≡☆ 鎌倉歴史散策番外編−真鶴 ☆≡
 

史蹟と豊かな自然に恵まれた真鶴には見処も多く、一日だけではとてもその全てを訪ね歩くことは出来ず、再訪するまでにかなり間が空いてしまい、時期を違えた渾然一体での紹介となっているの。尚、本編は鎌倉歴史散策番外編−湯河原の姉妹編となり、史蹟の御案内に際してはその湯河原編をお読み頂いているものとして記述していますので、併せて御了承下さいね。

謠坂〜遠藤貝類博物館〜兒子神社〜瀧門寺〜民俗資料館〜如来寺跡〜岩海岸〜鵐の窟

1. JR真鶴駅 まなづるえき

駅前はバスやタクシー乗場となっていますが、そのロータリーの中央にある植え込みの中に置かれていたのがこの巨大な鉄鍋なの。真鶴の岩海岸から船出した頼朝一行ですが、実はすんなりと房総半島に辿り着いた訳では無くて、風に煽られて、何と!敵方の大庭景親の軍勢が陣を張る背後の海岸に流されてしまったの。けれど、幸いなことに土肥実平の領地内でしたので、下船した実平は食糧の調達に走り回ったの。【源平盛衰記】には

實平は 此の邊りは家人ならぬ者なし 酒肴尋ね進らせんとて 船より飛び下りて 片手矢はげて走り廻り 我が君 此の浦に著き給へり 實平に志あらん者は 酒肴進らすべし とののしり云ひければ 或ひは 瓶子口裹み 或ひは 桶に入れて 我も我もと船に酒肴を運びたり 船の中暗しといへども 敵の大場が篝の火の光にて 佐殿 酒を呑み給へり

と記されるように、浦人達が頼朝一行を饗応したの。中でも伊右衛門が供した食事は殊の外美味だったと見えて、頼朝は伊右衛門には醍醐味を掛けて五味の姓を下賜しているの。他にも世話をした二人に青木と御守の姓を与えたと伝えられ、その三つを以て真鶴三苗字とも呼ばれているの。この巨大な鍋はその逸話に因んで行われるイベント開催時に使用されるもので、参加者に振る舞われる究極の鍋料理が旗挙げ鍋と云うわけ。真鶴の山海の美味を凝縮した鍋料理で、お椀にして16,000杯分!と云うのですから凄まじい量よね。

駅を離れる前に観光協会駅前案内所で「真鶴さんぽ」を頂戴して下さいね。
真鶴を観て歩くには必携のガイドマップ。お出掛け前の下調べなら下記のサイトがお薦めよ。

真鶴町公式HP
云わずと知れた真鶴の総元締め。(^^;
真鶴旅行
真鶴町観光協会の運営。食事処や宿泊情報はお任せね。
真鶴ナビ
地元在住のkazuさんが運営されるサイト。必読よ。

2. 真鶴町々役場 まなづるちょうまちやくば

真鶴町々役場 駅前から続くなだらかな坂道を下ると見えてくるのがこの町役場。こんな云い方をしては失礼かと思いますが、真鶴町は決して大きいとは云えない町で、観光事業の予算も限られているのでしょうが、その割りには頑張っているのではないかしら。最近では観光産業の一翼を担っていた小田急グループが真鶴から撤退するなど、環境的には難しい舵取りを要求されるようになってしまったみたいですが、ξ^_^ξのような能天気な旅人が散策を楽しめるのも真鶴町々役場の皆さんのお蔭ね。

3. 大下の道祖神 おおしたのどうそじん

役場前を過ぎるとこの石段の登り口が見えて来ますが、左手に建つのが石工祖先の碑への道を示す石標で、右手に祀られているのは道祖神なの。道祖神は道行く人々を守ると共に村境に立って悪霊の侵入を防ぐ塞(さえ)の神として祀られているのですが、塞は「塞(ふさ)ぐ」で砦の意味もあり、悪霊・悪鬼はこの村には絶対に入らせないわよ!と云うことなの。真鶴町には他にも多くの道祖神が残され、全部で11ヶ所あまり。その全てを見て廻るとなるとちょっと大変ね。

ねえねえ、真鶴にはそんなに多くの村があったの?そうじゃ無いわ。当時は村と云っても相模では更に庭と呼ばれる単位に分かれていたの。庭と聞くとガーデンの意味に受け取られてしまうかも知れないけど、ここでは地縁的な結合集団を指すことばなの。簡単に云えばお隣さん同志が纏まって出来た隣組と云ったところね。相模の道祖神は庭単位で建てられ、その多くが酒匂川流域に残されているんだけど、真鶴も同じく相模よね。

4. 石工先祖の碑 せっこうせんぞのひ

石碑 平安末期から鎌倉時代初期に掛けてこの地で石材業を始めた土屋格衛は、石工元祖とも云うべき存在の人物。一方、江戸城築城に際してその採石の任に当たる黒田長政の下で、岩村小松山に採石場を開拓した七人の石工達。彼等の功績を賛え、江戸末期にこの供養碑が再建されたの。因みに、現在の小松山は真鶴町に属しますが、当時は岩村で、真鶴村と岩村が合併して現在の真鶴町になったのはかなり後のことね。道祖神の祀られる登り口からこの石工先祖の碑に続く道は、専祖畑道と呼ばれた古道の名残りを今に伝えているの。道幅の狭いものですが、当時は小松山から切り出した石を真鶴湊へと運ぶ路で、岩村の地域経済を支える重要産業道路だったの。

5. 謠坂 うたいざか

バス通りに戻り、しばらく歩くと見えてくるのがこの謠坂の碑なの。椙山(すぎやま)山中から真鶴に逃れ来た頼朝一行ですが、土肥実平が振り返って見ると自分の家屋敷のみならず、領地のあちらこちらから焔と煙が立ち昇っていたの。その燃え上がる火の手を見やりながら再起を願い、実平は頼朝の前で舞を演じて見せたと云われ、付近の謡坂と云う地名はその逸話に由来するの。じゃあ、実平は何と謡いながら舞ったのよ−と云うことで、【源平盛衰記】の記述を紹介してみますね。

土肥に三つの光あり
第一には八幡大菩薩 我が君を守り給ふ和光の光と覺えたり
第二には我が君平家を討ち亡ぼし 一天四海を照し給ふ光なり
第三には實平より始めて君に志ある人々の 御恩によりて子孫繁昌の光なり
嬉しや水 水 鳴るは瀧の水 悦び開けて照らしたる土肥の光の貴さよ
我が家は何度も燒けば燒け 君だに世に立ち給はば 土肥の杉山廣ければ 緑の梢 よも盡きじ
伐りかへ伐りかへ造らんに 更に嘆きにあらじかし 君を始めて萬歳樂 我等も共に萬歳樂

6. 下の道祖神 したのどうそじん

謡坂の碑から大きく弧を描くようにして曲がる坂道を下りますが、その途中にある料亭「岩忠」さんの石垣を刳り貫いたようにして残されていたのがこの道祖神。石碑に記された案内文には「天保15年(1844)の銘を持ち、部落安全・安産祈願・行疫厄除・大漁祈願・縁結び等など諸々の願いを叶えて下さる神さまとして祀られ今日に至る」とあるの。ここでは塞の神としての性格に留まらず、全知全能の神さま仏さまとして大忙しで、まさに庶民の味方ね。左掲はお正月の三が日に出掛けた時のものですので、新年を迎えるに当たりお色直しをして貰い、お正月だから特別なんじゃないの−と思っていたのですが、下の画像に御注目下さいね。

こちらは替わって5月の連休の一日を使い訪ねた時のものですが、お掃除もされていて樒も新しく、涎掛も替えられていたの。先に紹介した大下の道祖神でも新しいお花が供えられるなど、真鶴では今でも大切に祀られている証ね。その道祖神が祀られる位置からは御覧のように岩海岸が一望出来ますが、謡坂を下り切るとその砂浜が目の前に広がるの。早速その紹介をしたいところですが、岩地区には他にも多くの史蹟や見処があるので、そちらを先に御案内してみますね。

岩海岸

7. 遠藤貝類博物館 えんどうかいるいはくぶつかん


追記:訪ねた時にはお元気な姿を見せて下さった館長の遠藤晴雄さんですが、残念ながら平成18年(2006)に亡くなられてしまったの。But 記述は訪時のままとしていますので御了承下さいね。

遠藤貝類博物館

最初に訪ねたのがこの遠藤貝類博物館ですが、見学する前は建物も小さく、左程の内容は期待出来そうにもないわね−と勝手に決めつけていたの。加えて開館時間は10時とあるのに扉は閉まったまま。尤も、時計の針は未だAM10:00を5分程過ぎたばかりでしたが、休館日とあるわけでもありませんでしたので、声を掛けてみようと別の入口を探してみたの。そうして博物館横に小さなお土産屋さんのような店先を見つけて声を掛けてみたところ、お出でまし頂いたのが喜美子夫人だったの。とは云え、何の予備知識も持たずに飛び込んだ訳で、貝のことは無論、博物館のことも館長のことも知らずにいたの。

喜美子夫人にしても、存じあげていた訳ではなくて最初は博物館の職員の方かと思っていたの。そうして展示物の説明を受けている内に、主人が、主人が−と、ことばの端々に出て来て少しずつ状況が見えて来たと云う訳。感心しながら案内を聞いていると、いつの間にか御齢を召した男性の方が現れて、肩越しに展示物の解説を始められて。それが館長の遠藤晴雄さんでした。
入館料:¥300 休館日:毎週水曜日 年末年始

貝殻 御歳90歳とお伺いしましたがその探求心は衰えを知らず、5,000種に及ぶ標本があると云う2Fの研究室で現在も研究中とのこと。その経歴を知ると容易には近づけない方で、第一級の研究者でありながら素人にも易しい語り口なの。この博物館も私財を投じてのもので、恩師の研究成果を惜しんだ同氏は私費1,500万円を投じて貝類図鑑を出版すると各地の博物館に寄贈するなど、全財産を貝類研究の発展に注ぎ込んで来たの。中でも遠藤氏のこだわりが、貝の中でも生きた化石と呼ばれるオキナエビス。全世界で27種類しかいないと云う中で、26種類もの標本が同館にあるの。

世界広しと雖もこれだけのものが一堂に会する博物館は無く、何億いや何10億円にも相当するそうよ。それも全て私財を投じて蒐集したと云うのですからスゴイ方ですね。遠藤晴雄さんのことを紹介したHPがないものかしら?と探してみたところ コスモ石油 で見つけたの。リンク切れとなる可能性がありますが、社会貢献&メセナ活動 》》 発行物 》》 DAGIAN と辿ってみて下さいね。貝の特集記事の中でインタビューを中心に「オキナエビス物語」が紹介されているの。  ※ごめんなさい、残念ながら当該記事は削除されてしまったの。※

貝殻 下世話で恐縮ですが、私財をなげうっての蒐集は家計的にはさぞ大変だったでしょうね−と感想を述べると、喜美子夫人は「今でこそ駅前にお店も出来て便利になりましたけど当時はこの辺りにはうち以外にお店も無くて、そのお蔭でどうにか食べることが出来たの。最初の頃は土地も多く持っていて資産家だと聞いていたんですがねえ〜、気がついたら何にも無いの」と笑ってらっしゃいました。そこには喜美子夫人の懐の深さがしのばれて。

まてりあるびーいんぐ 掲載した貝殻の画像は まてりあるびーいんぐ 様からお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・

団体見学者に限り、希望で展示品の解説をして下さる旨が入口に記されていましたが、この時は思いもよらずお話しをお伺いすることが出来ました。お蔭で目から鱗が何度剥げ落ちたことか。加えてお二人のお人柄でしょうか、話しにつられて小一時間程過越してしまいました。必ずしも解説が受けられると云う訳ではないのかも知れませんが、幸運に巡り遭えた暁には、じっくりとお話しをお伺いして下さいね。

余談ですが、相模湾の沿岸で蒐集されたサクラ貝が数多く展示されるコーナーがあり、土屋花情作詞、八洲秀章作曲の「さくら貝の歌」が紹介されていたの。気になり調べてみたところ、昭和24年(1949)のNHKラジオの歌謡番組を通して多くの人々に知られるようになった由。作曲者の名に八洲秀章とありますが、歌詞には若くしてこの世を去った恋人・八重子さんへの想いが托されていたの。

美わしき さくら貝ひとつ 去りゆける 君に捧げん
この貝は 去年(こぞ)の浜辺に われひとり 拾いし貝よ

ほのぼのと うす紅染むるは わが燃ゆる さみし血潮よ
はろばろと 通う香りは 君恋うる 胸のさざなみ

ああ なれど 我が想いは 儚く うつし世の 渚に果てぬ

この曲が作られたのは山田耕筰の編曲を経て発表される、更に10年も前のことなの。八洲秀章こと、本名・鈴木義光は肺結核から18歳の若さで生涯を終えた恋人・八重子さんへの想いを短歌にしたためているの。

わが恋のごとく 悲しやさくら貝 片ひらのみの さみしくありて

当時の八洲秀章氏は鎌倉の由比ヶ浜近くに住み、その砂浜も能登の増穂浦海岸状態だったのかも知れませんね。その短歌をベースにして上記の歌詞に纏めあげたのが彼の友人でもあった土屋花情氏。その歌詞に作曲家を目指していた八洲秀章氏がメロディーを付けて出来たのがこのさくら貝の歌なの。と云っても、当時は未だ鈴木義光の名で、八洲秀章のペンネームを名乗るのは後のことね。因みに、八洲の八は八重子さんの八、秀章の秀は八重子さんの戒名の誓願院釈秀満大姉から一字を貰い受けたものと云われているの。氏にはさくら貝の艶やかでいて可憐な印象は、八重子さんそのものだったのでしょうね。余談とするにはちょっと長すぎましたね、ゴメンナサイ。


冒頭にお知らせしましたが、訪時にはお元気な姿を見せて下さった遠藤晴雄さんですが、残念ながら平成18年(2006)に亡くなられてしまったの。その後、平成19年(2007)に喜美子夫人から貝の標本約4,500種、50、000点余が寄贈されたのを受けて、真鶴町では平成22年(2010)に「ケープ真鶴」内に新たに町立遠藤貝類博物館をオープンさせたの。展示された資料を前にして、気さくな遠藤さんのお話が今となってはもう聞けなくなってしまったのは残念極まりないことなのですが、展示される資料の一つ一つが遠藤さんの生きた証でもあるの。是非、お訪ねになってみて下さいね。末筆乍ら、遠藤さんの御冥福を心よりお祈り申し上げます。

8. 兒子神社 ちごじんじゃ

兒子神社 バス通りを離れて山側の道を歩くと民家脇に大きな鳥居が建ちますが、これと云って標識があるわけではありませんので、左手に注意しながら歩いて下さいね。その鳥居から長い参道が続きますが、境内の最奥部に鎮座するのがこの社殿。明治26年(1893)の被災を経て昭和8年(1933)に改築されたものと聞きますが、更に新しく見えることから近年に再び修復されたものなのでしょうね。
拝観料:境内自由 お賽銭:志納

石碑に記される縁起では、延喜年間(901-922)の創建と伝えられるも天保年間(1830-1844)の火災で社殿を焼失、その際に古記録等も悉く灰塵に帰したとされているの。なので定かでは無いのですが、惟喬(これたか)親王の御子が今は亡き父の姿を慕い、僅かに二歳になったばかりの若君を連れてこの地に立ち寄ったところ、その若宮が病に倒れて夭折してしまい、父の御霊と共にこの地に祀ったことに始まると伝えられているの。兒子は稚児のことで、勿論ここでは御子神の若君のことね。
文徳天皇 》》 惟喬親王 》》 御子神 》》 若君

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子でしたから、本来なら順当な皇位継承者だったのですが、母を紀氏としていたことから当時の権力者・藤原良房の策謀に負けてしまうの。全盛期を迎えた藤原氏の決定には天皇と雖も逆らうことは出来ず、摂政関白の地位にいた良房は、娘の明子と文徳天皇の間に出来た第四皇子の惟仁親王を皇位継承者としてしまうの。それが清和天皇で、後の清和源氏へと繋がると云うわけね。皇位継承に敗れた惟喬親王は都を離れると、比叡山々麓の小野の里に隠棲し、後に剃髪出家しているの。碑文には「御子神は親王の御後を慕い」とあることから、惟喬親王もまた嘗てこの地を訪ね来たことがあるような印象を受けますが、確率はかなり低いのではないかしら。

出家する前には上野国太守になっていますが、上野国は上総国や常陸国と共に親王専用の任地で、長官職である守(かみ)は守でも太守(たいしゅ)と呼ばれていたの。守は、乱暴な云い方をすれば、現在の県知事クラスに当たる役職。太は尊称ですから内容的には守と同じなのですが、皇族の親王が臣下の役職名と同じではあんべえ悪りいわな〜と云うことで太守ね。勿論、皇族ですから自ら任地に赴くことは無く、俸給として親王の生活を支えてくれればそれで充分だったの。真偽はさておき、惟喬親王がこの地を訪ね来たことがあると仮定して物語を続けると・・・

親王の御子は今は亡き父の面影をこの旅路に見ていたのかも知れないわね。僅かに従者二人を伴うだけの此度の旅は、嘗て親王に連れられて来た時のことを思い出さずにはいられず、事情を知らずに無邪気に遊ぶ若君の姿は嘗ての己が姿でもあり。その若君が突然流行り病に倒れて幼い命を失ってしまったの。藤原氏からの排斥を受けて恵まれぬままに小野の里に没した父と、今また血の繋がる幼い若君を失い、御子は天涯孤独の人となってしまったの。惟喬親王と御子は順当であれば両者共に天皇となるはずで、おそらくは若君もまた然りだったのでしょうね。報われぬ魂は崇められなければならず、兒子神社もまた鎮魂のお社とされたのではないかしら。現在は岩地区の鎮守さまとなっていますが、その由来から嘗ては子供達の流行り病に霊験灼かとされていたの。その若君もいつのまにかどこかへ飛ばされてしまったみたいね。

一方、【新編相模国風土記稿】では土肥実平の外孫・萬寿冠者の霊を祀るとしているの。頼朝一行の後を追い、この岩海岸に辿り着いた萬寿冠者ですが、既に船出した後で祖父・実平の姿はそこには無かったの。捨て置かれたと知った萬寿冠者は涕泣すると自刃して果てたと云われ、亡骸は岩松山光西寺(現在は廃寺)に葬られ、その霊がこの地に祀られたと記しているの。敵味方に別れて戦う土肥実平と伊東祐親ですが、一族は縁戚関係にあり、萬寿冠者からすると実平も祐親も共にお祖父ちゃんだったの。

弥太郎こと土肥遠平が、萬寿冠者の到着を待ってから出帆するように薦めるのですが、父・実平はその遠平を祐親側に寝返ったものとばかりに「馘打ち切り給へ」と岡崎義実に依頼するの。義実が執り為して取り敢えずその場を収めたのですが、実平に云わせると「伊東祐親の娘婿となったお前は土肥家を捨てて今また萬寿冠者をダシにして祐親の到着するのを密かに待つ算段じゃろうて。主君を裏切り、大恩ある親を敵方に売り飛ばすとはとんでもねえ野郎だ」と云うわけ。【源平盛衰記】のことばを借りると「親も子もなき作法なり」の状態ね。

【盛衰記】には引き続き、四五町ばかり漕ぎ出して浦の方を顧みれば 萬壽冠者を始めとして 伊藤入道五十餘騎の勢にて馳せ来たる あれあれとぞ呼ばはりける 後には大場三郎千餘騎ばかりにて連なりたり−と記されているの。その後、舞台は船上に移り、残された人々のことには触れられていませんが、状況から察すると萬壽冠者は人質状態だったのかも知れないわね。祐親は海上に去り行く頼朝一行を見届けると、人質としての役目を終えた幼い萬壽冠者に刃を向けた−とするのは考え過ぎかしら。

と云うことで、【風土記稿】が編纂された頃は萬壽冠者を祀るお社と見做されていたわけで、それがいつから惟喬親王と御子神に摺り替わってしまったのかしら。ここからはξ^_^ξの想像ですが、明治期の宗教政策を受けて祭神が替えられたのではないかしら。廃仏毀釈で神仏混淆が解かれると神道系の祭神に姿を変えた神宮寺も多く、その神道も明治天皇を擁護する宗教基盤としてシフトさせられているの。兒子は稚児でも惟喬親王の御子神の若君の方がよかんべえ、ならいっそのこと惟喬親王と御子神を祭神にすべえ−と云うわけ。ちょっと話の展開に無理があり、説得力に欠けるかしら?

ここでは憶測を含めて記述していますので呉々も鵜呑みにしないで下さいね。
他にも若宮信仰との類似性が見られるなど、早い話しが分からないの。

境内の一角に置かれていたのがこのさざれ石。「君が代」にも詠われることから何かと論議を醸すさざれ石ですが、学名は石灰質角礫岩と云い、石灰岩が長い年月を経て二酸化炭素を含んだ雨水で溶解される際に稀に強い乳状液を生成し、周囲の小石を凝結して巨岩化したものなの。産出地は岐阜県揖斐郡春日村のみと思っていたのですが、兒子神社のさざれ石は北海道の沙流川流域で産出したものと案内されていました。素人目にも岐阜県産のものとはちょっと違うみたいね。

マガタマの木 大銀杏の傍で負けず劣らず葉を茂らせていたのがこの「招霊の木」なの。モクレン科オガタマノキ属で、オガタマノキとするのが学術的には正しいみたいですが、神社では専ら「招霊の木」ね。説明には昭和62年(1987)に九州の天岩戸神社に参拝した際に苗木を分けて貰い植樹したもの−とありました。ここでは招霊を「まがたま」と訓ませていますが、オガタマノキのオガタマは漢字で書くと招霊となり、招魂=おきたま が転訛したものとも云われているの。天岩戸神社?招霊の木?と云うことで この〜木何の木、気になる木ですから〜と某社のCM状態ですが、続けて案内文を読んだξ^_^ξは 見たこともない〜実がなるでしょうお〜になってしまいました。その説明文を皆さんにも紹介してみますね。

天細女命(あめのうずめのみこと)天岩戸の前に神楽を奏し給う時
其の枝を持ち 舞はせ給へる神楽鈴の起源であると伝え 鈴様の実を結ぶ

読んだだけでは何のこっちゃ?ですよね。天の岩戸神話は皆さんも御存知かと思いますが、弟神・素戔鳴尊の度重なる悪さに耐えきれず、遂に天照大神は岩戸にお隠れになってしまったの。すると、たちどころに全ては闇に覆われてしまったからさあ大変。八百万の神々が群集して善後策を講ずるのですが、一計を案じて岩戸の前で舞を演じたのが天鈿女命なの。その時に命が手にしていたのが緋い実を沢山付けた、このオガタマノキなの。試してみた訳ではありませんが、花が咲いた後に緋い実をつけ、乾くとマラカスのようにシャラシャラと音がするそうな。今では神前には榊が普通ですが、オガタマノキも神聖なものとして供えられていたの。天鈿女命はマラカス状態になったオガタマノキを振りながらダンスをしたと云うわけね。ちゃんとお立ち台もあったのよ。

ちょっと茶化してしまいましたが、天鈿女命の舞は神楽の原型とも云われ、オガタマノキの実は神楽鈴の起源にもなったと伝えられているの。と云っても神話の世界でのお話しですが。因みに、神社で巫女さんが鈴を鳴らしていたらそれは招霊で、神さまをお呼びしていると云うわけ。その光景に出会えたら天鈿女命のことと共に、このオガタマノキのことも思い出してみて下さいね。

CoffeeBreak 【日本書紀】では天鈿女命の舞う姿を「巧(たくみ)に作俳優(わざをき)す」と記すことから俳優の元祖とも云われているの。神の御霊を招き寄せ、自らも神懸かりして舞うなど、神さまを楽しませるのが本来の俳優の役割だったわけね。因みに、神さまを楽しませるから神楽ね。

龍宮神 龍宮神 参道脇にこの緋い鳥居が建ちますが、竹林の中にある社殿には龍宮神が祀られていたの。失礼して中を覗かせて頂きましたが、龍宮神・岩漁業協同組合とあるのみで詳しいことは分からず終いなの。龍宮と聞けば浦島伝説を思い出しますが、実はその浦島伝説が神奈川県にも残されているの。関係あるのかしら?

謎めいた龍宮神ですが、兒子神社を離れる前に、グリコのオマケでもう一つ奇怪なお話しを紹介してみますね。【新編相模国風土記稿】には闇夜に怪光を発する古塚のことが記されているの。それも二つあり、浦人からは手を触れると祟りがあると恐れられ、夜になると塚の周囲から光が発せられることもあり、沖合いを行く舟はそれを灯台の明かりと勘違いして舳先を向けて座礁してしまうこともあったと伝えているの。記述では塚のある場所を「孰も村南白田間にあり」としていますが、どの辺りかしら。当時でも「僅に堆きのみにて草茂れり」の状態ですから、今ではその跡形さえ無いのかも知れませんね。その古塚と龍宮神にも何か繋がりがあるような気もしますが、あまり、想像を逞しくすると怒られそうですのでやめておきますね。(^^;

9. 瀧門寺 りゅうもんじ

宝篋印塔 兒子神社を後にして道なりに歩くと岩小学校の校庭が見えて来ますが、その右手前には観世音菩薩と刻まれた大きな石柱が建てられているの。左掲はバス通りからの景観ですが、車が二台停まる位置に建てられているの。本当はその石柱を紹介したいところなのですが、車に遮られて撮影を断念。因みに、赤い車の向く先が兒子神社からの道となり、画面左手奥に向かい、瀧門寺山門への参道が続くの。その門前で聳え建つのがこの巨大な宝篋印塔なの。

宝篋印塔は方形の基台に同じく方形の塔身を載せ、笠を重ねてその上部に相輪部を置くと云う特徴のある石塔ですが、その呼称は当初塔身に龕を設けて宝篋印陀羅尼経を納めたことに由来するの。この塔は明和4年(1767)に瀧門寺の第13世住持・鳳州了悟上人の発願で建てられたものと伝えられますが、巧みな造りと規模の大きさからしても石工達の帰依や石材産業に携わる人々の財政的な援助が多くあったことを窺わせる史蹟ですよね。因みに、龕は「がん」と訓み、仏像や経文を納めるための窪みのことなの。

瀧門寺参道の石畳を歩くと、石段の袂右手に五層塔と頌徳碑が建てられているの。この五層塔は兒子神社のところで萬寿冠者の亡骸が葬られたお寺として紹介した岩松山光西寺(現在は廃寺)にあったものなの。江戸時代初期の承応3年(1654)の建立とされますが、接合部が無いことでお分かりのように、一つの石から削り出されているの。製作過程で一ヶ所でも亀裂が入ろうものなら、また、石の切り出しから始めなければならず、緊張の連続だったのではないかしら。

その五層塔の右手に建つのが三津木徳兵衛の頌徳碑。徳兵衛は宮大工ならぬ宮石工の棟梁として東叡山寛永寺(東京・上野)の宝塔を造営しますが、その功績が賛えられて天保2年(1831)に建立されたものなの。前述の五層塔や宝篋印塔などと併せ、岩地区には古くから石材産業が発達し、巧みな加工技術を持つプロ集団がいたと云うことよね。因みに、頌徳は偉業を成した人を褒め称えることですが、頌は「しょう」と訓んで下さいね。最近では見掛ける機会も少なくなりましたが、年賀状に頌春とあるのは春を賛えるの意−で、賀春ね。

瀧門寺 山門へと続く石段が風情を添えていますが、嘗て瀧門寺の境内地には豊かな湧水が流れ落ちる見事な滝があったと云われているの。瀧は滝の旧字ですが、寺名はその滝に因む名称だったのね。【風土記稿】には「飛泉奔下する驟雨の如く・・〔 中略 〕・・実に幽邃の地なり」と記されているの。参道脇には疎水路が残されていますが、関東大震災の影響を受けて水源が枯渇してしまい、今となっては僅かな湧き水がチョロチョロと細い流れをつくるだけなの。

御案内が前後して恐縮ですが、瀧門寺は正式な山号寺号を多宝山瀧門寺とする最乗寺系末の曹洞宗寺院。開山の由来となると諸説があるようで、ξ^_^ξにはどれが正しいのか分かりませんが、弘治元年(1555)に当初は発心寺の名で開山されたものが、元亀元年(1570)に林屋上人が中興開山となり、その際に現在の寺名に改称されたみたいね。義堂周信上人が著した【空華集】には、道禅々師が應安7年(1374)に開山したものと記されますが、【風土記稿】では虚偽と思われるとしているの。

義堂周信は南北朝〜室町期に活躍した臨済宗系の禅師で、当初は比叡山に学びますが、禅に転じて無窓疎石に師事した後は鎌倉公方の足利基氏に招かれて禅宗を伝えたの。室町幕府第三代将軍・足利義満の命を受けて、康暦元年(1379)には再び上京し、南禅寺の住持にもなっているの。五山文学を代表する僧侶で、漢詩の才は中国僧の作と見紛らう程だったと云われているの。因みに、【空華集】の名は禅師の法号・空華道人に由来しますが、元々身体が弱く眼病を患っていたみたいで、眼前を空華が乱起乱滅することから名を得ているの。その負い目を勉学修行で撥ねよけようとしたのでしょうね、多くの留学僧に知己を得て才能を開花させたの。故郷の土佐に帰る船旅ではひどい船酔いに苦しんだみたいですが、屈強頑健な身体であれば中国に渡るべく自ら玄海灘に舟を漕ぎ出していたかも知れないわね。話しがちょっと横道に逸れてしまいましたね、ごねんなさい。

山門を潜り抜けた正面には本堂が建ち、時計回りに庫裡と鐘楼が続くの。左手には幼稚園が併設され、本堂前にも遊具施設が置かれて境内は園児達の運動広場ね。訪ねたのは休日のことで園児の姿はありませんでしたが、平日には元気な声がそれこそ滝水のように山門から転げ落ちるのかも知れませんね。石段途中には水子&子育地蔵が祀られていますが、お地蔵さん達が鬼を取り囲んで懲らしめているの。お地蔵さんと園児達の姿が重なり、微笑ましい像形ね。

10. 上の道祖神 うえのどうそじん

岩小学校の前を通り抜けてしばらく歩くと道端に見えてくるのがこの道祖神。塞の神に始まり、村人達の諸々の願いを叶えてくれる優しい守り神として今日に至る道祖神ですが、舗装された道も嘗ては人馬がようやく通れる位の細い道だったのではないかしら。ふと道祖神の視線の高さが気になり、石仏背後から同じ高さで眺めてみたのですが、普段歩く視線では走り行く車を左程気にすることはありませんが、身を屈めて道祖神と同じ目の高さで見るとそれが結構威圧的に見えるの。

道祖神 この視線の高さこそ先程の園児達の視線の高さよね。運転中に園児を見掛けたら優しい気遣いをしてあげて下さいね。道祖神にはこの視線の高さが味噌醤油味ね。手を合わせて頭を垂れる庶民を決して見下ろしてはいないの。寺院の堂宇に祀られる諸仏が施無畏・与願印などを結び、高所から功徳を施すお姿なら、道祖神は願う者と均しく掌を合わせて幸せを祈願する姿なの。その道祖神達に此度の旅の安全を祈願したところで折り返し、岩海岸へと向かいました。

11. 真鶴町民俗資料館 まなづるちょうみんぞくしりょうかん

民俗資料館 簡素な入口は民家の趣きですが、それもそのハズで、石材商として財を成した土屋家の旧宅を使用した資料館なの。古くから小松石を産出して石材産業が栄えた岩地区に生まれた土屋大次郎氏は、明治30年(1897)に東京・築地で石材商・土屋商店を開業するの。明治36年(1903)には現在の茨城県笠間市の稲田で水田文九郎氏と稲田石の採掘事業を始めますが、土屋大次郎氏の娘が水田家に嫁いだことから両家は縁戚関係となり、稲田にも営業所が開設されたの。その翌年、東京に路面電車が敷設されることになり、土屋商店に敷石の大量注文が舞い込むの。時代が大いに味方したと云うわけですが、勢いを得た土屋大次郎氏は後に衆議院議員にもなっているの。

その後、世代交代を経てはいますが、館内にはその土屋家からの寄贈品を中心に、生活用具や漁業関係資料、石材産業関連の史料などが展示されているの。中でも小松石の見本が置かれる石材関連コーナーは必見よ。

入館料:無料 休館日:月・水・金及び祝祭日の翌日&年末年始
開館時間:10:00-16:00 但し、12:00-13:00 はランチタイムよ。(^^;

資料館では真鶴町の委託を受けた係員の方が一人いらっしゃるだけで、訪ねた時には遠藤さんとおっしゃる女性の方が案内して下さいましたが、聞けばお隣にある酒屋さんの奥様なの。明るく気さくな方でしたが、何よりも嬉しかったのが視線が同じことね。洒落た和箪笥を見つけて眺めていると「この和箪笥、素敵ですよね。私もこの前気になって開けさせて貰っちゃったの。ちょっと見てみますか?」と声を掛けてくれたの。得てして資料館などでは説明員の方の有り難い御託宣を聞きながら、その実何も記憶に残らないことが多いのですが、ここでは先生と生徒が一緒なの。そのせいか時を経た今でも多くのことを憶えているの。

資料館とは直接の関係は無いのですが、特に印象に残るのが関東大震災の時のお話しなの。遠藤さんがお義母さまから伝え聞かれたところでは、この辺りにも津波が押し寄せ、波が引いた後の電柱の電線にはあちらこちらにワカメがぶら下がっていたと云うの。現在は資料館となる旧土屋邸ですが、家屋を支える太い梁はその大震災時にもビクともしなかったと聞いたことからの会話なの。他にも展示物に触れてはならぬとありましたが、小松石の見本を内緒で持ち上げさせて貰ったり。バラしちゃいましたので内緒でなくなっちゃいましたね。(^^;

その小松石ですが、岩地区の小松山から切り出されるものが本小松石で、同じ真鶴でも海辺の磯丁場などから産出する小松石は新小松石と呼ばれているの。資料館にはどちらも展示されていますが、その違いは一目瞭然で、磨き上げた後の質感がかなり異なるの。と云うことは、当然お値段も違うと云うことよね。金額的にどの程度の差があるのかはξ^_^ξには分かりませんが、持ち上げてみた感覚ではかなりの差がありそうよ。因みに、【新編相模国風土記稿】では「岩村 小松山及び土肥吉浜 同門川二村に産するを小松石と名づく」と記されているの。ところで、石と云えば御影石ですが、実は小松石もその御影石の一種なの。御影石は元々は花崗岩全般を指す呼称でしたが、兵庫県の御影地区が産地として広く知られたことから花崗岩の代名詞になったの。最近では国内各地は云うに及ばず、海外からも様々な御影石が輸入され、小松石も影が薄くなってしまったみたいね。

12. 庚申塚 こうしんづか

庚申塚 庚申塚 庚申塔

ガイドマップでは次の目的地・如来寺跡は郵便局の裏手に位置することから入口を探しながら歩いていたのですが、石段と石標を見つけて何があるのかしら?と気になり登ってみたのがこの庚申塚なの。倒れた石祠が草叢に放置されてはいますが、注連縄が張られるなど、ここには今でも信仰を寄せる方がいらっしゃると云うことよね。道祖神の姿は多く見掛ける真鶴ですが、 庚申塔 となると意外に少ないの。石祠は後世の造作によるものでしょうが、右手の観音開きになる祠には庚申信仰の主尊・青面金剛が彫られた庚申塔が祀られているの。

元々は道教に由来する庚申信仰ですが、在来の土俗信仰とも結び付きながら仏教との習合が成されたの。中でも修験者達は庚申待ちを庶民に広めながら青面金剛を主尊として崇めることを薦めたの。その依拠するところは陀羅尼集経ですが、その功徳を「若し骨蒸伏連伝尸鬼病を患えば誦呪千遍 其の病則ち癒ゆ」としているの。伝尸病とは肺結核のことね。陀羅尼集経では青面金剛に伝尸病を快癒する霊力があるとされているだけなのですが、伝尸病に霊験灼かなら三尸にも効くべえ−と云うわけで、庚申信仰の主尊に祀られるようになったの。因みに、尸は「し」と訓んで下さいね。

最初は塚だと思っていたのですが、丘と云うか小高い山の尾根でした。
この右手斜面下の麓に如来寺跡があるの。


鳥居 この時は所在が分からず、勘を頼りに歩いていたのですが、民家の間に続く小径を海側に向かい歩き始めて直ぐに目に飛び込んで来たのがこの鳥居なの。庚申塚の次は神社と、地図にはどれも記されませんが、地元の方々の手により大切に守られて来たものなのでしょうね。そうは云っても、鳥居が建つのでそれと気付くことが出来たのですが、無ければ物置とばかりにそのまま通り過ぎていたでしょうね。実は、この神社の右手奥に探し求めていた如来寺跡があったの。

13. 如来寺跡 にょらいじあと

寺跡と聞いていたので何も無い更地か、何かの建造物が残されていたとしても朽ちかけた廃墟の類かしら−と想像していたのですが、お掃除もされていて、残された石仏にも新しい樒が供えられていたの。僧堂がある訳でも無く、当然住持の方がいらっしゃる訳でも無いのですが、近年に奉納された石灯籠なども建ち、寺跡と云っても今でも確かな信仰がここには息づいているの。お寺が無いだけに本物よね。廃寺となった今では如来寺の縁起を紹介する資料も少なくて、【新編相模国風土記稿】などの古い文献に限られた記述が残されるのみなの。

それに依ると、正式な山号寺号は帰命山如来寺で、元和6年(1620)に月山上人と云う方が開山となり創建したものなの。本尊を但唱作の弥陀と記していますが、弥陀とは阿弥陀如来のことね。その阿弥陀像も石造だったと伝えられますので、小松石から造られた石仏だったのかも知れないわね。その如来寺も後に瀧門寺末となるのですが、明治期に廃寺となっているの。理由はξ^_^ξには分かりませんが、恐らくは廃仏毀釈の嵐を受けて頽れたものでしょうね。如来寺の遺品は瀧門寺に伝えられたと聞きましたが、如来寺跡地が今でも信仰を集めているのは、その瀧門寺に負うところが大なのかも知れないわね。《《《 未確認モード

今では民家が直ぐ際まで迫るなど、嘗ての境内地の広さを知る由もありませんが、山肌に掘られた岩窟が残されているの。入口を覆うコンクリート製の屋根も近年に造られた新しいものですが、岩窟の内部は当然ながら照明なんてないの。入口から僅かに射し込む陽の光を頼りに探検しましたが、脱衣婆を最初に、閻魔さまの名で知られる閻魔大王以下、地獄で罪人達の裁きを行う十王達が祀られていたの。ここでは案内板の説明に従い、脱衣婆としましたが奪衣婆とする方が正しい表記ね。脱衣婆でも決して間違いではないのですがニュアンスがちょっと違うの。

中には脱衣婆を「だついばばあ」と訓む方がいらっしゃいますが、気持ちは分からなくはないのですが (^^; どちらも「だつえば」と訓んで下さいね。オドロオドロした十王像に最初に対面させられ、逃げ出したい気持ちを抑えて更に奥へ進むと地蔵菩薩像が立ちますが、最奥部には大日如来や聖観世音菩薩、如意輪観世音菩薩像が祀られていたの。距離にすればせいぜい10m程の岩窟ですが、地獄から極楽までが再現されていると云うわけ。閻魔さまに睨まれたからと云って怯んではいけないわね。最奥部に辿り着いた時に明かり採りから射し込む外の光は、さしずめ極楽浄土に降り注ぐ御来光と云ったところね。

石仏 But 採光窓があるからと云って、暗闇に祀られる諸仏の表情は残念ながら分からないの。左掲は僅かな明かりを頼りに勘で写したものの中の一枚。帰宅後に知ったのですが、御丁寧に仏さまの名称を記した案内板が石仏脇に立てられていたの。折角だけど暗闇では見えないので、ライトの持参が必要ね。でも、暗闇で石仏に光を当てて御尊顔を拝する姿は不気味かも。同じく岩窟に訪ね来られた方がその姿を目撃したら。(^^; 因みに、岩窟内に安置される諸仏の製作年代ですが、定かではないものの、創建時から左程期間を経ずして造られたものと考えられているみたいね。

岩窟内に祀られる閻魔大王を始めとする十王像ですが、鎌倉時代には暗い世情を反映して十王思想が隆盛するの。十王達は生前のあなたの行いを元に、あなたの来世を決定するのですが、そのプロセスが気になる方は鎌倉歴史散策・北鎌倉編の 円応寺 の項を御笑覧下さいね。但し、日頃の行いに自信のある方だけにしておいて下さいね。(^^;

窓 窓 左端は岩窟最奥部から見上げた採光窓ですが、近年の造作に依るもので、外側は御覧のように休憩処の面持ちなの。訪ね来る人も少ないせいでしょうね、草が生い茂るに任せた状態ですが、廃寺跡にしては手が加えられるなど不思議な空間でした。

14. 岩海岸 いわかいがん

如来寺跡から家々の軒先を掠めるようにしてある細い道を抜けると急に視界が開け、岩海岸の砂浜が左右に広がるの。真鶴では唯一の海水浴場として夏場は賑わいを見せる岩海岸ですが、冬場のこの季節では訪ね来る人も無く静かな波打ち際で、湾内に浮かぶ弁天島が風情を添えてくれるの。その弁天島を見やりながら小舟に揺られて房州に逃れ行く頼朝一行の姿を思い描こうとしたのですが、残念ながら真鶴新道の岩大橋に視界を遮られて思考が中断されてしまうの。橋上から降り注ぐ弓矢を前にして進退極まる頼朝主従と云ったところね。

関東大震災の際にはこの辺りも隆起したと聞きますので、頼朝主従が船出した頃の波打ち際はもう少し内陸側に位置していたのでしょうね。背後の斜面には大浦浜弁財天が祀られているのですが、参道が崩落のために通行出来ず、立入禁止になっていました。縁起は不明ですが、弁天島と弁天堂の取り合わせに、語り継がれる昔話の存在が予感されますよね。

湾内に浮かぶ弁天島には緋い小さな鳥居が建てられていたの。七福神の一神として弁天さまの愛称で広く知られる弁財天ですが、元々は古代インド神話に登場する女神のサスバティーがそのルーツ。今でこそ金銀財宝を始めとする富を司る神さまとして崇められる弁財天ですが、嘗ては弁才天と記され、軍神・武神として祀られたこともあったの。闘うジャンヌダルク状態だったわけで、ちょっと意外よね。日本三大弁財天の一つ、江の島弁財天が神奈川なら、この弁天島もミニ江の島と云ったところね。

石碑 石碑 海岸右手には「源頼朝船出の浜記念碑」が建てられ、房総に逃れ行く頼朝一行を助けた漁民達の鮫追船二艘については税が免除されたと説明されているの。また、海岸東の崖下には塩屋温博士の文による「源頼朝開帆記念の碑」があると記されているのですが、背後に建つ石碑がそのようで、崖下から移設されて来たみたいね。

【源平盛衰記】では用意した舟に武具を積み込むところを敵方に見つけられ、鮫追船と偽り、辛うじて難を逃れたと記されているの。最初は鮫追船と聞いて鮫漁を想像したのですが、どうやらサメを捕まえていた訳ではなさそうね。不確かですが、この場合の鮫はクジラのことみたいね。和邇(鰐:わに)が鮫で、その鮫はクジラで、ちょっとややこしいわね。当時の捕鯨は集団で追い込み漁をしていたことから船足の速い小舟が必要とされていたみたいなの。頼朝主従が追撃を逃れて対岸の房総に渡るには、その船足の速さが重要だったと云うことね。槍はクジラに打ち込む銛だと偽ったのでしょうね、きっと。

15. 東の道祖神 ひがしのどうそじん

道祖神 岩海岸からこの「東の道祖神」が建つ高台までの道は、ちょっと簡単には説明出来ないので地元の方に訊ねながら歩くことをお勧めしますね。アップ&ダウンのキツイ道ですのでちょっと覚悟が必要ですが、かく云うξ^_^ξも道が分からず二度程訊ねてようやく辿り着いたの。おまけに云われた場所に来てみてもそれらしきものが見つからず、再度訊ねてやっと見つけた次第なの。道端に佇むものと信じ込んでいたのが間違いね、まさか土塁の上に祀られているとは。御覧のように土塁上には五基の道祖神が並びますが、その内の一体は上半身が失われた可哀想なお姿をしているの。

庚申塔 庚申塔

今では造成されて住宅が間近に迫りますが、嘗てはこの辺りが村境となり、結界の地と見做されていたのでしょうね。当時の景観を知る由もありませんが、道祖神の視線の先には真鶴港が見え隠れしますので、湊を守り、豊漁を齎してくれる恵みの神さまだったのかも知れないわね。傍らには青面金剛と「庚申塔」の文字が刻まれた庚申塔も祀られているの。

「東の道祖神」からは再び坂道を下りましたが、歩行者専用で、沿道に住む方々の生活道路なのですが、仲々洒落た景観の坂道になっているの。But 見たところ、車道からはかなり離れていますので小物程度なら未だしも、大きな荷物はどうやって運び込むのかしら?エッ?自分で運ばずにヤマト運輸さんに頼む?だとしたらヤマト運輸さんは各戸にどうやって大きな重たい荷物を運ぶの?(^^;

16. 発心寺 ほっしんじ

その坂道がバス通りと合流するところに建つのがこの佛光山発心寺。略縁起などを記した石碑でもないのかしら?と境内を探してみたのですが、それらしきものも見当たらないの。【新編相模国風土記稿】では山号寺号を佛光山亀宝院と記し、鎌倉の光明寺で法嗣した貞巌上人が諸国遊行の後にこの地に到り、弘治元年(1555)に創建したものとしているの。本尊の阿弥陀如来像は重要文化財で、同じく【風土記稿】では伝聖徳太子作としていますが、真偽の程は?ね。余談ですが、紹介した岩地区にある瀧門寺の当初の寺号も発心寺だったの。後に現在の瀧門寺へと改称されていますが、両寺には何か関係があるのかしら?

17. 自泉院 じせんいん

路地入口 自泉院 自泉院 自泉院

発心寺から真鶴港へと下る坂道の途中で、御覧の横道に折れて石段を登ると見えてくるのがこの水上山自泉院。実は、次の目的地「風外ゆかりの天神堂」を探し歩く内に見つけたものですが、迷路のように入り組んだ狭い路地裏を行ったり来たりで、早い話しが迷子になってしまったの。なので、自泉院を訪ねてみたいな−と云う方以外はこの横道には入らない方が良さそうね。

天神堂 バス通りに戻り、入船旅館の脇道に折れたら左手に顔を覗かせる大きな円筒タンクと松の木を探しながら歩いて下さいね。その松の木の根元に祀られていたのがこの石祠なの。ガイドマップの「真鶴さんぽ」では「天神様を祀り 石の祠を作りました」と案内されていましたので、最初は、天神堂とはこの石祠のことなの?と拍子抜けしてしまったの。時を経た今となってはその名残りを留めるだけになってしまったようね−と意気消沈して石祠を撮したところで、ふと、松の木を見上げると、風外蝸室と書かれた扁額が目に留まったの。

18. 風外ゆかりの天神堂 ふうがいゆかりのてんじんどう

見た目には村の集会所の面持ちでしたので、当初はさして気にも留めずにいたの。なので、扁額が無ければそうとは知らずに終えていたでしょうね。扁額にある風外蝸室の蝸とはカタツムリのことですが、風外道人こと、風外慧薫上人は諸国遊行の後、この真鶴に訪ね来て自泉院の洞窟に起居するようになったの。傍らの石碑には風外蝸室の由来記が刻まれていましたので紹介してみますね。

天神堂 寛永七年李 風外道人 眞鶴に蝸居し 天神堂を勸請す
慶安元年 道人八十一歳の時 其の木堂を變じて石宮となし 側に壽塔を建つ
銘に曰く 落葉飜風前 榮華豈可傳 全身知石塔 堪笑幾隨縁 と
爾來三百星霜を經て 道人の名全く忘れられ 唯天神堂の地名を殘すのみ
然るに昭和7年春 石宮の現在せるを發見し 道人の事蹟闡明し 其人格光燿するに至る
今茲に淨財を集めて風外蝸室を再建し 道人在世の時を偲ぶ
昭和10年(1935)6月 眞鶴町長 松本赳 記

風外上人がこの地に訪ね来た時には既に60歳を過ぎていたわけですが、当時の真鶴の名主・五味伊右衛門演貞に請われて天神堂を開く一方で、村の子供達にも親われるなど、云わば真鶴の良寛さん状態だったみたいね。その風外上人も齢81歳の時に20年余の住み慣れた真鶴を後にして、突然、伊豆に旅立ってしまったの。自ら「落葉飜風前云々」と刻んだとされる寿塔ですが、左掲がそれかしら?だとすると、刻まれた文字も風化してしまい、まさに豈可伝ね。

その石塔に添えられていたのがこの達磨さんなの。風外上人は達磨や布袋さまの画を得意としていたそうで、その作品は瀧門寺や貴船神社に残されているとのこと。逸話からすると、風外上人のイメージも達磨大師や布袋さまと同じ印象よね。ところで、煩悩の大海を泳ぐξ^_^ξが気になるのは、高齢の身をおして伊豆へと旅立った上人のその後なの。加えて、20年余りにわたり慣れ親しんだ真鶴を離れる勇気!。求法ゆえの選択なのでしょうが、年齢は81歳なのよ。ξ^_^ξには絶対に真似出来ないわね。

再びバス通りに戻り、真鶴港を見やりながら歩くと白い幟が見えて来ますが、頼朝主従が隠れ潜んだと云う「鵐の窟」なの。
あれ〜変よね。湯河原にも「鵐の窟」があったじゃない。どっちが本当なの?

19. 鵐の窟 しとどのいわや

鵐の窟は石橋山の合戦に敗れた頼朝が椙山々中に逃れて身を隠し、危うく難を逃れた逸話の舞台。その岩窟から鵐が飛び出したことから名付けられたものですが、鵐とは、ホオジロなどスズメ科に属する小鳥の総称の古名とするサイトも見受けられますが、それだとちょっと逸話には適わないような気がしますよね。「鎌倉歴史散策番外編−湯河原」の 桜郷「鵐の窟」 の記述では【新定源平盛衰記】の脚注部に「旧は傍訓して鴟と為す・・〔 中略 〕・・鵐は蓋し鴟の訛なり」とあるのを元に、トンビやフクロウなどの猛禽類としてみましたが、鵐には別にウズラの意味もあるみたいね。

鵐の窟 と云うことで、情景としてはウズラが一番似つかわしいような気もしますが、皆さんはいかがかしら?因みに、真鶴町の鳥はイソヒヨドリなの。真鶴で鵐と云えばそのイソヒヨドリかしら。岩窟には鍵が掛けられ立入禁止ですので細部が不明ですが、最奥部には小さな石像が祀られていたの。覗き見た限りではとても頼朝主従七騎が身を隠せる広さには見えず、せいぜい頼朝と土肥実平の二人程度ね。と云っても、関東大震災時にこの辺りも隆起して地形も大きく変わり、この岩窟も嘗ては高さが2m余りで奥行きも10m程あったと伝えられているの。

車道を挟んであるのが真鶴港と云うことで、当然、目の前にあるのは海ですが、この鵐の窟は海抜にしたら1mあるかないかなの。関東大震災でどの程度隆起したのかは分かりませんが、頼朝一行が身を潜めた当時は足許に波がひたひたと打ち寄せる洞窟だったのではないのかしら。エッ?満潮時には怒濤が押し寄せていた?(^^; 因みに、【新編相模国風土記稿】の真鶴湊図に描かれる鵐の窟はまさに波打ち際の岩窟状態で、漕ぎ出すに当たり、潮待ちしてたのでは?と想像するに相応しい景観が描かれているの。気になる方は同書を御覧下さいね。

鵐の窟 椙山々中の鵐の窟は今にも得体の知れない鳥が飛び出しそうな雰囲気だし、真鶴のこの鵐の窟にしても、足許に波が押し寄せる中でじっと夜が来るのを待つ頼朝主従の姿があったのかも知れないわね。鵐に拘ると、文献の記述内容との合致点が多いなどの状況証拠から湯河原町側が有利に思えますが、隠れ場所を見つけながら逃れて来たわけですからこの岩窟にも隠れたかも知れず、どちらもあり−と云うことね。【盛衰記】にしても異本では鵐ではなくて兎なの。

石碑 窟の前には「五味伊右衛門尉 歎息而掃石苔 中造石仏奉安」と題された石碑が建てられ、頼朝主従の逸話が記されているの。この五味伊右衛門が何代目にあたるのかは分かりませんが、船出する頼朝一行に食事を提供してもてなしたことから五味姓を賜っているの。それが縁となり五味氏は真鶴の名主となりますが、風外ゆかりの天神堂を御案内した際に名前が挙がった五味伊右衛門演貞もその末裔ね。

観音堂 傍らには頼朝観音を安置する小堂が建てられていますが、【吾妻鏡】には岩窟に身を潜めた頼朝が髻(もとどり)の中から観音像を取り出して安置したと記されているの。その大きさも二寸と云うのですから5、6cm位かしら。堂内に祀られる観音像はそれを模したものね。【吾妻鏡】の記述では銀製とされていますが、こちらは金ピカの観音さま。と云っても純金ではないみたいね。(^^;

頼朝観音 髻とは髪を束ねた部分のことで、そんなところに観音像を隠せるわけないじゃん−と思われるかも知れませんが、戦陣に赴く際には、頼朝に限らず、神仏の加護を求めて小さな観音像や地蔵像を髻に編み込む武士も多くいたみたいね。中には捕らえられて斬首となるところ、振り下ろした刀が髻の観音像に当たり、そのお蔭で許されて九死に一生を得た逸話などもあるの。

石碑 小さな史蹟公園の趣きですが、併設されているのが品川台場礎石乃碑なの。レインボータウンとしてすっかり全国区となったお台場ですが、真鶴とどんな関係があるの?と不思議に思われるかも知れませんね。残念ながら現在のことでは無くて、江戸時代も終りの頃のことですが、黒船を従えて浦賀に来航したペリーから通商を迫られた幕府は、再来に備えて黒船迎撃の砲台を急遽建設するの。ペリーにしても砲門を向けて開国を迫って来た訳ですから、交渉と云うよりも脅しよね。と云うことで、砲台の設置場所=台場で、その名残りがお台場ね。

その台場にしても建設時には11ヶ所に造成され、使用されたのが真鶴で産出した小松石だったの。実は、小松石はそれ以前にも和賀江嶋(現在の材木座海岸)の築港や江戸城築城時にも利用されているの。尤も、その頃は伊豆石と呼ばれていたのですが、その正体は何かと云えば箱根火山が噴き出した溶岩なの。緻密で良質なことから真鶴は石材産地として脚光を浴び、海に面して江戸に近いことも有利に働き、江戸時代の海上輸送手段の発達に支えられて大いに繁栄したの。

小松石の名は産出した真鶴町北部に位置する小松山の名に由来しますが、石材産地として名を馳せたのが江戸城築城時のことなの。小松山に限らず真鶴ではあちらこちらで採石場が造られたの。幕府の手前、忠誠を誓う諸大名がこぞって石切場を造り、小松石を切り出してはせっせと江戸へ運んだと云うわけ。当時は採石場と云うよりも丁場と呼ばれていたみたいですが、海沿いにも多くの丁場が造られたの。なんと云っても目の前は海なのですから運び出すには都合がいいわよね。この「鵐の窟」がある辺りもその一つだったようね。

漁業と共に一大地場産業となった石材産業に村人達もこぞって参加したの。ですが、諸大名が磯丁場を造り、搬出に有利な環境を手にしたのに較べ、お金の無い村人達は内陸部に採石場を造るしか無かったの。今みたいに道が整備されていた訳でもなくて、重機も無い時代のことですから、港までの道程は基本的には人の手で運ばれたの。最盛期にはその真鶴湊も24時間営業で明かりを灯しながら廻船が出入りを重ね、船宿やお茶屋などが軒を連ねて小江戸と呼ばれる程賑わっていたと云うの。

おめ〜んところはよお、御用丁場だから稼ぎはよかっぺえ〜。俺んところはよ〜、百姓丁場よお。
石っころ切り出すまではいいだっぺが港まで運びだすのがしんどくてよお〜。
こねえだもよお〜、皆してしょっつるで運んでる時によお、
縄がプッツンと切れやがって危うく下敷きになるところだったでよお。
こうして生きてられるのが不思議なくれえだ。おめえさんもせいぜい気ぃつけな。

お、そうけえ、おめえさんは磯丁場けえ。だったら楽でいいやね。
百姓丁場じゃ稼ぎも悪いが、うちのかみさんが腹はらましててよお、
今朝もよお、出掛けに火打ち石でお祓いなんかしてくれちゃってよお。
うれしいじゃねえか、こんな俺でも心配してくれる女房があるってえのは。

え?だったら酒なんか呑んでねえでけえれって?
まあ、かてえこと云わねえでお銚子一本くれえなら許してやってくれや、酒は百薬の長とも云うじゃねえか。
おっと、その酒も無くなっちまったじゃねえか。そんじゃまあ、帰るとすっか。
ところでおめえさんは今夜はこれかい?そうかい、いい御身分じゃねえか。
でもよお、あんまり頑張りなさんなよ。明日の仕事にひびくかもしれねえぜ。アハハハ

最後はちょっと下品だったかしら。でも、当時の人足達を思うとそう云う会話も当然あったのかな−と。(^^;

20. 魚座 さかなざ

水槽 鵐の窟に接するようにして遊覧船乗場が位置しますが、出港時間との関係から真鶴岬の散策を終えてから最後に乗船することにして、先ずは魚座を訪ねてみたの。真鶴の浦人は、頼朝が房総へ逃れる際に船を提供し饗応するなどして助けたことから、後にその頼朝から租税免除されたことは紹介しましたが、頼朝亡き後も漁業権として認められるようなり、江戸時代になると真鶴のみならず、領内全域の漁獲物を扱う魚商達がこの湊に集まるようになったの。魚を扱う座−で魚座ですが、座とは今で云うところの協同組合のことね。施設の名はその史実に因むものなの。

水槽 建物の1Fは魚の競りが行われる市場で、見学することも出来ますが、競りは早朝に行われる訳ですから朝寝坊の方にはちょっと無理ね。2Fには魚達の泳ぐ大型水槽が設けられ、真鶴の近海で獲れる魚達を知ることが出来るの。勿論、併設されている食事処ではその獲れたてを頂くことも出来ますよ。詳しいことは 真鶴魚座 を御参照下さいね。お値段は町営と云うこともあり、魅力的な価格設定になっているの。大食漢のお子様連れのお父さんでもここなら安心ね。











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