≡☆ 越生の散策・黒山三滝 ☆≡
 

越生で名の知れた観光名所として挙げられるのが越生梅林と共に今回紹介する黒山三滝。訪ねるのであれば紅葉の頃がベストシーズンと知り、出掛けてみたのですが、既にピークを過ぎていたの。その後、季節を違えて出掛けてはいるのですが、紅葉期を捉えて訪ねる機会もなく終えているの。なので季節のごちゃ混ぜ状態での紹介になりますが御容赦下さいね。掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

全洞院〜黒山熊野神社〜渋沢平九郎自刃地〜黒山三滝

1. 越生駅(JR八高線・東武越生線) おごせえき

黒山行バス

越生駅からは御覧の 朝日自動車バス の「黒山行」に乗車。越生の散策・あじさい山公園 でも触れましたが、路線バスにも関わらず、季節で本数や時刻が変わる変則パターンなの。加えて一時間に一本程度の運行本数なので、時刻表を充分確認の上で乗り遅れないようにして下さいね。駅から黒山三滝入口までは約8Kmあるので乗り遅れたから云って歩くのはちょっと無理よ。後は駅前で手ぐすねひいて(笑)客を待つタクシーを利用するしか方法が無いけど、taxisite に依ると ¥2,890 前後( ′16.09 現在 )なので、グループでお出掛けならタクシー利用もありかもね。¥350(バス料金)

2. 黒山BS くろやまばすてい

黒山三滝へは終点の黒山BSで下車し、歩くこと30分余りで到着しますが、その前にちょっと寄り道をしましたのでお付き合い下さいね。ここで越生七福神の一神・布袋尊が祀られる全洞院と、熊野神社を訪ねてみたの。補足ですが、最初に訪ねた時にはどこにどんなバス停があるのか分からず、終点で下車してから戻りましたが、神社前BSがちゃんとありましたので、追体験される場合にはそちらのBSでの下車をお勧めしますね。尤も、終点の黒山BSから戻るにしても僅か400m足らずですので、余り気にしなくても平気よ。先ずは一度熊野神社の前を通り越して全洞院へ向かいます。

3. 全洞院 ぜんどういん

全洞院は岩枩山と号し、曹洞宗の寺で、本尊は弥陀を安置している。この寺には近くで自刃した渋沢平九郎の墓がある。渋沢平九郎は飯能戦争のときの振武軍の副将で、渋沢成一郎を大将として飯能市羅漢山(現・天覧山)に立て籠もった。振武軍は慶応4年(1868)5月23日の官軍三千名の総攻撃を受け敗れ、渋沢平九郎は傷つきながら故郷下手計村(現・深谷市)に退れようとする途中、顔振峠の茶屋の主人に落人姿では危いと云われたため百姓姿に身を変えたが、越生町まで進出していた官軍に発見されてしまった。藁包に忍ばせてあった小刀で抵抗したが、多勢に無勢、利あらずと悟った平九郎は近くの大岩に坐して自刃した。

首は官軍によって越生に晒されたが、胴体は村人の手により全洞院に葬られ、「ダッソ様」(脱走様)と呼ばれた。尚、岩の脇のグミは平九郎の血を吸ったため、その実は平九郎の血を宿すと云われ、「平九郎グミ」と呼ばれ、後年、一族の渋沢栄一、渋沢敬三らによって碑が建てられている。昭和58年(1983)3月 埼玉県

橋を渡った左手には格子窓の小堂が見えますが、実は「お手洗い」だったの。「おひまつぶし処 年中無休」と案内されていましたが、粋なネーミングね。加えて、近在の方が清掃をして下さっているようで、綺麗でしたよ。

案内板が並び立つ背後の石垣の上には松野自得(本名:貞安)和尚の句碑が建てられているの。自得和尚は群馬県前橋市東大室町にある最善寺が生家で、僧籍に身を置く一方で、山水画や俳句にも造詣を深め、高浜虚子に師事。後に俳誌「さいかち」を創刊・主催し、【自得俳句集】を刊行するなどしているの。その自得和尚が戦争末期の一時期、この全洞院に疎開して来たことから繋がりが出来、終戦後に最善寺に戻った後も住持を兼務していたみたいね。残念ながらその自得和尚が昭和50年(1975)に入寂すると後を継ぐ者もいなくなり、無住となってしまったの。現在は岩枩山全洞院を号する曹洞宗龍穏寺末の寺院。

無住とは云え、越生七福神の一つに数えられることからお正月期間だけは特別に応援があるようね。but 普段は「七福神参拝の皆様 黒山全洞院は無住の為記帳が出来ません。黒山全洞院の記帳は龍穏寺さんにお願いしてありますので記帳捺印をして下さい。黒山全洞院 世話人一同」とのこと。因みに、石段の左手にはみごとな百日紅の古木があり、平成13年(2001)には越生町の景観樹木に指定されているの。8月にはサルスベリ街道に植えられた百日紅と合わせて、艶やかなピンクの花が咲き乱れ、訪れる旅人の目を楽しませてくれる・・・らしいの(笑)。

【新編武蔵風土記稿】には「往古は一草庵の微々たりしが天文年間(1532-54)に至り 龍穩寺第6世善欣和尚退職して來り住し 徳化大いに行われ 衆庶歸依す 善欣盡力して伽藍を運營し 大いに寺體を全備し 初めて一寺に列し 全東院と號す 安政4年(1857)火災に罹り 堂宇悉く燒失す 同5年(1858)之を再營せり」とあるように、元々あった草庵のような一宇を龍穏寺第6世善欣和尚が隠居寺として整備したのが始まりみたいね。記述には全東院とありますが、善東院と記されることもあり、この後に紹介する熊野神社(旧山本坊)から見て東に位置することからの名称由来のようよ。

越生町教育委員会編【越生の歴史】では、全洞院はその山本坊の影響下に創始された修験系寺院で、後に龍穏寺の布教活動の波を受けて曹洞宗に転派したのでは−と推考し、中興開山とされる第2世洞嶽石瑞和尚の没年が天明4年(1784)であることから推して、200有余年の間は無住で、洞嶽和尚以降が曹洞宗の住僧であったと考えるのが至当か−としているの。現在は本堂だけの簡素な佇まいですが、明治43年(1910)の越辺川の氾濫と土砂崩れに伴い出された【伽藍倒潰流出届】には開山堂や閻魔堂流出云々とあり、嘗てはそれなりの伽藍が建ち並んでいたようね。

4. 黒山熊野神社 くろやまくまのじんじゃ

嘗てこの地には聖護院本山派修験二十七先達の一つに数えられた山本坊があったの。開祖は(箱根山別当相馬掃部介時良入道山本大坊)栄円で、応永2年(1395)に箱根山別当を辞するとこの黒山に移り来て、応永5年(1398)に熊野神社の前身となる将門宮を創始したの。栄円は黒山三滝のそれぞれを紀州(現:和歌山県)熊野三山の本宮・那智・新宮に見たて、将門宮を関東に修験道を広めるための拠点としたの。早い話が熊野霊場のサブセット版を黒山の地に開創したと云う訳。社殿右手の平地には社務所が建ちますが、嘗ての山本坊の屋敷跡になるの。

ここで気になるのが将門宮の名称ね。実は、山本坊を開創した栄円は平将門の末裔であるとの伝承があるの。平将門自身は天慶2年(939)からの「平将門の乱」で討ち死するのですが、妾腹の子がこの地に逃れ来て隠れ住んだとされ、栄円はその13代目に当たるとされるの。残念ながら未確認で終えていますが、その栄円が最初に隠れ住んだ場所も、同じ黒山でも更に奥まった小字宗ヶ入(そうがいり)で、熊野社(=将門宮)にしても、【武蔵国郡村誌】には「甚嶮なり 絶頂に金毘羅の小祠あり 俗に嶽岩と稱す 一説に紀州熊野の宮を最初此嶽に移し 夫より熊野ヶ岡に轉せしと云ふ」とあるように、当初は獄岩(たけいわ=熊野ヶ嶽とも)と呼ばれる地に建てられたと云われているの。現在の熊野神社からすると2Km以上も西側に位置していたことになるわね。

熊野社が現在地に遷されて来たのはいつ頃のことなのかは分かりませんが、山本坊も江戸時代になると幕府の政策から定住を強いられるようになり、天正年間(1573-92)、第10世栄龍の代に西戸村(現:入間郡毛呂山町西戸)を開き、慶長8年(1603)に本坊を移しているの。盛時には傘下に150ヶ寺を治め、武蔵国の入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国及び常陸国六郡を支配し、京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられたの。旧山本坊ですが、本拠を西戸村に移した後も越生山本坊として残されていたみたいね。【新編武蔵風土記稿】の熊野社の項には神楽堂や薬師如来像を安置する本地堂の名も見えることから、それなりの陣容を構えていたみたいね。加えて、同じ黒山の地に山本坊配下の寺院として覚浄院・徳正院の二寺があったことも記されているの。

その山本坊も明治元年(1868)に発布された神仏分離令を受け、第25代徳栄はやむなく還俗して神主となり、相馬修理と改名したの。更に明治5年(1872)には追い打ちを掛けるようにして太政官布告第273号、通称・修験道廃止令が出されて息の根を止められてしまったの。相馬家は全ての権益を失い帰農し、山本坊は栄円の開創以来470余年にわたる長い歴史の幕を閉じたの。一方の越生山本坊ですが、地元の人達の支援があったのでしょうね、同じ明治5年(1872)に村社へ列格されているの。熊野神社へと改称したのはその時のことみたいね。

社殿右手には熊野神社社殿建設誌が建てられていますが、以前の社殿は昭和60年(1985)に不審火で焼失、氏子崇敬者の浄財、神社関係者復興資金並びに神社所有地山林の一部の売却代金を元に、総工費何と¥3,4300,000を以て昭和63年(1988)に再建されたことが記されているの。不審火に依る焼失とは哀し過ぎますが、村の鎮守様にも関わらず、高額な建築費用を短期間の内に集めて再建しているあたりは、地元の方々が当社に寄せる思いを象徴しているわね。

5. 黒山三滝入口 くろやまさんたきいりぐち

熊野神社からは100m足らずで黒山三滝入口の三叉路に辿り着きますが、傍らには越生町を流れる越辺川の起点を示す標識が建てられているの。標識には誰も気に留めることもなく、そのまま黒山三滝に足を向けてしまいますが、越生町の山間いに源を発した河川の全ては最終的にはこの越辺川に流れ込むの。「越生の散策・越生梅林梅まつり」の 道灌橋 の項でも御案内していますが、越辺川の語源をめぐっては、アイヌ語由来説や朝鮮語起源説があるの。アイヌ語では「ぺ」や「べ」は川を意味し、朝鮮語では「オッ」「ペッ」共に布などの織物を表すことばなのだとか。

ここでちょっと寄り道をしますね。
黒山三滝入口から少し足を延ばしたところに渋沢平九郎自刃地があるの。

6. 渋沢平九郎自刃地 しぶさわへいくろうじじんのち

飯能戦争は慶応4年(1868)彰義隊から別れた振武軍と追撃してきた討幕軍(官軍)との間に発生した維新戦乱の一つである。優勢な官軍の攻撃の前に飯能市能仁寺の本営は落ち、振武軍は奥武蔵山中に敗走した。副将として参加していた渋沢栄一の養子である渋沢平九郎は、顔振峠を経て黒山へ逃れてきたが、待ち構えていた官軍に包囲され、22歳の若さで自刃した。ここに平九郎グミと呼ばれるグミの木があり、平九郎の血を宿していると云う。環境庁・埼玉県

実は、先程訪ねた全洞院の墓苑にはその渋沢平九郎のお墓があるの。と云っても実際に納められたのは胴体のみなの。ちょっと生々しすぎて墓苑に立ち入るのが躊躇われて未体験で終えていますが、どうやら最初から渋沢平九郎の亡骸と知って葬られた訳ではないみたいね。越生叢書【おごせの文化財】に依ると、飯能戦争に敗れた振武軍隊士の一人が顔振峠を経てこの黒山へ逃れて来たのですが、不運にも討幕軍に出くわしてしまい、孤軍奮闘するも多勢に無勢、抗し難きを悟ると傍らの岩に座し、自刃して果てたと云うの。その首は越生今市宿に運ばれて梟首台に晒され、一方、捨て置かれたままの亡骸を哀れに思った村人達は胴体を全洞院に埋葬したの。位牌には「大道即了居士 俗名知らず 江戸のお方にて候 黒山村にて討死」と記され、その哀れな末期に黒山の村人達は「脱走(だっそ)さま」と呼んで同情を寄せたと云うの。

惜しまるる時 散りてこそ 世の中の 人も人なれ 花も花なれ
いたずらに 身はくださじな たらちねの 国のためにと 生きにしものを

晒されていた首も密かに法恩寺に埋葬されたのですが、その隊士が振武軍副頭取・尾高惇忠(おだかあつただ)の弟・平九郎と知れたのは事件後数年を経てからのことなの。姓が異なることから奇異に思われるかも知れませんが、平九郎は渋沢栄一が渡仏する際に見立養子となり、渋沢姓を名乗っていたの。見立養子とは家督を継ぐ者がいない当主が海外に赴く際には、事故などの不測の事態に備えて事前に養子を迎える制度で、平九郎は渋沢栄一の許に嫁いでいた千代の実の弟でもあったの。

後に平九郎の亡骸は首と共に東京・上野にある渋沢家の墓地に改葬(∴全洞院のそれはお墓と云うよりも胴塚ね)されているのですが、渋沢栄一・尾高惇忠の両氏は越生に訪ね来て村人達に謝意を伝えているの。時を経て昭和29年(1954)には自刃岩に渋沢平九郎自決之地碑が建立され、昭和39年(1964)には法恩寺にも渋沢平九郎埋首之碑が建てられたの。

7. 黒山三滝入口 くろやまさんたきいりぐち

黒山三滝入口

再び黒山三滝入口に戻り、三滝川の流れに沿って坂道を登ると黒山三滝があるの。時間にしたらのんびりと歩いても片道30分余りの道程ですが、途中には黒山鉱泉館が建つの。三滝入口には東上閣も建ちますが、両館とも宿泊以外に日帰り入浴も出来るみたいよ。残念ながら未体験で終えていますが、散策の後には疲れたアンヨに少しだけ御褒美をあげてからお家に帰る−と云うのもいいわね。黒山鉱泉の名は、誰もが知ると云う訳ではないのですが、嘗ては東京近郊に位置することから三滝めぐりと合わせ、それなりの湯浴み客を迎えて賑わいをみせていたようよ。

調べてみると、黒山の地に鉱泉が発見されたのはそんなに古いことでもなくて明治10年(1877)のことなの。発見者当人なのかどうかはξ^_^ξには分かりませんが、宮崎要七なる人物が同年4/13付で【浴場設置許可願】を出しているの。当時でもちゃんと許可を得てから開湯していたとは意外な印象ですが、泉質検査なども依頼していて、結構シビアな許可願になっているの。時を経て明治30年(1897)には小峰米造と云う方がこの地に初めて旅館を建てて本格的に湯浴み客を迎えているのですが、お話しの序でに開湯の元になった許可願とやらを紹介してみますね。

右奉申上候 拙者所有地字風傳にて畑の内壱ヶ所の水溜りあり 彼の水中に湯の花に異ならさるものあり 其臭氣果して硫酸の質あり 是を汲み衆人浴するに疝氣・痔病等治する者多し 依て近傍の人民追々試みるに其效能有と雖も 全く其病時至て治するや 又 其能ありや 未た實決する事不能 雖然近傍の病者日増群集するに主は其質の可否を知らず 還て人身を暴害なさんも難計ければ 彼の水質一瓶を進呈す 何卒御檢査被成下良否得失被仰聞 醫員の補益とも相成に於ては 浴場の御許可被り度 此段奉願上候也

8. 大善寺跡 だいぜんじあと

三滝川に沿ってしばらく歩いていると、前方に何やら廃屋らしきものがあるのに目が留まったの。気になって近付いて見ると、川岸の岩肌にへばりつくようにして仏像を祀る祭壇などが設けられ、僅かに弁財天と観音像と思しき仏像が残されていたの。明らかに廃寺跡と知れたのですが、その遺構からすると近年までは機能していたことが窺えるの。ちょっと気になる存在の廃寺ですが、大善寺の名称は何とか探り出せたのですが、残念ながらそれ以上のことは何も分からないの。画像を三枚ほどアップしておきますが、どなたか詳細を御存じの方がいらっしゃいましたら御教示下さいね。

越辺川の水源で藤原の出合い近くの秩父古成層の断層を流れ落ちる男滝、女滝、天狗滝を総称して黒山三滝と云う。この辺りは古くから修験の道場として栄え、江戸時代中頃からは、信仰と遊山を兼ねたレクリエーション場として賑わった。特に男滝、女滝は形の美しさから、江戸市民が多数訪れており、江戸吉原講中の道標が残されている。明治に入り、鉱泉が発見されると、新緑・納涼・紅葉狩りにと四季折々訪れる人が後を絶たない。昭和25年(1950)に日本観光地百選、瀑布の部で第9位に選ばれている。また、近くには暖地性植物の宝庫と云われる藤原入があり「アカネカズラ」の自生地は、北限の自生地として知られ、天然記念物に指定されている。その他、天狗滝奥の大平山には修験者栄円の墓や、役の行者像がある。昭和58年(1983)3月 埼玉県

三滝川 三滝川 紅葉

9. 天狗滝 てんぐだき

お土産屋の山田屋さんを過ぎると左手に落差2m余りの小さな滝が見えて来ますが、右手に設けられた石段の小径を辿って上流に進むとあるのが天狗滝。支柱に繋がれた鎖が修験霊場の雰囲気を醸し出していますが、鎖場ではないので御安心下さいね。但し、雨上がりの後などは足許が滑りやすくなっていますので要注意よ。天狗滝は大平山から流れ来る藤原川が三滝川と合流する直前に滝となって流れ落ちているもので、残念ながら落石の危険性から滝壺に最接近することは禁止ですが、落差が14m程あるので増水時には迫力のある瀑布を見ることが出来そうね。

天狗滝に接近遭遇してみたい方は上の画像をクリックよ。
全部で8枚程アップしてありますが、スライドは手動操作ですので御協力下さいね。

ハイキングコース

渓谷の右手には上部へ登る小径があり、天狗滝の注ぎ口を背後から間近に見られるかも知れないわ−と期待して登ってみたの。残念ながら木立に遮られて期待した景観は望めませんでしたが、小径はそのまま越生ハイキングコースへと続くの。天狗滝の背後には大平山(622m)があり、山頂には役行者像と山本坊開山栄円のお墓(町指定文化財)があると知り、興味を覚えたのですが、残念ながら時間の関係で未体験で終えているの。余談ですが、天狗滝の入口には嘗て「新宮」が建てられていたものの、明治43年(1910)の大洪水で全て流されてしまったのだとか。土石流と化した藤原川が建物を襲ったのかも知れないわね。

黒山三滝 黒山三滝 黒山三滝

更に三滝川沿いの道を辿るとお土産屋さんの建物が見えてくるの。左手には赤い手摺りの小橋が架けられていますが、この小橋の先は先程触れた越生ハイキングコースへと続いていたの。そうと分かっていたら天狗滝の上からはこの小橋に向かって素直に下って来たものを、知らずにわざわざ天狗滝の入口まで戻り、再び坂道を上って遠回りして来た愚かなξ^_^ξでした。因みに、石段の左手にはお手洗いがあるの。三滝入口にも綺麗なお手洗いがありますが、景色を眺めながらだと往復するには優に一時間は必要なの。お手洗いがあることを覚えておくと安心出来るわよね。それはさておき、建物の右手に見える石段を上った先に今回の散策の最終目的地となる男滝と女滝があるの。

滝の手前には休憩所がありましたが、嘗ては元治元年(1864)に創建されたと云われる長命寺があり、休憩所がある場所には蔵王堂が建てられていたみたいね。その長命寺も天狗滝入口の新宮と同じく、明治43年(1910)の大洪水で倒潰流失してしまったの。蔵王堂にはその名の如く修験道の本尊とされる蔵王権現が祀られ、赤堂とも呼ばれていたと云うのですが、赤は閼伽からの転化ね。閼伽は功徳水を表すサンスクリット語の arghya の音訳で、神聖なる水を意味するの。修験者は滝水に打たれる荒行をする前に蔵王堂(赤堂)で禊ぎをしてから滝壺に向かったのでしょうね。建物の右手崖上には不動明王の象徴とされる大きな宝剣塔も建てられているの。

黒山三滝 黒山三滝 黒山三滝 黒山三滝

10. 男滝・女滝 おだき・めだき

最後に男滝と女滝の景観を7枚ほど纏めてアップしておきますね。左端が男滝で、中央は二つを一緒に撮してみたものですが、両方の滝を滝壺まで含めて一枚に収めようとすると崖をよじ登らない限り無理ね。続いて女滝になるのですが、いずれもξ^_^ξの拙い写真では迫力が伝えられず、ごめんなさい。みなさんもお出掛けの上で御自身の目と耳でお確かめ下さいね。

滝 散策の最後を飾ってくれた男滝・女滝ですが、滝は二段からなり、上流側で落差11mを流れ落ちているのが男滝で、その流れを受けて落差5mの女滝があるの。男滝の方が落差があるだけに流れ落ちる姿は豪快なのですが、滝壺はむしろ女滝の方が水量が多くて轟音をあげていたの。最後までお付き合い下さったあなたにスペシャル・プレゼント。その男滝・女滝の流れ落ちる様子をちょこっと動画に収めて来ましたので御楽しみ下さいね。But 画質とカメラワークには目を瞑って下さいね(笑)。

11. 黒山BS くろやまばすてい


冒頭でも触れましたが、黒山三滝を訪ねるには紅葉シーズンがベストと聞いてはいたのですが、訪ねた時には既に見頃を過ぎてしまっていたの。その後も幾度か越生町を訪ねていながら、黒山三滝の紅葉をめでることなく終えているので、まともな紅葉の紹介が出来なくてごめんなさい。その黒山三滝が、嘗ては修行地として修験者や修行僧を多く集めていたことは帰宅後に調べて初めて知ったの。江戸時代になると越生の出身者だった吉原遊郭の副名主・尾張屋三平が男滝・女滝が寄り添いながら流れ落ちる姿を男女和合の象徴として紹介すると、江戸市中からは多くの物見遊山の行楽客が訪ね来るようになり、更に明治期になると鉱泉も発見され、観光名所の仲間入りを果たしたの。嘗ては佐々木信綱を始め、田山花袋や野口雨情らの文人も訪ね来た黒山ですが、時を経た今ではその名残りも僅かに石碑などに刻まれるだけになってしまい、盛時の賑わいは今いずこ?−が正直な感想ですが、鄙びた風情に身を任せながら三滝を辿れば、浄衣を纏う山伏が滝水に打たれて荒行する姿も瞼に浮かんでくるかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
東京堂出版社刊 神話伝説辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
越生町教育委員会編 越生叢書・おごせの文化財
越生町教育委員会編 越生の歴史 全巻
鳩山町発行 鳩山町史編集委員会編 鳩山の修験
山吹の会発行 尾崎孝著 道灌紀行






どこにもいけないわ