≡☆ 石神井公園界隈の歴史散策 ☆≡
2016/07/24 & 2016/08/06 & 2017/02/25

石神井川緑道と王子散策 では、石神井川沿いの寺社旧蹟を訪ね歩いてみましたが、その石神井川の源流となっているのが石神井公園内にある三宝寺池なの。今回の散策ではその石神井公園と周辺を訪ね歩いてみたので紹介しますね。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

長命寺〜禅定院〜道場寺〜三宝寺〜池淵史跡公園〜ふるさと文化館〜石神井公園

1. 練馬高野台駅 ねりまたかのだいえき 9:22発

当初は石神井公園駅を起点に考えていたのですが、地図を眺めていたら、東に位置して広い敷地を持つお寺があることに気づいたの。余り知られていないところでも意外なものに出会うことがあったりするのよね、一駅分余計に歩かなければいけないけど、それほど距離があるようにも見えないので、無駄足覚悟で、ちょっと寄り道してみようかしら−と思ったの。そうして、何の事前知識も持たずにぶらりと訪ねてみたのですが、いざ訪ねてみれば、嘗ては東高野と呼ばれる程の隆盛をみた寺院であることを知ったの。それが今回最初の見処として紹介する長命寺なの。軽い足慣らしで warming-up の積もりが、いきなり weight-training の世界に放り込まれたような気分よ。(^^;

2. 長命寺 ちょうめいじ 9:28着 10:23発

寺史を語るには、これでは余りにも淡泊過ぎるわよね。
そこで、【新編武蔵風土記稿】(以降【風土記稿】と略す)の記述を引いておきますね。

新義眞言宗大和國初瀬小池坊末 谷原山妙樂院と稱す 本尊不動古は藥師を安ずと云 境内大師堂の縁起に據に 増嶋勘解由重明なるもの當村に住し 佛心深く兄重國か第四子重俊に家を讓り 剃髪染衣して慶算と号し 紀伊國高野山に登り木食勤行すること年あり 或日大師の夢想に因て讚岐國彌谷寺に至り 師自作の木像を感得し 速に當村に歸り 高野山に擬して一院を營む 彼の像を安置す 今の大師堂是也 又云 慶算元和2年(1616)6月12日寂し 重俊其志を繼ぎ 諸堂及び大猷院殿御石塔等を建立す 其規制一に高野山に倣ふ 因て東高野山と呼 又新高野とも云 寛永17年(1640)小池坊住僧正秀推擧して長命寺と名つけ一寺となせり 是より佛燈彌興隆す 因て正秀を請て開山とす 正秀は同き18年(1641)10月16日寂せり 其後慶安元年(1648)境内觀音堂領九石五斗の御朱印を賜はれり

【風土記稿】の別項には、長命寺の元となる妙楽院を開基した重明を含め、増嶋家のことが誌されているの。
記述からは、その出自が小田原北条氏の一分派であることなどが分かるの。

〔 舊家者 傳左衞門 〕  氏を増嶋と稱す 家系一卷を藏せり 其略に先祖重國俗稱左内小田原北條の族士たりしか 天正18年(1590)沒落の後東照宮に謁し奉り 當村及び田中の兩邑を賜ひ 後又加恩ありて六百石を領し 慶長年中(1596-1615)近江國御代官たりし時臟に坐して改易せらる 寛永17年(1640)9月23日江州に於て死す 齡六十九 時に其子重俊未た幼年なりしかは其弟勘解由重明當村に住して重俊を扶養し 成人の後家を讓りて遂に僧となり長命寺を開基す 重俊八郎右衞門と稱し 再ひ長命寺を修營し 後出て江戸に住し 寛文2年(1662)正月18日死す 法名心月道傳  〔 中略 〕  長命寺増嶋氏碑の銘に據に 増嶋重胤は北條氏の支族にて重興を生めり 重興重明重國等を生とあり /p>

実は、増嶋重胤は北条早雲の御落胤だとの噂が頻りよ。(^^;
増嶋姓を名乗るのは重興の代になってからのことみたいね。

南大門の右手にある小振りの山門が練馬区指定文化財となっている仁王門なの。門前は駐車場になっていて、門の両袖には草鞋が奉納されていたりするので、最初に見掛けたときは車での参詣者のための通用門だと思ったの。(^^; 草鞋は運転する人の脚代わりの車のことを表していて、安全祈願のために奉納したものよね、きっと−と云うわけ。脳天気な旅人にはこの仁王門の何を以てして文化財に指定されているのかは分かりませんが、東高野・新高野と呼ばれた割には控えめな創りの印象ね。ただ大きければ良いと云うわけではないのですが、南大門をくぐり抜けて来た後ではちょっと拍子抜けよね。ごめんなさい。

〔 十三佛の功徳 〕  十三佛は室町時代から庶民信仰と深い因縁があり、初七日不動、二七日釈迦、三七日文殊、四七日普賢、五七日地蔵、六七日弥勒、七七日薬師、百ヶ日観音、一周忌勢至、三回忌阿弥陀、七回忌阿閦、十三回忌大日、三十三回忌虚空蔵と、それぞれ諸佛諸菩薩が配され、又は生れ年によって各人の守り本尊に當てられているなど、徳性の秀れた佛様である。昭和62年(1987)6月吉日 沙門 亮弘 誌

説明には初七日をはじめ、二七日、三七日、四七日などとあるけど、二七日は2*7日で14日のことなの。三七日も同じようにして21日のことで、七七日で49日になるの。この7日間を基準にする数え方は仏教由来の数え方ですが、一般的には初七日以外は余り馴染みが無いわね。

本堂の左手奥には観音堂があるの。【風土記稿】には「金堂 十一面觀音を安す 立像長三寸許行基の作なり 兩脇に大神宮春日明神を安す 此堂は重俊大和國初瀬に倣て建立する所と云」とあり、寺伝に依ると、増嶋重明の遺志を継いだ重俊が金堂(観音堂)を建立、寛永17年(1640)に長谷観音の名で知られる大和国初瀬の長谷寺・小池坊の秀算が谷原山妙楽院長命密寺と名付けて一宇としたの。本尊は勿論御本家のそれに倣い、十一面観音像を模刻して安置したと云うのですから、この時点では東高野山と云うよりも、東長谷観音と呼ぶべきものよね。余談ながら、後代の増嶋家からは長命寺の住僧を経て大和国長谷寺第19世住職となった人もいるの。

●ねりまの名木●
保護樹林第一号内の樹木  平成6年(1994)4月1日 練馬区公園緑地課
長命寺のシラカシ
シラカシとしては区内有数の大きさであることから指定されました。
樹の高さ:32m 幹の太さ(周囲の長さ):3.3m
長命寺のイチョウ
イチョウとしては区内有数の大きさであることから指定されました。
樹の高さ:34m 幹の太さ(周囲の長さ):4.4m

〔 東高野山奥之院 〕  東京都指定史跡  昭和31年(1956)3月3日指定  所在地:練馬区高野台3-10-3
長命寺は、縁起等に依れば、小田原北条氏の臣であった増島重明が北条氏没落後隠棲し、慶算と号し高野山へ登り木食修行に於いて弘法大師の木像を感得し、谷原に一院を営んだのを初めとします。重明の家督を継いだ増島重俊が、慶算阿闍梨の志を継いで、紀州高野山の構えに倣って堂宇を建造し、長谷寺小池坊の僧正秀算が長命寺と命名したものです。奥之院は重俊が慶算の志を継ぎ、紀州高野山の弘法大師入定の地勢を模して整備したものです。御廟橋から奥之院(大師堂)に通ずる沿道の両側には多数の供養塔・灯籠・六地蔵尊・宝篋印塔・五百羅漢・水盤・姿見井戸などが配列されています。このように紀州高野山を模して造られたので東高野山と呼ばれています。この奥之院は規模等に於いて高野山奥之院を凝縮したものですが、霊場にふさわしい雰囲気となっています。長命寺は度々火災に遭い、多くの堂宇は明治以降の再建ですが、区内最古とされる梵鐘〔 慶安3年(1650)銘 〕や、芝居絵馬や石像などの多くの文化財が残されています。平成22年(2010)3月 東京都教育委員会

【江戸名所図会】にも「大師堂 本堂の西北数百歩にあり これを奥の院と称す 今本堂より大師堂までの間に廻廊をまうく その廊中五百羅漢の小像を安置せり この奥の院は すべて紀州高野山 大師入定の地勢を模擬する故に 堂前に万燈堂あり 又御廟の橋・蛇柳は同じ前庭にありて 左右に七観音・六地蔵等の石像 その余石燈籠 五輪の石塔婆 并びに増島氏累世の墳墓等並び建てり 又御堂の四隅には五重の宝塔立ちて 十三仏・十王の石像の類ひ累々として野山の規制にならふ」とあり、東高野 or 新高野と呼ばれて隆盛したの。

その長命寺も、引き続き【江戸名所図会】のことばを借りれば「当寺 昔は東光・観照等の子院ありて すべて諸堂舎輪煥として甍を並べ 実に野山(やさん)の俤をなせしも いつの年にや 火災に罹りて経営悉く烏有となれり 依つて元禄中再建ありしかど 旧観に復する事あたはず 今はその十が一を存するのみ」とあり、明治期以降に幾つかの堂宇が再建されたとは云え、今以て旧態のそれを再現するには至ってはいないの。

大師堂の左手には姿見ノ井戸があるの。頑丈な瑞垣に囲まれて何やら曰くありげな佇まいなのですが、説明には「長命寺は江戸府内十七番の大師霊場で、四国十七番井戸寺とは関係が深く、昔からこの井戸の水に顔が写れば長生きすると伝えられている」とあるので、早速試してみたのですが、水底はかなり深いところにあるみたいで、何が映っているのかまでは分からないの。But 説明では穏やかな表現になっていますが、本当は、井戸の底を覗き込んだときに、水底に自分の姿がはっきりとは映らずに、ぼんやりとしているようなら、その人はもうじき死んでしまうと信じられていたの。なので姿見ノ井戸と云うわけ。この後には閻魔大王も控えていることですし、自信の無い方は井戸の中を安易に覗き込まない方がいいかも知れないわよ。(^^;

大師堂の背後にも石像が建ち並びますが、中でも思わず身を引いてしまいそうな表情で佇んでいるのが十王達なの。死後にあなたが極楽浄土へ行けるのか、それとも地獄へ突き落とされてしまうのかは、あなたの生前の行い次第で、閻魔大王に象徴される十王の裁き如何なの。その十王( 秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔大王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王 )を敬うことで安穏を得ようとしたのが十王思想と呼ばれるもので、人がこの世に生を受けたときからその人の両肩には倶生神が宿ると云われ、片方の神は善行を、もう片方の神は悪行を監視し続けるの。

その倶生神からの報告を受けて記されるのが閻魔帳で、最初の七王は、その閻魔帳を元に、七日毎に亡者の生前の善悪の所業を取り調べ、その結果を踏まえて最終的に断を下すのが閻魔大王なの。その間、亡者の魂は極楽へ行くことも出来ず、さりとて地獄へ堕とされる訳でもなく、死後の世界を彷徨うことになるのですが、その魂を安らかたらしめ、審判を有利に運ぶために生者が力を貸すべく行われるのが初七日や七七日(49日)の法事なの。生前に善行あらばその死を多くの生者が哀れむはず−と十王達は冥府から娑婆の様子をじっと窺っているの。七王がどんな罪状について裁きを行うのかは他の頁で紹介済みですのでここでは省略しますが、七七日(49日)を終えた後も、更に百ヶ日:平等王(観世音菩薩)、一周忌:都市王(勢至菩薩)、三回忌:五道転輪王(阿弥陀如来)と続くの。

更に、十王達の裁きを経た後も七回忌には蓮上王(阿閦如来)、十三回忌には抜苦王(大日如来)、三十三回忌には慈恩王(虚空蔵菩薩)が亡者の縁故者を監視しているの。なので、善行を積み重ね、節目節目には亡者の生前の善行を慮って追善供養をする必要があるの。お墓参りの際に十三回忌追善供養などと書かれた卒塔婆を目にしますが、このことなの。生前に何の罪も犯さない人など、まずいらっしゃらないと思うわ。十王像を見掛けた際には加護を祈念し、善行を心懸けましょうね。(^^;

ちょっと、オドロオドロしたお話になってしまいましたが、こちらの閻魔さまは身代わり閻魔としても知られていたみたいよ。どんなことでも身代わりになって下さると信じられ、この閻魔さまに願掛けをする人が多かったのだとか。気分転換に、その身代わり閻魔のお話を紹介して長命寺の御案内を終えますね。何だ、また閻魔大王の話かよ〜、全然気分転換になってねえじゃんかよ〜だったかしら。(^^;

むか〜し昔のお話じゃけんども、この長命寺でお堂を建て直す工事をしておった時のことじゃ。東高野とも呼ばれておった位じゃ、近在のみならず遠方からも大勢の大工がかり集められて皆忙しく働いておったそうじゃ。そんなある日のことじゃった。立てかけてあった大きな材木が突然倒れてきてのお、あろうことか一人の大工が下敷きになってしまったそうじゃ。てえへんだ、材木の下に下敷きになった奴がいるぞ。助け出さなきゃなんねえから、みんな手を貸してくれ!と叫ぶや否や皆して駆けよってみたんじゃが、下敷きになっておった大工は怪我どころか、かすり傷一つ負うてなくてのお、皆して胸をなで下ろしたんじゃが、それにしても良く助かったものよのお−と改めて辺りを見渡すと、傍らにあった閻魔大王の石像が材木を受け止めておったそうじゃ。それを見た大工達は閻魔大王が身代わりになってくれたんじゃろうと口々に云うてのお、その閻魔大王の石像じゃが、左胸のところには今でも大きな傷跡が残っておるんじゃが、いつの頃からか「身代わり閻魔」と呼ばれ、どんなことでも身代わりになって下さると信じられるようになってのお、また、咳を治す「お咳閻魔」とも呼ばれるようにもなったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども。

長光寺橋 ちょうこうじばし 10:34着 10:35発

ここで番外編の御案内よ。(^^; 今回の散策では長命寺の拝観を終えた後は次の目的地・禅定院を目指しましたが、長光寺橋から更に南に歩くと観蔵院があるの。後日、その観蔵院と周辺をぶらりと歩いてみましたので参考までに紹介しますね。今回の散策は時間的には大分余裕のあるコース採りになっていますので、観蔵院の拝観を予め組み入れておいても良さそうね。その場合には十善戒寺を経て旧早稲田通りに抜ける道筋を辿って禅定院に向かった方が近道よ。

♠  榎本家長屋門 ♠

笹目通りの観蔵院入口の信号から脇道に入り、最初の四つ角側に練馬区の登録文化財でもある榎本家長屋門があるの。実は、最初からその存在を知っていた訳ではなくて、観蔵院を探し歩いているときに偶然見つけたの。(^^; 最初に訪ねたときには、当然ですが、長屋門の他にお住まいの家屋が建てられていたので気がつかなかったのですが、二度目に訪ねたときには長屋門に引き続いて土蔵が建てられていることを知ったの。土蔵や長屋門以外の建物は全て取り壊されて更地になったせいか、その空間だけは江戸時代のまま時が止まったかのような光景が広がっていたの。

改めて辺りを見渡すと、今では瀟洒な家々が建ち並びますが、嘗ては名主を務めていた榎本家の家の前にも畑が広がり、額に汗して野菜を収穫する村人達の姿がここにはあったのでしょうね。

江戸時代末期の建築と推定される旧田中村の名主役宅門です。桁行は13.5m、梁間は4.5mです。門の入口は観音開きの板戸が建てこまれ、脇間右側には潜り戸が付いています。外壁は上部が漆喰仕上げで、下部が板張りとなっており、軒裏は三方船枻(せがい)造となっています。門の両側には部屋があり、下働きの人の住居や納屋として使われていたことから長屋門※と呼ばれています。

屋根は、母屋を切妻造とし、その四方に庇を葺きおろして一つの屋根とした入母屋造で、大正13年(1924)の火災により屋根は茅から鉄板に葺き替えられています。昭和63年(1988)度区登録文化財

※扉脇に下働きの人の居所(長屋)または物置を備えた門のこと。江戸時代の民家においては、村役人または苗字帯刀を許された家の門形式として幕府から認められていました  〔 練馬区HPより 〕

♠  観蔵院 ♠

〔 観蔵院 〕  観蔵院は、山号を慈雲山と云い、真言宗智山派のお寺で、本尊は不動明王です。本堂脇に薬師堂があり、日出薬師と呼ばれ、今も多くの崇敬をあつめています。堂内には薬師如来を信仰する人を衛護すると云われる十二神将が祭られており、堂前には日出薬師の碑があります。昔の田中村の字に薬師堂の地名があり、今も石神井川に薬師堂橋の名で残っております。この日出薬師は昔は現在地より東北方にあって、その地名の起りになったという口碑があります。門前には六地蔵や庚申塔、馬頭観音があり、墓地には元和年間(1615-24)の五輪塔、正保期(1644-48)の典型的な夫婦墓などがあります。また、墓地入口には宝暦12年(1762)造立の筆子碑があり、区内で最も古い家塾の存在を窺うことのできる教育資料として貴重なものです。昭和58年(1983)3月 練馬区教育委員会

〔 筆子供養塔 〕  この供養塔は筆子供養塔と云って、教えを受けた生徒が亡くなった恩師の菩提を祈り建立したものです。これは嘗て観蔵院で寺子屋が開かれ、近隣の子供達の教育に寄与していた歴史が確認できる貴重な遺跡です。二体の供養塔には、それぞれ宝暦12年(1762)、文化5年(1808)の年号の筆子中という施主名が刻まれています。これらは観蔵院がこの地域の文化の中心の場であった事を示す、練馬区では最古の史跡でもあります。山主敬白

〔 観蔵院の筆子碑 〕  練馬区登録史跡 家塾を開いていた権大僧都法印日傳が宝暦12年(1762)に没した際、師匠を偲んで教え子達が建立したものです。区内では古い部類の筆子碑です。平成19年(2007)3月 練馬区教育委員会

残念ながらξ^_^ξは未体験ですが、この観蔵院には曼荼羅美術館があるの。左掲の白い建物がそれで、館内には現代仏画の第一人者として知られる染川英輔氏の作品「両部曼荼羅」をはじめ、ネパールの仏画家ロク・チトラカール氏の作品も数多く展示されているの。密教では大日如来の徳を開現したものが宇宙の森羅万象そのものであると説き、その智と理をあらわすものとして金剛界&胎蔵界の両部曼荼羅が創られたのだとか。難しすぎて目眩がしそうですが、簡単に云ってしまえば、お釈迦さまの教えを絵にしたものだそうよ。だからと云って曼荼羅が理解出来るかどうかは別次元のお話しですので、御来館の際にお尋ね下さいね。(^^;

その染川英輔氏作の両部曼荼羅ですが、何と制作期間は18年間!もの長期に亘るの。制作に着手したのは昭和58年(1983)のことで、平成7年(1995)に金剛界曼荼羅が、平成18年(2001)にようやく胎蔵界曼荼羅が出来上がったの。縦横2mを超える大作で、曼荼羅美術館はこの作品のために造られたものでもあるのだとか。興味のある方は是非御来館下さいね。但し、開館は週末だけのようですのでご注意下さいね。

境内には梅や桜などの木々も数多く植栽されているの。
春先に訪ねてみるのもお勧めよ。(^^;

♠  鴨下家梅林 ♠

その梅と云えば、次の十善戒寺に向かう途中で、脇道の奥に梅の花がたくさん咲く光景を偶然目にしたの。地元の方も見入っていらしたので伺ってみたのですが、梅園は鴨下さんと云う方が所有するものだそうで、以前は梅園も今より広くて梅の木も多く、梅の実がなると分けて下さったりしていたんですが−とも仰っていましたが、見てもお分かりのように手入れも行き届いていて、とても個人の所有とは思えないほどの立派なものよ。一般公開されているわけではないのでフェンス越しに眺め見るだけですが、梅の開花時期には是非御覧になってみて下さいね。梅の芳香に包まれて、心が洗われるような気がするの。

♠  十善戒寺 ♠

地図上にその名を見つけて興味本位で足を向けてみたのですが、一般公開はされていないようで、詳しいことは分からず終いなの。仕方がないので、ここでは練馬区立石神井公園ふるさと文化館刊【練馬の寺院】の記述を以て紹介に代えますね。因みに、表玄関からはダメでも、どこからか入れるようになっているんじゃないかしら−と、外周を一巡りしてみたのですが、出入口はみな固く閉じられていたので、関係者以外の立入は禁止みたいね。ましてや、ξ^_^ξのような脳天気な輩の入境など論外のお話しかも。と云うことで、散策コースからは外してしまった方が賢明のようね。外見だけでも−と云う方は無理にはお引き留めしませんが。(^^;

〔 十善戒寺 〕  当寺開山の雲照律師は島根の人で、近衛篤麿等の要請によって京都の東寺から上京し、明治19年(1886)高田老松町(現:文京区目白台)に僧のための目白僧園を建てた。弘法大師の綜芸種智院に倣い、仏教精神に基づく庶民学校をつくり、十善徳教学校とする予定であったが、朝鮮や満洲に布教し、明治30年(1897)には栃木県那須郡西那須野町(現:那須塩原市)に雲照律寺を興すなど、多忙を極めて学校を開くに至らなかった。明治27年(1894)頃は目白僧園を雲照寺と呼んでいる。第二世松田密信は、目白僧園を吉祥院として正規に寺院の登録をし、昭和18年(1943)に現在地へ移転した。第三世密玄は昭和23年(1948)石神井保育園を開設、昭和27年(1952)十善戒寺と寺名を変更。

十善徳教の精神を受け継いでいる。本尊不動明王は脇侍と共に成田山新勝寺から雲照律師に贈られた。慈母観音は金銅造りで奈良期以前の作とも見られるが、はっきりしたことは分からない。境内には雲照律師の髪塔や師を偲んで詠んだ句碑などがある。本堂(草葺屋根に銅板を被せている)、土蔵、長屋門は幕末から明治期の建築である。石神井公園ふるさと文化館刊【練馬の寺院】

後日訪ねてみたところを紹介しましたが、榎本家長屋門と観蔵院の他は季節が限定されたり、一般参詣不可だったりしますのでその点を含み置き下さいね。それでは、本来のルートに戻りますね。

3. 禅定院 ぜんじょういん 10:53着 11:10発

禅定院は照光山無量寺と云い、真言宗智山派のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。【風土記稿】に依れば、今から約600年前、願行上人により開かれたお寺であると伝えます。文政年間(1818-30)の火災で、建物・記録など悉く焼失しましたが、境内にある応安、至徳(南北朝時代)年号の板碑によっても創建の古さを窺うことができます。 門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘楼前の大宝篋印塔は石神井村の光明真言講中により造立されたものです。本堂前の寛文13年(1673)銘の織部灯籠(区登録文化財)は、その像容から別名キリシタン灯籠と云われ、区内でも珍しい石造物の一つに数えられています。

墓地入口にいぼの治癒に霊験のあるいぼとり地蔵や、墓地内に寺子屋師匠の菩提を弔った筆子塚があります。また、現在の石神井小学校の前身である豊島小学校は、明治7年(1874)、区内初の公立小学校としてここに創立され、以来30余年子弟の教育の場でした。
平成12年(2000)10月 練馬区教育委員会

ねりまの名木〔 禅定院のヒヨクヒバ 〕  ヒヨクヒバとしては区内有数の大きさで、幹が分岐した樹形も立派であることから指定されました。樹の高さ:7m 幹の太さ(周囲の長さ):2.1m 保護樹林第1247号 平成6年(1994)4月1日 練馬区公園緑地課

そのヒヨクヒバの木陰には寛文13年(1673)に建てられた織部型燈籠、通称「キリシタン燈籠」をはじめ、六地蔵を陽刻した石幢や板碑が並び立てられているの。

帰り際に双体道祖神のような可愛らしい石像を見つけたの。
それが、「なかよし わらべ」の碑だったの。

明治5年(1872)8月、時の新政府は全国に学制を発布して教育振興の気運をつくり、学区の制定、公立小学校創設の示達をした。明治7年(1874)4月、当地方、地区村内、有力者の首唱する処となり、学校設置の衆議決により、府庁の認可を得て小学公立豊島小学校と名称して当禅定院堂宇を以て校舎となし、明治7年(1874)5月18日開校式を挙げ、以来30有余年当地区村内児童の訓育の道場となった。『学校沿革誌』及び石神井小学校七十七年史  〔 昭和26年(1951)1月刊 〕実録に依り、今ここに「なかよし わらべ」の碑に託して、これを永代に留めるものである。平成2年(1990)12月吉日建之 禅定院現住 僧正・高麗澄彦 記

4. 道場寺 どうじょうじ 11:21着 11:39発

〔 道場寺 〕  道場寺は豊島山と云い、曹洞宗(禅宗)の寺です。この寺は文中元年〔 北朝・応安5年(1372) 〕、当時の石神井城主・豊島景村の養子・輝時( 北条高時の孫 )が、大覚禅師を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられています。今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明9年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主・泰経や、一族の墓と伝えられる石塔3基があります。道場寺には、北条氏康印判状が所蔵されています。この古文書は、永禄5年(1562)4月21日、小田原の北条氏康(1515-71)から禅居菴にあてて発給した寅の朱印状※です。内容は、道場寺分の段銭(たんせん)、懸銭(かけせん)などの税金を免除するもので、練馬区内では、現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書です。境内の三重塔  〔 昭和48年(1973)建築 〕  内には、人間国宝であった故・香取正彦氏作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されています。練馬区指定文化財 北条氏康印判状 平成3年(1991)3月 練馬区教育委員会

※北条氏康印判状のことで、書状には「武州石神井之内弘徳院門派道場寺分之事 如前々可為不入候 段銭懸銭以下一切令免除者也 仍状如件 永禄五年壬戌四月廿一日 禅居菴」と誌されているの。

道場寺 禪宗曹洞派 荏原郡世田ヶ谷村勝光寺末 豐島山無量院と稱す 本尊阿彌陀又行基の作の藥師を安す 元は別堂にありしものなり 當寺は石神井城主豐島左近太夫景村の養子 豐島兵部大輔輝時應安5年(1372)4月10日此地に於ひて菩提寺を起立し 豐島山道場寺と号し 僧大岳を延て開山とし 練馬郷の内62貫500文の地を寄附す 其頃は濟家なりと云 輝時は北條高時の子・相模次郎時行の長子なり 其家滅亡の後景村養ひて豐島の家を繼しめしとなり 亊は過去帳に詳なり 輝時永和元年(1375)7月7日卒す 勇明院正道一心と諡す 中興開山觀堂 慶長6年(1601)5月26日寂す 此時今の派に改む 時の開基徳翁宗隣は小田原北條氏に仕へし石塚某の子にて 幼より佛心深く遂に剃髮して僧となり 觀堂と力を戮せ堂宇を再建せり 慶長10年(1605)8月朔日寂す  【風土記稿】

ねりまの名木〔 道場寺のクロマツ 〕  クロマツとしては区内有数の大きさで、周囲からもよく見え、目印になっていることから指定されました。樹の高さ:25m 幹の太さ(周囲の長さ):2.5m 保護樹林第18号
平成6年(1994)4月1日 練馬区公園緑地課


右側は境内で見掛けた百日紅ですが、樹齢を重ねた立派なもので、頭上を覆うようにして枝を広げていたの。

〔 三重塔奉建縁起誌碑 〕  恭く惟るに当山開創は千余年前なり 時移り建長寺開祖大覚禅師を請して参学の道場となす 其後豊島氏の香華所となり豊島山と号し寅朱印を領す 豊島氏亡び群雄割據するや 法燈も亦絶えんとす 開基徳翁師は勝光院二世観堂和尚を請して再興すれども 災禍相続き伽藍整わざること久し 貧道聊かこれが完備を期す 偶本師十七世の五十回忌を迎え 三重塔の奉建を發願し 十方檀那の協賛のもと工を起す 爾来田辺博士の設計 小島建設の施工 工匠千余三年の精励により工を竣う 仍て香取正彦鑄匠作の薬師如来尊像を奉安し 飯塚正賢画伯作の壁画十二神将を傍祀す 茲に本日吉辰 大本山永平寺貫首佐藤泰舜禅師による開光法會の親修を忝うす 最勝の佛縁無上の法幸 歓喜何ぞ極らん 貧道爾今益々道心を振起し 瑠璃光浄土の現成に精進し 国家昌平万邦和楽に回向し 恭く当山初祖大覚禅師開山歴住諸位大和尚海岳の鴻恩に報答し 併せて十方檀那福壽無量 山門康寗海衆安祥 当病平癒所願成就 諸縁如意大吉祥 至祝至禱  〔 以下省略す 〕

5. 三宝寺 さんぽうじ 11:43着 12:27発

〔 都旧跡・石神井城跡および三宝寺池 〕  所在:練馬区上石神井2丁目 指定:大正8年(1919)10月
三宝寺池は湧水池で数百年以前から変わらない景観を保っている。この池の南側台地上が豊島一族の根拠地石神井城であった。豊島氏は平安末期既に歴史上著名になり鎌倉幕府創立の功臣であった。石神井城は頼朝の信頼が厚かった豊島清光■■の孫■景の頃に築城されたものである。文明9年(1477)豊島氏は太田道灌と激しく戦を交えて敗れたが4月28日の夕方■■■■落城した。昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会

門前で最初に見掛けた案内板なのですが、■のところは字がかすれてしまっていて読めないの。
敢えて掲載する程のものでは無いのですが、参考までに。(^^;

〔 御成門 〕  寛永2年(1625)及び正保元年(1644)に、徳川家光が狩猟の際、當山が休憩所とされたので、この山門を御成門と称するようになった。江戸時代には、平常は門扉を閉ざして庶民の通行を禁じていたと云われている。棟札に記されたところによれば、當山二十三世宥泉和尚が布施物を蓄積して再建したものであると云う。文政10年(1827)7月26日になり、二度の火災にもその難を免れ、當山第一の古建築であるばかりでなく、當地方稀に見る傑れた山門である。昭和28年(1953)本堂完成と共に修復の工を終えた。三寶寺

〔 三宝寺山門 〕  練馬区登録有形文化財。重厚な造りの四脚門で、主柱や控柱は上下を細め、肩を丸めた粽(ちまき)付き円柱。頭貫(かしらぬき)の獅子、象や獏(ばく)の彫刻などに、江戸時代後期の特徴が示されている。平成10年(1998)3月 練馬区教育委員会

●ねりまの名木●
保護樹林第17号の内の樹木  平成6年(1994)4月1日 練馬区公園緑地課
三宝寺のアカマツ
アカマツとしては区内有数の大きさであることから指定されました。
樹の高さ:17m 幹の太さ(周囲の長さ):2.5m
三宝寺のサルスベリ
サルスベリとしては区内有数の大きさで、枝ぶりも良いことから指定されました。
樹の高さ:10m 幹の太さ(周囲の長さ):1.5m

〔 大黒堂・子育千体地蔵堂 〕  大黒堂は第三十三世融憲和尚の念持佛であった大黒天尊像を本尊としている。昭和4年(1929)に大黒堂を創建され、併せて江戸時代経堂に祀られていた子育千体地蔵尊を合祀された。そして、東京をはじめ、近在に甲子講中の結成を求め、信徒を募り殷賑を極めた。現在のお堂は昭和59年(1984)の甲子大開帳を期に、大黒天と千体地蔵尊を別祀し、上階を大黒堂、下階は千体地蔵堂として改築された。三寶寺

本地蔵尊は元石神井1丁目626番地にあり、近在の人々の信仰頗る厚いものがありました。しかしながら急激な人口増加により、住宅建設もまためざましく、道路の拡張を迫られ、ここに移転の止むなきに至ったものであります。移転地も、予てより因縁浅からざる當三寳寺に決定し、これを一期として尚一層の佛法興隆を念願するものであります。昭和35年(1960)4月吉日 三寳寺第34世 小峰頼典 代

庚申信仰は日本古来の民間信仰であるが、その起源は明らかではない。伝によれば、十干十二支の組み合わせ六十種の一つである庚申の日に近隣の者が集い、本尊掛軸をかけ、或は塔の前に於いて念佛する行事であった。又、本尊は多く帝釈天の化身である青面金剛を祀り、各家の災厄消除・家内安全を祈念する行事であった。中でも「庚申待」と称するこの講中の集いは、近隣和合のために大いに役立ったと云う。本庚申塔も、庚申信仰が最も隆盛を極めた江戸時代の元禄9年(1696)、石神井坂下講中の建立によるものである。

しかし、明治以後漸く衰退の兆の見えはじめた庚申信仰の中、幾度か講中の集いも持たれていたが、昭和の時代と共に起った物質偏重の思潮と急激な都市化現象のために、期せずして本庚申塔移転の議が起った。本日こゝに、現地下石神井1丁目604番地より移転地を三宝寺境内と定め、工事の完了を機会に、小史を誌して佛天の加護を祈念し、発起人・有志の労に感謝するものである。昭和47年(1972)10月21日 三宝寺現住 小峰頼典誌 本橋京二書

〔 本堂 〕  本尊は大聖不動明王。その他、両部曼荼羅海会の諸尊がお祀りされている。江戸時代の本堂は、文久3年(1863)5月18日に火災のために焼失したが、檀徒の協力によって忽ち復旧した。しかし、その後まもなく、明治7年(1874)3月6日再び灰燼に帰した。その後は仮の仏殿を建てたままで、明治から大正へと長い年月が流れた。大正3年(1914)に第33世融憲和尚が晋住するに及んで、ようやく再建の目論見が立てられ、大正11年(1922)に着工し、その後大正12年(1923)には関東大震災のために、昭和16年(1941)には太平洋戦争のために、それぞれ中断した。その後、昭和26年(1951)からは第34世頼典和尚が継続して工事を進め、昭和26年(1953)11月3日落慶法要が修行された。構造は入母屋総欅造り銅板葺き、間口八間奥行き九間、閼伽棚、讃所が含まれ、それに向拝と廻廊がついている。材料は近隣産の欅を用い、欄間その他の一切の彫刻は山崎朝雲の高弟・佐藤芳重の作である。三寶寺

〔 四国八十八ヶ所お砂踏霊場 〕  明治29年(1896)、時の住職清護真事師が発願されたもので、17ヶ所が出来上がったところで、未完成のまま約70年間中断されていた。昭和48年(1973)、弘法大師御生誕1200年記念事業の一つとして、檀信徒に呼びかけ、その完成を目指し、残り71ヶ所と高野山奥之院を合わせて72ヶ所、合計89ヶ所が建立された。三寶寺

〔 大師堂(奥之院)〕  建物什宝調書控には経堂として載せられているもので、絵図面に依れば、古来ほぼ現在地の近くにあったと思われる。昔は一切経等を納めた経蔵であったが、これに千体地蔵と弘法大師像を安置したので、専ら大師堂と呼ばれていた。近年までは朱塗りの小堂であったが、昭和42年(1967)に迎えた弘法大師御生誕1,200年を記念して改築された。現根本大塔の位置にあったものを、平成4年(1992)根本大塔建立に伴い現在地に移建された。三寶寺

〔 根本大塔 〕  大毘廬遮那如来法界体體性塔とは真言密教の教主、法身大日如来を標識する塔であり、略して根本大塔と云う。凡そ仏教は一切衆生悉有佛性と云うが如く、この世界の全ての存在は、本来佛としての本性を持ち、佛のいのちを具有している−と説く。その佛とは大毘廬遮那如来、また法身大日如来と云い、大塔はその標識である。往昔弘法大師は修業時代に大和国久米寺の塔に於いて大日経とめぐり会い、これが機縁となって真言密教を立教開宗された。更に、南天竺のナマラバティの鉄塔の中に於て、龍樹菩薩が金剛薩埵より両部の大経である大日経と金剛頂経を相承したと云う「南天の鉄塔」の故事は、塔が真言密教の秘法を受け継ぐ最高の会所であることを示している。

多くの真言宗の寺々で必ず大壇の上に塔を奉祀する所以である。今茲に平成6年(1994)が當山開創600年の記念すべき年に当たり、檀信徒有縁の協力を乞い、信仰の根源として、また、當山伽藍の中核としての根本大塔の建立を発願し、茲に完成した。當山の根本大塔は真言密教の教義に則り、塔自体を金剛界曼荼羅の當体と観じ、上層に金剛界大日如来を奉祀する。三寶寺

大毘廬遮那如来の毘ですが、実際の碑文では「田」偏に「比」を並べた異体字が使用されているの。
ここでは表示が出来ないことから標準文字を使用しています。御容赦下さいね。

また、内陣に胎蔵部五如来四菩薩の本尊を奉祀し、これにより両部不二を標識している。事業の経過は平成2年(1990)7月、檀徒総代会に於て記念事業として推進することを決定、数度の会合を経て平成3年(1991)12月、株式会社青木國工務店との間で契約を締結した。翌平成4年(1992)4月より着工、先ず大師堂移転工事を行い、次に大塔地鎮式を執行、続いて関連する八十八ヶ所お砂踏霊場を改修した。翌平成5年(1993)には大師堂渡廊下を新設、平成6年(1994)9月には大塔立柱式を行い、平成7年(1995)3月25日には上棟式を執行、翌8年(1996)3月完成した。御本尊造顕及び内部荘厳は京都田中伊雅佛具店に依頼、平成8年(1996)4月荘厳を完成した。工期約5ヶ年、総工費凡そ8億円 三寶寺

 
〔 根本大塔の主な仕様 〕
1.
建物は古式に則り二層とし、一層目は方形、二層目は円筒形直径約十五尺、屋根には相輪を荘厳し、総高約十間、その先端付近より屋根の四隅に向かって風鐸のついた鎖を荘厳する。
2.
一層目の間口は約四間、基壇場に高欄付縁を廻らし、四方に連子窓、扉と階段を設ける。
3.
総欅造、銅板平葺、一層目二手先、二層目四手先木鼻付、二重繁垂木相輪金箔押
4.
天井は折上格天井、内部荘厳は床は板敷、四天柱の内部に八角須弥壇、八葉蓮台の上に胎蔵部大日如来、宝幢如来、開敷華王如来、阿弥陀如来、天鼓雷音如来の五仏、普賢菩薩、文殊菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩の四菩薩を奉祀、瓔珞天蓋を荘厳。二層目は金剛界大日如来を奉祀する。平成8年(1996)11月3日 亀頂山三寶寺第35世 智山菩提院結衆 権大僧正 一允 敬白

〔 寶篋印塔 〕  天明元年(1781)6月の造立になるもので、建築当所は御成門近くにあった。しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したため、大正14年(1925)3月、田中半左衛門、豊田利右衛門、その他有志の寄附と住職の努力によって、現在地に移建した。三寶寺

〔 正覚院 〕  正覚院は三寶寺旧六塔頭の一つの名である。昭和51年(1976)客殿改築に際し、昭和31年(1956)建立の建物を移築してその名を復活し命名し、その後平成19年(2007)新築したもの。三寶寺

〔 鐘楼 〕  鐘は延宝3年(1675)の鋳造であるが、鐘楼は度々改築されている。近年では明治28年(1895)4月に再建され、境内中央の榧の木の東の位置にあったが、昭和34年(1959)9月、檀徒総代小俣新五左衛門の寄進によって、長屋門を入った左側に一丈程の間知石の基壇を積んで移建された。その後昭和49年(1974)大師堂改築と期を一にして現在地に改築された。

ねりまの名木  〔 三宝寺のイチョウ 〕  保護樹林第17号の内の樹木
イチョウとしては区内有数の大きさであることから指定されました。
樹の高さ:26m 幹の太さ(周囲の長さ):3.6m  平成6年(1994)4月1日  練馬区公園緑地課

今ある銀杏は世代交代を経たものでしょうが、嘗ては樹齢を重ねた大銀杏が枝を広げていたみたいね。江戸時代後期に十方庵敬順が著した【遊歴雑記】には「鐘樓の左に大銀杏の樹あり 高さ數丈悉く乳房のごときもの埀て實夥しく枝にあり 予長坡と共に爰にあそぶ亊八月十六日 折しも銀杏の實地上に墮て散在せしまま 兩人これを拾うといへども更に叱咤の聲なし 扨て本堂はといへば表門の花美なるに似も付ず 萱葺の客殿庫裏を一棟に作りたれば 家の棟東西に長くして寺院の如くならず されど境内又狹からず 僧房の前に圓座松とも稱すべき方二三間に埀茂する一本の松あり 爰に南に向かって四方面の碑を建てたり 左の如し 守護使不入 三寶寺」とあるの。

守護使不入とは、守護の使いは寺の中に立ち入ることを禁ず−の意なの。
ここから先は免税地じゃき、お前らごときが来るところではないわ、帰れ、帰れ−と云ったところね。(^^;

〔 通用門(長屋門) 〕  維新の立役者・勝海舟家の長屋門と云われている長屋門が當山に移建されたのは昭和35年(1960)10月のことであった。この門は練馬区旭町にあった兎月園の門として移建されていたものであったが、近年所有者の明電舎に開発計画があり、「そのまま毀しては勿体無い、是非文化財として残しておきたい」と云う周囲の関係者の要望から、當時の須田練馬区長が要請を受けて、當山に移建させて欲しいとの申し入れがあった。〔 中略 〕  解体された長屋門は、それまで数回の移築が試みられたとのことで、小屋の材料には多くの移築の跡が見られ、歴史を感じさせるものがあった。向って左側の部屋の天井は、作家・山本有三郎のものを使用したものである。三寳寺


ここで再び寄り道のお勧めよ。三宝寺からは少し歩きますが、石神井氷川神社があるの。
この氷川神社が鎮座する場所は石神井城の二の丸に当たり、当初は城の鎮守として祀られたの。

氷川神社は、社伝に依ると、応永年間(1394-1428)にこの地を領していた豊島氏が武蔵一の宮の分霊を奉斎して石神井城内に創建したと云われています。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)の三柱です。文明9年(1477)石神井城落城の後は、石神井郷の総鎮守として上石神井・下石神井・谷原・田中・関の五ヶ村の人々から崇敬されました。境内末社には江戸時代からの北野・須賀・稲荷をはじめ、御嶽・八幡・三嶋・榛名・浅間・三峯・阿夫利の各社があります。境内には、享保12年(1727)の「石神井郷 総鎮守 御手洗鉢」と刻まれた水盤をはじめ、多くの石造物があります。

中でも本殿瑞垣の内にある左右一対の石燈籠は、右側の竿に元禄12年(1699)に豊島泰盈(としまやすみつ)が寄進したことが刻まれ、左側のものは火袋(※火を灯すところ:筆者注)が失われて銘文が欠落していますが、泰盈の子・泰音(やすたか)に依り奉納されたと伝えられています。平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会
○豊島氏奉納の石燈籠‥‥‥平成6年(1994)度  練馬区指定文化財
○氷川神社の水盤‥‥‥‥‥昭和63年(1988)度  練馬区登録文化財

竿にはそれぞれ、「奉寄進石燈篭 御寶前」「願主 豊嶋七兵衛尉平泰盈 敬白」
「元禄十二己卯(1699)歳十二月吉祥日」の銘があるの。

6. 甘藍の碑 きゃべつのひ 12:30着 12:33発

三宝寺の拝観を終えて石神井小学校のある交差点のところまで戻って来たのですが、角地に何かのモニュメントが建てられているのが目に留まったの。行くときには気づかなかったのですが、それが甘藍(キャベツ)の碑で、説明には「東京ふるさと野菜供給事業25周年を記念し、練馬区の特産物キャベツを後世に伝え、生産者の労をたたえるため建立したもの」と案内されていましたが、甘藍と書いてキャベツと読むことをξ^_^ξは初めて知ったの。But キャベツは中国語では甘藍と呼ばれることからキャベツの別称として使われているみたいね。なので、本来の訓みとしては「かんらん」が正しいようよ。米国と書いてアメリカと読ませるのと一緒ね。改めて考えてみれば茄子や胡瓜以外にも、ジャガイモやアーモンドなども漢字で書かれたものを見掛けたことがあるわね。

〔 練馬の甘藍(キャベツ) 〕  キャベツが練馬大根に代わり練馬区の特産物になったのは、多年の連作障害により練馬大根の栽培が困難になった昭和8年(1933)頃からである。キャベツ生産者は幾多の障害を、栽培技術の向上・優良系統の選別など、弛まぬ努力で克服し、練馬区は全国でも有数の生産地となり、都市農業の礎を築いてきた。昭和48年(1973)高騰する消費者物価を抑制し、都民に新鮮で安全な野菜を安定供給することを目的に、東京都は「東京ふるさと野菜供給事業」を練馬・石神井・大泉の各農業協同組合との間で締結した。その後、この事業は東京都全体に広がり、生産量も増加し、初夏産・秋冬産の年二回の東京キャベツは、東京都中央卸売市場で不動の地位を得て、今日まで都民の食生活に大きく貢献してきた。ここに、東京ふるさと野菜供給事業25周年を記念して、練馬区の特産物「キャベツ」を後世に伝え、生産者の労を称えるため、甘藍の碑を建立するものである。平成10年(1998)10月吉日 キャベツの碑建立実行委員会

キャベツはキャベツでも主に生産されていたのは錦秋と云う品種みたいね。説明には「歯切れがよく、甘みがあって、トンカツの付け合わせに欠かせないことから、都民に愛された品種です」とありましたが、確かに今スーパーなどで売られているキャベツは子供の頃に食べていたキャベツとは別物のような気がするわね。春キャベツなのにやけにかたかったりするもの。最近のキャベツはモンシロチョウも避けて飛ぶ?(^^; ところで、何でこんなところに「甘藍の碑」があるの?実は、交差点の反対側には「JA東京あおば」があるの。何となく納得出来ちゃうでしょ(笑)。

7. 池淵史跡公園 いけぶちしせきこうえん 12:39着 13:15発

池淵史跡公園は、練馬区登録史跡「池淵遺跡」を埋め戻し、保存・整備した公園です。池淵遺跡では旧石器時代の石器ブロック、縄文・弥生時代の竪穴式住居跡、中世の溝の跡等が発見されました。園内には練馬区指定文化財「旧内田家住宅」(中村三丁目にあった茅葺住宅)が移築復元されており、園路沿いには区内各所にあった庚申塔や馬頭観音などの江戸時代の石造物も配置されています。練馬の歴史に触れることの出来る公園です。練馬区西武公園管理事務所

〔 旧内田家住宅 〕  練馬区指定文化財
嘗て区内でよく見られた茅葺き屋根の民家です。練馬区中村にあった民家を平成22年(2010)に移築しました。明治20年代初めの建築と推定されており、一部に江戸時代の古材も使われています。建物内部の見学が出来ます。石神井公園ふるさと文化館

この後に訪ねる「ふるさと文化館」の解説によると、旧内田家住宅の解体&移築工事の際には屋根裏から大量の護符が見つかったのだとか。多い順に五位までを紹介すると、成田山新勝寺・御嶽神社・大山阿夫利神社・榛名神社・富士浅間神社の順で、成田山新勝寺の護符の数に至っては何と100枚近くもあったと云うのですから驚きよね。火防の思いを込めて屋根裏に護符を吊り下げたものだそうですが、家人の思いが伝わってくる逸話よね。そう云えば、大山阿夫利神社や榛名神社は嘗ては雨乞い神事などが行われ、降雨祈願でも知られた神社よね。火防の霊験もあるとは知りませんでしたが、消火には水が何よりも大事よね。そこからの発想かしら?

余談ですが、池淵史跡公園での所要時間がやけに長いのは、この旧内田家住宅で係の方としばし「お茶」(^^; してしまったからなの。最初は家屋の説明をして下さっていたのですが、受け答えしている内に互いのお話が雑談めいてきて。普通に見て廻るだけなら10分もあれば充分よ。見ていると、訪ね来る人は見掛けても、家の中まで見ようとする方はいらっしゃらないの。確かに茅葺屋根は重厚で立派なものですので必見ですが、内部の造りを見てこその古民家ですので、是非見学(無料)してみて下さいね。

左端は縄文時代の竪穴住居跡のようすですが、説明には「今から約5,000年前の住居跡が昭和47年(1972)の発掘調査により、この場所から発見されました。発掘後埋め戻して保存、円形の植え込みで標示しています。円く地面を掘り下げ住居の床とし、そこに数本の丸太を立てて、円錐状の屋根を草で葺いた簡素なつくりの住まいです」とあるように、再び盛り土されているので実際には見ることは出来ないの。願わくば、静岡県にある登呂遺跡のように、竪穴式住居の再現モデルを一つでもいいから造って展示して頂けないものかしらね。脳天気な旅人の感想よ。それはさておき、園内には庚申塔や馬頭観音、その他、道標や力石と云った石造物も配置されているの。幾れも宅地の造成や道路の拡張工事などで居場所を失い、移設されて来たものみたいね。

8. ふるさと文化館 ふるさとぶんかかん 13:16着 13:47発

池淵史跡公園に隣接して建てられているのが、これから紹介する練馬区立石神井公園ふるさと文化館で、練馬区の自然や伝統文化、歴史などを体験学習出来る博物館になっているの。But 企画展示室や貸会議室が用意されていることなど、コミュニティーサロン的な要素も持ち合わせていて、区内の名所を廻る散策コースや伝統工芸を紹介する情報コーナーに、区民の創作絵画や写真などを展示するコーナーもあり、区民に広く門戸が開かれているの。なので、博物館と云うよりも、地域のコミュニティー施設に常設の展示室が付帯されていると云った方がいいのかも知れないわね。だからといって、展示内容が疎かになっては本末転倒よね。そこはしっかりと押さえられているの。

その常設展示室では、練馬区の歴史が分かり易く展示&解説されていましたが、意外な事実が目白押しなの。単にξ^_^ξが知らなかっただけのことかも知れないけど、とりわけ「へえ〜、そうだったの」と感嘆させられたのが、練馬区が嘗て板橋区の一部であったことと、一種類だけだと思っていた練馬大根が、実は幾つかの種類に分けられることを知ったことね。そうは云っても、ξ^_^ξは練馬大根を実際に見たことも手にしたことも無いので、呼称としての練馬大根しか知らないのですが。それ以上に、スーパーで買い求めてくる大根が何ダイコンなのか知らなかったりするけど。(^^;

【風土記稿】には「郡内練馬邊多く産す いづれも上品なり 其内練馬村内の産を尤上品とす さればこの邊より産する物を檗して練馬大根と呼 人々賞美せり」とあり、かなり以前から知られていたみたいね。じゃあ、いつ頃からなの?と気になるところですが、当館の解説に依ると、天和3年(1683)に戸田茂睡が著した【紫の一もと】の中に、江戸の料亭の馳走として練馬大根が紹介されていることもあり、17世紀後半には既に誕生していたと考えられる−としているの。その練馬大根ですが、明治の最盛期には練馬が日本最大の沢庵漬生産地となり、とりわけ練馬大根を使用したものは東京澤庵の名で全国に供給されるまでになったのだとか。

その練馬大根も昭和30年(1955)頃から徐々に生産量を減らし、昭和36年(1961)頃になると殆ど生産されなくなってしまったのだそうよ。背景には食生活の欧米化で嗜好が変わってきたことや、宅地造成に伴う農地の減少などが挙げられるみたいね。But 近年では平成元年(1989)からの育成事業を機に復活の兆しが見えて来たの。これも当館からの受け売りですが、平成20年(2008)には生産委託農家の協力を得て12,300本もの練馬大根が生産されているの。最近では学校給食の食材としても利用されているみたいね。その内、江戸野菜として市中に出回るようになるかも知れないわね。

9. 殿塚 とのづか 13:58着 14:00発

〔 殿塚の由来 〕  文明9年(1477)、石神井城が上杉氏の軍将・太田道灌との戦いに敗れて落城したときに、城主・豊島太郎泰経は黄金の鞍をつけた愛馬に乗り、三宝寺池に沈んだと云う伝説があります。この塚は縁者が徳を偲んで築いたと云われています。また、これより西方30mのところに、落城のとき、同じく三宝寺池に身を投げた城主泰経の二女・照姫供養の姫塚があります。平成元年(1989)4月 練馬区教育委員会

10. 姫塚 ひめづか 14:01着 14:03発

〔 姫塚の由来 〕  文明9年(1477)に石神井城が落城したとき、城主・豊島太郎泰経の後を追い、二女の照姫も三宝寺池に入水したと云う伝説があります。この塚は、縁者が姫の供養のために築いたと云われています。平成元年(1989)4月 練馬区教育委員会

殿塚に引き続き、20-30m程離れてこの姫塚があり、碑面には「古墳 姫塚 石神井城主豊嶋太郎泰經二女照子姫之塚」とあるの。

But 石神井城主であった父の泰経を追うようにして三宝寺池に入水して果てたと云う照姫伝説は実は架空のお話しなの。じゃあ、この塚は何なのよ−と云うことになりますが、江戸時代後期に刊行された【江戸名所図会】の亀頂山三宝寺の項には「照日塚(てるひづか) 同じ所にあり 耆老相伝ふ 当寺開山曾つて在京の頃 八月十五夜雲上座外に侍して発句を奉る 月はなし照日のままの今夜かな 公卿雲客賞歎して叡覧に備ふ 御感ありて照日上人の号を賜ふと云々 この塚うたがふらくは 照日上人の墓ならんといへども詳ならず」とあり、三宝寺第六世住持・照日上人の墓ではないかとしているの。

【風土記稿】にも「三寶寺池の北丘上ぬあり 同寺第六世定宥故ありて京都に上り 中秋の夜雲客の雅筵に侍することを得て 月はなし照日のままの今宵かな といへる發句を獻せしかは 事叡聞に達し照日上人と勅號を賜ひしと云 遷化の後ここに葬れり よりてかく名付塚上に松一株立り」とあり、似通った由来が記されているの。今でこそ塚の上ではシラカシの樹が幅を利かせていますが(^^; 嘗ては「照日の松」と呼ばれる松の木があり、塚の佇まいに風情を添えていたそうよ。

ねりまの名木〔 石神井公園のシラカシ 〕
シラカシとしては区内有数の大きさであることから指定されました。この近くにある姫塚にはシラカシが植えられたと伝えられ、それを偲ばせるものでもあります。樹の高さ:24m 幹の太さ(周囲の長さ):2.5m 保護樹木第1283号 平成6年(1994)4月1日 練馬区公園緑地課

ここで、今少し照姫伝説のことをお話ししてみますね。この後に訪ねる厳島神社のところでも関係してきますし、毎年行われる 照姫まつり も伝説に因んで行われるものなの。なので、知らないよりは知っていた方が、2倍3倍楽しめると思うので、よろしくお付き合いくださいね。

伝説では、文明9年(1477)、太田道灌に攻め込まれ、難攻不落を誇ったさしもの石神井城も落城し、城主の豊島泰経は家宝の金の乗鞍を馬上に懸けて跨がり、敵勢が見守る中を城の背後に迫る崖まで駆け抜けると、そのまま愛馬と共に崖から飛び降りて三宝寺池に身を沈めたとされているの。そのことを知った娘の照姫もまた父の後を追うようにして入水して果てたと云われ、事の次第を哀れんだ道灌は塚を築いてその亡骸を弔ったと伝えられているの。それがこの姫塚で、嘗ては照日の松と呼ばれる老松が寄り添うようにして立ち、その老松に登ると泰経と共に沈んだ金の乗鞍が池底で燦然と輝くのが見えたと伝えられているの。

一方、泰経のものとされている殿塚ですが、碑面には「古墳 殿塚 石神井城主従五位上左衛門尉豊嶋太郎泰經之塚」とあり、墓所を思わせる佇まいなのですが、史実としては、泰経は陥落する前に城を抜け出し、翌年の文明10年(1478)には平塚城(北区豊島)で再度挙兵しているの。But その動きを事前に察知した道灌が兵を率いて平塚城へ向かうと泰経は再び逃亡。小机城(神奈川県横浜市神奈川区小机町)に逃れるもここでも道灌に攻め込まれてしまうの。それ以降、泰経の足どりは掴めず、行き方知れずになってしまったの。その小机城に逃れたと云う説にしても、現在では否定されているようね。幾れにせよ、泰経が石神井城の落城時に三宝寺池に身を沈めたと云うのは史実ではなくて後世の創り話と云うわけ。照姫にしても、泰経が城外に逃れて生き延びていることから考えると、愁嘆して入水したとするのは不自然よね。それ以上に、豊島家の家系図には該当するような名も無ければ、その存在を窺わせるような傍証もなくて、架空の女性とされているの。

それじゃあ、この殿塚や姫塚にある石標は誰が建てたの?と気になるところですが、平野實著「豊島氏の遺跡を訪ねて」に依ると、豊島泰経には秋子と云う次女があり、九州は肥後国菊池氏一族の内田政治の許へ嫁ぎ、その末裔だとする小谷國次氏が塚の周囲に竹垣を設け、石標を建てたのだそうよ。その小谷家では今でも命日には卒塔婆をあげて墓参供養しているのだとか。But その小谷家の系図は他の豊島家のものとは異なるようね。平野氏はそれを信仰的なものと評していますが、系図の真偽如何は別にして、小谷家が供養を続ける理由がそこにあるわけで、どう云う系図になっているのかしら−と、気になるところよね。「照姫まつり」では照姫に姉と妹がいたことになっている (^^; のですが、小谷家の系図にもしっかりと記載されていたりして。

閑話休題、お話を元に戻しますね。伝説のルーツは豊島泰経を離れて三宝寺池周辺の事蹟や伝聞にあるようね。今となっては鶏が先か卵が先かの印象ですが、元々はバラバラに存在していた事柄をベースに一つの物語が創られ、そこから更に伝説が生みだされていったみたいね。その物語と云うのが小説家・遅塚麗水が明治29年(1896)に著した『照日の松』なの。そこでは、照姫は照日の名で登場し、泰経の弟・泰明の妻と云う設定であることなど、伝説とはちょっと異なる部分もあるのですが、折角ですので (^^; その一部を紹介してみますね。

侮りし敵に不覺を取りて驚きたる泰經が心下へ、瞬く間もなき雷光の風を帶びて閃き來る、泰經の胸は千段卷まで深く成常の槍を呑みしと思ひきや、泰經は弓手の拳もて拂い退け、馬手を快くも太刀の柄にかけ拔く手も見せず薙ぎ上ぐれば、柄の中央より槍は斫られて穗先は燕のごとく池の上に翔り落ちたり、泰經は太刀揮り翳して、尚ほ猛り進みしが、武運は今日に盡き駒は石に躓きて脆くも脚を折り、泰經は鞍に溜らず汀に落ちぬ、霰のやうに亂れ飛べる水珠のその中より、氷を噛むに似たる無念の切齒、やがて膓推し絞りて喉を破る臨終の一聲「南無三寶、勘解由平の泰經の死樣を見て龜鑑とせよ」と云ひながら、草摺を疊み上げて下肚に刀つき立て一文字に切り割きて、水の深きところに身を沈ませぬ

泰経の最期の場面ですが、敵方の勘九郎成常なる者の手に掛かり壮絶な死を遂げているの。伝説では金の乗鞍を懸けた愛馬もろとも池に身を沈めたことにはなっているのですが、違い過ぎるストーリーの展開よね。生々しくて語り継ぐにはふさわしくないと思われたのかも知れないわね。実は、金の乗鞍にしても『照日の松』では触れられてなくて、他の伝承からの流用みたいよ。『照日の松』での泰経の最期が人の口の端に上るとき、物語が一人歩きを初め、悲哀物語として美化されていったのでしょうね、きっと。一方の照姫ですが、『照日の松』の中では崖から池に飛び込み入水して果てたかのようになってはいるのですが、介抱されて一度息を吹き返しているの。そうして道灌からの憐憫の情を受けて保護観察 (^^; の身となるのですが・・・

枕邊に膝行よりたる髯男「照日どの、心を確かに有たまへ、大將の仰せにより、荒川の彦彌太大亊にかけて看護いたす」、さてはと心附きたる照日は身を擡げて「泰明が妻ともいはるゝ妾が、夫は討れ城は落ちておめ/\と俘虜となり、命を愛むと思ふかや、敵に物云ふも穢はしけれど唯一言いうて聞かす、さて其の穢れたる舌根を咬き切るよ」といひ捨てゝ、眉をきりゝと蠢かせしが、口一杯の血潮をふっと彦彌太が面にふきかけ、驚く彦彌太を突き退けて此方の板戸を推し明くれば、月影をぼろに池を照して、夜の寂は一入なり、花の姿の今欄干の邊に飛べば、池の水は大口開て唯だ一と呑に呑みたりけり

と、再び池の水面に身を躍らせてしまったの。個人的な趣味&感想からすると、最初に入水したときの情景描写の方がドラマチックで、道灌の心情吐露があったりと、秀逸な仕上がりになっているの。引用するには余りにも長文ですので転載は控えますが、出来ましたら是非原著に触れてみて下さいね。物語のエンディングとしては最初の入水を以て終えてしまった方が良かったような気がするくらいよ。余談ですが、道場寺には「豊島氏落城一族英霊」の位牌と共に、豊島輝時(雄照院殿英明秀公大居士)・景村(勇明院殿正道一心大居士)・照姫(嶺雲軒山照妙沢姫儀)の三人の位牌があるの。加えて、墓苑には豊島氏のものとされる三基の墓塔があり、泰経夫妻と照姫のものであると伝えられているの。残念ながら一般公開はされていないので未確認ですが、文字も磨滅していてそれと知らしめるような手掛かりは見つからないのですが、その形式から室町時代のものに比定されているの。そこから豊島家のものとして考えられているみたいね。譬え後世の造作によるものだとしても、照姫の位牌やお墓があることなどからすると、満更創り話だけでもなさそうな気がしてくるわね。単なる脳天気な旅人の願望かも知れないけど。(^^; 御案内の最後に『照日の松』の終段を紹介して照姫伝説の余韻としますね。

京都に殘りし照日が母は娘の便を俟わび居所しが、今年の春の初一休上人に頼み聞えて初一念を遂げ眞葛が原に草を結びて、そこに墨染の法衣となりぬ。さるにても石神井の城は毀たれて三寶寺に移されたり。三百年の雨風に松老いて石神井が池は碧幾尺、小夜の水禽浮寢の床に當年の恨を語る。昔は神牛の血を濯ぎて据ゑたる礎石も、農夫が鍬の先に年々歳々埋もれ行きて、唯だ照日が墳といふもの池の邊の林に在り、麦疇風に波たち、松が枝不斷の經を誦せり

11. 三宝寺池 さんぽうじいけ 14:09着 14:34発

三宝寺池は井の頭池や善福寺池などと共に、武蔵野台地の地下水が湧出し、水をたたえて出来た池です。面積は凡そ24,000m²、水深は平均約2mです。昔から水量が多く、夏でも冬でも容易に涸れなかったと云われましたが、年々湧水が減少し、現在は地下水を汲み上げて補給しています。江戸時代には池の小島に弁天様が祀られ、この池を主な水源とする石神井川の恩恵を受けた流域40余か村の農民が講をつくって尊崇していました。また、古来、禁猟地であったため草木が良く繁茂し、鳥類の楽園であり、特に自生の水草類が多く、昭和10年(1935)に三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定され、ミツガシワ・シャクジイタヌキモなどが保存の対象になりました。平成12年(2000)3月 練馬区教育委員会

【風土記稿】には「三寶寺の側にあるをもて 三寶寺池と稱す 石神井川の水元なり 古は大さ方四五町餘もありしが 漸く狹まりて今は東西六十間餘南北五十間となれり 水面精冷にしていかなる久旱にも水減することなし 多摩郡遲野井村善福寺池と水脈通せりと云 池中多く蓴菜を生す 生する所の魚は頭に鳥居の形ありと傳へ 捕ものは必祟を蒙るとて釣網することを禁す」とあるの。人面魚ならぬ鳥居魚の登場ですが、三宝寺池の畔を周遊の際には、魚影に注意しながら歩いてみて下さいね。捕捉は祟りを招くかも知れませんが、願いと共に柏手を打てばあなたの願いを叶えてくれるかも知れないわね。

三宝寺池に浮かぶようにして突き出た小島が弁天島で、厳島神社が鎮座しているの。【風土記稿】には「辧天社 三寶寺池の中島にあり 神樂堂 水天宮 池の側にあり」とあるように、嘗ては弁財天を祀る弁天社が建てられていたの。それが明治期の神仏分離を受けて習合を解かれ、弁財天は市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)に姿を変え、社名も厳島神社へと改称したと云うわけ。宗像三女神の中でもとりわけ容姿端麗を以て知られる市杵島比売命は、同じ美貌の持ち主と云うこともあって弁財天と同一視されやすかったみたいね。その市杵島比売神ですが、神名は「斎(いつ)き祀る島の巫女」の意から来ていて、厳島神社の呼称もそれに由来するの。

But 厳島神社へと姿を変えた今でも、弁財天としての信仰が続いているのが実際のところのようね。
因みに、現在ある社殿は、昭和56年(1981)に護岸工事を行った上で昭和58年(1983)に竣功したものなの。

今となっては往時の景観を知る術はありませんが、江戸時代後期の文化11年(1814)に編纂された【遊歴雑記】には「辧天堂は三間四面にして、むかし飛騨の工の作り置しとなん、いか樣にも惣体の作亊古雅に見ゆ。堂内の辧財天は弘法大師の作の由。繪馬及び鰐口など最古物に見請たり。爰に庵主ありて道心壹人住めり。しばし堂内を貸しくれてやといへば、こころよく領掌せしまま兩人とも庵室に平座し、用意のたたみ焜炉取出し、担側に仕懸て池水を汲取、一煎し菓子ともに庵主へすすめ、予もまた啜しこころみるに、清潔とはいへど水に少し匂ひあり、是全く池水爰に淀みて流れざる故ならかし」とあり、今とは大分様子が違っていたみたいね。

〔 御手植之松 〕  維時大正九年九月二十六日 今上陛下東宮在時行啓于此地所御手植此松矣爾来樹梢彌繁如呈上壽之状者 今茲當御大典謹鐫其由来貞a以傳将来云爾 昭和三年九月二十六日 前東京府北豊島郡長 正六位勲五等 服部良太郎 撰文 前東京府北豊島郡書記 笹野井文雄 謹書 石工 井口弥太郎 謹刻

橋を渡った右手には御覧の記念碑があるの。その記念碑を今にも呑み込みそうな勢いの松の木ですが、冒頭には東宮在時とあることから、大正天皇が皇太子のときにお手植えされたものね。

ここでちょっと面白いお話を見つけて来ましたので紹介しますね。照姫伝説でも触れましたが、地元では「石神井城落城の際には豊島泰経が家宝の金の乗鞍を懸けた愛馬に跨がったまま石神井池に飛び込んだ」とか「照姫は金の鞍と守り本尊であった十一面観音像を胸に抱いて池に身を投げた」などと語り継がれているの。

そこから豊島家の財宝伝説が生まれるのですが、享保2年(1717)の【三寳寺縁起】にも「池中湧出之鈴杵 数多霊寳 中世乱逆各乱妨 不知其所在焉」とあり、明治18年(1885)の【由緒略概】にも「往古豊島泰経の馬 誤て金の乗鞍を此池に落し 揚げること能わず 遂に沈みて主となる」などとあり、満更伝説だけと云うわけでもねえんじゃねえか、池の水をかいだしてみたら、ひょっとして金の乗鞍だけじゃなくて、池に沈めたと云う豊島家のお宝が見つかるかも知れねえぞ−と噂されるようになったの。そうして、遂に明治41年(1908)、厳島神社の社掌と信者総代諸氏の連名のもとに、東京府知事宛の宝探しの許可願いが出されたの。

それは、捜索の許諾と拾得物所有の可否を伺うもので、当時の三宝寺池は既に東京府の管理下にあったみたいね。申請後左程日を置かずして東京府の許諾が下り、専門業者による大規模な捜索が行われることになったものだから、石神井村では上を下への大騒ぎとなったの。捜索は主に弁天島周辺で行われたのですが、厳島神社の関係者は弁天島に5m余のヤグラを建てて指揮にあたり、村の青年団や消防団は総勢で池水の排水を担い、女性は炊き出しをするなどして支えたのだとか。近在からは連日見物客が押し寄せ、その見物客を目当てに露店が出るほどで、池の周囲の大きな木には子供達がよじ登るなどして、池の底からお宝が現れるのを皆して固唾を呑んで見守っていたの。

作業は数日間行われたのですが、残念ながら何も見つけられないまま打ち切られてしまったの。伝説を信じていた地元の人達の落胆振りが窺えるお話ですが その後も大正2,3年頃に潜水夫に依る捜索が行われ、昭和の初めにも地元青年団有志に依る探査がなされたのですが、幾れも発見出来ずに終わっているの。明治、大正、昭和と時代の節目毎に続けられてきた「金の乗鞍」探しですが、平成になってから行われたと云うお話は聞かないので、誰か名乗りを上げてくれないかしらね。現在の探知技術を以てすれば、何かしらのお宝が発見出来そうな気がするのですが。(^^;

厳島神社の対面には鳥居が建てられ、鉄扉で塞がれてはいるものの、背後には洞窟が続いているの。脇には「宇賀神社 穴弁天」と書かれた木札が添えられているだけで、何の説明も無いのですが、厳島神社が弁天堂だった頃は奥の院の扱いだったようよ。宇賀神(うがじん)はその名から連想されるように、稲荷神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一神と見做され、食物を司る神であり、豊作を祈願する農耕の神でもあったの。一方、田植えの時期になると現れる蛇は、古来より恵みの雨を齎す水神として崇められていたのですが、宇賀神はその蛇の水神信仰とも結び付き、やがて弁才天信仰に習合していくの。

その姿は龍神で、像容は蜷局(とぐろ)を巻いていることが多いの。おどろおどろした雰囲気にあるのはそのためね。うら覚えで恐縮ですが、年に一度だったか、限られた日に洞窟内に入り、参詣することが出来ると聞きましたので、宇賀神のお姿に触れてみたいと云う方は機を捉えてお出掛けになってみて下さいね。(^^; 尚、ここでは宇賀神社の呼称から宇賀神が祀られているという前提でお話をしましたが、宇賀神と弁財天が習合した宇賀弁財天となると、その像容は大きく異なるの。でも、その可能性はかなり低いような気がするの。But 宇賀弁財天が祀られていたらごめんなさいね。

この穴弁天、嘗ては弁天堂の奥の院としての扱いだったのですが、明治期の神仏分離&廃仏毀釈の中で弁天堂が厳島神社へと変容すると、置いてきぼり (^^; にされてしまったの。三寶寺に帰属するのか、それとも厳島神社に帰属するのかはっきりしないまま、今日に至っていると云うわけ。宇賀神を祭神とするが故に嫌われちゃったのかも知れないわね。

厳島神社から東に50m程離れて水天宮があるの。【風土記稿】の上石神井村の項には、愛宕社や稲荷社の名と共に「水天宮 池の側にあり」とあるのですが、明治期の神社統合政策などから愛宕社や稲荷社などが厳島神社へ合祀されたにも関わらず、この水天宮だけは合祀されずに今に至っているの。池畔にあると云うよりも池の中に突き出して建てられていることから、水天宮と云うよりも水神社と呼称した方が良さそうなシチュエーションですが、合祀を免れたのには何か特別の理由でもあるのかしら。さて、ここでグリコのオマケで、「三宝寺池の主(ぬし)」のお話を紹介しますので、お楽しみ下さいね。この三宝寺池には大きな池の主(ぬし)が棲んでいると伝えられているの。

むか〜し昔のお話じゃけんども、岩淵領の稲付村から若い女の客を乗せた人力車がこの三宝寺池の畔まで来ると、女は、この辺りで結構ですから−と車を降りてしまったそうじゃ。そん頃は池の周りには民家ものうて、鬱蒼とした木々が生い茂っておってのお、昼間でも薄暗いありさまで、こんな所で車を降りてどこへ向かおうとしておるんじゃろう−と、不思議に思うておったんじゃが、女は何やら紙にくるんだものを俥夫に差し出すと「これは駄賃の代わりです。包みを開けずに持ち続けていればきっと幸せになれますよ」そう云うと池の方へと歩き出したそうじゃ。包みを手にした俥夫は、中に何が入っているのか思案しておったんじゃが、ふと、後ろで大きな水音がしたそうじゃ。思わず振り返って見ると、乗せて来た女の客が恐ろしい大蛇の姿となって、今まさに池の中に消えようとしているところじゃったそうな。

俥夫は腰を抜かさんばかりに驚いてのお、一目散に逃げ帰ったそうじゃ。そうなると、開けずに持ち続けていれば幸せになれると云われた紙包みの中身が気になってのお、とうとう、その包みを開いてみたんじゃが、そこには大きな鱗が三枚入っていたそうじゃ。その内誰云うとなく、稲付村にある静勝寺の亀ヶ池の水が減って浅くなってしまったんで、三宝寺池に移って来たんじゃろうと噂されるようになってのお、それからと云うもの、石神井村では時折大蛇が通った跡のように、稲が倒されているのを見掛けるようになったそうじゃ。今では水田ものうなってしもうたが、こん三宝寺池には、今でも大蛇が棲んでいると信じられておるそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども。

一部脚色(デッチ上げとも云う)してお届けしてみましたが、この「三宝寺池の主」伝説には幾つかのバリエーションがあるみたいね。主の正体は龍のときもあれば大蛇のときもあり、その出身地にしても、紹介した稲付村(北区赤羽西三丁目)の他に、徳丸村(板橋区徳丸)だったり、白子村(埼玉県和光市)だったりするの。移動手段にしても人力車ではなくて、馬や荷馬車だったりと色々よ。新しいところではタクシー (^^; なんてものまであるの。なので「おれが知っている話と違うぞ、嘘書いているんじゃねえのか」と怒らないで下さいね。

池畔の遊歩道を歩いていると石神井城址と刻まれた大きな石碑が見えてきたの。改めて周囲を見渡してみると、石神井城跡に関する案内板があちらこちらに建てられていたの。それだけ興味を持って訪ね来る方がいらっしゃると云うことの表れなのでしょうね。生憎とξ^_^ξはお城に関する知識は皆無ですので、案内板の記述を片っ端から (^^; 転載しておきますので各自お目通し下さいね。尚、次に紹介する「石神井城址とこの記念碑について」の説明ですが、一部崩字が使われていてξ^_^ξには読めない部分があり、仕方なく伏せ字にしていますので御容赦下さいね。どなたか読める方がいらっしゃいましたらコソッと御教示下さいね。併せて、誤字脱字など、お気付きの点がありましたらお知らせ下さいね。

〔 石神井城跡 〕  石神井城は中世武士の豊島氏の城です。豊島氏は葛西・江戸両氏と共に秩父流平氏で、鎌倉時代の末には石神井郷を領有していました。室町時代に、城主の豊島泰経は、武蔵守護の上杉顕定に背いた長尾景春に味方しました。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正の重臣の太田道灌は、文明9年(1477)4月、この城に泰経を攻めて、これを落しました。石神井城は、中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い丘陵の上にあって、その周囲は空堀や土囲でめぐらされていました。今でも空堀の跡の一部を見ることができますが、落城によって照姫が水中に身を投げたと云う伝説など、数々の哀れな物語を秘めています。昭和58年(1983)3月 練馬区教育委員会

〔 石神井城址とこの記念碑について 〕  茅野あり、今なほ都塵を避け、武蔵野の面影僅かに残す此の辺り、太古より水清く、沃野につゝまれ、およそ一万年を数へる中石器時代より人跡を見る。平安末期に至り、桓武天皇曽孫望を祖とする秩父一族よりなる豊島、葛西、江戸氏等によりて開発され、こゝに半農半武の荘園を結ぶ。以来十数代に亘り豊島氏一族は、紫の花香りく、月の入るべき山の端もなしと詠れし此の地に、堅固なる居城を設け、平塚、練馬城等と共に、三宝寺池より涌き出づる石神井川の流れを遡りつゝ開發し、繁栄を極むること三百有余年、豊島勘解由左衛門尉泰經の時代に至る。当時氏族の勢力争い、関東各地に起り風雲急を告ぐ。たまたま、文明9年(1477)、扇谷上杉定正の臣・太田道灌持資は、智略を以て豊島一族の各居城を攻めさせ、難攻不落と思はれし当城も衆寡敵せず、遂に陥落す。時も春たけなは、四月のなりと伝ふ。かくして、当地は太田一族のもとに急速な発展をとげ、江戸城栄華と共に五百余年今日に至る。天地の常道は生成化育、人生亦これに従ふも天意ありて、人跡未到の地を開墾せし先人達の血と汗に涙を、亦時の運びとはいひながら豊島・太田一族の合戦に尊き一命を此の地に埋めたる敵味方戦士五百余名の諸霊、草茂り苔むしてあり志日の戦場は人多き市街と化すも、誰ぞ香華を手向ける人もなき侭にあるを思ふ時、切々と胸せまり、春秋を吹き分くる風の香、雨の音にもその労苦を偲びて、ひたすら菩提の念を禁ぜざるも■■■。国土の大御恩報じても報じ難く、幽顕一■の理法は、即ち幽界の安霊ありて現界の安心ありと、大聖解脱金剛尊者の御教へのまにまに、この地にゆかりある人、ひそかに敵味方の執念を解消し、安霊を願ひ、供養を捧げて十数年、機熟し、区内有志各位の熱意により、本碑建立の意図を抱きてなほ三年有余の日を労し、今やその運びとなる。茲に郷土を愛し、祖先の偉業を偲び、戦場に散り志諸霊に供養を捧げ、怨讐を越えて、平等にその冥福を祈らんが爲、此の碑を建つ。追つて此碑除幕に当り、豊島、太田一族一党の戦いにより戦没され、当時近郷近在ここかしこに弔はれたる将士の霊、及び当地開發の先人並に土地関係無縁萬霊を招き移して鎮めし事をあはせて記し、後の世の為に本碑に刻みて伝ふ。昭和42年(1967)9月17日建 石神井城址記念碑建設有志 石神井城址保存会

東京都指定史跡・石神井城跡 所在地:練馬区石神井台1-1900-2 指定:平成23年(2011)6月9日
石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする、現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた豊島氏の居城でした。石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350m、南北約350mの規模の主郭と外郭からなる比較的単純な構造の中世城館です。昭和31(1956)以降の数次の発掘調査によって、主郭や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。文明8年(1476)の長尾景春の乱の際、当時の城主・豊島泰経は景春に与したので、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女・照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。平成24年(2012)3月 東京都教育委員会

〔 石神井城の中心内郭跡 〕  石神井城は平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区・文京区・豊島区・北区・荒川区・板橋区・足立区・練馬区などや、その周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つです。城の築城は鎌倉時代後期と考えられ、文明9年(1477)4月28日に太田道灌に攻められ落城し、廃城になりました。「太田道灌状」によれば、最後の城主・豊島泰経は石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の1月25日、再び道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げています。その後の泰経の足どりは記録として文献には残っていません。城は石神井川と三宝寺池に挟まれた台地に築かれており、全体では9ha前後の規模であったと推定されています。

当時の城は、土塁と濠で土地を四角形に区画した場所(郭:くるわ)をいくつか築き、防御施設としていました。たとえば、城の東側は、ここより約100m程の場所に幅7m程の濠で区画されていたと考えられ、西側は、ここより約220m程の場所に幅9m程の濠と土塁で区画されていました。また、北側と南側は、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。この場所は、本城の中心となる郭で、土塁と濠が良く残っています。昭和42年(1967)の発掘調査では、次のような規模の郭であることがわかりました。
空濠 上 幅:11.6m 底 幅:3m 深さ:6.1m
土塁 基底幅:12.3m 現在高:2.3m ( 築城当時の高さ推定4.5m )
また、内部は平坦であり、陶磁器片・かわらけ(素焼土器)・鉄釘なども出土しており、何らかの建物があったと考えられます。
〔 掲載図並びに以降省略す 〕  東京都

「石神井城址」碑が立つ場所からは池の対岸に渡る橋が架設されているのですが、橋を渡りきった一角にも石神井城阯史蹟碑が建てられていたの。城跡に込める思いは今も昔も変わらないようね。この史蹟碑は昭和12年(1937)に建てられたこともあり、文語体で記され、短い文章ながら、叙事詩を語るがごとき香りのする碑文なの。

〔 石神井城阯史蹟碑 〕  水鷄鳴き螢に名を得たる當石神井城阯は、其昔豐島の豪族代々此の地を中心に附近一帶を居城となせしが、文明九年豐島勘解由左衞門尉泰經の代に至り、長尾景春は管領上杉顯定に叛き武藏相模の同志と相謀り兵を興すに及び、當城主泰經及平塚城主たる弟平左衞門尉泰明と共に、景春に應じ、江戸河越の通路を斷ちしかば、江戸在城扇谷上杉定正の臣太田道灌兵を率て平塚城を攻め城下に火を放つとの報により、泰經直ちに之を救んと當城并に練馬城の兵を率て馳向ふ。途中江古田ヶ原沼袋にて太田の軍と遭遇激戰數刻にして、遂に泰明及板橋赤塚の一族百五十有餘名討死す。

太田勢は時を移さず練馬及當城に攻め入れば、豐島勢善く戰しも衆寡敵せず城遂に陷落す。時に文明九年四月十八日の亊なり。星移り物變り春秋を重ぬる亊五百回、天地の悠久に比すれば人生蜉蝣の如く興亡轉た夢の如し。徃時を顧る者些なく年經るにつれ、此の郷土の貴き史蹟を忘れらるるを惜みて之を磐に鐫して後世に傳ふ 社團法人 石神井風致協會 建 昭和十二年六月 田中酉藏 撰

替わって、向かい合うようにして「三宝寺池沼沢植物群落」の案内板があるの。

国指定天然記念物「三宝寺池沼沢(しょうたく)植物群落」
三宝寺池は昭和30年代頃までは冷たく澄んだ湧水をたたえた池でした。そのため、東京では珍しい沼沢植物が生育しており、昭和10年(1935)に「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定されました。指定当時は大きなハンノキは少なく、中の島にはカキツバタが一面に咲き乱れ、シャクジイタヌキモやジュンサイ等の貴重な沼沢植物が見られました。しかし、昭和30年代以降の急激な都市化に伴う湧水の減少により、池の水温の上昇や水質の悪化が進んでいます。

また、昔は人々が生活のために刈り取っていたハンノキやヨシ、マコモが放置されて繁茂したことにより、池の環境が大きく変化し、貴重な植物の多くが消滅してしまいました。この状況を改善するため、専門家や文化庁の指導・助言のもと、ハンノキの萌芽更新やヨシ等の大型水生植物の刈り取り等、以前の環境を回復させるための管理を進めています。その結果、カキツバタやミツガシワ・ハンゲショウ・コウホネ等の貴重な植物は順調に増え、消滅した植物も少しずつ回復しています。東京都東部公園緑地事務所・石神井公園管理所

12. 石神井池 しゃくじいいけ 14:35着 14:54発

三宝寺池とは井草通りを隔ててあるのが石神井池で、現在はボートを浮かべたり、釣り糸を垂れるなどして楽しめる親水公園となっているのですが、嘗ては水田が広がっていたのだそうよ。今目の前に広がる光景からは想像も出来ないわね。そんな石神井池の畔をミニ散策して今回の散策を終えることにしますね。

13. 石神井公園駅 しゃくじいこうえんえき 15:01着

最後になりましたが、石神井公園では毎年、照姫伝説に因む照姫まつりが行われるの。実は、今回の歴史散策はその照姫まつりが切っ掛けになっているの。伝説のことが気になり調べてみると、この石神井公園界隈には伝説の他にも豊島家ゆかりの事蹟が数多く残されていることを知り、興味を覚えて訪ねてみたと云うわけなの。因みに、ξ^_^ξが最初に出掛けたのは平成28年(2016)に開催された第29回照姫まつりですが、そのときの様子を幾つか写真に収めて来ましたので、御覧になりたい方は こちら から。但し、画質&カメラワークを期待しちゃダメよ。(^^;


石神井川の源流が石神井公園の中にある三宝寺池だと知り、その源流をこの目で見てみたいと訪ねた際に、偶然手にしたのが照姫まつりのパンフだったの。そこから地元では照姫伝説が語り継がれていることを知り、調べてみると、石神井公園界隈には他にも豊島家縁の事蹟が数多く残されていることを知ったの。改めて出掛けてみれば、ここが都内であるとは思えないほどの緑に囲まれ、湖面には雲を浮かべた蒼空が広がっていたの。その穏やかな水面からは、嘗てこの地で太田道灌の軍勢を敵にして刃を交え、多くの武士(もののふ)達が三宝寺池の露と消えたことなど想像も出来ないのですが、照姫伝説や「三宝寺池の主」伝説など、語り継がれて来た物語に耳を傾ければ、遠い昔の出来事が目の前に映像となって映し出されていくの。あなたも一度、照姫や三宝寺池に棲むと云う龍神に、会いに出掛けてみませんか。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
春陽堂刊 遅塚麗水著 照日の松
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
平凡社刊 十方庵敬順著 朝倉治彦校訂 遊歴雑記
角川書店刊 鈴木棠三・朝倉治彦校註 江戸名所図会
小峰頼典(亀頂山三宝寺)発行 平野實編 三宝寺誌
練馬経済新聞社刊 鳥居義太郎編・著 ふるさと練馬区秘話
亀頂山密乗院三寶寺発行 小峰一允編 三寶寺六百年の歴史と文物
練馬郷土史研究会刊 平野實著 郷土史研究ノート(7)「豊嶋氏の遺跡を訪ねて」
練馬区立石神井公園ふるさと文化館 編集・発行 練馬の寺院
練馬区立石神井公園ふるさと文化館 発行 常設展示ガイド
練馬区立石神井公園ふるさと文化館 発行 練馬の昔ばなし
学生社刊 江幡潤著 東京史跡ガイド(20) 練馬区史跡散歩
練馬区発行 練馬区独立40周年記念 練馬区小史
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など






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