≡☆ 指扇・歴史街道のお散歩 ☆≡
 

散策のネタ探し (^^; をしていた際に、ふと目にしたのがさいたま市のHPに掲載されていた”緑のある道〜歴史街道から花の丘公苑へ〜”と題された散策コースなの。知名度からしても余り馴染みのないエリアだけど、ξ^_^ξが知らないだけで、歩いてみたら意外な発見があるかも知れないわね。それに、コース全体に史跡や文化財、里山や鎮守の森などが散在しており云々−とあるし、と云うことで出掛けてみたので紹介しますね。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

大塚古墳〜高木地蔵堂跡〜秋葉神社〜妙玖寺〜永昌寺〜法光寺〜清河寺

1. JR西大宮駅 にしおおみやえき 10:34着発

今回紹介するお散歩コースですが、「緑のある道」ではルートに加えられている秋葉の森総合公園や西新井ふるさと緑の景観地は立ち寄らずに終えていますので、必ずしも同一のお散歩コースと云うことではないの。加えて、個人的な興味対象から史跡&文化財と云うよりも、結果的にはいつもながらの寺社めぐりのお散歩になってしまったの。さいたま市が勧める「緑のある道」ズバリの散策記を期待して訪ね来られた方はごめんなさいね、その点を踏まえてお読み頂けたらうれしいな。加えて、今回は勧められるままに西大宮駅を起点としてみましたが、お隣の指扇駅を起点として西大宮駅をゴールとする行程もありかな−と思うの。問題は高木地蔵堂(後述)をどうするか−ね。

西大宮駅北口駅前広場 ”シンボルツリー”
西大宮駅の開業に合わせて、地域の風景を継承し、近隣の屋敷林に多く見られるケヤキと、年間を通じて緑を感じることが出来るツガの樹を駅前空間のシンボルツリーとして選定しました。この樹が次の世代まで駅前空間のランドマークとなり、西区らしさを伝えることが出来ることをここに願います。平成21年(2009)3月吉日西区区民会議

今回のお散歩コースですが、途中には食事処も無ければ、トイレ休憩出来るような場所も無かったの。唯一見掛けたのが秋葉神社と敷地を接してある秋葉公園内に設けられた御手洗いだけよ。CVも見掛けませんでしたので、追体験される際にはそのお積もりでお出掛け下さいね。それと、もう一つ。大宮市は平成13年(2001)に浦和&与野両市と合併して、現在はさいたま市となっているの。この頁では、現地案内板などに記される説明文を転載していますが、記載のままにしていますので、適宜読み替えをお願いしますね。

2. 大塚古墳 おおつかこふん 10:40着 10:42発

埼玉県指定史跡 【方墳大塚古墳】
所在地:大宮市大字指扇3708番地の1 指定:昭和33年(1958)3月20日
方形に土を盛り上げられていることから、古墳時代の墳墓の一形態である方墳と考えられています。規模は、底辺で21mと25mの方形で、頂上部は、一辺9.5mの正方形で、高さは約4mあります。発掘調査が行われていないので、埴輪の有無や内部の様子は分かりません。以前は周辺にも小古墳があったと云われています。埼玉県内の古墳は、円墳が多く、方墳は数が少なく貴重です。平成8年(1996)3月 埼玉県教育委員会・大宮市教育委員会

古墳とあることからξ^_^ξは田畑などに囲まれた環境を想像しながら訪ねたのですが、道路や駐車場に接してあり、理由を付けて今にも削られてしまいそうな状況にあるの。案内板には所有者の方の名もありましたが、現状維持はひとえに所有者の方の理解に負っていると云うわけよね。因みにこの古墳ですが、経塚ではないかとする見方もあるようね。経塚は自らの願いを仏さまに伝える方法として、経典を書写して経箱や経筒に納め、地中に埋めて盛り土したものを云うのですが、嘗ては周囲にも小古墳が点在していたそうなので、一概に古墳ではないと断言することも出来ず、発掘調査でもしてみないと実際のところは分からないみたいね。

3. 高木地蔵堂跡 たかぎじぞうどうあと 11:07着 11:08発

【新編武蔵国風土記稿】(以降、風土記稿と略す)には「法願寺村は昔法願寺と云佛刹ありしよりの村名なるべけれど詳ならず 今村に地藏堂あり 頗る大なる堂にて殊に本尊も作佛なれば 若くは此堂を昔法願寺と號せしならんと土人云へり ・・・ 中略 ・・・ 本尊は座身にて長三尺餘 行基の作にて靈驗いちじるしと云 此堂昔の法願寺ならんと土人は云ど正しき據なし 又 中古までは境内も廣く鐘樓もありしが 故ありて鐘をば堂前柊の樹根に埋めしと云」とあり、廃寺となった今でもその名残を留めるものが、あるいは残されているかも知れないわ−と期待して訪ねてみたの。

【法願寺板石塔婆群】  大宮市指定文化財・考古資料 昭和39年(1964)1月13日指定
板石塔婆は板碑とも云い、供養塔の一種です。ここには23基があります。最も大きいものは、上部に梵字で阿弥陀三尊(阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩)、下部に貞和五年(1349)己丑十月廿四日と刻んでいます。梵字は、釈迦が生きていた頃のインドで使用していた文字です。年号は供養対象者の没年月日でしょう。高さは162cmと市内では大きい方で、主尊の梵字や蓮台も雄渾で力強く、美しい板碑です。23基中には梵字で釈迦三尊を表し、主尊の周りに小さい梵字で十仏を刻んだ十三仏の板碑もあります。市内では珍しい例です。この地には、つい最近まで地蔵堂が建っており、南北朝期の地蔵菩薩像(県指定文化財)も残されています。中世には本願寺が所在し、近世に法願寺となり、村名も法願寺村となったようです。平成5年(1993)3月 大宮市教育委員会

残念ながら地蔵堂の跡地と思われる場所は墓地となり、傍らには地区の集会所(高木末広自治会館)が建つの。上掲の板碑群は墓地の入口にあるのですが、墓地整理記念碑にも法願寺共同墓地の名があり、堂宇の存在が人々の記憶から薄れて久しい今となっては、地名としての名称の中にのみ、その名残を留めていると云うわけ。梵鐘を根元に埋めたとされる柊の木にしても、ひょっとしたら今でも葉を茂らせているかも知れないわ−と辺りを見廻したところで、目の前には草地が広がるばかりで。それにしても、どんな理由から柊の木の根元に梵鐘を埋めたのかしら?【風土記稿】が「故ありて」とお茶を濁して済ませたせいで、余計気になってきてしまったじゃないの。(^^;

高木末広自治会館では8/24に紙本着色十王地獄図や木造地蔵菩薩坐像が一般公開されるの。
興味のある方は、機を捉えてお出掛けになってみて下さいね。

4. 馬頭観音 ばとうかんのん 11:35着発

【馬頭観音記念碑】  馬頭観音は、江戸時代中期以降から目立って多く造られ、現代でも造立されている例もあります。多くの観音は慈悲相であるのに対し、馬頭観音は忿怒相を持っているのが通例です。慈悲だけでは教化し難い衆生を怒りの姿を以て救い上げようとするものだと云われます。馬の顔を彫るところから、造立目的は馬の供養と結びついたもので、無病息災、往来の安全を願ってのものです。銘文によると、寛政5年(1797)、今から185年前に近郷の男女が清真寺の僧の導きにより建てたことが分かります。複数人数に依って造立されたものは像刻のものが多く、且つ牛馬に関係が深かった人々による場合が一般的と云われています。

幾れも馬と家族、または村の一員として大切に扱っていたことを偲ばせるもので、農耕や荷の輸送に重要な位置を占めていたことが分かります。奉献 指扇領辻 石川 昭和57年(1982)4月5日造

三京かまぶろ温泉 を過ぎたところで道端に建つ石像に目が留まったの。最初は青面金剛を彫像した庚申塔かしら−と思ったのですが、馬頭観音を主尊とする庚申塔だったの。仏教では、馬頭を戴き忿怒の形相をした馬頭観音は日本人には余り好まれなかったのですが、馬頭の馬と農耕馬が単純に結びつけられて馬の守り神、農耕の神として庶民の間で崇められるようになると、彫像も多く造られるようになるの。今と違い、耕耘機もトラクターも無い時代では馬は大事な働き手。飼馬が丈夫でいてくれることが貧しい日々の暮らしの支えだったの。


ここでちょっと寄り道をしますね。さいたま市西区が推奨する「緑のある道」では立ち寄りポイントにはなっていないのですが、福寿庵を訪ねてみたので紹介しておきますね。その福寿庵がどこにあるのかと云うと、「緑のある道」のルートマップの左下に小さく八雲神社とあるのですが、その八雲神社と小径を隔ててあるの。地図だと ここ よ。

【福寿庵百観音 百三躯】  さいたま市指定有形民俗文化財  平成21年(2009)3月30日指定
百観音とは、西国三十三所・板東三十三所・秩父三十四所の各観音霊場を合わせた百躯の観音像を一堂に勧請したものです。ここ福寿庵では、中尊の木造如意輪観音坐像を宮殿に安置するほか、計百二躯からなる木造・銅造の観音像を建物の奥壁に設けた四段の壇上に安置されています。これらは、福寿庵の開創者である是心に関連する資料などから、元禄14年(1701)から享保8年(1723)の間に勧請されたと推定することが出来ますが、度重なる水害で、流失や破損などを被り、当初の像がそのまま伝わっている可能性は高くはありません。

しかし、修理や流出した仏像を補いながら信仰を続けて来たことは貴重で、現在も12年毎の御開帳には多くの人々の巡拝をみており、この地域に於ける民間信仰の奥深さを示す資料と云えます。尚、御開帳は、午歳の春に行われます。平成23年(2011)1月 福寿庵・さいたま市教育委員会

西国と云うのは御存知のように四国のことで、弘法大師所縁の地に堂宇が建てられ諸仏が安置されるようになると、中でも観音さまが祀られる霊場を巡る札所めぐりが隆盛するの。その四国三十三所を倣い、板東や秩父でも三十三所がつくられたのですが、西国や板東の隆盛に比べると、悲しいかな、秩父に足を伸ばしてくれる人は少なかったの。

西国と板東がセットで考えられるようになりつつある中で、秩父への集客力を図る手段として編み出されたのが三者のフルセット化なの。そうなると秩父を三十四所にして、全部で百ヶ所にした方が切りが良かっぺ−と云うわけ。(^^; その札所めぐりですが、実際に現地に趣いて霊場巡りをするのは経済的にも体力的にも大変なことよね。そこで各地の霊場に祀られる観音さまを彫像し、代わりにその観音像を拝むことで札所めぐりと同じ功徳が得られるとしたの。

これはグリコのオマケのお話しですが、この福寿庵は指扇領別所にある 福正寺 の境外堂になっているの。福正寺の境内に掲示されていた福正寺縁起(沿革)に依ると「当寺は天台宗比叡山延暦寺の末にして、今より凡そ1,200年前、淳和天皇の御宇、天長5年(828)、天台宗第三代座主慈覚大師円仁師の開山により、慈覚山瑠璃光院福正寺と号す。創建当時は堂宇宏荘にして、本邦屈指の浄刹なりしも、往年の兵火のため、伽藍を焼失す。今より六百有余年前、永徳3年(1386)に入寂せし中興永海師出で、堂塔の再建を謀り旧観に復すと云う」とあり、寺勢を隆盛させていたみたいね。

その福正寺住持・尊慶の許に弟子入りしたのが十誉是心で、元禄14年(1701)に福寿庵を開創するの。その是心ですが、男性かと思いきや、実は女性なの。是心は延享元年(1744)の没と伝えられ、存命中の享保年間には既に福寿庵が百観音堂として周辺地域に広く知られるようになっていたとのことですので、百観音像の造立&施入にしても彼女の労に負うところ大のようね。

5. 辻の庚申塔 つじのこうしんとう 11:43着 11:44発

【辻の庚申塔】  市指定有形民俗文化財  昭和48年(1973)1月5日指定
寛保2年(1742)9月建立 総高:257cm 所在地:大字指扇領辻162-1
辻の庚申塔は、江戸中期に辻村の山口埜右衛門によって造立されたものですが、同時期の他の庚申塔と比較して、彫刻・美術的に優れており、更に、像高が257cmと云う雄大なものです。昔、辻村では庚申様を大層敬い、庚申塔の前を素通りすることなく、必ず村人は手を合わせて通ったそうです。質素な生活の中から遣り繰りしたお賽銭、米、その年の穀物といったものをお供えし、また、毎年の小正月や暮れには欠かさずお団子をこしらえて奉納するなど、村人の信仰の厚さが窺えます。

庚申信仰は、長寿と健康を願うものです。60日に一度めぐってくる庚申の夜になると、三尸と云う虫のために寿命が縮められぬよう、庚申の晩は徹夜で青面金剛をお祀りします。その供養塔を庚申塔と云います。平成22年(2010)3月25日 西区コミュニティ課設置

庚申信仰や庚申塔のことがもう少し詳しく知りたい方は 庚申信仰 の頁を御笑覧下さいね。
分かりやすく解説しています。CMでした。(^^;

「辻の庚申塔」を過ぎて直ぐの家の生け垣には御覧のバラが咲き誇っていて、
その艶姿に思わず歩みを止めてしまったの。本文とは何の関係も無いのですが、散策の彩りに。(^^;

6. 穂積神社 ほづみじんじゃ 11:57着 12:03発

県道R57の道すがら、指扇領辻自治会館の対面に位置して建てられていた鳥居に目が留まり、地図にも記されずにいたことから気になり訪ねてみたのがこの穂積神社なの。来歴を記した石碑でもないかしら−と境内を探してはみたのですが見つからず、詳しいことは分からず終いですが、昭和14年(1939)銘の社務所建築記念碑には「當社は元氷川神社と稱し明治39年(1906)敕令の趣旨に基き神明社を合祀し穗積神社と改稱す云々」とあり、元々は峰岸氷川神社と称していたみたいね。穂積の名称にしても、宝来村、(指扇領)辻村、峰岸村から各々一文字をとって「ほつみ」としたのだとか。だったら、穂積じゃなくて宝辻峰とすべきところよね。(^^; ちょっと茶化してしまいましたね、ごめんなさい。

余談ですが、明治22年(1889)に旧・指扇(差扇)村と、宝来村、指扇領辻村、峰岸村などの9村が合併して新・指扇村が出来ているの。その指扇村も後に大宮市(現:さいたま市)に編入され、現在では単なる地名・地番としての扱いでしかないのですが。それはさておき、穂積神社を後に次の目的地・秋葉神社へと向かいましたが、その途中には湿原が広がり、訪ねた時には葦の葉が一面を覆い尽くし、豊葦原の中つ国状態になっていたの。この辺りでは豊かな自然が未だ未だ残されていて、目に優しい景観を楽しむことが出来、空気中の酸素濃度も心なしか高いような気がするわね。

7. 秋葉神社 あきはじんじゃ 12:21着 12:32発

【由緒】  当秋葉神社は、社伝に依れば元駿州に飽波神社と云われて鎮座し、後に遠州に移され、その後当所に遷座されたと伝えられ、45代聖武天皇の天平年中(729-748)に創建されております。その後徳川の世には山内一唯公に守護神として篤く崇敬され、社殿が改築されました。また、紀州徳川家御祈願所となる等、火災・盗難防護・延命長寿・家内安全の霊神として関東一円より多くの方々に崇敬尊信され、春秋の例大祭には各地より多くの崇敬の方々が参拝に来られます。
御祭神:主祭神 火之迦具土大神 他、12柱の神さまをお祀りしています。

境内に掲示されていた由緒書を紹介しましたが、【風土記稿】にも「拜殿幤殿頗る美を盡し 本社は一段高き所にて石階を設けたり 當社は元駿州にありて飽波神社と云しを いつの頃にや遠州に移し 其後又當所に移せしと云 されど其年代は詳ならず 慶安の頃より靈驗の聞えありて 毎月十八日には參詣ことに多く 信仰の輩集まりて修理の資費を寄進し かく莊嚴をなせしと云」とあり、盛時にはかなりの隆盛をみたようね。

気になる 秋葉神社 の創建年代ですが、異説では、天授4年(1378)に最乗寺を開山した了庵禅師が諸国巡錫の際に当地に訪ね来て草庵を建てて阿弥陀仏を安置、遠州秋葉山秋葉寺から秋葉三尺坊大権現を勧請したことに始まるとされてもいるの。どちらにしても、確証があってのお話しではないので鵜呑みには出来ないのですが、社号が遠州秋葉寺から秋葉三尺坊大権現を分祀・分霊したことに由来しているのは間違いなさそうね。さて、その秋葉三尺坊大権現なる神仏の正体ですが、後程永昌寺(嘗ては秋葉神社の別当を務めていたの)の項で触れますので今しばらくお待ち下さいね。(^^; その代わり、面白いお話しを見つけて来たので紹介しますね。

釈敬順が著した【十方庵遊歴雑記】の中に「元和年間(1615-1624)の頃となん 此中釘村の百姓次郎兵衞といふもの妻 不圖發病しそのいふ亊殆狂氣に似たり 土人來至しその容躰を見ていえらく 狐や就ぬらんとその時病婦忽ちに居直り 座を改め聲を正ふして曰 汝等たしかに聞べし 狐貍の所爲にはあらず われ有縁の土地なるによつて 遠州秋葉山より爰に來れり 即ち彌陀堂の除地の内大きな松の頂上に住り 願はくは神體をおろして勸請せば 一切の所願を聞届ん 努々疑ふまじといひ終て正躰なく臥し翌朝に至て快氣す これに依て一村會合し 彼大松の頂上に擧登り見れば 果して金の幤帛を得たり  〔 下段に続きます 〕

「由て是を取おろし 彼大松の下に勸請す 今の秋葉の社これなり」と、口碑による由来記が誌されているの。敬順が訪ねた頃は秋葉社も隆盛を極めていたみたいで、境内にしても、元はといえば阿弥陀堂の敷地だったものが、殆ど、軒下を貸した積もりが母屋を乗っ取られてしまった状態 (^^; になっていたようね。参拝客も近在のみならず、遠方からも多く集め、門前には食店・酒楼・旅籠屋あり−と、商家が軒を連ねて繁昌している様子が記されているの。残念ながら、今ではお店のおの字も見当たらず、盛時の賑わい今何処−の世界だけど。

ところで、冒頭に紹介した由緒書には紀州徳川家御祈願所とあり、紀州(紀伊)と云えば今の和歌山県と三重県の一部にあたり、地理的にはおよそかけ離れてあるにもかかわらず、何故この秋葉神社が紀州徳川家の祈願所となっていたのかしら−と不思議に思っていたのですが、その答えも敬順がしっかり用意してくれていたの。

引き続き【遊歴雑記】からの引用ですが「此近在天領にして紀州侯の御鷹塲なれば 巡在の鳥見の頭何某より當所秋葉の神の利生ありて繁昌する亊を沙汰申けるに 折節紀州侯御不例にましましけるまま御代參をたてて御祈念ありしに程なく全快し賜ふ その後も御心願の亊ありて御代參を差向賜ひしに しばしば靈驗ありしより 終に紀州の御祈願處と定められ、例年正月別當永昌寺より御札を奉る亊となん」とあり、なるほど−よね。【指扇村郷土誌】にも「旧幕の際は毎年春紀伊大納言家に向て武運長久の守札を呈するを例とし 紀州家より御沙汰書面到達と同時に永昌寺住職は村の名主と共に参館せしが云々」とあり、後盾としては充分過ぎる存在だったわけよね。But その代参も「幕末長州征伐以後此のこと廃止せらる」になってしまったの。

上掲右端は【遊歴雑記】に「本社の北後の棧下に池あり 東西長さ凡二拾餘間 但し西の方大に廣く 東の方次第に狹く 末にいたりては溝川に似て その形ち琵琶の如し 中に島あり 吉祥天女を勸請し 反橋ありて彼處にいたる」と記される池ですが、時を経て水も涸渇してしまい、姿形を変えた今となっては往時の景観を想像するのはちょっと無理みたいね。それに、敬順が吉祥天を勧請したと記す堂宇には現在は弁財天が祀られているの。確かに、記述でも、池の形を琵琶の如しと例えるなど、弁財天が想定される環境ですが、僧籍に長く身を置く敬順が吉祥天と弁財天を取り違えて記すとは思えず、やはり当時は弁財天ではなくて吉祥天が祀られていたのでしょうね。吉祥天もまた幸運をもたらす女神さまなので、この秋葉神社では同じ御利益を以て知られる弁財天に習合してしまったのかも知れないわね。But ムセキニンモードですので、鵜呑みにしないで下さいね。(^^;

最後になりましたが、この秋葉神社で忘れてはいけないのが秋葉ささら獅子舞なの。市の無形民俗文化財にも指定される伝統芸能なのですが、年に一度の例祭時に奉納される獅子舞とあっては観るチャンスもなくて。その演舞の様子が気になる方は、他力本願で恐縮ですが、dashikagura さんの 秋葉ささら獅子舞 を御参照下さいね。

大宮市指定無形民俗文化財 【秋葉ささら獅子舞】 指定:昭和33年(1958)5月15日 祭礼:7月15日
五穀豊穣・悪疫退散を祈願して、秋葉神社と三尺坊(永昌寺内)の二ヶ所で奉納されます。この獅子舞は、秋葉三尺坊の修験者が村民に伝えたのが始まりと云われています。竹を細く割ったものと、竹を刻んで歯を付けたものを擦り合わせて鳴らす楽器・ささらを使うので、ささら獅子舞の名があります。竹を4本立て注連縄を張り、四隅に花笠(ささらっ子)を配し、山の神の座す前で、三頭の獅子が勇壮に舞います。秋葉神社の蝉時雨の中での初庭、道笛に合わせて三尺坊へ向かう道行、夜になって薄暗がりの中で行われる三尺坊での後庭と、夜遅くまで祭りが続きます。平成4年(1992)3月 大宮市教育委員会

8. 妙玖寺 みょうきゅうじ 12:41着 12:46発

【指扇領主・山内一唯一族の墓】  大宮市指定文化財史跡 指定:昭和41年(1966)9月3日
指扇の地が旗本山内氏と関係を持つのは、大坂の陣で軍功のあった土佐藩主・山内忠義(ただよし)の実弟・一唯(かずただ)が、元和9年(1623)に二代将軍・徳川秀忠から指扇領18ヶ村三千石を拝領したことに始まります。4代豊房(とよふさ)が土佐山内豊昌の養子となるまで、一唯・一輝・一俊・豊房と67年間、中釘に陣屋を構え当地を治めました。一唯は、荒川の洪水を防ぐため堤防を築き、宝来野を開発して新田を拓くなど、多くの治績を今に伝えています。

【風土記稿】には「本尊は妙玖院の守本尊なりし彌陀の立像を安置す 惠心の作と云ふ 聖徳太子像一躯 親鸞上人の作 山内豐前守一唯 曾て一堂を建立して安置せしものなりしが 其後廢頽せし故ここに置り」と記され、恵心僧都作や親鸞上人作と云うのはちょっとマユツバっぽい (^^; けど、今でも本堂内に安置されているのかしら?それともう一つ、【風土記稿】には記載がないのですが、面白いものがあるの。それが鮑中(ほうちゅう)観音で、鮑(あわび)貝の内側に観音像が線刻されているのだとか。何でも山内忠義が海中から得たものだと云うのですが、史実如何は別にして、その逸話を昔話風にアレンジして紹介しますね。(^^;

むか〜し昔のことじゃけんども、土佐守山内忠義公の御座船が長州沖に差し掛かった頃のことじゃった。何やら海中から光を発しているものが見えてのお、不思議に思うた忠義公が供の者に光りの正体を見届けるよう命じられたそうじゃ。水練に長けた者が呼び出され、早速海の中に飛び込み、光りを頼りに潜ってゆくと、果たしてその光りは大きな鮑貝から発せられておったそうじゃ。改めてその鮑貝を両手ですくい上げてみると、何と貝の中に観音さまが描かれておったそうじゃ。供の者からその鮑貝を受け取られた忠義公は、その奇瑞に殊の外喜ばれてのお、それからと云うもの、朝な夕なに礼拝されておったそうじゃ。

そんなことがあった翌年、忠義公が御参府のために江戸へと向かう途次のことじゃったそうな。折悪しく海上で大時化に出会うてしまってのお、強風に煽られて御座船ももはやこれまでかと諦めかけたとき、海中の鮑貝から「御座船近く悪魚来りて障りをなし今既に危うし 御船を召し替えられよ」と声が聞こえて来たそうじゃ。その声に促されて忠義公が供の者と共に替わりの船に乗り移ると間もなく、御座船は大波を受けて覆ってしまったそうじゃ。この海難に九死に一生を得たのも他ならぬ鮑中観音のお導きがあってのこと、そう得心した忠義公はそれ以来益々以てその鮑中観音を信仰されたそうじゃ。その鮑中観音じゃが、後に忠義公がこの妙玖寺に寄進したと云うことじゃ。ほんに、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

9. 永昌寺 えいしょうじ 13:04着 13:14発

次に訪ねたのがこの永昌寺。残念ながら境内には縁起を誌したものが見つからず、【風土記稿】にも「禪宗曹洞派 大成村普門院末 龜足山と號す 本尊藥師を安ず 腹籠りに定朝作の小像を收む 開基は戸田周防守と云 法名高徳院貴山榮留居士 文龜二年六月十六日卆す 開山を月膽義泉と云 慶長十二年五月廿四日示寂」とあるのみで、委細不明なの。嘗ては前述の秋葉神社の別当を務めていたのですが、明治期の神仏分離に伴い、それまで秋葉神社の境内にあった阿弥陀堂(秋葉三尺坊大権現)を引き取ったの。But その阿弥陀堂(現:秋葉三尺坊本殿)ですが、永昌寺の境内と云うか境外と云うか、微妙な位置に建てられているの。

ところで、気になるのが秋葉三尺坊権現なる神格よね。秋葉神社の項でも触れましたが、異説では指扇秋葉神社は遠州秋葉山秋葉寺から秋葉三尺坊大権現を勧請したことに始まるとされているの。実は、その縁起由来を語るのがこの永昌寺なの。となると、遠州秋葉山秋葉寺のことからお話ししなければならなくなるのですが、その前に秋葉信仰についてちょっとお話ししておきますね。元々の秋葉信仰は静岡県春野町にある標高866mの秋葉山とその山岳神・秋葉権現に対する信仰だったのですが、修験者・三尺坊を神格化した三尺坊権現信仰が伝来&習合したの。現在では秋葉山本宮秋葉神社が秋葉信仰の総本山と見做されていますが、実は、他にも秋葉山秋葉寺や可睡斎秋葉総本殿が「我こそは」と声を荒げているの。

今でこそ寺社に分かれていますが、それは明治期の神仏分離政策に伴い強制的に分けられたもので、嘗ては秋葉山秋葉寺の許に僧侶・禰宜・修験が同居する神仏習合状態だったの。その秋葉寺に伝わる享保2年(1717)銘の【遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊大権現略縁起】(以後、秋葉山略縁起と記す)に依ると、秋葉三尺坊大権現は名を岩本周国(かねくに)と云う修験者だと云うの。その三尺坊が秋葉山に初めて来たのは大同2年(807)のことで、その後諸国を遊歴して永仁2年(1294)に帰山すると大権現になったと伝えられるのですが、史実如何は別にして、面白いので【秋葉山略縁起】の一部を紹介しておきますね。

この神の由來は本信州の生れ也 御母常に觀世音を信仰し給ひしが ある夜の夢に觀世音菩薩三十二應神の中にて迦樓羅身を現じ給ふと見て懷姙し給ひ 程無く福徳知惠の相あるやんごとなき男子誕生あれば御父ななめならず悦び給ひ その昔稀有の瑞にて生れ給ひし子なればとて 六、七歳にて出家せしかば大學無雙の阿闍梨となり給ふ 其後年月を經て後越後國藏王堂に十二坊あり 其の第一を三尺坊と云 その坊の主となり給ふ 此時に不動三昧の法を十七日の間に八千枚八千度執行し滿ずる曉 燒香の中に火焔燃え上がり烏形兩翼にして左右に剱索を持ちたる相現ぜしかば 一法は成就したり 我身則本尊とならんと一心に觀念をなし給へば 煩惱業生死の過患を滅盡して忽ち飛行自在神通を得給ふ しかる所へ一つの白狐出現せしかば則此白狐に乘り 何國に而るも留まらん所に我住して度生利益を專らにせんと誓い給ひ 虚空を飛行し給ひしに今の秋葉山に白狐と留まりしかば 爰を安住の峯と極め給ふ

ここで気になるのが迦楼羅(かるら)身ね。略縁起にもあるように、観音さまの現世利益の施し方の特徴の一つに三十三応現身と云うのがあるの。観音さまはその時々の状況に応じて33通りの異なる姿に身を変え衆生を救って下さると云うのですが、その変化身の一つに迦楼羅身があるの。迦楼羅は鈘羽鳥とも呼ばれ、嘴を持つ鳥人間の姿をしているの。エッ、それって、烏天狗ってことじゃないの?−よねえ。加えて、古代インド神話では迦楼羅は火の神として崇められていたと云うのですから、秋葉山が火防の御利益を語るには適任の神格よね。加えて、三尺坊信仰の背後には荼吉尼天(だきにてん)も見え隠れしているの。

荼吉尼天は元々はヒンズー教で自在の神通力を持つと云われたダーキニ神 Dakini がそのルーツ。人間の生死を半年前に見抜き、その心臓を喰らう鬼女だったのですが、大黒天に敗れた後は眷属となり、仏教の守護神になったの。荼吉尼天は稲荷神とも習合していくのですが、修験者達が何よりも期待したのは彼女が持つ自在の神通力だったのではないかしら。それはさておき、その荼吉尼天が乗るのがこれまた狐なの。元々はジャッカルだったのですが、中国や日本にはいないので代わりの狐に変えられたの。と云うことで、三尺坊の姿を知りたいと云う方は、宝剣を手にして狐に乗る烏天狗を想像してみて下さいね。何だ、余計分からねえじゃねえかよ〜だったかしら。(^^;

これは内緒のお話しだけど、お出掛けの際には建物(秋葉三尺坊本殿)の中を覗いてみて下さいね。共に宝剣を手にして堂内の左手には烏天狗、右手には天狗像が立つの。但し、覗いた瞬間にその宝剣が飛んでくるかも知れないので覗き見は呉々も自己責任でお願いしますね。(^^;

永昌寺を離れて秋葉三尺坊大権現のことばかり書いてしまいましたが、ごめんなさいね。御本家の秋葉山では秋葉寺廃寺事件に依り今も秋葉寺・秋葉神社・可睡斎秋葉総本殿の三者に分かれた分裂状態ですが、ここ指扇中釘では阿弥陀堂(三尺坊)が永昌寺の敷地内に移転させられたとは云え、今でも「ささら獅子舞」が出張奉納演舞 (^^; されるなど、友好関係にあるみたいね。

10. 法光寺 ほうこうじ 13:21着 13:24発

次に訪ねたのがこの照賑山法光寺。【風土記稿】には「當寺開闢は山内豊前守一唯が家人小笠原某にて主人修理太夫忠定を開基とせり 忠定は寛永二年八月廿九日卒す 法名は法光院殿照圓日賑と云 依て其法諡をとりて山号寺号とせり 開山日宥寛永十二年示寂す」とあるのですが、それはちょっと違うみたいね。と云うのも、法号・法光院殿照圓日賑は一唯の父親・康豊のものなので、一唯が父親の菩提供養のために小笠原某に命じて建立させたと考えるのが順当のようよ。先程紹介した妙玖寺が一唯の母親の菩提供養のために建立されたものなら、この法光寺は父親・康豊のために創建されたものと云うわけ。But 康豊の実際のお墓は要法寺(高知市筆山町)にあるの。

さいたま市指定天然記念物【法光寺のシイノキ】一株 平成23年(2011)3月30日指定
シイノキは、植物分類上はブナ科シイ属に属し、スダジイと呼ばれます。暖地性照葉樹林を代表する樹木の一つで、関東より与那国島まで自生しています。常緑の高木で、果実のドングリは椎の実と呼ばれ、食用され、古くから親しまれてきました。このシイノキは指定時の高さ15m、目通り4.53m、根周り7.4m、枝張りは東西20m、南北20.5mに及び、照葉樹に特徴的なドーム状の樹冠を保っています。樹冠は、何本かが寄り合わさったようなうねりがあり、こぶや発達した地上根など、堂々とした風格が漂います。樹勢も良好で、均整の取れた古木です。平成23年(2011)6月 法光寺 さいたま市教育委員会

そのシイノキの葉陰で今にも消え入りそうな佇まいのこちらのイヌツゲですが、嘗ては樹高6.4mに、幹回りが1.4mもある古木で、旧大宮市の天然記念物に指定されていたの。そのイヌツゲも主幹が枯死してしまい、一時は生存が危ぶまれたのですが、現在は根元から若木が育ちつつあり、その姿を見ると、樹木が持つ生命力の逞しさに感心させられるわね。

お寺の方にお伺いしたところでは、樹医を頼むなどして延命策を講じたのですが、思うような効果が得られず、何でも、周囲に伸びるスダジイの根が土中の水分や養分の多くを吸い上げてしまい、イヌツゲに必要な養分が行き渡らなくなってしまったからかも知れない−と云うようなことを樹医の方が仰っていたそうですが、地表に露出したスダジイの地上根を見ていると、さもありなん−とも思えてくるわね。スダジイにしたら、自らもまた生きるのに必死なだけなのでしょうけれど。

墓苑の一角には現世では添い遂げることが出来なかった権之丞と妙陽の二人が眠る比翼塚があるの。妙玖寺の項でも触れましたように、山内一唯が元和9年(1623)に指扇領三千石の領主となりますが、その一唯が、あろうことか家臣の高村権之丞の妻・妙陽に横恋慕するの。その時の一唯は60歳だと云うのですから既に老境の域よね。対して妙陽は二児の母親と雖も19歳と云う若さなの。一唯はその妙陽に親子夫婦の縁を切らせ、強引に側室にしてしまったの。相思相愛の権之丞と妙陽は生木を裂かれるようにして別れさせられてしまったと云うわけですが、それって、究極のパワハラで、殆ど犯罪者の世界よね。

でも、それがまかり通る時代だったというのが切なくて哀しいわね。それはさておき、その一唯が寛文3年(1663)に没すると妙陽は23歳にして未亡人となってしまったの。それでも権之丞と妙陽は復縁することもなく、主従の関係に終始し、4年の後、二人は約束でもしたかのように踵を接して世を去ったと云われているの。そんな二人をせめて来世では添わせてやろうと、本来なら妙陽の亡骸は妙玖寺の山内家の墓所に葬るべきところを、この法光寺にある高村権之丞の墓地に埋葬したと伝えられているの。比翼塚の呼称からすると嘗ては盛り土されていたのかも知れないわね。右手に立つ妙陽の墓塔には智宝院妙陽日閑とあるのですが、残念ながら俗名は不明なの。

これは余談になりますが、権之丞のものとされる左側の墓塔からは不鮮明ながらも信士照了院日理壽位の文字が読み取れたのですが、墓石にはもう一人、心理院妙珠日諦の名号も刻まれていたの。大宮市発行【大宮市史】の記述から欠落&不鮮明な部分を補うと「生国阿州住人小笠原氏 信士照了院日理壽位高村権之丞員正 寛文七年丁未六月二十二日逝去 信女心理院妙珠日諦存位 川口等平氏三女 寛文二年壬寅六月十十日逝去」と刻まれているのだそうよ。となると【風土記稿】が小笠原某と誌す人物は他ならぬ高村権之丞だと云うことよね。ここで気になるのが心理院妙珠日諦(俗名不明)なる人物ですが、没年や川口等平氏三女とあることからすると権之丞のお母さんかも知れないわね。But ムセキニンモードですので鵜呑みにしないで下さいね。


ここで再び寄り道をしたのでお付き合いくださいね。同じく、「緑のある道」では立ち寄りポイントにはなっていないのですが、地図上にその名を見つけ、脇道に少し入るだけならと、足を向けてみたの。それが阿弥陀寺で、【風土記稿】には「阿彌陀村は阿彌陀寺と云古刹あるより起こりし村名なりと云」と誌されているの。廃寺のそれを想像しながら訪ねてみたと云うのが正直なところですが、未だ新しく見える寺標の石柱には「浄土宗 来迎山摂取院阿彌陀寺 元和9年(1623)武州足立郡指扇三千石領主山内豊前守一唯公の家臣・生国土州本山氏伊兵衛茂正の墓所」とも刻されていたの。調べてみると、本山伊兵衛もまた指扇山内家の家老職を勤めていたみたいね。

この阿弥陀寺の来歴ですが、残念ながら、【風土記稿】にも「回祿の災に罹りて寺記等悉く烏有となりし故更に其來由を傳へず」とあるように、古記録を失った今となっては委細不明なの。代わりに、境内に建つ【来迎山摂取院阿弥陀寺由緒沿革】碑の碑文を載せておきますので参考にして下さいね。それにしても、地域住民僅か16戸で当寺を維持管理していると云うのは凄いわね。

開山:峯蓮社純譽上人  開創:約400年以前の天正年間(安土桃山時代)初期と推定されるが確たる事は不明
正親町天皇の天正7年(1579)5月、峯蓮社純譽上人遷化される。当寺第一代と記されていることから、開山上人と推定される。江戸時代の頃には周辺を阿弥陀寺村と称しているほどで、大きな寺だったと考えられる。堂内には大きな阿弥陀如来像が祀られて先祖代々受け継がれ、檀信徒の皆様から崇敬されてきた。また、江戸時代半ばの享保期には旧大宮市内でも比較的早い時期から寺子屋教育が始まり、当時の阿弥陀村、木ノ下村、清河寺村、平方村(上尾市)の子供等に、住職が読み書き、そろばんを教えたと伝えられている。昭和51年(1976)5月19日地区毎に権限を有する誓約書に基づき、現在阿弥陀寺村時代からの16軒で維持管理されている。宗祖法然上人800年大遠忌記念の年として参道を舗装する。平成23年(2011) 秋彼岸

11. 清河寺 せいがんじ 13:40着 13:52発

散策の最後に訪ねたのがこの清河寺ですが、今回訪ねた寺社の中では破格の敷地の広さを持つの。縁起を辿ると、鎌倉公方・足利基氏の開基で、応永2年(1422)には足利持氏が祈願所にするなど、足利家代々の崇敬をうけて寺勢を隆盛させたみたいね。【風土記稿】には「古は此所より坤の方にあり その頃は七堂伽藍等建連て此邊の寺々すべて末寺なりしと云 今の地へ移せし年歴は詳ならず 開山は円覚寺第38世佛慧禪師傑翁是英にて永和4年(1378)3月12日示寂す 開基は左兵衞督基氏なり 貞治6年丁未(1367)4月26日逝し 清河寺殿玉嵒明公大居士と諡せし故 當寺をも清河寺と稱すといへど 古河公方家の譜に依るに 基氏の法号瑞泉寺殿とあり 清河は當寺のみにて追諡せし号にや」とあるの。

その七堂伽藍も享禄年間(1528-1532)の戦禍を受けて堂宇を始め悉くが烏有に帰してしまい、一時は廃寺の趣きだったと云うの。その後再建されるのですが、元和年中(1615-1624)には再び罹災。【風土記稿】には回禄の災とあるのみですが、あろうことか、盗賊の焼き打ちだそうよ。証拠湮滅を諮ったのか、それとも単なる憂さ晴らしの放火だったのかどうかはξ^_^ξには分かりませんが、仏罰を畏れぬ、とんでもない輩がいたものね。訪ねたときには本堂や庫裏などの建物も新しく、紆余曲折を経てきたことなど窺い知る由もなかったのですが、人々の心の安寧を願う場でもある伽藍を猛火で包むような真似は二度として欲しくはないわね。

境内を探索 (^^; していた際に墓苑への入口脇に竹若丸君追善菩提と刻む五輪塔を見つけたの。傍らに建つ石柱には「竹若丸 足利尊氏卿長子 母は法印覺遍の妹 元弘三年謀反の時伊豆に在り 御山上洛の時浮島原に於て生害さる云々」とあり、よく見ると【清河寺縁起】が併せて誌されていたの。実際には縁起と云うよりも因縁話なのですが、読めば寺号の由来に納得よ。

【清河寺縁起】  惟れば大日本國武蔵州足立郡指扇領内野郷大龍山清河禅寺は延文五年の夏 鎌倉の基氏大将軍御病惱の夜 電睡の閑暇(まどろみ)に、今を去る元弘年中の兵亂に自ら生害を遂げられし兄 竹若君大龍に乗り来つて清々の大河の水に浴す 即ち河水變じて薬湯となる 是れ安心の妙薬也 予即ち観音の佛勅によりて之を献じ與へんと了つて化し去りぬ 時に瑞夢忽ち覺め病惱亦癒ゆ 茲に於て亡君竹若丸の菩提の為に佛慧禅師此の地に寺を建て大龍山清河竹公禅寺と號す 堂を慈水と稱して観音薩埵を安置し奉る 茲に永く佛天を祈り偏へ地祇を祀る まことに至祝至幸なり 基氏将軍は征夷大将軍源尊氏卿の四男の君也 開山は佛慧禅師也 梁銘記録等享禄年中の兵火により盡く燒失し烏有に歸せり 之を嘆くの餘り諸老宿の門に之を尋ね 之をもとめ 再び書を以て縁起となす 維時 永禄元戌午年十一月吉辰 當寺七世前住禅奥梅州叟祖因 欽誌

鎌倉公方の足利基氏が病に伏せっていたとき、夢枕に今は亡き兄の竹若丸が龍に跨がった姿で現れ、清流に浴したかと思うと、川の水がたちどころに薬湯となったの。兄・竹若丸が観音さまのおことばだからとすすめるままに、基氏がその川の水を飲むと、はたして病は忽ちの内に癒えたの。その奇瑞に感謝した基氏は兄・竹若丸の菩提を弔うために改めてこの清河寺を開創したと云うわけ。山号寺号にしても当初は大龍山清河竹公禅寺と号していたと云うのですから、なるほどよね。基氏は尊氏の四男に当たりますが、尊氏には他にも長男:竹若丸、次男:直冬、三男:義詮がいたの。その竹若丸と直冬ですが実は庶子(余り良いことばでは無いのですが妾腹の子のこと)なの。

直冬は尊氏からは実子としてついぞ認めて貰えず、尊氏の弟・直義が養子としたの。その直冬が南北朝期には尊氏と義詮を敵に回して刃を交わすことになるのですが、尊氏から認知されていたら或いは違う展開になっていたかも知れないわね。ところで、肝心の竹若丸ですが、よく分からないの。【太平記】巻第十・千壽王殿被落大藏谷事の段には「足利治部大輔高氏敵に成り給いぬる事・・・ 中略 ・・・爰に高氏の長男竹若殿は伊豆の御山に御座けるが 伯父の宰相法印良遍 兒・同宿十三人 山伏の姿に成りて潛かに上洛し給ひけるが 浮嶋が原にて彼の兩使にぞ行き合ひ給ひける 諏方・長崎生け取り奉らんと思う處に 宰相法印是非無く馬上にて腹切りて道の傍にぞ臥し給ひける 長崎「去ればこそ内に野心のある人は外に遁るゝ辭無し」とて 竹若殿を潛かに指し殺し奉り 同宿十三人をば頭を刎きて 浮嶋が原に懸けてぞ通りける」とあるの。石柱の「御山上洛の時浮島原に於て生害さる云々」の記述はそれを踏まえてのものみたいね。

12. 清河寺の大ケヤキ せいがんじのおおけやき 13:57着 14:03発

最後に訪ねたのがこの「清河寺の大ケヤキ」ですが、それまでは清河寺の境内にあるものとばかりに思っていたの。この場合の清河寺は地名の方を指していたというわけ。ややこしいわね。(^^; そうとは知らず、枯死したので伐採してしまったのかも知れないわね−と諦めて境内を後にしていたの。歩き始めて間もなく畑仕事をされている方の姿が目に留まり、地元の方なら以前の姿を御存知かも知れないわね−と、ケヤキのことを訊ねてみたの。そこで初めて合点がいったと云うわけ。加えて、ケヤキのある場所まで道案内をして下さって。今では先端部が折れてしまい、それほど高い木には見えなくなってしまったけれど、以前は遠くからでも直ぐに分かるほどだったそうよ。

埼玉県指定文化財天然記念物【清河寺の大ケヤキ】
所在地:大宮市大字清河寺778番地の2 指定:昭和33年(1958)3月20日
神明社の御神木として、長い間崇められてきたこのケヤキは、樹高32m、幹回り8.5m、根回り14.3m、推定樹齢650年の巨木です。雄大な樹形を持ち、4月から5月上旬にかけて、雌雄異花の淡い黄緑色の小さな花をつけます。ケヤキは、双子葉植物・ニレ科の落葉高木で、国内では本州・四国・九州に分布しており、武蔵野を代表する樹木として「県の木」・「市の木」に選ばれています。平成9年(1997)3月 埼玉県教育委員会・大宮市教育委員会

画面左手に小さな社が写りますが、嘗てこの辺りの名主を務めた片岡家の氏神を祀る神明社だそうよ。この大ケヤキはその神明社の御神木になり、龍の鱗を思わせる樹皮からはこの欅の樹が経てきた年月の長さが偲ばれるの。

13. 大宮花の丘農林公苑 おおみやはなのおかのうりんこうえん 14:22着

農林公苑 大宮花の丘農林公苑への到着を以て今回の散策も全ての行程を終了よ。その花の丘農林公苑のお花畑では季節毎にチューリップやサルビア、コスモスなどの花々が咲き誇るの。But 苑内マップや花の開花情報、季節の映像などは他のサイトに数多く掲載されていますので、ここでは省略させて下さいね。最後に一言申し添えておきますが、この大宮花の丘農林公苑は交通の便が良くないの。公共の交通手段に頼らざるを得ない身としてはかなりの覚悟が必要よ。(^^; ξ^_^ξはバスへの乗車は諦めてスタート地点の西大宮駅へ歩いて戻りましたが、小一時間ほど掛かってしまったの。同じ川越線なら一駅大宮駅寄りの日進駅の方が近いかも知れないわね。

バラ 後は高崎線の宮原駅まで歩くと云う手もあるわね。幾れにしても歩くと云う手立て以外はなさそうよ。どうしてもバスに乗りたい−と云う方は「花の丘」BSからの乗車は諦めて、最寄りのBSまで歩いて本数の多い他の運行系統のバスへ乗車した方が賢明みたいよ。但し、その際は自己責任でお願いしますね。チャレンジしてみると云う方は 埼玉交通情報 から 交通案内→公園遊園地→花の丘農林公苑 と、リンクを辿って下さいね。併せて 東武バス On-Line なども参照の上で試行錯誤してみて下さいね。(^^;


今回のお散歩はさいたま市が勧める「緑のある道」のコースガイドにつられての散策なの。訪ねる前までは多くは期待せずにいたのですが、いざ出掛けてみると、当時を生きた人々の思いがそこここに残されていたの。嘗て指扇領3,000石を知行したという山内一唯ですが、法光寺で権之丞と妙陽の逸話に接して以来、好印象を持てず (^^; にいるものの、それでもその施策は概ね善政だったようね。視点を変えれば、関東一円に於ける秋葉信仰のメッカとして栄え、参拝客の多さでは大宮氷川神社と肩を並べるほどだったと云う秋葉神社があり、時代を遡れば鎌倉公方・足利基氏が開基したと伝えられる清河寺があるなど、思わぬところに意外なものが−の印象よ。あなたも、一度散策されてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
岩田書院刊 田村貞雄著 秋葉信仰の新研究
島津書房刊 野崎正幸著 秋葉山三尺坊大権現
雄山閣出版刊 民衆宗教史叢書 第31巻 秋葉信仰
村田書店刊 藍谷俊雄著 秋葉信仰の根源・三尺坊
大宮市史編纂委員会編 大宮市史 第三巻 中近世編
大宮市史編纂委員会編 大宮市史 第五巻 民俗・文化財編
大宮市指扇公民館編 ふるさと指扇

釈敬順著【十方庵遊歴雑記】については 国立国会図書館 の近代デジタルライブラリーを参照させて頂きました。






どこにもいけないわ
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