≡☆ 越生の散策・あじさい山公園 ☆≡
 

今回の散策ではあじさい山公園を皮切りに、龍穏寺まで足を伸ばしてみましたが、途中には普通の方なら絶対に足を向けないような見処(?)もあり、訪ねてみたの。この頁を御覧になり、追体験してみたいと思われる方が、中にはいらっしゃるかも知れませんが、感激するか、がっかりするかは自己責任でお願いしますね(笑)。補:掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

あじさい山公園〜代官屋敷跡〜山枝庵跡〜龍穏寺

1. 越生駅(JR八高線・東武越生線) おごせえき

今回乗車する 朝日自動車バス の「黒山行」は、定期路線バスなのですが、月単位で本数や時刻が変わる変則運行パターンなの。それに平日休日の組み合わせが加わり、一時間に一本あるか無いかの運行なので、ピンポイントで時間を決めなくてはならないの。バスへの乗車は諦めて歩いてしまう手もあるけど、後の行程のことを考えると、余程健脚の方でも無い限りは無理だと思うの。HPに掲載される時刻表と、充分にらめっこして、どのバスに乗車するかを決めて下さいね。グループでのお出掛けなら、タクシーを利用して割り勘にする手もあるわね。麦原入口BSまで¥230

2. 麦原入口BS むぎはらいりぐち

これから訪ねるあじさい山公園ですが、公園とあるので紫陽花が咲いていなくても何かあるわよ、きっと−と、季節外れに訪ねてみたことがあるのですが、ものの見事に何も無かったの。(^^; 秋口のことでしたが、それでも狂い咲きの紫陽花が一輪、二輪咲いてはいたの。でも、それを以てあじさい山公園を観たことにはならないわね。と云うことで再チャレンジしましたので、今回の散策のご案内もまた、季節がごちゃ混ぜなの。御了承下さいね。

麦原入口BSからあじさい山公園へは歩くだけでも小一時間(実際の歩行距離は3Km前後よ)掛かるの。
写真を撮りながら歩いたりすると、とても一時間では無理なので、余裕を持ってお出掛け下さいね。

3. 麦原川弁財天 むぎはらがわべんざいてん

麦原川の流れに沿って緩やかな上り道が続き、沿道の紫陽花も見頃を迎えて正に「あじさい街道」でした。しばらく歩いていると赤い幟が目に留まりましたが、岩の上に弁財天が祀られていたの。説明に依ると「弁財天麦原24の会」の方々が平成18年(2006)に建立したもので「弁財天は七福神唯一の女神で、特に子宝、子育て、そして弁舌、学芸、知恵、在福、延命を授ける神として、古くから幅広い人々の信仰を集めており、運を開き、福を招き、現在では交通安全、新入学なども祈願されております。この道を通る人々の安全とご多幸を祈念致します」とあるの。

ここに弁財天が祀られるようになった背景は分かりませんが、水の流れを背にして琵琶を奏でる姿は、本来の弁財天の姿でもあるの。弁才天は、古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。saras は水を指し、sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。河の流れの妙なる水音は人々を心豊かにすることから福徳を齎す女神となり、穀物の豊作を齎す豊穣の女神ともなるの。やがてそのサラスバティーが、同じ女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、河のせせらぎが弁舌にも繋がるの。

そのサラスバティーが仏教に取り入れられて弁才天となり、そこでは川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。その弁才天が更にパワーアップして弁財天へと変身するのは後のことね。

あじさい街道は終点のあじさい山公園まで続くの。散策に彩りを添えてくれた紫陽花を、景観を交えて幾つかアップしておきましたのでお楽しみ下さいね。御覧になりたい方は左掲の画像をクリックして下さいね。尚、スライドは完全マニュアル動作ですので御協力下さいね。(^^;

4. あじさい山公園 あじさいやまこうえん

公園は、今歩いて来た「あじさい街道」を含めて、この山あいの地を観光拠点にしようと、越生町が平成3年(1991)頃から山林を造成して紫陽花を植樹して来たものなの。でも、最初に紫陽花が植えられたのは50年以上も前のことで、地元の方が自宅前の道路脇に数株を植えたのが始まりだとか。それが隣近所へと伝わり、やがて地区全体へと広がり、気が付いたら「あじさい街道」が出来ていたと云うことみたいね。その「あじさい街道」の最後を飾る園地として造られたのがこの公園で、地元の方々の地道な活動があればこそのあじさい山公園なの。

早速、園内を紹介したいところなのですが、訪ねた時( ′10.07 )には再生プロジェクトが進行中だったの。掲示されていた新聞記事の抜粋などに依ると、10年程前から植樹されている紫陽花が葉化病に罹り、薬剤散布や植え替えなどをして来たものの、思うような効果が得られず、それまで植樹されていた15,000株にものぼる紫陽花の、何と6割以上が枯死してしまったそうなの。あじさい葉化病は、平成7年(1995)に日本植物病理学会で初めて報告されるなど、認知されたのは比較的新しいことなの。そのせいもあり、ファイトプラズマと云う細菌が引き起こすと考えられてはいるのですが、伝染などの詳しいメカニズムは未だ分かっていないの。

現在のところ、有効な治療法も見つからずにいることから、感染の拡大を防止するためには兎に角発症してしまった紫陽花を処分するしかないみたいね。訪ねた時には町の職員と思しき方の姿が園内にあり−葉化病対策実証 「○×△■」散布試験中−の表示が付された紫陽花の株もありましたが、是非、効果をあげて欲しいものよね。案内には「現在は地元有志の地域づくり麦原部会と町があじさい山公園再生実行委員会を結成し、地元住民と共にあじさいの植え替えなどの作業を行っている。アジサイ再生の募金に皆様のご協力をお願い申し上げます。再生実行委員会一同」ともありました。脳天気な旅人のξ^_^ξに出来ることと云えば、僅かな募金でしかないのですが。

園内の様子を紹介しますが、お話ししたことを踏まえた上で御覧下さいね。御覧になりたい方は左掲の画像をクリックして下さいね。全部で18枚ほどアップしてあります。見晴台で小休止していた時に、紫陽花が咲き乱れていた頃に訪ねて来たことがあると云う方にお合いしましたが、「7,8年前だったか、その時は紫陽花で下草なんか見えなかったよ。山全体が紫陽花の花で埋まり、それはみごとなもんだったよ」と話してくれました。関係者の方々の努力が一日でも早く報われますように。

園内にあった説明では、紫陽花は「日本最古の手鞠花。いつからあったかは不明だが、室町期頃より一般化したと思われる。葉には光沢があり、花は大きく、遅咲き。濃い色は出ないがさまざまな色合いに変化するのでナナヘンゲとも呼ばれた」とあるの。手鞠花とは可愛らしい別称ですが、小さな花が丸く集まって咲く姿に由来し、紫陽花は、集+真+藍(あづ+さ+あい)から転訛したもので、藍色の花が集まり咲く様子から名付けられたものだとか。因みに、花言葉は 花言葉事典 に依ると、移り気・心変わり−だそうよ。(^^;

あじさい山公園を後に元来た道を戻りますが、来る時に目にしていたこの分岐路を今度は左手に折れて下さいね。道標もあるのでこれなら迷うことも無いわね。それはそうと、麦原川の防護柵には脳天気な旅人の不安を大いにかきたてるような警告の貼紙が。「農作物の被害を防止するため、イノシシ・シカ・ハクビシン・アライグマの捕獲を実施しております。みなさまのご理解とご協力をお願いいたします。期間 9/19-10/31 越生町経済課」とあるの。

エ〜ッ、それって、もしかして、山の中には猪がいる!と云うことよね。
目の前に急に猪が現れたりしたらどうしようかしら?辺りにひとけはないし。(^^;

5. 七福橋 しちふくばし

分岐路から数10mのところに麦原川に架かる下河原橋があるのですが、欄干には何故か七福神の姿があるの。オマケに七福橋と記した木札まで添えられていましたが、どんな由来から造られたものかしら?確かに、越生には「越生七福神めぐり」があるので、決して七福神とは無関係ではないのですが、人知れぬ (^^; こんな場所に、なぜ全神集合なの?折角ですので、下河原橋の七福神を一神ずつ収めて来ましたので、宜しければお参り下さいね(笑)。七福神めぐりをされたい方は左掲の画像をクリックよ。

途中からかなり辛い上り坂が続きますが、この分岐路まで来るとその坂道も小休止。ここでは道標の左手に続く道を進んで下さいね。道標の更に左手には御覧の景観が広がりますが、谷を隔てた反対側の山の斜面には乗馬クラブがあるの。これから立ち寄る予定でいる山枝庵跡は、どうやらその背後の山中にあると云うことみたいなの。まさか獣道を歩けとは云わないわよね。(^^;

6. 戸神の代官屋敷跡 とがみのだいかんやしきあと

左掲の道標には「代官屋敷→60m」とあるの。代官屋敷って、あの「お代官さま」のお屋敷のことよね。こんな山の中に(失礼)、何故そんなものが残されているの?と興味を覚えて訪ねてみたの。実は、この道標を見つける前にも案内があり、そこから山あいに向かい小道が続いていたのですが、どの位歩かされるのかも分からず、道も獣道とさして変わらず、とても足を踏み入れるだけの勇気が持てなかったの。それに比べるとこちらは石段があるなどかなりまともで、遙かに多くの方々が踏みしめた痕跡があるの。加えて背中を後押ししてくれたのが60mの距離と分かった安心感ね。

代官屋敷とあったので多少の期待はしていたのですが、拍子抜けさせられた−と云うのが正直な感想ね。確かに大きなお家であることには違いないのですが、まさかトタン屋根のお屋敷だとは思ってもみなかったの。掲示されていた案内文を転載してみますが、住所が記されているの。現在はどなたも住んではいらっしゃらないのですが、ハガキを出したら郵便屋さんは届けてくれるのかしら? (^^; コラコラ、おちょくってはいかんぜよ。

〔 戸神の代官屋敷 〕  越生町大字龍ヶ谷字戸神120番地
ここは龍穏寺の寺代官を務めていた宮崎家の屋敷跡である。室町時代の名将、太田道真・道灌父子の中興になる龍穏寺は江戸時代下野大中寺、下総総寧寺と共に幕府から関三刹に任ぜられ、全国の曹洞宗寺院を統制していった。当時の龍ヶ谷村は全村が龍穏寺の所領で、江戸詰の住職に替わって寺領を差配し、名主を世襲していったのが宮崎家である。母屋は桁行十間、梁行四間半で、建坪は45坪以上ある。正面に庭園を臨む式台を構えた玄関が権勢をふるった「戸神のお代官」の往時を偲ばせる。また、大黒柱には慶応2年(1866)に起きた武州一揆(名栗騒動)の際につけられた傷跡が残っている。平成18年(2006)12月20日 越生町教育委員会

当時の龍ヶ谷村は龍穏寺の寺領だったことから、年貢も全て龍穏寺に納められていたの。説明には寺代官とあるのですが、実態は「名主」と何等変わらないの。唯一の違いにして大きな違いは、普通の「名主」が幕府側領主から割り当てされて年貢を徴集していたのに対し、寺代官の宮崎家では自らが割り当ての采配を振るう立場にあったことなの。代官の名称にしても自称代官で、どちらかと云うと、龍穏寺の代理人の意なの。そうとは知らずに武家屋敷、或いはそれに準じた建物を勝手に想像したξ^_^ξがいけなかったわね。

7. 山枝庵跡 さんしあんあと

曲がりくねった林道を過ぎると御覧の坂道が見えて来るの。画面には写りませんが、左手には車が転回するに充分な空き地があり、乗馬クラブへと続く道があるの。最初はその道を進むと途中から枝分かれする道があるのでは−とも思ったのですが、そうではなかったの。画面中央で倒木が「通せんぼ」していますが、その倒木が転がる細い道が山枝庵跡へと続く道だったの。入口に道標があるので気付いたのですが、そうでなければ辿り着くことは出来なかったと思うわ。意を決して歩き始めたのですが、無舗装のどろんこ道で、それでも途中までは四駆あたりで強引に突っ込んでみたものの、道幅に阻まれて引き返したかのような轍跡が。

山枝庵跡 或いは車でのアプローチを諦め、そこからは徒歩で向かったのかも知れないわね。どちらにしても途中からは杉林の中を歩く完全な山道で、HPを作っていなければ絶対に (^^; 途中で引き返していたと思うわ。いい加減見えて来てもいいんじゃないの?と引き返したい気持ちを抑えながら5,6分歩くと、ようやく杉林の中に白いものが見えて来たのですが、それが山枝庵跡の案内板だったの。山枝庵は三枝庵(or 山芝庵)とも書かれますが、文献からの引用でもない限り、ここでは山枝庵にしますね。山の中にあるんだもん、当然、山枝庵よね。(^^; 先ずは、その白い案内板の説明から紹介してみますが、転載に際して一部修正加筆していますので御注意下さいね。

太田道灌生地 自得軒砦跡(三枝庵)永享2年(1430)の頃、太田道真(道灌の父)は扇谷上杉持朝の執事として20歳の頃、この龍ヶ谷山中に龍穏寺を建立し、小さな砦を築き、自得軒と名付けた。道灌は永享4年(1432)にこの三枝庵に生れた。当時は毛呂氏、越生氏等地方豪族の残存勢力があり、若年の道真に従うことを嫌ったので、この奥深い山中に砦を築き防衛したものと思われ、東西350間南北400間程の三段構えで、大規模にして且つ要塞堅固な砦である。後、道灌は江戸城を築き、父子共に名声上がり、地方豪族も道真の配下に属し、長禄3年(1459)51歳の頃、自得軒と呼ばれる小杉の郷に下り、ここに居館を築き隠居し明応元年(1492)2月2日82歳の生涯を閉じた。龍穏寺に葬る。法号を自得院殿実慶道真大居士と云う。補:文責の表示は無いの。

山枝庵跡 説明ではこの山枝庵で道灌が生まれたことになっていますが、残念ながらそれを裏付けるような史料があるわけでもなく、伝承の域を出ないの。辺りには素石をそのまま利用した供養塔が散在し、寂寥感が漂う一角ですが、ウロウロしていた時に、新しい案内板を見つけたの。内容も異なるので併せて紹介しますね。

山枝(三枝・山芝)庵 【新編武蔵風土記稿】の龍穏寺の項に「寺中三枝庵 門前の小高き所にあり 此所古へ道眞入道が居住せし所ならんといへり」とある。龍ヶ谷の戸神集落の南東正面の山林中、小字「山枝庵」の一帯に何段かにわたって斜面を削った平地がある。一番広い平地は約40m四方で、その下の平地には江戸期の墓石がある。試掘調査で青磁やカワラケ、北宋銭が見つかっていることから中世以降の遺跡であることは確実である。空堀や土塁などの城に伴う遺構は見受けられず、寺院跡である可能性もあるが、秩父往還の要衝をおさえる軍事拠点にしていたと推定される。平成21年(2009)2月吉日 越生町観光協会

【風土記稿】には続けて「太田系圖に 於武州越生 建精舍號龍穩寺 道眞常住越生 明應二年癸丑二月二日卒 八十三歳 號雪山居士とあり 道眞が自得軒のありしは 此所なるべしといへり」とあるのですが、「越生の散策・越生梅林梅まつり」で御案内したように、今では自得軒は小杉の 道真退隠之地 にあったとするのが一般的なの。山枝庵の地形は日常生活を送るには不向きで、普段は小杉に住したと考えるのが妥当よね。越生町教育委員会編【越生の歴史】には「前の谷の道は秩父方面へ抜ける道でもあることから、交通路支配の施設とも考えられるが、軍事施設であったとしても防衛のための一時的な駐屯施設であったろう。日常的には龍穏寺の寺庵として使用され、非常の際には道真に指揮された軍勢が駐屯する場合もあったかも知れない」とあるの。

砦には毒水(ぶっみず)があり、迫り来る敵勢に対し、道真が谷水に毒水を流して対抗したと伝え、また、尼さんが住していたとの伝承もあり、残されている墓塔の中には天和2年(1682)松室良樹禅定尼と刻まれた墓碑があると云うのですが。発掘調査では北宋銭と共に江戸期の寛永通宝も出土していることなどから推して、この山枝庵には江戸時代になっても人が住していたことが知れるの。歴史の表舞台では決して語られることの無い山枝庵ですが、道真・道灌父子の伝承と共に、歴史の片隅に生きた、名も無き人々の息遣いがここには残されているの。

記述に際しては越生町教育委員会編【越生の歴史】と共に、毛呂山郷土史研究会発行【あゆみ第32号】に所収される杉田鐘治さんの論考「越生山枝庵砦について」を参照させて頂きました。この場にて改めて御礼申し上げます。

8. 長昌山龍穏寺 ちょうしょうざんりゅうおんじ

山枝庵跡入口からは登り道が続き、ようやく登りきったと思ったら今度はジェットコースター並みの急な下り坂よ。嘗ては秩父方面とを結ぶ往還道として利用されていたとのことですが、当時は当然無舗装で、傾斜も今よりももっときつかったのではないかしら。当時の人達の健脚ぶりが偲ばれる坂道ね。それはさておき、坂道を下るとやがて龍谷川に架かる龍谷橋が見えて来ますが、その先に冠木門がチラリと見えるの。それが龍穏寺参道の入口になるの。その手前には地蔵堂があり、大きなお地蔵さまが立つの。

龍穏寺は永享の頃(1429-41)に将軍・足利義教が上杉持朝に命じて尊氏以来の先祖の冥福と戦乱に果てた人々の霊を弔うために創立したものと云われる。しかし、その後兵火に罹ったので文明4年(1472)に太田道真・道灌父子に依って再び建て直された。天正18年(1590)には豊臣秀吉から御朱印100石を受け、次いで慶長17年(1612)には徳川幕府から曹洞宗の関東三ヶ寺を命ぜられ、国内23ヶ国の曹洞宗の寺院の世話をした。また、江戸に寺地を賜り、住職はそこに常在して公務を勤めたと云う。宝暦2年(1752)に火災により堂塔を焼失し、天保12年(1842)に再建した。しかしながら大正2年(1913)の火災により山門・経蔵・熊野社を残して全焼し、現在ある本堂は戦後再建したものである。昭和58年(1983)3月 埼玉県

関三刹の一つ云々ですが、記述には幕府から命ぜられて−とはあるものの、いきなり幕府から「お前やれ」となった訳でもなく、それなりの背景があるのではないかしら?と思っていたら、やはり仕掛け人がいたの。慶長16年(1611)、徳川家康と接見した象山徐芸(ぞうざんじょうん:曹洞宗総本山総持寺の後見職)が関東僧録司(宗派管掌のトップ)として下総国総寧寺(千葉県)、下野国大中寺(栃木県)と共にこの龍穏寺を推挙したの。加えて、当時の三ヶ寺は徳川氏と姻戚関係を持つ者が住持を勤めていたからとも云われるの。象山にしたら案外「してやったり」だったかもね。(^^;

今度は龍穏寺の現・住持の方が記す長めの縁起を・・・

龍穏寺はその環境や建物が大本山永平寺に似ていることから小永平寺と云われている。今から凡そ1,300年前、奈良平安時代に山岳仏教として開かれ、山伏や修験道の行者達により保たれていたが、時代の変遷と共に衰微し、永享2年(1430)に至り、足利六代将軍義教が鎌倉時代以後、関東における敵味方の戦死者の菩提を弔うため、関東管領上杉持朝(初代の川越城主)に命じて義教が日頃帰依している無極禅師(児玉党・越生氏出身)を請して開山第一世として関東曹洞宗第一の道場とした。後、うち続く兵乱のため荒廃し、第三世泰叟禅師に至り、太田道真・道灌父子共に義教の意志を継承し、また、日頃より帰依する泰叟和尚のために再建した。以後、天下の鬼道場として一世を風靡し、多くの修行僧の魂胆を寒からしめた。

かかる故に天正18年(1590)豊臣秀吉より100石の御朱印(寺領山林約300町歩、現在の大字龍ヶ谷の全部を含む)の寄進を受け、慶長17年(1612)徳川家康より曹洞宗法度の制定を命ぜられ、関東三大寺、龍穏寺、大中寺(栃木県)、総寧寺(千葉県)の筆頭として活躍し、寛永13年(1636)江戸幕府の寺社奉行諮問席に任ぜられ、格式10万石を以て遇せられた。而して江戸には別邸(現在の東京南麻布イラン大使館)を与えられ、歴代の住職は幕府将軍によって決定せられ、大本山永平寺(福井県)に自動的に昇住した。現在末寺70余ヶ寺全国に拡がっている。

然るに惜しいかな、明治維新の改革に際して寺領は全て没収され、その後の廃仏毀釈令(神仏分離令)にあい、従来の特権は召し上げられ、その上大正2年(1913)諸堂焼失の悲運に遭い、昔日の面影は全く失うに至った。しかも当寺はこのように城主や将軍家に依り保護せられ、修行寺とし大名寺として発展して来たがために当初から檀家は持たなかった。しかし、近年に至ってささやかながらも徐々に復興の兆しが見えつつある昨今であります。嘗て読売新聞埼玉版の【武蔵野は生きている】武者小路実篤監修に左の如く紹介された。「武蔵野のはてる所、太田道灌公静かにねむる」と。道灌は神奈川県伊勢原市糟屋にて父より先立って文明18年(1486)に謀殺されたが、晩年の父・道真に依り当寺に葬られ、風化した五輪の塔となって父・道真の墓と共に武蔵野の風に吹かれています。法名は香月院殿春苑道灌大居士である。龍穏寺64世住職 小林卓苗 謹書

参道を更に進むと豪壮な楼門が見えて来ますが、三門(山門)になるの。江戸時代中期の宝暦2年(1752)、それまでの堂宇を火災で悉く灰燼に帰してしまったの。後の天保12年(1841)に第56世道海和尚が表門・三門を再建し、新たに経蔵を建立しているのですが、現在ある三門はその時に再建されたものなの。大正2年(1913)には再び火災で堂宇を焼失しているのですが、総門・三門・経堂だけはかろうじて被災を免れたの。銅瓦葺き、入母屋造りの三門は昭和46年(1971)に越生町の有形文化財に指定されているの。両袖には故・桑原翆邦氏の筆になる木札が懸けられているのですが、氏のことは後程改めてご案内しますね。

安禅不必須山水 安禅必ずしも山水を須(もち)いず
滅却心頭火自涼 心頭滅却すれば火も自(おのず)から涼し

山門は禅宗では三門が正しい呼称なの。元々の三門は解脱に至る際に潜らなくてはならない空門・無相門・無作門(無願門)の三つの法門(三解脱門)のことで、仏さまが祀られる本堂が涅槃なら、山門も三解脱門になぞらえて三門としたの。因みに、この楼門の2Fには十六羅漢と十二神将が、1F部分には須弥山の四方を守護する持国天(東)・広目天(西)・増長天(南)・多聞天=毘沙門天(北)の四天王が祀られているの。残念ながら登楼も出来なければ、1Fの四天王も暗闇に埋もれ、御尊顔を拝することが出来ないの。

龍穏寺に伝えられる【長昌山龍穏寺境地因縁記】略して【龍穏寺縁起】には

武藏國高麗郡越生の郷 龍穩の境地は初め天臺の山なり 毘廬山大泉と號す
戸神村大佛堂の地に在り 坊地と名づく 三十三間堂の地に在り
則ち本尊釋迦大佛は貞長(定朝)の作なり 敗壞して久しく風雨に打たる
此の地に池あり 大泉と名づく 水清潔にして岩間より湧出す 鯉が池とも云い また篠葉の池とも云ふ
また 百貫關とて 昔門前に百貫の百姓在り また物見石とも云ふ
此の境谷は廣く 則ち堂澤觀音堂の地に在り 補陀岩と名づく 寺在り 靈山と號す
本尊は拈華の釋迦にして 雲慶(運慶)の作なり 昔臨濟宗の僧あり 此の境を開く
表は天臺の山にて 兩家 一山の勤めをなす 羅漢僧とも云い 唐僧とも云ふ
更に遺跡生所を知らず 昔天臺とするは 今の寺光山(慈光山)と傳ふるものなり
釋迦大佛 車に載せて拽けども動かず 今の本尊之なり
是に依りて 寺光山(慈光山)の釋迦大佛は 新たに建立し 之を安置すと云い傳ふるなり

とあるの。嘗てこの地には毘廬山大泉寺(びるさんだいせんじ)と呼ばれる天台宗の寺があり、大仏堂があったことから坊地と呼ばれ、三十三間堂とも呼ばれていた。本尊の釈迦如来像は長く風雨に晒されて朽ち果ててしまった。境内には堂沢観音堂もあり、臨済宗の僧侶が寺を開いたが元は天台宗寺院であることから両派で寺を掌管した。当寺が嘗て天台宗だったことは慈光寺(都幾川町)に伝えられている。本尊の釈迦如来像を車に載せて曳こうとしたがビクともしなかったが、山門に祀られる本尊がそれである。それが為に慈光寺では新しく釈迦如来像を建立しなければならなかったと云い伝えられている−と云うのが大筋ですが、縁起からは、平安・鎌倉期に前龍穏寺とも呼ぶべき寺院が既に存在し、越生郷は慈光寺を中心とする天台宗の勢力圏内 (^^; に置かれていた様子が見て取れるの。

【龍穏寺縁起】はその奥書に依ると、天文12年(1543)に龍穏寺第7世の節庵良筠和尚が記したものが、虫喰いや破損で読みにくくなったので、貞享2年(1685)に第27世馥州高郁和尚が再録したものとされるの。原本は焼失したものと思われ、現存する【龍穏寺縁起】は、龍穏寺末の長栄寺が蔵していたものを昭和29年(1954)になって書写したものなの。因みに、長栄寺は縁起を記した節庵良筠和尚が大永5年(1525)に毛呂氏の外護を受けて毛呂の地(現:埼玉県入間郡毛呂山町小田谷)に開山した寺院なの。縁起には引き続き、足利義教を開基、無極慧徹和尚を開山とする縁起が記されますが、その後は兵火を受けるなどして捨て置かれ、一時は廃寺状態になったみたいね。それを再興したのが第3世住持となる泰叟妙康(たいそうみょうこう)和尚で、実質的な開山とみなされているの。

その泰叟和尚が太田道真・道灌父子と関わりを持つようになった背景も縁起には記されているのですが、ここでは省略させて下さいね。父子の帰依を受けた泰叟和尚は、後に龍穏寺の再興を願い出て、その援助と維持の後盾を得ているの。その再興ですが、縁起には「小山田大泉を龍穩より持ち來たりて殿堂修補を加うるものなり」ともあるので、朽ちかけていた前述の大泉寺を移して大規模な改修と新築を加え、改めて龍穏寺と号したとする方がいいような気もするわね。

その龍穏寺ですが、それでも現在地に建てられたと云うことでも無さそうなの。
縁起には泰叟和尚に続いて、龍穏寺第5世の雲崗俊徳和尚のことが記されているの。

龍穩五代雲崗和尚 堂澤の境に居し坐禪し給ふ 蒲團石・屏風岩あり
一夕 愛宕山に登りて龍穩の境を望むに 堅山峨々として峰高く 雲霧朦朧として溪深し
龍湫水碧に 深渕に龍住み 勢い煙を籠めて寒し 人倫更に到らず 去來の路絶えて 行を通ずべきなし
この地に伽藍を建立せば 堂澤の境の十倍に勝べし 然りと雖も 人力の及ぶ處に非ず
嶽神の威力に依りてこの境を創開し 以て伽藍を建立せば 盡未來際に衰敗すること無かるべきか
即ち 信心を勵まして山神に祈誓す 五七日を經ざるに 俄に震動し 雷電して岸は崩れ山は裂け
一夜の内に谷埋まりて 渕の跡は平地の如し 龍は飛びて天に昇り 有間山(有馬山)に至り 大地を成す
今に到るまで 天に雨乞いするに 堅山に登りてこれを祭れば
則ち龍 有馬山より雲霧を拽き來りて 雨を降らすと傳うるなり
その時雲崗和尚 此の地に三陽閣を建て これに居住して 堂澤の境を移し 伽藍成就す 則ち山號を長昌と改む
龍穩榮盛して往古に威を増し 天下の徳を受け 僧録司を蒙る

記述には「堂澤の境を移し 伽藍成就す」とあるので、それまでは堂沢の地に建てられていたと云うことよね。となると、その堂沢がどこなのかが気になりますが、龍ヶ谷に道沢という小字名の地があり、そこに比定されているの。地図を見ると小字と雖も結構広いのでピンポイントでの特定は難しいわね。その道沢には嘗て観音霊場の一つとして堂沢観音が祀られ、堂澤は靜穩の境地にして瑞雲山と名づく 龍瑞あり 鳳瑞あり−と記されるように、昨今話題のパワースポットではないけれど、龍穏寺云々以前から修験者を含め、僧籍にある者を惹き付け魅了する特別な霊場が形成されていたみたいね。

聖観音像の傍らに転がっていたのがこの「江戸城(太田道灌築城)外濠の石」で「江戸城外濠に架かる神田橋橋台に使用されたものを、首都高速道開設の際、間組により取り外され、日高町楡木新井巧二氏の好意によって当山に寄贈されたもの。昭和51年(1976)3月 越生町教育委員会」と案内されていましたが、説明が無ければどこにでもある普通の石で終えていたわね。でも、寄贈されたのであれば、教育委員会では無くて寺側で説明板を建てるのが普通じゃないのかしらね。参道右手の木陰にも同じ「外濠の石」が積み上げられていたけど、道灌縁云々とする割りにはゆかりの物証には余り興味が無いようね。(^^; 尤もこの「外濠の石」、龍穏寺に寄贈される前は都電のレールの敷石に使われていたのだとか。あらあら‥‥‥

参道の右手には鐘楼があるの。鐘楼に架かる釣鐘とは別に、何故か柱の根元にはもう一つの梵鐘が置かれていたの。実は外し置かれていた銅鐘こそが埼玉県の文化財に指定されるものだったの。先ずはその案内文から紹介しますね。

龍穏寺銅鐘 県指定文化財「種別・種類」有形文化財 工芸品 昭和48年(1973)3月9日指定
寛文12年(1672)に第25代住職愚門和尚が発願し、鋳工堀山城守清光が鋳造した。この銅鐘の特徴は鐘を懸ける竜頭にある。一般的な和鐘の場合は背中合わせに二頭の龍を置くのに対して、一頭の龍に旗挿と云う筒を配する朝鮮鐘の特徴を備えている。竜頭以外の部分は基本的な和鐘の様式を踏襲している。鐘身には寺の沿革と銅鐘新造の経緯が記されている。細身で形の整った優美な鐘で、銅鐘の時代考証上貴重な作品である。高さ 166.7cm 口径 78.0cm 平成3年(1991)3月30日 埼玉県/越生町教育委員会 龍穏寺

左掲がその朝鮮様式の特徴とされる旗挿(はたさし)を備えた龍頭部分だけど、龍の尾がその旗挿に巻きついているの。今思うと反対側から撮してくれば良かったわね。(^^; 梵鐘にある銘文に依ると、寛文12年(1672)、龍穏寺第25世大了愚門和尚の時に堀親和なる人物の妻・霊台院から新鐘鋳造の為にと金20両が寄進されたの受け、愚門和尚が幾らかを加えて鋳造したものなの。

替わって鐘楼に架けられている梵鐘ですが、書宗院有志一同並びに代表の桑原翆邦氏(故人)の寄進に依り、平成3年(1991)に復元新造されたものなの。銘文には「平成3年10月16日 新鐘復元 昭和63年(1988)5月7日白蟻の被害と突風に煽られ、4本の柱根元より銅鐘と共に倒壊す 銅鐘の損傷甚しく 撞くこと能わず 古鐘は保管し 新鋳復元を発願した 古鐘は宝暦2年(1752)火災 大正2年(1913)火災 昭和18年(1943)戦時供出 昭和63年(1988)倒壊の4回の災難を免れたり 龍穏寺第64世 小林卓苗 謹誌 平成3年(1991)10月16日」とあるの。

再び参道に戻りましたが、お馴染みの太田道灌像が左手に建てられ「太田道灌は当山5世雲崗和尚について大悟徹底して長禄元年(1457)現在の皇居を築く。兵馬の間にあって座禅と学問とを怠らず、歌人として知られ、文武両道の達人である。文明18年(1486)謀殺され、父・道真によって当山に分骨される。ここに公の500年忌に当たり、その偉業を讃えて建立す。昭和60年(1985)10月」と案内されているの。像は川越市在住の彫刻家で、東京芸術大学教授などを務められた故・橋本次郎氏(1919-1997)の作品なの。狩姿は山吹の里の逸話に因むもので、右手にするのは勿論やまぶきの一枝ね。

左端が龍穏寺の本堂ですが、その本堂に続いて庫裏があるの。「この庫裏は明治初期素朴豪壮に作られた民家で、資金不足のため工事中止され放置されていたのを大正初期に当寺に移築完成した。民家が洗練された美的極致に達したのは明治初期と云う。美しい木目の太い欅の大黒柱を立て、天井に一抱え以上の梁が縦横に連なり、二重の差鴨居梁(一尺以上)を用いた民家の重厚な好みがよく出ている。善男善女の労力奉仕がなければ当寺でも工事中止となったであろう、明治初期民家の遺構を残した重要建築物である」と案内されていましたが、資金不足で頓挫したとは云え、当初はそれなりの算段があってのことでしたでしょうし、何を生業とする方だったのかしら?本堂に向かって左手には水子地蔵が祀られる一角がありますが、その前の石段を登ると太田道真・道灌父子のお墓があるの。

〔 太田道灌公墓 〕  永享4年(1432)龍穏寺領三枝庵(父・太田道真の居城)に生まる。幼名・千代丸、後、雲崗舜徳禅師(龍穏五世)について出家、道灌と号す。「瑞巌主人公」の公案を受け大悟徹底す。長禄元年(1457)江戸城(皇居)を築き、川越城・岩槻城・鉢形城を修築し、野戦に長じ、関東の雄将たり。しかるに惜むべし、文明18年(1486)神奈川伊勢原市にて謀殺される。法名・香月院殿春苑道灌大居士、分骨して当山に葬る。埼玉県教育委員会

左の五輪塔が道真で、右側の五輪塔が道灌のものみたいね。伝承では事件後に道真が道灌の首を引き取り、この龍穏寺に埋葬したとされるの。ですが、道灌のお墓はこの龍穏寺の他にもあり、中でも道灌終焉の地とされる上杉館と至近距離にある上粕屋の洞昌院が最有力候補みたいね。でも、その洞昌院はこの龍穏寺末でもあり、その繋がりからすると分骨も充分考えられるわね。ところで五輪塔に挟まれている二基の墓塔は誰のものなのかしら。一基には花が手向けられてもいるの。銘には寛文七丁未(1667)の年号があるのですが。

道真道灌父子のお墓と少し離れてあったのが故・桑原翆邦氏と素雪夫人のお墓なの。最初から知っていた訳ではなくて「山人魚目と素雪の墓」と刻まれていたので気になったの。その方面は完璧に無知なξ^_^ξですので一夜漬けで恐縮ですが、山人魚目と云うのは、東宮御所御進講役として秋篠宮殿下に書を進講したこともあると云う、故・桑原翆邦(本名:清美)氏の雅号だったの。この龍穏寺との関係ですが、昭和45年(1970)、桑原氏が65歳の時に境内に書院を造り、書作の場とすると共に書を志す者への道場にしたの。作品を頒布しながら遊歴したことから「旅の書家」とも呼ばれ、落款には雅号の「山人魚目」を用いたの。氏は平成7年(1995)に享年88歳で亡くなられているのですが、龍穏寺との関係から越生には多くの事績が残されているの。

歴代住持のお墓と隣り合わせにして奇妙な形をした木が残されていたの。チョコレート (^^; で塗り固めたようにも見え、枯死を食い止めようと必死に延命措置を講じた様子が看てとれましたが、そこまでされたこの木は何なの?説明が無いかしらと辺りを探してみたの。見つけたことは見つけたのですが、幹の傍らで案内板もまた文字が消え失せ、朽ち果てるのを待っている状態なの。越生町教育委員会編 越生叢書【越生の文化財】に依ると、この木は樅木で「龍穏寺のモミ及び着生植物 昭和48年4月27日県指定天然記念物 指定時は樹高37m、目通り周囲4.5mの巨木だったが、落雷風害などに依り枯れ落ち、現在の樹高は約18mとなってしまった。着生ランのセッコクが群生し、初夏には薄紫の花を咲かせる」とのことですが、今となっては樅の木どころか、蘭が着生しているようにも見えないの。その姿は見るからに哀れで可哀想なくらい。もう、ここまで来たら伐採しかないでしょう。倒木で被害が周囲に及ばない内に早めに処置した方がいいと思うけど。道真道灌父子の墓前に詣でていたら、いきなり樅の木が倒れて来たりしたら‥‥‥

龍穏寺経蔵 一棟 県指定有形文化財「種類」建造物 昭和58年(1983)3月22日指定
第56代住職道海和尚が天保年間(1830-40)に建立。唐破風向拝付土蔵造り。屋根は方形で銅板葺きである。外壁に道元禅師一代記の彫刻、向拝天井に酒井抱一による龍の絵が描かれている。内部には一切経を納める輪蔵と、輪蔵の創始者と云われる傳大士の像がある。県内にはこれだけの規模と構造を持ち、傳大士の像を備えた輪蔵を持った経蔵は他に類例がなく、本県の建築史上貴重な建造物である。昭和61年(1986)3月31日 埼玉県教育委員会 越生町教育委員会 龍穏寺

〔 経蔵(経堂) 〕 当山56世道海和尚が天保年中(1830-40)に創立。屋根は瓦棒銅板葺き方形で、唐破風をつけ、土蔵造りである。内部は八角形の転輪蔵造りで、鉄眼の黄檗版一切経二千冊七千余巻の経文を納め、中央に傳大士と脇立両童子の三体を、四隅に梵天・帝釈・持国・増長・広目・多聞・密迹・金剛の八代神将を安置す。天井は格天井にして四季の花鳥山水と壁に天女を描き、飛龍は酒井抱一が描けしもの。南北の彫刻は道元禅師が宋国より帰国する時の情景で、関東では成田山、鑁阿寺等にあり、貴重な建造物である。龍穏寺第64世 卓苗代

両者共に、この経蔵は第56世道海和尚が天保年間(1830-40)に建立したもので、天井画の龍は絵師として知られた酒井抱一が描いたものとしているのですが、抱一は文政11年(1828)に没しているので、それだと死後に龍画を描いたことになってしまうわね。思わず日本三大怪談話の「乳房榎」を思い出してしまいましたが、(^^; 既に描かれていたものを天井画として利用したと云うことなのかしら、それとも‥‥‥。内部は非公開ですので、ξ^_^ξも実物を見たわけではないのですが、ちょっと気になる矛盾ね。

9. 龍ヶ谷熊野神社 たつがやくまのじんじゃ

龍穏寺と境内を接して鎮座するのがこの龍ヶ谷熊野神社ですが、嘗ては龍穏寺の境内にあり、道真・道灌父子のお墓の左隣に建てられていたみたいね。創建は紹介した龍穏寺第3世泰叟和尚が寺の鎮守として熊野権現を勧請したことに由来するの。その泰叟和尚ですが、生まれが紀伊国熊野本宮だと云うのですから納得ね。泰叟和尚にしたら、お寺の鎮守と云うよりも、自身の守護神だったのかも知れないわね。(^^; 時を経て明治になると、神仏分離令を受けて現在地に社殿が遷され、併せて村内に点在していた小社を合祀したようね、本殿裏手には境内末社が建ち並ぶの。

余談ですが、越生町教育委員会編【越生の歴史】には「五輪塔も道灌とは関係が無く、本来は熊野社に関係するものだったかも知れぬ」とあるの。断定している訳ではないのですが、興味が湧く記述よね。先程道真墓の隣で花を手向けられていた墓塔のことに触れましたが、彫られている仏像の像容は不動明王に似ているの。熊野と云えば熊野修験、修験と云えば不動明王よね。どこかで繋がってくれると面白いんだけど。勝手に話を創るな!と怒られそうね。(^^;

10. 上大満BS かみだいま

龍穏寺を後にして龍谷川沿いの道を下りましたが、30分程で県道R61に出るの。後はT字路にある上大満BSから越生駅行のバス(¥280)に乗車。今回のお散歩はこれにて終了よ。「越生の散策・越生梅林梅まつり」の 建康寺 の項でも紹介しましたが、道灌の詩友にして無二の親友でもあった万里集九は、江戸を離れ越後に向かう途次、この越生に道真を訪ね、共に龍穏寺に詣でているの。そこでは今は亡き道灌の思い出話に花を咲かせたのでしょうね。最後に、集九が道灌没後二七日に寄せた祭文を紹介して散策の余韻としますね。

龍谷川 公は 其の父自得道眞翁と共に汗馬の勞を積み 國家の幹楨として骨を炊ぐに至る 父存して息沒す 眞に哀鐘するところなり 同じき仲秋十日 伏して二七の忌齋にあう 漆桶萬里勤しみて 香華燈燭不腆の儀を具し 敢えて明らかに亡靈に告ぐ その詞に曰く あゝ哀しい哉  〔 中略 〕 この亡極に比すれば海も淺く岱も輕し 忠を泥土に棄て 節を濁清に混じう 訴ふる所無しと雖も 天鑑之明らかなり 機を見ること速に合せば 何とすれど纓を請える 陀羅尼の雨に 妄想聲を洗い 非去非來せば 湛然として圓成し 孫支は百世 松秀でて柏は萌えん 祭具あつからず 獨燼檠を續ぐ 野菓清酌 默して丹誠を告ぐ あゝ哀しい哉 來たり饗けよ


アップダウンを繰り返した今回の散策は、どちらかと云えば、健脚の方向けのお散歩コースになるの。残念ながら、期待して訪ねたあじさい山公園の紫陽花も、今しばらくは様子見が必要ね。龍穏寺へはあじさい街道から枝分かれしたふるさと歩道を辿りましたが、嘗ては越生と秩父を結ぶ往還道路で、往時には多くの人達が行き交う姿があったのでしょうね。龍穏寺のある龍ヶ谷にしても、奈良平安期に既に山岳霊場がつくられ、修験者や修行僧の姿があったとは意外な印象なの。当時の人達から見たら笑われそうな今回のお散歩ですが、山あいの道には名も知れぬ古人達の足跡が残されていたの。額に汗した分だけ、当時の人々の思いに、少しは寄り添うことが出来たかしら。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥

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〔 参考文献 〕
東京堂出版社刊 神話伝説辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
越生町教育委員会編 越生叢書・おごせの文化財
越生町教育委員会編 越生の歴史 全巻
山吹の会発行 尾崎孝著 道灌紀行






どこにもいけないわ
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