≡☆ 鎌倉歴史散策番外編−真鶴 ☆≡
 

散策の後半は日本三大船祭りの一つ「貴船まつり」で知られる貴船神社を訪ねた後は、真鶴岬の豊かな自然に触れてみたの。締め括りには遊覧船で三ツ石にも接近遭遇してみたの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。

貴船神社〜山の神〜中川一政美術館〜お林展望公園〜内袋観音〜潮騒遊歩道〜三ツ石

21. 貴船神社 きぶねじんじゃ

貴船神社 魚座から1、2分程歩くと右手に御覧の貴船神社の鳥居が見えて来るの。縁起では寛平元年(889)の創建と伝えられ、元々は貴宮(きのみや)大明神の名で親しまれていたのですが、明治期に貴船神社と改称したの。貴宮大明神とは聞き慣れない神名ですが、大国主命(おおくにぬしのみこと)のことなの。現在はその大国主命に、事代主命(ことしろぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)の二柱を加えた三神を祭神としますが、幾れの神さまも【古事記】や【日本書紀】に描かれる国造り・国譲り神話の中での主人公達なの。拝観料:境内自由 初穂料:志納

石段 鳥居を潜り抜けると急な石段が前方に見えて来ますが、「清めの石段」と呼ばれ、鳥居から最上段迄は仏教で云うところの煩悩の数とされる108段からなり、煩悩を踏み越えて始めて大国主命に出逢えるの。その大国主命も今では七福神の一神としての大黒さまにすっかり変身ね。石段の手前右手には、稲荷社や石祠があるかと思えば庚申塔もあり、人々の様々な願いに応えようとした神さま達の姿があるの。

庚申塔 お稲荷さん 石祠 恵比須&大黒

拝殿

石段を登り切ると正面に拝殿が建ちますが、新年を迎えて今年も幸多からんと願う初詣の方々が参拝に訪ね来られていました。その拝殿前にある茅の輪は「新玉の年の初めにくぐる輪は 千歳の命延ぶと云ふ也」と云うことですので忘れずに潜りましょうね。ところで、大国主命ですが、大己貴神(=大穴牟遅神:おおなむちのかみ)や大物主命(おおものぬしのみこと)、八千戈神(やちほこのかみ)など、多くの別称を持つことから、元々は複数の在地の土地神が一神に習合されたものと考えられ、豊かな土地が五穀豊穣を齎すことから福の神となるの。貴宮大明神も、元々は在地神として祀られていたものが、同じく大国主命に習合されたのでしょうね。【記紀】の中では様々な活躍を見せる大国主命ですが、実は赴く先々で多くの媛神とも結ばれているの。

神輿庫 その内の一神・須勢理媛に云わせると「うち廻る 島の崎々 かき廻る 磯の崎落ちず 若草の 妻持たせらめ」の状態で、多くの御子達が生まれているの。男女の関係には極めて大らかな神話の世界ですが、そこには五穀豊穣の意味も込められているみたいね。ところで、その大国主命は勇猛果敢な神さまと云うよりは、どちらかと云うと、母性本能や女心をくすぐる存在だったみたいね。兄弟神に苛められて死にそうになる大国主命を、母神や女神達が介抱したり支えたりしているの。神さまが死ぬなんておかしな話しかも知れませんが、余り深くは追究しないで下さいね。その大国主命も、後に仏教の大黒天と習合し、やがて大黒さまとして大変身するの。

山神社 本殿の左手には神輿庫に、境内末社の山神社と淡島社が並ぶの。山神社はその名が示すように山の神さまを祀る社ですが、山の神さまは山の神さまでもここでは大山祇神(おおやまつみのかみ)なの。「おお」は「全部の」とか「総て」の意で、祇の一文字だけでも「くにつかみ」と訓めるように、地の神を指すことばなの。なので、大山祇神とは、ありとあらゆる山々を司る神さまの意ね。その総本山とも呼ぶべき存在なのが、愛媛県に鎮座する大山祇神社で、【伊予国風土記逸文】には

乎知の郡 御嶋 坐す神の御名は大山積の神・・〔 中略 〕・・此神 百済の国より度り来まして 津の国の御嶋に坐しき
をちのこほり みしま いますかみのみなはおほやまつみのかみ このかみ くだらのくによりわたりきまして つのくにのみしまにいましき

と記されるように、朝鮮半島から渡り来た当初は、摂津・御嶋(現・大阪府摂津市三島)の地に鎮座したことから御嶋明神と呼ばれ、それがいつ、どうしてなのかは分かりませんが、愛媛県今治市大三島町の現在地に遷座。【風土記逸文】では別称として「和多志の神」の名を挙げて紹介していますが、和多志は渡のことでしょうから、航海安全を司る神としての性格も持ち合わせていたみたいね。

余談ですが、香川県の琴平神社に祀られる金毘羅さまも元々は山の神さまで、瀬戸内海を航行する漁民達の信仰を集めていたの。琴平神社の背後にある象頭山がそれで、後に仏教が伝えられて現在の琴平神社が建つ地に松尾寺が創建されると、象頭山の海上守護神が金毘羅神に習合されて寺院の守護神にされたと云うわけ。因みに、金毘羅はサンスクリット語の Kumbhira の音訳で、元々はガンジス川に棲む鰐を神格化したものと云われているの。それが明治期の神仏分離政策を受けて切り放され、金毘羅神は大物主命(おおものぬしのみこと)に姿を変えさせられたの。

伊豆・三島の地にも三嶋大社が鎮座しますが、祭神は三嶋大明神こと大山祇神。三嶋大社もこの山神社もその創建となると詳しいことは分からないのですが、どちらも同じルーツを持つお社と云うことね。真鶴では奈良時代の頃から小松石を産出していたことから、古くから石工達が大山祇神を守り神として崇敬していたみたいね。その後、幾度かの危機を乗り越えて現在地に祀られるようになったの。社殿の背後には三基の石祠が建ちますが、この貴船神社の境内地に遷宮されて来た頃はその石祠だけの簡素なものだったのでしょうね、きっと。

CoffeeBreak 真鶴半島の岬入口バス停近くにも山の神が鎮座しているの。
実は、真鶴で山の神と云えば、普通はそちら側を指すの。
後程改めて紹介しますので、お楽しみにね。(^^;

その山神社に隣り合わせにして祀られているのが淡島社。祭神は婦人病全般の守護神とされる淡島明神ですが、そのルーツは和歌山県海草郡の淡島神社こと、加太神社にあるの。

ねえねえ〜、淡島明神ってどんな神さまなの? 女性の病気や安産に霊験灼かな神さまで、親しみを込めて淡島さまと呼ばれているの。 淡島って淡路島に関係あるの? そうじゃないわ。でも、地理的には近いかしら。淡島明神は和歌山県の加太町にある淡島神社に祀られているの。その淡島神社の沖合いに「友の島」という名前の島があるんだけど、その島の傍らに浮かぶ小島の淡島に祀られていたのよ。 粟島明神とも書くのはどうしてなの? 【扶桑略記】には粟島とも記されているので、昔は両方の表記があったみたいね。その淡島が住吉大社の神領だったことから淡島明神の面白い縁起が生まれるの。ちょっと長くなるので纏めて紹介するわね。

淡島社 住吉大社に祀られる住吉明神は伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰り、海水で禊をした際に生まれた神さまなの。一神と思われるかも知れないけどホントは三神なの。禊の時には大勢の神さまが生まれてるんだけど、水底の水で清めた時に生まれたのが底筒之男命、中程の水から中筒之男命、海面近くの水をすくい清めた際に生まれたのが上筒之男命なの。だから、本当は住吉明神を一人称で呼んではいけないハズなんだけど。因みに、左眼を洗った時に生まれたのが天照大神なの。これは余談だけど、実は元々一神だった住吉明神は【記紀】の編者らにより意図的に三神にされたの。と云うことは、住吉明神を一人称で呼ぶのは本来の姿を表したものとも云えるの。さて、その【記紀】が意図したものは・・・。それはさておき、その住吉明神の許へ嫁いだのが天照大神の六番目の娘とされる婆利塞女ですが、その仏教的な名前からすると、神代というよりも後世に作られた逸話の匂いがプンプンするわよね。

臥冰求魚 住吉明神の妃となった彼女ですが、下の病にかかり、夫婦の契りが出来なくなってしまったの。彼女はその病を癒そうと人形(ひとがた)を作り、思いを託して海に流すのですが、一向に癒える兆しが無くて、とうとう住吉明神から離縁され、可哀想に彼女は舟に乗せられて流されてしまうの。そうして流れ着いたのが淡島なの。島の者に助けられた彼女は、自分と同じような病で苦しむ女性達を助けようと誓い、彼女が亡くなると、島の者達は彼女を淡島さまとして祀ったの。舟で流されて漂着し、土地の人々から神さまとして祀られるようになる縁起は夷神(=恵比須さま)と似てるわね。因みに、彼女が流れ着いたのは三月三日で、三月三日と云えば雛祭りよね。雛祭りは流し雛がそのルーツなのですが、夫婦の契りを結ぶことが出来なかった彼女が我が身を嘆き悲しみ、人形(ひとがた)を作り、海に流したことに始まるの。

親嘗湯薬 伊邪那岐命が禊をしたように、海は穢れを祓い清める力を持つと信じられていたの。その海に通じる川へ身代わりの人形を流すことで日々の安寧を願ったの。その縁起を全国的に広めたのが淡島願人と呼ばれる修験者達。彼らは淡島明神の由来を語りながら家々を門付けしながら歩いたの。淡島明神の縁起に似た由来を持つのが七福神の一神・恵比須さま。そのルーツは蛭子神と云われていますが、気になる方は鎌倉歴史散策−小町・大町編の 蛭子神社 の項を御笑覧下さいね。CMでした。(^^; ところで、【記紀】では蛭子神に前後して淡島が生まれていますが、今吾が産める子良からず−と、二神とも御子には加えられていないの。その淡島と紹介した淡島明神は別神ですが、蛭子神と淡島明神の縁起が余りにも似ていることを重ね合わせると、どこかで繋がっているような気もするわね。

替わって右手の展示室には貴船丸の模型と貴船まつりの楼船を模したミニチュアが飾られているの。貴船丸は模型とは云え、実物の1/5程の大きさがあり、明治12年(1879)に真鶴村の船頭組合が豊漁と航海安全を祈願して奉納したもので、当時米穀などの海上輸送に使われた弁財船と呼ばれる帆走廻船の模型とされているの。今となっては実物が存在しないことからその構造を知る上での貴重な資料となり、真鶴町の重要文化財にも指定されているの。

楼船 煌びやかな装いのミニチュア船団ですが、やはり一度は実物を見てみたいものですね。毎年7/27・28の両日に行われる「貴船まつり」は日本三大船祭りの一つとして知られ、国の重要無形民俗文化財にも指定されますが、その祭りは貴船神社の不思議な縁起譚を再現したものなの。因みに、三大船祭りの残り二つは何処かと云えば、広島県は宮島の厳島神社に、宮城県は塩竃神社の例大祭ね。と云うことで、「貴船まつり」の縁起譚が気になりますが、【新編相模国風土記稿】には

寛平元年 笠島の沖に毎夜霊光ありて海面を照らす
平井翁 磯辺に出でて遥かに窺い見るに 一の樓船 潮波に浮かびて磯の方へ寄り来る
近づきて見るに 奇異なる樓船に 王者様なる神像降臨しけり

と記されているの。記述にある笠島は後に紹介する三ツ石のことですが、その三ツ石の沖合いに夜毎海面を照らす光が現れ、気になった一人の翁が磯に出て様子を見ていると一艘の船が流れ来たの。それも普通の船ではなくて、楼船と云うのですから、差し詰め動く龍宮城の趣きだったのかも知れないわね。そして、その船には貴宮大明神が神像となり降臨していたと云うの。

貴船神社の参拝を終えて宮前バス停からはバスに乗車しました。ここから真鶴岬の先端まで歩いたとしても30分足らずの道程ですので、歩かれる方の姿も見掛けましたが、琴ヶ浜海岸沿いの平坦な道も、里地バス停を過ぎると急な坂道になり、その後も曲がりくねった上り道が続きますので、歩くことが目的でも無い限りは素直にバスに乗車しちゃいましょうね。(^^;

22. 山の神 やまのかみ

貴船神社の項でも触れましたが、真鶴で山神社と云えば、岬入口バス停近くに鎮座するこの「山の神」のことなの。真鶴岬には磯丁場が数多く設けられるなど、嘗ては石材産業が盛んで、豊かな緑の森は「魚つき保安林」と呼ばれて、現在でも岬周囲の漁場を支えているの。そんなことからこの「山の神」は古くから商売繁盛・大漁祈願などを願う人々の信仰を集めていたの。現在は屋根が損壊するなど痛々しい社殿ですが、自然を畏怖した当時の人々は、この森に神の存在を感じていたのでしょうね。

苔 傍らには昭和59年(1984)の修復工事を記念して建てられた山神社修復記念碑がありましたが、篤志家の方々の氏名の他にも、真鶴町漁業協同組合や石材会社の名が記されているの。とりわけξ^_^ξが気になったのが貴船神社山神講の名称なの。貴船神社に祀られる山神社はこの「山の神」を勧請したものなのかしら?だとすると、この「山の神」は本宮と云うことになるわね。参道脇の苔むした石も、木洩れ陽を浴びると、何やら神々しいものに見えて来るわね。

山の神 自然神として崇められていたローカルな「山の神」も、後に大山祇神に変身させられていくのですが、この真鶴の「山の神」も御多分に洩れず−のようね。元々は樵や石工達が木材や石材を求めて山に出入りする際に恙無く作業が終えられるようにと祈っていたのでしょうね。その対象も最初の頃は大木か石の類だったのではないかしら。全国各地に残される山神信仰ですが、「山の神」が男女どちらの神さまなのかは地域で異なるの。真鶴の「山の神」さまはどちらなのかしら?

余談ですが、「山の神」には頭のあがらなくなった奥さんのことを指す俗語としての意味もあるの。
それこそ「さわらぬ神に祟りなし」の状態ですが、あなたのお家は大丈夫?(^^;

御林 御林 御林

次の中川一政美術館へと向かう道の左手には原生林のような森が広がっているの。御林とか魚付き林と呼ばれ、松の木が多いことから一年を通して緑豊かな林になっていますが、最初から松の木が自生していた訳ではないの。嘗ての岬は生い茂る茅に覆われて、松の木なんて無かったの。その萱野に江戸時代になると小田原藩が三年余の歳月をかけて、何と15万本もの植林を行ったの。真鶴岬の森が御林と呼ばれるのは、その史実に由来すると云うわけ。その御林も明治維新の後は皇室の御料林となり、時代を経て昭和27年(1952)に真鶴町に払い下げられたの。

23. 石の広場 いしのひろば

相模湾 木立に覆われた車道を抜けると中川一政美術館の建物が見えて来ますが、その右手手前にあるのが石の広場。広場としてはいますが、殆ど駐車場ね。入口には「我年来好鶴清浄云々」と刻まれた「片山哲の詩碑」が建ち、広場の最奥部からは相模湾越しに小田原・大磯方面を望むことが出来ました。この景観はまさに一服の清涼剤ね。補足ですが、広場の一角にはお手洗いが設けられていますので、散策の合間に小休止を兼ねてお立ち寄り下さいね。

24. 中川一政美術館 なかがわかずまさびじゅつかん

美術館

日本洋画壇の重鎮として活躍された中川一政画伯は、昭和24年(1949)に、この真鶴町にアトリエを構え、真鶴の景観を題材にするなど、真鶴に所縁が深く、絵画に限らず、書画や陶芸などの作品も数多く残しているの。その画伯から作品の寄贈を受けて、平成元年(1989)にこの 真鶴町立中川一政美術館 が開設されたの。画伯は平成3年(1991)に享年97歳と云う御高齢を以て亡くなられていますが、その前年には33点にものぼる新作を発表するなど、晩年も精力的な創作活動をしているの。画伯のことばをお借りすると、画が芸術と云うわけではなくて画の中でうごめいているものが芸術なのだ−となり、作品にしても、画伯が山を描くのではなく、山が画伯に描け描けと命令するのだそうな。

美術館

加えて、綺麗かどうかが問題なのではなくて、生きているか死んでいるかが問題だ−とのことで、芸術家の芸術家たる所以ね。薔薇や向日葵を描いた作品が数多く展示される中で、芸術にはおよそ縁遠い世界にいるξ^_^ξが敢えてお気に入りを挙げるとすると、「鯛と鯵二匹」と題された岩彩画かしら。「人はその人の心の深さだけしか見ることが出来ない」との画伯の指摘は胸にグサリと来ますが、「自分のわかる程度で素直に見てゆく事です」と慰めてもくれているの。そして成長すれば分かるだろうと、画を理解することよりも成長することを勧めているの。画伯のことばに甘えて、何年、いや何10年かして、再び「鯛と鯵二匹」の前に立ってみたいな。その頃であれば今よりも多少は成長していると思うし。(^^;

25. お林展望公園(旧:真鶴サボテンランド) おはやしてんぼうこうえん(まなづるさぼてんらんど)

真鶴を訪ねてみたことのある方ならこの真鶴サボテンランドの名を最初に挙げる方も多いのではないかしら。But 残念なことに 2004/01/05 を以て閉園になってしまったの。訪ねたのは偶然にもその閉園を3日後に控えた時のことでした。真鶴サボテンランドは小田急グループが昭和38年(1963)に真鶴サボテンドリームランドとして開園して以来、箱根観光船(株)を運営主体に40年余りに亘り営業を続けて来たのですが、集客力の低下は否めずに遂に閉園となってしまったの。真鶴町ではその跡地を整備して 2005/04/23 に「お林展望公園」をオープン。ここではその「お林展望公園」を紹介してみますね。

園内の温室などは撤去されましたが、エントランスの建物は壊さずに再利用されているの。その建物内には何故か先程紹介した中川一政画伯のアトリエが再現されているの。その隣にあるティールームでは軽い食事もOKで、サボテンランド名物のアロエソフトも引き続き健在よ。コーヒー:¥300 アロエ・ソフトクリーム:¥250

開園して未だ日も浅く、貼られた芝生が馴染むにはもう少し時間が必要ね。温室などの施設は勿論取り払われてしまいましたが、南国を思わせる造りはそのまま継承されているの。園内の最奥部に設けられているのが展望広場で、晴れた日には初島や大島などの島陰が洋上に浮かぶの。

芝生広場 芝生広場 展望広場 展望広場

26. 内袋観音 うちぶくろかんのん

次に訪ねたのが内袋観音ですが、下調べの際に手許のガイドブックにその名を見つけてどんな観音さまなのかしらと気になったの。説明には、その昔シケに遭いながら九死に一生を得た漁師が観音さまの御加護の賜物と感謝して岩窟に極彩色の観音像を刻んだと伝えられ、全身を緋色に染め上げられた観音さまとも云われる−と記されていたの。ですが、説明はあるものの、肝心の写真が無くて、是非ともこの目で実物を見てみたかったと云うわけ。

案内板 内袋観音参道 受付

美術館の左手から延びる岬方面への道脇に、内袋観音参道の錆びた案内板を見つけて細い坂道を下ってみたのですが、しばらく歩くと目の前に現れたのがこの廃墟なの。何かの観光施設だったみたいで、受付と思われる建物は窓ガラスも無くなり、飼い猫の捨て場所になっていたの。嘗ては飼い主の膝で甘えていた頃の写真なども貼られていて、空になった餌の器が悲しいわね。産まれ来る赤ちゃんが母親を選べないように、彼等もまた飼い主を選べないの。その全てを托してあなたに甘えてくるのですから、最期まで受け止めてあげて下さいね。

廃墟となった建物の右手から海側に抜けて振り返ってみたのがこの一枚ですが、この時点では未だ廃墟の正体に気付かずにいたの。崩れた建物の中には洗濯機などが転がり、スロープを描いて2Fに通じる外階段などはセレブの象徴と云うことで、海を見ながらリッチな食事が出来る展望レストランの類だったのかしらとも思っていたの。この廃墟の正体を後になって知るのですが、それは後程御案内することにして、先ずは本題の内袋観音の紹介に進みますね。

岩窟 廃屋からは崖伝いに参道が続きますが、草茫々の放ったらかし状態 (^^; ですので、こんな所にホントにあるのかしら?と大いに不安になりますが、回り込むと崖の中にぽっかりと口を開けた岩窟が見えて来るの。その岩窟の崖上はサボテンランドのある場所で、展望広場の辺りになるのかしら。広場からではこの岩窟は見えませんので、観音像の存在に気付く方もいらっしゃらないでしょうね。その存在を知らせる案内板もありませんでしたし。

内袋観音 それにしても、この磨崖仏ならぬ観音像を一人の漁師が彫りすすめたなんて、俄には信じ難いのですが、観音像だけなら未だしも、岩窟から彫り出したと云うのですから、どれ位の年月を要したのかしら?その彫像の巧みさにしても、とても素人が彫ったものとは思えないの。既に紹介しましたように、真鶴は小松石の産地として石材産業が発達したところ。ξ^_^ξの勝手な想像では、この観音像を彫った漁師は兼業農家ならぬ石工との兼業漁師だったのではないかしら。

いつ頃彫られたものなのかはξ^_^ξには分かりませんが、間近に見る観音像には所々に緋色が残り、その御尊顔はとても優しいの。と云うよりも、全体的にふくよかで唇に緋が残ることから紅をさしたようで艶めかしくもあるの。仏教説話の中でも絶世の美女に姿を変えて、その美しさを方便に人々を教化する観音さまが語られますが、内袋観音はそんな時の観音さまのように、色っぽいお姿をされているの。土埃を拭って差し上げたなら、再び妖艶なお姿が甦るのではないかしら。

とりわけξ^_^ξのお気に入りが台座部分に彫られたこの夫婦(?)像なの。観音像の台座に彫る題材としては相応しく無いとお怒りの方もいらっしゃるかと思いますが、いつの世も変わらぬ男女の情景に思わず頬が緩みますよね。ストーリーの展開は御覧の皆さまの御想像にお任せしますが、ユーモアとセンスに溢れた漁師の方ですよね。漁師が描いたこの男女は他ならぬ自画像だったのかも知れないわね。

参道

左掲は両脇に奉納された石灯籠の建つ参道ですが、実はこの参道は海側から始まっているの。画面中央の岩窟に彫られているのが内袋観音ですが、廃屋からの順路は岩窟の右手に繋がることからこの参道は通らないの。それならこの参道を歩いて海側から参詣するのは誰なの?となりますが、真鶴の海に潜む龍神だったりして。ねえねえ、どうして龍神なの?艶めかしい観音さまに恋心を寄せているの。(^^; と云うのはξ^_^ξの作り話で、本来なら一度岩窟を横目にして回り込むように道筋が作られているの。そうして観音像を正面に見据えながらこの参道を進むと云うのが正しい参拝順路なの。防護柵があるわけでもありませんので、訪ね来られる方が近道する内に、そちらの方が自然と拝観順路になってしまい、気が付いたら参道は誰にも利用されなくなってしまっていた−と云うわけね。

プール 内袋観音の御尊顔を拝したところで、先程の廃屋と共に気になっていたのがこの巨大な生け簀と云うかプールのような施設なの。入り江を利用して複数が造られていますが、廃屋同様捨て置かれたままで、コンクリートの亀裂からは海水が流れ込み、そのお蔭で水も綺麗で夏場ならそのまま海水プールとして利用出来そうね−などと考えながら覗き込んでいたのですが、その時には未だ廃屋とこのプールに関連があるとは想像だにしませんでした。ひょっとして戦時下に造られた旧海軍の秘密工廠だったのかしら?などと独りごちていると、そのプールに釣り糸を垂れている方を発見して廃屋のことを訊ねてみることにしたの。

プール

釣り人と云っても、地元の方がぶらりとやって来たと云った様子で、釣竿も持たずに手釣り状態でしたので、何が釣れるのかしら?と最初に気になり訊ねてみたのですが、タコが釣れる・・・らしいの。それも美味しいタコが。魚影こそ見掛けませんでしたが、確かにタコが隠れるには手頃な大きさの石が転がっているの。タコ談義を終えて本題の廃屋の正体を訊ねてみたところ、水族館だったと教えてくれたの。それも、公営ではなくて個人と云うか私企業での運営だったと聞きましたが、目の前にある仕切られたプールでは嘗て大型の魚や海獣達が泳ぎ廻っていたのでしょうね。今では館内に設けられた巨大水槽の中で回遊する魚達をガラス越しに観るスタイルが水族館の主流ですが、ここでは屋外プールがメインだったみたいね。

このまま捨て置くのは勿体ない気がするわよね、この遺構を観光資源として何かに再利用出来ないものかしら?貧困な発想ですが、例えば海洋釣堀公園なんかにと思うのは貧乏人の発想かしら。そのプールを護るようにして海側には大きな岩が消波ブロックのように並びますが、辺りは小さな内湾となり、奇岩景勝地になっているの。最初は他に訪ね来る人も無く不安でしたが、この景観は真鶴の隠れた穴場かも知れないわね。いつ釣れるかも知れないタコを待ちながら釣り糸を垂れる方に出会えばこそ廃屋の正体が分かったわけで、鄭重に礼を述べてその場を後にしましたが、その後タコは釣れたのかしら?


通行禁止 ごめんなさい。紹介しておきながら恐縮ですが、現在は内袋観音への参道は御覧のように通行禁止になっているの。内袋観音を紹介したものが限られることから、真鶴に訪ね来てもその存在に気付かずに終えてしまうケースが殆どでしょうが、況して通行禁止では興味を持たれた方がいらっしゃったとしても辿り着けず、観音さまも岩窟の中で人々の記憶から消え去るのを待つのみになってしまうわね。立入禁止にされた理由は分かりませんが、残念ね。

27. 森林浴遊歩道 しんりんよくゆうほどう

入口 石の広場のT字路傍らに遊歩道への入口を示す案内板が立てられていますが、この遊歩道入口から岬一帯は神奈川県立真鶴半島自然公園に指定されているの。訪ねた時には「薬剤散布についてのお知らせ」の立看板が設置されていましたが、松喰い虫の被害から松林を守るために薬剤散布が行われるとのこと。魚付き保安林と呼ばれるように、豊かな緑が魚達を育む一方で、その緑を護るために海洋汚染に繋がる薬剤散布をせざるを得ない状況は環境問題の難しさの象徴ね。

真鶴半島の先端に位置する真鶴岬ですが、その1/4程が神奈川県立真鶴半島自然公園になり、魚付き保安林と呼ばれる原生林が広がっているの。その豊かな緑が魚達にも豊かな恵みを齎し、真鶴に住む方々のみならず、真鶴を訪ねるξ^_^ξ達も大いにその恩恵に浴していると云うわけ。その恵みを口にする前に、先ずは手始めに森林浴を楽しみながら日頃の運動不足解消に一汗掻いてみては?

余談ですが、牡蠣の養殖業者の方々が豊かな植物プランクトンと綺麗な水が海に流れ込むことを期待して山間に植樹を始めたことがTVで報道されていました。一度壊されてしまった自然を元に戻すには莫大な時間と労力が必要となり、壊すことで得た利益よりは遙かに大きな代償を払わされることになるの。でも、破壊されたその多くはコストの問題から再生されることも無く、再び開発の名を借りて新たに施設が造られることも多いの。真鶴岬でも御多分に洩れず、車の乗り入れを巡り、開発と自然保護の立場から論戦が繰り広げられているみたいね。

けれど、ξ^_^ξにはそんなことよりも道端に飲み終えた空き缶などを平気で投げ捨てて行く行楽客のマナーの悪さの方が問題に思えるわ。走り行く車の窓から何か飛んで来たので何かしらと見るとペットボトルだったりするの。ちょっと悲しい光景よね。家に持ち帰ること−何て云う積もりはありませんが、せめてゴミ箱を見つけて捨てて欲しいものよね。公衆道徳と云うことばも、今ではすっかり死語になりましたが、マナーと云うよりも義務ですよね。やたらに塵を捨てないと云うことは、ξ^_^ξ達にも出来る身近な自然保護ではないかしら。

石碑 入口から間も無くして左手の茂みにこの町有林記念碑が建ちますが、細かい文字で顕彰文がぎっしりと書かれ、オマケに刻まれた文字の溝に苔が侵入して何が書かれているのか読めないの。この手の記念碑は読んで貰うと云うよりも建てることに意義があるのでしょうが、歩道からは離れてあるので足を運ぶ方も少ないようで、石碑の方も傾いたままの放置状態。台座を修復する機会があるようでしたら入口に移設して、訪ね来る方々の目に触れて貰いましょうよ。

入口からは緩やかな上り道が続きますが、登りきったところで遊歩道は三方向に分かれるの。一つは灯明山を経て岬の北側に向かうコース。一般的なコースが御林遊歩道と名付けられた遊歩道で、真鶴ケープパレスへ向かうには最短コース。そして南側に延びているのが森林浴遊歩道で、番場浦遊歩道を経て潮騒遊歩道に通じているの。三ツ石へ向かうには最長コースとなりますが、真鶴岬の景観を思いっ切り堪能したい方にはお薦めのコースなの。勿論、ここではその欲張りコースを紹介してみますね。

出口 森林浴遊歩道の中程に神奈川の名木百選に指定される「真鶴半島のクロマツ」があるの。樹高が45mもある県内最大の巨木で、樹齢は350年余と伝えられ、クロマツは樹高45m・周囲10m・樹齢約800年に達するものもあると記されているの。と云うことは、既に垂直方向への生長を終えて後は横に伸びる段階に入ったわけで、ξ^_^ξと一緒ね。(^^; 仮に樹齢800年の天寿を全うすることが出来るとすると、あと450年は生きることになるわね。だとすると一年に1cmずつ太る計算ね。

上掲の写真は森林浴遊歩道の出口なの。ごまかしてゴメンナサイね。本当は「真鶴半島のクロマツ」の全景を収めたかったのですが、大きすぎて諦めました。ダイエットの必要性の無いクロマツが羨ましいわね。(^^;

28. 謎の建造物 なぞのけんぞうぶつ

廃墟 森林浴遊歩道の出口は車道に繋がりますが、カーブから勢い良く現れた車のクラクションに煽られて、思わず路肩に飛び退いた時に偶然見つけたのがこの廃墟なの。斜面に造られたコンクリート製の建物で、大戦中に造られた砲台跡かしら?と勝手に想像したのですが、その正体を知る手掛かりが残されていないかしら?と遊歩道めぐりを一時中断して探してみたの。と云っても、道端から覗き見ただけなのですが。(^^;

廃墟 生い茂る雑草に覆われて、建物の全貌を窺い知ることは出来ませんでしたが、草叢から少しだけ顔を覗かせていたのがこの石段なの。その草叢脇には駐車場のような平地がありましたが、入口には大きな石が置かれて侵入禁止状態。周囲には車止めも防護柵もありませんので、これでは崖下に転落する可能性もあるわね−などと思いながら見ていたのですが、実はその平地も建物の屋上だったの。恐らくは屋上に車を停めて階段で建物内に降りる形になっていたのでしょうね。

廃墟 雑草に覆われていましたが、それでも10台前後なら優に駐車出来そうな広さなの。と云うことは、建物もそれなりの大きさがあると云うことよね。オマケに、斜面に建てられていると云っても複数階からなるようですので、旅館のような宿泊施設だったのかも知れませんね。道を挟んだ反対側にも駐車スペースがありましたが、そちらは轍跡も新しいので、今でも車で訪ね来られた方々に利用されているみたいね。この日も何台か停められていましたが、こんな所に車を停めて皆さんどこへ行っちゃったの?

左掲はその建物屋上からの景観ですが、廃墟の上に立っているとは思えない美しさですよね。洋上に浮かぶのが初島で、右手に霞むのは伊豆半島ね。傍らには磯料理の看板を掲げたお店の建物が残されていましたが、ちょっと古いガイドブックでは旅館のマークになっているの。営業していた頃はこの建物の屋上を駐車場として利用していたのかしら。だとするとこの廃墟とも何か関係があるのかも知れませんが、それを知る手懸かりはここには無さそうね。

亀ヶ崎園跡 因みに、磯料理のお店の看板には亀ヶ崎園とありますが、観光案内所で頂戴した観光案内図には廃墟となった建物と共に、亀ヶ崎園の痕跡が残されているの。幾れも車道に面していますので、ケープパレスから真鶴駅までの帰り道にバスを利用する方であれば、誰でも目にすることが出来ますので、気になる方はお確かめ下さいね。但し、車窓からは一瞬の出来事ですので、左側に着座してその瞬間を待ちましょうね。(^^;

29. 番場浦遊歩道 ばんばうらゆうほどう

入口 遊歩道

思わぬ寄道をしてしまいましたが、森林浴遊歩道の出口の先にあるのが番場浦遊歩道への入口なの。この辺りから三ツ石のある三ツ石海岸までは番場浦海岸と呼ばれているのですが、残念ながら番場浦遊歩道は磯伝いの遊歩道ではなくて、松林の中を歩く遊歩道ですので、森林浴遊歩道の延長と思って頂いた方が良さそうね。その木立の切れ目からは時折三ツ石も見え隠れしますが、はやる心を抑えてもう少しの辛抱ね。補足ですが、掲載画像の三ツ石は望遠側で撮影しているの。実際にはこんなに近くには見えないの。(^^; 番場浦遊歩道を道なりに辿ると大きな駐車場に出ますが、車の出入り口近くに潮騒遊歩道への道標が立てられていますのでお見逃し無く。仮に見つからなくても道は直ぐに分かっちゃうけど。(笑)

30. 番場浦海岸 ばんばうらかいがん

海岸 その駐車場から番場浦海岸迄は80mで、更に三ツ石海岸までは420m程の距離。辺りの景勝が目を楽しませてくれる磯伝いの遊歩道ですので、是非歩いてみることをお薦めしますね。ξ^_^ξの一推しのお薦めスポットよ。さてと、普通なら番場浦海岸に降り立ったところで潮騒遊歩道を歩き始めるのが標準的なコースなのですが、右手に見える岬が気になり、三ツ石海岸に向かう前に、その岬の先端を目指して、先ずは番場浦海岸を歩いてみたの。

海岸 歩き出してから知ったことですが、この後に紹介する潮騒遊歩道とは違い、番場浦海岸は未整備と云うか、自然のままの海岸を歩くの。その海岸も砂浜では無くて、岩や小石からなる岩海岸ですので間違ってもヒールなんて履いて歩かないで下さいね。足が小石の間に沈み込むので気付かないかも知れませんが、なんか急に背が低くなったような気がする〜なんて感じた時には既に手遅れで、いつの間にかヒールの踵が無くなっているかも知れないわよ。

石切場跡 打ち寄せる波と戯れながら歩いていると、やがて小石も途切れて磯伝いの岩場の道になり、御覧のように石を切り出した痕が見えて来るの。小松石を切り出した磯丁場の跡ですが、かなり大きな石も切り出されたみたいね。ダイヤモンド・カッター何て無かった時代に、どんな道具を使用して切り出したのかしら。オマケに石を剥ぎ取るには裏側を切らなくてはダメよね。でも、どうやって削ったの?

龕 背後の岸壁にも石を切り出した痕が龕(がん)のように残されていましたが、不思議なのは間口よりも中の空洞の方が大きいの。と云うことは、入口の大きさよりも切り出した石の方が大きいと云うことよね。写真では分からないかも知れませんが、人の背丈は優に超えていて、石を削り出したなんてものではなくて、岩なの。さて、どうやって切り出したのかしら?あなたにはこの命題が分かりますか?エッ、ξ^_^ξですか、勿論、わかんな〜い。(^^;

海岸 この採石場跡の先はやはり行き止まりになり、磯では釣り糸を垂れる太公望の方々の姿も多く見受けられましたが、何が釣れるのか、はたまた釣果の程もξ^_^ξには分かりませんが、傍らの岩の上では釣果が無くて諦めたのか(笑)お昼寝モードの方もいらっしゃいました。この突端の裏側が先程紹介した水族館跡のある入り江に繋がっているみたいね。番場浦海岸のハズレに到達したところで三ツ石海岸に向かおうと踵を返したところで、地元の方と覚しき方が歩いて来られたの。失礼ながらかなりの高齢の女性の方と御見受けしたのですが、足の運びは健脚そのもので、ξ^_^ξが用心しながら歩いて来た岩伝いの道も、通い慣れた道のように颯爽と歩いていたの。

きっと健康のために普段からこの道を歩いているんだわ−何て思っていると、ξ^_^ξの傍らを通り過ぎたと思ったら、やおら、この岩山を登り始めたの。何をする気かしら?と呆気にとられていたのですが、そのまま山中に分け入ってしまったの。念の為に申し添えておきますが、普通の方でしたら手をつきながらでもない限りは登れない程の傾斜地で、おまけに道なんて当然無いの。登山経験者や探検家でも無い限りは絶対に引き返すようなシチュエーションよ。訪ねたのはお正月期間のことですから山菜採りの季節でもありませんし、勿論、きのこ狩りの時期でもないの。修験者の千日回峰行みたいな勢いがあり、あれよあれよと云う間に姿が木々の中に消えてしまいましたが、何をする方だったのかしら。

31. 潮騒遊歩道 しおさいゆうほどう

遊歩道 先程の振出位置に戻り、今度は真鶴岬先端の三ツ石を目指して潮騒遊歩道を歩きますが、こちらは整備されて歩き易い道になっているの。そうは云っても磯伝いの高低差のある道ですので、踵の高い靴ではちょっと危険ね。それに潮騒遊歩道の終端でもある三ツ石海岸では、番場浦海岸と同じように岩や石がゴロゴロしているの。殆どの方はケープパレスからの石段の往復で済まされているみたいだけど、三ツ石の異なる表情を見ながらの潮騒遊歩道の散策は素敵よ。その潮騒遊歩道の景観を纏めて紹介してみますね。

32. 三ツ石海岸 みついしかいがん

三ツ石 そして、真鶴を象徴する景勝地がこの三ツ石海岸なの。海岸から200m位の沖合いに三つの岩が突き出ていますが、その三ツ石に向かい、砂洲ならぬ岩洲が弧を描いて繋がり、干潮時には岩礁伝いに歩いていけると云うのですが。遠くから見る限りでは確かに歩いて行けそうな気もするのですが、間近に見ると結構波が荒いの。大潮を待たなければ難しいような気もするのですが、どうかしら。どなたか実際に歩いてみた方はいらっしゃいます?

自然はやはり偉大な芸術家ですよね。三ツ石の造形美には観る者を魅きつける特別な力があるわね。その三ツ石には注連縄も張られて小さな社が祀られているの。貴船神社の縁起譚でも紹介しましたが、不思議な光が海面を照らしていたのがこの三ツ石で、古くはその姿形が笠に似ることから笠島と呼ばれていたのだとか。古の人々は海面に浮かび上がる奇岩に美しさを認め、そこに神の存在を感じていたのかも知れないわね。

この景観を見せられたξ^_^ξは思わず【記紀】に描かれる「因幡の白兎」神話を連想してしまいました。白兎神話では兎はワニの背を渡り陸地側に降り立ちますが、そのワニと云うのが実は鮫のことなの。地元・真鶴では三ツ石沖の沈鐘伝説の昔話が伝えられ、何と、そこでは物語の中に鮫が登場するのですが、不思議な一致ね。その沈鐘伝説が気になるあなたに、いつものように脚色してお届けしてみますね。(^^;

むか〜し昔のことじゃ。それまで片田舎じゃった鎌倉に幕府が置かれると沢山の寺が建てられるようになってのお。寺を建てる宮大工は隣の国からやって来たようじゃが、鐘楼に吊るす梵鐘の鋳物師達は都に多くおったみたいじゃのお。そんなある日のことじゃった。都で造った梵鐘を積み込んで鎌倉に運ぶ船があってのお、そん船には大小合わせて三つもの釣鐘が積み込まれておったそうじゃ。

そん船がこの三ツ石沖まで来た時のことじゃ。それまで気持ちよう海面を滑っておった船が急にピタリと停まってしまってのお。じゃからと云って、風が凪いでしまった訳でも無くてのお、不思議に思うた船頭が船べりを覗きこむと、そこには大きな鮫が親子で泳ぎ廻っておったそうじゃ。しばらくは強い風が吹かぬかと風待ちしてみたんじゃが、一向にその気配が無くてのお。仕方なく積荷の中でも一番大きな釣鐘を海に投げ捨てることにしたそうじゃ。力を合わせてようやく船べりから海中に落したんじゃが、釣鐘は近くを泳いでおった親鮫を呑み込むようにして海底に沈んでいったそうじゃ。

そうしてそん釣鐘がすっかり見えなくなった時のことじゃ。それまでビクともせんかった船がようやく走り出したそうじゃ。荷がかちすぎておったのじゃと皆して喜んだのじゃが、しばらくするとまたピタリと停まってしもうてのお。再び船べりを覗き込んでみたんじゃが、浅瀬に乗り上げたわけでもなくてのお、船ん周りでは子供の鮫が泳ぎ廻っておったそうじゃ。

不思議な出来事が二度も続いたんで、皆、海神の祟りかもしれんと顔をひきつらせておった。それこそこんな沖合いでウロウロしていたら、その内、船ごと海ん中へ引きずり込まれるかも知んねえ、さっさと陸に上がんべえ〜と、今度は二番目に大きな釣鐘を海に投げ入れたんじゃと。そうして、その釣鐘が沈むゆくのを皆して手を合わせて拝んだそうじゃ。どうか海神さま、命だけはお助け下せえまし−と。その願いを聞き届けて下さったのかどうかは分からんが、底から浮かび上がる沫が消えると、ようやく船が動き出したのじゃ。

すっかり青ざめてしまった連中じゃったが、必死に艫を漕いでやっとの思いで真鶴の湊に辿り着いたのじゃ。そうして残された釣鐘は湊の近くの寺に奉納したと云うことじゃ。そん後は行き来する船が停められることも無くなったと云うこっだで、三ツ石のある辺りには海神が潜んでおったのかも知れんのお。じゃがのお、それからと云うもの、三ツ石のある辺りを船が通ると、海の底からはゴ〜ンゴ〜ンと鐘の音が聞こえてくるそうじゃ。何でも最初の大きな釣鐘に閉じ込められた親鮫を慕う子鮫が、今でも頻りに鐘を叩いておると云うことじゃ。

紹介した沈鐘伝説ですが、敢えて鮫を登場させる必然性が無いような気もしますね。二つの釣鐘を海神に奉じたところ海難から救われたの、めでたしめでたし−だけでも決しておかしくはないわよね。にも関わらず、鮫を登場させたのは何か意図するものがあるのかも知れないわね。この沈鐘伝説に限らず、房総に逃れる頼朝に提供された舟を鮫追船と欺くなど、真鶴と鮫は深〜いところで繋がっているみたいね。

岩海岸のところでも触れましたが、その鮫も実は鯨のことではないかしら。
鮫の親子を母鯨と子鯨に置き換えてみると、三ツ石の沈鐘伝説が急にもの悲しい響きを帯びてくるの。

ウメボシイソギンチャク 磯 テングサ ワカメ

三ツ石海岸を後にして石段を登りケープパレスに向かいましたが、途中に立てられていたのがウメボシイソギンチャクの案内板なの。触手を縮めた姿形や色が紫蘇漬の梅干に似ることから命名されたイソギンチャクで、真鶴半島の海岸に多く生息し、神奈川県の天然記念物にも指定されていると記されていたの。真鶴半島に於てウメボシイソギンチャクを許可無く採取することは固く禁止されています−ともありましたが、採取云々以前の問題としてその存在さえ知らずにいたの。先に云って欲しいわよねえ、知っていたら波打ち際を覗く目線も変わっていたかも知れないのに〜と云ってみたところで After The Carnival。普通とは逆に歩いているのですから仕方無いわね。この頁をお読み頂いた方は波打ち際の岩に御注意下さいね。貴重なウメボシイソギンチャクが見られる・・・かも。因みに、右側は石段途中にある喫茶店兼お土産屋さんの店先に干されていたテングサとワカメ。と云うことは、三ツ石海岸で採れると云うことよね。う〜ん、波打ち際の岩場では見掛けませんでしたね。潜らないとダメかも知れないわね。

33. 台場遺跡 だいばいせき

石段を登り切るとあるのがこの台場遺跡で、台場とは砲台の台座部分のことね。ペリーの浦賀来航以来、日本近海には外国船が出没するようになり、その脅威に幕府は外国船打払令を発布して対抗しますが、それに呼応して小田原藩でも五ヶ所に砲台を設置して備えたの。その内の一つがこの真鶴岬なの。砲台と云っても、当時のそれは36m×30m余もある巨大なもので、ケープパレスの建物脇は今でこそベンチなども置かれた休憩広場になっていますが、当時はその広場全域が台座だったわけ。

今となっては縦横1mにも満たない石が砲台の名残りを今に伝えますが、それと気付かぬ方々がテーブル代わりに石の上でお弁当を広げていました。アルコールも入っているようで、盛り上がりの最中に写真に収めたいのでどいてよ〜とも云えず、なのでこの台場遺跡のこの石を撮影するのに、実は二日掛かりなの。柵で囲うと云うのも味気無い話しですし、お弁当を広げる楽しみも分かりますが、傍らに立つ案内板にも気付いて欲しいものね。尤も、確信犯 (^^; ならお手上げだけど。

相模灘 相模灘 その台座石の右手からは御覧のように雄大な相模灘を望むことが出来るの。正面に見えるのが伊豆半島で、右手から天城山、大室山、小室山と続き、その更に左手で洋上に浮かぶ島が初島ね。お天気次第ではその初島の後方に大島の島陰も見えると云うのですが、残念ながら未体験で終えているの。因みに、初島までは12kmで、大島までは50kmだそうよ。

34. 真鶴ケープパレス まなづるけーぷぱれす

ケープ真鶴 真鶴半島を巡る路線バスの終点がこの真鶴ケープパレスなの。館内にはレストランやお土産屋さんがあるのですが、こちらもサボテンランドと同じように小田急グループの運営と云うことで、平成16年(2004)5月を以て撤退してしまったの。ですが、幸いなことに現在は真鶴町が小田急に代わり、営業を再開しているの。名称はケープ真鶴に変わりましたが、サービス内容には大きな変更は無さそうよ。

ケープ真鶴 ケープ真鶴にはお土産屋さんも複数のテナントが入り、品数も充実しているの。勿論、宅配便もOKですので、日頃のストレスを買物で発散したい方 (^^; は心置きなくお買い物をお楽しみ下さいね。ところで、以前訪ねた際には建物の入口付近には広告の裏を利用した簡素なものでしたが、バスの時刻表のコピーが置かれて自由に持っていけるようになっていたの。バスを利用して訪ね来た方々には嬉しいサービスでしたが、無くなってしまったみたいね。


最初の頁でも触れましたが、遠藤貝類博物館の館長だった遠藤晴雄さんが亡くなられ、平成19年(2007)に喜美子夫人から収蔵されていた貝の標本約4,500種、50,000点余が寄贈されたのを受けて、真鶴町では平成22年(2010)にケープ真鶴内に新たに真鶴町立遠藤貝類博物館をオープンさせたの。真鶴岬にお出掛けの際には是非、御来館下さいね。

35. 遊覧船乗場 ゆうらんせんのりば

遊覧船 真鶴半島を歩き終えたところで改めて海側から眺めてみたいわ−と最後に遊覧船に乗船してみることにしたの。キャッチコピーに「少しだけ海物語」とあるように、豊かな緑に覆われた真鶴半島を海側から眺めて過ごす30分の船旅よ。中でも楽しみなのが三ツ石への接近遭遇なの。干潮時には渡ることも出来ると云う三ツ石ですが、普通では無理よね。それが遊覧船なら三ツ石を目の前にすることが出来るのですから、乗船しない手はないわよね。運航ダイヤなど、詳しい情報は 真鶴半島遊覧船 を御参照の上でお出掛け下さいね。

遊覧船 遊覧船 遊覧船 遊覧船

真鶴港の内湾から外海に出た遊覧船はスピードをあげて真鶴岬沖へと向かいますが、その真鶴岬も見る位置次第では御覧のように島にも見え、豊かな緑に覆われているのが良く分かるの。やがて波を蹴散らして進む前方に小さな岩山が海面に浮かぶようにして見えて来ますが、勿論、お目当ての三ツ石ね。

波が穏やかな日には最接近して下さいますが、どれだけ近づけるかはその時の波のうねり次第。三ツ石海岸から眺めた三ツ石は優雅な形に見えますが、間近で見る三ツ石には迫力がありますね。注連縄が張られていますが、片方の大岩の上には小さな鳥居と祠が建てられているの。接近遭遇の際に探してみて下さいね。

36. 磯料理・いずみ いそりょうり・いずみ

舟盛 遊覧船の乗船を終えたところで真鶴散策も全て終了ですが、折角真鶴に来たのだからと帰路に就く前に海の幸を堪能することにしました。真鶴魚市場のある魚座は遊覧船乗場の直ぐ隣に位置しますが、その魚座に道を隔てて店を構えているのがこの 磯料理・いずみ なの。新鮮で美味しいお魚が食べられるお店が数多くある真鶴ですが、その中でも「いずみ」は市場が目の前と云う好立地条件。お店の方がおっしゃるには、相模湾は「いずみ」の生け簀なのだそうよ。(^^;

伊勢えび 「いずみ」では宿泊することも出来ますので、足場を固めて真鶴を徹底的に見て歩くことも出来るの。気になる料理とお値段などはHPを御参照下さいね。因みに、上の舟盛は当時一人¥5,000のコースで、3人分の盛り合わせ内容になっているの。これに小鉢などを含めると10品余となるので昼食時には薦められないわね。だって、お腹がいっぱいになり、歩くのがイヤになっちゃう。(^^; 美味しい真鶴の海の幸を堪能したところで、目の前の魚市場前BSからバスに乗車して帰路に就きました。


石橋山の合戦に敗れて椙山に逃れた源頼朝は、真鶴の岩海岸から房総に向けて舟を漕ぎ出しているの。その史実を踏まえて鎌倉歴史散策の番外編の積もりで訪ね歩いた真鶴ですが、人々の営みの中で醸成された貴重な歴史遺産にめぐり遭うこともできました。気が付けば歴史浪漫あり、自然ありと統一性の無い記述になってしまいましたが、御容赦下さいね。豊かな自然と海の幸が堪能出来る真鶴は週末のちょっとした小旅行にもお薦めよ。今度の週末にでもぶらりと出掛けてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
岩波書店刊 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
雄山閣出版社刊 大日本地誌大系 新編相模国風土記稿 第一巻〜第六巻
雄山閣出版社刊 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
講談社刊 山本幸司著 頼朝の精神史
新人物往来社刊 新定源平盛衰記 第一巻〜第六巻
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
東京堂出版社刊 大野達之助編 日本仏教史辞典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
塙書房社刊 速水侑著 観音信仰
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
淡光社刊 山田宗睦・井上青龍著 道の神
小学館刊 稲垣泰一著 となりの神様仏様
昭文社刊 上撰の旅12 箱根






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