越生で名の知られた観光名所と云えば黒山三滝と越生梅林ではないかしら。中でも越生梅林は水戸の偕楽園、熱海梅園と共に関東三大梅林の一つに数えられているの。であれば、梅の開花を待って訪ねてみなければダメよね−と一年越しのお散歩になってしまいましたが、周辺の見処を含めて紹介してみますね。掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 越生駅(JR八高線・東武越生線) おごせえき
左掲は駅前のロータリーに掲示されていた観光案内図の一部ですが、梅林は意外に近そうに見えるかも知れないけど、いざ歩くとなると一時間は掛かると思うわ。体力に自信があり、時間に余裕のある方はお引き留めはしませんが、そうでなければ素直に路線バスへの乗車をお薦めしますね。越生ではバスに乗車してもバス停から目的地までは更に歩かなくてはならないことが多いのですが、梅林だけは目と鼻の先に停まるので御安心下さいね。因みに、平日は一時間に1,2本の運行ですが、梅まつり開催期間中の土日には、客足に合わせて臨時便が随時運行されるの。¥190
梅林の案内が最初にあるものと期待された方は、ごめんなさいね。その前に少しだけお付き合い下さいね。梅林入口BSで下車したらそのまま進行方向に100m程歩くと御覧の鳥居があるの。それがこれから紹介する梅園神社ですが、越生梅林はこの梅園神社と深〜い繋がりがあるの。いいえ、この梅園神社が無ければ梅林も、越生が梅の産地になることも無かったと云っても過言では無いの。社殿の背後には裏山が迫り、鬱蒼とした木立に覆われていますが、それもそのハズ、梅園神社のスダジイ林として県の天然記念物にも指定されているの。
梅園神社スダジイ林 埼玉県指定天然記念物 入間郡越生町小杉12 昭和49年(1974)5月28日指定
このスダジイ林は梅園神社の社叢標高90m丘陵山頂で144mにある。社叢は高さ6m以上でスダジイが圧倒的に優占し、次いでヒノキの優占度が高い。3-6mではサカキ、ネジキ、ヒサカキが優占する。3m以下ではスダジイ、ヒサカキ、アラガシ、ミツバツツジ、タカノツメが優占している。スダジイ林は暖帯に発達する極相森の最も代表的な林相で、関東地方では伊豆半島、三浦半島、房総半島などに広く分布している。このような性質を持つ森林が梅園神社に残されていたことは嘗てこの附近がスダジイ林によって覆われていたことを示し、学術的にも貴重なものである。昭和51年(1976)1月 埼玉県教育委員会 越生町教育委員会
でも、何故、当地に菅原道真を祀るようになったのか気になりますよね。今では学問の神さまとして知られる天神さまですが、嘗ては平将門や崇徳上皇と共に日本三大怨霊に数えられていたの。その猛威の程は折に触れて紹介済みですのでここでは省略しますが、越生町教育委員会編【越生の歴史】では、東京大学名誉教授・義江彰夫氏の「平安時代から東国武士の間には菅原道真の怨霊への信仰があり、源氏は天神信仰を通じて東国武士を結集していった。八幡神と天神が一緒に祀られることもあった」と云う説を基に、当社は平安期から鎌倉期に掛けて越生氏が勧請したものか−と推考しているの。対となる八幡神社ですが、大字津久根字若宮に鎮座する 津久根八幡神社 がそれに当たるのでは−としているの。余談ですが、 鎌倉鶴岡八幡宮 の祭神が八幡神なら、鬼門とされる荏柄の地に勧請した 荏柄天神社 の祭神もまさしく菅原道真よね。その荏柄天神社に伝えられる天神像も怒り天神と呼ばれ、怒り心頭憤怒の形相なの。その御尊顔を拝した後では怖くて合格祈願なんて出来なくなるわよ、きっと(笑)。
梅園神社のささら獅子舞は例年10/25前後の休日に執り行われる大祭時に奉納されるの。昔と違い、今はお勤めされている方も多いので、平日の開催は難しいわよね。花子役の女の子にしても学校に行かなくてはいけないし、観てくれる人が少ないと踊る方でも張り合いが無いわよね。残念ながら一部始終を観ていたわけではないのですが、梅園神社のささら獅子舞は、朝は法螺貝の合図に始まり、間に休憩はあるものの、夕方まで続けられるのだとか。舞を観ている限りでは所作の一つ一つが何を意味するのかは分からないのですが、物語としては意外と単純みたいよ。
冒頭でも御案内しましたが、2haにも及ぶ園内にはその数1,000本もの梅の木が植樹され、水戸の偕楽園や熱海梅園と共に関東三大梅林に数えられているの。梅まつりの開催期間中であれば、さまざまなイベントが開かれ、ミニSLが園内を巡り、露店やお土産屋さんも数多く出店してまさにお祭り気分。たとえ、梅の花が咲いていなくても(笑)充分楽しめるわよ。梅は越生の青ダイヤ−と云われるだけあって、お土産品はやはり梅干を中心にして梅に因むものが多いわね。さすがに青梅だけは6月以降にならないと入手が出来ないけど。
越生梅林 おごせばいりん 所在地 越生町大字堂山 埼玉県指定名勝
左掲に写る石碑には
古木「魁雪」:越生の梅は南北朝時代の観応元年(1350)に九州太宰府から小杉天満宮を分祠した際、菅原道真に因んで梅を植えたのが起源であると伝えられている。魁雪はその頃の梅(越生野梅)がここまで生き長らえたものと推定される。太田道灌の父、太田道真は退隠後、越生に居館自得軒を構えていた。歌人としても名をなした道真は川越(河越)城で主催した連歌会「川越千句」では−梅さきぬ なほ山里を おもふ哉−と詠んでいる。この会にも同席した当代一流の連歌師・心敬や宗祗も、越生の梅を讃えた句を残している。文明18年(1486)6月、道灌は詩友万里集九と共に自得軒に父を訪ね、詩歌会を開いた。
道灌が謀殺されるのは翌7月のことである。父子最後の対面となったのはこの折に、万里が詠じた漢詩「郭公稀(ほととぎすまれなり)」は、万里の漢詩文集【梅花無尽蔵】に収められている。道真・道灌父子が、或いは中世の雅人たちが、この梅の花を愛で、その実を手に取ったかも知れない。梅の木は樹齢200年にもなると、捻れが始まってくると云う。人の世の栄枯を見つめ、650年を経てなお可憐な花を咲かせ続ける貴重な名木である。平成19年(2007)2月吉日 越生町観光協会
元は西照寺とも呼ばれ、建久4年(1193)に源頼朝の命により、児玉雲太夫が創建したと云われている。ここは慈光寺への参詣路上にあり、後年、慈光寺道と子の権現参詣路の分岐点となった。山門横にある六地蔵は、もと山門前の三差路にあったものである。明治41年(1908)には火災で本堂を焼失し、上谷の常願寺を移築している。本堂左手の大御堂には釈迦如来、阿弥陀仏、四天王像が安置され、町指定文化財の「笈(おい)」も納められている。毎年12月の冬至には翌年の吉凶を占う星祭りが催される。昭和58年(1983)3月 埼玉県
現在は真言宗智山派の寺院ですが、西照寺と号していた頃は天台宗だったようね。通称【法恩寺年譜】※には、法恩寺住持第8世広慶が最勝寺に法脈を分付したことが記されるのですが、その広慶は戦国期の大永〜天文年間に法恩寺の住持を勤めていることから、真言宗に改宗したのもその頃のことかと考えられているの。
※正式には【武州入間郡越生郷松渓山法恩寺年譜】
当山は建久3年(1193)源頼朝公が則使大名であった家来の児玉雲太夫に命じて創建し領地を与え祈願所とした。第一世住職は高僧頼栄和上で佛法興隆に尽くし、その後天文年間に戦禍にあい、堂塔伽藍が灰となった。しかし現存の表門と大御堂は火災を免れて、四天王尊、持国天、増長天、広目天、多聞天が祀られ鎮護国家の道場として栄えたと伝わる。大御堂の名称は当時将軍直創のお堂のことを云ったのである。又、表門の正面見込みの龍の彫刻は左甚五郎の作と云われ、浄麗荘厳を極めたと云われ、後に弘治2年(1556)第16世登観和上が伽藍を再興したが、明治41年(1908)4月21日に又々火災に遭い、本堂・庫裏等焦土と化したが大正12年(1923)中興開山第28世隆全和上が伽藍その他を再興し現在に至っている。本尊は十一面観世音で修羅界(争いのある世の中)を済度(救う)する佛様である。又、弁慶の引き鐘(現存西国三井寺)の元存の寺とも伝承され、昭和51年(1976)6月に当山第29世隆聖並び檀信徒各位の協力により往時を偲び、古来より伝承される地名入り童歌を梵鐘に刻み、鐘楼及び梵鐘を再興し夕べの鐘の音を告げている。
埼玉県比企郡ときがわ町にある慈光寺は古くから知られた古刹で、源頼朝も将軍家祈願所とするなど厚く崇敬したの。最勝寺はその頼朝が慈光寺参詣の際に最後の休息所とするために創建されたとの伝承もあり、最勝寺の紋が源氏と同じ「笹りんどう」であることがそれを物語るとも。今では何の変哲もない普通の道ですが、最勝寺の門前の道は嘗て慈光寺道と呼ばれ、慈光寺へ参詣する際のメイン・ストリートだったの。山越えを始める前に人馬を休ませるなど、状況的にはあり得ないお話しでもなさそうね。
訪ねた時には、山門に幾つか貼り紙がしてあったの。
面白かったり、感心させられたり、考えさせられたり−と色々なの。折角ですので皆さんにも。
梅もぎ体験は6/4-14迄予定 1Kg ¥400 良い梅が安値で買えます。
寺院を維持管理していくにはきれい事ではなくて、やはりお金が必要よね。たとえ幾らかでも。
大飲過食(さけのみくいすぎ)の戒め | |
一、 |
人各々分限に応じて天より飲食を与えられる。是を天禄と云う。 天禄を尊び感謝する者には相応の福分あり。 |
二、 |
天より受けたる飲食は際限あり。之を余計に飲食する時は天に借財を生ず。 人は催促せずとも天は必ずこの借財を取立て給う。 |
三、 |
腹八分の節を忘れて大飲過食するが故に腹中に無用の居候を生ず。 此のものは萬病の根源悲運の淵源なり。 |
【十善戒】
不殺生 不邪淫 不綺語 不両舌 不瞋恚 |
ふせっしょう ふじゃいん ふきご ふりょうぜつ ふしんに |
むやみに生き物を傷つけない 男女の道を乱さない 無意味なおしゃべりをしない 筋の通らないことを云わない 耐え忍んで怒らない |
不偸盗 不妄語 不悪口 不慳貪 不邪見 |
ふじゅうとう ふもうご ふあつく ふけんどん ふじゃけん |
ものを盗まない うそをつかない 乱暴なことばを使わない 欲深いことをしない 間違った考え方をしない |
福禄寿:幸福と長寿の神
福禄寿は最大の幸福の神で福(しあわせ)禄(財貨)寿命(長寿)の三徳を施してくれると伝えられ、家内安全・身上安全・商売繁盛・交通安全の御利益があると云われ、広く民衆に信仰され、短身長頭で髭多く経巻を結びつけた杖をたずさえている福神である。古来よりインド、中国、日本で信仰され、中国では慈悲の本誓より出る寿星(南極星の化身)として広く信仰されてきたが、当山でも開運・厄除・招福の福神として冬至には、密教独特の秘法により幸福に安楽に過ごせるよう星祭りの護摩供の祈願が修行される。
〔 医聖 田代三喜(たしろさんき) 〕 田代三喜は寛正6年(1465)4月8日、現在の越生町大字古池田代に生まれた。祖先は伊豆の田代信綱と云われ、その子孫は代々医術を業とし、父兼綱の代になり武蔵に移った。15歳の時、臨済宗の寺に入って僧となり学問を修め、長享元年(1487)23歳で明国に渡り、李・朱医学など、当時の進んだ医学を修得した。その間12年、その頃既に日本から明国に渡り、名医として知られていた月湖について学んだ。明応7年(1498)多くの医学書を携えて帰国した。初め鎌倉の円覚寺内江春庵に居を定めたが後に足利成氏(古河公方)の招きにより、永正6年(1509)古河に移り成氏の主治医となった。古河にいること数年にして武蔵に帰り、以来、関東一円を往来して医療を行い、多くの庶民を病苦から救って、医聖と仰がれた。享禄4年(1531)25歳の曲直瀬道三は、三喜に会って医学を志し、その門下に入った。三喜は道三を良き後継者として一切を傾けて指導し、死期近い病床でなお口述を続けた。道三は感動し、硯に落ちる涙で墨をすって記録したと云う「涙墨紙」が残っている。本邦後世派医学の開祖であり、医聖と仰がれていたが、天文13年(1544)4月15日に病を得て没した。齢七十九。
最勝寺から山あいに向けて歩いていると、やがて正面に警備会社のビルが建つ二股の分岐路が見えてくるの。人里離れた山中に突如現れ出でたる現代文明とやらで、違和感たっぷりの情景ですが、道の傍らに建てられていたのがこの石仏群。分岐路から道を左手にとれば 麦原あじさい山公園 へと通じているの。But 次の目的地は「上谷の大クス」なので、そのまま右手に続く道を進んで下さいね。石仏群の傍らでは「上谷の大クス」への道標が草叢に転がり落ちたまま、静かに土に還る日を待つのみ。
右端の馬頭観音像には安永3年(1774)の銘と共に「右ハちかうみち」と刻まれているのですが、この場所は嘗ての慈光寺道の分岐点でもあったの。当時は今のように舗装されていた訳でもなく、道幅も人がようやくすれ違える程度の細い道だったと思うの。その道を遠い昔に源頼朝が慈光寺に詣でるために、郎党を引き連れながら、馬の背に揺られていたと思うと感慨深いものがあるわね。石仏群の中にはお地蔵さまも並び立ちますが、源頼朝に因む逸話が残されているの。
むか〜し昔のお話しじゃけんども、鎌倉の将軍さまの頼朝公は毎々慈光寺さんへお参りしておったのじゃが、その時も谷が開けたこの辻で、いつものように休んでおったそうじゃ。馬も充分休ませることが出来たんで、いよいよ出立となったんじゃが、しばらくして、いつも守り仏として持ち歩いておった行基菩薩さまが作られた地蔵尊を、この辻に置き忘れてきたことに気付かれたそうじゃ。じゃが、それも何ぞ理由があっての地蔵尊の思し召しかも知れん−と、そのままにしておかれたと云うことじゃ。それからと云うもの、地蔵尊はこの辻に立ち、慈光寺へ詣でる者の道案内となり、村の者達からは疫病除けに霊験灼かとして、お参りする者が絶えなかったと云うことじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。
左端がその地蔵尊だと思うのですが、確かに一番小さい石仏だけど、持ち運ぶにしては重すぎると思うの、これは。逸話は後世に付与されたものでしょうが、さもありなん−と思わせるような雰囲気にはあるわね。ξ^_^ξも旅の安全を祈願して。合掌
次の目的地「大谷の大クス」は、ちょっと分かりにくい場所にあるの。
画像にコメントを付けて道筋の景観を何枚かアップしておきましたので参考にして下さいね。
この大楠は大正11年(1922)に埼玉県の天然記念物に指定され、平成11年(1999)には「緑の募金緑化事業」の助成を受けて樹勢回復治療が行われたことが案内されていましたが、併せて印象に残ることばが記されていましたので紹介しておきますね。
【新編武蔵風土記稿】には「建康寺 越生山と號す これも龍穩寺の末山にて則龍穩寺第三世僧泰叟開闢す 是は其頃太田道眞入道が開基に因て開きし所なりと云 又道眞の子道灌が開基なりとも云 開山泰叟は明應六年十一月四日寂す よりて思ふに道灌と云は恐らくは誤にて 道灌滅亡の後 父道眞の建立せしならん 本尊地藏なり」とあり、道真・道灌父子に縁ある寺院なので、多少の期待をして訪ねてみたのですが、無住に加えて建物も民家のそれと変わらぬ佇まいに、思わず間違えたかしら?と思った位なの。
太田道灌の父道真は、龍ヶ谷(たつがや)の三枝庵に砦を築き、鉢形城主長尾景春に対抗したが、道灌が勢力を回復するとそこを出て、この地に隠居所自得軒を築き隠棲した。文明18年(1486)の夏、相國寺の詩僧万里は道灌と共に、川越城から道真を訪ねた。万里はその一夜の様子を著作【梅花無尽蔵】の中で次のような絶句で残している。
稀郭公 縦有千声尚合稀 況今一度隔枝飛 誰知残夏似初夏 細雨山中聴未帰 |
ほととぎす稀なり 縦へ千声ありと云へども尚合ふは稀なり 況や今一度枝を隔てて飛ぶをや 誰か知らん残夏の初夏に似たるを 細雨山中に聴きて未だ帰らず |
翌朝、万里は道灌父子と別れ、故郷岐阜へ去った。その年の秋、道灌は相模国糟谷で暗殺され、これが道灌父子最後の対面になった。道灌の死を悼んだ父道真が道灌の菩提を弔うために、この地に建康寺を建立したもので、龍穏寺三世泰叟和尚が開山した。そして、今でもこの辺には、越辺川に架かる道灌橋を始め、陣屋、馬場跡、砦などの地名が残されている。昭和58年(1983)3月 埼玉県
But これはちょっと違うみたいよ。
万里が岐阜に帰るまでにはもうワン・クッションあるの。
寛正2年(1461)、道灌の父・道真は家督を道灌に譲るとこの越生に拠点を移したの。その道真が居を構えたとされるのがこの建康寺が建つ辺りになるの。But 隠居といっても道真のそれは今のような定年退職とはちょっと違ってたみたいよ。この建康寺の前の道は、嘗ては秩父と越生を結ぶ往還道で、交通の要衝でもあったの。隠棲したとは云え、往来を監視する役割も担っていたのでは−とする見方があるの。それを物語るかのように、周りには陣屋や馬場などの小字名が残され、現に文明12年(1480)に長尾景春が越生を急襲しているのですが、道真はこれを撃退しているの。
この小杉に居を構えたのは軍事目的の側面があったのかも知れませんが、それはそれとして、道真の許へは当時名の知れた文化人達が訪ね来ているの。万里集九もその中の一人なの。説明には詩僧とあるように、元々は臨済宗の僧侶なの。京都相国寺雲頂院に入るのですが、応仁の乱でその相国寺が焼失すると近畿を転々とした後、文明12年(1480)に美濃国鵜沼(現:岐阜県各務原市)に梅花無尽蔵と云う名の庵室を設け、五山文学に傾注していくの。その評判を耳にした道灌は万里に関東への下向を依頼するの。それに応えて万里は還俗すると文明17年(1485)の9月に美濃を出立するのですが、新幹線でちょっと−と云う訳にはいかない当時のことですから、互いに引き合うものがあったと云うことよね。万里が江戸に着くと道灌はその万里を歓待し庵室を与えているの。万里はその庵室にも梅花無尽蔵と名付け、翌年には道灌と共に道真の許へ訪ね来て歌会を開いているのですが、その時に詠まれた詩が前掲の「郭公稀」になるの。
五山 |
中国に真似て定められた禅宗の五大寺のこと。 京都五山=天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺 鎌倉五山=建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺 |
五山文学 |
鎌倉室町期に鎌倉&京都五山の禅僧の間で行われた漢文学のこと。 後の江戸時代に漢学が勃興する基礎となるの。 |
その歌会から僅か40日足らずして道灌は主君の上杉定正に討たれてしまうの。そこには文武両道に秀で、戦功著しい道灌に対する嫉妬と猜疑心が定正の胸中にあったとする向きもあるみたいね。万里も薄々それを感じていたようで、道灌の死に寄せた慰霊の詞には死を悼む悲しみのことばと共に、機をみるに俊敏であったのに何故もっとはやく隠退してくれなかったのであろうか−とも記しているの。道灌と万里は決して主従関係にあった訳ではないのですが、まさに君臣水魚の交わり状態にあったみたいね。その万里も道灌亡き今となっては江戸に留まる理由も見いだせなくなったのか、三回忌を済ませると長享2年(1488)江戸を立ち、越後へと向かうの。その途次にこの越生に立ち寄り道真の自得軒を訪ね、共に龍穏寺へ詣でているの。万里も既に還暦を迎え、再びまみえることは或いは出来ぬものと考えていたのかも知れないわね。道真もまた然りで、態度とは裏腹に、老いたる者が生き残り、若き者が先立ってしまった寂しさが胸に去来していたのではないかしら。互いの悲しさ、侘びしさも相まって二人は道灌の位牌を前にして今は亡き道灌の思い出話に花を咲かせたのでしょうね、きっと。
越生古寺卸鞍時 斜照吹鴉欲宿枝 忽入上方参薬石 愧非忘箸老禅師 |
越生の古寺に鞍を卸す時 照斜めにして鴉吹き宿枝を欲す 忽ち上方に入り薬石を参じらる 忘箸の老禅師に非ざるを愧る |
上の漢詩は万里がその時に詠んだものなの。道真の身を案じていた万里でしたが、気丈に立ち振る舞う道真の姿に一安心。ですが、道真は道真で、万里に悟られまいと意識していたのかも知れないわね。それはおそらく万里にも伝わっていたと思うの。万里の詩からは老成した二人の、ことばを交わさずとも分かり合える心の通い合いが見て取れるような気がするの。万里はその後道灌の子・資康を菅谷の陣中に訪ねるとしばらく滞在し、やがて越後へと向かうの。But 老いた身には越後の寒さは堪えたと見えて、僅か数ヶ月して美濃の旧棲に戻っているの。道灌に招かれてより都合三年間の関東下向でしたが、相まみえることが出来たのは僅か一年にも満たない期間なの。道灌と万里の二人が発するオーラが束の間引き合い交差し、万里にすれば、道灌の死は正に「巨星墜つ」だったの。
その道真ですが、明応元年(1492)2/2に82歳で没し、その亡骸は龍穏寺に葬られているの。
龍穏寺については越生散策・ あじさい山公園 で御案内していますので、御笑覧下さいね。CMでした。
ところで、肝心の道灌橋の名の由来ですが、余り深い意味はなさそうね。本来なら道真の居館前の橋なので人名を冠するのであれば道真橋とすべきものですが、道灌の名声が高かったので、すり替えられたと云うのが実情みたい。道真退隠之地にしても【風土記稿】は太田道灌邸跡と記す一方で、「されば道灌にはあらで 道真の邸跡なるにや」と反証を加えているの。裏を返せば、当時は道真の事跡も道灌のものとして定着していた証ね。譬え嘘でも信ずる者には事実。ちょっと違ったわね。
今回の散策の最終目的地がこの円通寺。越生七福神めぐりでは寿老人を祀るの。寿老人は元々は中国から伝えられた道教の神さまで、南極老人星の化身と云われ、不老長寿を司る神さまね。宋の時代に実在した人物(老子の化身とも)で、天に昇り、寿老人になったとも云われているの。寿老人と一緒に鹿の姿がありますが、普通の鹿だと思ったら大間違いよ。何と3,000年もの長寿を保つと云う玄鹿で、その肉を食すれば同じく3,000年の長寿が得られると云われているの。
11. 讃岐うどん・花麦 さぬきうどん・はなむぎ
玄鹿の肉を食することは出来ませんが、円通寺の右手に続く坂道を辿るとξ^_^ξお薦めの「さぬきうどん・花麦」さんがあるの。周りはとてもうどん屋さんがあるような雰囲気には無いので、最初に訪ねた時には道を間違えたかしら−と思った程よ。お店は隠れ家的な存在に加えて、うどん屋さんなのにウッドデッキのオープン・テラスがあるの。他にお客さんがいらっしゃらないのを良いことに、しばしご主人とお話しをする機会がありましたが、聞けば趣味が高じてお店を開いたのだとか。越生には他から移り住んで来られた方が意外に多いことも教えて頂きましたが、中には隠れた文化人もいらっしゃるのだとか。越生には趣味人や文化人を惹き付ける何かがあるのでしょうね。紹介するに当たり、HPでもあれば−と思ったのですが、残念ながら開設されていないようなので、グルメ・サイトに幾つか紹介記事が載せられていますので、そちらを御参照の上でお出掛け下さいね。
But お昼時などの混雑時は出来るだけ避け、時間の余裕を持ってお出掛け下さいね。オーダーを受けてから調理するのでどうしても時間が掛かるのですが、待ちきれずに文句を云うお客さんが多くて、一所懸命やっているのですが、限られた人数でこなしているので文句を云われるのが一番辛い−とも仰っていました。折角ウッドデッキのオープン・テラスがあるのですから、テラス席で景色を眺めながら友達や連れ合いの方とお話しをしながら待つ位の余裕が欲しいところね。お腹を満たした後の珈琲もお薦めよ。
12. 越生駅 おごせえき
梅林に梅の香が漂い始め、梅まつりが開催される頃になると多くの方が訪れ、普段は静かな越生町も俄に色めき立つの。迎える地元の方々の期待があってのお話しなので、それはそれで構わないのですが、それを機に他にも視線を向けてみて欲しいの。確かに、皆さんの目を惹き付けるような特別なものは何も無いのですが、越生は早くから開けた土地故に、歴史上に名を残した人達に縁ある事跡も多くあるの。その背景に思いを馳せるとき、そこには当時を生きた人々の喜びや悲しみも見えてくるの。偉人達の仲間入りは望むべくもありませんが、その喜怒哀楽に寄り添うことで自分もまた少しだけ豊かになれた気がするの。そんな旅を、たまにはしてみませんか?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
〔 参考文献 〕
東京堂出版社刊 神話伝説辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
越生町教育委員会編 越生叢書・おごせの文化財
越生町教育委員会編 越生の歴史 全巻
山吹の会発行 尾崎孝著 道灌紀行
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