≡☆ 三浦半島・岩礁の道 ☆≡
潮風香る岬の道シリーズ 2007/05/03 & 2007/05/12 & 2009/10/11

変化に富んだ海岸線を巡る潮騒ハイクが楽しめると云う触れ込みにつられ、所要時間も3、4時間とあったので気軽な散策の積もりで出掛けてみたのですが、予想以上に見応えがあり、ガイドブックに案内されるような短時間での踏破はとても無理でした。結局、訪ねること三度に及んでいるの。加えて間に年月の隔たりもあったりするのですが、再構成の上で紹介してみますね。補:掲載する画像は拡大表示が可能よ。お気に入りを見つけたらクリックしてみてね。

大浦海岸〜剱崎〜江奈湾〜白浜毘沙門堂〜毘沙門洞窟〜千畳敷〜盗人狩〜宮川公園

1. 京急・品川駅 けいきゅう・しながわえき 8:04発

最初に訪ねたのは5月の連休時のことでしたが、大浦海岸で予定外の時間を費やしてしまい、志半ばどころか、全行程の1/3にも満たないところで時間切れ。その残りを翌週に踏破しようとリベンジしたのですが、今度は剱崎灯台へのアプローチで間口漁港の港湾工事に遮られ、迂回を余儀なくされて再び中途で挫折。間をおいた3度目の正直で、ようやく踏破出来た次第なの。因みに、切符を買うなら「三浦半島1DAYきっぷ」が断然お得よ。¥1,900(′10.05現在)で往復の乗車券と京急バスの乗降が自由なの。詳しくは 京浜急行 を御参照下さいね。

2. 三浦海岸駅 みうらかいがんえき 9:25着 9:41発

ここからはバスに乗り換えるのですが、連休でBSには長蛇の列。それも殆どの方が岩礁の道ハイクがお目当てのようで、発車する頃には車内は朝の通勤電車並みの混雑でした。そうそう、バスに乗車する際にはくれぐれも剣崎経由(海35系統)の三崎東岡行にお乗り下さいね。同じ三崎東岡行でも引橋経由(海30系統)があるんだけど、それだと目的の松輪BSは通らないの。代わりに似たような名前の松輪入口と云うBSがあるんだけど、そこから松輪BSまでは気合いを入れて歩いたとしても小一時間は掛かると思うわ。なので、間違っても乗車してはいけないわ。何を隠そう、経験者なの。(^^;

3. 松輪BS まつわばすてい 9:58着

岩礁の道ハイクの起点となるのがこの松輪BSですが、海岸に出るには今しばらく歩かないといけないの。と、その前に、BSから少し戻ったところにコンビニがあるので忘れずにお立ち寄り下さいね。と云うのもこの先、自販機はあったけどお店らしきものは何も見掛けなかったの。コース途中で立ち寄ることが出来る食事処としては間口漁港にある漁協直営のエナビレッジと、毘沙門湾にある毘沙門茶屋くらいなの。ξ^_^ξが見た限りではお蕎麦やさんやラーメン屋さんも無かったわ。穏やかな日であれば磯の岩場でお弁当を広げるのもいいけど、出掛けにお弁当作りだなんて、そんな面倒なことをしてられないわ−と云うあなたには心強い味方よ。

そのコンビニの前から続く道を海側に向かって歩きます。写真では交通量の多そうな車道に見えてしまうかも知れませんが、ダイコン畑に囲まれた静かな道よ。進むにつれて農道らしくなって来ますのでご心配なく。(^^; 道標があるわけでもなく、道は蛇行を繰り返しますが、視界が開けているので迷うことはないと思うわ。季節が変わると、この辺りではスイカも作られるみたいね。

4. 大浦海岸入口 おおうらかいがんいりぐち

松輪BSから歩くこと20分余りでこの位置に出て来るの。ξ^_^ξのダラ歩きでの所要時間ですので、皆さんの健脚なら楽に15分は切れるんじゃないかしら。更に進むと間口漁港に出てしまいますので、ここでは画面手前左手(映ってませんね、スミマセン)の細い道に折れて下さいね。民宿が続く小径を突き進むと大浦海岸が屋根越しに見えて来るの。

5. 大浦海岸 おおうらかいがん

左掲は砂浜から南方向を写してみたものですが、これから辿る磯伝いの道が続くの。正面には浦賀水道を挟んで対岸にかすむ房総半島の姿が。砂浜に腰掛けて沖を走り行く船を眺めていると日常の喧噪が嘘みたいに思えて来るわね。夏には海水浴客で埋めつくされる砂浜も、この季節は穏やかな陽射しの許で風もなく、お昼寝するには最高のコンディション。何気なく眺めていると左手の岩場には釣り人の人影が。見ると岩山の背後に回り込めるようになっているようで、遠くには横須賀の火力発電所の煙突が見えていたの。

岩山の向こうにはどんな景観が広がっているのかしら?と、ちょっと気になり、足を向けてみたのですが、予想以上の景観に感激してしまい、岩場伝いに小径もつくられていましたので、どこまで行けるのか辿ってみたの。後で知ったのですが、嘗てはこの径も岩礁の道としてハイキングコースの一部になっていたらしいの。残念ながら荒波の浸食を受けて一部が崩落するなどしたことから現在ではハイキングコースからは外されてしまったようね。歩いた時に指標の痕跡などを見掛けたのはその名残りだった訳ね。

折角ですので皆さんにもその景観を紹介してみますので、気になる方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。小径があるからと云って多くを期待してはいけないわ。あるがままの自然を最大限に利用して作られた道よ。石段もコンクリートではなくて岩を削って作られたものなの。放置された今でも利用出来るのはそのお陰ね。但し、岩場を歩くと云っても所々では岩にへばりつくようにして歩かないといけないところもあるの。一歩踏み外すと海の中へポチャンよ。足許には十分注意して歩かないと。尚、画像にはそれぞれコメントを付記しておきましたのでお楽しみ下さいね。(^^;

途中で地元の高校生らしき男の子に追い抜かれ、迷いのないその足取りに、素直に従ったのですが、周りの景色に見とれている内にその姿を見失ってしまったの。再び見掛けた時には波打ち際の崩れた岩場を歩いていたの。それもどこから岩場に降りたのか分からず、ξ^_^ξは大きな岩の上で立ち往生。彼はその後も迷うことなく巧みな足さばきで岩場を乗り越えて行きましたが、その岩場こそが嘗ての遊歩道だったみたいね。彼の後姿を見送って引き返すことにしましたが、途中には耕されたばかりの畑もありました。こんな潮風のあたる砂地で何が育つのかしら?

すっかり寄り道をしてしまいました。男の子の後姿を見送った地点までの往復時間ですが、ξ^_^ξの足では約一時間でした。この頁を御覧になって追体験してみたいわ−と云う方は時間に余裕をもってお訪ね下さいね。補足ですが、大浦海岸の砂浜の一角にはお手洗いがありました。お世辞にもキレイとは云えないのですが、緊急避難時には利用可能よ。

砂浜の南側に続く磯辺を回り込むようにして次の間口漁港へ向かいました。磯の岩場では石を裏返して何かを採っていらっしゃる方がいたのですが、腕には刺青があったりして。それでも気になり、意を決して声を掛けてみたのですが、「タカだよ!タカ!!」と、怒鳴られてしまったの。瞬間、全身が金縛り状態。ああ、怖かったあ〜。怒られるようなことを訊いた積もりはないのですが、その剣幕に「タカって何ですか?」とは訊けなくなってしまったの。そのタカですが、この後運良く無事に (^^; その正体を知ることが出来たの。

途中には海に向かって大きな口を開けた洞穴もあり、最初に見掛けた時にはこれが大浦海蝕洞穴遺跡かしら?と思ったのですがそうではなかったの。洞穴遺跡群として紹介されることもあるように、この先あちらこちらにこのような大きな洞穴を目にすることがあるの。古代人になった積もりで洞穴内から大海原を眺めてみるのも良いかも知れないわね。

途中の景観を纏めてアップしておきましたので、御覧になりたい方は上の画像をクリックして下さいね。

6. 大浦山海蝕洞穴遺跡 おおうらやまかいしょくどうけついせき

岩場を過ぎると間口漁港が見えて来ますが、道を辿ると駐車場の脇に出るの。ちょっと分かりづらいのですが、その駐車場の隣にボーイスカウトのキャンプ場として利用される広い敷地があり、と云っても御覧のように雑草がはびこる単なる荒れ地ですが、その一角に案内板があるので見落とさないで下さいね。これが無ければξ^_^ξも遺跡を見つけることは出来なかったわ。その案内板を頼りに草叢の斜面を登ると入口があるの。洞穴の奥行きは僅かに20m足らずと意外な印象ですが、洞窟とはせずに洞穴としているところが味噌醤油味ね。(^^;

残念ながら今ではこの洞穴から大海原を眺めることは出来ませんが、時化た日には波風が凪ぐのを待ち、また、ある時には獲れた魚を火にかざしながら肩を寄せ合う古代人の姿がここにはあったのでしょうね。現代人からすればおよそ快適とは云えない住環境ですが、そこには確かな家族の絆と共に、暖かな団欒があったような気がするのはξ^_^ξだけかしら?個人的な感傷はさておき、資料的な価値の程を紹介しておきますね。全文を案内板からの引用で恐縮ですが、一部体裁を変えていますので御了承下さいね。

この洞穴は、海蝕洞穴といい、波の浸食作用によって長い間に造られ、それが地震などによって陸地が隆起して現在の位置にあるものです。洞穴の入り口は幅約8m、高さ6m、奥行き20mを測り、奥は次第に狭くなっています。昭和24年、37・8年の発掘調査の結果、弥生時代から平安時代までの遺物が発見されました。出土した遺物は弥生土器、土師器(はじき)、須恵器、骨角製品として鹿の角で作られたヤス、離頭銛、釣針、髪飾、弦楽器部品などがあり、他に卜骨(ぼっこつ:骨を焼いて占いをした)、貝包丁、貝輪、貝刃等があります。洞窟の壁際からはアワビ、サザエ、イシダイ、バテイラなどからなる貝の層や、石積みの墳墓が見つかっています。これらの遺物から遠い先祖達がこの洞穴を生活の場として利用し、或いは仲間の亡骸を葬るなどしてきた場所であることが分かります。三浦の海岸にはこのような海蝕洞穴遺跡が多く見られ、弥生時代の昔から海との深い繋がりがあったことが分かっています。また、遺跡から発見された多くの遺物は学術上貴重な資料として注目されています。平成6年(1994) 三浦市

7. 間口漁港 まぐちぎょこう

駐車場から魚市場の建物の背後を回り込むと小さな漁港があるの。見た目には何の変哲もない普通の漁港なのですが、ここは有名な松輪サバの水揚げで知られる港なの。と云っても残念ながらξ^_^ξも未だ口にしたことは無いの。同じく有名ブランドの関サバの方は最近では巷でも見掛ける機会もあり、口にしたことはあるのですが、松輪サバとなるととんと見掛けないわね。それもそのハズ、一尾が¥5-6、000もするそうよ。一本釣りで一尾一尾が丁寧に釣り上げられ、その多くは料亭などに届けられるとのこと。同じサバはサバでも、庶民の手の届かないところを泳ぎ回る (^^; サバみたいね。松輪サバの詳しいことは みうら漁協松輪支所 を御覧下さいね。
※ごめんなさい。残念ながらリンク切れになってしまったの。※

その漁港の外れから再び磯伝いの遊歩道が続くハズなのですが、訪ねた時には港湾整備工事とやらで生憎の通行止。この際だからと標識は無視して飛び越えた(オイオイ、とんでもないヤツだ。(^^; )としても、その先にうず高く積み上げられたテトラポットの塊を踏破するのはとても無理みたいに見えたの。次の剱埼灯台へは目と鼻の先だったのですが、結局、この通せんぼのお陰で迂回を余儀なくされてしまい、20分余のロス・タイム。

8. 剣崎 つるぎざき

漁協の建物の右手に続く坂道を上ると畑の広がる丘陵地に出ますので、後は木々の間から時折見え隠れする剱埼灯台を目印にして進みます。辿る道も車一台がようやく通れるような道幅で、時折、磯釣り目当てとおぼしきレジャー客の車が通り過ぎるのですが、対向車があると大変。かなりの距離をバックして道を譲らないと通れないの。それでもひと昔前までは路線バスが運行されていたと云うのですから驚きよね。

今でこそ路線バスはR215を走るのみで、剣崎と云うBSはあるけど、灯台へは更にそこから20分程歩かないといけないの。それが嘗ての剣崎行きのバスは灯台の直ぐ傍を発着点にしていたそうなの。今でも確かに剣崎行のバスはあることはあるのですが、紹介したようにR215にある剣崎BSを終点にしているだけのこと。見回した限りでは民家がある訳でも無いのですが、往時には人も住み、それなりの利用があったと云うことなのでしょうね。やがて有料の駐車場が見えて来ますが、灯台へ行くにはその駐車場に車を止めて行くしかないみたいね。

更に歩みを進めると分岐路があり、左手の小さな石段の先には民家があったの。先程は民家がある訳でも無いとお伝えしたのですが、木々に覆われていてその存在に気付かなかっただけね。駐車場には普段着姿で立つ係員らしきオジサンがいましたが、ひょっとしてこちらの家人の方かしら?何を生業とされているのかは勿論知る由もありませんが、有料の駐車場はサイドビジネスかも知れないわね。傍らには車両進入禁止の看板も立つのですが、無視する車も数多く、潜り抜けた先の浜辺は無料の駐車場と化していました。これではオジサンの収入も減ってしまうわね。

こちらのお宅と駐車場のおじさんの関係は?です。
記述はξ^_^ξの勝手推量ですので、くれぐれも鵜呑みにしないで下さいね。

それはさておき、灯台へは右手に続く坂道を上ります。立原正秋の小説【剣ヶ崎】に「やがて灯台の入り口に立った。潮風で傾いた黒松が両側に並んでいる石畳の道は、昔とかわっていなかった。彼はその道をのぼった。右側の谷間になだれ込んでいる斜面は夏草に被われ、灯台は八月の陽光の下で白く輝いていた」と描写される坂道。但し、氏の創作なのか、それとも枯渇してしまったのかはξ^_^ξには分かりませんが、残念ながらクロマツの姿は無いの。

ところで先程から紹介している剣崎の名称ですが、けんざき、つるぎざき、つるぎがさき−等々が入り乱れ、漢字の表記にしても剣崎、剱崎、剱埼などがあるの。立原正秋の小説【剣ヶ崎】では「ここは土地の人から、つるぎがさき、とは呼ばれず、けんさき、と呼ばれている」と紹介されてはいるのですが、門外漢のξ^_^ξにはどれが本当は正しいものやら分からないの。なので、ここでは出たとこ勝負で記述していますので予め御了承下さいね。但し、灯台に関する場合だけは海上保安庁が表記する剱埼に統一してみました。

9. 剱埼灯台 つるぎさきとうだい

坂道を登り切った岬の突端に立つのがこの剱埼灯台。傍らに建つ案内板には「この灯台は、慶應2年(1866)の江戸条約に基づき、明治政府が明治4年(1871)に設置したもので、三浦半島の南東端に位置し、対岸の房総半島にある州崎灯台と対で東京湾の入り口を表しています。晴れた日は灯台から、房総半島の館山から伊豆大島、新島さらに伊豆半島までを展望できます」とあるの。

位置
北緯35度08分29秒
 
東経139度40分37秒
光り方
30秒毎に白光を2閃光と緑光1閃光(複合群閃白緑互光)
光の強さ
48万カンデラ
光の届く距離
17.5海里(約32km)
高さ
地上から灯台頂部:17m 水面から灯火:約41m

背後に回り込むと初点灯を記したパネルが嵌め込まれていましたが「明治四年辛未正月十一日初点 ( ILLUMINATED 1st MARCH 1871 ) 」と記されているの。あれ〜変よね、片や1月11日、かたや3月1日になっていて、いったい、どちらが正しいの?状態。実は、どちらも正しくて、和暦の表示は旧暦なの。決して間違っている訳ではないのね。建造当初の灯台は大正12年(1923)の関東大震災時に倒壊してしまい、今ある建物は大正14年(1924)に再建されたものなのですが、初点灯を記したパネルは自らの歴史を語る証として残されたと云うことみたいね。

敷地の一角には皇太后陛下行啓記念碑が建てられているの。見た目の新しさから最近建てられたものかと思いきや、台座を新たに加えて改修したものらしく、石碑には昭和16年(1941)の建立とあるの。時はまさに第二次世界大戦の開戦前夜。この剱埼灯台を訪ねた背景には特段の理由があったと思うのはちょっと考えすぎかしら?碑の背面には揮毫者と建立者の名が記されているの。


昭和16年6月7日 逓信大臣 村田省蔵 謹書
昭和16年12月3日建立 燈臺局長 新谷寅三郎

右側の2枚の画像は灯台が建つ岬からの遠景よ。左側は間口漁港のある間口湾の遠景で、画面奥に見える岬の裏側が大浦海岸になるの。この場所に立つと歩いて来た道のりが一目瞭然ね。替わって右端は立原正秋氏の小説【剣ヶア】の中に「彼は灯台の建物が並んでいる一角を通りこし、岬の突端の断崖の上にでた。断崖を距ててすぐ目の前に、こちらとほぼ同じ高さの岩山が二つあり云々」と情景描写される岩山(だと思うの)。その先には雄大な相模灘が広がるの。

10. 間口港灯台 まぐちこうとうだい

港湾整備工事に阻まれて正攻法でのアプローチが出来なかったので、改めて灯台側から磯に降りてみたの。湾の入口に建つのがこの間口港灯台。初点灯が昭和49年(1974)と比較的新しく、高さも10m足らずの小さな灯台ですが、間口漁港を出入りする船の安全をしっかりと担う灯台ね。辺りはゴツゴツした岩が連なる荒磯で、見上げれば先程訪ねた剱埼灯台が木々の向こうから頭を覗かせているの。

11. 荒磯遊歩道 あらいそゆうほどう

岩礁の道と云っても所々には御覧のような入り江もあり、変化に富んだハイキングコースになっているの。ちょうどこの辺りが剱埼灯台の建つ岬の麓になるのですが、傍らには「かながわの景勝50選 剱崎 昭和54年(1979)9月 真鶴産小松石」と刻まれた礎石が建てられていたの。

光沢が無いことから意外に思われるかも知れませんが、使われている小松石は御影石の一種なの。御影石は元々は花崗岩全般を指す呼称だったのですが、兵庫県の御影地区が産地として広く知られたことから花崗岩の代名詞になったの。その小松石ですが、中でも真鶴の岩地区にある小松山から切り出される小松石は本小松石と呼ばれ、それ以外の採石場から切り出される小松石は新小松石と呼ばれているの。余談ですが、その小松石が大いに脚光を浴びたのは江戸城築城時のことで、石垣に利用するために諸大名は挙って小松石を切り出して献上したの。

礎石の右手には剣崎の地名由来を記す案内板がありましたので紹介してみますね。

剱崎の名の起りは、徳川時代の萬治年間であるといわれている。徳川幕府の官材を積んだ五百石船が、この沖で暴風のため難破し、木材もろとも船は海底に沈んだ。そこで海南神社の神主が海に剣を投じて龍神の怒りを鎮めてもらおうと祈ると、すぐに風波が静まり、沈んだ官の木材がことごとく浮び出たという。それをくり船で磯に運んだという。これにより、この地を剱崎というようになったと伝えられている。〔 以下省略 〕 環境省・神奈川県

行く手には二つの小山が見えていますが、嘗ては島で、恐ろしい大蛇が住んでいたとされるの。
ここではそのお話しを昔話風にアレンジしてお届けしてみますね。

今でこそ陸続きになっておる小山じゃが、関東大震災時に地盤が隆起して地続きになる前は二つの島だったのじゃ。その島には恐ろしい大蛇が住みついておってのお、ひとたび暴れ出すと大きな千石船もまるで木の葉のように波間を彷徨うありさまじゃった。そんなんで転覆させられてはかなわんと、この島の傍を通る時にはどの船も帆を下げて通っておったそうじゃ。それでも座礁したり難破する船が後を絶たんでのお、大蛇を祀る社を建てて崇めたそうじゃ。不思議なことにのお、それからというもの、大蛇の姿も見られなくなってのお、沖を行く船も安心して航海が続けられるようになったそうじゃ。

小山を前にして岬の麓に御覧のような祠が建てられていましたが、お話しに出てきた大蛇を祀るお社と云うのがこの祠かしら?残念ながらその名を窺い知るようなものは見つけられませんでしたが、物語に出てくるお社は剣明神社と呼ばれ、大蛇(龍神)と併せて、草薙の剣を祀る熱田神宮より分霊勧請したものとも伝えられていたそうよ。

二つ山を過ぎると次の松輪海岸までは文字通りの荒磯が続く岩礁の道となるの。ここでは余計な案内はかえって邪魔よね。撮りためた画像をスライド式に纏めてみましたので、見てやろうじゃねえか〜と云う方は、左掲の画像をクリックしてみて下さいね。それでは自然の造形美をごゆっくりと御堪能下さいね。34枚ほどupしておきました。But スライドは完全マニュアル動作ですので御協力をお願いしますね。(^^;

12. エナヴィレッジ

やがて荒磯遊歩道の先に江名湾の松浦漁港が見えて来ますが、ここでのお勧めスポットが漁協直営のエナヴィレッジ。1Fではお土産用の鮮魚や干物などの海産物を買い求めることが出来るの。また、釣り客のためにはつり道具や餌もおいてあるので、岩場を眺めていたら大物が釣れそうな気がしてきたぜ、道具さえありゃなあ!とお嘆きの貴兄も大丈夫。そしてξ^_^ξの一番のお薦めが2Fにあるお食事処。漁協の直営店とあって、ここではとびっきり新鮮なお魚がリーズナブルなお値段で食べられるの。但し、どんなお魚が食べられるかは季節やその日の漁の出来次第。

でも、その時々で一番美味しいものを提供してくれるのは間違い無いわ。それに、このエナヴィレッジにはオープン・テラスもあるので、穏やかな日にはテラス席で潮風を受けての素敵な昼食も出来ちゃうの。上の画像はそのオープン・テラスからの眺めよ。因みに、剣崎からだと左手に見える岬の裏側から磯伝いに回り込むようにして歩いて来たことになるの。勿論、画面には写しきれていない右手にも大海原が広がっているの。

ところで、大浦海岸でコワ〜イお兄さんに『タカだよ、タカ!』と怒られて、正体を確かめられずに終えていたタカですが、偶然、このエナヴィレッジで知ることが出来たの。張り出されたメニューをみていたら一品料理の中にシッタカを見つけたの。タカって、このシッタカのことよ、きっと−と云うことでオーダーしてみました。そうして出されて来たのがこの一品なの。正式な名前は分かりませんがシッタカは俗称で、漢字では尻高と書き、殻の頭頂(尻)が高いことに由来するのだとか。口に含めば磯の香が広がって、これは美味!辛党のあなたにはお酒のおつまみにピッタリ (^^; かも。

次の目的地・江奈の干潟に向かうには湾に沿って走るR215を歩きます。と云っても防潮堤が設けられていますので、その上を歩くことが出来ますので、車の往来は気にせずにすみますよ。但し、防潮堤の上では海藻が日干しされていたりしますので、景色に見とれて踏みつけたりしないように気を付けて下さいね。左掲は途中にある剣崎小学校辺りから松輪漁港を眺め見たものですが、中央に見える、アイボリー・ホワイトの外壁に、茶色の屋根の建物が紹介したエナヴィレッジ。ちょっと見が地中海っぽくて素敵でしょ。(^^;

13. 江奈湾の干潟 えなわんのひがた

防潮堤が途切れる辺りから御覧のような干潟が広がるの。江奈湾の西側に位置し、最奥部には葦の群生を見ることが出来るの。傍らに立てられた案内板には「干潟は川から運ばれてきた土砂が波の静かな内湾に堆積してつくられます。満潮時は海の一部ですが、干潮時には広く平らな陸地となります。干潟には海水に溶け込んだ窒素やリンを取り除いて海水をきれいにするはたらきがあります。また、シギ類などの渡り鳥の休憩所としても重要です」とあり、多くの生き物達にとってかけがえのないものになっているのね。

海水と淡水が混じり合う岸辺に群生する葦は、富養分を吸収し、海水を浄化する役割を担っているの。云うなれば自然の浄化フィルターね。その一方で干潟に生息する小動物達の隠れ場所も提供しているの。この干潟にはアシハラガニ、チゴガニ、ヤマトオサガニなどが棲むと云うのですが、同じ干潟でも生息域が異なり、その食性も微妙に異なるの。干潟での食物連鎖の頂点に立つ鳥達もまた然り。その幾れもが微妙なバランスの上に成り立っているわけで、どれか一つでも欠けると崩れてしまうと云うことよね。回り回って食物連鎖の最上位にいる人間も同じよね。

干潟の最奥部にある湿地には御覧のような草が生え、その間を小さな川が流れていたの。見るとはなしに眺めていたのですが、時折、バシャバシャ!、バシャバシャ!と水音が聞こえたの。流れの中で小魚が何匹か泳いでいるらしく、浅瀬に乗り上げたか、あるいは草の根に泳ぎを邪魔されたのでしょうね、きっと。気になってズームアップしてはみたのですが、残念ながらその姿を見極めることは出来ませんでした。

案内板には干潟に棲む生き物としてボラの名も挙げられていましたが、子供の時は群れで干潟や川に現れ、岩や泥の表面に付いた藻類を食べる−とあり、水音の犯人はそのボラの幼魚だったのかも知れないわね。余談ですが、ボラは出世魚で、成長に合わせてオボコ、イナッコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドと名を変えるの。とどのつまり−と云う時のトドは、実はこのボラの呼び名に由来するの。エッ!知ってた?知らなかったのはξ^_^ξだけかしら。(^^;

14. 慈雲寺 じうんじ

干潟を後に次の目的地・白浜毘沙門堂へ向かいますが、その前に慈雲寺に立ち寄ることにしたの。毘沙門堂は慈雲寺の境外堂になっているので、主管する慈雲寺を訪ねれば何か面白い情報が得られるのではないかしら?と期待したの。残念ながら何の収穫も得られずに終えてしまったのですが。理由はさておき、干潟の先で道がトンネルのあるバイパスと、坂道の旧道に分かれますので、右手の坂道側を上って下さいね。坂を上りきると間もなく畑の中にこの石標が見えて来るの。因みに、画面右手方向が毘沙門堂へ向かう道ですので、お急ぎの方はここでさよならになるの。

毘沙門天入口のBSから歩いて300m位かしら、毘沙門BSが見えて来るの。掲載画像には映りませんが画面左手を旧道がはしり、バスの待合室があるの。その旧道から右に逸れた道の突き当たりにあるのがこれから訪ねる慈雲寺なの。因みに、参道脇にはガソリン・スタンドと酒屋さんがありました。この先、毘沙門堂を経て毘沙門湾まで長距離を移動することになりますが、途中にはお店も自販機の類も一切ありませんのでこちらで飲料水を忘れずにゲットしておいて下さいね。

縁起を紹介したいと思い、調べてみたのですが、残念ながら江戸末期に編纂された【新編相模国風土記稿】に「本尊観音開山降翁 永正二年卒」と記されるのみで、開山の降翁和尚のことも、寺院が創建された背景についても何も触れられていないの。僅かに残された手掛かりが「永正二年卒」の記述ですが、【風土記稿】の記述が正しいものとすると、降翁和尚は永正2年(1505)に死寂していることからその創建年代はどう頑張っても室町時代より遡ることは出来ないわね。後は住持の方に直接お会いしてお話しをお伺いするしか無さそうね。現在は持陽山慈雲寺を正式な山号寺号とする、臨済宗円覚寺派の寺院。

慈雲寺を後にして毘沙門天入口まで元来た道を戻ります。先程触れたように、この石標の右手に続く道が毘沙門堂への参詣道。と云っても農道以外のなにものでもないのですが、(^^; しばらく歩くと中央に道標が立つ分岐路に出ますので、これを右に折れて下り坂を進んで下さいね。実は、左手の畑に続く道を辿っても行くことが出来るのですが、初めての方は毘沙門堂への入口がゼッタイ!分からないと思うわ。ξ^_^ξも偶然知っただけなの。お薦めは出来ないけど、後でチョコット教えてあげますね。(^^;

15. 白浜毘沙門堂 しらはまびしゃもんどう

坂道を200m程下ると左手の竹藪にぽっかりと穴が開いたように御覧のようなコンクリートの外壁と門柱が現れるの。境内には神仏混淆の名残りを留める水盤や石灯籠、狛犬などがあり、大願成就の奉納祈念碑もありましたが、最近のものはなく、幾れも時を経たものなの。御多分に漏れず、ここでも−神仏に加護を求めた時代は今いずこ−ね。ですが、人里から離れてあり、無住と聞いていたので荒れたイメージを想像していたのですが、必要最低限の維持管理だけはなされているので、やはり三浦七福神の一神に負うところが大きいのでしょうね。拝観料:境内自由 初穂料:志納

気になる毘沙門堂の縁起ですが、入口にある案内板からの引用で恐縮ですが‥‥‥

白浜毘沙門天は三浦七福神の一つです。ここは持陽山慈雲寺毘沙門堂と称し、本寺は応安元年(1368)妙謙和尚によって開かれたもので、毘沙門天は行基の作と伝えられ、古来より正月三日酉の刻(午後6時)には必ずありがたい神示があると信じられ、近郷近在から多数の参詣、参籠があり、知恵と勇武の守り神として崇められております。特に北方を守る武神とされ、厄除け、恵方の毘沙門天であります。三浦七福神とは、あと金光恵比須(きんこうえびす:円福寺)・鶴園福禄寿(かくおんふくろくじゅ:妙音寺)・筌龍弁財天(せんりゅうべんざいてん:海南神社)・桃林布袋尊(とうりんほていそん:見桃寺)・長安寿老人(ちょうあんじゅろうじん:白髭神社)・寿福大黒天(延寿寺)です。環境省・神奈川県

ここでξ^_^ξがちょっと気になるのが「本寺は応安元年(1368)妙謙和尚によって開かれたもの」の部分。先程、慈雲寺の項で【新編相模国風土記稿】の記述を引いて創建は室町時代を遡れないと紹介しましたが、これでは南北朝時代にまで遡ってしまうし、開山したのも別人になってしまうわね。ここからはξ^_^ξの勝手推量ですが、この毘沙門堂の方が先に成立し、経緯は不明ですが後に慈雲寺が別当職を務めるようになり、今日に至っていると云うことではないかしら。
★後日、ネット検索していた際にうれしい頁に出合いました。次項にちょっと紹介してみますね。

残念ながらリンク切れになってしまいましたが 白浜毘沙門天は神様か仏様か の頁には【南下浦町役場社寺書類】と云う古記録に「毘沙門部落にある旧白浜神社社殿は毘沙門部落の管理とし現在慈雲寺にある元白浜神社安置の宝物毘沙門像四体は現在の白浜神社跡を堂宇に改め之を安置し慈雲寺に於て祭祀を司ることを承認すること」と記載されると紹介されていたの。この毘沙門堂の地には嘗て白浜神社があり、4体の毘沙門天像が安置されていたものが慈雲寺に移され、後に再び白浜神社跡地に堂宇が再建されて祭祀されるようになった訳ね。その白浜神社にしても明治期には八雲神社が合祀されていたみたいよ。

境内にはもう一つ、三浦市が立てた案内板がありました。
岩堂山にも三浦市が立てた案内板があるのですが、そこにもこの毘沙門天に関する記述があるの。
ちょっと面白いので二つを足して昔話風にアレンジしてみましたのでお楽しみ下さいね。

むか〜し、昔のお話しじゃけんども、この毘沙門堂のある坂道をもちっと下ると白浜海岸があるんじゃが、ある年の正月は三日の朝方のことじゃった。鶏の鳴き声が聞こえてきたかと思うたら東の海から龍燈が現れてのお、一体の仏像が浜に流れ着いたそうじゃ。村のもんはこれは何ぞ仏さまのお導きに違いあるまいて−とその像を拾い上げると大事にお祀りしておったそうじゃ。

それからどれ位経たもんかのお、ある日のことじゃった。菩薩の称号で呼ばれるほど偉〜いお坊さんの行基菩薩さまがこの地を通られてのお、普段からどんな仏さまなのか気になっておった村のもんは祀っておった仏像をお見せしたそうじゃ。果たして行基菩薩さまは、龍燈と共に東方海上より現われたる奇瑞はまこと尊き毘沙門天であることの証しじゃ−と教えて下さったそうじゃ。

そうして行基菩薩さま自身も背後にある岩堂山に籠もると一体の毘沙門天像を刻まれてのお、浜に流れ着いた毘沙門天像と合わせて祀るように告げるとこの地を去られたそうじゃ。何でも行基菩薩さまが像を彫った時の木屑が塚になり、その木っ端塚が岩堂山の山中にあったそうじゃが、今ではどこにあったかもよう分からんようになってしまってのお、むか〜し、昔のお話しじゃ。

お堂の左手には細い道が続いていましたので、奥の院でもあるのかしら?と登ってみたのですが、藪を抜けたところでひょっこりとこの農道に出てしまいました。良く見ると生い茂る竹笹の中にうずもれて毘沙門天裏参道入口と彫られた石標が。先程、農道側からも毘沙門堂へ辿り着けると御案内しましたがこのことなの。但し、この裏口を無事に見つけることが出来れば−のお話しよ。(^^;

毘沙門堂を後に坂道を下りますが、車一台がようやく通れる位の道幅なのに休日とあって結構レジャー客の方々の車が通り過ぎるの。みなさん、毘沙門堂には興味が無いようで (^^; 素通り状態。それもそのハズ、皆さんのお目当てはこの坂道を下りきったところにある白浜海岸で、駐車場代わりに使える大きな草地もあって海岸はちょっとしたバーベキュー会場になっていました。辺りには投げ捨てられたペット・ボトルやビニール袋などのゴミが ‥‥‥。その昔、毘沙門天像が流れ着いたと云う磯ではこれまたペット・ボトルが波間を漂っていました。

16. 荒磯遊歩道 あらいそゆうほどう

バーベキュー会場 (^^; を過ぎると再び磯伝いの散策になりますが、次に紹介する毘沙門洞窟までは岩場の荒磯だけでなくて、静かな波打ち際の砂浜も広がるの。途中には小山のような岬があるのですが、辺りの砂浜は無数の貝殻で埋め尽くされているの。不思議ね、そうなると綺麗な貝殻がないかしら?と周りの景色には目もくれず、足許だけを見て歩いていたりして。おかげで小さなタカラ貝をいっぱい見つけたの。それはさておき、左掲の画像をクリックしてみて下さいね。景観写真を23枚ほどアップしておきましたのでお楽しみ下さいね。

17. 毘沙門洞窟 びしゃもんどうくつ

上の小山のような岬から100m位歩いたところの崖側に何か案内板らしきものを発見して立ち寄ってみたのがこの毘沙門洞窟。説明には「毘沙門洞窟弥生時代住居址群」とありましたので、この洞窟だけでなく、他にもあると云うことよね。残念ながら案内板のおかげでこの洞窟だけは知り得たのですが、他の洞窟は気付かず終い。洞窟内から大海原を見やれば、遙かなる時を経てあなたにも弥生人の思いが伝わってくるかも知れないわ。

神奈川県指定史跡 毘沙門洞窟弥生時代住居址群
これらの海蝕洞窟は、弥生時代から平安時代まで住居、墳墓として利用されたものです。この洞窟からは主に弥生時代の漁撈技術を物語る鉄、青銅、鹿角製の釣針、鹿角製の銛などの漁撈用具、アワビ貝で作った貝包丁などの農耕用具、腕輪やかざり棒などの装身具類が出土しています。当時の人達がこれらの漁撈用具などを使用し、取った貝や魚、また獣類の骨も多量にあって、出土遺物は種類、数量ともに豊富で当時の生活を知る上で貴重な遺跡です。更に鹿の骨を焼いて吉凶を占った「卜骨」が我が国で始めて出土した遺跡としても有名です。尚、弥生時代から平安時代にかけて、特に平安時代には墓地として使われたようで、埋葬された人骨も発見されています。昭和63年(1988)3月 神奈川県教育委員会

18. 荒磯遊歩道 あらいそゆうほどう

毘沙門洞窟を過ぎた辺りから波打ち際が間近に迫るようになるの。訪ねた時は風もなく、波も至って穏やかでしたので波しぶきを浴びて濡れるようなこともなかったのですが、波風の強い日は気を付けて歩かないといけないわね。特にこのコース最大の難所とも云える、飛び石のようにコンクリート杭が並ぶ場所があるのですが、波が打ち寄せるような日の踏破は避けた方が良さそうよ。強行すればずぶ濡れはおろか、荒波に足許を浚われて海の中にダイビング−なんてことになりかねないシチュエーションよ。波風さえ無ければ安心なんだけど。

コンクリート杭の飛び石をクリアして一息ついたのも束の間で、岩場を回り込んだところで目に飛び込んで来たのがこの光景よ。うっそ〜、道が海に沈んじゃってる〜、折角ここまで来たのに引き返せと云うの?それともξ^_^ξに泳げ−とでも云うの?状態。でも、確か前を歩く方がいらしたハズなのにどこへ行ってしまったのかしら。しばし呆然と佇んでいると、後から来られた方が躊躇いもなく、やおら右手の岩場を登り始めて。分かってしまえば何のことは無いの。回り込めば良かっただけのお話しでした。(^^;

19. 毘沙門湾 びしゃもんわん

左掲は毘沙門湾の景観ですが、見た目は綺麗に見えても波が打ち寄せる岸辺はお世辞にもキレイとは云えないの。因みに、散策コースとしては写真の中央に見える岬の裏側を磯伝いに歩いて来たことになるのですが、湾に出たところで湾に沿って走る国道を歩くの。その国道がなだらかな坂道となる手前に漁港への脇道があるのでそれを辿って下さいね。沿道には漁具などを収める小屋などが建ち並び、漁業関係者以外立入禁止の標識に加えて車の通行止があったりして一瞬道を間違えたかしら?と怯みそうになるのですが、無視して突き進んで下さいね。

道の突き当たりに御覧の道標と案内板が見えて来ますが、これが無ければ道を間違えたものと思って引き返していたと思うわ。と云うのも、辺りには錆び付いたドラム缶や漁具の残骸やらがあちらこちらに捨て置かれていて、およそ遊歩道のイメージとは程遠いの。加えて、この案内板の右手は殆ど産業廃棄物の処分場の趣きよ。因みに、この案内板とは道を隔てて反対側にお手洗いがあるのですが、廃墟廃屋の装いで、利用するには一大決心が必要かも知れないわ。(^^; この環境下では仕方が無いとは思うのですが、緊急時には利用可能よ。

20. 千畳敷 せんじょうじき

処分場(?)を過ぎてしまえば再び荒磯の続く遊歩道になりますので御安心下さいね。途中には海蝕洞窟もあるので忘れずに探検を。(^^; 処分場からゆっくり歩いても20分位でグランド並み(否、それ以上ね)の広さがある平らな場所に出るの。その広さから千畳敷と呼ばれ、これもまた波の浸食が長い年月を経て造りあげた自然の造形物。But 足許には気を付けてお歩き下さいね。平らに見えても実は凹凸だらけよ。特に浸食に耐え抜いた黒い岩の表面は粗い砥石状態なので、例え転んでも絶対に触ってはダメよ。(^^; 因みに、左掲は後方を振り返ってみたところ。

この千畳敷に立てば進行方向の視線の先には城ヶ島や城ヶ島大橋が見えて来るの。ここまで来れば「岩礁の道」踏破も後一踏ん張り。そして、今までの歩き疲れを吹き飛ばすような景観で迎えてくれるのが次に紹介する盗人狩よ。

21. 盗人狩 ぬすとがり

今回の「岩礁の道」ハイキング・コースでの一番の見どころが盗人狩で、「神奈川の景勝50選」の一つにも数えられているの。その名は、昔、盗賊が高さは優に30mはあろうかと云う断崖に追い詰められて、いざ足許を見ると断崖下では怒濤が逆巻き、その恐ろしさに足がすくんで動けなくなり、たやすく捕まってしまったことに由来するのだとか。下から見上げるだけではさほどの恐怖心は感じないのですが、崖上に身を置いたらξ^_^ξなんて風がちょっと吹いただけでも悲鳴をあげてしまうかも知れないわね、きっと。その前に怖くて崖端になんて近づけない?(^^;

周囲を含めて盗人狩の景観を紹介しちゃいますね。
御覧になりたい方は上の画像をクリックしてみて下さいね。14枚ほどアップしておきました。

盗人狩を後にして歩き始めた時にξ^_^ξの頭上を掠めるものがあり、何かが目の前に落ちて来たの。瞬間、何かに襲われたと思い、思わず身を縮こめたのですが、決してξ^_^ξを襲った訳ではなくて二頭のトンビが獲物をめぐって空中戦をしていたの。取り合いをしている内にξ^_^ξに異常接近してしまい、回避行動を取る際につい獲物を手放してしまったようね。左掲は折角の獲物を後に飛び去る可哀想なトンビと、獲物だったお魚のベラよ。

彼(?)にしてみればこのお魚がこの日のメイン・デッシュだったかも知れないわね。それともこの日唯一の獲物だったのかしら。慌ててシャッターを切ったのでピンボケのブレブレですが、急上昇しながら飛び去る彼の勇姿を御堪能下さいね。因みにハイカーの方が一緒に写りますが、単に先を行かれる方で、本件とは無関係ですので念のため。ところで、盗人狩の訓み方ですが、訪ねる前まではぬすっとがりと読むものとばかりに思っていたのですが、環境省&神奈川県が立てた説明書きではぬすとがりと読ませているの。なのでξ^_^ξもここでは逆らわずにぬすとがりにしています。

22. 荒磯遊歩道 あらいそゆうほどう

岩礁の道ハイキング・コースも盗人狩を過ぎるといよいよ終盤を迎えるの。宮川フィッシャリーナのある宮川湾まではあと一息よ。勿論、途中の景観を何枚か収めて来ましたので御覧になりたい方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。余談ですが、宮川湾に近づくにつれて磯釣りをされる方の姿も多く見掛けるようになりますが、この辺りの磯は釣果が期待出来るみたいよ。聞くところによると、最後の方に観音山と呼ばれる小山が出てくるのですが、その周辺では大物が釣れるそうよ。さあて、何が釣れるのかしらね。その観音山を過ぎれば宮川湾は目と鼻の先よ。

23. 宮川フィッシャリーナ みやがわふぃっしゃりーな

湾にある宮川フィッシャリーナには多くのプレジャーボートが係留されているの。マリンレジャーを楽しむ余裕など持ち合わせないξ^_^ξには幾れもが高嶺の花ですので横目に見ての素通り状態。ここで内緒のお話し(^^; なのですが、このフィッシャリーナでのお薦めがお手洗いなの。本当は施設の利用者のためのものですので、余り声を大にして勧めるのはマズイのかも知れないのですが。ハイキング・コースの途中には幾らお手洗いがあると云っても、どれもお化けが出そうで (笑) 我慢されて来た方も多いのではないかしら。場所はプレジャーボートが係留されているバースを過ぎてある管理棟横よ。最初に目に留まる建物なので直ぐに分かると思うわ。

右側の写真はその管理棟を少し過ぎた辺りで行く手を収めたものですが、画面中央に見える白い建物が民宿「まるよし食堂」さん。TVの旅番組などですっかり有名ね。残念ながら辿り着いた時間はお昼をとうに過ぎていて、ξ^_^ξは未体験で終えてしまいましたが、気になる方はネット検索してみて下さいね。

24. 宮川公園 みやがわこうえん

宮川フィッシャリーナ脇を通った際に丘の上に2基の風力発電の風車が見えたので、近くまで行ってみることにしたの。多分、立入禁止区域に指定されていて近付くことは出来ないかも知れないわ−と期待せずに訪ねてみたのですが、誰もが気兼ねなく立ち寄れる公園として整備されていたの。発電所と云うよりは公園の中に風力発電の風車が建てられている感じね。2基の風車は平成9年(1997)にNEDO(新エネルギー産業技術総合開発機構)とニチメン(株)の共同事業として設置されたもので、現在は日本風力開発(株)の子会社、三浦ウィンドパーク(株)が所有・運営にあたっているの。因みに、設置費用は一基あたり工事費込で1億2千万円!だったそうよ。

〔 設備の概要 〕
発電開始の風速:3.0m/s
定格出力の風速:14.0m/s
定格出力:800KW(400KW機2基)
タワーの高さ:35m ブレード(翼)の直径:31m
総重量:36t

気になるのはその発電量ですが、2基合計で年間約120万kWhになり、一般家庭の約250世帯分の消費電力に相当するのだとか。因みに、対岸に見える城ヶ島の世帯数は約230世帯なので、城ヶ島に住む方々の必要電力量はこの2基で賄えてしまう計算になるの。発電した電力を実際にはどうしているのかと云うと、園内の照明や夜間のライトアップに使われ、余剰電力は東京電力(株)に売電しているの。お部屋のコンセントが送電線を通して宮川公園の風車と繋がっていると思うとちょっと不思議な気がするわね。

公園内にある展望台からは宮川フィッシャリーナを眼下に、相模灘も一望出来るの。穏やかな日であれば、宮川湾にある「まるよし食堂」さんでお昼ご飯を食べてから芝生に寝転がってお昼寝するのもいいかも知れないわね。園内には東屋(あずまや)やベンチなどもあるので、ちょっとした休憩タイムにも使えるわ。勿論、お手洗いも完備されているわよ。(^^;

記述に際しては下記のサイトを参照しました。
三浦市 Official Web Site 市民向け>環境・みどり>環境>風力発電

25. 三崎港 みさきこう

ホントは宮川公園の風車を見学したところで宮川町BSからバスに乗車する積もりだったのですが、何と一時間に一本!しか走っていないの。こういう場合に限って10分位前にバスが行ってしまった後だったりするのよね。次のバスを待つとなるとあと2時間近くもあり、最後の力を振り絞って三崎港まで歩くことにしたの。こんなことなら先にBSで時間を調べてから公園に行くべきだったわよね−と思ったところで After the carnival。(^^; 皆さんは事前に 京浜急行バス で時刻表をチェックした上でお出掛け下さいね。

今回の散策もここで全ての行程を終了。三崎港産直センター「うらり」でお土産を購入して、いざ三崎口行きのバスに乗り込んだのですが、何と普通なら20分余の乗車時間のところを渋滞で2時間!も掛かってしまったの。運転手さんも「この先どの位の時間が掛かるのか分かりませんので、歩こうと思われる方はおっしゃって下さい。どこでも止めますから」と車内アナウンス。乗車した時には朝の通勤電車並みの混雑だった車内も時間と共にしびれを切らした方々が一組、二組と降車して歩き始められて。気が付けば辺りはすっかり闇の中‥‥‥

ξ^_^ξも降りて歩こうかしら?でも止めておこうかな、案外、降りて10分もしない内に急に流れ始めたりするのよね、気が付いたらさっきまで乗っていたバスに抜かれたりして−と思案が行ったり来たり。でも、この優柔不断さのおかげで結果オーライだったの。帰宅後に調べてみたら三崎港と三崎口は距離にして6km余り。ξ^_^ξの疲れた足取りでは2時間は掛かる計算ね。歩いてもバスに乗車したままでも同じ所要時間ならバスに乗車していた方が楽チンよね。これも後で知ったことなのですが、休日の渋滞は地元では驚く程のことでもなくて、連休の時などはかなりの忍耐が必要みたいよ。歩く覚悟がおありの方は早めに決断してさっさと歩くべし−かも。健脚の持ち主のあなたなら迷いは禁物よ。(^^;


神奈川県発行の関東ふれあいの道パンフでは「三浦・岩礁のみち」は10.3Kmで、所要時間も3時間と案内されていたの。けれど、実際に歩いてみるととてもそんな短時間では踏破出来ず、訪ねること三度に及んでいるの。確かに余計な寄り道や、迂回を余儀なくされたこともあったのですが、そうでなくとも一日だけでその全てを踏破するとなると殆ど駆け足になると思うわ。紹介が出来なかったのですが、途中の毘沙門湾にある 毘沙門茶屋 は食事だけでなく、一組限定ながらも宿泊が可能よ。その料金にしてもおサイフにトコトン優しいの。なので間に毘沙門茶屋の宿泊を挟んで前編、後編に分けて踏破する手もあるわね。この頁が少しでもみなさんの散策のプラン作りに役立てて頂けたらうれしいな。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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