≡☆ 鋸山と日本寺めぐり ☆≡
2012/05/19

今回は首都圏からのお手軽な行楽散歩として房総の鋸山と日本寺めぐりを紹介してみますね。
一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

鋸山と日本寺めぐり

1. 久里浜港 くりはまこう 9:20発

公共の交通手段を利用せざるを得ないξ^_^ξとしては、普通ならJR内房線を走る特急「さざなみ号」を利用するところですが、今回の散策では趣向を変えて東京湾の海上遊覧を加えてみたの。と云っても、既にお分かりのように、リッチなクルージングではなくて、東京湾フェリーへの乗船よ。料金にしても ¥700 と、お財布にもトコトン優しいの。乗船時間僅か40分余の船旅ですが、海上を行き交う貨物船や陸地側の景観の変化などを眺めながら過ごす時間は楽しいものね。それだけでも日常から解き放たれた気がしてくるの。

2. 金谷港 かなやこう 10:00着 10:07発

左掲はフェリーターミナルを後にして歩き始めたところで見つけたハイキングマップですが、とっても分かり易いの。イラストマップなので正確な距離や方角を知るには不向きですが、歩く際の目印となる建物や施設などはしっかりと網羅されているのでこれなら迷うこともないわね。尤も、今回は鋸山ロープウェイを利用しての登頂ですので、山麓駅入口までは単に国道R127を歩くだけの一本道。これを迷うようであればどこにも出掛けられないわね(笑)。

ξ^_^ξはこのイラストマップで初めて鋸山をめぐる「関東ふれあいの道」があることを知ったの。
いつか踏破にチャレンジしてみたいわね。

ラーメン屋さん ザ・フィッシュ
以前訪ねたときには2Fに素敵な喫茶店があったの。 TheFish

3. 本覚寺 ほんかくじ 10:25着 10:28発

寺院

鋸山ロープウェイ入口BSを少し過ぎたところで寺院の門柱を見つけて訪ねてみたのがこちらの本覚寺。帰宅後に調べてみると、この本覚寺は後に浄土宗総本山の知恩院第32世となった檀蓮社雄誉(霊巌)上人が元和年中(1615-24)に念仏弘通の途次に開創したもので、上人は以前から房総里見氏との関わりが深く、第9代義康やその子・忠義の帰依も受けていたみたいね。その忠義が不本意な国替えから倉吉に移封されると、西国行脚に託けて彼の許を密かに訪ねてもいるようよ。その里見氏の後盾もあり、当時は舟運に従事する者や漁師などから広く信仰を集めていたみたいね。現在は始覚山本覚寺海上院を正式な山号寺号とする浄土宗寺院で、松翁院(富津市竹岡)末。

4. 金谷神社 かなやじんじゃ 10:29着 10:34発

神社

本覚寺とは民家数軒を隔てて建つのがこの金谷神社で、創建は何と奈良時代の養老4年(720)と伝えられているの。主祭神は金山彦神で、金山姫神・金屋子神と共に鉱山・製鉄の神とされ、金屋子神はその名からもお分かりのように金山彦・金山姫の夫婦神の子で、三神を合わせて金山大明神と呼ばれることもあるの。この金屋と云うのが実は鍛冶職人(タタラ師)のことで、彼らは鉱山から掘り出された鉄鉱石をタタラ炉で熔解精錬し、鉄器を鋳造していたの。そのタタラ師が祖神として祀っていたのが金屋子神と云うわけ。金谷の地名はその金屋に由来しているのですが、この地でも古くから製鉄に従事する人々がいたことが窺えるの。

摂社

千葉県指定有形文化財 金谷神社の大鏡鉄 昭和41年(1966)12月2日指定
社伝に依れば文明元年(1469)6月、神谷神社西方0.55Kmの海中より引き揚げられたものと云われる。元来、円形であったものが折れたと思われる。半円形を呈し、径1.6m・厚さ11cm・重量1.571tで、片面の縁には幅6cmの枠があったと思われる。工学博士・長谷川熊彦氏は同鏡鉄を分析し、砂鉄を原料とし、猟鉄(ねずみづく)を鍛造したものであり、砂鉄精錬炉「たたら」に依って製作したものとしている。鉄尊又は鉄尊権現として民間信仰の対象ともされてきた。製鉄技術を知る上で貴重な資料である。昭和59年(1984)1月1日 千葉県教育委員会・富津市教育委員会

境内を物色中(笑)に見つけたのがこの大鏡鉄(だいきょうてつ)で、本殿脇の小社に祀られていたの。【房總志料續篇】には「金谷に釜神の祠有 殿内に大なる鐵の釜の蓋有 厚八寸 周圍七尺五寸 相傳 人鑄るにあらず 海龍王厨下の物なりと・・・〔 中略 〕・・・釜の蓋と稱する物 今祠後の窟中に納めて有り 半月形のもの二枚 幾年を經し物なるか 今に腐化せず 金谷の名 蓋し此鐵蓋に依りてか 鐵尊大明神と崇む」とあるの。海龍王の鋳造だとする伝承はさておき、鉄釜の蓋とみなされていたのは間違いないようで、じゃあ、どんな鉄釜なのかが気になりますが、この大鏡鉄の正体と来歴をめぐっては研究者の間でも諸説紛々みたいね。

呼称の大鏡鉄ですが、【房總志料續篇】には「平田篤胤が玉手綴巻五十一丁此鐵尊明神の考有り」とあり、篤胤は【玉襷】の中で「王の東征し給ふに 軍衆の乗りたる船はなほ数艘ありて 其の船毎に大鏡を懸けたるが中に沈みたるものありて 其に懸けたる鏡にやと思はる」としているの。ここでの王とは日本武尊のことで、当時は船の舳先に大鏡を懸けて航海するのを常としていたので、座礁或いは沈没した船が懸けていた大鏡ではないか−と推考しているの。But 日本武尊云々は神話の世界でのお話しなので単純に史実とみなすわけにもいかないのですが、少なくとも呼称の由来についてはお分かりいただけたのではないかしら。

5. ロープウェイ山麓駅 ろーぷうぇいさんろくえき 10:36着 10:45発

乗車券

ξ^_^ξには意外な印象なのですが、この 鋸山ロープウェイ は千葉県内では唯一のロープウェイなのだとか。それ以上に驚かされたのは、その開通が昭和37年(1962)だと云うことね。構内に漂うレトロ感はそんな背景からのものですが、手渡された乗車券も今どき珍しい硬券なの。改札の際には係員の方が鋏を入れると云う念の入れようよ。懐かしさを感じる方も、また、そうでない方も、乗車を待つ間のひとときを昭和ロマンに身を委ねてみて下さいね。

ロープウェイは僅か4分程の乗車ですが、上るに従い、眼下には金谷の街並みと雄大な東京湾の景観が広がってくるの。鳥にでもなった積もりで、しばしの空中散歩をお楽しみ下さいね。ゴンドラからの景観を幾つかアップしておきましたので、気になる方はクリックしてみて下さいね。因みに、平成24年(2012)12/21からはゴンドラも新たにスイス製の新型が導入され、より一層ワイドな景観が楽しめるようになったみたいよ。乗車券:¥500( 片道 )15分毎発

6. ロープウェイ山頂駅 ろーぷうぇいさんちょうえき 10:49着 11:14発

ロープウェイでは目にした景観を脳裏に焼き付ける間もなく次の新たな景観が眼前に現れ、気付いたときには山頂駅に到着していると云う慌ただしさなの。折角の景観なんだもの、もう少し時間を掛けて堪能したいものよね。それをかなえてくれるのが山頂駅に設けられた展望台なの。ロープウェイの運転室の階上にあるので下り行くゴンドラを真上から眺め降ろすことも出来るの。加えて、ゴンドラからだと稜線に遮られて見えなかった保田方面の景観もここでは目にすることが出来るの。天候に恵まれたなら富士山は勿論、伊豆半島を始め、大島・利島・新島などの伊豆諸島も遠望出来るみたいよ。

資料館 山頂駅の建物内には石切り資料コーナー(見学自由)があり、鋸山の成り立ちや、産出する凝灰岩が房州石と呼ばれて、嘗ては建築資材として盛んに利用されたことなどが案内されているの。この後紹介する百尺観音や地獄のぞきはいずれもその石切場跡を利用したものなの。他にも鋸山の山中には房州石を切り出した後の断崖絶壁があちらこちらに残されているみたいね。コーナーには当時の作業風景などを収めた貴重な写真も展示されているので、是非御覧下さいね。

〔 鋸山の地質 〕

鋸山は第3紀中新世の頃、海底に堆積した火山灰から出来た凝灰岩である。
これは房州石と云い、2つの種類がある。

凝灰角礫石(竹岡凝灰角礫岩)
性質:質が均一で、霜や雨にも強く、火にも変化しない(上石)
産地:鋸山山頂付近
凝灰質砂岩(萩生火碎岩)
性質:質が均一でなく、水や火にも弱いが加工しやすい(下石)
産地:鋸山中腹以下、登山口石切場

〔 鋸山・石切りの歴史 〕

室町時代
安房里見氏の出城(鋸城)にて、柱のツカ石として使用される。
江戸時代
安政の頃、伊豆の石切職人が渡来し鋸山周辺で建築用に石切りを始める(土丹岩)。更に万延・元治・慶応の頃になるとそれまでの悪い石(下石)から、質の良い石(上石)の採石が盛んになり、石切場も鋸山本峰に移った。明治28年(1895)には横浜港開港に伴い、護岸工事用材・土木工事材として優秀性が認められ生産も大規模化された。
明治時代
文明開化に伴い、房州石の需要も益々増え、京浜地方、特に横浜市・横須賀市の公共事業指定石材にもなり、金谷地区の総人口の80%が石材産業に従事していた。
大正時代
この年12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で多くの護岸が崩れ、石積みの時代からセメント工法による時代に移る。しかし、横須賀追浜天神橋護岸・横浜高島桟橋護岸、更に多くの石塀や石倉が今でもビクともせず現存している。
昭和時代
セメントの進出により、採石産業も衰退し、更に軍国主義のなか、鋸山も登山禁止となる。僅かに軍需用としての下石採石が細々と行われた。戦後、採石も機械化され、一時パン焼きカマドなどに使用されたが、それも終りを告げ、繁栄を誇った採石跡は、その奇岩・怪石と共にその景観美は、現在国定公園にも指定され、多くの人々の目を楽しませているのである。

山頂駅展望台から更に石段を10段程登った岩場の頂には「鋸山山頂 標高329m」の標識が立てられているのですが、本当の山頂は更に東に1Km程離れた場所に位置するの。標高は勿論329mよ。因みに、この標識が立つ地点の標高は262m前後で、ロープウェイの山頂駅にしても250m程なの。確かに山頂駅展望台に続く石段を10段程登ったかも知れないけど、100m近くを一気に上った記憶は無いわね。さしずめこの岩場は観光客向けの山頂と云うところかしら。その山頂からの展望を目に焼き付けたところで日本寺へと向かいますが、途中の道筋は整備されているとはいえ、決して歩き易い道ではないので足許には充分御注意下さいね。

7. 日本寺西口管理所 にほんじにしぐちかんりしょ 11:23着発

入山券 〔 参道改修記念碑 〕  鋸山日本寺は、正しくは乾坤山日本寺と称し、聖武天皇の勅詔と光明皇后の令旨とに基づき、皇后の感得されし東方薬師如来を拝祀する「日本の寺」として、神亀2年(725)6月8日行基菩薩に依って開創された関東最古の勅願所である。初め法相宗に属し、次いで天台・真言宗を経て、徳川三代家光将軍治世の時、曹洞禅宗となって今日に及んでいる。山中現存の古碑銘にある如く、曽ては七堂十二院百坊を完備し、良弁僧正・弘法大師・慈覚大師等の名僧知識が相次いで来山留錫した我が国希有の古道場であったが、数次の兵禍に罹って衰微し、養和元年(1181)源頼朝公に依って復興を見、更に貞和元年(1345)足利尊氏公に依って修復されしも、時の流れと共に漸次朽廃し、徳川幕府の倒壊王政維新の成るに及んで廃仏毀釈の流弊は当山に致命的悲運をもたらし、全山全て荒廃に帰し、安置した仏像の多くが破壊されたのも実にこの間のことである。不運と試練はこれに止まらず、昭和14年(1939)11月26日、全く諦め切れぬ原因の失火に依って、僅かに残された薬師本殿・法堂・庫院・鐘楼等の堂宇数棟と、貴重な御下賜品・国宝・仏像等の寺宝悉くが烏有に帰し、更に日華事変に続く大戦の勃発は衆生済度の仏縁を断って全山を要塞と化し、あたら名刹も絶勝も荒蕪寂寥に委され、ここに復興の気運を大きく遅らせた。

然れども鋸山々中十万有余坪に亘る寺域は昔に変わらぬ霊境で、北に瑠璃・日輪・月輪の三峰を擁し、鬱蒼たる古木全山を蔽い、太古よりの風蝕に依って神鐫鬼斧を加えられた危峭霊窟の間には御丈31mの大薬師仏をはじめ釈迦・弥勒・観音・地蔵・羅漢等の1,500余躰の石像を安置し、古来天台の雁塔に比せられている。更に山頂十州一覧台の眺望たる、東を臨めば房総の山波画図の如く、西は東京湾を眼下に富嶽に対し、箱根・天城・大島を指呼す。北は筑波・日光・秩父の諸山共に黛の如く、南は近く房州沿岸の地盆景に似、遠く目を放てば水天髣髴その極るなし。真に関東第一の名を空しくせず。これ当山拝登山者の年々累加する所以である。

然るに、当山往時の参道は当山の石(第三紀層の凝灰岩山塊)にて造成されしもの故、石質甚だ軟弱なために多年の風水の浸蝕及び多数の参詣者の通行に依って摩滅損傷凹凸激しく、殆んど全域に亘って通行極めて難渋の状態にあり、関係者の久しく憂うる処であった。この度その参道が世界救世教の寄進に依り階段数2,639段、踊場数159、総延長2,700mに亘って大改修され、その殆んどが御影石・鉄平石張りの堅固なものとなり、且、排水施設・安全施設等も万全に整備された。ここに於て、当山の参道は旧時の面目を全く一新し、階段数・延長・美観皆共に日本第一の参道となった。蓋しこれ、当山復興の嚆矢ならん。然して其の因る所は、当寺と世界救世教教祖岡田茂吉氏との深き結縁にして、人智の図り知られざる計である。ここに参道改修の竣工を記念し、之れを刻して天下後世に伝える。昭和56年(1981)12月8日 当山曹洞21世 宕嶺徳禅 撰  〔 一部修正加筆 〕

管理所脇に建つ参道修復記念碑の碑文を引いておきましたが、行基の開創はマユツバものね。と云うのも行基が活躍したのは専ら畿内のことで、関東に下向して来たことを示す傍証は何もないの。この日本寺に限らず、関東でも多くの寺院が行基との関連付けを以て開創縁起を語るけど、いずれも寺格を高めるために後世に付与されたものなの。譬え嘘でも信ずるものには事実−の世界ですが、確かな記録が残されていない以上、誰が開創したのか分からないのも事実のようね。それはさておき、記述にある堂宇や寺宝の悉くが烏有に帰したと云う昭和14年(1939)の大火は入山者の失火が原因だそうよ。同じ過ちを二度と繰り返さないためにも、拝観時には歩行中の喫煙などは絶対にお止め下さいね。拝観料:¥600

≪十州一覧台≫ じゅっしゅういちらんだい 11:32着 11:42発

拝観受付を済ませて最初にアプローチしたのが十州一覧台で、息を切らせて石段を登ると小さな社が見えてきたの。それが浅間神社で、社殿は東京湾を背にして建てられているの。浅間神社と云えば、その総社とされるのが富士山本宮浅間大社で、御神体は勿論富士山よね。空気の澄んだ日なら浦賀水道を隔てた遙か向こうにはその富士山が姿を見せてくれるのではないかしら。替わって浅間神社の右手には世界救世教記念碑があるの。

ねえねえ、十州ってなあに? 州とは国のことなの。江戸時代には箱根の関所から東、白河・勿来関の南にかけて関八州と呼ばれる八ヶ国が存在していたの。現在の関東地方に当たるエリアで、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野国があったの。ここでの十州は、その関八州に伊豆と駿河を加えたものを指すの。伊豆と駿河は今の静岡県ね。

この碑は、昭和6年(1931)6月15日、世界救世教岡田茂吉教祖の受けた天啓を記念して建立したものである。岡田茂吉教祖は、神示に依り昭和6年(1931)6月14日、20数名の弟子と共に当山に登り、曹洞禅宗の名刹、関東最古の勅願所たる乾坤山日本寺に拝宿し、翌15日未明、当十州一覧台山頂に立って東天に昇る旭光を拝し、祝詞を奏上した。この時教祖は、その光芒の中に大宇宙の夜昼転換という神の啓示を受け、人類救済と地上天国建設の大使命を感得した。かくて教祖はこの天啓に基づき立教の準備を整え、昭和10年(1935)1月1日本教を創立した。依って世界救世教立教の源泉は、この時に創るとし、この地を本教聖蹟と定め、日本寺の好意により、昭和40年(1965)6月、「天啓聖蹟」碑を建立したものである。昭和56年(1981)12月吉日 宗教法人 世界救世教

十州一覧台を後にして次は百尺観音へ向かいましたが、道すがらの景観を幾つかアップしておきますね。

≪百尺観音≫ ひゃくしゃくかんのん 11:51着 11:58発

昭和41年(1966)5月、6ヶ年の歳月を費して完成した大観音石像です。発願の趣旨は、一つには世界戦争戦死病没殉難者供養のため、また一つには近年激増する東京湾周辺の航海、航空、陸上交通犠牲者供養のためです。当山山頂に切りたつ、険しい崖に囲まれた雄大な勝地に安置される大観音像は、交通安全の守り本尊として、多くの人々の尊崇を集めています。

切り立つ岩壁に挟まれた道を抜けると、空にポッカリと穴の開いたような広場に出ますが、壁面の大きな窪みに陽刻されているのがこの百尺観音なの。その名は磨崖仏の高さが百尺( 約30m )あることに由来するのですが、この窪みもまた石を切り出した跡なの。それも良質の石材を求めて切り出した跡みたいよ。普通なら足下から切り出すのですが、敢えて横穴を開けるようにして縦切りしているの。鉱山に例えれば優良な鉱脈が見つかったと云うところね。その石切場跡を活用したにもかかわらず、彫像に6年もの歳月をかけているのは凄いわね。

広場には北口管理所があるの。
自力で登山道(観月台コース)を登って来られた方はこちらで拝観受付をして下さいね。

百尺観音を前にして左手を見上げれば、名所「地獄のぞき」が空中に突き出しているの。高所から地上を見下ろすのも怖いかも知れないけど、下から見上げる「地獄のぞき」の姿形にも充分に怖いものがあるわね。そんなに多くの人が載ったりしたらその重さで岩が崩れ落ちてしまうんじゃないの−と。

≪地獄のぞき≫ じごくのぞき 12:11着 12:14発

地獄のぞき

百尺観音から来た道を戻り、今度は左端の急な石段を登ると「地獄のぞき」の迫力ある景観が目に飛び込んでくるの。その「地獄のぞき」に立つ前に展望台で予行演習を。先程の観音広場を端から見下ろすと、休憩する方々の姿が何と小さなことか。防護柵があると分かってはいても、思わず膝に震えがきてしまうの。

≪山頂展望台≫ さんちょうてんぼうだい 12:14着 12:20発

≪西国観音≫ さいごくかんのん 12:25着 12:29発

〔 東海千五百羅漢 〕  当山曹洞第9世・高雅愚伝禅師の発願に依り、上総桜井(現・木更津市)の名工・大野甚五郎英令が安永8年(1779)から寛政10年(1798)に至る前後21年間、門弟27名と共に生涯をかけて1,553体の石仏を刻み、太古よりの風蝕に依って出来た奇岩霊洞の間に安置し奉ったものです。これは実に、比べるものがないと云われた中華民国懐安大中寺の八百羅漢を凌ぐもので、鋸山は世界第一の羅漢霊場として遠く海外にも知られています。海を経て伊豆から運ばれた石材に真心を込めて彫刻された千態万状の尊像は、全て久遠の慈容を湛える驚くべき名作です。当山の貴重な寺宝であることは勿論、わが国の文化財としてもかけがえのないものですが、惜しくも明治維新の排仏毀釈以来、荒廃したままで現在に至り、目下「羅漢様お首つなぎ」を初め、全山の復興に努力しております。〔 日本寺栞より 〕

≪通天関≫ つうてんかん 12:30着 12:32発

西国観音前から続く石段を下ると隧道が見えてきますが、それがこの通天関なの。こちらも岩盤を刳り貫いて造られたもので、山門よろしく両袖には仁王像が脇侍しているの。その名の如く、通天関は天に通ずる関所の意で、ここからの石段道は天国に通じる階段だそうよ。そうとは知らずに石段を降りて来てしまったξ^_^ξはどこへ・・・

≪百躰観音≫ ひゃくたいかんのん 12:36着 12:38発

栞の記述にもあるように、明治期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐は御多分に漏れず、この日本寺にも襲いかかるの。中でも千五百羅漢の破壊は凄まじく、一時は首なし羅漢と揶揄されるほどの惨状だったと伝えられているの。But 壊滅的な損壊を被った理由が他にもあると云うの。それは何かと云うと巷に流布していた迷信なの。となると、どんな迷信かが気になるわよね。今でも「いろいろな表情の羅漢さまがいらっしゃるので、あなたに良く似た羅漢さまが見つかるかも知れませんよ」などとガイドさんに云われることがあるわよね。当時はそれ以上に、自分が想いを寄せる人と良く似た羅漢さまを見つけたら人に知られずにその首を持ち帰り、密かに供養するとその願いがかなう−などと云われていたの。また、羅漢像の欠片を飲めば博打に強くなれる−との噂が博徒達の間に流布していたの。鎌倉ではお地蔵さまの首がターゲットにされていたけど同じ理由ね。

≪あせかき不動≫ あせかきふどう 12:40着 12:41発

≪大野甚五郎英令の墓≫ おおのじんごろうえいれいのはか 12:50着 12:53発

この日本寺ですが、最初から鋸山の中腹に開創された訳ではなくて、元々は山麓の元名村字寺畑にあったとされ、それを現在地に移転させたのが中興の祖とされる高雅愚伝禅師なの。安永3年(1774)のことで、遅れて羅漢像の造立が始まるの。その制作過程は前述の通りなのですが、禅師自ら石材を求めて伊豆に出向くなど、並々ならぬ力の入れようなの。請われて羅漢像の彫像にあたった英令もまたしかりね。羅漢像の完成を見て肩の荷を降ろしたのか、48歳の若さで没してしまうの。紹介した「英令の墓」も実は弟子達が建てた供養塔みたいね。一門が刻んだ羅漢像も実際には1,553体の内の1,200体程だそうよ。残りの53体は古仏で、300体は後世に加えられたものだとか。だからと云って彼らの功績が色褪せるわけでは決してないけれど。

≪宝篋印塔≫ ほうきょういんとう 12:54着 12:55発

説明には江戸蔵前の大口屋平兵衛が寄進したもの−とありましたが、平兵衛は旗本や御家人などの俸禄米を換金する札差商を営んでいたみたいね。当時は年貢米が幕府財政の基礎と雖も世は貨幣経済。武士にしたら俸禄米を受領したとしてもそれを換金する必要があったの。本来なら旗本や御家人自らが御蔵に出向いて俸禄米を受け取り、次いで米問屋に買い受けて貰い現金化すべきところなのですが、一連の手続きを手数料を取って代行する者が現れてきたの。それが札差で、転じて俸禄米を担保に貸金業もするようになったの。札差は俸禄米の換金手数料もさることながら、その貸金の利息でかなり潤っていたみたいね。その札差の多くが浅草蔵前に店を構えていたのですが、大口屋平兵衛はその内の一人と云うわけ。江戸を遠く離れたこの地に宝篋印塔を寄進することになった経緯や、そのときの平兵衛の心の裡まではξ^_^ξには分からないけど。

≪日牌堂≫ にっぱいどう 12:56着 13:01発

≪薜蘿洞≫ へいらどう 13:02着 13:03発

案内板には「薜蘿掛って錦の如く 洞中龍の蟠るに似たり」とあり、薜蘿を「べきら」と訓ませていたけど、本当は「へいら」と読むのが正しいみたいよ。調べてみると、薜蘿は元々は薜茘(へいり)や女羅(じょら)などの、かずらやつる状に伸びてまつわりつく植物の総称で、薜茘はテイカズラやツルマサキを指し、女羅はサルオガセ科の植物の総称で、下苔(さがりごけ)とも呼ばれ、ブナや針葉樹の枝や幹に互いに絡まって群生する植物なの。門外漢のことなので、より詳しいことは他のサイトを参照していただくとして、薜蘿には転じて「隠者の服」の意もあるのだとか。薜蘿纏いて錦の如く−であれば、さしずめボロは着てても心は錦−と云ったところね。ちょっと違ったかしら。

≪無漏窟≫ むろうくつ 13:04着 13:08発

御多分に漏れず、この日本寺も鎌倉後期から南北朝期にかけての戦禍を受けて荒廃するのですが、それを再興したのが足利尊氏なの。その尊氏が国家の安寧を願い、一時期この無漏窟に参籠したとも伝えられているの。優柔不断の割にはひとたび立ち上がると向かうところ敵なしの感がある尊氏ですが、十方の諸仏が背中を押していたのかも知れないわね。

≪維摩窟≫ ゆいまくつ 13:11着 13:12発

≪聖徳太子像≫ しょうとくたいしぞう 13:13着 13:15発

石橋 不動滝

聖徳太子は法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書【三経義疏】を著わすなど、仏教への深い造詣もあり、十七条憲法では「篤く三宝を敬へ 三宝とは仏法僧なり 則ち四生の終帰 万国の極宗なり」と、最大限の奨励をしているの。そんなことから日本仏教の始祖と仰がれてもいるの。案内板に「法中の王最も高勝」と記される所以ね。その聖徳太子像の先には天台石橋が架かり、右手に続く石段を上ると不動滝があるの。残念ながら今となっては瀑布と呼ぶには程遠い流水量ですが、嘗ては滝水に打たれる行者達の姿があったのかも知れないわね。その不動滝の案内板には「茫々たる宇宙人無数 幾箇の男児が是れ丈夫」とあるのですが、宇宙人無数−と、切らずに読んでしまったξ^_^ξはエッ?宇宙人?何なの、これ−状態(笑)。

≪護摩窟≫ ごまくつ 13:22着発

護摩窟

≪小林一茶句碑≫ こばやしいっさくひ 13:25着発

阿羅漢の 鉢の中より 雲雀かな

作者小林一茶は江戸後期葛飾派の俳人。信濃柏原の人。14歳で江戸へ出、俳諧を二六庵竹阿に学んだ。一茶は、いわゆる「一茶調」の独特の句を詠み、俳句を庶民の親しめるものにしたことで有名である。この「阿羅漢」の句は、一茶の「七番日記」と題する句帖の中の、日本寺と前書きのある句の最初のものである。

≪大仏≫ だいぶつ 13:34着 14:11発

〔 薬師瑠璃光如来 〕  この大仏さまは、宇宙全体が蓮華蔵世界の浄土であることを現し、人々の本性の限りない解脱自由と、世界平和万世太平の大象徴であります。原型は天明3年(1783)に名工・大野甚五郎英令を頭梁として彫刻完成されましたが、惜しくも江戸時代の末期に、自然の風蝕と岩石の亀裂に依って著しく崩壊し、その後荒廃にまかされておりました。昭和40年(1965)、二紀会審査員(故)八柳恭次氏の指導を受けて復元工事に着手し、昭和44年(1969)6月に現在のお姿に彫刻再現されました。名実共に日本最大の磨崖仏であります。

大仏

説明にもあるように、この大仏さまもその原型は羅漢像と同じく大野甚五郎英令が門弟27名等と共に三年と云う歳月を費して彫り出したものなの。大仏さまと云うと鎌倉・高徳院の阿弥陀如来坐像、通称・鎌倉大仏や奈良の東大寺にある盧遮那仏が広く知られていますが、意外にも高さは13mに18m止まり。対して日本寺の大仏さまは31mの大きさを誇り、まさに日本一。33万m²と云う広大な敷地に鎮座する大仏さまにふさわしいスケール感よね。その大きさに接近遭遇してみたい方は上の大仏さまの画像を要クリックよ。全部で8枚程アップしておきましたのでお楽しみ下さいね。

大仏広場の一角には御覧の聖菩提樹やお願い地蔵尊があるの。聖菩提樹はお釈迦さまがその木の下で坐して悟りを開いたと云うブッダガヤの菩提樹のことで、本来なら門外不出のところを特別に分木されてきたの。何でそんな貴重なものがここにあるのかと云えば、日本寺を訪れたインド大統領特別補佐官のラーマ・ロブサング大僧正がインド政府にはたらきかけて特別に許可されたものなの。傍らに建つ獅子法輪石柱も聖菩提樹の分木に合わせてインド・アショーカ寺貫主から贈られてきたものだそうよ。残念ながら訪時にはその姿を拝むことが出来なかったのですが、寒冷時には別養生しているみたいね。超A級の貴重な聖菩提樹だもの、気候風土が異なると雖も寒さなんかで枯らしてしまっては大変よね。否、日本寺のメンツにかけて枯死させられない(笑)。

大仏広場には拝観グッズの売店もあり、飲料水の自販機も設置されていますので、歩き疲れた方は傍らにある休憩処で一息入れて下さいね。それと、ここから先は保田駅までお手洗いが無いのでトイレ休憩も忘れずにね。

≪大黒堂≫ だいこくどう 14:21着 14:22発

〔 大黒堂 〕  弘法大師一夜彫刻爪彫大黒天を祀る

本尊の大黒尊天は、当山にて弘法大師御修行の折に彫刻された石仏で、秘仏とされて居り、開運厄除・商売繁盛・家内安全に御利益が有ると伝えられております。御前立は、現代の名工・渡辺貞光師に江戸時代の版木を元に製作して頂きました。平成17年(2005)12月再建

≪薬師本殿≫ やくしほんでん 14:24着 14:26発

薬師本殿(医王殿):当寺本尊薬師瑠璃光如来を祀る
昭和14年(1969)、不慮の火災により焼失したが、60余年の時を経て鵤工舎小川三夫棟梁の手に依り、平成19年(2007)10月に再建された。様式は鎌倉時代の禅宗様式。焼失前の仏殿は、源頼朝による医王殿の扁額が掲げられていた。


補:医王殿の呼称は薬師如来の異名・大医王仏に由来するの。

≪源氏不動≫ げんじふどう 14:27着 14:28発

源氏不動

碑面には不動明王像が線刻されているの。案内板には〔 源氏不動 〕  行も亦禅 坐も亦禅 語黙動静体安然−とあり、源氏を冠することからこれもまた源頼朝に関係する事物かしら−と思いきや、後に旗本の曽根懶斎(そねらいさい)が寄進したものだそうよ。その人物像が不詳ですが、あるいは清和源氏に繋がる家系なのかも知れないわね。同じ血脈にあることに共感を覚えた懶斎は頼朝ゆかりのこの地に碑を建てた−と云うのはどうかしら。But 脳天気な旅人の勝手推量ですので呉々も鵜呑みにはしないで下さいね。だったら書くな!かしら。因みに、懶斎はこの後紹介する観音堂に掛かる扁額「円通閣」の揮毫もしているの。

≪乾坤稲荷≫ けんこんいなり 14:28着 14:30発

お稲荷さん

説明には〔 乾坤稲荷 〕  荼吉尼天(だきにてん)を祀る。衆生の心垢を食し、良く仏慧に入らしむ−とあるのですが、乾坤は鋸山の正式名称・乾坤山に由来するの。それはさておき、荼吉尼天( or 荼枳尼天 )を祀る−とあることから祭神は仏教系のお稲荷さんね。元々はヒンズー教の神さまで自在の神通力を持つと云われたダーキニー神 Dakini が仏教に習合され、荼枳尼と音訳されたの。その荼枳尼天が更に稲荷神に習合されてゆくの。ダーキニー神は自在の神通力を持ち、人間の生死を半年前に見抜き、その心臓を喰らう鬼女だったのですが、大黒天に敗れた後は眷属となり、仏教の守護神になったの。

≪頼朝蘇鉄≫ よりともそてつ 14:32着 14:37発

道なりに進むと見えてきたのが御覧の頼朝蘇鉄。樹齢800有余年の大蘇鉄で、源頼朝が御手植えしたものと伝えられているの。石橋山の合戦に敗れ、真鶴から房総に逃れ来た頼朝が戦勝祈願をした際に植樹したものみたいね。この日本寺を参詣した背景には薬師如来が戦傷の治癒にも霊験灼かとされていたことが関係しているみたいね。戦勝と戦傷治癒の双方の功あってか頼朝は後に諸堂の再興をしているの。その頼朝蘇鉄に護られるようにして達磨石や長谷川馬光の句碑も建てられているの。

引きおろす 鋸山の 霞かな

作者・長谷川馬光は葛飾派山口素堂の弟子で、二六庵竹阿の師である。有名な小林一茶は孫弟子にあたる。この碑の除幕式は寛政2年(1790)4月1日に行われたが、一茶は師の竹阿が3月13日大阪高津に歿したので、二六庵を継いで故師の代参として列席した。一茶28歳の春で、房州に足を入れた初めでもあった。

本堂 以前訪ねた際には紹介した頼朝蘇鉄に対面して仮本堂が建てられていたのですが、古い建物も取り壊されて、愈々新しい本堂の建設の運びになったみたいね。と云っても、現在( ′12.05 現在 )は御覧のように新たに盛土した基壇が造成されたところで中断しているの。ここから先は参詣者の入山料や篤志家の喜捨次第みたいね。替わって画面左手には梁川星巌の漢詩を刻む石碑が建てられ、頼朝蘇鉄の背後に建つ鐘楼には国指定重要文化財の釣鐘が架かるの。合わせて紹介しておきますね。

句碑 「鋸山に遊ぶ」 梁川星巌
流丹万丈芙蓉を削る 寺は磅唐の第幾重にか在る 地を捲くの黒風海角より来り 時有りて微雨山容を変ず 三千世界孤掌に帰し 五百の仙人一峰を共にす 怪しみ得たり残雲の腥気を挟むを 老僧夜降す石潭の龍

梁川星巌は幕末、神田お玉ヶ池に玉池吟社を開き、江戸詩壇を風靡した漢詩人。
美濃(岐阜県南部)の人

釣鐘

日本寺鐘 国指定重要文化財 総高:117.5cm 口径:62cm 昭和51年(1976)6月5日指定
《銘文》下野州佐野庄堀籠郷/応龍山天寶禅寺/住持沙門大朴玄淳/大檀那/中務尉藤原朝臣通義/堀籠宮内左衛門尉源有元/大工/甲斐権守卜部助光/沙弥行阿沙弥道密/元亨元年辛酉(1321)十二月(欠字)日〔 以下省略 〕
この鐘は、初め下野国佐野庄堀籠郷(栃木県佐野市堀米町)の天宝寺(現称天応寺)鐘として寄進され、60年を経て鎌倉五山の一つである浄妙寺鐘となり、後、江戸湾を渡り日本寺鐘となった歴史的名鐘である。日本寺に移った時代は不明。鋳工は幾多の国宝や重文の茶の湯釜を残した佐野天命(佐野市天明町)の助光である。

≪心字池≫ しんじいけ 14:40着 14:41発

心字池 説明には「心にかかるちりもなし 心の池に心あらいて 濁りなき心の水にすむ月は 波もくだけて光とぞなる」とあるのですが、残念ながら目の前にした池水は説明とは裏腹の透明度で、池底には折れた枯枝や木の葉が降り積もっている状態なの。清流を流して−などと我が儘は云う積もりは無いけど、もう少し手を入れて欲しいわね。そんなことを云うておるお前は修行が足りん!−かしら。心眼を以てすれば濁り水もまた七色に輝く生命(いのち)の水に見えるじゃろうて。喝〜〜〜ッ!(笑)

≪観音堂≫ かんのんどう 14:43着 14:45発

行基椎

安房国札第八番 十一面千手観世音菩薩
はるばると のぼれば日本の 山おろし まつのひびきも みのりなるらん

観音堂の左手には表参道管理所があり、正攻法で参詣される方はこちらからの入山になるの。
But そんな殊勝な方にはついぞ出会うことなく参詣を終えてしまいましたが。

≪仁王門≫ におうもん 14:45着 14:48発

参道

≪弘法井≫ こうぼうのい 14:49着 14:51発

弘法井

左掲は参道脇にある弘法井ですが、説明には「弘法大師手穿の井」とあるの。弘法大師が金剛錫で突いたところ、その場所から泉が湧き出したと云う逸話は数多く耳にしますが、何とここでは手堀りしたと云うのですから凄いわね。それにしても、ある時はその爪で石造の大黒天を彫像してみたり、また、ある時は素手で井戸を掘ってみたり−と、さすがは弘法大師、変化自在の手の持ち主ね。ごめんなさい、ちょっと茶化し過ぎてしまいましたね。説明には「千年未だ絶えず」ともあるのですが、残念ながら今となってはこの水で喉を潤してみようかしら−などとはとても思えない状態なの。

江戸末期の天保3年(1832)に著された【房總志料續編】には「四丁目 左の方茶店あり 六丁目に又茶店あり 七丁目仁王門額有り」とも記されるので、当時はこの弘法井の湧き水が或いは利用されていたのかも知れないわね。単なる想像でしかないけど。

≪表参道入口≫ おもてさんどういりぐち 14:57着発

千葉県指定名勝 鋸山と羅漢石像群 昭和29年(1954)12月21日指定 管理者 日本寺
鋸山は房総に於ける名山で、勝れた風致景観の芸術的価値は勿論、山中の地質や動植物は学術的にも貴重な存在である。この鋸山の中心部25haは、聖武天皇の勅願に依り神亀2年(725)6月8日行基菩薩が開創したと伝える乾坤山日本寺の境内地で、十八勝、三十六景などの勝地秘境に富んでいる。

たれもかも鋸山はめづらしと 来るたびごとに目をひきたててみん 〔 大田蜀山人 〕

自然の中にあって、ひときわ光彩を放っているのが千五百羅漢の像で、日本寺の後背をなす中腹の至る所に、数多くの石仏を安置している。この石仏群を総称して東海千五百羅漢と云う。羅漢建像の由来は、日本寺曹洞第9世の高雅愚伝禅師が安永9年(1780)6月8日に発願し、安房・上総・江戸をはじめ各地の信者の浄財をもとに建立されたものと云い、愚伝禅師は自ら伊豆の石山を尋ねて石材を求めたと云い、上総国桜井(現在の木更津市桜井)の大野甚五郎英令らがこれを彫った。それらの像は奇岩・怪石・霊洞の間に安置されている。その数と質は、羅漢尊者応現の道場として名高い中国懐安大中寺の八百羅漢をしのぎ、世に羅漢山の別名がある。昔中腹の岩壁に彫った大仏の復元工事は、県・町の補助事業で、昭和44年(1969)3月完了し、往時の偉容が再現された。像高21.3mの日本寺大仏は、奈良の大仏より総て一廻り大きく、一大偉観と云えよう。尚、此処は南房総国定公園に指定されている。千葉県教育委員会 鋸南町教育委員会

8. 保田遊歩道 ほたゆうほどう

9. JR保田駅 ほたえき 15:37着発

保田駅

表参道入口からはξ^_^ξのノンビリとした足どりでも30分程の所要時間で保田駅へ到着出来ましたが、健脚の方なら20分余の道のりね。予定時間より大分早く踏破出来たこともあり、このまま帰途に着くのは勿体無い気がして、ロープウェイの山頂駅展望台から見えた保田海岸へちょっと足を延ばしてみることにしたの。念のために駅前にある観光案内所で海岸までの所要時間を訊ねてみたところ、5分も掛からないとの応えに足取りも軽く。なので、以降の行程はグリコのオマケよ。日本寺の境内を歩き回ってすっかり疲れ果ててしまった方は、迷うことなくホームに滑り込んできた電車に飛び乗って下さいね。

10. 保田海岸 ほたかいがん 15:41着 16:17発

海岸 海岸 海岸 海岸

11. JR保田駅 ほたえき 16:22着 16:38発

保田駅 今回の散策もこれにて全ての行程を終了よ。今にして思えば日本寺での見残しも幾つかあることに気付いたのですが、再び訪ねることが出来たときの楽しみとして残しておくことにしますね。それはさておき、保田駅からの帰路ですが、内房線と総武線を乗り継いで東京駅まで戻る正攻法にしたの。歩き疲れた身にはフェリーへの乗船は乗り換えが面倒だし、何よりも列車の揺れは心地良い眠りへの誘いよね。加えて各駅停車の普通列車とあれば、時間は充分過ぎるほどあるわ。とは云え、少しでも早くお家に帰ろうと、さすがに千葉駅では快速列車に乗り換えたけど(笑)。乗車券(山手線内迄):¥1,890( ′12.05 現在 )

12. JR千葉駅 ちばえき 17:59着 18:11発

13. JR東京駅 とうきょうえき 18:52着


今回の散策は以前訪ねたことのある鋸山と日本寺めぐりのリメーク版になるの。天候にも恵まれて雄大な浦賀水道の大海原を目の前にして南房総や対岸の三浦半島の景観をも楽しむことが出来ましたが、紹介しましたように、全行程をのんびりと歩いたとしても5時間余の行程なの。交通手段に依る移動時間を含めても充分に日帰り圏内よね。日本寺の千五百羅漢はちょっとひけちゃうかも−と云うあなたも、展望台からのパノラマ・ビューだけは是非訪ねた上でその目に焼き付けて下さいね。事は思い立ったが吉日、いかがですか、今度の週末にでも一度お出掛けになってみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように・・・・・

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〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
洋泉社刊 山本博文監修 あなたの知らない千葉県の歴史
鋸南町教育委員会発行 鋸南町史編纂委員会編 鋸南町史
千葉日報社刊 沼田有紀著 海いこ山いこ のこぎり山
昌平社刊 川村優編 郷土史事典 千葉県
房総叢書刊行会編 改訂房総叢書
日本寺で頂いて来たパンフ 他






どこにもいけないわ