≡☆ 乙女の湖・鎌北湖 ☆≡
2009/11/15 & 2010/03/27 & 2010/10/23 & 2010/12/07

かなり昔のお話しですが、TVのお天気情報のコーナーで毛呂山町の鎌北湖が紹介されたのに触発され、準備も碌にせずに飛び出したことがありました。当時のことを思い出しつつ、気づかずに素通りしてしまった出雲伊波比神社なども含めて、改めて訪ねてみたので紹介しますね。But いざ訪ねてみると一度では済まずに複数回に。なので内容も季節が入り乱れていますが、御了承下さいね。補:掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

出雲伊波比神社〜桂木観音〜鎌北湖

1. 東毛呂駅 ひがしもろえき

鎌北湖はハイカーの方にはお馴染みの湖で、西武池袋線の東吾野駅や武蔵横手駅、JR八高線の毛呂駅などを起点にして幾つかのハイキング・コースが設けられているみたいね。ここではハイキングが目的でもありませんし、個人的な利便性から東武越生線の東毛呂駅を起点にして歩いています。勿論、JR八高線の毛呂駅でもOKですので、皆さんの御都合に合わせてお出掛け下さいね。因みに、最初に訪ねる出雲伊波比神社へはJR八高線の毛呂駅の方が距離的には断然有利よ。おまけに正面玄関 (^^; からのアプローチが出来るし。

2. 出雲伊波比神社 いずもいわいじんじゃ

鳥居 参道 東毛呂駅からJR八高線の毛呂駅方向に歩くと、車道に面して御覧の鳥居が見えて来るの。鳥居からは杉林の間を縫うようにして薄暗い参道が続きますが、実は、この参道は裏道なの。ちょっと暗くて怖いわ−と云うあなたには鳥居左手の舗道がお勧めよ。車でお出掛けの際にもこの舗装路(と云っても途中から砂利道になるけど)を辿ることで境内に直行出来るの。

こちらはちゃんと狛犬もある正面玄関側の一の鳥居よ。鳥居の先に社殿が小さく見えているけど、先程辿って来た裏道は社殿の背後にある杉林の中に設けられているの。因みに、この一の鳥居右手には社務所と駐車スペースがあるのですが、多くはとめられないので御注意下さいね。お正月の三箇日は勿論、流鏑馬が行われる例祭時などでは車の乗り入れは禁止でしょうね。拝観料:境内自由 初穂料:志納

一の鳥居をくぐり抜けて参道を進むと二つ目の鳥居が立ちますが、その両脇に植樹されているのが橘の木。身近な存在と思いきや、意外にもこの出雲伊波比神社の橘は日本北限の樹だそうよ。説明書きには「ミカン科の常緑低木。高さ3-4mとなる。葉・花に芳香があり、初夏に白い五弁花を開く。花形は文化勲章に用いられ、学問の象徴とされている。果実は11月下旬から12月に黄熟するが、肉は苦く、酸味が強いので生食出来ない。当社のこの一対の橘樹は大正5年(1916)10月、本殿旧地御遷座祭を祝し、毛呂村(当時)前久保の崇敬者・井岡昇太郎氏が寄進したものである。日本北限の樹で、樹齢70年」とあるの。

二の鳥居の先に鎮座するのが拝殿で、傍らには略縁起が掲示されていましたので、紹介してみますね。

出雲伊波比神社  埼玉県入間郡茂呂山町岩井2915鎮座

祭神
大名牟遅神・天穂日命・品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命 他
出雲を中心として国土経営、農業・産業・文化を興され、全ての災を取り除かれた大名牟遅神、天孫のために出雲の国土を移譲する、いわゆる国譲りに奔走され、大名牟遅神が杵築宮(出雲大社)に入られた後、その御魂を斎い祀る司祭となられた天穂日命、この二柱の神が主祭神で、家内安全・病気平癒・開運招福・商売繁昌等の神として崇めらる。
創祀
古く出雲臣が齋祀する社であった。景行天皇53(123)年に倭建命が東征凱旋の際、侍臣・武日命(大伴武日)に命じて社殿創設、神宝として比々羅木の矛を納められたと伝えられ、現に東北を向いて鎮まり坐す。
神名
出雲伊波比の神名初見は宝亀3(772)年の太政官符に於いてで、当社はそれに依ってその論拠を得たのである。それに依ると、当社は天平勝宝7(755)年には官幣に預る預幣社(よへいのやしろ)となり、延喜式神名帳にも記載され、当社が延喜式内社と呼ばれる由縁がそこにある。
本殿建築
流造一間社で屋根は桧皮葺型式、大永8年・享禄元年(1528)9月25日毛呂三河守藤原朝臣顕繁再建に依るもので、埼玉県下最古の神社建築である。大永8年・宝暦12年(1762)の棟札二面と共に国指定重要文化財。昭和32-33年文部省は解体修理を行った。
例祭
11月3日 県無形文化財民俗資料選択の古式流鏑馬が奉納される。920年の歴史を持つ。

昭和61年(1986)8月 宮司 紫藤啓治 撰文並書

説明書きでは触れられていませんが、更に昭和58年(1983)には拝殿や瑞垣の新改築、祝詞門及び境内摂社の八幡社の修復なども行われているの。その瑞垣に阻まれて、社殿の全容を収めるのがかなり難しいのですが、神さまの鎮座する御神域とあらば致し方の無いことかも知れないわね。

ところで、この出雲伊波比神社には説明書きにある神さまの他にも伊弉冉尊・伊弉諾尊、素戔鳴尊や天鈿媛命などなど、全部で20柱もの神さまが祀られているの。実は、明治40年(1907)以降に近在各所から諸神が集められて合祀されたの。小さな社殿に押し込まれて、さぞ窮屈な思いをされているのではないかしら。(^^; ここでちょっと気になるのが社名の由来にもなっている出雲伊波比神と云う神さまね。一神のように思われるかも知れませんが、実は、主祭神として祀られる大名牟遅神と天穂日命の二柱を合わせた呼称なの。

大名牟遅神(おおなむちのかみ)は一見馴染みが無さそうに思われるかも知れませんが、大国主命(おおくにぬしのみこと)の別称なの。命が丸裸にされた兎に優しく問い掛ける「因幡の白兎」神話は誰でも御存知ですよね。一方の天穂日命(あめのほひみこと)は天照大神と素戔嗚尊が誓約(うけい)した際に生まれた二番目の神さまで、国譲りに活躍しているの。また、出雲氏の祖神とされ、国造(くにのみやつこ)として当地を治めた出雲氏が縁ある二柱をこの地に祀って崇めたのは自然よね。伊波比にしても「祝」の意だともされているの。

その出雲伊波比神ですが、説明書きで触れられている宝亀3年(772)の太政官符(天理図書館所蔵)には出雲伊波比神が関与したとされるとんでもない事件が記されているの。それに依ると、本来なら朝廷から幣帛(神さまへのお供えもの)を受けて当然なのだが、このところ滞っているとはけしからん−と怒った出雲伊波比神が、郡家内外の雷神を引き連れて入間郡の正倉(租税の稲籾を納めた倉)4宇を焼き払い、糒殻10,500石余を焼き、百姓10人に重症を負わせ、更に2人を頓死させたと云うの。神さまの所業にしてはちょっと生々しい嫌いがありますが、それもそのハズで、実は、郡司の稲籾横領の証拠湮滅を謀った放火事件ではないかと解されているの。

当時はこの入間郡に限らず、正倉が神火に遭うことは決して珍しいことでは無かったようで、収穫量の不足隠蔽や、着服を誤魔化すために郡司自らが放火することがあったみたい。他にも郡司の失脚を狙う連中が放火するケースもあったようよ。

郡司は郡衙に勤務する官吏のことで、地域の有力豪族が任命されることが多かったの。
尤も、それだけは執務をこなせずに賦役で駆り出された非常勤の職員も動員されていたの。

事件の詳しい経緯や背景などが気になる方は森田悌著【古代の武蔵】吉川弘文館刊を御参照下さいね。実は、この入間郡の神火事件は決して郡司が証拠隠滅を謀ろうとした訳ではないようね。じゃあ、どういうことなの?となるのですが、ことはそう単純ではなくて、氏は関係史料を元に検証される中で真犯人と云うか、黒幕の正体までも暴き出しているの。その思わぬ展開に皆さんもきっと驚かれると思いますよ。是非、御一読下さいね。

社殿右手には控えめな社が続きますが、八幡神を祀る八幡社かしら。これと云った案内も無いのですが、祭神として祀られる品陀和気命(誉田別尊:ほんだわけのみこと)とは応神天皇のことで、則ち八幡神のことなの。社伝に依れば、永承年間(1046-53)、源頼義・義家父子が奥州征定の途次に当社に立ち寄り戦勝祈願をしたの。康平6年(1063)に前九年の役を平定して京に凱旋する際に再び当社を訪ね、大願成就の暁に鎧頭に奉っていた八幡神の御魂を遷し、流鏑馬騎射の神事を報賽したとされているの。例祭時などに行われる流鏑馬の起源がこれね。

余談ですが、この伊波比神社は嘗ては飛来明神とか毛呂明神とも呼ばれていたの。飛来からは白鳥を稲の精霊と見做す伝承に加えて、稲荷神が連想されますが、稲荷神と云えば秦氏の氏神さまがそのルーツとも云われているの。同じくこの伊波比神社も中世になると毛呂氏の氏神的性格を強めたの。社に残る【毛呂記録】や【長昌山龍穏寺境地因縁記】には毛呂氏の氏神となった毛呂明神が高山不動方向から飛来したと伝えるの。更に、伝説では毛呂氏の祖となる藤原季綱が当地に下向して来ると季綱を慕って一羽の鳥となり、この地に飛来してきたとも云われているの。

毛呂越生の守護 小野宮藤原季綱親王 この地に居住す その因縁は藤原親王 内裏庭前の鞠の会に行幸あり 遊履四本踔遊す 時に履脱げて藤の枝に掛かり 此の時大地踏む 其の罪に依りて遙か東に流される 時に 紫藤・実藤の両臣も下りて相伴い奉り 此の所 毛呂越生の郷に落ち着けり 今 毛呂郷の紫藤の先祖是なり 此の時 内裏の氏神 季綱王の跡を慕ひ 飛び来たりて 高山不動の大堂に光を放つ 此の時 季綱王 阿諏訪山に鹿猟に出つ 俄に震動し 雷電して雨暗くして頻りに降り 東西更に分たず 時に実藤 弓に矢を架して 虚空に向いてこれを射落とさんと欲す 紫藤 押さえて射させず 其の間に天気漸く晴れ 雲中より光を放ちて 明神の形を現し 季綱王と対面す 王謹んで拝せられる 則ち毛呂明神是れなり 其の時より 越生内裏の明神と 毛呂自胎の明神と 一体両所に祝い奉る 【長昌山龍穏寺境地因縁記】

尤も、【新編武蔵風土記稿】では、飛来では無くて元は蓬莱の誤伝ではないか−ともしているの。蓬莱が飛来に化けていつしか逸話が付与されて遠大な叙述詩がつくられたと云うわけよね。真偽の程はξ^_^ξには分かりませんので、詳しくは【風土記稿】を御参照して頂くとして、明治期にそれまで並立していた八幡宮を吸収し、併せて現在の社名に改称したと云うわけ。その八幡宮が今また再び境内摂社として独立状態にあると云う摩訶不思議。どうしてかしら?


次に御案内する桂木観音ですが、出雲伊波比神社からは5km近く歩くの。おまけに山道を登らないといけないので片道だけでも1時間半位かかるの。なので、桂木観音に寄り道すると鎌北湖を含めた全行程を一日で廻ることが出来なくなってしまうわ。それでもチャレンジしてみたいと云う方は桂木観音の拝観後に一本杉峠へのハイキング・コースを辿り、鎌北湖を背後から攻めてみてはいかがかしら?軟弱なξ^_^ξは強行軍を諦め、ここでは後日訪ねた際のレポートですので、予め御了承下さいね。

分岐路 出雲伊波比神社を後に毛呂本郷の交差点を過ぎたらひたすら山中を目指します。しばらく歩くと左掲の分岐路が見えてきますので、ここでは右手に折れて下さいね。道標には桂木観音へは約2.5kmとあるので、ちょうど中間点になるかしら。この分岐路を過ぎた辺りから沿道には柚子の木が多く見られるようになるの。因みに、この分岐路の左手に続く道を辿ると滝ノ入ローズガーデンがあるの。残念ながら未体験ですが、春と秋にはバラまつりが開催されますので、開花期にお出掛けの際には足を伸ばしてみては?

石橋 桂木川に沿って「ゆずの散歩道」と名付けられた道が続きますが、やがて左手に木橋や御覧のアーチ式の石橋が見えて来るの。園内には「少女とリス」と題されたブロンズ像なども建つことから公園かしらと思いきや、実は、柚子のオーナー農園だそうよ。因みに、柚子は奈良時代に朝鮮半島を経て中国から伝えられたものとも云われているのですが、山川出版社刊【埼玉県の歴史散歩】に依ると、日本で最初に柚子栽培を始めたのがこの毛呂山町だそうよ。鎌北湖の項で改めて触れますが、昭和初期に起きた世界恐慌は養蚕に多くを依存していた毛呂山地区の農家の方々をも直撃したの。そこで養蚕業からの経営転換を図るべく柚子栽培が始められたの。

それも、この滝ノ入村(当時)の農家の方が始めたのが最初だとか。今では毛呂山町の特産品になっている柚子ですが、その栽培のルーツを辿ると世界恐慌が引き金になっていたなんて驚きよね。

それはさておき、ジグザクした坂道、それも登るに従い勾配がきつくなる坂道を登ると、ようやく桂木観音の前に出るの。左掲の二枚の画像は、その桂木観音の前にある駐車スペースから毛呂山町を眺め見たものですが、額に汗した後のこの景観は一服の清涼剤ね。因みに、駐車場脇には綺麗なお手洗いがあるので忘れずにお立ち寄り下さいね。

3. 桂木観音 かつらぎかんのん

桂木観音は無住で山中に離れてあると知り、朽ちかけた荒れ寺を勝手に想像していたのですが、いざ訪ねて見ると意外にも小綺麗な装いなの。これも訪ねて初めて知ったのですが、この桂木観音は駐車スペースから少しだけ坂道を下ったところにある桂木寺の境外堂だったの。その桂木寺にしても外見的には民家の佇まいで、確認した訳ではありませんので無責任モードですが、住持の方も常駐していると云うよりは普段は二足の草鞋 (^^; を履いているような雰囲気にあるの。因みに、桂木寺は「かつらぎでら」ではなくて「けいぼくじ」と訓んで下さいね。

【新編武蔵風土記稿】には「曹洞宗 龍ヶ谷村龍穩寺末 瑞雲山と號す 開山は本山十四世良賀和尚 慶長十九年正月廿八日示寂 本尊釋迦を安置せり」と記されているの。この龍ヶ谷村龍穏寺と云うのは、お隣の越生町にある龍穏寺のことね。とは云え、ここでの開山は中興開山なの。創建年代は不明ですが、当初は寺院と云うよりも、草堂や庵の類だったのではないかしら。室町期の終わり頃までは同じ越生でも臨済宗の正法寺末に属していたのですが、時を経て衰微し、遂には廃寺となってしまったの。それを見かねた里人達が慶長元年(1596)に龍穏寺から良賀和尚を招いて改めて中興開山したと云うわけ。

ところで、【風土記稿】では「本尊釋迦を安置せり」と至って簡略な記述で終えていますが、本尊とされる木造釈迦如来坐像は、何と平安時代中頃に造られたもので、現存する仏像の中では県内最古のものになるの。と云っても、最初から来歴が知られていた訳ではなくて、昭和54年(1979)に偶然にも有志の方に発見されて日の目を見ることになったの。まさかそんな貴重な仏像だとは知らずにいたとみえ、発見当時はお身体もボロボロで、右手首から先が欠損するなど、大分お労しいお姿をされていたみたいで、正に「嗚呼痛ましきかな 世は有為無常を免れし例なし」の状態だったようよ。

現在は修復の手を経て県指定文化財として毛呂山町歴史資料館に寄託展示されていますので、興味のある方はお出掛けになってみて下さいね。但し、常設展示ではないので事前確認が必要よ。

お話しが前後して恐縮ですが、観音堂の背後に続く山が桂木山と呼ばれ、寺号の由来にもなっているの。更に【風土記稿】には「土人云 往昔行基菩薩行脚の時 此山に上りて大和國葛城山に似たればとて桂木とは名付たりし」とあるように、高僧・行基が奈良時代に東国行脚した途次に桂木と名付けたと云うのですが、これはちょっと頷けないわね。他の頁でも折に触れて紹介していますが、行基がこの東国に訪ね来たと云う記録は無いの。だからと云って100%東国に来なかったとは断言出来ないのですが、東国の寺社に残される逸話の多くが後世に付与されたものなの。

石段を登ると右手に鐘楼、正面に仁王門と続きますが、仁王門には身の丈五尺と、ちょっと小振りの仁王像が脇侍するの。前述の本尊・木造釈迦如来坐像と同様、こちらの仁王像も直ちに修復が必要な程傷みが激しいの。吽形に至っては肘から先が欠損していてお労しい限り。恵心作と伝えられるのですが、鎌倉初期の作との見方もあるようね。真偽の程はξ^_^ξには分かりませんが、どちらにしてもかなり古い時期に造られたものであることは間違いなさそうよ。この仁王門をくぐると正面に建つのが次に紹介する観音堂ですが、修復の手を経てはいるものの、建物自体は安政6年(1859)に再建されたものだそうよ。

CoffeeBreak 恵心は恵心僧都こと、源信上人(942-1017)のことなの。彼は僅か9歳にして比叡山に登り、天台宗の奥義を究めたと云われているの。後に貴族化した叡山を嫌った源信上人は横川の恵心院に隠棲して著作に励むの。恵心僧都の名はその庵の名に由来しますが、有名な【往生要集】はその時に執筆されたものね。晩年、病に伏した上人は阿弥陀仏の手に掛けた糸を執りながら眠るようにして息を引き取ったと云われているの。享年76歳の大往生でした。

【風土記稿】には 桂木山の麓にあり 昔は山の上にありしが 何の頃よりか今の所に移したりと云 千手觀音を安ず 立像長七尺餘 行基の作なり 白木の像にて古色なり 縁起に依らば 養老三年の安置なる由 傳ふれど定かならず されど今市村法恩寺に藏する年譜録にも 行基東國行脚の時 和州葛城山を擬して 此山を桂木山と名付くとあらば故なき事とも思われず 何れ古き堂なるべし 此餘堂内に本尊と同時に彫りしと云ふ木造五躯あり 朽損じて全からず 何の像なることを知らず とあるの。

その観音堂の本尊とされる千手観音像ですが、その像容から推して平安時代後期に造られたものと比定されているの。【風土記稿】では行基菩薩の作で養老3年(719)の安置−との伝聞を載せますが、やはり両者には年代的にズレがあるようね。とは云え、都から遠く離れたこの地に早くから寺院が建てられて仏像が安置され、人々の崇敬を集めていたと云うのは驚きよね。嘗ては修験道の霊場として栄えた時期もあり、伝承の域を出ないのですが、盛時には七堂伽藍を備える程の隆盛をみたそうよ。

現在は辺りを見回しても僅か数戸の民家があるだけで、とてもこんな山の中(失礼)に早くから僧堂が営まれたとは想像し得ないのですが、井沢元彦氏のことばを借りると、「現在の常識で当時を捉えようとすると歴史認識を誤る」好例ね。長くなり序でに堂前に掲示されていた略縁起を紹介してみますが、掲載に際しては修正及び加筆していますので予め御了承下さいね。

何はともあれ武蔵国入間郡桂木の観世音は行基菩薩のお作りになったものである。その由来は元正天皇の養老3年(719)と云う。この山の附近に紫の雲がしきりに懸かるので人々は何事か不思議なことが起るのではないかと心配していた。その頃、行基と云う世に有名な高僧は霊力を使い、広大無辺な仏の慈悲を呼ぶ術を持っていたとか。この山を訪ねて頂上近くまで来た時、何とも云えない芳香が一面に満ちている所に差し掛かった。その場所はあの紫の雲の懸かる所である。行基がそこに着くと、紫の雲と共に楽の音が空高く響きわたり、辺りが金色に輝いたと思ったら、威風堂々とした観世音が厳然と現れた。

行基は6歳で仏門に入り、唯一途に仏に仕えて今日迄来たが、今その念願が叶って、貴い、そして幾時も夢に見ていた観世音に会えた喜びは、その長い修行の労苦に報われたと感激の涙は止めどなく流れた。都からの長旅ですっかりほころびた衣の袂は涙を拭うのに忙しくて乾く間もなかった。観世音を慕う心はその慈悲に報いるために、その地に草庵を建て、唯一心に観音経を唱えたと云う。そのような毎日を送っていた或る日、老翁が訪れて「この山は観世音と縁の深い霊地である。それ故天上の神仏が御守りしているのである。若し貴僧が観音を彫って祀るというのでしたらその霊木のある場所に案内致しましょう」と云ったので、行基はその親切を有り難く思って、老翁に従いて大峯と云う所に行った。そこには千年余りも経つかと思われる大杉が立っていた。風雨に耐え抜いた霊木は良い香を放ち、木梢は紫の雲の中に覆れていた。行基はこれを見て「立派な良い杉だ」と感嘆した。老翁はこの一言を聞くと安心して紫の雲の中に消えてしまった。この杉を材料として2米余の千手観音と、28体の脇士を彫刻したと云う(今日ある御本尊がそれである)。

昔の人の云い伝えによると、岩殿山の観音は同じ時、同じ材料で作られたと。このように由緒高い観世音であったので、その評判は近隣はもとより、遠くの地まで拡がり、その御利益を受けようと集る人々は日を追って増えていった。水難・火難はもとより、重病で医薬から見放された人々も参詣し、或いは体の動かせない人は遥拝することで、その御利益は充分あったと云う。このように観世音に心を寄せる人々は、その慈悲の偉大さに報いるために多くの浄財を寄贈したので、遂に七堂伽藍が建立されたと云う。その瑠璃色に輝く扉は天上高く開けたので、外の景色が採り入れられたので、その様は丁度水晶玉を透して見ているようであった。

観世音は慈眼で無限に拡がる武蔵野を見守っておられる。秋の夕景色は澄みきった空に月が輝き、草々の葉に露玉が浮び、月を映す様は宝石を鏤めたように美しかった。また蟲の奏する楽の音は更にこの世の歓喜を倍加させずにはおかない。観世音の背後の景はどうかというと、秩父連山が急迫して屏風となり、その山麓にある龍ヶ谷の春の朝は、霞たなびく間に間に桜の華が咲き乱れて香る風景は実に清々しく、この世の汚れを取り去ってくれるように思われた。このように良い環境の中に観世音はおられるのである。然しながら今ここで残念なことが起きようとしている。それは世の習いとは云え、有為転変、観世音も例外と云うわけにはいかないのである。昔栄えた霊場も年月には勝てず、千数百年も経てば建物は朽ち果てて見る影もなく、その痛ましい様子は昔の隆盛であった事を知る人が見たら涙なくしては見られないのである。それでも今日未だに参詣者が絶えないのは、やはり観世音の御利益の賜物である。

この世の生物は幾時かは死を迎えねばならない運命にある。人の一生は長いように想うかも知れないが、大自然から見たら一瞬の出来事でしかないのである。それ故その大切な一生を有意義に過ごそうと思ったら、早速この霊場にお詣りするとよい。観世音は疑うまでもなく、必ず希望を叶えて下さいます。極楽浄土を描いた情景で、天人が舞い、人々が歓喜に満ち溢れた姿が描かれている。その極楽浄土は西方にだけあるのではなく、ここ、桂木観音にもあるのである。それ故、全ての人々が一生懸命に観音経を唱えますよう御勧めします。観世音の功徳を述べながらの略縁起となりました。文化8年(1811)正月 現住職 再板してこれを残します。

4. 鎌北湖遊歩道入口 かまきたこゆうほどういりぐち

道標 毛呂本郷からは県道R30を辿り、鎌北湖入口の信号で右手方向に折れて今度は県道R186を歩きます。後は道なりに進むと毛呂山総合公園のある三叉路にぶつかりますのでそれまで頑張って歩いて下さいね。その三叉路の傍らには地元で採れた野菜やくだものを並べた直売所があるのですが、その斜め前に遊歩道の入口があるの。勿論、遊歩道を歩かずにそのまま県道R186を歩いてもOKよ。ここでは里山の風情に触れようと、遊歩道を歩いてみた時のレポートをしてみますね。因みに、この遊歩道から鎌北湖へは道標に依ると約2.3kmで、所要時間は40分余だそうよ。

遊歩道 遊歩道 遊歩道 遊歩道

遊歩道は大谷木川に沿うようにして設けられ、最初のうちは里山の風情を楽しむことも出来るのですが、やがて木立に覆われた杉林の中の道を歩くことになるの。残念ながら杉だらけで紅葉を楽しめる環境には無いわね。大谷木川の流れにしても渓流と云うよりも岩や倒木がゴロゴロしていて、至って普通の川よ。唯一の救いが凹凸だらけだけど一応は舗装路になっていることかしら。最初に一度舗装されてからはそのままみたいだけど、それでも雨上がりでもぬかることはないわね。

遊歩道 遊歩道 石標 堰堤

木立が途切れて前方が明るくなって来たところが遊歩道の終点で、ようやく鎌北湖への到着よ。と云っても湖面は目の前に聳え立つ堰堤を登ってからでないと見えないの。その堰堤脇を水が流れ落ちて来ているのですが、大谷木川の源流になるの。傍らには「一級河川大谷木川起点」と記す石標がありましたが、源流とするにはあまり綺麗じゃないけど、仕方ないわね。


ここでちょっとおまけのお話しよ。毛呂駅 or 東毛呂駅のどちらから歩くにしても鎌北湖へは片道一時間は掛かるわ。そこで公共の交通手段を利用して少しでも楽する方法がないかしら−と調べてみましたので紹介してみますね。でも、あまり真剣にならずに、戯れ言気分でお付き合い下さいね。(^^;

先ず最初に、平日に出掛けられると云う羨ましい環境にいるあなた。毛呂山町が運営するコミュニティー・バスの毛呂山町内循環バス、その名も「もろバス」が利用可能よ。但し、問題が三つあるの。一つは毛呂駅も東毛呂駅にも停車してくれなくて、二つ目は鎌北湖に停まる便が一日に2便しか無いこと。(^^; でも、一つ目をクリアするのは簡単よ。東武越生線の東毛呂駅を利用する方は毛呂山町役場まで歩いて乗車。JR八高線の毛呂駅からアプローチされる方は教育センターまで歩いてそこから乗車して下さいね。歩いても数分の距離なので心配は無用よ。残念ながら他に逃げ道が無いのが二つ目の運行ダイヤなの。一日2便あると云っても、実際に利用出来るのは毛呂山町役場発11:00の一便だけなの。次は14:55発なので、それだと鎌北湖に着いても遊ぶ時間が殆ど無くなってしまうわね。夏場ならまだしも冬場では陽が沈むのも早いし。

バス停 そして三番目の問題が帰りをどうするか−なの。解決策の一つは2便目のバスが来るまで待つことですが、それまでの4時間余をどう潰すかよね。周囲を歩いて一巡りした後はボートで湖面に遊び、食事処「雪月花」で遅めの昼食を済ませ、その後は「四季彩の丘公園」に登ってひと休み−ではどうかしら。後は素直にバスへの乗車を諦めて、歩いて駅に帰るかしか無いわね。因みに、左掲は鎌北湖の第二駐車場にあるバス停の標識よ。

入口 次に、どうしても土日祝日でないと出掛けられないと云うあなた。鎌北湖までのバスでの移動は諦めて下さい。(^^; 代わりに川越観光バスの東毛呂駅発(毛呂駅経由)埼玉医大保健医療学部行に御乗車下さいね。但し、「埼玉医大」行はダメよ。同じ埼玉医大でも保健医療学部まで行ってくれるバスじゃないと。そのバスに乗車したら「毛呂山総合公園入口」バス停で下車。降りたところから左掲の脇道への入口が見えますので、この道を辿って下さいね。But バス停にも入口とあるので公園までは近いんじゃないの−と思われるかも知れませんが、結構歩くの。

一本道ではないのですが、周囲に高い建物があるわけではありませんから、容易に公園の位置は分かるハズよ。公園に辿り着いたところで後は遊歩道を歩くか、県道を歩くかはお好み次第。帰りも逆を辿ればOKよ。運行本数は多くはないけど、「もろバス」みたいに一日に2本だけと云うことではないわ。それでも時刻表は事前にDLして印刷して持ち歩いた方がいいかも知れないわね。バスの話題になったところで知る人ぞ知る話題を。遠い昔のことですが、東武バスが東毛呂駅⇔鎌北湖を運行していたの。

バス停跡 そのバスを利用して鎌北湖を訪ね、その後は半ば迷子になりつつ、林道と云うか山道と云うか、ハイキングコースらしきものを辿りながら西武線の西吾野駅まで歩いたことがあるの。そのバス路線も平成10年(1998)に東武バスから川越観光バスに移管されたのを機に廃止されてしまったみたいね。尤も、鎌北湖行だからと云って湖畔まで乗り込んでくれた訳でもなくて、最後の坂道を前にして (^^; 降ろされてしまったの。その鎌北湖バス停ですが、ちょうど民家が途切れる辺りで、記憶が正しければ左掲の生け垣の辺りだったと思うわ。

跡地 当時は鎌北湖行とあったので、てっきり湖畔まで行ってくれるものとばかりに思っていたのですが、降ろされたところで辺りを見回しても湖のみの字も見えなくて。先に降車されたハイカーらしき方の後を追い、坂道を歩き始めたのでした。因みに、反対側にはちょっとした空き地が残されていますが、当時、バスの転回所兼駐車場として利用されていたものね。一角には平成16年(2004)に里帰りしてきた車地蔵(毛呂山町指定有形民俗文化財)が祀られ、傍らには由来記が掲示されていましたので紹介しておきますね。

地蔵尊 〔 車地蔵の由来 〕  此の車地蔵は江戸時代の文政6年(1823)大谷木村の有志の人達(世話人・高橋元右衛門)に依り旧道の傍らに建立されましたが、明治43年(1910)の大水害の時に流出し数年間行方不明でしたが、発見されて元の場所に安置しておりましたが、昭和初期に道路も変わり、忘れられた存在でした。此の度、小山好一氏(地主・村本和男氏)の格別の御好意で、此処地名も「車地蔵」の場所に移動されました。先人の厚き信仰心と小山好一氏の発願心を讃え、移転の由来文とします。車地蔵とは六道輪廻の車輪を回して、現世安穏・後生安楽を祈念するものです。六道とは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道です。人は皆、生涯それぞれの業を背負って生きます。その業を静かに抑えて往生できるよう祈るものです。平成16甲申年(2004)吉日 毛呂山町文化財保護審議委員会

お待たせ致しました。ようやく鎌北湖へ到着よ。ここからは鎌北湖の紅葉をたっぷりと紹介しますね。
併せて、他では紹介記事を見かけないマイナーな話題にも触れていますのでお楽しみ下さいね。

5. 鎌北湖 かまきたこ

大谷木川の起点から急な堰堤を上り詰めたところには鎌北湖の概要を記した案内板が立てられていたの。それに依ると、自然湖だと思っていた鎌北湖は、実は、貯水池として造られた人造湖だったの。加えて、土地改良区の規定では、当時の村名・山根村に因み、山根溜池が正式名称になっているみたいね。更に調べてみると、その山根溜池は昭和初期に起きた世界恐慌が契機となり、不況に喘ぐ農村振興策として造られたものだったそうなの。当時は生糸が主要な輸出品でもあったのですが、世界恐慌の波は繭を育てて貴重な現金収入としていた毛呂山の人達の暮らしも直撃したの。その対策として貯水池建設が計画されたの。

堰堤の上から今来た遊歩道の終わりを眺め降ろしたところよ。
県道の鎌北湖到着口には軽食やお土産を扱う湖畔荘が建つのですが休業中みたいね。
建物自体は新しく、最近改装したように見受けられるのですが。
湖面ではボート遊びも出来るの。画像にある手漕ぎボートの他にも二人乗りのスワンボートがあるわ。
但し、4月から11月までの土日祝日のみの営業なので御注意下さいね。

稲作の水利向上と雇用対策を兼ねた公共事業で、当初は昭和4年(1929)からの4ヶ年事業として計画されたものの、財政事情の悪化から完成は昭和10年(1935)になってしまったの。それでも受益地域は山根村のみならず五ヶ村に及び、工事も用水路や分水堰などの付帯設備建設を含む大規模なもので、就労人員は延べ113,000人にも達したと云われているの。その山根溜池、一般的には山根貯水池と呼ばれていたものを、戦後に毛呂山観光協会が地名の鎌北の名にあやかり、鎌北湖と改称したの。また、山合いに静かに佇む美しさから、別名「乙女の湖」とも呼ばれてもいるそうよ。同じく、観光協会が仕掛人とは聞いてないけど (^^; 多分にイメージ戦略よね。

取水管理棟 取水口 出来れば湖畔をぐるりと一周したいところなのですが、途中で分断されてしまっていて出来ないの。そこで、先ずは鎌北湖左手(西側)に回り込んでみました。最初にあるのが御覧の瀟洒な建物で、遠目には湖上に浮かぶコテージのようにも見えたのですが、用水管理棟だったの。その右手に設けられているのが取水口と云うか流水口で、大谷木川の源流と云ったところかしら。

管理棟を過ぎると第一駐車場があり、一角にはちょっと変わった建物が建てられていたの。最初は小さな社の類に見えたのですが、近づいてみると犬魂碑の拝殿だったの。碑は(社)埼玉県猟友会の手になるもので、正面には猟犬のブロンズ像も建つの。

台座には「犬と人生 その歴史は知るに由なしと雖も 我等は犬を愛し 犬を育む 而して犬に感謝する猟人なるが故のみではない 昭和元禄を叫ばれる中にも 如斯我等とその思を一にする漁人ありて 茲に犬魂の碑を建立し 以てこれを後世に伝えんとする 噫 偉なるかな この壮挙 伝えよ 以て世道人心に善美をもたらさん」と刻まれているの。実は、ξ^_^ξにも愛犬がいるのですが、犬という存在を超えて、もうすっかり家族の一員なの。碑文の主旨は痛いほど分かるわ。同じく犬を飼う者として均しく感謝ね。合掌。

その犬魂碑拝殿の右手にはこれもまたちょっと変わった石碑が建てられていたの。先程の碑が猟犬を対象にしたものなら、こちらは猪の供養碑で、同じ猪は猪でも、人との関わりの中で大いに功績を残した猪みたいよ。一部、改変を加えましたが、紹介してみますね。

建碑之誌と題された碑文には「県立奥武蔵自然公園の山中に棲んだ猪にその地名にちなんで東吾野号♀、名栗号♂と命名して飼養 ※1 した。共に撫育に馴れ、互に交りて野猪の孫を残し、余の試みに応へ家豚と婚して良質の肉■ ※2 いのぶたを創生したのである。昭和55年(1980)には名栗号が13年、同56年(1981)には東吾野号が17年間の活動を了って死去した。彼等の残したいのぶた族の層々繁生の砌、ここに彼等の行跡を偲び供養の碑を建立して永く伝えんとす 昭和57年(1982)竹秋 山水荘主人 □□□□ ※3 」とあるの。

※1
碑には異体字で刻されているのですが、表示不能ですので御容赦下さいね。
※2
ξ^_^ξには富のように読めるのですが、ウ冠でも無さそうなの。読めずに諦めモードです。(^^;
※3
個人名が揮毫されているのですが、ここでは伏せ字にさせて下さいね。

この後ちらりと触れますが、嘗てこの鎌北湖で山水荘と云う名の旅館が営業をしていたの。本館と別館からなり、訪れた人達に名物料理として提供していたのが鯉料理と共に猪豚料理だったの。山水荘の御主人が2頭の猪に出合えたが故の名物料理で、野生下では寿命も10年程度と云われる猪が、雌雄共に13年以上の長きにわたり存命出来たのは御主人の愛情があっての賜物でしょうね。石碑には碑文と共に「鎌北湖のいのぶた」の線刻画が描かれ、登録商標 No.1186297 と記されているの。ちょっと気になり、調べてみたのですが、描かれている猪豚の図案は立派な登録商標になっていたの。残念ながら満了日は 2006/02/23 とあり、既に失効してはいますが。

余談ですが、その駐車場脇に軽い食事の出来る雪月花と云うお店があるのですが、女将さんのお話しではこの辺りでは今でも野生の猪が出るそうよ。ハイキング・コースを歩いていたら目の前にいきなり猪が飛び出して来たりして。脅かす積もりはありませんが、それでも猪がいることは頭の隅にでも入れておいた方が良さそうね。エッ?出て来たらとっつかまえてぼたん鍋にして喰ってやるって?それは無理だと思うわ。ウリ坊は別にして、猪は小さいものでも体重が40Kgもあり、大きいものでは120Kgを超えるそうよ。猪の姿を見たら身の安全をはかる方が先決ね。

因みに、駐車場からは背後の小山に整備された小径が続きますが、小山全体が四季彩の丘公園と名付けられて遊歩道が巡るの。桜やツツジなどが植栽されているので、花々が彩りを添えてくれる季節にはお勧めよ。頂上には見晴台も設けられているの。駐車場を後にして進むと鎌北湖レイクビューの白い建物が見えて来ますが、その前の道を更に回り込んでみました。

山水荘跡 湖に浮かぶ小島のような風情をした岬に白い建物が建ちますが、先程、猪の供養碑の御案内で触れた山水荘なの。平成12年(2000)の頃は未だ営業していたみたいなのですが、いつ頃廃業したのかしら。道の突き当たりはその山水荘への敷地へと続くのですが、閉鎖された今では立入禁止になっているの。円筒形した建物の方は傷みが激しいけど、湖側に建つ方は少し手直しすれば充分に利用出来そうに見えるのですが、集客が望めない以上、営業再開は難しそうね。

左岸を一巡りしたところで折り返し、今度は右岸側を巡りますが、御覧のように見事な紅葉が旅人を迎えてくれたの。ここでは余計な説明は要らないわね。その紅葉を心ゆくまで堪能したところで今回の散策も全て終了ですが、最後にその燃え立つような紅葉を纏めてアップしておきますので、お楽しみ下さいね。(^^;


遠い昔に訪ねてみたことがある鎌北湖ですが、湖畔をめぐる道筋には嘗て行楽客に食事を出したり、土産物を売っていたと思しき建物が戸を閉ざしたままで今に至るなど、人の営みだけが時の流れの中に消えつつありました。鎌北湖にしても元はと云えば人の手で造られた人造湖。それが今では自然と一体感を強め、季節の移ろいに合わせて周囲の木々が彩りを添えて旅人を迎えてくれるの。その鎌北湖からは自然と触れ合うハイキング・コースが幾つか延びているの。ちょっと頑張って歩いてみるのもいいかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
吉川弘文館刊 土田直鎮著 古代の武蔵を読む
吉川弘文館刊 森田悌著 古代の武蔵
吉川弘文館刊 虎尾俊哉著 延喜式
越生町発行 越生町史研究会編 越生の歴史
毛呂山町教育委員会発行 小川喜内編 毛呂山町・神社と寺院
毛呂山町発行 毛呂山町史編纂委員会編 毛呂山町史
毛呂山町郷土誌研究会編 あゆみ第30号
岡野恵二著 毛呂山町の寺を訪ねて
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など。






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