≡☆ 真間の手児奈 ☆≡
 

むか〜し昔、千葉県は市川の真間の地に手児奈と云う名の、それはそれは美しい娘子がいたの。その美しさは遙か遠く京の都にも聞こえる程で、我こそはと云い寄る男共 (^^; が数多いて諍いが絶えずにいたの。心優しい手児奈は我が身のことで傷つけ合う者達の姿に心を痛め、やがて湊の浪間にあたら美しい一輪の花を散らせてしまったの。それが「真間の手児奈」伝説で、古えの万葉の歌人達も所縁の地に訪ね来ては昔の出来事に想いを馳せているの。その真間の地には遙かなる時を経た今でも手児奈の悲しい物語が語り継がれているの。秋の一日を、そんな真間の地にタイムトリップしてみましたので紹介してみますね。

真間の継橋〜手児奈霊神堂〜亀井院〜弘法寺〜国分寺趾〜蓴菜池緑地公園〜里見公園

1. 京成・日暮里駅 にっぽり 8:34発

真間を訪ねるにはJR市川駅から歩くと云う手もありますが、少しでも歩く距離を短くしようと、訪ねた時には 京成電鉄 を利用してみましたが、下車駅の国府台駅には各駅停車しか停まりませんので御注意下さいね。急行などを利用して、途中で各駅停車に乗り換える手もありますが、各駅停車でも始発駅の上野からでしたら30分程の乗車時間ですので、乗り換える手間を考えると最初から各駅停車でのんびりと揺られる方が良さそうね。平日は通勤電車として大忙しなのでしょうが、休日では乗客も少なくて旅人には車窓に流れる街の景色も新鮮よ。乗車券:¥250

2. 京成・国府台駅 こうのだい 9:03着発

真間の地名を冠することからひと駅先の市川真間駅で下車した方が良さそうに思うかも知れませんが、この国府台駅の方が目的地には近いの。改札を抜けて目の前に続く道を歩き始めましたが、その前にきょうの散策ルートを御案内しておきますね。本来なら然るべき地図を作製して掲載すべきところなのですが、その方面の才能が皆無ですので、ここでは国府台駅のホームに掲げられていた駅周辺の案内図の借用で御容赦下さいね。コースとしては国府台駅から北上して真間川沿いを歩き、真間の継橋→手児奈霊神堂→亀井院→弘法寺→下総国分寺跡→下総国分尼寺跡→蓴菜池→里見公園を経て、江戸川の堰堤をそぞろ歩きしながら国府台駅に戻る設定にしてみたの。

ガイドブックなどでは標準的な所要時間を2時間程度と記していますが、ξ^_^ξ達一行(と云っても3人だけだけど)は、何と7時間も歩き回っていたの。勿論、見学時間や休憩時間も含めてのことですが、おそらくこれ以上ノンビリと歩くことは出来ないかも知れないわね。それでも何かの役に立てるかしら−と、実時間を記載しておきましたのでお出掛け時の参考にして下さいね。

3. 真間川 ままがわ 9:20着

真間川 しばらく歩くと真間川に突き当たりますので、それを右手に折れて川沿いの道を歩いて下さいね。今では閑静な住宅街が広がりますが、万葉びとが訪ね来た頃は辺り一帯が湿地と云うか「豊葦原の中津国」状態だったの。嘗ては東京湾の入り江がこの辺りまで廻り込み、江戸川の流れの影響もあって、海水と淡水が混じり合う干潟や湿地には、葦の葉が風に揺れていたの。後程改めて御案内しますが、現在は真間川を流れる辺りを境にして台地と入り江がせめぎ合いをしていたわけで、真間と云う地名にしても、元々は土手や崖を表わす東俗語(あづまことば)の「まま」に由来するの。

日本武尊の東征神話に象徴されるように、嘗ての東国は蝦夷地でもあり、「まま」のことばのルーツはそこで使われていたアイヌ語に由来するものとも云われているのですが、東日本には真間の他にも杣や墫、魔々などの字が充てられ、地名として今に名残りを留めているケースが多いの。ここで詠人知らずですが、【万葉集】の巻14に収められる相聞歌を紹介してみますね。

鳰鳥の葛飾早稲を饗へすとも その愛しきを外に立てめやも
にほどりのかづしかわせをにへすとも そのかなしきをとにたてめやも
誰れそこの屋の戸押そぶる 新嘗に我が夫を遣りて斎ふこの戸を
たれそこのやのとおそぶる にふなみにわがせをやりていはふこのとを

ここでは稲の収穫を神に感謝して新嘗祭(にいなめさい)をしたときの情景が詠み込まれているの。でも、これだけでは何云ってんだか全然分かんな〜い!状態だと思いますので、ちょっと長くなってしまいますが解説してみますね。現在は江戸川を境にして東京都葛飾区と千葉県市川市に分かれますが、嘗ては東西を含めた地域が下総国葛飾郡で、【和名抄】には葛餝と記されるように、葛が芳しく生い茂るところだったの。一方で湿地を抱えて稲作にも適していたことから早稲の栽培も早くから行われ、葛飾早稲と呼ばれる品種の稲穂が黄金色に輝いて風にそよいでいたの。けれど【万葉集】で使われる万葉仮名では勝鹿、勝壮鹿、可豆思賀、可都思賀、可豆思加、可都思加と百花繚乱。訓みにしても「かつしか」だ、否「かづしか」だと喧々諤々みたいね。元々は何に由来することばだったのかしらね。

CoffeeBreak 【和名抄】は【和名類聚抄】が正式名称で、平安時代の承平年間(931-938)に編纂されたものとされ、醍醐天皇の第四皇女・勤子の命を受けて源順(みなもとのしたごう)が編纂した事典なの。単に国語・漢和辞典に留まらず、今で云うところの百科事典に近いかしら。けれど残念ながら現代のそれとは違い、挿絵は無いの。デジカメと云う文明の利器の恩恵に浴する歓びを痛切に感じてしまうわね。

ねえねえ、下総国の国府の置かれていたのがこの市川市なら、上総国の国府があったのは市原市よね。
その市川市は市原市からみると北になり、地図の上では上になるのに何故下総になってしまうの?

そうね、ちょっとおかしいと思うかも知れないけどちゃんと理由があるの。電車にも「上り」や「下り」があるのは知ってるわよね。この場合の上り下りは天皇の御座所が中心で、「上り」も「上(あが)る」に由来するの。と云うことで、皇居に近い方が「上」になるの。その皇居にしても明治以前は京都よね。大昔の東海道は箱根を越えると三浦半島の走水から舟で房総半島に渡り、富津岬辺りに辿り着くコースになっていたみたいね。文字通りの「海の道」ね。なので、最初に辿り着くことの出来た市原市側が上総となり、それよりも離れた市川市側は下総と呼ばれたの。

順序が逆になってしまいましたが、鳰鳥とはカイツブリの古名で、潜水して巧みに魚を捕らえることから「潜(かづ)く」意で、葛飾に掛かる枕詞にもなっているの。また、そのカイツブリは葦の葉陰に営巣して仲良く子育てをすることから、愛する人と仲睦まじくあるさまにも掛けているの。余談ですが、その鳰鳥が多く棲息することから「鳰の海」の別称でも呼ばれていたのが琵琶湖なの。嘗ては葦が生い茂る「豊葦原の中津国」状態の湖は、古人にはその大きさがまさに海にも見えたのでしょうね。因みに、そのカイツブリは現在は滋賀県の県鳥にもなっているの。

新嘗は新饗(にいあえ)にも通じ、古くは収穫された稲穂を神に供え、人々にも饗応すると共に、自らもまた御相伴に与る神事だったみたいね。その期間中の女性達は他の者を遠ざけて家に籠り、神を迎える忌み籠りをしたの。既婚未婚を問わず、男性は家の外に追い遣られてしまい、家の中に立ち入ることは禁忌だったわけ。【常陸国風土記】にも富士山に住する神さまが訪ね来た御祖神尊の宿乞いさえ拒否する様子が描かれていますが、新嘗祭の禊斎の期間中はいかなる者と雖も家の中には入れなかったの。

新粟の初嘗して家内諱忌せり 今日の間は冀はくは許し堪へじ
わせのにひなへしてやぬちものいみせり けふのほどはながはくはゆるしあへじ

と云うことで、最初の一首は「葛飾早稲を神さまにお供えして新嘗する大事なおまつりの時でさえ、愛しいあの方を家の外に立たせたままにはしておけないわ」となり、「誰ですか?夫を遠ざけてまでして物忌みする私の家の戸を叩く方は」となるの。ここでは新嘗祭の夜に妻問いに受け答えする男女の恋の姿が詠い込まれているの。句の印象から主人公は女性側に思われるかも知れませんが、実際は上句と下句を男女に違えた問答句なのかも。「鳰鳥の葛飾早稲を饗へすとも」と男性が詠み、「その愛しきを外に立てめやも」と女性が応えた場合には「児(こ)ろせ手枕(たまくら)」状態になると云う訳。ちょっと想像が逞し過ぎるかしら?(^^;

4. 入江橋 いりえばし 9:32着発

入江橋 真間川沿いの道を道なりにしばらく歩くと見えてくるのがこの入江橋ですが、当時の景観がそのまま名称となっているのね。聞くところでは、明治の初め頃までは辺りには湿地と田圃が広がり、真間の人々は家の庭先から舟を漕ぎ出しては川漁や田圃の野良仕事に出掛ける半漁半農の暮らしをしていたみたい。後に大規模な干拓や治水事業を経て水田が作られ、時代の流れの中でやがてその水田も宅地化されると、現在のような街並みに姿を変えたと云うわけ。この入江橋を渡る先に弘法寺の参道が続きますが、その途中にあるのが次に紹介する継橋なの。

5. 真間の継橋 ままのつぎはし 9:35着 9:40発

継橋 御案内しましたように、現在の真間川流域を中心にて「真間の入江」が広がり、国府台の台地上には下総国府が置かれていたの。その台地から入江に流れ込む土砂が砂洲を形成し、下総国府と上総国府を結ぶ幹線道路がその砂洲上に造られていたの。今でこそ宅地でも道路でも何でもありですが、当時は一口に砂洲と云っても大小の砂洲から成る飛び地状態。左掲は案内板に掲示されていた古絵図の一部ですが、川を跨ぐ小さな橋があちらこちらに架けられていたのではないかしら。アヤメで知られる茨城県潮来町の水郷地帯を思い浮かべていただけたら良いのかも知れないわね。

真間の継橋 継橋と云う名にしても、川の中央に橋脚を建てて両端から橋梁を延ばして繋いだ造りに由来するとしているの。その「真間の継橋」を手児奈伝説に掛け合わせ、後世の多くの歌人達も詠み上げていますが、中でも有名なのが詠み人知らずですが、同じく【万葉集】に収められる次の句なの。

足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 止まず通はむ
あしのおとせず いかむこまもが かつしかの ままのつぎはし やまずかよはむ

独断と偏見を元に意訳すると、「足音をたてずにこの私を連れて行ってくれる馬がいてくれたらなあ。そうであれば葛飾の真間の継橋を手児奈に気付かれずに渡ることが出来るし、きょうと云わず、明日とも云わずに、日を空けずしていつも彼女の許に通うてみたいものだなあ」と云うことになるのかしら。幾ら相思相愛の間柄でも毎日となると (ーー;) のような気もしますが、ここでは飽くまでも願望ね。ですが、古今東西を越えた男性のこの手の願望は普遍 (^^; でもあり、当時の都びとからも大いなる共感を以て語り継がれたの。

今では周囲の景観も大きく変わり、橋自体も瀟洒な朱塗りの橋になっていますが、川の流れは遠い遠〜い昔に干上がってしまったの。「勝鹿や昔のままの継橋を忘れずわたる春霞みかな」(【新勅撰和歌集】慈円詠歌)は今いずこ?ね。今ある継橋にしても後世の造作で、必ずしもこの位置にあったと云うことではないみたいね。今を遡ること400年程前の元禄9年(1696)、時の流れの中で人々の記憶から消え行くさまを憂いた鈴木長頼は、当時の弘法寺住持の日貞上人と共に、【万葉集】に詠まれた真間の旧蹟を顕彰すべく、然るべき地を選んで石碑を建てたの。左掲はその内の一つで「真間の継橋」顕彰碑

継絶興廃 維文維橋 詞林千歳 万葉不凋
絶を継ぎ廃を興す 維れ文維れ橋 詞林千歳 万葉は凋まず
ぜつをつぎはいをおこす これぶんこれきょう しりんせんざい まんようはしぼまず

6. 手児奈霊神堂 てこなれいじんどう 9:43着 10:00発

手児奈霊神堂 冒頭でチラリと紹介した「真間の手児奈」伝説ですが、最初に(?)それを広く人々に知らしめることになったのが高橋虫麻呂と山部赤人なの。中でも「豊葦原の中津国」状態のこの地を訪ね来た山部赤人は、地元の人々の間で伝承される手児奈の入水伝説を耳にして、亡骸が葬られたと伝えられるこの地に立ち、「吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」と、遠い昔の出来事に想いを馳せたの。奥津城処と云うのは墓所のことですが、当初のそれは僅かに盛土した程度のものだったのでしょうね。

手児奈霊神堂 後に、弘法寺の第7世住持となった日与上人が、霊夢の感得を経て、文亀元年(1501)に手児奈の霊を祀る小堂を建てたの。ところで、紹介した「吾も見つ云々」の句は反歌の内の一つなの。反歌とは長歌に添えた短歌のことで、長歌を本編とするなら、それを補完する関係にあるの。なので、長歌を御案内しなければ山部赤人の心模様に触れたことにはならないわね。折角ですから、その長歌の方も併せて掲載してみますので、改めて余韻をかみしめてみて下さいね。余談ですが、本堂前左手に見える桂の木は昭和60年(1985)にさだまさしさんが植樹されたものだそうよ。

古へにありけむ人の倭文幡の帯解き交へて臥屋建て妻問ひしけむ勝鹿の
いにしへにありけむひとのしづはたのおびときかへてふせやたてつまどひしけむかづしかの
真間の手児奈が奥津城を此処とは聞けど真木の葉や茂りたるらむ松が根や
ままのてごながおくつきをこことはきけどまきのはやしげりたるらむまつがねや
遠く久しきことのみも名のみも吾は忘らえなくに
とほくひさしきことのみもなのみもわれはわすらえなくに

〔 反歌 〕

吾も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児奈が奥津城処
われもみつひとにもつげむかづしかのままのてごながおくつきどころ
葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ
かづしかのままのいりえにうちなびくたまもかりけむてごなしおもほゆ

〔 現代語訳 〕 その昔、ある男が新居となる小屋を建てて求婚し、その葛飾の真間の手児奈の墓はここだとも聞くのだけれど、真木の葉が生い茂り、松の根もすっかり長く伸びてしまった今となってはどの辺りに眠るのかも定かではないけれど、遠い昔の出来事かも知れないけれど、手児奈と云う名前だけは、私はいつまでも忘れることが出来ないだろう。私もこうして訪ね歩いてようやく見つけることが出来たのだけれど、この想いはこの場所に立つことが出来た者でなければ分かりはすまい。ならば人にも教えてあげよう、葛飾の真間の手児奈が眠るとされるこの場所のことを。葛飾の真間の入江を見ていると、岩場で打ち寄せる波に揺らぐ海藻を刈り取る手児奈の姿も瞼に浮かんでくるようだ。

手児奈霊神堂 美貌がゆえに悲劇の終焉を遂げた手児奈の物語は、後に様々な伝説を以て語られるようになるのですが、【万葉集】には山部赤人の他にも高橋虫麻呂が詠んだ歌が載せられているの。【万葉集】が編まれたのは奈良時代のことですが、その頃には既に伝説の乙女として昇華し、人々の噂にのぼる時、手児奈は永遠の美しさを以て語られるようになっていたの。羨ましい限りね。(^^; と云うことで、【万葉集】の巻第9に収められる高橋虫麻呂の長歌を紹介してみますね。

鶏が鳴く吾妻の国に古へにありけることと今までに絶へず云ひける
とりがなくあづまのくににいにしへにありけることといままでにたへずいひける
勝鹿の真間の手児奈が麻衣に青衿着け直さ麻を裳には織り着て
かつしかのままのてこながあさぎぬにあおくびつけひたさおをもにはおりきて
髪だにも掻きは杭らず沓をだに穿かず行けども錦綾の中に裏める斎児も妹に如かめや
かみだにもかきはけずらずくつをだにはかずいけどもにしきあやのなかにつつめるいつきごもいもにしかめや
望月の満れる面わに花の如笑みて立てれば夏蟲の火に入るが如
もちづきのたれるおもわにはなのごとえみてたてればなつむしのひにいるがごと
湊入りに船漕ぐ如く行きかぐれ人の云ふ時いくばくも生けらじものを何すとか
みなといりにふねこぐごとくいきかぐれひとのいふときいくばくもいけらじものをなにすとか
身をたな知りて浪の音の騒ぐ湊の奥津城に妹が臥せる遠き世にありけることを 昨日しも見けむが如も念ほゆるかも
みをたなしりてなみのとのさわぐみなとのおくつきにいもがこやせるとほきよにありけることを きのふしもみけむがごともおもほゆるかも

〔 反歌 〕

勝鹿の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児奈し念ほゆ
かづしかの ままのいみれば たちならし みずくましけむ てこなしおもほゆ

〔 現代語訳 〕 吾妻の国に昔から語り継がれる葛飾の真間の手児奈は、青衿を付けただけの粗末な麻衣に裳を纏い、髪も梳かさなければ沓も履かずにいたのだけれど、その美しさは錦の衣に包まれて大事に育てられた良家の娘子も遠く及ばないほどで、立ち止まって振り向きざまに満ち足りた月のような面差しに花のような笑みを浮かべると、灯りを求めて群がる夏虫のように、湊に漕ぎ集まる舟のように、多くの男達が思いを寄せたと云う。けれど手児奈はそう長くも生きられぬいのちの儚さを悟ってか、それとも身の程を知ってのことか、波の音の騒ぐ湊の浪間に入水して果て、今は静かにこの奥津城に眠ると云うのだけれど、この場所に佇んでいると、遠い昔のことがまるできのうの出来事のように思えてくることよ。

手児奈霊神堂 高橋虫麻呂が語るところでは可憐にして清楚この上なしで、ヤマトナデシコもかくやありなむ−の世界ね。でも、手児奈と云うのは彼女の本当の名前ではなかったみたいよ。読みにも「てごな」と「てこな」の両方があり、表記にしても「手」+「児 or 古」+「名 or 奈 or 那」の複数の組み合わせがあるのですが、この頁ではξ^_^ξの個人的な趣味から手児奈の表記を採用していますので御了承下さいね。因みに、「てこ」とは当時の東俗語と云うか方言で娘子のこと。「な」にしても元々は愛称の接尾語なの。それが物語が語り継がれる中でいつの頃からか固有名詞に転化したみたいね。

【万葉集】に詠われる手児奈の面影からは、紹介した新嘗祭などを執り行う巫女の姿が見え隠れしているの。中には「倭文幡の帯解き交へて臥屋建て妻問ひしけむ」の解釈をめぐり、嘗ては国府が置かれて貴人達の宴席を彩る女性達もいたことから、手児奈は遊女のはしりだった−などと夢も希望もねえ〜 (^^; 説まであるの。ですが、【万葉集】が編まれた頃には既に伝説化していた訳で、歴史の時間軸に照らして矛盾があるような気がするの。数ある説の中でξ^_^ξのお気に入りが桜井満氏が唱えられている巫女説(保育社刊 桜井満著【万葉の歌13 人と風土 関東南部】所収)で、神さまのお嫁さんにはなれても、人の男性の妻になることは決して許されなかったとしているの。詳しくは同著を御読み下さいね。因みに、遊行女婦(うかれめ)説は 千葉情報館 の「律令体制の房総」の項に掲載されているの。※残念ながら「千葉情報館」は閉鎖されてしまったみたいね。※

手児奈霊神堂 当初の堂宇は紹介しましたように室町時代の文亀元年(1501)に創建されたものですが、現在の建物は数度の修復を経てはいるのですが、基本的には江戸時代の文政7年(1824)に建てられたものだそうよ。今では安産・子育てに霊験灼かな仏さまとして霊神の称号を以て祀られますが、以前のそれは大明神で、仏さまと云うよりも神さまだったの。それが明治2年(1869)に後程紹介する弘法寺に敷地及び建物の管理が委譲されたのを機に改称されたの。伝えられる【手児奈霊神縁起】には「葛飾の国府に住せし造(みやつこ)に姿貌(すがたかたち)見目麗しく世に優れたる一人の媛ありし」と、もう一つの手児奈伝説が描かれているの。長くなり序でに (^^; 紹介してみますね。

媛の美貌は遠く京の都まで聞こえ、やがて請われて、とある国の造の息子の許へと嫁いでいくの。そうして二人は愛情も細やかに仲睦まじく暮らすのですが、後に親同志の不和から媛は嫁ぎ先の父親に騙されて小舟に乗せられると、海に流されてしまったの。事の次第を知った媛は余りにもつらい仕打ちに青海原のただ中で涕泣するだけでしたが、その時既に媛のお腹の中には新しい命が宿っていたの。我が身一つだけなら水底に沈めて果てようとも一時は思ったのですが、未だ見ぬ我が子のために、この命の限りを尽そうと決めたの。そうして迫り来る夕闇と眩い光の夜明けを幾つも迎えたある日のこと、俄に吹き始めた強風に煽られて岸辺の葦原に吹き寄せられたの。気が付いた媛が辺りを見回すと、不思議なことに、そこは子供の頃に見慣れた真間の浦廻だったの。

懐かしい景色に父母のことが思い出されて今にも駆け出しそうになった媛ですが、例え我が身に非が無くとも一度は他家に嫁いだ身、容易には帰ることが出来なかったの。新しい命を宿した媛はそこで母になったの。父母の扶けも求めず、一人で産むことを決意した媛は、地元の漁師に茅の仮屋を葺くなど僅かな助けを請うと、やがて玉のような男の子を産み落したの。そうして父母の名は勿論、国司の娘と云う身の上をもひた隠しにして漁師などと同じように賤しい衣を纏い、潮汲みや魚を捌いたりして糧を得ながら我が子を育てたの。けれど、幾ら賤しい身なりをしていても、希有の「みめうるわしき容貌(みめかたち)」に加え、楚々とした立ち振る舞いは、それこそ舞い降りて来た天女の如くにも見えたの。

縁起が造られた当時はどんなことがあっても嫁として勤め上げるのが美徳とされ、それを無視して里帰りすると一族を初め、周囲からは堪えられぬ程の冷ややかな視線が待ち構え、当時のバツイチは女性にはまさに致命傷だったの。

羽衣伝説では甘い香りを漂わせながら舞い上がる天女ですが、手児奈媛が笑みを浮かべて振り返る姿はまさにクリスチャンディオールの「ディオリシモ」状態だったのかも知れないわね。と云っても好みは各々ですので、香りのチョイスは皆さんにお任せよ。その香りに誘われるようにして、多くの男共が手児奈媛に云い寄って来たの。そうなると媛の廻りでは云い争いも絶えなくなり、勢いに任せて想いを遂げようとするとんでもねえヤロ〜 (^^; まで現れてくるようになってしまったの。周りの人々が自分と関わりを持つことで荒んでいく姿を見た手児奈媛は、徒らに我が身を責め、やがて幼い我が子を残して真間の入江に身を躍らせてしまったの。てめえらのせ〜で手児奈が身を投げてしまったじゃねえか!と怒鳴りたいところですが、とお〜い遠〜い昔の出来事ですから、ξ^_^ξが叫んでみたところでその声は届かないわね。

手児奈まつり けれど、そんな彼等でも流石に媛の心根を察するとその亡骸をこの地に葬り、以後は絶やすことなく香華を手向けたの。後にその塚に祠が建ち、いつの頃かお社(やしろ)が建てられると、「手児奈の社」と呼ばれるようになったと云うの。とんと、むか〜し昔のお話しよ。

ここでは脚色を交えて紹介してみましたが、その手児奈媛が祀られる霊神堂の右手に設けられた池は、嘗ての真間の入江の名残りでもあるの。畔に佇めば、手児奈媛の艶やかな中にも楚々とした立ち姿も瞼に浮かんでくるようで。左掲は第13回手児奈まつりのポスターですが、添えられた「心優しき万葉の花 手児奈霊神にいのりをこめて」のキャッチコピーが素敵ね。その手児奈まつりが気になる方は 手児奈まつり公式HP を御参照下さいね。

7. 亀井院 かめいいん 10:01着 10:16発

手児奈霊神堂の左脇から通りに抜けると直ぐにあるのがこの亀井院ですが、当初は弘法寺貫首の隠居寺として寛永年間(1624-43)に当時の弘法寺第11世住持の日立上人により開基・建立されたものなの。山号寺号にしても真間山弘法寺瓶井坊で、亀では無くて瓶の字が宛てられていたの。境内地には後述する「真間の井」が残されているのですが、嘗てはそこから瓶に水を湛えるようにこんこんと湧きおこっていたことからそれに因んで寺名としたとも云われ、後にその湧水から亀が現れた奇瑞に感謝して亀の字を宛てるようになったの。

左掲がその「真間の井」ですが、境内地にあると云っても本堂の裏手に位置することから許可無く入り込むのも気が引けて、声を掛けた上で見学させて頂きました。高橋虫麻呂は「勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し 水汲ましけむ手児奈し念(おも)ほゆ」と想いを寄せていますが、既に紹介しましたように、この歌は「鶏が鳴く云々」の長歌に対する返歌として詠まれたもので、虫麻呂は同じく水を汲む手児奈の姿が思い起こされて歌を残さずにはいられなかったのね。異説では、継母に育てられた手児奈がツライ水汲みにも堪えて孝養を尽したと云うお話しもあるのですが、手児奈は巫女さんだったとするξ^_^ξのお気に入りの説を採ると、水は神さまに祈りを捧げる前の禊に使うためのもので、だからこそ「立ち平(なら)」す程だったのではないかしら。

池 今では姿形も完全な井戸に変わりましたが、嘗てのそれは豊かな湧水だったの。今では背後の崖地も造成されて民家が建ちますが、手児奈が水汲みする頃は、まさに「まま(崖)」の状態で、国府台の台地に降り注いだ雨が地下水脈を経て湧き出していたみたいね。加えて、嘗ての入江もこの辺りまで迫り、昭和の頃でもこの「真間の井」の周辺には「片葉の葦」が茂っていたと云うの。残念なことに崖崩れで埋没してしまい、今は葦の代わりならぬ竹に囲まれているだけなの。その「片葉の葦」にしても、足繁く水汲みに通う手児奈の袖に触れたことからいつの間にか片葉だけになってしまったとか、手児奈の美しさに靡いて葉が片方に寄ってしまった、などとも云われていたの。

亀 崖崩れ以前の境内地には手児奈が朝な夕なに我が身を映して眺め見たと伝えられる鏡ガ池もあり、意外にも蔭では「ねえねえ、わたしって綺麗?」とナルシスト状態だったのかも知れないわね。(^^ゞ ちょっと茶化し過ぎてしまいましたね、ごめんなさい。余談ですが、「片葉の葦」に纏わる逸話は日本各地に残されているの。語り継がれる逸話の内容にしても様々なのですが、葦は祭祀を執り行う際には神前に供えたり、神さまの依代としても使われたことから、その採取地も神聖な場所と見做されていたみたいね。

真間の井顕彰碑

順序が逆になり恐縮ですが、亀井院の門前左手に建てられているのがこの「真間の井」顕彰碑なの。真間の継橋のところでも紹介しましたように、この石碑も鈴木長頼が当時の弘法寺第17世日貞上人と図って建てた万葉顕彰三碑の一つなの。現在は他の二碑と共に市川市の有形重要文化財に指定されることからこの鉄柵の設置となるのかも知れませんが、刻印も摩耗して来たようで何が書いてあるのか分からないの。鉄柵に守られて容易には近づけず、読めないとあっては余計気になりますよね。そこでサービス精神旺盛なξ^_^ξが大サービスしちゃいますね。本当は自分が知りたかっただけなのですが。(^^;

瓶甕可汲 固志何傾 嗚呼節婦 與水冽清
瓶甕汲む可し 固く志何ぞ傾けんや 嗚呼節婦 水と冽清
へいおうくむべし かたくこころざしなんぞかたむけんや ああせっぷ みずとれっせい

ねえねえ、さっきから出て来る鈴木長頼と云う人はどんな人なの? そうね、このお寺の墓地に眠る位だから当然亀井院とは深か〜い繋がりがあるの。
なので、彼のことをここで纏めて紹介してみるわね。

鈴木長頼(1655-1705)は江戸時代の人で、幕府の作事方御大工頭を務める程の人だったの。家系を遡ると清和源氏に繋がると云うサラブレッド状態で、彼は職責の一方で幼少時から学問を好み、古今の書物に精通していたと云うの。元禄9年(1696)に父・長常が亡くなると、鈴木家の菩提寺でもある瓶井坊にその亡骸を葬り、併せて堂宇を修復して寺号も鈴木院(れいぼくいん)に改称したの。紹介した真間の万葉三顕彰碑も、実はこの時に建立されたものなの。その長頼も、宝永2年(1705)に江戸城内で病(過労?)に倒れてしまったの。千住で荼毘に付された後は同じくこの亀井院の鈴木家歴代の墓地に埋葬されたのですが、長頼没後はその鈴木家も衰え、寺号も再び瓶井坊に戻されて、後に霊亀出現の奇瑞に合わせて更に亀井坊と名を変えたの。

ところで、門前に建つ案内板には、亀井院の縁起と併せて北原白秋のことが触れられているの。白秋は大正2年(1913)にある事件を経て松下俊子さんと結婚するのですが、僅か一年余りで離婚してしまうの。大正5年(1916)には江口章子(あやこ)さんと再婚して、白秋は当時の亀井坊の庫裡の一室を借りて起居したの。一室と云っても僅か六畳の部屋で、「朝に起き夕に寝ていただくはありふれし米の飯、添ふるに一汁一菜の風韻、さながら古人の趣きに相かなふを悦」んではいたみたいですが、流石に「米櫃に米の幽かに音するは白玉のごと果敢かりけり」状態で、困窮を極めてもいたの。

亀井院 一方の亀井坊にしても、明治21年(1888)の弘法寺の火災を受けて同じく類焼し、農家の母屋を買い取り寺坊に代えていたの。現在の堂宇は昭和44年(1969)に復興新築したものですが、当時の亀井院は白秋に云わせると「廃れた古い庵寺」状態だったの。案内板には白秋在住当時の亀井院の写真が掲載されていますが、電柱らしきものが写りますので、電気は来ていたみたいね。併せて「蕗の葉に亀井の水のあふるれば蛙啼くなりかつしかの真間」の一首が紹介されていましたが、茅葺き屋根の草庵の趣きは、確かに”わび・さび”の世界ね。

8. 弘法寺 ぐほうじ 10:31着 11:11発

参道 寺伝では、奈良時代に東国を遊行していた行基が手児奈伝説を聞き及び、天平9年(737)にその霊を供養するために堂宇を建立したことに始まると云うの。ですが、この弘法寺に限らず、高僧・行基の遺徳が各地に残されていますが、存命中に東国に訪ね来たと云う記録が無いことからその多くは後世の造作に依るものとする説があるの。他の頁では折りに触れて紹介していますが、行基が活躍したのは専ら畿内でのこと。確かに記録が無いからと云って東国を来訪しなかったと断言することも出来ませんが、寺格を高めるための後世の付与が多いのではないかしら。

当初の寺号は求法寺でしたが、後の弘仁13年(822)には弘法大師こと空海上人が七堂を構えて真間山弘法寺(こうぼうじ)を正式な山号寺号とし、更に元慶5年(881)には天台宗に転じたとされるの。時代を経た鎌倉時代には日蓮宗の流布を受けて当時の住持・了性上人が富木常忍と法論をたたかわせたのですが、論破されて隠遁してしまったの。そこで常忍の養嗣子で、六老僧の一人でもある日頂上人を開基として、弘安元年(1278)に日蓮宗に改宗すると共に、寺号も弘法寺(ぐほうじ)と呼び改めたの。

富木常忍は下総国若宮の領主で、以前から日蓮上人に帰依していたみたいね。鎌倉の松葉ヶ谷の草庵が襲われて焼き討ちに会うと上人を自邸に招き、敷地内に法華堂も建てているの。法論では、在野にありながら相手方の了性上人を負かせてしまうのですから、早くから教義にも精通していたみたいね。その法華堂を文永11年(1274)に妙連山法華寺と改称し、日蓮上人亡き後は自らも剃髪出家して日常を号すると法華寺の第一世住持となるのですが、その法華寺こそが今の中山法華経寺のルーツなの。

鎌倉末期の元享3年(1323)には千葉胤貞から寺領の寄進を受け、時代を経た天正19年(1591)には徳川家康より朱印地が与えられ、以後の歴代将軍もこれに倣っているの。元禄8年(1695)には水戸光國も来訪したと伝えられ、亨保年中には吉宗も参詣するなど、為政者の庇護を受けて隆盛し、諸堂も改築造立しているの。江戸時代には紅葉の名所として知られるようになったのですが、吉宗がその紅葉の見事さに感嘆したことが始まりだったみたいね。将軍・吉宗が賞賛したのですから「な〜に、てえしたことあ、ねえんだよ」なんて誰も云えないわよね。とは云え、多くの文人墨客も紅葉狩りに訪ね来たと云うのですから、名所であったことは間違い無さそうね。能書きが長くなってごめんなさいね。早速、弘法寺の境内に御連れしますね。

石段 門前の石柱を通り抜けると正面に石段の参道が延々と続きますが、忘れずに段数を数えながら登って下さいね。そうして下から27段目左端の石に御注目下さいね。地元では涙石と呼ばれ、先程紹介した鈴木長頼がその石の上で割腹自殺を遂げ、その時に流れ出た血が乾くことなくいつまでも涙を流したように石を湿らせていることから名付けられたと云うの。この際ですから長くなった序でに、その「真間の涙石」伝説を紹介しちゃうわね。読むのに疲れた方はここでちょっとティー・タイムを。書くのに疲れたξ^_^ξはコーヒー・ブレイクよ。(^^;

亀井院のところでもその名が出ておったのじゃが、鈴木長頼と云う人は幕府の作事方御大工頭を務めるほどのお方じゃった。その長頼が日光の東照宮の造営の時に下野(しもつけ)の国は間々田の地に、石段の築造の命が下されたのじゃ。そん頃は真鶴の小松村から採れる石は、江戸城の築城ん時にも使われた程頑丈で立派な石だで、こん時も真鶴から船に積んで運び込む算段じゃった。そうして最初の船が江戸川を遡ってようやく国府台の船着き場に辿り着こうかとした時のことじゃった。どうしたことか、あともう少しじゃと云うんに急に船が動かなくなってしもうてのお。皆して力の限り艫を漕いでみたんじゃが、ビクともせなんだ。

そん船からはこの弘法寺の建つ真間山が見えておったと云うことじゃが、弘法寺の末寺の亀井院には先祖代々の墓もあって、長頼は普段から帰依して外護しておったようじゃのお。船が動こうとせなんだも、この小松石を使うて石段を造れとの御仏の御導きかも知れん。ここは真間じゃが間々田を真間と聞き間違うたことにしてしまえば良かろうて−そう思うたそうじゃ。不思議なことよのお、長頼がそう心に決めた途端に船は嘘のようにまた川面を走り始めたのじゃ。それはまるで船着き場に手繰り寄せられるような走りじゃったそうな。

そうして長頼は積荷の小松石を降ろすと石段を築いて弘法寺に奉納したんじゃ。じゃがのう、それを知った将軍さまはカンカンじゃあ。いやしくも東照大権現さまを祀る御宮に通ずる参道の石段に使うべき小松石を!長頼め、腹を切って申し開きせんかあ!と云うほどじゃった。けれど長頼も信仰か幕府への忠誠かで揺れておったようじゃのお。最期は今は亡き父親の命日を追うと完成した石段の途上で割腹して果てたのじゃ。そん時に流れ出た血が石に染み込み、いつまでも乾かずに、まるで涙を流しているように見えたことから、いつの頃からか、涙石と呼ばれるようになったのじゃ。そん涙石じゃが、今でも時折涙を流したように湿り気を帯びることがあるそうじゃ。

伝説を一部脚色を交えて紹介してみましたが、小松石を切り出した真鶴にもこの伝説に良く似た伝承が残されているの。真鶴岬の突端に三ツ石と云う景勝地があるのですが、そこには沈鐘伝説が語り継がれているの。興味のある方は鎌倉歴史散策番外編の 真鶴 を御笑覧下さいね。CMでした。(^^;

参道 長頼の名誉のために書き添えておきますが、涙石に纏わる逸話は飽くまでも伝説よ。石段を実際に奉納したのは祖父の長次で、使われた石にしても日光普請の残石を寄付したものなの。詳細は省略しますが、長頼は親交のあった儒学者の人見節に依頼して先祖を始め、祖父・長次の功績を顕彰する墓誌銘を建てているの。それが鈴近江翁碑ですが、「弘法の寺 十囲の楓茂る 真間の山 一片の石秀づ」とあるの。伝説が生み出された背景はこの辺りにありそうね。けれど、伝承とは云え、事実とは異なり、長頼を割腹自殺させるにはそれなりの理由があったハズよね。それを辿れば新たな歴史の真実が見えてくるのかも知れないわね。考え過ぎかしら?(^^;

仁王門 仁王門 仁王像 仁王像

石段を登り切るとあるのがこの仁王門。正面に掲げられた扁額は弘法大師の真筆と伝えられ、両袖に脇侍する仁王像も運慶作と云われているの。その仁王門を潜ると広い境内に諸堂が配置されますが、幾れも新しいもの。それもそのハズで、明治21年(1888)の火災で諸堂を焼失し、明治23年(1890)に再建されて改修・改築を経て現在に至っているの。

鐘楼 伏姫桜 祖師堂 客殿&本殿

赤門 上掲は左から珍しい袴腰の鐘楼に、伏姫桜と名付けられた樹齢400年の枝垂れ桜。そして祖師堂にピッカピッカの客殿と本堂が続くの。その客殿と本堂を過ぎたところにあるのが左掲の赤門ですが、門柱には「人間学校」の表札が。傍らの掲示板には「人間宣言」が掲載されていましたが、ここでは写経や折り紙教室などの講習会が定期・不定期に開かれ、現代版寺子屋と云ったところね。東大の赤門は容易には潜ることが出来ませんが (^^; ここならいつでもOKよ。講座内容などが気になる方は 真間山弘法寺 を御参照下さいね。

龍神堂 その赤門の右手にある小堂が龍神堂なの。実はこの弘法寺に所縁のある弘法大師こと空海上人にしても日蓮上人にしても、龍神とは深〜い繋がりがあり、二人は雨乞いの達人 (^^; でもあるの。内裏の神泉苑での空海上人の降雨祈願のお話しは有名(でもないか)ですし、日蓮上人も極楽寺の忍性上人と降雨対決しているの。その際には龍神を勧請しているのですが、空海上人が請来したのが善女龍王なら、日蓮上人の請願に応えて助けたのも八大龍王なの。とりわけ八大龍王は八岐大蛇ならぬ八体の龍王なのですから、強力この上ない助力が得られたのかも知れないわね。

道場 赤門の正面に位置する建物が道場で、その右手に位置するのが太刀大黒尊天堂と名付けられた堂宇で、大黒天が祀られているの。今では大黒天と云えば七福神の一神として大黒さまの愛称で知られますが、当初の大黒天は寺院の守護神として厨房に祀られたの。そのルーツはインド神話に登場する荒ぶる神の摩訶迦羅 Mahakala で、Mahaは「大きな」を、Kalaは「黒」を意味することから大黒と訳されたの。食は僧侶にとっても根源的なものよね、寺院の守護神として祀られる一方で、豊穣を齎す神としても見做されるようになり、御馴染みの大黒さまに変身していくの。

太刀大黒尊天堂 太刀大黒尊天堂に祀られる大黒天は、右手に太刀をかざし、左手には小槌を持つとのことですが、比叡山での修行の折りに大黒天を感得した日蓮上人が、仏師に命じてそれを彫らせたものだそうよ。槌は同じ音の「土」に通じることから豊穣の象徴とされたのですが、気になるのは右手の太刀の意味ね。瞬間的には殉教の徒として時代を駆け抜けた日蓮上人の闘争心剥き出しの意志を感じてしまいますが、そうでは無くて、ここでは貧困を断ち切る刃(やいば)なの。ξ^_^ξにはそれこそ二刀流で護ってくれる大黒天が必要ね。勿論、背中には富の象徴とされる大きな袋も。(^^;

遍覧亭 境内の一角に忘れられたかのような佇まいの建物がありますが、元禄8年(1695)に黄門さまこと水戸光國が参詣した際に遍覧亭と名付けられたと云う茶室なの。元々は長禄元年(1457)に太田道潅が造営寄進したもので、寛永年間(1624-44)に修復再建されているの。紅葉の名所として多くの文人墨客が訪ね来たことは紹介しましたが、亨保年間(1716-36)には将軍・吉宗も参詣し、紅葉の見事さを愛でているの。その時の記録には「板縁に腰掛けて見渡す」とあるのですが、紅葉はさておき、今では縁台が朽ちかけるなどしていてとても座れそうにないの。

嘗てはその縁台に座れば木々の梢の間からは【葛飾誌略】の著者曰く、「千萬の風光一望に滿つ 富士の白峰遙に見えて 佳景いふばかりなし」の原風景が見えてたみたいね。モミジにしても将軍・吉宗の賞賛を得たことから「上覧の紅葉」と名付けられたのですが、実は楓の木だったみたいね。【葛飾誌略】にはその楓のことが記されていますので、併せて紹介してみますね。

モミジ 此の楓 凡そ千年の老樹也とぞ 幹は二抱えに餘り 枝に枝 葉に葉を重ねて
高さ四五丈 徑六七丈にはびこり 二葉の紅葉とて比類無き名木也
常に風騷の客多し 凡そ諸木の葉 紅する中に 楓は名を云わずして
紅葉と稱せらるるは紅葉勝る故也 櫻と云はず 花と云ふが如し

※残念ながらその楓も遠い昔に枯死してしまったの。

遠景 拝観を終えて本堂脇の道を通り、弘法寺の背後に抜けましたが、千葉商科大と墓苑に挟まれた道を東に歩いてみたの。間も無くして高台の外れに出ますが、そこから眺め見たのがこの景観なの。嘗ては東京湾の入江がこの辺りまで迫り、干潟や州が広がっていたと云うのですが、今となっては想像出来ない光景ね。そうそう、弘法寺の仁王門脇には市の教育委員会が立てた案内板があるのですが、嘗ての様子を描いた絵図が掲載されていますので、忘れずにね。

9. 下総国分寺 しもうさこくぶんじ 11:41着 12:00発

弘法寺から30分程歩いてようやく (^^; 辿り着いたのがこの下総国分寺。正式には国分山国分寺を山号寺号とする、現在は真言宗豊山派の寺院。その名から容易にお分かりのように、下総国分寺の跡地に建つお寺なの。と云っても嘗ての遺構は今となっては全てが土の中で、目にすることが出来るのは僅かに礎石のみになってしまったの。余談ですが、国分寺のことを国分僧寺と表記する場合もありますが、これは国分尼寺に対比する呼称で、僧が男性なら女性は尼と云うわけね。だとすると、尼僧と云う呼称は本来なら誤り?

最初に出迎えてくれるのがこの仁王門。嘗ては宝暦年間(1751-64)に建立されたと云う楼門造りの南大門が建てられていたと云いますが、残念ながら明治24年(1891)に焼失してしまい、現在のそれは昭和49年(1974)に天平様式を模して新たに造られたものなの。脇侍する仁王像にしても、その時の火災で阿形像こそ火中より救出されたものの、吽形像は焼失しまい、仁王門の再建に合わせて復元塑像されているの。仁王門が新しいものならその前に駐車する車もピカピカね。国分寺とあってξ^_^ξのような庶民には無縁の世界かも。(^^;

扁額 左掲は仁王門に掲げられていた扁額ですが、現在の山号では無くて、金光明四天王護国之寺と刻まれているの。その理由は国分寺・国分尼寺を諸国に創建すべく発布した聖武天皇の「国分寺建立の詔」に依るの。【続日本紀】巻14には天平13年(741)に発布した詔の詳細が記述されていますが、その一部を読み下し文にした上で紹介してみますね。尚、原文では聖武天皇の建立に寄せた思いが叙事詩を語るが如く書き記されているのですが、ここではキーワードを含む部分のみを抽出して繋げてしまいましたので御了承下さいね。

朕 薄徳を以て 忝なく重任を承け 未だ政化を弘めず 寤寐(ごび)多く慚(は)づ 宜しく天下の諸国をして 各々敬いて 七重の塔一區を造り 併せて金光明最勝王経 妙法蓮華経 各一部を写さ令む 其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し

寤寐は「寝ても覚めても」の意。慚づは「恥ずかしい」の意味ですが、「慙愧に堪えぬ」と云う場合の「慙」に近い表現で、「惨めである」とか「辛い」などの語感を伴うことばなの。難しい日本語ね。

本堂

昭和40年(1965)から行われた本格的な発掘調査では南大門、中門を経て回廊内の左右に塔と金堂が配され、北に講堂を建てる法隆寺様式の伽藍が建てられていたことが判明したの。仁王門脇の一角には御覧の下総国分寺創建伽藍基壇配置図が案内されていましたが、気になるのは基壇の軸線の磁北に対する偏倚角が建物毎に異なること。その角度にしても三つの建物が皆な東側に傾いているの。これって普通のこと?それとも下総国分寺に限って特別の意味があるのかしら。何かと謎の多い御本家の法隆寺ですが、この下総国分寺も法隆寺様式の伽藍配置とあり、何かが隠されているのでは−と思うのは考え過ぎかしら。(^^;

上総国に建てられた上総国分寺でも同じように偏倚角の事例が発見されているみたいね。早稲田大学出版部刊「上総国分寺」では上総国分寺址調査団長であり、著者でもある滝口宏氏が講堂址の遺構について「基壇の中心線は磁北に対して東十三度と大きく偏している。・・・〔 中略 〕・・・その正面の向きが金堂にくらべ七度も東に偏していることはやや奇異な感がある」と感想を述べているの。と云うことは、この下総国分寺にしても同じことが云えるのではないかしら。

配置図上には七重塔の基壇が記されていますが、発掘調査の結果では基壇の存在は確認出来たものの、地業からは実際の建立を思わせる証左が得られなかったみたいね。基壇の遺構にしても、金堂と講堂の基壇造営の時期とは異なり、その規模にしても小さいことから当初の創建時には建立されずに、後に七重塔を諦めて五重塔若しくは三重塔に変更して建立されたのでは?と云う説があるの。But 挫折したとはいえ、七重塔の建造を目指していたと云うのはスゴイわね。仮に七重塔が建てられていたとしたら、まさに御仏の教えは「端麗(きらぎら)し」に見えたかも。

毘沙門天 境内の一角には市川七福神の一つ、毘沙門天が祀られているの。穏やかな表情の神さまが多い七福神の中で唯一武神の面影を残す毘沙門天ですが、仏教では多聞天の名でも呼ばれているの。元々はインドの古代神話に登場する倶吠羅 Kuvera をルーツにしてヒンズー教の神を経て仏教の護法神となったの。毘沙門天の呼称はサンスクリット語の Vaisrovana に由来するのですが、仏教では世界の中心にあるという須弥山の四方を守護する神として、持国・増長・広目天と共に天部に祀られるの。因みに、須弥山の頂上に住するのが帝釈天で、四天王はその眷属でもあるの。

10. 寳珠院 ほうじゅいん 12:03着 12:07発

山門

夏蜜柑

脇道を隔てて国分寺と隣り合わせに位置するのがこの玉王山寳珠院で、現在は真言宗豊山派の寺院。縁起や寺史は不詳ですが、元和7年(1622)の創建と聞きますので江戸時代初期のお話しね。因みに、元和はここでは「げんな」と訓んで下さいね。境内はこじんまりとしていますが、石畳の参道脇には喜多向地蔵尊が祀られ、草木の豊かな緑に囲まれて「いちかわ水子地蔵尊」像が建てられているの。本堂には「いちかわ薬師」と呼ばれる薬師如来像が安置されると云うのですが、拝観出来ずに終えているの。右端はその本堂前に植栽されていた夏蜜柑の木。何故か気になるんですよねえξ^_^ξ、夏蜜柑を見ると。

11. 天満宮 てんまんぐう 12:11着発

天満宮 宝珠院を過ぎて程無くして見つけたのがこの天満宮。見た目には極最近全面改修されたか、若しくは新たに建てられたもののようですが、由来などは不詳なの。天満宮と云えば、菅原道真を祀る北野天満宮を思い浮かべますが、後で紹介する総寧寺近くにも天満宮神社があるの。どちらもその北野天満宮から分霊・勧請したものでしょうね。ここではムセキニンモードで記述していますので鵜呑みにしないで下さいね。(^^;

12. 庚申神社 こうしんじんじゃ 12:22着 12:24発

庚申神社 国分寺の墓苑を回り込むようにして左折して国分福祉作業所前を通り、更に道なりに進むと木立ちの蔭にポツンと鎮座していたのがこの庚申神社。神社と云っても青面金剛が彫られた庚申塔を収めた小さな祠堂が建つだけなの。庚申塔は道教の三尸説に由来する庚申信仰の中で生まれて来たものですが、道祖神として扱われるのはまだしも、今では墓石と見做されるケースも多いの。庚申塔や庚申信仰のことが気になる方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。少しだけ解説してみました。

庚申神社の庚申塔を御覧になる機会がありましたら青面金剛の左手に御注目下さいね。
勿体ぶらずに教えろ!ですか?でも、それは御覧頂いた時のお楽しみよ。(^^;

13. 名称不明 12:25着 12:26発

樹叢 その庚申神社の斜め前方に小さな鳥居が建つ樹叢を見つけましたが、ここにも庚申塔が祀られていたの。こちらの庚申塔は種子(しゅじ)と青面金剛(しょうめんこんごう)の文字を刻むだけの簡素な造りですが、隣にはペットボトル程の高さの庚申塔も脇侍するの。周囲には瀟洒な邸宅が所々に並び建ちますが、この辺りまで来ると未だ葱やキャベツを栽培する畑が残されているのね。本来の役目を終えた庚申塔が今もこうしてあるのは、大地からの恵みに感謝して、日々の安寧を願う方々がいらっしゃればこそのお話しよね。

ヘチマ 道を挟み、樹叢の反対側にある畑ではヘチマが栽培されていたの。最初は正体が分からず、キュウリの化け物 (^^; かしらと思ったの。その根元では御覧の奇妙な野菜が実を稔らせていたの。ちょっと見では立派なトマトですが、良く見ると茄子のような枝ぶりの木なの。ヘタの部分にしてもこれは茄子よね。キメラ状態にあるこのお野菜は何て云うの?画像は拡大表示が可能ですので検証してみて下さいね。

14. 国分尼寺址 こくぶんにじあと 12:39着 12:56発

国分尼寺址 庚申塔の祀られる小さな樹叢脇から斜めに続く道を歩くと国分尼寺址があるのですが、国分僧寺址と違い、僅かに残される礎石にその痕跡が偲ばれるだけなの。近年の発掘調査で大規模な伽藍の遺構が発見され、全容が明らかになったわけですが、以前からこの辺りは昔堂と呼ばれ、遠〜い昔に大きなお寺が建てられていたみたいよ−程度の認識はあったみたいね。普通は尼寺と聞くと僧寺に較べて小規模な伽藍を想像してしまいますが、講堂に関しては僧寺のそれよりもちょっとだけ大きかったようよ。尤も、今となっては基壇の大きさの比較でしかないのですが。

礎石 その尼寺址も今では史跡公園として一般に広く開放され、訪ねた時には地域コミュニティーの一環でしょうね、近在の方々が集まり、模擬店を出店するなどしてイベントが催されていたの。ですが、残念なことに、その史跡公園に残されている礎石脇にはバイクが力任せに走り抜けたと覚しき轍痕が。先程紹介した聖武天皇の「国分寺建立の詔」では国分寺を「法華滅罪之寺と為す」としているの。伽藍が消えて久しい今となっては、聖武天皇のことばを借りると、「穀豊かならず疫病頻りに至る」状態に再び還りつつあるのかも知れないわね、それも加速度を増しながら。

ねえねえ、何でお寺のことを伽藍と云うの? 伽藍はサンスクリット語の Samgharama が音訳された僧伽藍摩(さんぎゃらんま)の略なの。僧伽は僧侶で、藍摩は園の意味なの。だから伽藍はお坊さん達の園と云うわけ。ちょっと茶化しちゃったけど、清浄にして閑静な修行地のことね。

お釈迦さまの教えに従い修行する人達は最初の頃は森の中で集団生活をしていたの。それが僧伽藍摩の始まりなの。泉の畔で連座しながらお釈迦さまの声に耳を傾けていたのかも知れないわね。お釈迦さまの前世は七色に輝く毛をした鹿だとも云われているけど、泉の水面に浮かぶお釈迦さまの躯は虹色に輝き、それこそ神苑に遊ぶ七色の鹿状態だったのかも知れないわね。

ところで、修行すると云うことは未だ悟りを開いた訳では無いわね。となると当然日が暮れれば眠くなるわけで、次に必要になるのは寝室よね。それが後に転じて僧房になるの。そして次に必要になって来たのがお釈迦さまの教えを聞くための場所なの。雨の日でも平気なようにと造られるようになったのが講堂なの。今でこそ一人でも僧と云うけど、インドでは修行する一団を意味することばだったの。彼等は集団生活していた訳だから当然そこではコミュニケーション・ツールが必要になるわよね。それが鐘楼の始まりなの。お〜い、お釈迦さまがお見えになったよ〜。早く講堂に集まれ〜と云うことで「ゴオ〜〜〜ン」とひと衝き。巷で耳にする「祇園精舎の鐘の声(ね)」と云う時の祇園精舎の伽藍構成はここまでのものよ。

以上はお釈迦さまが未だ御存命の頃のお話しね。悟りを得て仏さまになられたお釈迦さまでも肉体的にはしっかり人間だったわけで、教えを聞けなくなった僧侶達はお釈迦さまの遺骨をその代わりに祀るようになったの。それが舎利塔(仏塔)の始まりなの。三重、五重、七重塔のバリエーションが広く知られますが、石造の十三重塔が境内に建てられているのを見掛けることもありますよね。ところで舎利とは骨を意味するサンスクリット語の Sarira の音訳なのですが、お寿司屋さんで御飯のことをシャリと呼ぶ方もいらっしゃいますよね。そのルーツは同じものと誤解している方もいらっしゃいますが本来は別物で、お米を指す Sali と音が似ていることからお米と骨が同一視されるようになってしまったの。骨はシャリシャリしていて美味しくは無いわよ、きっと。(^^;

後に仏教も大乗小乗に分かれるとお釈迦さまの遺骨と云う即物的な仏さまを祀る仏塔の他に、理仏を祀る堂宇が建てられるようになるのですが、現在の金堂と呼ばれる建物がそれに当たるの。金は洋の東西を問わず古くから貴金属の中でも最上級に位置するものよね。黄金色に輝く理知の光で遍くこの世を照らせよ−と云うわけ。因みにガイドブックなどで見掛ける七堂伽藍とは、紹介した堂宇の他にも経蔵や食堂などを加えた構成を云うのですが、時代や宗派で構成も呼び名も異なり、明確な定義があるわけではないの。七つあっても無くても大規模なお寺のことを七堂伽藍を備えた云々と形容する場合が多いの。

庚申塔 国分尼寺址の隅に追い遣られるようにして草叢から顔を覗かせていたのがこの庚申塔なの。馬頭観音の文字を刻む庚申塔ですが、複数基が建てられているの。仏教では馬頭を戴き忿怒の形相をした馬頭観音像は日本人には余り好まれなかったみたいね。ところが、馬頭の「馬」と農耕馬が単純に結びつけられて馬の守り神、農耕の神として庶民の間で崇められるようになると、庚申塔の主尊として祀られるようになるの。耕作機械の無い当時は馬は大事な働き手。飼馬が丈夫でいることが貧しい暮らしの支えだったの。ネットサーフィンしていたら気になる記述を見つけたの。市川歴史散歩 に依ると、明治の頃にはこの辺りが馬捨場になっていたと云うの。だとすると、この庚申塔は打ち捨てられた馬たちへの供養塔でもあると云うことね。疫病に倒れたか、それとも老いて働けなくなってしまったからなのでしょうが、今までの働きに感謝して石塔に手を合わせ、飼馬の成仏を願う人々の姿も見えて来るようで‥‥‥

時計台 国分尼寺址からは和洋国府台女子中を右手に千葉商大付属高校へ抜けて次の蓴菜池へと向かいましたが、20分程の道のりよ。因みに、左掲はその和洋国府台女子中の時計台なの。最初は何の建物か分からなかったのですが、歴史に彩られた国府台の台地に聳える近代的な建物と云うことで、新旧のコントラストが面白くて収めたものなの。当時の国分尼寺の尼さん達がこれをみたら「バベルの塔」にも見えたかも知れないわね。見えるわきゃねえだろ〜、片や仏教、片やキリスト教の旧約聖書だぜ。尼さんがバベルの塔を知るわきゃねえだろっつ〜の。(^^;

15. 蓴菜池緑地公園 じゅんさいちりょくちこうえん 13:00着 14:25発

公園案内図 千葉商大付属高校の角を曲がり、バス通りを歩きますが、坂道を下りきったところにあるのがこの蓴菜池。国府台と国分の台地に挟まれた湿地が沼として残り、嘗ては蓴菜が採れたことからこの名称になったみたいね。蓴菜?なあにそれ?−と云う方もいらっしゃるかも知れませんが、生憎と手許に画像がありませんのでネット検索してみて下さいね。ですが、蓴菜と漢字で書かれても仲々訓めないわよね。スーパーなどでは「じゅんさい」と表示して売られていますが、味覚と云うよりもツルリとした喉越しの食感を楽しむ食材ね。

蓴菜池 蓴菜池 蓴菜池 蓴菜池

その蓴菜も昭和初期に幾度か渇水して沼が干上がってしまい、絶滅したの。一時は田圃として稲作も行われたようですが、開発を受けて宅地に姿を変えた水田も多く、離農する人も多かったのでしょうね、休耕田が増えて、そこに生活の雑排水が流れ込み、泥沼状態になってしまったみたい。当時のことを知る由もありませんが、臭気が立ち上る状態だったのでしょうね。でも、それをギリギリのところで夢の島状態にしなかったのは近在の方々の知性と教養ね。嘗ての蓴菜池を甦らせるべく整備事業が始まったの。そうして出来たのがこの緑地公園と云うわけ。

四阿 四阿 四阿 亀

寒桜 先日の降雨で池の水は土色に濁っていましたが、それでも鴨や川鵜などの水鳥たちが遊ぶオアシスになっていたの。園内には四阿(あづまや)も造られて風情を添えていましたが、その前の岩場では亀が甲羅干しのお昼寝中。整備された散歩道が池の廻りを巡りますが、訪ねた時には「栗拾い」が出来ちゃったの。と云っても大袈裟なものでは無くて一、二個拾っただけですが、身近かに自然と触れ合えると云うのは嬉しいことよね。畔には梅や桜の木なども植栽されていましたので、季節毎に違う表情をして訪ね来る人達を迎えてくれそうね。ξ^_^ξが訪ねたのは10月の初旬ですが、寒桜が季節外れの花を咲かせて出迎えてくれました。

池 蓴菜池の最奥部には水生植物池があるのですが、見た目には草茫々状態で、「ちゃんと整備せんかあ〜」と思わず叫びたくなるような雰囲気なの。オマケに「マムシに注意」の警告看板。この水生植物池ですが、実は自然観察の場所として敢えて人の手を加えずに放置しているの。と云っても道を歩ける状態に保つなど、最低限の手は加えざるを得ないのですが。その水生植物池の一角で、泉が湧き出すような場所を見つけたのですが、そこでは絶滅危惧T類に指定されるイノカシラフラスコモが養生されていたの。

イノカシラフラスコモ イノカシラフラスコモの実物が見たくて近付いても見たのですが、水紋に遮られて良く分からないの。それでも何やら水面下に金魚藻らしきものが揺れているような‥‥‥。諦めて傍らに立てられた案内板に掲示されていた写真を収めて来たのが左掲の画像なの。ところで、肝心のイノカシラフラスコモとはどんな水生植物なの?と気になるところですが、その方面の知識は皆無ですので、市川市環境清掃部自然環境課が立てられた案内板から一部を転載しておきますね。より詳しいことが知りたい方は 市川市公式WEB を御参照下さいね。「イノカシラフラスコモ保護保全」の頁に詳細なレポートが掲載されているの。それにしても種の保存を図ると云うことが、如何に大変な作業かが分かりますよね。従事する方々の努力に加え、掛かるコストも甚大ね。破壊は一瞬のことですが、再生は例え悠久の時を刻んだとしても不可能な場合もある訳で、ξ^_^ξに出来ることとすればイノカシラフラスコモの再生が成功するように祈るのみ。

イノカシラフラスコモは昭和30年(1957)に東京の「井の頭公園」を源流とする神田川の上流部で発見された車軸藻と云う水草の一種で日本固有の植物です。藻全体の長さは20-30cmになりますが、主軸(茎)の直径は0.5-0.7mmと大変細い植物です。主軸藻の仲間は陸上の植物の原種ではないかとも考えられていますが、その中でイノカシラフラスコモは雌株と雄株が分かれているのが特徴です。原産地では既に絶滅しており、現在のところ全国で市川市の蓴菜池が唯一の生育地になっています。このため、環境省のレッドデータブックに最も絶滅が危惧される「絶滅危惧T類」として記載されています。

太陽光発電 水生植物池を回り込んだところで緑地公園の出入口に向かいましたが、木立ちの中に不思議な人工物を見つけたの。最初に見掛けたときには簡易焼却炉にも見えたのですが、まさか自然公園の中にそのようなものを設置するハズは無いわね、だとしたら何かしら?と気になり近付いてみたのですが、「独立型太陽光発電水循環システム」の受光部分だったの。梢から突き出ていたのはエネルギーの源を得るための太陽電池パネルだったと云うわけ。確かに、一方で種の存続を図りながら、他方で環境破壊をしていたら本末転倒よね。自然に優しい環境は当然ξ^_^ξ達にも優しい環境よね。

この蓴菜池から次に訪ねた里見公園までは歩くこと30分余り。
その里見公園を巡る前に脚を延ばして総寧寺を訪ねてみたの。

16. 総寧寺 そうねいじ 14:55着 15:02発

総寧寺 総寧寺の寺史を知るとこれだけ歴史に翻弄されたお寺もそうざらには無いわね−の印象よ。何と最初に創建されたのは近江國左槻庄樫原郷(現・滋賀県坂田郡近江町)の地なの。南北朝時代に近江國観音寺の守護・佐々木氏頼が通幻禅師を開山に迎えて建立したの。市川市教育委員会が設置した案内板ではその年号を永徳3年(1383)と記しますが、氏頼は応安3年・建徳元年(1370)には既に病没しているの。単純に考えると死後10年余を経てから開基したことになり、明らかな矛盾よね。経緯が不明ですが、後の天正3年(1575)には小田原領主・北条氏政が下総国関宿(現:千葉県野田市関宿町)に移転させてしまったの。

But 関宿は江戸川と利根川に挟まれた中洲にあることから川が氾濫する度に被害を被ったみたいね。こりゃあたまらんわい−と、寛文3年(1663)には江戸幕府第4代将軍・徳川家綱に願い出てこの国府台に移転して来たの。幕府に直訴出来た背景には総寧寺の置かれていた環境があるの。同寺は曹洞宗寺院なのですが、徳川家康は江戸幕府を開くとそれに合わせて宗門の把握を委ねて僧録寺(総録司とも)としたの。そこから幕府との深い繋がりが生まれたのですが、国府台に移転後も下野富田大中寺(栃木県)、武州越生龍穏寺(埼玉県)と共に関東僧録三ヶ寺として宗門を束ねたの。加えて歴代の住持は10万石大名の格式を以て処遇され、小石川には江戸屋敷が与えられていたと云うのですから破格の扱いよね。

余談ですが、関宿は最初から江戸川と利根川に挟まれていた訳ではないの。徳川家康の入封に合わせて関宿は東北部からの侵入を阻止する軍事的な要害の地となり、併せて年貢米などの物資輸送の水運を確保すべく大規模な水利事業が行われて改流されたの。その結果、間に挟まれるような形になってしまい、ひと度増水すると間違いなく水害を被るようになったの。幕府への直訴が受け入れられたのはそんな背景もあったみたいね。「畏れ多くも神君家康公より拝領せし云々」と能書きを述べられては幕府もノーとは云えないわよね。

佐々木氏頼の没年は新人物往来社刊「鎌倉室町人名事典」に依拠しますが、山門前に設置された案内板の記述内容は他の参考資料の内容と異なるケースが多く見受けられるの。門外漢のξ^_^ξには真偽如何を検証し得るだけの知識も技量もありませんので、上記の内容はごまかした部分もありますので御了承下さいね。嘘が書いてあってオレには我慢出来ねえ!と云う方は御遠慮無くお知らせ下さいね。

後に伽藍焼失の被災を受けて再建されてもいるのですが、明治維新の波のうねりはこの総寧寺にも押し寄せて来たの。明治5年(1872)に新たに学制が発布され、諸外国からの遅れを取り戻せ!の大号令のもとに小、中、大学校が全国に造られることになったのですが、この国府台が最高学府たる大学校設置の候補地となったの。大学校と云っても今日のそれとは異なり、全国を8ブロックに分けたブロック毎の一校なの。当然守備範囲は広くなるわよね。因みに、この国府台は第一大学区で、今で云えば関東全域に静岡、山梨の両県を加えた超広範囲が対象だったの。建設予定地も強制収用したのかしらと思いきや、新政府は用地を買い上げて移転料なども別途支払ったみたい。尤も、それが妥当な金額だったのかどうかは分からないけど。

用地買収の煽りを受けた総寧寺は境内地も狭められ、位置にしても、現在地への移設を余儀なくされたみたいね。そうして本来なら校舎の建築に着手するハズでしたが、そこで新たな問題が持ち上がるの。校舎を建てたとしても通学するインフラが無かったの。今でこそ公共の交通手段にしてもJR総武線や京成線を初め、北総線でのアプローチも容易ですし、バス路線も充実していますが、当時は何も無かったの。唯一の交通手段が渡船だった訳で、後は自分の「あんよ」に頼るのみ。他にも諸事の理由があったようで挫折してしまったの。現在の国府台には和洋女子大、千葉商科大学などを筆頭に、小中高大が集まり、アカデミックな装いの街になっていますが、その当時に大学校が造られていたら今頃は総寧寺の山門が緋色に塗り替えられて「赤門」として使用されていたかも知れないわね。(^^;

17. 里見公園 さとみこうえん 15:04着 15:37発

里見公園 大学校設置が挫折したその国有地を目敏く見つけて有効活用を進言したのが陸軍なの。富国強兵策の追風を受けて予算的にも余裕があったのでしょうね。士官学校に病院も併設されて、軍靴の靴音が真間の浦廻に響き渡るようになり、国府台は「基地の街」ならぬ「軍隊の街」に姿を変えてゆくの。国府台の台地から軍靴の靴音が消えて、現在のようなアカデミックな街並みへと変貌するためには戦後を待たねばならなかったの。後にその国有地の一部が市川市に払い下げられたのを機に公園として整備したのがこの里見公園で、その名が語るように、嘗ては小田原北条氏と安房の里見氏が合戦を交えた古戦場でもあるの。

古くは上総一揆の制圧に転戦する太田道潅が、文明11年(1479)の臼井氏の籠城に対抗してこの地に出城を築いたの。一揆と聞くと重税に喘ぐ農民達の武装蜂起を連想しますが、ここでは在地豪族達が「揆を一にして」鎌倉府に対抗したの。その端緒となるのが「禅秀の乱」で、平定された後も不平不満は収まらず、各地で「一揆」が起きていたの。まさに戦国時代でモグラ叩き状態。そんな中で起きたのがこの臼井氏の武装蜂起。詳細はここでは省略しますが、この一揆を鎮めた太田道潅は凱旋の歌を寄せているの。文武両道に精通した道潅ですが、勇ましい姿とは裏腹に、草花に注ぐ視線は殊の外優しかったような気がするわね。
※臼井氏は千葉氏一流で、下総国印旛郡臼井庄を治めていたことから臼井姓を名乗っていたの。

武士の軍の庭に 葛飾や 花は心の 真間の継橋
もののふの いくさのにはに かつしかや はなはこころの ままのつぎはし

園内には草木が植えられて市民の憩いの場になっているの。
訪ねた時には噴水のあるバラ園では色とりどりの花が咲き、近くの飼い猫達が思い思いの散歩中でした。

バラ バラ バラ バラ

紫烟草舎 園内の一角に保存されていたのが紫烟草舎(しえんそうしゃ)で、北原白秋が小岩に住んだ時の住居が移築されているの。白秋が一時期亀井院の一室を借りて困窮生活の中での創作活動を続けていたことは紹介済みですが、僅か一月余で捨てぜりふ (^^; を残して転居してしまうの。そうして移り住んだのが、当時は小谷村三谷にあったこの住居。今では主を失い、朽ち行くままに任せた廃屋の面持ちですが、紫烟草舎の名は白秋自身の命名なの。その旧居が何故ここに移築されて来たの?

「からたちの花」「砂山」などの作詞で親しまれている詩人の北原白秋(明治18年〜昭和17年)は大正5年(1916)の夏から約1年間、当時小岩にあったこの離れに於いて優れた作品の創作を続けた。白秋自身、紫烟草舎と名付けたこの建物はその後江戸川改修工事の為に取り壊され解体されたままになっていた。たまたま本建物の所有者本市在住の湯浅伝之烝氏の厚意ある提供を受けた市川市は白秋を偲ぶ様子として家の間取り、木材など全て当時のままに、ここ里見の地に復元した。復元の地をここに求めたのは小岩に移り住む前の白秋が真間の亀井院に住んでいたこと、小岩に移ってからも対岸の江戸川堤から眺めるこの里見の風景や万葉の昔より所縁の深い葛飾の野をこよなく愛していたことによる。市川市・市川市観光協会

ここで白秋の捨てぜりふとやらが気になったあなたへ。白秋が過した頃の亀井院の周辺は未だ未だ田園が広がる長閑なところで、「華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ」状態だったの。その原風景に心酔した白秋は、亀井院での仮住まいを前世からの因縁とまで評していたのですが、時を前後して始められていたのが周辺九ヶ村合同の大規模な耕地整理事業。米を増やせ、田圃を増やせよ−と、池や沼が埋め立てられて山林も削られたの。その開発の波が亀井院の周辺にも及ぶと、それが白秋の目には行政に与して開発を進め、金銭を得ようとする野卑な姿に映ったの。ですが、それは飽くまでも白秋の誤解だったみたいですが、白秋自身は後にそのことに気付いたのかどうか。下記がその捨て台詞の詠句よ。

蓮の池 埋めてまま食ふ真間の寺 南無妙法蓮華経 今の日蓮

羅漢の井 その紫烟草舎脇にある細い坂道を下るとあるのが「羅漢の井」で、貴重な飲料水が得られる井戸として村人達に大事にされて来たの。その昔、弘法大師こと空海上人がこの地に訪ね来た時に、飲み水に困る村人達の様子を見て祈祷したところ、清水が湧き出したと伝えられているの。ですが、弘法大師の湧水伝説は日本各地に伝えられ、その多くは後世に付与されたもの。この「羅漢の井」の逸話にしても造作されたものと思った方が良さそうね。残念ながら、今では御覧のありさまで、ちょっと飲んでみようかしら?などとはとても思えない状態ですが。

新・羅漢の井 ここで訂正よ。訪ねたのは ′06.10 のことでしたが、その後 ′08.08 に近くまで出掛ける機会があり、その際に立ち寄ってみたところ、御覧のように整備改修されていたの。以前は道から少し離れた崖下にあり、「羅漢の井」の存在を事前に知る方でないと容易には見つけられなかったと思うわ。新たに設置された新「羅漢の井」は道に面しているので今度は直ぐに分かるわね。けれど、ここまでくると往時の「羅漢の井」とはすっかり別物の装いね。因みに【江戸名所図会】では総寧寺羅漢井として紹介されているの。嘗てはこの辺りまで総寧寺の境内地だったと云うことよね。

18. 江戸川堰堤 えどがわえんてい

里見公園を後にして今回の散策も全行程を終了よ。国府台駅までの帰り道には江戸川の堰堤を歩いてみたの。ところでこの江戸川ですが、実は人工河川で、嘗ては太日川と呼ばていた川を母体にして改流されているの。何と、あの利根川も嘗ては東京湾に流れ込んでいたと云うのですから驚きよね。徳川家康が江戸に入ると様々な土木工事が始められるのですが、中でも河川の水利事業は経済的にも軍事的にも最重要事項で、江戸の東北部を流れていた河川に大規模な開削が加えられたの。太日川もその水利事業の中で同じく改流されたのですが、たゆとう水の流れを見ていると昔の人々が流した多くの汗も今ではすっかり自然に同化してしまいましたね。

19. 京成・国府台駅 こうのだい 16:14発


とあることからその存在を知った手児奈伝説につられて訪ねた市川の真間でしたが、遙かなる時を経て古人達が歌に詠んだ原風景もすっかり形を変えてしまったの。けれど、所縁の地に佇み、語り継がれる逸話に耳を傾け、たゆとう川の流れを見やりながら頬を撫でる風に身を任せていると、手児奈が今にも葦原の葉陰から現れてくるような気もして来るの。遠い昔に思いを馳せれば、均しく「吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が奥津城処」の心境よ。都心からでしたら僅か一時間余り。今度の週末にでもぶらりとお出掛けになってみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
亀井院発行 西川智泰著 真間の里
五月書房社刊 西川日恵著 手児奈
山と渓谷社刊 新版 千葉さわやか散歩
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
吉川弘文館社刊 国史大系 普及版 続日本記
国書刊行会刊 川名登編著 千葉県の歴史100話
角川書店社刊 角川選書 上垣外憲一著 空海と霊界めぐり伝説
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第二巻 寺院
雄山閣出版社刊 民衆宗教史叢書 小花波平六編 庚申信仰
保育社刊 桜井満著 万葉の歌13 人と風土 関東南部
岩波書店刊 日本古典文学大系 秋本吉郎校注 風土記
桜楓社刊 臼田甚五郎 他 編著 日本歌謡文学
早稲田大学出版部刊 滝口宏著 上総国分寺
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
房総叢書刊行会 改訂 房総叢書 第三輯
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典






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