≡☆ 武蔵の小京都・小川町の史蹟めぐり ☆≡
2016/07/10

小川町には手漉きで知られる小川和紙や建具・絹織物などの伝統産業が今も息づいているの。町なかに点在する古社寺を訪ねてみれば、嘗ての隆盛を偲ばせる事蹟が数多く残されていたの。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

八宮神社〜大聖寺〜西光寺〜伝統工芸館〜穴八幡古墳〜大塚八幡神社〜大梅寺〜仙覚律師遺跡

1. ( 東武東上線・JR八高線 )小川町駅 おがわまちえき 9:29着発

岡本自然農園に咲くヘメロカリスを見に出掛けた際に、小川町は「武蔵の小京都」とも呼ばれ、歴史の趣きが感じられる建物が今でも残されていたりするのを見掛けて興味を覚えていたの。帰宅後に改めて調べてみると、表舞台には現れずとも、歴史の片隅でひそやかに、それでいて確かな証が、街中の至るところに残されていることを知ったの。But その一部始終を見て歩くには広すぎて躊躇いがあったのですが、そんなときに知ったのがレンタサイクルだったの。完歩する自信は無くても、自転車なら何とかなりそうね−と、出掛けてみることにしたの。と云うことで、今回は史蹟めぐりとしてはいますが、お散歩ではありませんので、予め御了承下さいね。

駅前のロータリーから続く花水木通りの両側には商店街が軒を連ねますが、歩道には【萬葉集】の歌を記した案内板が立てられていたの。それが万葉モニュメントで、小川町は萬葉集研究の礎となる【萬葉集註釈】を著した学僧・仙覚所縁の地でもあることから町おこしの取り組みの一つとして設置されているようね。後程、仙覚律師遺跡に建つ顕彰碑も紹介しますが、駅から顕彰碑までの道筋を中心にして70本ほどの万葉モニュメントが建てられているの。

小川町で【萬葉集註釈】を完成させた仙覚律師が日本最古の歌集に大きな光を当ててくれました。この度私たちは萬葉集20巻、約4,500首の中から、詠われている花や風土に因んだ歌、70首を選んでモニュメントとしました。萬葉集は1,300年前の日本の万葉人の声と言葉を集めた、世界に誇れる一大詩集です。幾世代か前の、私たちの祖先の声であり、叫びです。歌の背景にある歴史を想い、時代を遡って鑑賞して下さい。それは、同じ遺伝子を持つ私たちの魂を揺さぶり、心に響く大きなこだまとなって現代に蘇ってくるはずです。萬葉集はこのように、仙覚律師の偉業によって日の目を見た世界的にも珍しい、貴重な文化遺産です。そして、我が郷土の宝です。大切に受け継ぎ、日本全国に、否、世界中に向けて顕彰をしたいものです。アメリカの偉大な日本文学者ドナルド・キーン氏が示唆するように、細かいことを云々することなく、萬葉集の底に脈々と流れる大らかな心を、素朴な声を、そして、文芸を大切にしたいのです。平成17年(2005)12月吉日 小川町活性化プロジェクト

ここでは「楽市・おがわ」に向かう途中で見掛けた7首を紹介しますが、最初の歌は教科書にも載るなど、お馴染みのものよね。二首目以降は歌の紹介のみですが、実際のモニュメントには勿論、大意と解説が付され、小川町の自然や風物詩などが関連付けられて案内されていますので、現地にて御確認下さいね。(^^;

月 熟田津( にきたつ )に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 〔 額田王 〕
大意:この熟田津で、船出をしようと月の出を待っていると潮も満ちてきた。
さあ、漕ぎ出すのは今です。
解説:百済の救済のために、斉明女帝は筑紫(九州)へ向かいます。
随行した作者のこの歌は、途中の四国、松山で詠まれました。
仙元山と月:仙元山から静かに登る名月が映し出す山並みと、町の美しさはまるで海で見る月のように心が和みます。

・あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 〔 額田王 〕
あかねさう むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる
・紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも 〔 大海人皇子 〕
むらさきの にほへるいもを にくあらば ひとづまゆえに われこひめやも
・春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山 〔 持統天皇 〕
はるすぎて なつきたるらし しろたへの ころもほしたり あめのかぐやま
・東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ 〔 柿本人麻呂 〕
ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ
・采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く 〔 志貴皇子 〕
うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとほみ いたづらにふく
・川の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は 〔 春日蔵首 〕
かわのへの つらつらつばき つらつらに みれどもあかず こせのはるのは

2. 楽市・おがわ らくいちおがわ 9:33着 9:35発

今回の史蹟めぐりを強力に後押ししてくれたのが、小川町観光案内所「楽市おがわ」で貸し出しているレンタサイクルなの。案内所は駅から200m足らずの至近距離にあるのでアクセスも容易で、無料の貸ロッカーが用意されているので、重たい荷物を持っていても平気よ。料金は、営業時間内の返却が前提ですが、利用時間無制限の ¥500 と云う低料金なの。尚、借りる場合には身分証明書の提示が必要ですので忘れずに携行して下さいね。重たい手荷物はロッカーに預けて、身軽になったところで、いざ出発よ。お借りした自転車だけど、電動アシスト付きでは無いけれど、普段ξ^_^ξが乗っているママチャリに比べたら遙かに軽快だったりするの。(^^; これはお薦めよ。

レンタサイクルをはじめ、小川町観光案内所「楽市おがわ」の詳しいことが知りたい方は、和紙のふるさと・小川町 のTOP頁から、観光・イベント 》 観光・特産 》 観光・主な行事 》 観光案内所「楽市おがわ」へと、リンクを辿ってみて下さいね。But リンク設定に変更があった場合はごめんなさいね。

3. 八宮神社 やみやじんじゃ 9:51着 10:18発

〔 八宮神社 〕  旧小川村の総鎮守で、天忍日命ほか7柱を祭神としていることからこの名前がある。創建は不明だが、【新編武蔵風土記稿】に「元和3年(1617)再建の棟札あり」とあることから、それ以前と思われる。嘗ては小川赤十字病院のある日向山辺りにあったが、享保2年(1717)にこの地に移転したと伝えられている。現在の本殿は、切妻銅葺屋根の重厚な作りで、熊谷市妻沼聖天院の棟梁の系譜を引く林兵庫正尊を棟梁として、天保4年(1833)4月に再建された。本殿三面と破風には龍・唐獅子などを配した中国風俗の彫刻が施され、作者は上州花輪(群馬県)の石原常八である。現在、本殿は町の文化財に指定されている。また、境内には青麻大神社や諏訪神社などの末社がある。小川町

小川町駅入口の信号からR254を西にしばらく走ると「八宮神社入口」のバス停が見えて来るの。傍らには「 ⇐ 埼玉県指定文化財 八宮神社社殿・青麻三光宮本殿」の案内板も立てられているので直ぐに分かると思うわ。その八宮神社へはバス停の直ぐ手前を左折して脇道に入って下さいね。ちょっと走ると、道奥に鳥居が建つのが見えてくるハズよ。その鳥居をくぐり抜けた右手には御覧の芭蕉句碑が建つの。

〔 芭蕉の句碑 〕  八宮神社境内、往時、椎の大木あり
先堂能む椎の木も安里夏木立 者世越
さきたのむ しいのきもあり なつこだち はせを
出典:「猿蓑」  年代:元禄3年(1690)  年齢:47歳  碑陰:丁未之仲夏立之 弘化四年(1847)五月
大意:奥の細道などの長旅で辛苦をなめた末に、しばしの安住を求めて、この幻住庵に入ってみると、傍らの夏木立の中に一際高い椎の木もあり、当分身を寄せるに足り、真に頼もしく、先ずはほっとする心持ちである。平成3年(1991)3月 小川町教育委員会

〔 八宮神社社殿 〕  埼玉県指定有形文化財・建造物  平成24年(2012)3月16日指定
八宮神社社殿は、本殿と拝殿を幣殿で繋いだ複合社殿です。本殿は棟札に依ると天保4年(1833)に建てられました。大棟梁は林兵庫正尊、彫物棟梁は石原常八主信で、妻沼歓喜院聖天堂を手掛けた大工や彫物師の系譜を引いています。埼玉県内に特徴的な精巧な彫刻をもつ寺社建築の中でも、年代を特定できる好例として貴重な建造物です。小川町教育委員会・八宮神社

この八宮神社で特筆すべきものが社殿に施された精巧な彫刻なの。熊谷市妻沼にある聖天院に施された華麗にして精巧な彫刻を御覧になったことがおありの方なら、その類似性に気付かれるかと思いますが、それもそのハズ、説明にもあるように、妻沼聖天堂を手掛けた大工や彫物師の系譜を引く人達の手によるものなの。妻沼聖天堂は平成15年(2003)からの足かけ8年にも及ぶ大規模な修復工事を終えて、250年前の極彩色が蘇り、平成24年(2012)には建造物としては埼玉県下初の国宝にも指定されましたが、八宮神社の彫刻にも華麗な色彩装飾が施されていたら、きっと国宝候補に挙げられていたかも知れないわね。それほどまでに立派な彫刻よ。それにしても、これほどの彫刻を施した社殿を建立し得た当時の小川町の人々の財力に改めて感心させられるわね。やはり、紙漉きをはじめとした地場産業の隆盛が背景にあったのかしらね。

妻沼聖天院のことが気になる方は 妻沼のお散歩 を御笑覧下さいね。
CM でした。(^^;

この八宮神社の祭神ですが、名称からお分かりのように八柱の神さまが祀られているの。But 五男三女神とされてはいるのですが、具体的な神名となると諸説あり、はっきりしないの。面白いのは、神社なのに、内陣には愛染明王像が安置され、貞享元年(1684)銘の棟札の表側には「本地金剛界大日如来」、裏側には「奉灌頂愛染明王天長地久国土安全攸(脩)」と記されているのだとか。愛染明王は大日如来の変化身とも云われているので、愛染明王からみると大日如来が本地仏となるわけよね。これは一般論だけど、大日如来と云えば、その垂迹神は天照大神(あまてらすおおみかみ)よね。

内陣には今でも愛染明王像が安置されていると云う繋がりから推すと、八宮神社の主祭神は天照大神と云うことで良さそうな気がするんだけど、ダメなのかしらね。序でながらにもう一つ。後程、下里地区にある八宮神社も紹介しますが、八宮神社は小川町には全部で4社、お隣の嵐山町にも4社、少し離れて滑川町に一社鎮座しているの。【埼玉の神社】に依ると、その立地は比企郡内に限定され、尚且つ鎌倉街道上道に沿う形で集中的に分布し、八宮神社の分布エリアの東側には淡洲神社、南側には黒石神社が集中的に分布していて、祭祀圏の関係について特異な地域となっているのだそうよ。

社殿 これらの神社の分布の持つ意味は未だ解明されてはいない−とのことですが、異なる文化圏が微妙な距離を保ちながら併存していたのでしょうね。元は統治する側の氏神さま的な存在だったものが、後に村などの共同体の信仰対象として発展していったものかも知れないわね。But ムセキニン・モードですので、呉々も鵜呑みにしないで下さいね。だったら、書くな−だったかしら。(^^; 八宮神社本社の御案内を終えたところで、引き続き、敷地内に祀られている境内末社を紹介していきますが、その前に、本殿の外観を未掲載画像を含めてスライドに纏めてみましたので、気が向いた方は御覧になってみて下さいね。心動かされた方(笑)は、左掲の画像をクリックしてみて下さいね。

諏訪神社 御嶽神社 大国社

〔 青麻三光宮(あおそさんこうぐう)本殿 〕
埼玉県指定有形文化財・建造物  平成24年(2012)3月16日指定
八宮神社境内に末社として建つ青麻三光宮本殿は、棟札に依ると天保13年(1842)に八宮神社本殿と同じく林兵庫正尊を棟梁として建てられました。八宮神社に比べ規模は小さいですが、本殿全体に施された彫刻は見劣りしません。小川町教育委員会・八宮神社

青麻三光宮なんてξ^_^ξは初めて耳にする社名ですが、祭神は少毘古那命(すくなびこなのみこと)で、足の病に霊験灼かな神さまとして祀られているみたいね。嘗ては、痛みが癒えたら草鞋を奉納してその霊験に感謝する習わしがあったそうよ。勿論、神話の世界でのお話ですが、少毘古那命は大国主命と共に国造りをする一方で、病気治療や酒造りの方法も広めているの。今でも「酒は百薬の長」のことばが残されているように、嘗てはお酒の持つ殺菌力や薬効が重要視されていたの。因みに、温泉療法を最初に用いたのもこの少毘古那命だとされているの。そんな少毘古那命の活躍から、足の病に霊験灼かな神さまとして祀られるようになったのではないかしら。残念ながら「足」と云う特定の部位が対象になった背景が不詳なら、青麻三光宮と呼ばれるようになった由来も分からず終いですが。

境内の最奥部にある神苑からは、この八宮神社の旧社地とされる日向山(愛染山とも)に建つ日赤病院の建物を望み見ることが出来るの。八宮神社が現在地に遷座したのは享保2年(1717)のことと伝えられているのですが、その理由は定かでは無いの。【埼玉の神社】には境内の拡張が目的かと思われる−と記されてはいるのですが、日赤病院が建てられる位なのだから、広さとしては充分で、寧ろ他に宗教的な理由があったのではないかしらね。確かに、享保年間と云えば世の中は商人達を中心にして経済的に潤っていた時期ではあるみたいなので、「この際だから山ん中じゃなくて町ん中へ遷座してもらって、いっそのこと社殿も新しくして立派なもんにすんべえ」となったのかも知れないけど。その旧社地ですが、現在は山林で、往時の面影を偲ばせるものは何も残されてはいないのだとか。名称と云い、遷座の理由と云い、何かと不明な点が多い八宮神社ですが、それだけ歴史を重ねてきた証しでもあるわね。


八宮神社の見学を終えて次の目的地・大聖寺へと向かいますが、ここで、ちょっとだけ道案内をしておきますね。R254を東に向かって走ると、八宮神社からだと四つ目の信号を過ぎたところで右手に折れる道があるの。電柱脇には「国指定重要文化財 六面幢及び板碑 石造法華経供養塔 通称・下里観音 石青山大聖寺」と書かれた案内板があるので直ぐに分かると思うわ。云い忘れてしまいましたが、ここまでの道筋の途中には埼玉伝統工芸会館があるの。後程、西光寺の見学後に改めて訪ねますので、一先ずパスしておいて下さいね。そうそう、もう一つ。R254を走る車の交通量は左程多くはないのですが、それでも幹線道路ですので、車の往来には充分注意して走行して下さいね。勿論、交通ルールはちゃんと守らなけばダメよ。ξ^_^ξからのお願いよ。


4. 大聖寺 だいしょうじ 10:35着 11:08発

大聖寺は、天台宗に属し、暦応3年(1340)にこの地域の土豪と思われる貞義が希融法印を招請して開創したと伝えられ、本尊は如意輪観音である。境内にある法華院には、国指定重要文化財の石造法華供養塔(六角石塔婆)が保存されている。6枚の緑泥片岩を組み合わせたもので、塔の高さは1.36mあり、康永3年(1344)の造立と刻まれている。大聖寺は下里観音、或いは、子育て観音と云う名で一般に親しまれており、4月20日、10月20日の縁日には沢山の参詣者が訪れる。また、江戸時代末期頃から戦前までは、数百組の観音講(女人講)があり、賑わいをみせたそうである。本堂奥の高台にある観音堂は江戸末期の建物で、天井の絵は小川町中爪の細井竹翁のものと伝えられ、当時のこの付近の文化を偲ばせるものである。昭和59年(1984)3月 埼玉県・小川町

石幢 〔 石造法華経供養塔・板碑 〕  この供養塔は、元本堂裏の斜面中腹の僅かな平坦地にありましたが、風化が進んできたので、昭和54年(1979)に保存庫(法華院)を建設して移設しました。供養塔は、台座上に長方形の6枚の緑泥片岩(下里石)を六角筒形に組み立て、その上に六角と八角形の大小二枚の笠石を載せています。本来は笠石の上に宝珠が載せられていたと考えられますが、現在は欠損しています。六角の各面には、蓮台上にキリーク(阿弥陀)の種子と、開山希融をはじめ、51名の名前が刻まれています。正面には「開山希融 平(源)貞義 祐仙 奉読誦法華経一千部供養」とあり、その他の面には「康永三年甲申(1344)三月十七日 一結之諸衆 敬白」の銘文が読み取れます。昭和54年(1979)に追加指定された板碑に依ると、この六角塔婆の供養塔は、鎌倉幕府滅亡に際し亡くなった主君・北陸使君禅儀の十三回忌に当たり、大聖寺の開山・希融や、開基の平(源)貞義らが法華経一千部を読誦し供養した際に建てたと考えられます。銘文中の「平貞義」の平については源を改刻した可能性が高いようです。平成3年(1991)3月 埼玉県&小川町教育委員会・大聖寺

残念ながらξ^_^ξは未体験で終えていますが、六面幢を御覧になりたい場合には
下記の料金と注意が必要みたいですので、お気をつけ下さいね。

重文六面幢拝観志納金:大人 ¥200 中学生以下 ¥100 ※但し、団体15名以上は¥100
拝観の場合は、予約をしておかないと、拝観出来ないこともあります。大聖寺・山主

宝物庫の右手には石段が続いていましたので、何があるのかしら−と登ってみたの。
途中、本堂の屋根越しに見える景観がとても素敵で、お薦めよ。

石段の所々には諸仏が祀られていて十三仏めぐりの霊場になっていたの。
その石段を登りきったところには観音堂が建てられているの。

この観音堂は江戸時代の中期から末期にかけて三代の住職が50年もの歳月を費やして再建されたものだそうですが、堂内には定朝作と伝えられる如意輪観音像が祀られ、子育ての観音さまとして信仰をあつめているのだとか。その如意輪観音像ですが、面白い逸話が残されているの。祀られている観音像は元々は京都にあったものですが、秩父の札所に移すことになり、その途次にこの下里に立ち寄ったところ、観音像を載せた車が急に動かなくなってしまい、これはきっと観音さまがこの地に留まり、人々の苦しみを取り除き、その願いをかなえようとの思し召しに違いない−と、この下里にお堂を建てて観音像をお祀りするようになったと伝えられているの。

加えて、こちらの如意輪観音像、京都にあった頃は、平安後期に活躍した武将・源頼政(1104-80)の奥方の尊崇が厚かったとも伝えられているの。如意輪観音は、どんな願いもかなえて下さると云う観音さまですが、とりわけ安産・除難・長寿に効験あり−と云うことから、女性からの信仰をあつめたの。この下里観音では、最盛期には比企郡内のみならず、秩父郡や大里郡にかけて1,000社余りの講社があったと云うのですから、その隆盛振りが窺えるお話よね。その女人講も時代の流れの中で数を減らし、それでも、比企郡内を中心に100社ほどが存続していて、4月と10月に行われる大祭時には多くの参詣客で賑わいをみせるそうよ。因みに、胸元で手に載せているのが如意宝珠で、財宝をもたらし、願いをかなえてくれる事物になるの。左手の人差し指の先には、本来であれば、人々の煩悩を打ち砕くという輪宝があるハズなのですが、無くなってしまったみたいね。その如意宝珠と輪宝が、如意輪観音の名称の由来となっているの。

観音堂左手の片隅には芭蕉句碑が立てられていたの。
But 雨水受けかしら、背後にドラム缶が置かれていたりして、疎外感は拭えないわね。(^^;

〔 芭蕉の句碑 〕  大聖寺観音堂境内  小川町大字下里1857番地
観音能 甍見屋りつ 花の雲 芭蕉
かんのんの いらかみやりつ はなのくも
出典:【末若葉】  年代:貞享3年(1686)  年齢:43歳  碑陰:明治29年(1896)10月
発起  当所  俳諧連中  観音世話人  寄附  故・田中稲造  男・田中郡次郎  田槐洲  書
大意:深川の芭蕉庵から浅草寺方面に目をやると遠近一面、雲の如く桜が咲き連なり、その中に観音の大屋根が見え、春たけなわの眺めである。平成3年(1991)3月 小川町教育委員会

大聖寺の御案内の最後に、境内の景観を未掲載画像を含めてスライドに纏めてみましたので、興味のある方は御笑覧下さいね。御覧になりたい方は こちら から。尚、再生の可否は御利用の環境に依存しますので御了承下さいね。

5. 下里・八宮神社 しもさと・やみやじんじゃ 11:17着 11:43発

地図上にその名を見つけて気になり、足を向けてみたのが、この下里・八宮神社なの。最初に、精緻な彫刻が施された小川・八宮神社を訪ねていたこともあり、当然、この下里・八宮神社は小川・八宮神社から分祀されたものとばかり思っていたの。ところが、帰宅後に改めて調べてみると、実は、この下里・八宮神社こそが本社だったの。【神社明細帳】には「往古は村の東方志賀村々境に鎮座ありて近郷七ヶ村の総鎮守たりしか年月事由不詳現場の所へ移転すと云こと古老の口碑に残れり」と記され、口伝では現在地に移転してきたのは貞観10年(868)のことで、その後近郷七ヶ所に分霊を配祀し、八宮神社の総社と呼ばれていたとされているの。

現在地にしても、遷座する以前には大寺が建てられていたと伝えられ、江戸時代には正理山寳壽院と云う真言宗系寺院が別当を務めていたものの、明治期の神仏分離に依り廃寺になってしまい、その後、明治41年(1908)には神社統合政策を受けて近在の愛宕社、天神社を合祀したとされているの。因みに、この下里・八宮神社の主祭神ですが、【埼玉の神社】に依ると、高龗(たかおかみ)神・伊豆能賣神・墨江三神・海見三柱神だそうですが、この下里・八宮神社から分祠したハズの小川・八宮神社の祭神が異なるのはどう云うわけなのかしらね。因みに、の字ですが、本当は冠の下はの字が正しいのですが、表示出来ずに代用文字としています。御了承下さいね。


下里・八宮神社への参拝を終えたところで元来た道を戻り、次の目的地・西光寺を目指しましたが、槻川に架かる柳町橋の袂でフライ・フィッシングをする方の姿を見掛けて、何が釣れるのか訊ねてみたところ、ブラックバスや何と!ナマズが釣れるのだとか。「エッ、ナマズが釣れるんですか。実際に釣り上げたことがあるんですか?」「イヤ、未だ無いんですけどね(笑)」と云うことなので、定かでは無いのですが、云われてみれば、確かにナマズが潜んでいてもおかしくはないシチュエーションなの。

掲載する画像はその柳町橋から少し大寺橋側寄りのものになりますが、替わって、こちらではお母さんと一緒に小魚を追いかけながら水遊びする小さな子供の姿があったの。橋の上からでもたくさんの小魚が泳ぎまわる姿をみることが出来るなど、水の透明度も高くて、羨ましい環境ね。自然が豊かな証として、対岸の森にはカタクリやニリンソウの群生地も広がるの。可憐な花が咲く頃に、一度訪ねてみたいものね。

6. 西光寺 さいこうじ 11:59着 12:17発

〔 西光寺 〕  西光寺は曹洞宗に属し、本尊は釈迦如来である。開山は宗室真超、開基は瑞龍浄喜であり、室町時代の後期に開創されたと云われている。慶安2年(1649)に10石の御朱印を受けているが、寺にその申請状の控が残されており、檀家の寄進した土地が朱印地として公認される経過が知られる。本堂内に祀ってある閻魔様の前にある奪衣婆の像は「しょうづかのお婆さん」と呼ばれ、真綿を一かせ納めて子育ての祈願をする風習があった。本堂東側の庭園は、裏山から湧き出す水を利用した庭で、応安元年(1368)に作られたと云われる弥陀三尊の二連板碑がある。尚、この板碑は龍谷(たつや)薬師堂の墓地にあったものを移したものである。昭和59年(1984)3月 埼玉県・小川町

説明では、西光寺は宗室真超を開山に、室町時代後期に開創されたものと案内されていますが、それ以前に前・西光寺と呼ぶべき寺院が既に存在していたのではないかしらね。と云うのも、開山の宗室真超は、寺伝では慶長19年(1614)の示寂、【風土記稿】には慶長11年(1606)の遷化と記されるなどの差違があるのですが、寺の草創が天文2年(1533)のことと伝えられることから推すと、開山の宗室真超が開創したとするには年齢的に無理があるような気がするの。あるいは、伝法開山 or 中興開山なのかも知れないわね。因みに、山号寺号は同じ天文2年(1533)に没した開基・瑞龍浄喜こと西光院殿前黄門瑞龍浄喜大居士の名に由来するものとされているの。

余談ですが、この西光寺の元々の本尊は阿弥陀如来だったのですが、元禄6年(1693)、4世住持のときに、堂宇改築に合わせて釈迦牟尼仏(釈迦如来)に変更になったのだそうよ。現在は曹洞宗寺院と云うことですので、本尊を釈迦牟尼仏とするのは当然ですが、それ以前は天台宗など、他の宗派に属していたのかも知れないわね。慶長2年(1597)には10石の御朱印を賜り、門前の槻川に架かる橋には今でも大寺橋の名が残されるなど、嘗ては大寺の通称で知られた西光寺ですが、語られぬ内にも、多くの紆余曲折があったみたいね。

説明には本堂内に祀られるとあるだけで、何処とは書いてないので、容易には見つけられなかった奪衣婆像ですが、左手の長押のところに祀られていたの。奪衣婆は脱衣婆とも書かれることから「だついばばあ」と読む方もいらっしゃいますが、それだと水木しげるの世界になってしまうわ。ここでは「だつえば」と訓んで下さいね。亡者となり冥府の世界で彷徨うあなたが三途の川を渡り終えるのを待ち構えているのが奪衣婆で、あなたが着ている服を無理矢理剥ぎ取ると傍らの懸衣翁に渡すの。懸衣翁はそれを衣領樹の枝に掛けてその枝の下がり具合で生前のあなたの罪の軽重を計るの。エッ?重すぎて枝が折れちゃう?(^^;

その奪衣婆が、西光寺の檀信徒の間では「しょうづかのお婆さん」と呼ばれ、昭和20年代頃までは真綿を供えて妊産婦の止血を願う信仰があったのだとか。どのような経緯から安産信仰の対象になったのかは分かりませんが、閻魔大王にしてみたら「おいおい、チャンと元の役目を果たしてくれんと、婆さんの罪も重くせにゃならなくなるぜ」と云ったところでしょうが、西光寺の閻魔さまは余り怒っているようには見えないわね。医療技術の発達した現在では考えられないかも知れませんが、当時は出産で命を失うことも少なくなかったの。出産にしても専ら産婆さんの介助の許で行われていたことから、奪衣婆に対する信仰の付与に繋がっていったのかも知れないわね。

この西光寺でもう一つ忘れてはいけないものがあるの。それが応安元年(1368)の銘を刻む阿弥陀三尊種子双式板碑、通称、二連板碑なの。一枚の板石に二基分が刻み込まれた珍しい造形で、埼玉県内に12基しか存在が確認されていない中で、この小川町にはその内の8基があるの。この西光寺に残されている二連板碑は、現在は西光寺の境外堂扱いになっている龍谷薬師堂(小川町小川1352)から移設されたものなの。碑面左側には「応安元年閏六月五日妙性禅尼」の銘を刻み、右側には同じく「応安元年七月(欠)日道円禅門逆修敬白」と刻まれているの。

同じ応安元年でも方や閏六月、方や七月と若干の差違があり、逆修とあることから推すと、妙性禅尼の示寂に接し、道円は禅尼の追善供養に併せ、自らもまた死後の冥福を祈念して建立したものなのかも知れないわね。また、逆修は、老いた者が若くして先だった者の冥福を祈る場合にも使われることがあるので、或いは禅尼が若死にしてしまったのかも知れず、そうなると、道円と妙性禅尼の関係が気になるわね。父娘と考えることも出来そうだけど。

後日、二連板碑が元々あったと云う龍谷薬師堂を訪ねてみましたので、紹介しますね。尚、この龍谷薬師堂ですが、地図の上では水子地蔵尊と案内されていることもあるので注意が必要よ。現地周辺に立つ道標には龍谷薬師堂とあるので大丈夫だとは思うのですが、地図を見ながら歩く場合には気をつけて下さいね。それと、これは余談ですが、柳町橋からこの龍谷薬師堂にかけての道の途中には、綺麗な御手洗いが三ヶ所もあるので安心よ。残念ながら、自販機の方は二ヶ所しか設置されてなかったので、お気に入りの飲み物がある方は、現地に入る前に買い求めておいた方が良さそうね。

〔 龍谷(たつや)薬師堂 〕  龍谷薬師は、西光寺の四世石春が堂を建て薬師如来を本尊として安置したもので、石春庵とも呼ばれている。本尊の薬師如来立像は、平安時代末期に京都か奈良の仏師に依り製作された定朝様式を踏襲した典型的な藤原彫刻であり、優れた仏像である。脇侍の日光菩薩、月光菩薩及び十二神将は江戸時代の作で、元禄11年(1698)、石春が笠間氏の助力を得て、庵を創立した頃のものと思われる。堂の前の小さな祠の中には、斜め後ろを見ているような地蔵さまが立っており、「みかえり地蔵」と呼ばれている。この地は、昔、寺のあった跡と伝えられており、本尊や今は西光寺にある二連板碑などが、その歴史を偲ばせている。昭和59年(1984)3月 埼玉県

龍谷は「りゅうこく」と読みたいのがやまやま(^^;なのですが、埼玉県は「たつや」、小川町では「たてや」と読ませているの。ξ^_^ξにはどちらが正しいのかは分かりませんので、ここでは案内板の表記のままとしていますので御了承下さいね。

〔 龍谷(たてや)薬師如来立像 〕  昭和53年(1978)3月17日町指定
本像は、西光寺の境外堂である薬師堂の本尊です。像高は97.1cmで、形状は両肩を覆って衲衣(のうえ:袈裟)を纏い、右手は肘を上に折り、掌を前にして五指を伸ばす施無畏印(せむいいん)を結び、左手に薬壺(やっこ)を持つ、典型的な薬師如来立像です。構造は檜材の寄木造で彫眼・漆箔からなり、頭部・体部の幹部は前後二材、更に両肩先は別材を繋ぎ、両手先・両足先は別木としています。右手足の先・台座・光背・表面の金箔は後補で、左手先・左足先及び薬壺は失われています。全体にまとまりのある穏やかな姿で、頭部の盛り上がり(肉髻:にっけい)が高く、整然と並んだ螺髪(らほつ)、ふくよかで温和な顔立ち、なだらかな起伏のある体、薄手の衲衣と彫りが浅く流麗に刻まれた衣文線(えもんせん)の表現など、定朝(じょうちょう)様式の特徴を備えています。その洗練された技法から、中央仏師の作と思われる美作で、製作時期も12世紀前半に遡る可能性があります。小川町教育委員会

堂内に安置されると云う薬師如来立像ですが、普段は見ることが出来ないの。But ξ^_^ξが興味を惹いたのはむしろ傍らの小堂に祀られていたお地蔵さまの方ね。何と、お顔を横に向けていらっしゃるの。それに、ちょっと見が、菱川師宣の「見返り美人図」にも似て、なまめかしいポーズにも見えるわね。上掲の説明には、そのお姿から「みかえり地蔵」と呼ばれている−とありましたが、以前訪ねたことのある京都・永観堂の「見返り阿弥陀」を連想させる像形よね。ひょっとしたら、このお地蔵さまの制作者も「見返り阿弥陀」を模範としたのかも知れないわね。そこには「見返り阿弥陀」と同じく、お地蔵さまの「自分より遅れる者たちを待つ姿」や「思いやり深く周囲をみつめる姿」があるの。

7. 埼玉伝統工芸会館 さいたまでんとうこうげいかいかん 12:23着 13:21発

ここで、大聖寺に向かう際に素通りしていた埼玉伝統工芸館を訪ねてみることにしたの。館内にある常設展示室では埼玉県指定伝統工芸品の数々が紹介・展示され、勿論、地元・小川町の伝統産業を代表する紙漉きの実演&体験が出来る和紙工房も併設されているの。観ていたら欲しくなってきたわ−と云う方も御安心下さいね、同じ建物内にある物産館では工芸品の販売もしているの。お土産に最適な小物も数多く置いてあるのでお薦めよ。加えて、同じ敷地内には「道の駅」販売所があり、地元産の野菜や地産品などが購入出来るの。お腹が空いたら「麺工房かたくり」で食事も出来るわよ。詳しくは 同館HP を御参照下さいね。入館料:¥300

〔 小川和紙の歴史 〕  日本に製紙技術を伝えたのは、高麗人の僧・曇徴であると【日本書紀】に記されています。そして、小川和紙は1,300年の歴史があり、武蔵紙として正倉院の文書に記録が残されています。小川町で手漉き和紙が盛んになったのは、原料の楮が自生していることと、恵まれた槻川の清流、そして慈光寺(ときがわ町)の写経用に重宝されたことや、江戸と云う大消費地が近距離であったことなどが要因になったと云われ、最盛期は750軒もの漉き家があり、一大産地を形成していました。今でも、職人の手に依って一枚一枚丹念に漉かれる、素朴で強靱な小川和紙は、手漉き和紙の持つ風合いや美しさが、自然に優しい伝統工芸品として見直され、工芸作家など多くの人に愛用されるようになりました。中でも、細川紙は小川和紙の銘品として、昭和53年(1978)に国の重要無形文化財に指定され、その名は全国に知られています。平成13年(2001)8月 小川町・埼玉伝統工芸会館

ここで、館内に展示されていた伝統工芸品の幾つかを紹介してみますね。
と云っても画像だけですので、工芸品それぞれの詳しいことは御来館時にお確かめ下さいね。(^^;

春日部押絵 所沢人形 鴻巣雛 鬼瓦

常設展示室では地元の小川和紙に関する展示も多岐にわたり、行われているの。
その全てを御案内することは出来ませんが、ξ^_^ξが気に留めたものをピックアップして紹介しますね。

〔 手漉き和紙の魅力 〕  和紙は楮(こうぞ)や三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などの植物の繊維を原料として、手漉きの方法で漉かれた紙のことです。小川町では、主に楮を原料として和紙が漉かれています。大きな漉き舟の中に水・紙料・ネリ(トロロアオイの根)を入れて充分混ぜ合わせて、漉き簀(す)をリズミカルに動かして紙を漉きあげます。水と風土を巧みに利用した作業が1,000年以上も繰り返されてきました。手漉き和紙は、行程の殆どが手作業です。原料も各工房で使用する量だけ作ります。その為、原料の楮が同じであっても、漉く人や産地によって違いがあります。人によって少しずつ差があり、和紙の柔らかさや暖かさ、それが紙の個性です。

和紙は色々な所に使われています。書道用紙や商人の帳簿、記録保存用紙はもとより、現在では封筒・ハガキ・便箋・名刺・しおり・貼り絵・包装紙・紙人形などが挙げられます。また、日本家屋にも欠かせません。部屋を仕切る障子や襖の紙、照明やインテリア、装飾用としても用途を広げており、近年は輸出もされています。

ξ^_^ξが訪ねたときには、特別企画展として「 細川紙による紙衣(かみこ)展」が開催されていたの。

〔 和紙を着る・紙衣 〕  紙衣( かみこ )は、千年以上も昔、修行僧の衣料として使われていた記録もあり、中世には武士の胴服や陣羽織などに用いられ、雨露を防ぎ、丈夫で軽く、寒さから身を守る、戦陣にはなくてはならぬ衣料となりました。江戸時代に入って一般の人々にも普及し、俳人、茶人、粋人の間で絹のように光沢がなく「わび・さび」にも通じる独特のその風合いから「衣の極致」とまで賞賛されました。仙台藩、伊達家では将軍家への献上品、また御三家、公卿への進上品として完成度の高いものが制作されていました。吸湿性、通気性に優れ、冬は暖かく夏は涼しく、皮膚感覚の布地となり着用されていました。

作品に使用する細川紙は、楮100%の未晒し紙で、紙面は淡黄で光沢があり、毛羽立ちが生じにくく、張りのある丈夫な紙の性質から、昭和53年(1978)に国の重要無形文化財の指定を受け、小川和紙を代表する和紙のひとつです。産地である埼玉県比企郡小川町周辺での紙漉きは、古くは1200年前を超える歴史があり、東大寺正倉院の古文書の文献に紙を献じた記録が残っています。紙漉きが産業として栄えるようになった文化・文政時代(1804-30)には江戸から最も近い産地として小川を中心に槻川流域の村々で、楮の樹皮を原料とした和紙が漉かれていました。今回は、細川紙に柿渋、藍、墨、顔料等を用いて絞り模様に染めて、蒟蒻糊で強度を保ち、一枚の紙から一枚の布になるため柔らかさ、表情、風合いを考えながら仕上げました。  岡嶋多紀・利英

実は、これを読んでいて疑問に思うことがあったの。
それが細川紙のことで、小川紙なのに細川紙?何だか良く分かんないわね〜状態だったの。
But その疑問に答えてくれる説明も、チャンと用意されていたの。

〔 小川和紙でなく、なぜ細川紙なの? 〕  細川紙は武州小川周辺で古来より生産されてきた手漉き和紙で、楮紙の伝統を代表するものです。それが何故小川和紙でなく細川紙なのでしょう。江戸時代、紀州高野山の麓の村、細川村で高野紙の一つ、細川奉書が漉かれていました。その紙が大阪の紙問屋によって江戸にもたらされていました。強靱で厚みと光沢のある細川紙は商人の大福帳などに大変重用され、細川紙は紙のブランド名として定着したと考えられます。この需要に応えるため、江戸の問屋は、輸送に経費の掛かる大阪問屋の手を経ず大量に細川紙を得るために、江戸に近い立地条件に合った小川地方に細川紙の漉き立てを促したのでしょう。

古来から技術の蓄積があった小川を中心とした武州三郡は細川紙の漉き立てに成功し、江戸の繁栄を背景に新しい産地となりました。江戸に十組問屋が結成されてからはより顕著となり、高野の細川紙は衰退していきました。

もっと深〜く細川紙のことが知りたい−と云う方には下記のサイトがお薦めよ。
「和紙について」の中に「細川紙の由来」が解説されているの。
小川手すき和紙・紙すきの村〜久保昌太郎和紙工房〜

その細川紙を利用して作られたランプシェードなども展示されていたの。
やわらかな明かりが癒やしの空間をもたらしてくれるの。
和紙に押し花《 ルームランプ 》  製作:高柳君江
伝統的なもみ和紙(細川和紙)に手染めを施し、素材の暖かさに草花の優しさを取り入れ、やわらかな光の中で日々の生活

作:高柳君江さん 作:高柳君江さん

また、ξ^_^ξが訪ねたときには、藤友はり絵協会に依る紙絵展も開かれていたの。
和紙は実用的なものから芸術的なものまで幅広い利用方法があるのね。

8. 白山神社 はくさんじんじゃ 13:39着13:49発

埼玉伝統工芸会館からは大分ロング・アプローチになりますが、次にやって来たのがこの白山神社で、白山神社と云えば、その総社とされるのが石川県白山市三宮町に鎮座する白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)よね。祭神は白山比淘蜷_(しらやまひめのおおかみ)こと菊理媛命(くくりひめのみこと)を主祭神として、伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冉命(いざなみのみこと)の三神が祀られ、総称して白山権現とも云われているの。その白山権現を建治2年(1276)に後程訪ねる大梅寺の開山・円了禅師が禅宗擁護の霊神として勧請して創建したのが、この白山神社だと伝えられているの。

境内を接して東側には長昌寺(後述)が隣接しますが、嘗てはその長昌寺が別当職を務めていたの。【風土記稿】には「今も大梅寺にて社務を司れり」とあるのですが、全体的には大梅寺の管理下にあったものの、通常の祭祀儀礼などは大梅寺の末寺である長昌寺が任にあたっていたみたいね。その長昌寺も、ご多分に漏れず、明治期の神仏分離を受けて習合を解かれたの。同じく明治期の神社統合政策に依るものだと思うのですが、現在は、八坂神社と天神社が合祀されているの。と云うか、そのハズなのですが、ちょっと面白くて、ちょっとさみしいお話があるの。嘗てこの白山神社の本殿覆屋内には三基の社殿が並び建てられていたのですが、昭和54年(1979)に拝殿左手に新たな社殿が造られたのを機に八坂神社は遷座したの。

But もう一方の天神社はと云うと、お宮が覆屋内から移された後、忘れられてしまったのだとか。天神社と云えば、祭神は天神さまこと菅原道真公よね。今でこそ学問の神さまとして受験生などに引っ張りだこの有り難い神さまですが、元々は日本三大祟り神の一柱に挙げられるほどの恐〜い神さまだったの。それを忘れてしまった−だなんて。(^^; But その後、この増尾地区に天変地異が起きたとの話も聞かないので、結局は大丈夫だったみたいね。戯れ言はさておき、天神さまを祀っていたと云う社殿はどこへいってしまったのかしらね。天神さま、社殿は無くても、今は菊理媛命と仲良く相殿してるのかも知れないわね。

拝殿左手には小川町の文化財(天然記念物)に指定される大カシの木があるのですが、石段の両側や社殿の右手にも樹齢を重ねたと覚しき切株が数多く残されていたの。それも、大カシと見比べても遜色のないものばかりなの。倒木の危険性故に伐採されたものかも知れませんが、大空を覆うがごとく、梢に葉を茂らせて立ち並んでいた頃の姿は、まさに御神木と呼ぶにふさわしい様相だったでしょうね。

〔 白山神社の大カシ 〕  小川町指定文化財・天然記念物 昭和38年(1963)3月12日指定
目通り:5.3m 樹高:約20m 推定樹齢:700年 昭和60年(1985)12月25日 小川町教育委員会・白山神社

余談ですが、この白山神社がある地番は、現在は小川町増尾ですが、以前は増尾字中条に地割されていたの。この中条と云うのが、実は中城の意とされ、【風土記稿】には「古城蹟 村の東小名中條にあり 四方二町許の地にて 空堀の蹟所々に殘れり 又櫓の跡なりとて小高き所あり云々」と記されるように、鎌倉時代には地元豪族・猿尾(ましお)種直の、室町時代の初期には斎藤重範の居城だったと伝えられているの。But 城跡はかなり広範囲なもので、後程訪ねる仙覚律師遺跡のある辺りまでを含めてのものですが、残念ながら、発掘調査の結果では仙覚律師遺跡からは鎌倉時代の遺構は発見されず、戦国時代の城跡と見做されてはいるみたいね。因みに、増尾と云う地名は、その猿尾氏から転じたものだそうよ。

9. 長昌寺 ちょうしょうじ 13:49着 13:54発

白山神社と境内を接して長昌寺があるのですが、現在は小さな堂宇がポツネンと建つだけで、殆ど廃寺の装いなの。屋根も西側は余程傷みが激しかったのか、張り替えられていますが、東側はトタン葺きに穴が空いたままになるなど、朽ち果てるのを辛うじて耐えている状態なの。But その歴史を紐解けば、当寺は暾嶺邦秀が正中年中(1324-26)に開創したもので、伝法開山は耕雲實晟禅師〔 嘉永2年(1849)寂 〕とされ、正式な山号寺号を増尾山長昌寺と号する曹洞宗寺院で、この後に訪ねる大梅寺末だったの。境内に残る小堂も、元は本尊の阿弥陀如来が安置されていたことから阿弥陀堂と呼ばれていたのですが、現在は扁額に勢至殿とあるように、勢至堂になっているの。

この長昌寺が白山神社の別当をしていた頃は、祭礼後に行われる直会(なおらい)も長昌寺で行われていたの。直会とは、お祭りの後に参列者など関係者一同で神前にお供えした御饌御酒(みけみき)を飲食することで、最近は、どちらかと云うと、呑めや歌えや (^^; の色彩が強くなってしまいましたが、元々は、神さまが召し上がったものを頂くことで、神威の恩恵に預かり、その加護を願う宗教的な行為だったの。一方、長昌寺で行われていた二十三夜講では、小川町のみならず、遠くは行田や深谷辺りからも参詣者があり、祭日には神社側の氏子が御饌を供え、燈籠貼りをするなどして協調して祭礼を行っていたみたいね。

失礼して勢至堂内を覗かせて貰ったのですが、二十三夜などと書かれた行燈が数多く残されていたの。勢至とあるのは勢至菩薩のことで、その勢至菩薩を祀るのが二十三夜講なの。二十三夜講は月待の一つで、月齢二十三日の夜に仏堂などに集まり、共に飲食しながら月の出を待ち、月を拝む宗教行事なの。月待には他にも十九夜講や二十二夜講などがあり、それぞれ異なる本尊を祀るのですが、勢至菩薩には商売繁盛の御利益があるとして広く信仰され、その現世利益が故に、長昌寺の三夜様(さんやさま)も隆盛したみたいね。毎年10/23の縁日では、本寺である大梅寺からも住職が来て法要が行われるなど、境内は大いに賑わいをみせていたようよ。

因みに、白山神社で行われた秋祭りは、嘗ては、嵐山や東松山から役者を招いたり、秩父からは屋台歌舞伎を招いたりするほどの盛り上がりようだったみたいね。その際にも長昌寺が宿泊先として当てられたのだとか。残念ながら、今目にする光景からは想像も出来ないのですが。

10. 穴八幡古墳 あなはちまんこふん 14:07着 14:13発

〔 埼玉県指定史跡・穴八幡古墳 〕  昭和34年(1959)3月20日指定  平成3年(1991)3月15日追加指定
当古墳は、巨大な横穴石室を備える古墳として、昭和34年(1959)に埼玉県指定史跡に指定されました。古墳の形は、当時円墳と考えられていましたが、昭和63年(1988)の発掘調査や測量調査により、周囲に二重の周堀を備えた方墳であることが確認されました。古墳は、墳丘の高さ約5.6m、一辺の長さ32mを測り、周囲の堀は内堀が幅5.7m、外堀が3.7-4.7m、外堀の一辺の長さ61.4mを測る、県内最大級の方墳です。石室は、緑泥片岩などの大きな一枚石を組合せ、内部は奥室と前室から構成され、全長8.2mを測ります。

当古墳の造られた時期は、埴輪が出土しないことや前庭部から出土した須恵器から古墳時代終末期、7世紀後半と考えられ、小川盆地の古代文化を考える上で非常に貴重な存在です。平成5年(1993)3月25日 埼玉県教育委員会・小川町教育委員会

大塚八幡神社の少し手前に、埼玉県内最大級の方墳があるとの噂 (^^; を耳にして足を向けてみたのが、この穴八幡古墳なの。その所在地ですが、ちょっと分かりづらいところにあるの。普通に道を歩いていたら気付かずに見逃してしまうかも知れないわね。地図だと ここ よ。

この穴八幡古墳は、二重の周溝を持つ方墳です。史跡整備のための発掘調査で、特に西側部分に於いて、その全容が確認されました。溝の北東・北西及び南東のコーナーが検出されました。その結果、この古墳の規模は、北側辺は25.6m、西側辺は31.0mを測ります。溝には北側で4.0m、西側で6.0mの底幅がありました。外周溝は西側中途で消失していましたが、これが作為的なものか、自然消滅かは確認出来ませんでした。南東コーナーが確認出来たことで、石室の全面西寄りに溝の堀り窪みの無い、通路があったことが確定しました。平成10年(1998)3月 小川町教育委員会

〔 県指定史跡・穴八幡古墳 〕  小川町大字大塚と増尾の間に位置する八幡台地のほぼ頂部に立地する穴八幡古墳は、埼玉県内でも最大級の規模を持つ方墳です。首長を治めた横穴式石室は南に開口し、内部には下里産出と考えられる大きな緑泥石片岩を利用しています。また、この位置が小川の盆地を一望に見渡せることなどから、この古墳の被葬者は、この盆地を治めた有力人物であったのかも知れません。【風土記稿】に依れば、この古墳は寛文年間(1661-73)の頃、切り崩して陸田にしようとしたところ、石室が現れたので中止したことが記されています。尚、文政12年(1829)、島田氏が八幡神社を勧請したので穴八幡と呼ばれるようになり、遠く江戸吉原のおいらん衆が奉納した提灯や手ぬぐいが残っていました。平成10年(1998)3月 埼玉県・小川町教育委員会

説明には有力人物とあるのみですが、被葬者が誰なのか、気になりますよね。諸説があるのですが、ここでは【小川町の歴史】の推考を紹介しておきますね。因みに、当時の国は現在の県、郡は郡、郷は村に相当し、監督者として国司・郡司・郷長が置かれたの。評(ひょう)は郡の前身よ。
例えば(1)男衾評の評督(かみ)  (2)比企評の評督  (3)武蔵国造本宗家を支えた氏族の長  (4)武蔵国に派遣された官僚(東国総領)などを挙げることが出来る。穴八幡古墳が男衾・比企地域としての在地性に乏しいことは(4)を支持するが、その証明は(1)や(3)であることを証明するよりも遙かに難しい。ここでは武蔵国造家と密接に関わる男衾評の評督と推定しておきたい。【小川町の歴史】

被葬者の他にも気になることが二つあったの。一つ目は島田氏が八幡神社を勧請したので穴八幡と呼ばれるようになったことね。ξ^_^ξは大塚八幡神社の側にあるので、単にそう呼ばれるようになったものとばかりに思っていたのですが、【埼玉の神社】には「穴八幡古墳は大塚郷に属していたが、貞治2年(1363)には郷界移動により増尾郷に属するようになった。宝暦8年(1758)に増尾村の島田重右衛門後家が梅岑寺(大塚八幡神社の別当寺・現在は廃寺)に管理を任せ、その後、島田家が氏神を重ねて祀った。島田一家の氏神では困るということで、氏子が明治5年(1930)7月に提訴したが、結局、島田一家の社として認められ、氏子は大塚八幡社のみの氏子として落着する」とあり、大塚八幡神社とは丸っきり無関係と云うわけでも無いのですが、それでも独立した八幡社になっていて、単に側にあるから−と云う理由ではないのね。

残るもう一つが、遠く江戸吉原の花魁衆が奉納した提灯や手拭いが残されていたことなの。提灯には「明治十六年十月奉納」とあるとのことですが、電車を利用すれば首都圏から一時間余で到着してしまう今とは違い、当時は幾日かの宿泊を伴う旅程だったハズで、その労苦に見合うだけの霊験が期待出来たが故の参詣&奉納だと思うの。実は、この穴八幡社、当時の花柳界では女性の守り神として厚く信仰されていたのだとか。その理由と云うのが、ちょっと云いにくいのですが、穴八幡の穴と女性器が結びつけられ、穴八幡社が女性の身を守ってくれると信じられるようになったみたいね。とは云え、現在ではそういった信仰とは無縁で、島田家の氏神としての奉斎に留め置かれているようね。

11. 大塚八幡神社 おおつかはちまんじんじゃ 14:15着 14:37発

八幡神社は、元弘3年(1333)に創建されたと伝えられている。鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王(もりくにしんのう)は慈光寺山麓の古寺の里に亡命し、土豪・猿尾(ましお)氏に迎えられ、この梅香岡に仮寓したという云伝えがある。守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが八幡神社の始まりであるといわれている。慶安2年(1649)、三代将軍家光より社領十石二十斗を賜って以来、歴代将軍から御朱印を受けていたと伝えられている。守邦親王が生前、小字的場で馬術を練習した故事にならって境内で嘗て流鏑馬や馬くらべが行われていた。八幡神社の大欅は町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げるため、この地の井戸はどんな日照りでも水が枯れることがないと云われている。昭和59年(1984)3月 埼玉県・小川町

説明では新たに八幡神社が創建された印象を受けてしまいますが、当地にはそれ以前から神明社が鎮座していたみたいね。この辺りは日本武尊が東征の折に陣を構えたことから、その故事に因み、古くから神明社が祀られていたとも伝えられ、文治3年(1187)には源頼朝が山王社を、元亨3年(1323)には鎌倉幕府最後の将軍・守邦親王が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を勧請したことから八幡社が本社として祀られるようになったと伝えられているの。But 実際にはそれ以前に既に八幡社が祀られていたようよ。当時、この地を領していた地元豪族・猿尾氏は源義経の家人でもあったことから源家の氏神・八幡神を奉斎していた可能性も高く、そこから八幡社が勧請されたのかも知れないの。

現在、各地に八幡社が鎮座しますが、それは鎌倉時代に全国に置かれた守護・地頭が源家に倣い、武神・軍神としての八幡神を勧請していったからだとも云われているの。まさに、源氏あっての八幡社と云うわけね。

その守邦親王ですが、社伝によれば、鎌倉幕府滅亡後は源家とは縁ある慈光寺を頼りこの地に逃れ来て梅皇子と名乗り、猿尾氏の許で再挙を窺うも志を遂げられぬまま没したので、その霊を自ら勧請したこの八幡社に配祀したとされているの。その亡骸は穴八幡古墳へ追葬されたとの伝えもあり、更に、別伝では、梅皇子は守邦親王の庶子とするものもあり、没年にしても複数あるの。そしてダメ押しが、守邦親王は元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡時には将軍職を辭すると落飾、その三ヶ月後には33歳と云う若さで薨じているの、それも鎌倉で−と云う事実。当地に於ける守邦親王に関する伝承の数々は、【埼玉の神社】や【小川町の歴史】を参照して頂きたいのですが、守邦親王と云うよりも、親王の御子を戴いた猿尾氏などの源氏系に連なる人々の手に依り、貴種流離譚として創られていったものと推測されているみたいね。嘆きの内に死を迎えた魂は崇め奉られる必要があるの。そうでないと悪疫や災いをもたらす荒神になってしまうと云うわけ。

ここで、この大塚八幡神社と境内社の祭神を纏めて紹介しておきますね。ちょっと多すぎるんじゃないの−と云う位の数だけど、本殿内に祀られる祭神に、天照皇大神と豊受大神の名が見えるのは、神明社の名残りね。因みに、大山咋命は山王社で、保食命は稲荷社の祭神になるの。境内社が多いのは、明治期の神社統合政策から近隣から移設されてきたからではないかしら。

本殿八幡神社誉田別命・保食命・大山咋命・天照皇大神・豊受大神
境内社  産泰神社
天手長男神社 
琴平神社
秋葉神社
寅稲荷神社
天神社
疱瘡神社
伊弉諾命・伊弉冉命
天手長男命
大物主命
軻遇突智命・河菜姫命 
倉稲魂命
菅原道真
少名彦名命
大山祇神社 
高良神社
高龗神社
稲荷神社
新羅神社
愛宕神社
大山祇命
武内宿弥命
高龗命
豊宇気姫命
奥津甲斐弁羅命
火産霊命

左掲は小川町の文化財(天然記念物)に指定される大ケヤキですが、以前には傍らに愛染椿と呼ばれる大きな椿の樹もあり、その葉を使って恋占い (^^; なんてこともしていたみたいよ。愛染椿の葉を白い紙に包み、それを拝殿前の石段の上で潰し、紙が藍色に染まれば想うひとと結ばれるとされたの。椿の葉を以てして藍色に染めあげるには無理があるような気がするのですが、恋は盲目、緑も藍色に見えたのかも知れないわね。その恋占いのお蔭で、この八幡神社、縁結びの神さまとしても信仰を集めていたのだとか。残念ながら、その愛染椿も枯死してしまったようね。傍らには芭蕉句碑が建てられていたの。

〔 芭蕉の句碑 〕  八幡神社境内  小川町大字大塚427番地
者流もヽ 気色とヽ乃ふ 月登梅 者世越
はるもやや けしきととのふ つきとうめ はせを
出典:「薦獅子集(こもしししゅう)」  年代:元禄6年(1693)  年齢:50歳  碑陰:当住 勝道(よしみち)
大意:月はおぼろに霞み、梅は花をほころばせて、春もようやくその気配を整えてきたようである。
平成3年(1991)3月 小川町教育委員会

碑陰には「当住・勝道」とありますが、神主を務める片岡家は守邦親王の子孫とされ、今でこそ神社の構えですが、江戸時代には梅香山梅岑寺と号する本山派の修験系寺院だったそうよ。その梅岑寺も明治期の神仏分離で廃寺となり、片岡家は神職となったみたいね。因みに、社殿の背後には小川町営八幡台グラウンドがあるのですが、そのグラウンドも嘗ては流鏑馬が行われるなど、八幡神社の馬場だったのだとか。鎌倉期には、流鏑馬は許より、笠懸や犬追物などに興じる武士達の姿があったのかも知れないわね。

その八幡台グラウンドの御手洗いでトイレ休憩よ。併せて、境内にある休憩場所で暫時の小休止。今回の散策コースでは埼玉伝統工芸館を訪ねて以降はトイレ休憩が出来るような施設が無かったの。ここから先も同じで、終点の小川町駅まで無いの。なので、八幡台グラウンドの御手洗いは有効活用して下さいね。

12. 大梅寺 だいばいじ 14:42着 14:55発

〔 大梅寺 〕  大梅寺は、勧進録に依れば仁治3年(1242)に、土地の豪族・猿尾(ましお)氏が都幾川村の霊山院の栄朝禅師を招請し、創建したと伝えられている。鎌倉幕府滅亡の折、将軍・守邦親王(もりくにしんのう)が当地に下向し病没したので、大梅寺の円了長老が引導し葬ったという云伝えが残っている。永禄4年(1561)の兵火で寺院が焼失したが、寛永の頃(1624-44)に、越生町の龍穏寺第16世鶴峰聚孫(かくほうじゅそん)大和尚が中興され、この時より曹洞宗となる。その後、更に焼失し、天明5年(1785)に再建され、現在に及んでいる。本堂前の記念碑の裏手にある二連塔婆は、暦応4年(1341)に建てられたものであり、貴重なものである。また、記念碑の左手には、江戸時代の俳人・太魯(たいろ)の墓がある。昭和59年(1984)3月 埼玉県・小川町

栄朝禅師と云えば、臨済宗の宗祖・栄西禅師の高弟で、慈光寺(ときがわ町)の住職となり、禅道場として霊山院を開創しているの。寺伝に依れば、仁治3年(1242)、地元豪族の猿尾(ましお)氏がその栄朝禅師を開山にして創建したのが大梅寺だとされているの。大梅寺の山号は拈華山(ねんげさん)ですが、霊山院の山号もまた拈華山なの。その霊山院ですが、当初は慈光寺(天台宗)の塔頭として創建されているの。その流れから大梅寺も当初は天台宗に属していたみたいね。大塚八幡神社の項でも触れましたが、寺伝では更に、鎌倉幕府の滅亡により、最後の将軍であった守邦親王がこの地に逃れ来て、猿尾氏の後盾を得て再挙を謀るも病を得て亡くなってしまい、その亡骸は大梅寺の住持・円了和尚に依り手厚く葬られたと伝えられているの。

一方、【風土記稿】には「相伝ふ 当寺は建治2年(1276)後深草院第三皇子・梅皇子の建立し玉ふ所なり 彼皇子は正元元年(1259)故有て当所へ下向し 永仁3年(1295)9月19日薨じ玉ひしを 当寺に葬りて大梅寺殿二品親王賀慶法師と諡し奉る」とあり、別伝が紹介されているの。と云っても「いと覚つかなき説なれど 姑く伝のままを記せり」との断り書きがあるので、必ずしも史実と云う訳でも無さそうね。今となっては由緒正しき縁起を知る術など無いのかも知れないわね。その大梅寺も戦国時代の戦禍を受けて衰微、永禄4年(1561)には僅かに山門を残して焼失。それを中興したのが入間郡龍ヶ谷村(現・越生町)の龍穏寺第16世・鶴峰聚孫で、その後は宗旨を曹洞宗に改め、龍穏寺末となったの。

慈光寺や霊山院の詳しいことが知りたい方は ときがわ町の古刹・慈光寺 を、
龍穏寺のことが気になる方は越生の散策・あじさい山公園 を御笑覧下さいね。CM でした。(^^;

〔 大梅寺二連板石塔婆 〕  一枚の石材に板碑二基分を彫り出した双式板碑(二連板石塔婆)は、埼玉県に12基確認されており、その内8基が小川町に所在しています。一般的に頂部は水平に成形されますが、この板碑は二つの山形になっているのが特徴で、こうした形態は県内に二基しか確認されていません。中央に暦応4年(1341)の銘があり、それぞれ本尊の阿弥陀如来種子(キリーク)、蓮台の下に光明真言の凡字(サンスクリット文字 オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マガボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウンと読む)が4行ずつ刻まれています。真言を唱えると一切の罪業が除かれると説かれることから、追善供養の際によく唱えられました。

この板碑も、逆修(生前に死後の冥福のために行う供養)や追善供養のために造立されたと考えられます。尚、裏面は文政6年(1823)の三界万霊塔(全ての霊を供養するための塔)に転用されています。昭和53年(1978)3月17日 町指定  小川町教育委員会

この二連板碑は、夫婦の供養塔だと云われているのですが、碑面にはキリークと光明真言の他には、中央に「暦応四年(1341)辛巳十月日敬白」の銘があるのみで、当事者の名は残念ながら分からないの。それにしても、思いの込められた供養塔を三界萬霊塔に転用してしまうのって、あり?


今回の小川町の史蹟めぐりも終盤、最後に仙覚律師遺跡を目指しますが、実は、その入口がとても分かりづらいの。正直に云うと、一度下見がてらに足を向けてみたのですが、当たりをつけて分け入った道はみな個人宅に通じていて、その時は結局、諦めたの。二回目にしてようやくその入口を見つけることが出来たの。この散策記を御覧いただき、追体験してみようかしら−と思われる方が、中にはいらっしゃるかも知れませんので、参考までに、ちょっと道案内をしておきますね。

a:丁字路 b:入口 c:棒標

a:
左手に建つお家に隠れてますが、R254沿いにある晴雲酒造さんからの道が左方向から来ているの。画面奥に道を辿ると、紹介した大恃ェ幡神社へと通じているの。それで、この丁字路の位置関係がお分かり頂けるかと思いますが、画面に見えているコーナーミラーの少し手前に御注目下さいね。地図だと ここ よ。
b:
下見のときには棒標に気付かず、正面に見えるお宅の出入口だと思ったの。
実は、これこそが仙覚律師遺跡への入口だったと云うわけ。
c:
朽ち果てるのを待つかのような (^^; 棒標には「仙覚律師遺跡(中城跡)入口」とあるの。

石標の傍らには「万葉モニュメント」が。

道の辺の 草深百合の 花笑みに 笑みしがからに 妻と云ふべしや 〔 作者未詳 〕
みちのへの くさふかゆりの はなゑみに ゑみしがからに つまといふべしや
大意:道端の草叢に咲いているユリのように、私がちょっと微笑んだだけで、
もう、あなたの妻だとおっしゃるのは困りますわ。
解説:男の求婚を拒否した面白い歌です。
この町ではちょっと足を延ばして里山に分け入ると、ヤマユリや桔梗が出迎えてくれます。

坂道を登りきったところにも御覧の「仙覚律師遺跡」の棒標と「万葉モニュメント」が。
その棒標には「←」とあるのですが、(テニスコートの)左から回り込め−の意なので要注意よ。

月草に 衣は摺らむ 朝露に 濡れての後は うつろひぬとも 〔 作者未詳 〕
つきくさに ころもはすらむ あさつゆに ぬれてののちは うつろひぬとも
大意:露草で衣を摺り染めにしよう。朝露に濡れて色が褪せてしまっても、ままよ。
解説:浮気な男だけど、求婚を受け入れようかという女心の譬えです。
町のどこにでも見られる露草。藍色は古代より布の摺り染めに使われ、露草色として親しまれてきました。

13. 半僧坊 はんそうぼう 15:07着 15:10発

棒標の「←」に従い回り込むと、小さなお堂が建てられていたの。何か由来を記した略縁起でも無いかしら−と、周りを探しても見つからず、詳しいことは分からず終い。But 扁額には半僧坊大権現とあるので、半僧坊を祀るお堂ね。半僧坊と云えば、静岡県引佐町の奥山半僧坊がそのルーツですが、既に他の頁でも紹介していますのでここでは省略しますが、その半僧坊が何故ここでも祀られるようになったのかしらね。

14. 仙覚律師遺跡 せんがくりつしいせき 15:11着 15:28発

〔 仙覚律師遺跡(万葉の碑 〕  仙覚は建仁3年(1203)常陸国( 茨城県 )に生まれた天台宗の学問僧で万葉研究者です。寛元4年(1246)源親行の書写本を底本に、読み方が分からなくなっていた152首を読めるようにし、翌年それを後嵯峨上皇に奉献したところ、上皇は喜んで仙覚の歌一首を続古今和歌集に載せたと云います。そして文永6年(1269)に本格的な萬葉集の解読書として学問的価値の高い【萬葉集注釈】を完成させ、万葉研究の礎を築いた人物と云われています。その【萬葉集注釈】の総仕上げを行ったのが、小川町大字増尾であるとされています。仙覚の業績を称え、昭和3年(1928)に石碑・仙覚律師遺跡(万葉の碑)が建てられました。石碑の建つ場所は中城と呼ばれる中世城跡でもあります。

半僧坊の右手に広がる草叢にはタケノコみたいに石碑が並び建ちますが、ひときわ大きなものが仙覚律師遺跡記念碑、通称・万葉の碑になるの。建てられたのが昭和3年(1928)と云うことで、旧漢字に加え、格調高き文面で刻まれているので難解な碑文ですが、何とか解読出来たので紹介しますね。尚、一部修正加筆していますので予め御了承下さいね。

日本弘道會會長 從二位勲二等伯爵 徳川逹孝 篆額
東京帝國大學文學部講師 文學博上 佐佐木信綱 撰文
仙覺律師は中世に於ける萬葉學再興の祖なり 建仁3年(1203)東國に生る 年十三 始めて萬葉集の研究に志し 寛元4年(1246)將軍藤原頼經の命を受けて幾多の舊本を參照し 初度の校定本を作り 古來 いまだ讀み得ざりし152首の歌に新たに訓點を加へたりき 建長5年(1253) その新點の歌を後嵯峨上皇に奉りしに 叡感斜めならず 御製一首を賜はりぬ 弘長元年(1261) 更に校勘に努め 文永2年(1265) 再度の校定本を作れり

また 別に萬葉集註釋の筆を起し 博引旁證至らざるなく 同6年(1269)4月 その大著を完成せり 時に齡六十七なりき この地は武藏國比企郡北方麻師宇郷に當り 實にその著の稿を脱せし所なりといふ 今茲昭和3年(1928)は文永6年(1269)より計へて660年なれば 郷人相謀りて記念の碑を建つ 鳴呼、律師の業績は かの集と共に萬葉に朽ちず その光永く學界を照さむ 昭和3年(1928)4月 前國學院大學講師 岡山高蔭 書/曾根多志三 刻

〔 仙覚律師遺跡 〕  仙覚は、鎌倉時代の僧侶( 天台宗 )で、建仁3年(1203)常陸国( 茨城県 )に生まれたが、没年は不明である。万葉学者として知られる仙覚は、萬葉集解読に半生を捧げた人で、彼の著作した【萬葉集註釈】は以後の萬葉集研究の基礎をなしていると云われている。この奥書には「武蔵国比企郡北方の麻師宇郷の政所」と記されており、当地に仮宿し纏めたものと推定されている。この地域は、付近をとりまく土塁・空堀跡・櫓の跡から中世の土豪・猿尾(ましお)氏の居城で中城跡と云われている。尚、この記念碑は昭和3年(1928)に仙覚律師遺跡保存会により建てられたものである。昭和59年(1984)3月 埼玉県・小川町

石碑が建つ草叢の背後は傾斜地となり、御覧のように、土塁らしき遺構も残されているの。城跡マニアではないので、目にしている土盛りが自然のものなのか、それとも人工的に造成されたものなのかはξ^_^ξには分かりませんが、その間には人が日常的に利用している道が通じているのを発見したの。ξ^_^ξは先程紹介した入口から急坂を経て正攻法でアプローチしたのですが、大梅寺を見学した後は、そのまま裏山側から登ることが出来るようになっているみたいね。残念ながら、その裏口を確認した訳ではないのですが、地元の方がテニスコートを利用する場合などは、この近道を利用するのが常識みたいよ。意のある方はチャレンジしてみて下さいね、但し、自己責任でネ。

記念碑の周りには幾つか「万葉モニュメント」が立てられていたの。
解説は現地にて御確認いただくとして (^^;ここでは歌の部分のみを紹介しておきますね。

・石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも 〔 志貴皇子 〕
いはばしる たるみのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも
・春の野に すみれ摘みにと 来し我れぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける 〔 山部赤人 〕
はるののに すみれつみにと こしわれぞ のをなつかしみ ひとよねにける
・蛙鳴く 神なび川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花 〔 厚見王 〕
かはづなく かむなびがはに かげみえて いまかさくらむ やまぶきのはな

【萬葉集註釋】の奥書に登場する麻師宇郷ですが、現在は小川町増尾に比定され、仙覚はその麻師宇郷を所管する政所に仮寓して注釈書を纏め上げたことになっているの。問題は、その政所がどこにあったのか−と云うことですが、紹介した仙覚律師遺跡(中城跡)の他、長昌寺跡や大梅寺も候補地となっているの。また、今回の散策では立ち寄らずに終えていますが、左掲の栄広庵もその一つに挙げられているの。因みに、栄広庵の開創は、文治2年(1186)に大夫坊覚明と云う僧が東国巡錫の折に至り来て中城内に庵を結んだことに始まり、その後、享保年間(1716-36)に榮廣と云う僧が現在地に移して再建したことから榮廣庵と呼ばれるようになったと伝えられているの。

今回の散策の行程も全て終了し、再び花水木通りへと戻って来ましたが、
歩道脇に立てられていた万葉モニュメントの中から「万葉うためぐり」最後の五首を紹介しますね。

・うらうらに 照れる春日に ひばり上り 心悲しも ひとりし思へば 〔 大伴家持 〕
うらうらに てれうはるひに ひばりのぼり こころがなしも ひとりしおもへば
・韓衣 裾に取り付き 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして 〔 他田舎人大島 〕
からころも すそにとりつき なくこらを おきてぞきぬや おもなしにして
・防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず 〔 防人の妻 〕
さきもりに ゆくはたがせと とふひとを みるがともしさ ものもひもせず
・あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ 〔 橘諸兄 〕
あぢさいの やえさくごとく やつよにを いませわがせこ みつつしのはむ
・新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事 〔 大伴家持 〕
あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと

さて、御覧頂いた世界に誇れる【萬葉集】は、多くの学者達の書写と地道な研究で伝えられてきたものです。中でも鎌倉時代の学僧・仙覚は、伝来の多くの書写を校合し、未詳であった152首の万葉歌に訓点をつけ、ルビを付し、また、最初の注釈書【萬葉集注釈】を、この小川町で完成させました。そして、現存する萬葉集の原本の殆どが仙覚本の写しとされる程です。仙覚の生まれは「比企氏と何らかの縁があったか」とする佐々木信綱(萬葉集の研究)、「比企氏かその縁故者とする説もある」(吉川弘文館・国史大辞典巻8)や、郷土史研究家達の推測もありますが、なお、研究の段階です。いずれにしても、我が小川町に大変所縁の深い、この偉大な学僧の威徳を称え、日本中の人から愛されるように、顕彰して行きたいものです。御紹介しました数々の万葉歌と共に、仙覚の歌二首を御覧頂ければ幸いです。平成17年(2005) 小川町活性化プロジェクト

・面影の 映らぬ時も なかりけり 心や花の 鏡なるらむ 【 続古今和歌集 】
おもかげの うつらぬときも なかりけり こころやはなの かがみなるらむ
・昆陽の池の 葦間の水に 影冴えて 氷を添ふる 冬の夜の月 【 続拾遺和歌集 】
こやのいけの あしまのみずに かげさえて こほりをそふる ふゆのよのつき

15. 楽市・おがわ らくいち・おがわ 15:37着 15:39発

今回の史蹟めぐりではすっかりξ^_^ξの足となり、支えてくれたレンタサイクルを返却。心配していた途中でのパンクも無く、無事に全行程を終了することが出来たの。実際に走ってみる前までは、もっと起伏のある地形を想像していたのですが、割合と平坦な道だったわね。確かに周りは山に囲まれてはいますが、盆地だからなのでしょうね。一番キツくて辛かったのは最後に紹介した仙覚律師遺跡への坂道ね。今回は史跡めぐりを中心にしましたが、小川町では、春になると、カタクリやニリンソウが里山に彩りを添えてくれるそうよ。暑からず寒からず−で、自転車でめぐるには好適な季節よね。その頃になったら、またレンタサイクルで訪ねてみたいものね。

16. (JR八高線・東武東上線)小川町駅 おがわまちえき 15:42着 15:44発

レンタサイクルも返却して、帰路につくべく小川町駅に戻ってきましたが、思い返してみれば、小川町との最初の出会いは金泉寺(嵐山町)の紫陽花を見に出掛けて来た折に駅前からバスに乗車したことなの。そのときに知ったのが岡本自然農園に咲くヘメロカリスで、開花時期を狙い、訪ね来たのが二回目の小川町で、少しづつ親密度をあげてきたと云うわけ。そうなると連想ゲーム状態で、見聞きしている内に、興味を覚える事蹟も多くあり、その内の幾つかを纏めて訪ね歩いてみたいと思うようになっていたの。


実際に訪ね歩いてみると、知られた観光地のように、一般受けするような名所旧跡があるわけでもないのですが、表通りから一歩離れて小径を辿れば、そこには歴史を秘めて佇む寺社や史蹟が残されていたの。嘗ての隆盛、今何処−の感が無きにしも非ずですが、落ち着いた町の佇まいは、そのことを含めて「武蔵の小京都」と呼ばれる由縁なのかも知れないわね。山端から迫り出したまばゆいばかりの緑に、町中を流れる槻川には小魚の泳ぎまわる姿があるなど、豊かな自然とふれあいながらの史蹟めぐり、たまにはあなたものんびりとしてみませんか。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたらwebmaster@myluxurynight.comまで御連絡下さいね。尚、記述に際し、現地案内板の説明を転載していますが、体裁変更&修正加筆していますので、必ずしも原文のままとは限りませんので、予め御了承下さいね。

〔 参考文献 〕
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
埼玉県神社庁刊 埼玉県神社庁神社調査団編 「埼玉の神社」大里・北葛飾・比企
笠間書院刊 小川町観光協会編 小川靖彦監修 万葉うためぐり
小川町発行 「小川町の歴史」資料編3 古代・中世
小川町発行 「小川町の歴史」別編・民俗編
小川町発行 「小川町の歴史」通史編
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など






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