?」状態。偶然にも、その疑問に答えてくれる説明が、その馬宮支所の前に立てられていた案内板にあったの。馬宮は町名じゃなくて、地域の名称だったのね。読めば納得ね。

〔 馬宮と荒川 〕  馬宮地区は、大宮市の南西部に位置しており、西遊馬・土屋・二ツ宮・プラザ・湯木町・飯田新田・塚本町・塚本・植田谷本村新田を含んだ地域を指します。明治22年(1889)にこれらの地域が合併した折、西遊馬の「馬」と二ツ宮の「宮」をとって馬宮と付けました。昭和30年(1955)に大宮市へ合併し現在に至っています。公民館・支所の西側を通る道は、大宮と川越を結んだ古い道で、道沿いに集落が出来ました。道と集落は、嘗ての荒川の氾濫土が堆積した自然堤防上にあり、周囲の水田に比べ高くなっています。馬宮の特徴の一つに、荒川が地区の中央を流れ下っていることが挙げられます。元の荒川(現びん沼川)は、馬宮と川越市〜富士見市境を流れていました。改修工事による新しい荒川が、大正末〜昭和初期に馬宮のほぼ中央を貫通するようになり、地区は東西に二分されたものの、毎年のように繰り返された荒川氾濫による被害は最小限のものとなりました。さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課

5. 金山神社 かなやまじんじゃ 10:36着 10:42発

〔 金山神社 〕  佐知川上(かみ)の人々がお守りする社です。創建の詳しいことは分かりませんが、祭神に金山彦命(かなやまひこのみこと)、金山姫命(かなやまひめのみこと)を祀り、明治6年(1873)に村社に列せられました。境内には天神社をはじめとする十三社が祀られています。金山神社は一般的に鍛冶職人が信仰する神社とされています。近年の発掘調査で佐知川から水判土へ至る台地上の古墳跡や、県道沿いで検出された平安時代の住居跡から鉄製品が出土しているので、これら鉄製品を作った職人達の集団が金山神社を祀ったのではないかと推測できます。尚、隣接する金山堂では円哲と彫られた仏像群が発見されています。神社脇を「代官堀」と呼ぶ江戸時代初期に開かれた水路が流れています。井戸尻(プラザ)の水を排水し、水田化するために関東郡代伊奈備前守によって開創されたので、そう呼ばれています。今は都市排水路となり、水も澱みがちで、昔の面影は失われてしまいました。〔 以下省略 〕  平成元年(1989)10月 大宮南西ロータリークラブ

〔 金山神社御由緒 〕  当地は荒川の自然堤防上にあり、地名の由来は傾斜地・日向地を表すサジの縁に当たることからサジカワとなったと云う。また、「清河寺文書(せいがんじもんじょ)」の応永29年(1422)の足利基氏(あしかがもとうじ)寄進状には「佐知川」の文字が見えることから、室町時代には既に村があったことが窺われる。当地に金山神社が祀られた理由として、鍛冶や鋳物師(いもじ)との関係が考えられる。これを裏付けるものとして、当地の発掘調査に於いて、平安時代の住居跡などからは、鉄製品や金屎(かなくそ)が出土しており、更には、太平洋戦争中の食糧増産のため、陸田に地下水を汲み出して水田にしたところ、地下5mから9mにある砂の層から鉄分を多く含んだ水が出て、汲み置くと赤くなったり、稲の根の周りが赤くなったと云う。

これらのことから、当地で製鉄・鍛冶・鋳造などを行っていた集団が居住していた時代があったことが推測される。往時の別当は、天台宗の金生山覚蔵院正覚寺(明治6年(1873)廃寺)※で、西側の代官堀を隔てて、覚蔵院跡がある。境内には天神社・八雲社・琴平社・厳嶋社・日枝社・八幡社と明治40年(1907)に合祀した字前の神明社、同境内社の三王・荒神・稲荷・御嶽・水神の五社、字前の第六天社、字後谷(うしろや)の一本松稲荷社がある。
□御祭神  ・金山彦命 ・金山姫命
□御祭日  ・定例日:4/7 ・天王様:7月第2土曜日

※【風土記稿】には「覺蔵院 天台宗 水判土村慈眼寺末 金生山正覺寺と號せり 金山社 神明社 山王社 第六天社」とあるの。

6. 金山堂 かなやまどう 10:43着 10:46発

天台宗金山堂地は、昔、武蔵国北足立郡佐知川村字前と云い、元禄3年(1690)建立。本尊に観世音菩薩を安置する。金山堂の傍らに金山神社があり、金山堂前には庚申塔(2基)《 元禄7年(1694) 》も昔のまま残っている。当金山地域は各種の出土品や土器等から奈良平安の古代から中世にかけて官衞・寺院・権力者を中心に営まれ、付近一帯に鉄製品を生産した遺跡や形跡から金山名がつけられたと考えられている。金山堂は大正・昭和時代には御先祖を敬う地域住民の文化活動の拠点として「まつりごと」( 自治や文化行事、祭礼など )の諸行事を担う重要なお堂として皆様と共に今日に至っております。平成20年(2008)7月、老朽化のため天台宗慈眼寺( 水判土 )の手に依って金山堂は全面新しく建立。平成20年(2008)7月23日 建設・天台宗慈眼寺 管理・委託:佐知川上金山墓地管理会

金山神社と境内を接してこの金山堂があるの。傍らの公孫樹の木の根元には二基の庚申塔が建てられていますが、金山神社の境内に立てられていた案内板には「プラザを造成する時に移されたもので、今も「村はずれの庚申様」と信仰されています」とあるので、「昔のまま残っている」とは云うものの、元々は現在地にあったわけではないようね。像容は青面金剛を主尊として三猿を配したもので、とりわけ、左手に建つ庚申塔は笠付きと立派なものね。造立にはそれだけ費用がかさんだハズで (^^; 当時の庚申信仰の隆盛が偲ばれる逸品ね。

7. 願満堂 がまんどう 11:01着 11:05発

〔 願満堂 〕  「がまんどう」と呼び親しまれているお堂で、佐知川の人々の墓地となっています。墓地へ入った南側に保存されている板碑は、文永5年(1268)5月造立を最古に、年号の分かる新しいものでは天文12年(1543)のものがあります。幾れも北方にあった覚音院〔 明治6年(1873)廃寺 〕に所在していたものを保存のため移動したものです。また、江戸時代前期の天和2年(1684)、元禄3年(1690)の庚申塔が2基保存されており、佐知川村の人々により建てられたことが彫られています。徳川家康が旗本数騎と共にここで休憩をしようとしたものの、戦機急にして小休止も許さず、当地で休むことを我慢して通りす過ぎたことから「がまんどう」と呼ぶようになったと云う伝説があります。南は、水波田観音、鳶坂(とんびざか)、並木橋を経て、家康が休憩してお茶を飲んだと云う茶堂に至り、更に大宮や与野へと続き、北は金山神社、高城寺、荒川を経て川越へと結ばれています。さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課

最初の庚申塔は天和四甲子年(1684)の銘を持つ庚申塔で、佐知川村の人々の手に依るものよ。説明には「天和2年(1684)」とあるけど、天和4年の間違いじゃないかしら。一方の笠付き庚申塔の右手には板碑群が写りますが、明治6年(1873)に廃寺となった覚音院にあったものよ。その覚音院ですが、【風土記稿】には佐知川村の項に「覺音院 天台宗水判土村慈眼寺末 梅林山金藏寺と稱す 本尊阿彌陀を置り」とあるのみで、委細不明なの。

8. 慈眼寺 じげんじ 11:13着 12:02発

次に訪ねたのがこの慈眼寺ですが、事前の知識を何も得ていなかったξ^_^ξは、こんなところに(失礼)何でこんなに立派なお寺があるの?状態だったの。帰宅後に改めて調べてみると、平安時代の天長3年(826)に慈覚大師こと円仁が当地に立ち寄った際に創建されたと伝えられるなど、さいたま市内でも有数の古刹であることが分かったの。寺伝なので必ずしも史実だと云う訳ではないのですが、それでも観音霊場として古くから信仰を集め、岩槻太田氏がこれを厚く保護するなどしたことから室町時代にはかなりの隆盛を見たようね。But その庇護が逆に災いしたの。城郭の機能をも持ち合わせていたために戦禍で伽藍を焼失。

曲折を経て天正19年(1591)に徳川家康から寺領10石の寄進と共に朱印状を得ているの。その後、「中興の祖」とされる円海上人が寛文11年(1671)に観音堂を建立するなどして再建がなされたの。更に時を経て、近年では平成に入り「平成諸堂大建立」が行われ、観音堂を初めとした主要な堂宇が改築・新築されたの。新しさの中にも屹然とした佇まいは、時代の荒波に揉まれながらも法灯を守り続けて来た誇り故のものね。

ξ^_^ξはメインゲートとも呼ぶべき仁王門があることを知らずにいたこともあり、県道R57を西から歩いてきたので最初に見掛けた総門から境内に足を踏み入れていますので、伽藍の紹介が変則パターンになっていますが御了解下さいね。上の画像はその総門から山門へと向かう参道の景観ですが、ちょっと見が京都の寺町界隈でもそぞろ歩きしているような雰囲気にあり、仲々素敵でしょ。(^^;

〔 慈眼寺 〕  天臺宗 入間郡小仙波村中院の末 普光山淨蓮院と號す 古は蓮華寺と稱せし由 正保(1644-48)の頃のものには猶しか記したり されど其改めし年月は詳ならず 開山は慈覺大師にて殊に八百比丘尼の古迹なれば 古は堂宇の營み嚴かなりしかど 中古戰爭の世にあひて姑く衰廢せしを 御入國の後寺領十石の御朱印を賜ひて やや舊觀に復せり されど多年荒廢の間に 舊記等すべて失ひたれば 其詳なることを知らずと云 古き過去帳を藏す 序文に永正10年(1513)佛滅日實海序とあれど 其頃書しものとも思はれず 中興開山を圓海と云 延寶2年(1674)11月8日示寂 本尊大日を安ず 當寺は元城壘のありし所と云傳ふれど 何人の居住なりしや其姓名を失ふ 今も境内の樣なだらかに高く 古木數十株並び立 其間に諸堂を結び 前は田圃に臨みて佳景の地なり

【風土記稿】の記述を引いておきましたが、古くは「蓮華寺」と称し、正安年間(1299-1302)には川越・中院末として「普光山淨蓮寺」を号しているの。院号にしても【風土記稿】では「浄蓮院」ですが、現在は更に「華」の一字を加えた「浄蓮華院」となっているの。それがいつ頃から「慈眼寺」の名を以て呼ばれるようになったのかが気になりますが、天正年間(1573-1592)に記された古文書に「慈眼院」or「慈眼寺」の表記が見え、その頃のことかと推察されているみたいね。と云うことで、現在は普光山浄蓮華院慈眼寺を正式な山号寺号プラス院号 (^^; としているの。

ところで、この山門ですが、古くは単に表門と呼ばれていたみたいよ。と云うのも、本堂は本堂でも仮本堂の扱いだったので、その前に建つ門は単なる表門だったと云うわけ。じゃあ、本当の本堂はどうしたのかと云うと、当時は観音堂がそれに相当する建物として扱われていたみたいね。現在の山門は昭和56年(1981)に建立されたもので、本堂造営に合わせて表門から山門に昇格 (^^; したみたいね。それから推すと、仮本堂は昭和50年(1975)に一度改築されているので、本堂へ格上げされたのはその時のことかも知れないわね。因みに、山門の右手に建てられている延命地蔵尊は、文政12年(1829)に本尊(千手観世音菩薩)が建立1,000年を迎えたのを記念して上野・寛永寺から寄進されたものだそうよ。

その延命地蔵尊と云えば、この慈眼寺には「寿地蔵尊」の別称で呼ばれるもう一つの延命地蔵尊があるの。残念ながら秘仏と云うことで拝観は出来ないのですが、地元では何と!800歳を迎えた八百比丘尼が当地に立ち寄り、残り200歳の命を領主に差し出すと、自らは紫金の延命地蔵尊像を抱いて亡くなったと伝えられ、当山所蔵の【八百比丘尼縁起】にはその延命地蔵尊像が享保8年(1723)に出土したことが誌されているの。八百比丘尼と云えば、延命地蔵を信仰していたから、或いは、人魚の肉を食べたことから800歳もの長寿を得たと云う尼さんのお話よね。八百比丘尼伝説はこの水判土に限らず、全国各地で語り継がれ、お話の展開にも地域差があるのですが、【風土記稿】がうまく纏めてくれている (^^; ので、その記述を以て紹介に代えますね。

〔 地藏堂 〕  黄金佛にて長一寸八分 傳へ云此像は八百比丘尼の守護佛にて 壽地藏と呼べりと 門外に石標を立て其舊跡なることを示す 此像も中古荒廢より以來 何れへか失ひて見えざりければ 代々の住僧深く是を愁へ 諸方を尋ねけれども求め得ざりしに 享保年中(1716-36)はからず境内土中より掘出せしと云 其形岩洞の内に安じ 岩の裏に孝の字かすかに見え 其左右に八百比丘尼大化元年(645)とありし由なれど 秘佛なりとて見ることを許さず 又かの尼が手づから植し木あり 先年枯れて今仁王門の庇の下に片寄てあり 太さ五圍に餘り 木理檟の木と見ゆ 彼尼が植たることは姑く置きて いかさま數百歳を經しものと思はる さてこの尼は上古若狹國にありて 常に延命地藏を信じ 一千の小石を集めて

多年の供養を重ねしかば 其功徳により悟道徹底し 遂に人間の塵縁を免れ 妙齡不老にして八百歳の壽を保てりと云 或は云彼尼は若州小松原の産なりしが 幼時父海濱に釣して怪き魚を得たり 即ち之を食はしめしに 夫より年を重ぬと雖も 容貌衰へず 同國後瀬山の麓空印寺境内の岩洞に隱れ住 遂に八百歳に及ぶ 故に人呼でかく名付くと 肌膚至て白かりければ 一に白尼とも呼ぶ 寶徳年中(1449-52)洛に至り 常に源平盛衰のさまなど 面のあたり見たりとて物語せしと云 寶徳(1449-52)より大化元年(645)まで八百年に餘れば 計へ來てかくは呼しなるべし いかにも妄誕の説に似たれど 舊く云傳ふることなれば 若狹國志等に因りてほぼその傳を誌しをきぬ

仁王門をくぐり抜けて来られた方が最初に目にするのがこの観音堂で、華麗な装飾を施された緋色の建物の威容に思わず目を奪われるハズよ。慈眼寺の伽藍の中にあって一際異彩を放つ堂宇ですが、この観音堂こそが慈眼寺のルーツとも云える存在なの。先程本堂の紹介で、仮本堂から昇格したのが近年になってからのことと御案内しましたが、それ以前はこの観音堂こそが本堂で、慈眼寺の中核を成していたの。と云うよりも、この観音堂を中心にして伽藍が発展整備されていったとする方が正しいのかも知れないわね。【風土記稿】には「縁起の略に云ふ 天長年中(824-834)勅願によりて慈覺大師一刀三禮して刻める所なり 脇士の不動毘沙門も同作なり 中古衰廢の砌此像を岩槻の慈恩寺へ遷座せしに 住僧の夢に入て靈意に叶はざるの告ありしかば 後當所へ歸座せしと云」と誌される本尊の千手観世音菩薩ですが、残念ながら秘仏扱いと云うことで普段は拝観出来ないの。

どうしても千手観世音菩薩の御尊顔を拝したいの!と云う方は、次の午年の年までご辛抱下さいね。12年に一度、午年の4/11〜4/17の一週間に限り特別開帳されるの。直近では次回の御開帳は 2026 のことになるけど、随分と先のことね。覚えていられるかしら?(^^;

〔 水波田観音(みずはたかんのん) 〕  慈眼寺境内にあるこの観音堂は古来より”水波田(水判土)の観音さま”と呼ばれ、周辺村々の信仰を集めていました。2月17日は観音さまの縁日で、近郷近在からは色とりどりの布地で綺麗に飾り、毛並みを整えられた馬が馬喰(ばくろう)や農民に連れられ参拝に訪れ、馬の無病息災を祈りました。馬の晴れ姿と共に、この地に来たばかりのお嫁さんも正装して参拝するので、見物人も合わせ数多くの人が境内に集まり、露天商も出て賑わいました。馬の世話は大変であったので、戦後は牛を飼う人が増え、牛馬混在のお詣り風景となりました。寺では馬の好物である大豆を袋に入れて授け、馬をねぎらいました。〔 以下省略 〕  大宮市教育委員会社会教育課

観音堂には回廊が造られているので昇殿させて頂きましたが、その回廊からの景観が秀逸なの。
是非、昇殿されることをお勧めしますね。

9. 林光寺 りんこうじ 12:24着 12:44発

慈眼寺を後にして次に足を向けたのがこの林光寺なのですが、鴨川縁の道を歩いて行けば、お寺のことだからどこかに入口の案内板が立てられているハズよね、きっと−と安易な考えでいたのですが、民家の切れ間や木々の間からお寺の瓦屋根が見えこそすれ、どこに入口があるのか、全然分からなかったの。なので、参道の入口を探すべく、辺りの道を行ったり来たりして迷子状態になってしまったの。ようやく辿り着いてみれば、ξ^_^ξの意に反して (^^; 林光寺の参道は南西方向に思いっきり長く伸びていたの。と云うことで、慈眼寺からの所要時間がやたら長くなっていますが、そんな理由からなの。実質的には半分も掛からないのでは無いかしら。

これは内緒のお話だけど、境内を散策していたときに裏口を見つけたの。
御案内の最後に、その鴨川縁の道からの裏口をお教えしますので、お楽しみにね。

縁起が記された案内板でも無いかしら−と境内を探してみたのですが見つからず、ここでは代わりに【風土記稿】の記述を紹介しますが、同著には「新義眞言宗 京都仁和寺末 金剛山華蔵院と称す 古は林臺寺と號せしと云 天正19年(1591)寺領十石の御朱印を賜ふ 開山を本覺大師と云 鎌倉時代の僧といへど示寂の年月を失ふ 本尊は惠心の刻める阿彌陀を安ず 鐘楼 安永年中(1772-81)鑄造の鐘をかく 熊野社 虚空蔵堂」とあるのみで、詳しいことは分からないの。それに、記述では本尊の阿弥陀像を恵心僧都の作としていますが、それはちょっとマユツバっぽいわね。それはさておき、現在は金剛山林光寺華蔵院を号する、真言宗智山派の寺院

〔 林光寺銅鐘 〕  大宮市指定文化財・工芸品 昭和50年(1975)2月7日指定
江戸時代後期の安永5年(1776)に江戸の鋳工西村和泉守藤原政時により造られました。四ヶ所に鐘を衝く撞座があり、各撞座の上に仏法を守護する四天王( 持国天・広目天・増長天・多聞天 )が見事に浮き彫りされています。第二次世界大戦時の物資の不足に際しては、余りにも見事な出来であるため供出からも免れ、その音を今に響かせています。その音色が素晴らしいのは鋳造にあたり、村々の人々が簪などを混ぜたためと云われ、当時の村人の祈りが込められているからでしょうか、この銅鐘は折々のお寺の行事の時に撞かれ、特に大晦日の除夜の鐘は一般の参拝者も撞くことが出来、

善男善女で賑わいます。過ぎた一年を顧みて、新しい年への希望を持って一人ひとり神妙な面持ちで鐘を衝きます。全高:146.4cm 口径:75cm 大宮市教育委員会

林光寺には銅鐘の他にも旧大宮市の文化財に指定される品々があるらしいの。残念ながら一般公開はされていないので未確認ですがすが、境内に立ててられていた案内板の説明を参考までに紹介しておきますね。尚、掲載する画像は単なる演出 (^^; で、本文とは関係がありませんので、念のため。

〔 林光寺朱印状 〕  大宮市指定文化財・古文書 昭和55年(1980)6月6日指定
天正18年(1590)江戸城に入った家康は、翌年関東の寺院などに寺領の保護を約束しますが、この約束を書き記したのが朱印状です。市内では九ヶ寺が徳川家から寺領を拝領し、その内の七ヶ寺が西部地区に集中しています。林光寺の朱印状には殖絶( 植田谷本のこと )の内に10石の寺領を寄進する旨が記されており、家康を初めとして計12通が現存しています。大宮市教育委員会

〔 林光寺絹本着色真言八祖画像 〕  大宮市指定文化財・絵画  昭和32年(1957)3月6日指定
林光寺の開創は古く平安時代まで遡ると伝え、市内の真言宗寺院の中でも古く由緒あるお寺です。平安時代の初期、中国で密教を学んだ空海は、帰国後、各地に新しい仏教・真言宗を広めます。後に真言宗の各寺院では空海が中国から持ち帰った金剛智・善無畏・不空・一行・慧果の肖像と竜猛・竜智・空海を含めた三人、合わせて八人の僧の肖像を模写して伝えるようになりました。この8人の高僧を真言の八祖と呼びます。林光寺に伝わる八祖像は東大寺にある八祖像の何代目かの模写と云われています。模写する中で時代の変化や作者の作風が加わり、独自な作品となりますが、林光寺のものは室町時代の作風で、絹地に静かな筆の運びで写実的に描かれています。この八祖像は7月の盆供や8月の施餓鬼などで掛けられ、見る者を厳かな気持ちで満たします。縦:79cm 横:38.5cm 数量:8幅

〔 林光寺の大ケヤキ 〕  大宮市指定文化財・天然記念物 昭和50年(1975)2月7日指定
本堂の裏手北東側にあり、植水地区一番の大木です。夏にはみずみずしい緑で本堂の屋根を覆う姿、冬には澄み渡る蒼空に凜々しく聳える姿を遠望することが出来ます。ケヤキは比較的長寿の樹木と云われていますが、この木は若木で樹勢も良く、木肌も細やかで樹冠部の枝を見事に箒型に広げています。樹勢・形姿共に優れた大ケヤキです。樹高:25m 目通り:3.65m 枝張り:東西25.3m・南北24m 大宮市教育委員会

「林光寺の大ケヤキ」ですが、説明には「本堂の屋根を覆う姿」を遠望することが出来る−とあるのですが、本堂の屋根を見上げたところで、ケヤキのケの字も見えなかったの。天然記念物に指定されたのは昭和50年(1975)のこととありましたので、既に枯死してしまったのかも知れないわね−と、独り合点して境内を後にしてしまったの。But 帰宅後に改めて調べてみると、ちゃんと生存中 (^^; のようね。林光寺を訪ねた際には探してみて下さいね。

林光寺の御案内の最後にお約束の裏口を紹介しますね。本堂の右手には御覧の客殿や庫裏などの建物が続きますが、それらの建物の前を通り、石畳の道を辿っていたら鴨川縁の道に出られることが分かったの。右端がその出入口になるのですが、追体験される場合にはこの出入口を探しながら歩いて来て下さいね。御覧のように塀越しに不動堂の瓦屋根が見えますので直ぐに分かると思うわ。実は、林光寺の参道を探しあぐねていたときに、一度この小径に分け入ろうとしたのですが、傍らに民家も建つことから入るのが躊躇われたの。思うに林光寺関係者のための通用門と云うことのようですが、鴨川縁の道を歩いて訪ね来られた場合にはちょこっと利用させて貰いましょうね。但し、この門扉が常に開けられているかどうかは定かではありませんので、御利用は自己責任でお願いしますね。勿論、正面から正々堂々と云う方は無理にはお誘いしませんが。(^^;

10. 観音寺 かんのんじ 12:59着 13:02発

〔 袋の観音寺 〕  真言宗の寺院で、小字”袋”にあるところから古来より「袋の観音」と呼ばれ、多くの人々に親しまれてきました。本尊は如意輪観世音菩薩で、昔から女性を守護する仏さまとして尊崇され、特に安産・子育・息災延命の祈願所として栄えてきました。毎月17日が観音さまの縁日になっておりますが、特に1月28日の護摩供養祭には近在の人はもとより、川越・岩槻、遠くは東京からも参詣者があり、露天商なども出て賑わいます。小さなお寺ですが、江戸時代初期には既に開創されていた歴史をもっています。墓地内には中世の歴史資料である板碑も僅かながら残存しています。さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課

次の足立神社へ向かう途中で端整な佇まいが気になり訪ねてみたのがこの観音寺なの。伽藍はおしなべて新しいものにはなってはいますが、山門の立派な構えから推して由緒ある寺院じゃないかしら、どんな縁起を持つお寺なのかしら−と思ったの。残念ながらそれに応えてくれるような説明書きには出会えず、【風土記稿】にも「新義真言宗 植田谷本村林光寺末 山号詳ならず 本尊正観音を安ず」とあるのみで、詳しいことは分からず終い。尚、同著では本尊を正観音としていますが、如意輪観世音菩薩が正解ね。それとも、途中で変わったのかしら。山号も不詳としていますが、現在は中袋山観音寺を山号寺号とする真言宗智山派の寺院となっているの。

11. 足立神社 あだちじんじゃ 13:11着 14:00発

足立神社は、平安時代にその名が見える古い神社です。植水地区を中心とした殖田郷(うえたごう)に本拠を置いた平安時代の豪族・足立氏が奉斎する氏神でしたが、崇敬者も増え、朝廷の『廷喜式神名帳』に登載される程になりました。この神名帳にみえる足立神社だとする社が、浦和市・鴻巣市・市内宮原町にもありますが、【新編武蔵風土紀稿】では足立氏の子孫と伝える植田谷本村の名主・小島勘太夫家屋敷内にあった足立神社をそれと記しています。この足立神社は明治40年(1907)に植水地内の12社を合祀して、氷川神社の社号を足立神社と改称したものです。〔 以下省略 〕  さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課

ここで、参考までに【風土記稿】の記述も紹介しておきますね。藤九郎盛長とあるので安達盛長のことよね。地元ではその盛長の霊を祀ったことから社名の由来になったとする説もあったみたいね。おめえさん、足立と安達の違いなんていちいち気にしちゃいけねえよ−と云うことですが、残念ながら荒唐無稽なお話として一蹴されちゃってるけど。(^^;

名主勘太夫が屋舖の内にあり 打開けたる地なれば 古迹とは思はれざれど 社邊に大木二三株立るを以て見れば 昔は樹木生茂りて幽邃の地なりしを 居宅の邊りなれば 後世切開きしも又知るべからず

相傳へて【延喜式】神名帳に載する足立神社は 即當社なりと云此説もし然らんには【當國風土記】に 神田六十束 四圍田 大日本根子彦太日天皇御宇 二年戊子所祭猿田彦命也 有神戸巫戸等と記すものにして最古社なり されど正しき證迹なければいかにとも定めがたし 或は云しかはしらず 當所は藤九郎盛長の領地にして 在住せしよしなれば 盛長沒後其靈を祀りしゆへ 足立の社と號せしを 稱呼の同じければ誤り傳へて 神名帳の足立神社と定めしものならんと 是ことに牽強の説といふべし 盛長が當郡に住せざることは前に辨ぜるが如し もしくは足立右馬允を誤り傳へしにや されどそれも慥かなる據なき時はうけかひがたし  【 風土記稿 】

この足立神社は地元では指扇氷川神社と共に紫陽花の名所として知られた存在みたいね。鳥居脇に「アジサイ園入口」の案内がありましたが、飯田・水判土・中野林・植田谷本・三条町の地区の方々がメンバーとなり足立神社アジサイ会を結成、アジサイ園の維持管理を行っているの。園内を巡ると、地区別に植栽エリアが分かれているようで、地区毎に献木者の名と株数を記した案内板なども建つの。ξ^_^ξは未体験ですが、この足立神社でも「あじさい祭」が開かれ、境内には露店などが出て賑わいを見せるそうよ。

ここではアジサイ園に咲いていた紫陽花の紹介に併せて、参考までに鳥居脇に建てられていた「足立神社史」を転載しておきますが、馴染みの無い神さまの名も多くて、どんな御利益があるのか皆目見当も付かないのですが、何だか良く分かんねえけんどもよォ、御利益がいっぱいありそうで良かっぺぇ〜と云うことで御容赦下さいね。(^^;

〔 足立神社史 〕  「延喜式」神名帳には武蔵野国足立郡内の神社として水川神社・足立神社・調神社・多気比売神社の4社の名が記されている。これらの諸社の内、足立神社は、古代に於ける殖田郷に鎮座し、この殖田郷を本拠地とした豪族・足立氏が奉斎した神社であったので、長い年月には衰微した時期があり、江戸時代には足立神社と称する社が幾つか出現する状況になったが、殖田郷に鎮座する足立神社は「風土記稿」「神名帳」等にも名主・勘太夫の屋敷内にあり〔 中略 〕式内社として有力なる候補とされて来た社であるが、水判土村にも足立神社が慈眼寺裏手の指扇支台と山王塚の二箇所共に村の鎮守として祀られていたと云う伝説もある。

また、飯田村下組は氷川神社、上組は氷川・八幡合社を鎮守として祀っていたが、明治6年(1873)下組の氷川神社が植水村社となり、明治39年(1906)には政府の合祀政策の発令により、当時の村内にあった村社及び無格社30社を当地の氷川神社に合祀し、その中には、植田谷本・水判土の足立神社も含まれており、この合祀を機に氷川神社の社号を「足立神社」と改め、大正3年(1914)4月には神域を拡大整備し、本拝殿を改築且つ社務所を新築し、名実共に5地区の鎮守として新発足したのである。明治40年(1907)5月14日付で足立神社に合祀された主な神社としては飯田地区では氷川村社・氷川八幡合社。水判土地区では足立神社・厳島社・御嶽社。

中野林地区では十二所神社・天神社・神明社・須賀社。植田谷本地区では足立神社・天満宮・天神稲荷社。三條町地区では十二所神社・稲荷社・社の根神社・以上15社の他、全地域の無格社15社が含まれている。祭神としては次の神々である。天神七代尊として豊雲野神・宇比地邇神・角杙神妹活杙神・意富斗能地神妹大斗乃弁神・游母陀琉神・妹阿夜謌志古泥神・伊邪那岐神妹・尹邪那美神・地神五代神として天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・宇麻志阿斬謌備比古遅神・天之常立神・天照坐大神・須佐之男命・日本武尊・市杵島姫命・多岐都比売命・猿田彦命・大国主神・天手力男神・菊理姫命・倉稲御魂神・応神天皇・菅原道真の24の神々である。

以上、古代よりの資料や記録に依るものであるが、寛政5年(1793)「武蔵の国足立郡谷本の足立神社本跡縁起」の由緒に依ると、当社は「日本武尊」を崇敬し、神祀を建て祀ったものであるとあり、又、この中の「明細帳・郡村誌」に依ると、当社の祭神は「猿田彦命」と明記されている。足立神社


足立神社の紫陽花を独り占めしたところで次の二ツ宮にある阿弥陀堂へと向かいましたが、帰宅後に改めて調べていると、途中に「二ツ宮」の地名の由来となった氷川神社と八幡神社が並び立つ場所があることを知ったの。後日、改めて訪ねてみましたので紹介しますね。今回の散策コースを追体験される場合には、ちょっと寄り道する程度の距離ですので足を向けてみて下さいね。

〔 二ツ宮氷川神社と八幡神社 〕  二ツ宮村の村名の由来は、氷川神社と八幡神社の二社が並び鎮座しているところから名付けられたと云います。氷川神社の御祭神は須佐之男命(素戔鳴尊:すさのおのみこと)で、4月14日の春祭りにはお神楽を奉納、7月14日の夏祭りには御輿の渡御や山車の曳き回しが行われ、村一番の賑わいを見せます。八幡神社の御祭神は応神天皇、脇祭神として神功皇后を祀っています。9月15日は例祭で奉納相撲があります。現在は子供相撲大会、月見踊り等が行われますが、明治の終わり頃には島渡川と云う力士が出て、イギリスからの招待を受け遠征したほどですので、盛大な祭りであったようです。境内には三峰神社、御嶽神社、天神社、第六天社、牛頭大王社、阿夫利神社、笠間稲荷社が合祀されています。また、神社の東側は児童公園とゲートボール場が整備され、四季を通して利用されています。昭和63年(1988)10月1日 大宮南西ロータリークラブ・馬宮郷土史同好会

〔 氷川神社 〕  二ツ宮の地名は『風土記稿』に「昔より氷川・八幡の二社並び立る地なれば村名とすといへり」とある。村の北東部には、古荒川によってつくられた自然堤防があり、ここに当社を含む古くからの集落が形成されている。慶安2・3年(1649-50)の『田園簿』にその村名が見えることから、既に江戸初期には開発されていたことがわかる。村名の由来が語る通り、現在当社は八幡神杜と並んで祀られているが、口碑に「元は八幡様の方が今よりもやや北西(現在の馬官中学枚の西側辺り)に祀られていて、いつの頃か現在地に移された」とある。いずれにしても氷川・八幡の両社が並んでいたことに変わりはなく、江戸初期には既にこの二社が祀られていたものであろう。

当社は『風土記稿』に「氷川社 神体は径り二尺許の鏡を置、村の鎮守なり(中略)御手洗池(みたらしいけ)・広さ五畝程、いかなる久旱にも水涸ることなしと云ふ」と記されている。これに見える御手洗池は今の当社東側の児童公園とゲートボール場の辺りにあった池で「氷川様の池」と呼び親しまれ、この辺りの耕地を潤す貴重な水源とされていた。別当については『風土記稿』に「宝蔵寺の持」とあるものの、貞享2年(1685)と天明7年(1787)の本殿造立を伝える社蔵の棟札には「別当一乗院見佳本明」と見える。当社は神仏分離を経て明治6年(1873)に村社となった。〔 以下省略 〕

12. 阿弥陀堂 あみだどう 14:14着 14:18発

二ツ宮にある阿弥陀堂にはさいたま市指定有形文化財の木造阿弥陀如来坐像と、二基の板碑が残されている−と知り、訪ねてみたのですが、残念ながらどれもまみえることが出来なかったの。現地に建てられていた阿弥陀堂改築落慶記念碑の由来記にも「墓地には市内最古の正嘉2年(1258)銘と、市内最大級の永仁2年(1297)銘の板石塔婆があり、阿弥陀如来像と共に大宮市指定の文化財となっている」と誌されていたので墓苑の中を探し歩いてみたのですが、見つけられずに終えていたの。

帰宅後に改めて調べてみると さいたま市 の文化財紹介の頁には、阿弥陀如来坐像は一般公開されず、板石塔婆にしても一つはさいたま市立博物館に寄託中で、残る一基も非公開で「見学の際には所有者・管理者の許可を受けて下さい」とあるの。どうりで見つからないハズよね。事前調査の詰めが甘かったと気づいてみたところで After the carnival (^^;

〔 阿弥陀堂木造阿弥陀如来坐像 〕  大宮市指定文化財・彫刻  指定:昭和48年(1973)1月5日
この仏像は明治5年(1872)に廃寺になるまで阿弥陀堂の東隣に建てられていた宝蔵寺縁の仏像です。念仏する者全てを極楽浄土に導いてくれる上品下生の印を結ぶ来迎像です。来迎相の仏像は浄土来迎思想の隆盛に伴い鎌倉時代に独尊としても多く造られました。寄木造で藤原風の古式な様式を多分に残した鎌倉時代後期の作品ですが、後世に修理が大分行われています。昭和34-35年(1959-60)頃、仏像の頭内部からボロボロになった古文書が発見され、「正応(1288-93)」や「南無阿弥陀仏」などの文字が判読されました。また、墓地には正嘉2年(1258)に造立された将棋の駒のような形の板石塔婆と彫りの鋭い永仁5年(1297)に造立されたものと思われる板石塔婆が残されています。駒形のものは初期のものに見られる特徴を持っており、現在市内最古のものです。永仁5年(1297)のものには阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の梵字が彫られています。共に秩父産の緑泥片岩で造られています。これらの仏像と板碑は、共に極楽浄土の信仰が広まるにつれて浄土教を厚く信じる在地領主に依って建立されたものと考えられます。像高:62cm 髪際高:52.5cm 膝張:49.6cm 平成元年(1989)3月 大宮市教育委員会

この阿弥陀堂の東隣に建てられていたという宝蔵寺ですが【風土記稿】には「天臺宗 水判土村慈眼寺末 瀧光山と號す 本尊阿彌陀を安ず 開山詳ならず 中興開山を全順と云 寶永2年(1705)5月示寂す 阿彌陀堂 天神社 三峰社 辨天社」とあるのみで、詳しいことは分からないの。と云うことで、縁起が不詳なら、文化財との接近遭遇もままならず、労した割には益の無い阿弥陀堂の訪問でしたが、最後に墓苑の中に建てられていた「萬霊観音菩薩」を紹介して今回のお散歩の御案内を終えますね。

ps.去り際にちょっと気になる建物を見つけたの。見るからに廃屋の佇まいでしたが、阿弥陀堂と敷地を接して民家が残されていたの。普通ならそのまま通り過ぎてしまうところですが、ふと玄関入口の上部に「延命不動尊」と書かれた扁額(?)が掛けられているのを見つけたの。と云うことは、例え簡便なものだとしてしても民家じゃなくて堂宇の類のお話しよね。廃寺となった寳蔵寺と何か関係があるのかしら?廃寺は明治5年(1872)だと云うことですので、仮に破却を免れたとしても当時の建物が今に残ることなんて考えられないし、謎の建物なの。どなたか、御存知の方、いらっしゃいます?

13. 二ツ宮新道BS ふたつみやしんどうばすてい 14:19着 14:28発

今回の散策では阿弥陀堂を最終目的地にしていたので、最寄りの二ツ宮新道BSから大宮駅西口行の西武バスに乗車しましたが、御案内しましたように、阿弥陀堂には敢えて足を延ばしてまで見るべきものがあるわけではないので、足立神社への訪問を終えたところでそのまま帰路についても一向に構わないような気がするわね。仮に阿弥陀堂を外すとなると、二ツ宮氷川神社と八幡神社への訪問をどうするかよね。こちらも外せるのなら話は簡単なのですが、やっぱり立ち寄ってみたい−と云う方は、金山神社への訪問を終えたところで足を延ばしてみると云うのはどうかしら?But 地図を見る限りでは県道R57からは直線で500m程度しか離れていないのですが、実際に歩くとなると道を求めて右に左へとかなり振られそうなので、自己責任でお願いしますね。(^^;


今回のお散歩は指扇と云うよりも、土屋や西遊馬をはじめとした指扇に隣接する地区を訪ね歩いた散策記なの。犬も歩けば棒に当たるの例えではないけれど、どの地区にも氷川神社が鎮座する光景は一宮(大宮)氷川神社のお膝元ならではのものね。替わってお寺に目を向けると、【風土記稿】には多くの寺院の名が記されながら、現在ではその多くが廃寺となってしまっているの。それでも高城寺や慈眼寺、林光寺などの古刹が時代に翻弄されながらも今に法灯を護り続けているの。圧巻はやはり慈眼寺の観音堂よね。水判土の地に早くから観音霊場がつくられていたとは意外な印象ですが、八百比丘尼伝説が残されていると云うのは更に意外な印象ね。現代の感覚を以てすれば荒唐無稽なお話かも知れませんが、当時の水判土観音はそれを実話として受け止められるような雰囲気にあったと云うことよね。魚籃(ぎょらん)観音ではないけれど、八百比丘尼は千手觀音の化身だったのかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
現地にて頂いてきたパンフ・栞など






どこにもいけないわ
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