≡☆ 根津神社 ☆≡
 

根津神社に祀られている祭神のことや縁起について紹介しますね。

根津神社

〔 根津神社略記 〕
 
御祭神
素戔鳴尊・大山咋神・誉田別尊・大国主神・菅原道真公
御祭日
例祭  九月廿日・九月廿一日  中祭:一月廿一日・五月廿一日  月次祭:毎月廿一日
由緒
本社の御創立は遠く景行天皇の御宇と傳えられ、古来駒込の地に鎮座。文明年中(1469-1487)太田道灌持資は御社殿を再建。下って寛永3年(1626)征夷大将軍徳川綱吉、その嗣子の定まるや神恩に感謝し、今の地を相して神地に充て、現社殿を造営。社領五百石を寄せ、更に幕政を以て祭祀の制を定め、天下祭と稱せられる。壮麗なる祭典を斎行、爾来江戸城東北の鎮護として歴代の将軍その崇敬は洵に篤かった。明治天皇は維新に際して畏くも勅使を差し遣わされ、国家の安泰を祈願せられる等、古くより公武の尊崇深き名社である。尚、境内地は六代将軍徳川家宣の邸趾で、曙の里、又、つつじヵ岡と稱せられ、花季の眺は現に東京の名勝である。
御神徳
東都の鬼門の鎮護と、鎮まり坐す勇武の神としては宏く厄災攘伐・幸運招来の信仰を集め、一方、縁結び、又、学問の神として有名である。

鳥居脇に掲示されていた【根津神社略記】を引いておきましたが、根津神社は今から1,900年程前に日本武尊(やまとたけるのみこと)が千駄木の地に創建し、後に太田道灌が社殿を再興したと伝えられる古社で、日本武尊は蝦夷征伐に向かう途中で素戔鳴尊(すさのおのみこと)の霊威をこの地に迎えたとされているの。【日本書紀】や【古事記】の中では遠大な叙事詩を以て語られる素戔鳴尊ですが、荒ぶる神として描かれる一方で、八岐大蛇退治を経て稲田媛と結ばれるなど、五穀豊穣を司る神でもあるの。縁起には元々は産土神が祀られていたと記されていますので、在来の地神に素戔鳴尊が習合されたのではないかしら。

産土神とは聞き慣れない神名ですが、安産祈願に霊験灼かな神さまかしら?と思われる方もいらっしゃるかも知れませんね。関係が無いわけではないのですが、ここでは五穀豊穣などの豊かな恵みを齎す大地に宿る神さまを指しているの。産土は「うぶすな」と訓み、古くは本居・宇夫須那・生土・産須那などとも表記され、「うぶは産なり  則ち土なり」と云うことで、生まれた土地に宿る神さまを指し、氏神さまとして或いは土地を中心とした結合集団の共通の守護神として祀られていたの。産土神は人々に豊かな稔りを齎すことからお産にも霊験灼かと見做されるケースもあり、今では安産祈願を御利益の一つにあげるお社も確かにあるの。

次に祭神として第二柱に名の見える大山咋神(おおやまくいのかみ)ですが、元々は比叡山に鎮座する山の神さまだったの。それが延暦寺の開創に合わせて守護神に祀られたの。【古事記】には

この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し 亦葛野の松尾に坐して鳴鏑を用つ神ぞ
このかみはちかつあふみのひえのやまにまし またかづぬのまつのおにましてなりかぶらをたもつかみぞ
と記され、ここでは日枝と記しているように、比叡=日枝=日吉で、元々は日枝山の山神さまで、全国各地に鎮座する日吉山王社の祭神がこの大山咋神なの。因みに「葛野の松尾に坐して」とあるように、松尾大社にも鎮座しますが、そちらの方は後に分祠されたものみたいね。そうして延暦寺の守護神にさせられた大山咋神は、中国の天台山国清寺やインドの霊鷲山の山王信仰に因み、山王権現や日吉権現と呼ばれるようになったの。実は、その日吉大社には東本宮に大山咋神、西本宮に大物主神の二神が鎮座しているの。

大山咋神は後に大物主神が三輪山から勧請されたのを機に格を下げられて小比叡となり、大物主神は大比叡と呼び区別されたの。神さまもランク付けされて大変ね。その大山咋神からすると素戔鳴尊はお祖父ちゃんにあたるの。余談ですが、東京都千代田区に鎮座する日枝神社は江戸城築城時に太田道潅が日吉大社の神霊を守護神として勧請したことに始まるの。根津神社の縁起にも文明年間(1469-87)に太田道灌が社殿を再興したとあり、道灌はその際に同じくこの根津神社に大山咋神を勧請して合祀したのではないかしら。

ところで、江戸城を最初に築城したとされる太田道灌ですが、その頃の皇居周辺は武蔵国千代田村と呼ばれる漁村だったの。今でこそ日本の政治経済の中心地としてビル群が乱立しますが、当時の武蔵国の中心は川越や府中で、神田川も氾濫を繰り返すなど、湿地が多くてとても人が住めるような状態では無かったの。道灌が地主神を勧請した気持ちが分かるような気がするわね。

次なる祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)は八幡さまの名で親しまれていますが、応神天皇のことで、嘗ては仏教に習合されて八幡大菩薩と菩薩号も得ているの。その八幡神社の総本社とされているのが大分県の宇佐八幡宮で、八幡神の成立過程には諸説があるのですが、大和朝廷とは別に北九州地方を中心とした倭国が存在し、その土俗神が大和朝廷の覇権拡大と共に熊襲征伐を支える軍神、辺境を守る国家守護神として融合されたの。その後更に仏教と習合されて八幡大菩薩となり、明治期の廃仏毀釈を経て再び八幡神に戻されたの。八幡神は源氏の守護神としても崇められるようになり、後に源頼朝に依り鎌倉の鶴岡八幡宮に勧請されますが、守護地頭として各地に赴いた御家人達の手に依り、多くの八幡神社が創建されたの。根津神社にその八幡神が勧請されたのがいつのことかはξ^_^ξにはわかりませんが、武士に依る、武士のための政治が行われた東国の地に、武神としての八幡神が祀られたのは極めて自然のことよね。

続いて、4柱目となる大国主命ですが、由緒書きでは相殿とされていますので、後世に合祀されたものみたいね。大国主命と云えば「因幡の白兎神話」ですよね。気高く心優しい大国主命は女神達に大モテなの。【記紀】にはその武勇伝と共に恋物語が数多く描かれているの。その大国主命が後に仏教の大黒天に習合されて大黒さまとなるの。今では七福神の一神として親しまれる大黒さまですが、ヒンズー教のシバ神がそのルーツ。元々は袋を片手に憤怒の出で立ちで、何と破壊を司るこわ〜い神さまだったの。やがて仏教に習合され、宝物が入るという袋も大きくなり、そこは宗教に寛容な日本人、「因幡の白兎神話」で大国主命が大きな袋を背負っていたことや、大国がダイコクと訓めることなどの共通項を見出して、いつしか同一神にしてしまったの。明治期の廃仏毀釈が無ければ今頃は七福神の一神としての大黒さまが祀られていたかも知れず、不忍の池の弁財天と合わせて上野七福神巡りのコースが出来ていたかも知れないわね。

5柱目の菅原道真公は天神さまと呼ばれ、学問の神さまとして有名ですよね。今では受験生の合格祈願や学問成就を願う人々から崇敬を集める道真公ですが、嘗ては怨みを振り撒く祟り神だったのよ。右大臣の地位にまで昇りつめた道真は、娘の嫁ぎ先の斉世親王を天皇に擁立せんと謀ったと藤原時平から讒言され、太宰権帥に左遷されてしまうの。2年後にはその太宰府で死去していますが、その後讒訴した時平も病死してしまい、皇子も相次いで死去。都では疫病が流行し天変地異も続いて、遂には天皇の御座所の清涼殿に雷が落ちるの。そして駄目押しの醍醐天皇の薨去。道真の祟りじゃあ、祟りじゃあ−とそれはもう大変な騒ぎになったの。日本三大天神の一つ、京都の北野天満宮は本当はその道真の祟りを鎮めるために創建されたお社なの。

東風吹かば  にほいおこせよ  梅の花  あるじなしとて  春な忘れそ

都を離れる際には優雅に詠歌していますが、腹の中は煮えくり返っていたのかも知れないわね。そのせいか、道真が死去してからもかなりの年月に亘り、道真の祟りとされる出来事が数多く伝えられているの。報われぬ魂は崇め奉られなくてはならず、道真公が現在のように専ら学問の神さまとして祀られるようになるのは江戸時代以降のことで、荒魂が和魂に昇華するにはそれなりの時間が必要だったわけ。

七日七夜天に仰ぎて身を砕き  心を尽して  あな恐ろし  天満大自在天神とぞ成らせ給いける

【北野天満宮天神縁起】では、太宰府に左遷された道真が、天拝山から七日七夜に亘り、無実の奏文を天に向かい読み上げたところ、その巻物が延びて天上界にも届き、生きながら現人神(あらひとがみ)になったと伝えているの。この大自在天と云うのが古代インド神話に描かれるシバ神のことで、破壊と創造の両面を併せ持つ絶対神なの。その力を得た道真は残虐と智慧の神さまとなったの。残虐振りが鳴りを潜めて智慧の光を発するようになるのは江戸時代に寺子屋が出来始めてからのことね。

道真公が学問の神さまとして祀られるようになったのは、崇め奉られて荒魂が和魂に昇華した結果だとすると、根津神社では学問成就を御利益に掲げている訳ではありませんので、未だ和魂に昇華出来ていないのかも知れないわね。境内では呉々もお気をつけ下さいね。それこそ「さわらぬ神に祟り無し」かもね。

祭神5柱の能書きをようやく(笑)終えたところで、当地に根津神社が遷座するに到った経緯を紹介しますね。

元々この地には甲府中納言家・松平綱重の江戸屋敷があり、寛文3年(1663)に後の六代将軍となる家宣こと松平綱豊が生まれているの。やがて江戸幕府第五代将軍・綱吉が兄・綱重の子である綱豊を養嗣子に決めると、根津神社は俄に表舞台に担ぎ出されて大変身を遂げるの。家宣が世嗣として江戸城に移ると、綱吉はその屋敷跡を根津神社に寄進して新たに社殿の造営を始めたの。この時点で千駄木から遷宮したと云うわけ。造営にしても天下人の綱吉の大号令の下に行われたのですから半端じゃないの。藤堂、浅野、毛利氏を初めとする諸大名を動員して、俗に天下普請と形容される程の大事業なの。

将軍家に睨まれては大変よね、諸大名は挙ってこれを支えたの。あの野郎、金も人も出さねえ積もりか?上等じゃねえか。だったらお家断絶にしてくれるわ!−と云うわけね。現在残されている拝殿・本殿・楼門・唐門・透塀は、当時の権現造りの様式を今に伝える貴重な建造物として、国の重要文化財にも指定されているの。また、綱吉は経済的な基盤として社領地五百石を与えているの。社殿が立派なら、当然それに見合う維持費が必要よね。徳川幕府第六代将軍となった家宣にしても、幕制で根津神社の祭礼を定め、現存する三基の大神輿はその家宣が奉納したものなの。

為政者の後盾を得て、嘗ては山王祭、神田祭と合わせて江戸三大祭と呼ばれる程の大祭が執り行われていたみたいね。境内を埋め尽くすような人出に気圧されて取材(笑)が出来ずに祭神の由来記になってしまいました、ごめんなさいね。珍しいものでは文京区民俗文化財に指定される「家宣の胞衣塚」が境内に残されているの。胞衣塚は「えなづか」と訓み、出産時の胎盤を埋めた塚のことなの。境内の御案内については 根津神社 を御参照の上でお出掛け下さいね。
















どこにもいけないわ