≡☆ 栗橋のお散歩 ☆≡
 

幸手市のお散歩 で触れましたが、当初は幸手市内の史蹟めぐりに加えて、今回紹介する史蹟を訪ねながら栗橋駅までを歩く積もりでいたの。But 軟弱なξ^_^ξのこと故途中で挫折してしまい、改めて未踏破で終えていた行程を歩いてみたの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

一里塚跡〜会津見送り稲荷〜焙烙地蔵〜旧栗橋宿寺院めぐり〜関所跡〜光了寺〜静御前の墓

1. 幸手駅(東武日光線) さってえき 8:43発

朝日バス 今回の散策では中川に架かる行幸橋を起点にして歩く積もりでいたのですが、国道R4を走る路線バスが当然あるものと思い込んでいたξ^_^ξに早くも試練が。仕方なく幸手駅から歩くことも考えたのですが、楽してコトを済ませたいξ^_^ξが思いついたのが五霞町役場前行の路線バス。But 問題はその運行本数で、何と一時間に一本(!)しかないの。聞けば五霞町の委託を受けて 朝日バス が運行しているのだとか。それでも、歩かずに済むことを考えたら五霞町の英断に素直に感謝しなくてはいけないわね。不幸にして乗り遅れてしまった方は諦めて膝栗毛の道中を。(^^; ¥170

2. 権現堂BS 8:51着 行幸橋 みゆきばし 9:20発

中川 権現堂と云えば、約1Kmにわたり桜並木が続く桜堤がお花見の名所として知られますが、時期から離れると堰堤の並木道も地元の方が利用する静かな散歩道になるの。訪ねたときにはお掃除や植栽の手入れをされている方の姿もあり、桜に限らず、紫陽花や彼岸花もまたボランティアの方々に依る不断の丹精の賜物ね。ところで、その桜堤踏破に時間が掛かり過ぎているのはちょっと調べごとをしていたせいなの。普通なら15分程で通り抜けることが出来ると思うわ。But 桜の開花期には逆に一時間でも無理よ、きっと。否、以降のお散歩は止めて、お花見だけで満足しちゃうかも。(^^;

3. 旧日光街道道標 きゅうにっこうかいどうみちしるべ 9:28着 9:31発

〔 日光街道の道標 〕  この道しるべは、安永4年(1775)日光街道と筑波道の分れる所に建てられたものです。昔の旅人達にとって、この道しるべは街道を歩く際のたよりになったもので、大切なものです。この道しるべは、左日光道、右つくば道、東かわつま前ばやしと刻まれています。かわつまは現在の茨城県五霞村字川妻、また前ばやしは、茨城県総和町前林のことで、筑波へ行く道順です。この道が日光だけでなく、遠く奥州へも通じていたのです。幸手市教育委員会

御幸橋を渡り終えたところでR4を離れて左手に折れ、道なりに歩くと正面にこのY字路が見えてくるの。その中央に建てられているのが旧日光街道の道標で、今回の散策では左手に続く道を歩きますが、右手の道は嘗ての筑波道で、この分岐路が運命の分かれ道になるの。ここでちょっと内緒のお話しだけど (^^;、その筑波道、江戸時代には女廻り道とも呼ばれ、入り鉄砲と出女の取り締まりが厳しい関所を避けて通るための抜け道として密かに利用されていたみたいよ。幕末の志士で新撰組の前身となる浪志隊を結成した清河八郎は後に近藤勇らと対立し、やがては幕府側の刺客の手により暗殺されてしまいますが、その清河八郎が生前に母親を連れてお伊勢参りをしているの。それも半年にも及ぶ長旅で、中部近畿は云うに及ばず、西は岩国までを巡る縦断旅行なのですが、そのときの道中記【西遊草】にこの女廻り道のことが記されているの。

栗橋は公儀關所ありて婦人を通さず 故に壱里ばかり手前より少しく右に入りて筑波海道を入り利根川を越 女人は百文ずつ也 しのびの體なるよりよりどころあらず されども格別廻りにもならぬ事故 案じには及ばぬ所なり 川を越 半道ばかり歩みて また一箇の川渡を越 間もなく仲田の宿にいたる

当時の渡賃百文が今の幾らに相当するのかはξ^_^ξには分かりませんが、感覚的には¥5,000位かしら?それでも女連れなど訳ありの旅人にしたら、関所の役人に難癖つけられて通行不可になるよりは安い買い物だったのかも知れないわね。But 地元では裏稼業 (^^; として関所抜けの渡船が定常化していたような雰囲気にも受け取れる記述よね。公然の秘密だったと云うことかしら?因みに、記述にある利根川とはここでは権現堂川のことで、道標から右手に道を辿るとその権現堂川に架かる舟渡橋に出るの。橋の名はその渡船の名残りね。

この道標は安永4年(1775)に千住在住の幸手屋甚蔵と云う人が建立したものだそうよ。
何を業とする人で、どんな理由で設置したのかしら?千住からはかなりの距離があるのに・・・

道標と云えば、今回の散策で道案内の先導役を務めて下さったのが 地図でたどる 日光街道 なの。はじめて歩く人が道に迷わず、完歩できるように詳細な地図を作成しました−とあるように、掲載される地図が詳細で、至れり尽くせりの案内図になっているの。お出掛け前には是非御覧下さいね。否、MUST かも。実地踏査の労力とその熱意、併せて地図作製の才にはただただ脱帽よ。今回は大いに助けて頂きました。改めて御礼申し上げます。m(_ _)m

4. 雷電湯殿合社 らいでんゆどのごうしゃ 9:39着 9:43発

鳥居の扁額には雷電宮権現宮とあることから熊野権現との合社を予想しますが、権現は権現でもここでは湯殿権現なの。縁起を語る石碑でも無いかしら−と境内を探してみたのですが何も無く、詳しいことは分からず終い。背後には田園が広がりますが、雷神は稲作に不可欠の降雨とは深い繋がりのある神さまよね。一方、湯殿社からは月山・羽黒山を含めた出羽三山の羽黒修験の存在も窺え、時には雷神に頭を垂れて降雨を祈願し、またある時には夏峯を終えた修験者に五穀豊穣の祈祷を乞う村人達の姿があったのかも知れないわね。But 鵜呑みにしないで下さいね。(^^;

参道脇に合殿竣工記念碑なるものを見つけたの。銘は平成14年(2002)と比較的新しいものですが、幸手市外国府間の当地に約300年前から鎮座し、地区住民の心の拠り所として慕われて来た雷電社湯殿社が平成13年(2001)4月16日午後4時頃不審火で全焼してしまい云々−とあるの。現在の社殿はその被災後に再建されたものですが、以前の建物は規模も大きく、彫刻が施されるなど立派な社殿だったようよ。それにしても不審火に依る焼失と云うのは哀しいわね。碑には、再びこのような悲しみを地区住民が味わう事の無いよう祈願し−とありますが、均しく希うところよね。拝

【新編武蔵国風土記稿】(以降、風土記稿と略)の外国府間村の條には「○熊野社 村の鎭守なり 寶藏寺持 下同じ ○雷電社 ○寶藏寺 新義眞言宗 内國府間村正福寺末 本尊阿彌陀」とあり、現在は雷電湯殿合社としてはいますが、元々は熊野社と雷電社を合社したものかも知れないわね。両社ともに寶蔵寺持とあることからしても可能性大のような気がするわね。その寶蔵寺にしても、今の外国府間には見つからないの。境内の一角には時を経た墓塔や石仏などが並び立つことから推して、同じ敷地内に建てられていたのではないかしら。嘗ては神仏混淆状態ですから、境内を接して両社の別当寺を務めていたとも考えられるわよね。思うに、明治期の廃仏毀釈を受けて廃寺を余儀なくされたか、あるいは時の流れの中で衰微してしまったのかも知れないわね。ξ^_^ξの勝手な想像ですが。(^^;

5. 一里塚跡 いちりづかあと 9:57着 10:03発

一里塚跡もさることながら至近距離に真光寺・弁財天祠堂・八幡神社の名を見つけ、寺社の集積地状態で何か期待出来そうな場所ね−と歩みを進めたの。加えて一里塚跡の周辺に位置することから多少の古閑も期待したのですが、実際にはすべからくが新しく、弁財天祠堂に至っては木の香が漂う程だったの。最初に目にしたのが左掲の真光寺ですが、建物は新しいのに無住なの。先ずは縁起を記すものが無いかしらと境内をひとめぐり。不動山持正院真光寺の寺号を刻む石碑と本尊建立記念碑なるものは見つけたのですが、創建由来など、古いことになると分からず終い。

帰宅後にも調べてはみたのですが、【武蔵国郡村誌】の葛飾郡小右衛門村の條に、真義真言宗下総国葛飾郡元栗橋村宝相院の末派なり−とあるのをようやく見つけたくらいで・・・

〔 本尊建立記念碑 〕  当山は真言宗豊山派に所属し 栗橋町小右衛門の郷国道4号線沿に大伽藍聳えたりしが 昭和18年(1943)8月落雷の為全焼 観音堂を堂宇として再建を企つるも たまたま住職照信僧都病に倒れ不帰の客となる 其の後兼務住職顕隆僧正再建を企つるも時到らず機熟せず 徒らに星は流れ月重なりて三十有余年 爰に檀徒飯塚正夫氏発信し 総代各位に諮り檀信徒各位の浄財を仰ぎ再建す 而し乍ら信仰の対象たる本尊佛体なきを悲しみ 飯塚氏自己の浄財有意の士各位の浄財を仰ぎ 爰に尺有余の立座不動明王の本尊を建立すると共に 燈籠其の他燭台等を供える事を得たり 昭和48年(1973)5月吉日建立 真言宗豊山派 真光寺 兼務住職 少僧正照隆

並び立つ石碑の中に、開校百年記念 愛敬学校 聲門学校 遺跡−と刻むものがあったの。この愛敬学校&聲門学校と云うのは現在の久喜市立栗橋南小学校の前身となるもので、この真光寺を仮校舎として明治6年(1873)に愛敬学校が設立され、明治8年(1875)に聲門学校と改称しているの。開校に先立つ明治5年(1872)、明治政府は新たな教育観の下に全国を8大学区に分け、各々に大中小学校を設ける学制を公布したの。そこでは何と53,760校(!)もの小学校が必要とされ、当時の就学年齢の人口からすると約600人に一校の割合だったの。

幾ら何でもそんなに多くの校舎を直ぐには用意出来ないわよね。そこで寺院の講堂などが仮校舎として利用されたの。小右衛門村ではさしあたり、真光寺を仮校舎として小学校が開設されたと云うわけ。因みに、その学制ですが、余りにも現実離れしていたことから明治12年(1879)に廃止されたのですが、その精神だけは引き継がれて今日があるの。当時の学事奨励に関する太政官布告から一部を抜粋・掲載してみますが、字なぞ読めんでも米ば作れっぺ−と、それまで声を荒げていた村人達にしたら、天と地が逆さまになったかと思えたかも知れないわね。

自今以後 一般の人民 必ず邑に不學の戸無く 家に不學の人無からしめん事を期す
人の父兄たるもの宜しく此意を體認し 其愛育の情を厚くし
其子弟をして必ず學に從事せしめざるべからざるものなり

真光寺と境内を接して木の香も新しい弁財天堂が建てられていましたが、その右手前に一里塚跡の案内板があるの。それが無ければ嘗てこの場所に一里塚があったことなど誰も気付かないわね、きっと。

栗橋町指定文化財 一里塚 平成4年(1992)7月30日指定
慶長9年(1604)徳川幕府は大久保石見守に命じて東海道・中仙道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道を始めとして、主要街道に一里塚を築かせた。江戸の日本橋を起点として、一里(4Km)毎に塚を築き、その上に榎を植えて道程を表し、伝馬制度に大きな役割を果たした他、旅人の休憩所にも利用された。付近には茶店などもあり、また、駄賃などの目安にもなり、大いに賑わったと思われる。今で云えば鉄道の駅を連想させる。また、この塚は幸手宿と栗橋宿の中間で、小右衛門村(現・栗橋町大字小右衛門517-3)にあり、江戸から14番目にあたる。現在、塚の上には字堤外(現・権現堂川)から移築されたと云う弁財天堂が建てられており、塚の高さは西側から約2m、五間(約9m)四方の遺構は、塚の形態と当初の広さを残し、当時の姿を偲ぶことが出来る。栗橋町教育委員会

〔 弁財天再建之碑 〕  久喜市小右衛門地区を南北に通る、国道4号線堤下にある。寺院「真光寺」境内の一隅にある一里塚跡地に建つ弁財天堂は、その歴史も古く江戸時代に徳川幕府が作成した「日光道中分間延絵図」で文化3年(1806)には、道路を挟んだ一里塚の反対側に建てられていたことが確認されている。その後道路の拡幅により一里塚跡地に移築されたものと見られている。現在の祠は昭和3年(1928)に小右衛門地区在住の皆様や関係者の方々の寄付金により新築されたものである。しかし永年の風雨を受け維持管理が困難となり、この度地域在住の多くの方々の意向を受け、皆様方からの浄財を以て祠の再建を実施するに至った。当弁財天堂が、地域の繁栄と幸せを永らくもたらすものと確信し、その再建を記念碑に刻み建立する。平成24年(2012)2月吉日 撰文 区長 原田恒雄

〔 小右衛門下組八幡神社 〕  栗橋町大字小右衛門上地区堤外に有る川通神社の八幡神社を、小右衛門下組氏子共有の氏神として、小右衛門集落の東端旧権現堂川の堤外にて 4号国道より北東一百米程の田園の中 大字小右衛門字堤外48番地に勧請して建立 年月は不明 その後大正3年(1914)5月2日川通神社に合祀されたが 社殿は元のままとして旧氏子に依り祭祀を行っていた。平成9年(1997)神社のある堤外地域一帯が県営権現堂公園建設の予定地となり買収される 大島地区在住の木村定生氏の協力により 同氏所有の小右衛門五反田851番地面積528m²を譲り受け移転 社殿の新築を計る  〔 以下省略 〕

6. 川通神社 かわどおりじんじゃ 10:23着 10:26発

扁額には香取宮八幡宮とあるので香取神社と八幡神社の合社ね。先程触れた小右衛門八幡神社はこの川通神社から分祠分霊したものだったのね。詳しいことは何も分からずに終えていますが、境内の一角には珍しい像容の一石六地蔵が二基建てられているの。六地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の辻に立ち、迷える衆生を艱難辛苦から守って下さるありがたいお地蔵さまなの。そんなことから寺院や村境などが異界へと通じる辻(道)とみなされ、六地蔵が建てられたの。今と違い、当時は旅先で病に倒れて命を失うことも多く、旅はまさに命懸けでもあったの。村を離れるときにはこの六地蔵に旅の安全を祈願する村人達の姿があったのかも知れないわね。

【武蔵国郡村誌】葛飾郡小右衛門村の條には「經津主命を祭る 元と小笹原大膳大夫の家臣大島某の氏神にて浮八幡と云ふ」とあるの。八幡神は元々は武神、軍神なので大島某が氏神として勧請したのも分かるような気がするわね。後に香取神宮の勢力拡大に合わせて経津主命が合祀されたのかも知れないわね。

Y字路 棒標 次の会津見送り稲荷ですが、実は気付かずに一度通り過ぎてしまったの。道に面して鳥居が建つものとばかりに思って歩いたのがいけなかったわね。行けども行けどもそれらしきものが見つからず、気が付いたらR125をくぐる隧道が。慌てて踵を返して探したの。なのでこの間の所要時間は無視して下さいね。その会津見送り稲荷ですが、左端の写真で云うと電柱右手、樹叢の手前が入口よ。Y字路のガードレール際には棒標もあるのですが、矢印が消えちゃってるの。

7. 会津見送り稲荷 あいづみおくりいなり 10:42着10:43着

栗橋町指定文化財 会津見送り稲荷 昭和53年(1978)3月29日指定
江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていた頃、会津藩の武士が藩士江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるため、この街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行出来ず、街道がどこか分からず大変困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれた。お蔭で武士は無事に江戸へ着き、大事な役目を果たせたと云う。また、一説には、この地で道が通行出来ずに大いに焦り、その上大事な物を忘れたことに気がつき、困り果てた末、死を決意した時、この老人が現れ、藩士に死を思い止まらせたとも云われている。後になってこの老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったものである。栗橋町教育委員会

見たさ知りたさに背中を押されて立ち入りましたが、実は、会津見送り稲荷は個人宅の敷地内にあるの。家人の御先祖さまは粟餅を食べさせる茶店を営み、街道を通る旅人が多く立ち寄り、人気を集めていたようよ。先程紹介した【西遊草】にも「高須賀 内駒 外駒を歴て利根川の土手に到る しばらく行て 粟餅の名物あり」とあるの。ξ^_^ξが思うに、お稲荷さんにしても元々商売繁昌や家運隆盛を祈願する氏神さまとして屋敷内に祭られていたのではないかしら。そこから見えてくる逸話の本当の姿はと云うと・・・話しを勝手に創るな!−と怒られそうなのでやめておきますね。(^^;

8. 焙烙地蔵 ほうろくじぞう 10:50着 10:51発

栗橋町指定文化財 焙烙地蔵 昭和53年(1978)3月29日指定
昔、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行を厳しく取締っていた時代、関所を通らないで渡った者、或いは、渡ろうと企て事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったと云う。こうした多数の処刑者を憐れみ、火あぶりになぞらえて、その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祀ったものである。今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見受けられる。また、エボ地蔵とも云われ、あげた線香の灰をエボにつけると治る、と云い伝えられている。栗橋町教育委員会

火焙りの刑とは残酷過ぎるわね。ところでホーロー鍋は知ってるけど、焙烙ってなあに?焙烙は素焼きの土鍋のことなの。土鍋と云っても低温で焼かれたものなので煮物などには利用できず、専ら穀物やお茶などを煎ったり蒸したりするのに使用されたの。火焙りの処刑者をその焙烙に見立てたと云うのはブラックユーモアを通り越して悲しくもあり、全国を自由に行き来出来る現在に生まれたことを改めて感謝しなくてはいけないわね。そう云えば、女廻り道を利用した人達は皆捕まらずに済んだのかしら?

9. 常薫寺 じょうくんじ 10:54着 11:00発

常薫寺は、高林山梅香院常薫寺と称する日蓮宗の寺で、本尊は一塔両尊四師像、日蓮聖人像である。開山は、千葉県市川市正中山法華経寺二祖常修院日常聖人と云う。今から約七百年前当地に小庵を建立し、現在の常薫寺の基礎を築いたと伝えられている。江戸時代には、茨城県猿島郡五霞村(元栗橋)の住人であった池田鴨之介が、徳川幕府の命を受け、この小庵を拠点として栗橋町の開発を行っている。鴨之介は法名を常薫院大徳と称し真宗檀徒であったが、日蓮宗門に帰依篤く、後に寺では鴨之介の法名である常薫を寺号にしたと云う。元和8年(1622)諸堂を建立し、元禄9年(1696)4月酒井河内守の検地縄入れにより、二反一畝三歩を境内屋敷と定められた。現代の本堂は、嘉永6年(1853)に再建されたもので、明治22年(1889)、昭和44年(1969)の二回にわたって改修されている。庫裡は大正12年(1923)関東大震災により倒壊したため、大正14年(1925)に再建されているが、老朽化したため現在は客殿庫裡に改築されている。昭和63年(1988)3月 埼玉県・栗橋町

境内の一角には栗橋八福神(七福神じゃないわよ)の内の大黒天が祭られているけど、【風土記稿】には「本尊三寶祖師を安ず 傍に毘沙門の像を置 是は武田信玄の守護佛なりと云傳ふ 當寺に納めし由來詳しならず」とあるの。残念ながら未確認ですが、大黒さまよりもそちらの毘沙門天の方が気になるわね。ところでこの常薫寺、R4に正面玄関があるので旧道からだとそれが分からないの。一時は裏口の門柱をそれだと思い、その雰囲気に拝観を諦め、踵を返すところだったの。気になる方は左掲をクリックしてみて下さいね。大国さまに引き続き、道案内をしますので。

10. 顕正寺 けんしょうじ 11:02着11:09発

開基は常陸の国(現・茨城県小美玉市)幡谷城の城主・幡谷次郎信勝である。信勝は亡妻を弔うため天台宗の僧となり光念寺を建立した。時は1214年(鎌倉期)宗祖親鸞聖人越後より稲田に移りて念仏の教えを説き広めるに出会い、聞法を重ね随喜して弟子となり、法名を唯信「ゆいしん」と賜り、光念寺を念仏の道場として布教に努めた。下って天正18年(1590)戦国大名佐竹氏の急襲を受け幡谷城は落城、光念寺も兵火により焼失してしまった。難を逃れ、下総国中田(現・古河市中田)の阿弥陀堂に引き移り、ここを幡谷山破邪院顯正寺と改めた。16代善了のとき、栗橋町の開発者である池田鴨之介の「菩提寺に」との招請により、寺基を慶長14年(1614)この地に移し、法義を継承して今日に到っている。

栗橋町指定文化財 阿弥陀如来像 昭和53年(1978)3月29日指定
幡谷次郎左衛門尉信勝は水戸城より30Km南の地に城郭を構えて居住していたが、出家して親鸞聖人の弟子となり、唯信と名を改め、同所に光念寺を建立し、十字の名号を本尊としていたが、同寺はやがて兵火に罹り焼失してしまった。その後下総国古河領中田新田村藤の森に聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来の木像を安置したお堂があったので、ここに引き移り、これを本尊として寺号を幡谷山破邪院顕正寺と称した。16代善了の時、栗橋町の開発者・池田鴨之介の招請によって慶長19年(1614)寺基と阿弥陀如来像とをこの地に移した。その尊像は現在の中央本尊とは別に厨子に安置してある。立派な作で、仏像研究家も優作であるとの賛辞をおくっている。栗橋町教育委員会

栗橋町指定史跡 池田鴨之介の墓 平成3年(1991)5月14日指定
池田鴨之介(鴨之助)は、新編武蔵風土記稿によれば、並木五郎兵衛と共に幕府に願い出て、慶長年間(1596-1614)に下総国栗橋村(現・茨城県五霞町元栗橋)より村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。また、下総国中田新宿藤の森(現・茨城県古河市中田)より顕正寺を移したと云われています。慶安元年(1648)12月9日に没し、法名を「光明院釈常薫」と云います。池田家は江戸時代初代鴨之介の子・與四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました。子孫・鴨平は明治22年(1889)に私立淑徳女学館を設立し、早くから女子教育に力を入れ、その子・義郎は旧栗橋町の第三代町長として町政のためにつくしました。平成19年(2007)3月 栗橋町教育委員会

墓塔には池田鴨之介の法名・光明院釋常薫の他にも釋廣薫・釋了薫なども併刻されることから後世に建立されたものではないかしら。加えて信士・信女の名もあることからすると家族墓よね、これは。境内の最奥部には栗橋八福神の一つ毘沙門天と馬頭観音像が建てられていましたが、へそ曲がりなξ^_^ξが気になったのは強面の馬頭観音像の方なの。と云っても像容ではなくて側面に刻まれた由来記なの。読むと当時の情景が目に浮かぶようで、どこか懐かしくもあるの。

〔 馬頭観音の由来 〕  常陸の国で権勢を誇っていた戦国大名・佐竹右京太夫が、たまたま上河辺新田(今の栗橋)を通行した折、乗馬が病死したので村民に命じ葬らせた。後、江戸時代に入り宿場として栗橋町が開発され(1614)、やがて利根川沿いに舟戸町と称する町並みが出来て、河川交通が盛になった頃、町民はそこに馬頭観音堂を建立し、水運・旅・運送用の馬の安全を祈った。特に江戸後期より昭和初期まで毎年8/17の祭礼は賑やかで、提灯・絵灯籠・浴衣姿の老若男女や屋台など、美しい夏の風物詩であった。昭和19年(1944)利根川改修工事につき堂は壊され、観音像は往時佐竹氏と縁のあった顕正寺に移された。当時は木造金泥塗りの美しいものであったが、次第に損傷激しくなり、平成11年(1999)石像にして永くその姿と歴史を留める事とした。顕正寺住職記す

11. 浄信寺 じょうしんじ 11:10着 11:16発

【風土記稿】には「足立郡鴻巣勝願寺の末 無量山歸命院と云 開山乘譽玄徹永正2年(1505)8月28日寂す 此僧奧州宮城郡昌繁寺の住職なりしが 一寺を建立せんことを志し 寺を辭して當所に來り 歸命院といへる庵室をとり立 一寺となせり よりて是を開山と稱す 其後慶長年中伊奈備前守忠次の三男僧となり日譽源庭と云 村民又右衞門の先祖梅澤太郎右衞門この源庭を請し 若干の寺地を廣め堂宇を再建せしかば 即ち太郎右衞門を開基と稱す云々」とあるのですが、境内に建つ昭和60年(1985)銘の本堂庫裡新築記念碑の冒頭には、当山は元和8年(1622)乗誉玄徹上人により草創され云々−ともあり、これでは乗誉玄徹上人が一世紀以上の長きにわたって生きたことになってしまうわね。その創立はさておき、梅澤太郎右衛門が中興開基したのは異論が無さそうね。

栗橋町指定文化財 梅澤太郎右衛門の墓 昭和56年(1981)6月12日指定
梅澤氏の祖先は菅原氏である。その後、北条氏の客臣となり、塚原氏と改め太郎則武と名乗った。小田原城没落後、相模国梅澤村に住み、姓を梅澤氏と改めた。その子・太郎右衛門の時、慶長5年(1600)に栗橋(粟餅下)に移住し開墾に従事した。元和8年(1622)4月、徳川2代将軍秀忠公日光東照宮社参の折、暴風雨のため利根川が満水となり、将軍の渡る船橋が危くなった。太郎右衛門は人夫を率いて水中に入り、命懸けでこの橋の安全を守り、災難を救った。将軍はこれを賞して、関東郡代伊奈半十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金字に日の丸の軍扇及びお墨付を下された。その折梅澤氏は、名字・帯刀を許されたと云う。栗橋町教育委員会

【風土記稿】には「利根川兩邊開發の事半十郎より聞へ上け御免を蒙りしかば やがてこの太郎右衞門に命じて開發のことなりぬ 由てこの邊御成の時中田宿大塚の上に御駕をすへさせられ 開發せし新田の限に狼煙を揚げ 開發の地境及廣さの辨別を上覽に備へしかば 太郎右衞門の功を賞して御墨付を賜ひ 繼で川邊堤の修築をも命じられし由 後この人半十郎が家臣となり 名主役を兼勤しが云々」とあり、日光社参時の美挙がその後の太郎右衛門の人生を大きく変えたことが分かるの。

12. 深廣寺 じんこうじ 11:18着 11:25発

【風土記稿】には「下總國飯沼弘經寺末 無涯山單信院と云 本尊阿彌陀佛を安ず 開山廣譽閑榮慶安2年(1649)5月4日寂す 開基村民五郎平は 今の名主五郎平が先祖なり 明暦元年(1655)11月18日死す 法名梅香院光盛と云」とあるように、この深廣寺は池田鴨之介と共に栗橋の開発に当たった並木五郎平が開基しているの。墓苑にはその並木五郎平のお墓もあるの。それはさておき、境内に一歩足を踏み入れると最初に目に飛び込んでくるのが大きな石塔群なの。深廣寺第二世となった単信上人が建立したものですが、どんな方だったのか気になりますよね。先ずは本堂前に掲示されていた案内板から紹介しますね。

栗橋町指定有形文化財 単信上人像 昭和53年(1978)3月29日指定
単信上人像は、無涯山単信院深廣寺住職自作の像と伝えられています。この像は、彩色寄木造で江戸期の作、像高75.8cm、円頂、玉眼、胸前で合掌し、椅子に座した姿で厨子に納められています。単信上人は、乗蓮社性誉上人単信演説大和尚と称し、上野国(群馬県)の農家に生まれ、菩提寺の大蓮寺(前橋市)で、仏門に入りました。その後、芝増上寺にて学び、深廣寺の二代住職となり、多くの信者に慕われ、明暦3年(1657)11月3日入寂しました。本像は、毎年12月2日単信様の祭礼時にご開帳されます。平成18年(2006)3月 栗橋町教育委員会

六角名号塔 栗橋町指定有形文化財 昭和53年(1978)3月29日指定
六角名号塔は総高約360cm、一面の幅約50cm、六面からなる石塔で「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれています。この塔は、当山二代住職単信上人が伊豆大島より大石を船で持ち帰り、承応3年〜明暦2年(1654-57)の間に千人供養塔を20基建立、その後明和3年(1766)に9代住職法信上人が三千人供養塔を一基建立したものです。配置は左の図(省略)の通りです。〔1〕から〔20〕千人供養塔、〔21〕が三千人供養塔です。尚、基礎部右側面の地名の表記が、承応3年(1654)7月までが新栗橋〔1〕-〔8〕、同年8月からは栗橋となっています。平成18年(2006)3月 栗橋町教育委員会

残念ながらこれだけでは単信上人の人物像も、また上人がこれだけの数の六面塔を建立した背景が分からないわね。ξ^_^ξとしてはわざわざ伊豆大島から石材を調達してきた理由も知りたいところね。利根川の水運を利用して運んで来たのだとしても、もっと近場の関東近県から調達することは出来なかったのかしら?せめて真鶴の小松石あたりでも。余談ですが、【風土記稿】にはその六角名号塔に関してちょっと面白い記述があるの。「承應2年(1653) 當寺二世單信和尚 伊豆の大嶋より大石二十一を舟に載來りしに ある日海上にて船すゝまず 鰐魚の支ふる所ならんとて一つを水中に抛ち 殘る二十を載來りて建立せり 其後明和年中に至りて時の住僧精譽滿山 其志を繼で一基を建 かの單信が願を滿足せりと云」とあり、その思いがあればこその六角名号塔ね。

13. カスリーン台風浸水跡 かすりーんたいふうしんすいあと

浸水深 本陣跡に向かう途中では電柱に御覧のような表示があるのを幾つか見掛けたの。帰宅後に調べてみると、昭和22年(1947)のカスリーン台風に依る大雨は関東や東北地方を襲い、特に埼玉県東村(現:大利根町)の利根川堤防決壊は埼玉県&東京都の東部地域に甚大な被害をもたらしたの。氾濫流はこの栗橋町を直撃し、埼玉県東部地域に溢れ、やがて東京湾へと流れていったの。左掲の電柱には実績浸水深2.3mとあり、ξ^_^ξの背丈を優に凌ぐ水かさで、それが濁流となって押し寄せて来たと云うのですから恐怖以外の何ものでもないわね。内閣府の 防災情報のページ に依ると9/16には

AM0:20
利根川で最高水位9.17mに達す(計画水位を1.62m上回る)
栗橋上流約4Km地点、北埼玉郡東村(大利根町)で340mにわたり利根川が決壊
AM4:00
洪水は栗橋駅に向かい東武線沿いを南進し、豊田村(栗橋町)に浸水
PM5:00頃には栗橋町ほぼ全域が水没、死者16人、流失・半全壊家屋316戸

もの被害に及んでいるの。利根川本流支流を含め24ヶ所で堤防が決壊し、特に埼玉県東村の決壊に依る氾濫流は埼玉県下のみならず、東京都葛飾区・江戸川区にまで達し、関東地方全体では死亡者数1,100人 家屋の浸水 303,160戸 家屋の倒半壊 31,381戸にも及ぶ未曾有の大災害となったの。

訪ねたときには堰堤側のあちらこちらで槌音がしていましたが、堤防の増強工事が進められていたの。久喜市HPに依ると「首都圏を洪水被害から守るため、利根川堤防の安全性を早急に向上させることを目的として、国が平成16年度から平成25年度の完成を目途に行っている事業であり、その範囲は下流は五霞町の江戸川分派点から上流は深谷市の小山川合流点までの49.5kmです。栗橋地区においては、市街地であることから、整備手法について地元住民と検討を重ねてきました。その結果として通常の堤防強化事業案に地元住民の要望を取り入れた堤防強化事業改良案で進めていくこととしました」とあり、事業計画が掲載されているの。実際には住み慣れた土地からの立ち退きを強いられるなど、一部の方々には辛い選択ですが、早く安心して暮らせる街になって欲しいものよね。尚、ここでは ′12.08 現在の情報を元に記載していますので御了承下さいね。

14. 池田家本陣跡 いけだけほんじんあと 11:35着発

池田家本陣跡

〔 本陣と池田鴨之介 〕  池田鴨之介は、下総国葛飾郡小手指の栗橋村(現在の茨城県猿島郡五霞村)に、天正7年(1579)8月に生まれている。慶長19年(1614)鴨之介が35歳のとき、徳川幕府の命により並木五良平と共に当地に移り、新田開発を行っている。その時、両名と一緒に下総国栗橋村から移り住んだ民家は45戸であったという。その後、当地は次第に町並みも整い、元和元年(1615)には元栗橋に対し新栗橋と称するようになった。池田家は元和8年(1622)徳川二代将軍秀忠が家康を祀る日光山東照宮に初めて参社の折、本陣となり以後、明治3年(1870)本陣の制度が廃止されるまで代々本陣を勤めている。池田家の墓は、鴨之介の古い石碑と共に顕正寺にある。昭和63年(1988)3月 埼玉県・栗橋町

【風土記稿】には「大職冠鎌足の苗裔 池田大炊頭正親の末葉 本國美濃の者にて 觀應の頃下總國元栗橋村に來り農家に降ぬ 慶長年中鴨之助と云ふもの 村民五郎平と謀りて當所を開發す 其子四右衞門より代々此名を襲ひて 開發以來怠慢なく本陣役を勤めり」とあるの。現在の当主が何代目にあたるのかは分かりませんが、門構えからは嘗て本陣を勤めた池田家の風格が感じられるの。因みに本陣とは、簡単に云うと大名や旗本など要人の宿泊所として利用された家屋敷のことなの。宿泊に際しては多少の金銭授受はあったかも知れないけど、その多くは社会的な名誉だけが対価だったの。勿論、高貴な方々のための宿泊所なので庶民の宿泊などは論外のこと。持ち出しが多すぎて、蔵が幾つもあるような資産家でないと引き受けられなかったと云うわけ。

15. 栗橋関所跡 くりはしせきしょあと 11:37着 11:39発

栗橋関所跡 『房川渡中田・関所』 埼玉県指定旧跡 昭和36年(1961)9月1日指定
江戸幕府は交通統制と治安維持のために、主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まった。栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで『房川渡中田・関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで重要な関所であったと云う。関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川の畔にあり、寛永年中(1624-44)に関東代官頭の伊奈備前守が番士4人を置いた。以後、番士は明治2年(1869)関所廃止まで約250年間、代々世襲で勤めた。関所跡の記念碑は大正13年(1924)に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の揮毫で、旧堤上に建碑され、数度の堤改修により、建設省利根川上流工事事務所の配慮で、今回ここに移設された。昭和60年(1985)7月 埼玉県教育委員会・栗橋町教育委員会

また、案内板には【房川渡の由来】として「往古、奥州街道は下総台地の五霞町元栗橋(下総国猿島郡・栗橋村)を通っていて、その「幸手=元栗橋」の乗船場を「房川渡・栗橋」と呼んだ。後、利根川の瀬替えなどで街道が付け替えられ「栗橋=中田」に乗船場が生まれ「房川渡・中田」と呼ばれた。一説に房川とは、元栗橋に宝泉寺と云う法華坊があり、「坊前の渡し」と呼んだことから、坊前が房川と記され、川と渡しの名になった」とあるのですが、【風土記稿】には「宿内常薫寺は元栗橋村寶泉寺持の庵にて法華宗なり 故に法華坊と云 其坊前の渡なれば坊前渡しの稱ありしを いつとなく今の字に改むと云」とあり、ちょっと微妙。(^^;

関所配置図に依ると、実際の関所跡は堤防下になるのね。But 明治期以降の度重なる堤防改修工事で、嘗ての関所や渡船場などの景観はすっかり失われ、今となってはその面影を窺うことさえ出来ないの。この栗橋関所ですが、正式には中田関所と呼ばれ、その開設は池田鴨之助らが新栗橋宿※を開発した後、元和2年(1616)に定船場となると渡船業務が急増、寛永元年(1624)に関東郡代伊奈氏支配の下に森又左衛門ら4人が番士に任ぜられたのに始まるの。関所自体は敷地面積約4,600m²を有し、木柵をめぐらせた中に16坪程の番所が建てられていたのだとか。

※江戸に幕府が開かれるとその江戸を洪水などの水害から守るために幕府は荒川と利根川の切り離しに着手、利根川の東遷事業を始めたの。その影響で当時の栗橋(現:元栗橋)が荒廃、新天地を求めて住民達は当時上河辺新田と呼ばれていた現在の栗橋に移住したの。後に日光街道が整備されて宿場町も出来て賑わいを見せるようになると新栗橋と呼ばれるようになり、いつの頃からか栗橋に転じ、代わりに以前の栗橋は元栗橋と呼ばれるようになったの。

16. 八坂神社 やさかじんじゃ 11:40着 11:57発

牛頭天王社 宿の鎭守なり 福壽院の持 慶長年中利根川洪水のとき 水溢を防んとて村民等堤上に登り居たりしに 渺々たる水波の中に鯉魚と泥龜とあまた圍み 御輿とおほしきもの流れ來れり 引上みるに全く御輿にて元栗橋の天王なること 偶つとへる彼村民等も見認得たりしかば 衆皆奇異の思ひをなし かかる亂流の中に傾覆の患なく 鯉魚泥龜の類圍て當所に來れることは 之れ神靈の然らしむる所ならんとて 則爰に勸請し 是より後毎年六月は 此神を祭れる月なれば 村老はさらなり兒童さへかの二魚を食ふことを得ず 【風土記稿】

【風土記稿】では牛頭天王社の名で記されますが、元々は京都・祇園社(現:八坂神社)から分祠分霊されたもので、この栗橋宿の成立に合わせて元栗橋の地からこの場所に遷座して来たものと伝えられているの。鯉と亀が云々の物語は後世に付与された逸話の匂いがプンプン (^^; するけど、御輿云々は別にしても、縁起譚の元になるような出来事が、あるいは実際にあったのかも知れないわね。
除災の鯉
招福の鯉

〔 除災の鯉 〕  神社の神様は慶長年間に利根川の洪水のとき 渺々たる水波の中を鯉と亀とが運んで来たものと伝えられています。この由緒ある神社に御参詣して招福・除災の霊験あらたかな鯉を撫で身体をさすって下さい。健康(無病息災)家内安全・商売繁昌・縁結び・学業成就などの幸福を招く鯉です。駒宮喜久男謹書

〔 招福の鯉 〕  栗橋町総鎮守八坂神社は素盞鳴尊を御祭神としてお祀りしており、我が国の古い神話にある八岐の大蛇を退治された神と云われています。その神話から、この神様は人間の持ついろいろの災害を祓って幸福を招く神として信仰されています。

17. 利根川橋 とねがわばし 12:01着発

今では頑丈な橋脚に支えられた利根川橋があるので、暴れ川として知られた板東太郎も難なく渡ることが出来ますが、嘗ては日光道中に於ける最大の難所だったの。通常は船で渡河していたのですが、将軍の日光社参となると半端じゃなかったようよ。天保14年(1843)、第12代将軍徳川家慶のときには、三月もの期間を掛けて高瀬舟51艘を繋いだ船橋を架設しているの。それ以上に駆り出されて作業させられた方よね。それはさておき、橋の上流側には水位観測所があるの。計測された水位は栗橋町役場とJR久喜駅前に設けられた水位塔にリアルタイムに表示されるのだとか。

その栗橋を一度離れて、お隣の茨城県へちょっと足を延ばしてみたのでお付き合い下さいね。
昔のことを思うと、何の制約もなくフリーパスで行き来出来る有り難さを感じてしまうわね。

18. 中田関所跡 なかたせきしょあと 12:12着発

〔 房川渡と中田関所跡 〕  江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋を架けることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を「房川」(理由は諸説あって不明)と呼び、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、「栗橋の関所」の名で知られていた。四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ四十間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。平成元年(1990)3月 古河市教育委員会

更に歩みを進めると、利根川堤交差点角に中田宿の案内板があるの。距離にしたら200m足らずよ。

〔 中田宿 〕  江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成させたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を15日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたると云う、いわゆる合宿であった。本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530mほど続いて軒を並べていたが、殆どは農家との兼業であった。天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。但し、118軒とする記録もある。平成19年(2007)1月 古河市教育委員会

19. 鶴峯八幡神社 つるがみねはちまんじんじゃ 12:23着 12:38発

社伝に依ると、鎌倉時代に源頼朝若しくは二代将軍源頼家が、鎌倉の鶴岡八幡宮の神主・高橋氏を以て創建させ、後、天福2年(1234)下総国一の宮である香取神宮も祀って、八幡と香取の相殿にしたと云い、中世には栗橋方面にまで勢力をもった有力な神社であった。元の名を上伊坂八幡宮と称し、上伊坂の地にあったが、江戸時代初期に、中田と上伊坂の村民によって、宿場町としての中田宿が現在の利根川橋下の河川敷に造成された折、その東方の古墳上に祀られ、長くこの地の守護神であった。更に大正元年(1912)利根川改修工事による中田の町並みの移転に伴い、現在地に移座した。宝物には鎌倉時代に書写されたとする市指定文化財の法華経がある。更に、永禄7年(1564)の紀年銘を持ち、水海城主簗田氏寄進と伝えられる鰐口があったが、残念ながら現存していない。また、少なくとも享保年間(1716-36)には、近郷近在の神官によって奉納されていたと伝えられる太々神楽が市の無形民俗文化財に指定されている。平成19年(2007)1月 古河市教育委員会

永代太々神楽 中田神楽保存会結成八十周年記念
当社例祭に奉納される太々神楽は出雲流の神楽で、天地開闢、国常立神の舞を始めに日本神話に登場する神々の舞です。国家安寧・無病息災・五穀豊穣等を祈願し奉納されています。起源は享保13年(1728)3月10日114代中御門天皇の御代に近郷近在の神職等により奉納され、天の岩戸の前で奏した為「岩戸神楽」と称し、十二座で構成されている事により「十二座神楽」とも伝えられています。神職の継承が困難になった昭和4年(1929)、神社周辺の山の内や中田町氏子によって結成された「中田神楽保存会」により伝承され、故実に則り途切れる事なく今日まで年々歳々に亘り当神社に奉納されています。昭和49年(1974)5月23日古河市民俗無形文化財第一号として指定され、現在に至っております。此の神楽の維持継承に尽くされた神社関係者・会員各位并びに地域の崇敬者の皆さまに感謝すると共に、此の八十周年を更なる礎と記念し、地域の氏子の想いによって、この後幾久しく継承されることを祈念する。平成22年(2010)4月吉日建立 鶴峯八幡神社 宮司 高橋文男

20. 光了寺 こうりょうじ 12:41着 12:50発

中田町に足を延ばしてみた理由がこの光了寺の拝観なの。後程紹介しますが、栗橋駅前に静御前のお墓があるの。度重なる利根川の河川改修で移転を余儀なくされた光了寺ですが、嘗てはその場所に建てられていたの。加えて光了寺には静御前の守本尊や舞衣とされる蛙蟆龍(あまりょう)の御衣、義経形見の懐剣や鐙などが所蔵されると聞いては訪ねないわけにはいかないわよね。中でも蛙螟龍の御衣は後鳥羽上皇から下賜されたものと伝えられ、古河市の指定文化財なの。But 一連の品々は宝物館に収蔵されることから見学は要予約なの。ちょっと残念ね。

蛙螟龍の読み方ですが、下記の三通りがあり、ξ^_^ξにはどれが正しいのか分からないの。
個人的な好みからこの頁では「あまりょう」としておきますね。
1. あまりりゅう 2. あまりゅう 3. あまりょう

静御前との関わりなど、光了寺の縁起が気になりますが、案内板の文字もまた土に還りつつあり。取り敢えず読み取ることが出来た部分だけでも転載してみると「光了寺は昔、武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって高柳寺といい、弘仁年間(810-823)に弘法大師が創立したと伝えられている。その後、建保年間(1213-1219)に親鸞聖人が越後より常陸に移ってきたとき、当時の高柳寺の住職であった大僧都法印円崇興悦が聖人の弟子となり、法名を西願と賜り、改宗して浄土真宗厳松山聖徳院光了寺と号した。現在、当寺は浄土真宗大谷派の寺院として‥‥‥」とあるの。

【静女蛙蟆龍舞畧縁起】には「靜女の舞衣は下總國葛飾郡中田宿松山聖徳院光了寺に藏する所也 此寺往昔は武州高柳村に有て高柳寺と號し天臺宗也 建保年中宗祖親鸞聖人御入りましゝたりし 其時の住持は後鳥羽院の北面土岐又太郎國村の次男 出家して權大僧都法印圓崇と云し人成しか 御弟子となり法名西願と下され 淨土眞宗光了寺と改號せり 其後寺を爰に移す也」とあり、どうやら改宗以前の住職と源義経が俗縁だったことから光了寺と静御前の関わりが出来たみたいね。

聖徳太子像 木造聖徳太子立像(松葉太子像)  茨城県指定有形文化財・彫刻 昭和63年(1988)1月25日指定
光了寺に安置される像高96cm・桧材・寄木造・玉眼嵌入・彩色の聖徳太子像は、手に松葉を持った姿に彫られた松葉太子像である。太子が三歳の時、乳母(めのと)が桃の花と松の枝を差し出したところ「桃の花はいっときの美しさ、松葉は長持ちするめでたい木だから」と云って、松の枝を選んだという【聖徳太子伝暦】が伝える説話に基づいた像形である。頭髪を美豆良に結い、あげ頸の袍衣に袴を着て、花先形の沓を履き、胸前の両手で松の枝を持つ。面貌は若々しく、みずみずしい趣があり、童顔にしてしかも聡明な太子の相を良く表現している。全体的に三歳の幼年像と云うよりは、もう少し年嵩の少年像の印象を受ける。製作年代は14世紀前半、鎌倉時代末期から南北朝時代前半頃とされ、首内部には応永10年(1403)に修理がなされたことを示す墨書銘がある。茨城県教育委員会・古河市教育委員会

21. 顕正寺 けんしょうじ 12:54着 12:58発

地図上にその名を見つけてあるいは−と気になり訪ねてみたのがこの顕正寺。先程栗橋町の顕正寺で触れましたが、池田鴨之助に請われて移転するまでは中田新田に建てられていたの。訪ねる前までは、旧地にその名を残していたとしても寺院跡の類かしらと想像していたのですが、御覧のように瀟洒な堂宇が建てられていたと云うわけ。御住職は栗橋&中田の両寺を兼務されているのか、それとも個々にいらっしゃるのかは分かりませんが、一卵性双生児といったところね。門前には力の入った (^^; 略縁起が掲示されていましたので転載して中田・顕正寺の御案内に代えますね。

當山は幡谷山破邪院顕正寺と号す 開基は常陸国茨城郡大薫の森畠谷村畠谷の城主の嫡子・畠谷次郎信勝(后幡谷と改む)にして 親鸞聖人が関東御教化の折 親しく教化を蒙り出家してお弟子となる 唯信房と称し 聖人の直弟24輩の一人に加えられる 邑中に一宇を創む 之を開山一世とす 五世誓願の時 佐竹義宣兵を発して邑中の豪族・山形信濃守の城を襲ふに火を縦ち攻撃す 寺又延焼を被むる 於是て願誓今の地(下川辺)に来り 則是の寺宇を創む 武蔵国騎西の城主浄和公 曽て祖先の霊を寺中に安す 後年屡々洪水に遭い 堂宇傾倒風火を被る 遂に烏有に帰す 家族等現在地を去ること西北20町余 利根川沿岸幡谷村(現在の旗井)顕正寺を建立す 徳川氏天下を統治してより 諸氏の臣松平周防守爾後石見国浜田国替となるや(慶安三年) 当寺の兄弟多く之に従ひ 浜田に顕正寺を建立したり 其後21世唯圓深く寺の沿落を嘆息し 之が復興に務めしが 堂有破損甚しく 水害の為真影を殷損せり 松平周防守に嘆願して再び尊影を拝戴 現地の土盛りを為し 水害の危害の危険を免るやう一宇を建立し安置したり 明治5年(1872)、同43年(1910)災厄に遇いたり 現在の道場は平成の世に再建し 安心決定の為の聞法道場なり 顕正寺住職

光了寺拝観を目的に足を延ばした中田町でしたが、思わぬ発見がありました。
気を良くしたところで踵を返して栗橋へと戻りますので、今少しお付き合い下さいね。

22. 関所番士屋敷跡 せきしょばんしやしきあと 13:32着 13:33発

八坂神社まで戻り、境内に沿う道を左手方向に歩きましたが、訪ねたとき( ′12.07 )にはあちらこちらに撤去された家跡が。番士屋敷跡よりもすっかりそちらの方が気になってしまったξ^_^ξ。工事概要からすると、平成16年(2004)度から平成25年(2013)度の完成を目指して利根川堤防強化事業が行われている最中で、堤防沿いの栗橋地区では200世帯を超える方が移転を余儀なくされているのだとか。But 栗橋町は早い話がゼロメートル地帯で、洪水時に堤防が決壊すると濁流が押し寄せ、町は壊滅状態になるの。地元の方々にすれば常に不安&恐怖と背中合わせの暮らしよね。願わくば水防に併せて嘗ての栗橋宿のような賑わいが戻って来て欲しいものよね。

関所番士屋敷は、寛永元年(1624)に栗橋関所番士の住いとして江戸幕府が設けたものである。関所番士の定員は4人で、これを二組に分け、毎日明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)まで、二人一組五日間交代で勤務していた。維新期最終の番士は加藤、足立、島田、富田の四家であった。手当は二十俵二人扶持であったが、足立氏は故あって四人扶持に増量されていた。一人扶持は一日五合の割合で、二人扶持は約十俵に当る。扶持は幸手宿本陣中村家から送米されていた。ここ足立家は、現存する貴重な関所番士宅で寛政12年(1800)足立十右衛門が五人目の役人として金町松戸御関所から転勤し、移り住んだのが始まりと云う。加藤家、島田家も現存しているが、富田家は明治2年(1869)の関所廃止と共に東京へ移転している。各家敷地とも高く盛土し、いずれも約1,400m²である。尚、番士の墓は常薫寺、深廣寺にある。昭和63年(1988)3月 埼玉県・栗橋町

訪ねたときには堤防増強工事に先立ち、番士屋敷跡の発掘調査が行われていたの。その調査対象は 3,523m² にも及ぶと云うのですから、かなりの広範囲よね。番士と聞いて差程大きな家屋敷ではなかったのでは−と勝手に想像していたのですが、とんでもない大邸宅よね。お掃除が大変だったかも知れないわね。(^^; 道際の道標には「くりはし史跡の散歩みち」とありましたが、発掘調査が終われば番士屋敷跡も盛土に埋もれる運命ね。But 八坂神社だけは現在地のままで整備されるみたいね。

23. 香取神社 かとりじんじゃ 13:36着 13:38発

経蔵院を訪ねる途中(と云ってもお隣同士だけど)で見掛けて立ち寄ってみたのがこの香取神社。残念ながら縁起が窺えるようなものは見当たらなかったの。それにしてもこの辺りでは香取社が多いわね。調べてみると香取社は旧利根川の左岸(東側)に多く鎮座し、水上交通の守護神として信仰されていたみたいね。それはさておき、石段の手前右手には大辨財天の文字を刻む石塔が建てられていたの。弁財天とこの香取社のことは後でもう一度触れますので覚えておいて下さいね。実はこの香取社を含め、以降に訪ねる寺社旧蹟は、いずれも静御前とは深〜い関係があるの。

香取社が旧利根川水系で水上交通の守護神として信仰されていく過程など
詳しいことが気になる方は下記の論考を御参照下さいね。

雄山閣刊 地方史研究協議会編「河川をめぐる歴史像 境界と交流」所収
「中世関東内陸水運における香取社の位置」川島ゆみ子

24. 経蔵院 きょうぞういん 13:39着 13:50発

栗橋町指定文化財 本尊地蔵菩薩 唱和53年(1978)3月29日指定
この寺は貞観年代の慈覚大師の創建と云われ、最勝王院と呼ばれる台密修練の道場であった。保元の頃、願行坊宥俊阿闍梨が下河辺の荘司であった行平と云う人の寄附に依り再び隆盛した。鎌倉時代、伊予守源義経の愛妾静御前は、奥州にいる義経を慕って侍女琴柱と僕僮を伴い旅に出たが、途中義経の悲報を聞いて落胆のあまり病気になった。この寺で養生に勤めたが、露のように儚い生涯を閉じた。琴柱は髪を落とし、西向尼と名乗って静を弔うために、京都嵯峨野から静御前の御持仏である地蔵菩薩を持ち帰った。

その後、西向尼が没してから本尊としてこの寺に祀った。この仏像は漆乾製(和紙と漆)の立像で日本で三体だけと云う数少ない貴重な文化財である。栗橋町教育委員会

現在は愛宕山経蔵院を山号院号とする真言宗豊山派の寺院ですが、この経蔵院もまた静御前ゆかりの寺院なの。訪ねてみれば静御前の持仏と伝えられる地蔵菩薩を、あるいは拝観することが出来るかも知れないわ−と期待したのですが、やはりダメでしたね。この経蔵院のことも後程静御前のお墓の項で改めて御案内しますので、お楽しみにね。(^^;

25. 宝治戸池 ほうじといけ 13:52着 13:54発

宝治戸池 栗橋駅に向かう途中には大きな沼があったの。地元では宝治戸池と呼び、寛保2年(1742)に利根川が氾濫した際に洪水で出来たものだそうよ。これでも埋め立てられて小さくなったと云うのですから、元の大きさは半端じゃなかったでしょうね。池沼の類を通り越してそれこそ湖状態だったのかも知れないわね。ところでこの宝治戸池、個人の所有みたいよ。連名にはなっていたけどゴミの投げ捨て禁止の警告表示があったの。見ると藻が大量繁殖していたりして、お世辞にも綺麗とは云えないのですが、これだけ広いと水草のお掃除も大変ね。それとも自然の成り行き任せかしら?(^^;

26. 静御前の墓 しずかごぜんのはか 14:03着 14:07発

今回の散策コースで最も興味を覚えていたのがこの静御前のお墓なの。訪ねる前までは静御前のものだとしても基本的にはお墓なので落ち着いた佇まいを予想していたのですが、実際に目にしてみると観光名所、否、すっかり町興しの材料にされている感があるわね。造作にしてもやりすぎよ、これは。と、ξ^_^ξがここで異を唱えてみたところで詮無いことね。気を取り直して伝説と浪漫の世界へとしばし遊ぶことにしますね。先ずは傍らに建てられていた案内板からお読み下さいね。

静御前 久喜市指定文化財 静御前の墓 昭和53年(1978)3月29日指定
静御前は、磯の禅師の一人娘として応安3年(1168)に生れたと云われ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。旱魃が3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変に困っておりました。そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、「雨乞いの舞」を命ぜられました。最後に静が舞い始めると空が俄に曇り、激しく雨が降り出し三日三晩も降り続いたと云います。後鳥羽上皇は、静が15才でありながら類稀な才能を賞嘆され、褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されております。

平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。その後、義経は兄・頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。

侍女琴柱がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓の印の無いのを哀れみ、享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守忠英※が「静女之墳」の墓碑を建立したものと考えられています。また、境内にある「舞ふ蝶の 果てや夢みる 塚の蔭」と云う歌碑は、江戸の歌人・坐泉の作を村人が文化3年(1806)3月に建立したものであります。(注)公式には、静御前の生没年は、はっきりしていません。ここに記されている内容は当地の伝承をもとにしています。久喜市教育委員会・静御前遺跡保存会
※補 江戸時代後期の幕臣で、長崎奉行や勘定奉行などの要職を歴任しているの。

概要は案内板にある説明で網羅されますが、これだけで終えてしまっては怒られるわね。少しお話しを色付けしますが、静御前の逸話はこの栗橋に限らず日本各地に残されているの。お墓にしても然りなの。【風土記稿】にも「小名寶侍戸に在り 少しく築上げたる墳にて老杉一樹たてり 高さ五丈餘 圍二丈二尺餘 其枝四方に瀰漫すること凡十五間 前に靜女墳の三字彫し石碑あり 享和3年(1803)中川飛騨守忠英造る所なり 下總國中田宿高了寺 元當郡高柳村にありし頃 靜女の骸をそこに葬りしか 後其寺を今の處に移し 寺號を高了寺と改と云‥〔 中略 〕‥今按に靜女終焉の事古記に所見なし 姑寺傳のままを記す」とあるように、必ずしも史実だと云うことではないの。でも(だから?)面白いの。(^^;

説明にもあるように静御前は都では知られた白拍子でしたが、白拍子が何なのか気になりますよね。字面の印象から白装束で舞う姿を連想されるかも知れませんが、鼓などの楽器は使用せずに、笏(しゃく)だけで拍子をとったことに由来し、伴奏の無い素(しら)の状態を表す素拍子から転じたものでは−と云われているの。その白拍子ですが、【徒然草】には「通憲入道 舞の手の中に興ある事どもを選びて 磯の禪師といひける女に教へて舞はせけり 白き水干に鞘卷を差させ 烏帽子を引き入れたりければ 男舞とぞ云ひける 禪師が娘 靜と云ひける この藝を繼げり これ白拍子の根元なり」とあるの。あらあら、白拍子の妙手どころか、創始者の娘とは。これ以上の血統書はないわね。

中間を思いっきり端折りますが (^^; 義経と分かれた静御前が吉野山中で捕らえられて鎌倉へと送られ、鶴岡八幡宮で 吉野山 峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ戀しき 靜や靜 しずのおだ卷きくり返し 昔を今になすよしもがな と謡い舞ったのが有名な静の舞。その時の様子は鎌倉歴史散策の 鶴岡八幡宮編 で紹介していますので、宜しければお立ち寄り下さいね。その後身籠もっていた静御前は義経の子を産むのですが、悲しいことに即日殺されてしまうの。【吾妻鏡】の文治2年(1186)閏7/29の条には

靜 男子を産生す 是豫州の息男なり 件の期を待たるるに依りて 今に歸洛を抑留せらるる所なり 而るに其父關東に背き奉り 謀逆を企て逐電す 其子若し女子たらば早く母に給はるべし 男子たるに於ては 今襁褓の内に在りと雖も 爭か將來を怖畏せざらんや 未熟の時 命を斷つの條宜しかるべきの由治定す 仍って今日安達の新三郎に仰せ 由比浦に棄てしむ 之より先 新三郎御使として彼の赤子を請け取らんと欲す 靜 敢てこれを出さず 衣に纏ひて抱き臥し 叫喚數刻に及ぶの間 安達頻りに譴責す 磯の禪師殊に恐れ申し 赤子を押し取りて御使に與ふ 此の事 御臺所御愁歎 之を宥め申さると雖も叶わず

とあるの。時代がそうさせたとするには余りにも辛い時代ね。そうして悲嘆の内に都に帰ることを許された静御前ですが、その後の足取りは歴史の中に消え去ってしまうの。その静御前が栗橋では次のような伝承で語り継がれているの。奥州平泉に落ち延びた義経を追い、静御前もまた平泉へと向かうのですが、その途次に当地で義経の訃報を知り、悲嘆の内に亡くなってしまったと云うの。先程訪ねた経蔵院に伝えられる【愛宕山経蔵密院之紀】※の記述を紹介してみますね。
昭和初期に経蔵院の住持の方が度重なる水害や火災による古記録の散逸を危惧して改めて纏めたもの。

高柳寺に一夜のやとりを請ひ 明る日此寺を發足して前林といふ所迄たとり付給ひしに 圖らすも奧州より來りし旅人の噂に九郎義經ぬしは去る閏四月晦日奧の高館にて勇士の最期を遂げ給ひぬと聞へしかば 靜の愁歎やるかたなく絶え入るばかり泣き給へば 琴柱は甲斐々しく諫めはげまし辛して伊坂の里まで引返しけるに いととさへ旅は物憂き習ゐなるに 戀ひまへらせし豫州ぬし 御空しくなりしと聞えしより 氣も魂もよはりはてうつつこころに日を送りしが 終焉も早近つきぬと自ら覺り玉へけむ 最勝王院の住持宥俊上人を仰きて導師となし 落飾授戒して法名を西唱尼と給はり 暫く病を養ひぬれと定業にやありけむ 文治五年八月十六日といふに 草の葉におく白露の消ゆるが如く身罷りぬ 而も終焉の時に及び 昏々として將に命絶えなんとせしが 忽ち兩眼を見開きて 九郎ぬし と唯一言を名殘として 其まま瞑目したりしとぞ

読むと涙が出てきちゃうわよね。更に記述には「琴柱は里人を語らひて静御前の遺骸を此里の宝治戸に葬りまへらせ 一本の杉を栽へて墓の印となし 静の遺物蛙蟆龍の舞衣 懐剣は高柳寺の上人に布施し奉り 静随身の普門品一巻 七宝の念珠一連をは最勝院の宥俊闍梨に奉りて 永く豫州と静の御菩提の料とそなしたりける」とあるの。嘗てこの場所には高柳寺が建てられていて、静御前の亡骸はその一角に葬られたの。その高柳寺も度重なる利根川改修工事のために中田新田に移転、現在は寺号も高柳寺から光了寺へと改称してはいますが、先程訪ねた光了寺のことなの。その静御前の奥津城処ですが、利根川の氾濫で流されてしまい、それと知らしめるものが何も残されていないことを憂いた関東郡代の中川飛騨守忠英が、享和3年(1803)、現在地に墓碑を建立したと云われているの。

高柳寺(高了寺)=光了寺
最勝院(最勝王院)=経蔵院

明治15年(1882)編纂の【武蔵国郡村誌】葛飾郡伊坂村の條には「静女塚 村の東方一言耕地にあり 高二尺直径一丈二尺余円形の小墳あり‥〔 中略 〕‥弘化3年(1846)丙午7月13日利根川洪水の時 堤防を破り根を浸し 為に枯朽し後 野火の焼く所となる 爾来度々苗木を植えれ共生長せず 方今茨を生す云々」とあり、杉の木こそ枯死したものの、その頃は未だ静女墳の三文字を刻む旧墓碑と併せて再建された塚が形を留めていたみたいね。当初、墓の目印として植えられた杉の木も、時を経て今は公孫樹の木に化けてしまいましたが、一角では静桜が枝葉を広げているの。

静桜は、静御前ゆかりの花であり、数の希少さと共に、学術的にも極めて貴重な桜です。里桜の一種と云われていますが、ソメイヨシノのような一般の桜にくらべ、花期の訪れが遅く、4月中旬に開花します。花は、5枚の花弁の中に、旗弁といって、雄しべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲き方をします。このことから、開花した様子は、一見、八重と一重が混じったように見え、他の桜とは趣を異にした風情を見せています。この桜の原木は宇都宮市野沢にあります。地元の伝承では、奥州へと向った静が、義経の討死を知り、野沢の地に一本の桜を植え、菩提を弔ったのがその名の起こりと云われています。その接ぎ木苗が(財)日本花の会から寄贈され、この墓所に植えられました。〔 以下省略 〕

この静桜ですが、原木から接ぎ木したものはこの栗橋以外には平泉にしか無いそうよ。
正に貴重な桜ね。

靜女塚碑 皇太后宮大夫兼内藏頭從三位勳二等子爵杉孫七郎題額

栗橋停車場東百歩有古塚 傳爲舞妓靜女墓 曰靜女已遁鎌倉 聞廷尉在陸奧 從一婢間關東下 至此聞廷尉遭害 一慟遂絶 邑人憐之 請高柳寺僧誦經 以葬高柳寺 後移中田改稱光了 藏靜女錦叚舞衣 傳爲後鳥羽法皇祷雨神泉苑時所賜家 有老杉樹樹大蔽午蔭數十弓 安政年間僵邑豪柳沼氏 恐其歸湮滅 樹柵表域建一碑 使餘撰文 靜女以歌舞事人者 而千載之下史氏張大其事 詩歌之圖畫之 童幼婦女稱道如昨日者 豈非其流離顛沛 不敢變 從一之義之故歟 夫廷尉率大軍 而猛將健卒奮躍 爭先恐或不及 一旦蒙冤罪 竟起敵之 其從亡者僅二十數名而己 而靜女就逮望所天於芳山 寄所懷於連環 視死如歸 以右府之威 無如之何 彼長槍大馬自許 百夫雄 而反覆■極 唯利之 視聞靜女之風 獨無所赧然乎 宜稱道至今日也 歳之丁亥餘客柳沼氏 過光了寺 觀錦叚舞衣 想其艷粧 唱離別曲 使右府夫妻變色 慨然久■ 因歴敍逸事 係以銘銘

踏雪芳山 涕涙滂沱 寄懷連環 心曲亂麻 此埋如玉
往事逝波 芊綿芳草 風雨落花 英雄氣盡 如虞兮何

明治二十年龍集丁亥夏五月 仙臺 岡千仭振衣撰文 内閣書記官正五位勳五等嚴谷修書

栗橋停車場の東百歩に古塚有り 傳ふるに舞妓靜女の墓と爲す 曰く靜女は已に鎌倉を遁る 廷尉は陸奧に在りと聞ゆ 一婢を從ひて間關東下す 此に至りて廷尉害に遭ふを聞く 一慟して遂に絶ゆ 邑人之を憐れみ 高柳寺の僧に請うて誦經し 以て高柳寺に葬る 後 中田に移りて光了と改稱す 靜女の錦の叚舞衣を藏す 傳ふるに後鳥羽法皇神泉苑に祷雨せし時 賜う所の家 老杉有り 樹樹大いに午蔭數十弓を蔽ふと爲す 安政年間僵邑豪 柳沼氏 其の湮滅に歸するを恐れ 柵を樹て域を表し 一碑を建て 餘に撰文せ使む 靜女は歌舞を以て人に事ふる者なり 而して千載之下 史氏張りて 其の事を大いにする 之詩歌にし 之圖畫にす 童幼婦女稱道すること昨日の如し 豈に其れ流離顛沛するも 敢えて變わらざるにあらずや 一に之義に從ふの故かな 夫れ廷尉は大軍を率いて 猛將健卒奮躍す 先を爭うも恐らくは或は及ばず 一旦冤罪を蒙り 竟に起ち之を敵にす 其の亡に從ふ者僅か二十數名而己 而して靜女逮に就ひて芳山に所天を望む 連環に所懷を寄す 死を視て歸すが如し 以て右府之威 之如何ともする無し 彼の長槍大馬 自許す 百夫の雄なり 而して反覆すること■極 唯之を利するのみ 靜女之風を視聞するに 獨り赧然する所無なん乎 宜しく今日に至るを稱道すべし也 歳之れ丁亥 餘 柳沼氏に客たり 光了寺に過ぎる 錦叚舞衣を觀る 其の艷粧を想ふ 離別の曲を唱す 右府夫妻をして變色せ使む 慨然とすること久■ 因て逸事を歴敍し 係かるに銘を以て銘す 雪を踏む芳山 涕涙滂沱たり 連環に懷を寄す 心は亂麻の如きに曲がり 此に玉の如きを埋む 往事波の如く逝き 芳草芊綿す 風雨花を落す 英雄氣盡く 虞兮如何せん

今回の散策で最後に訪ねたのが次に紹介する一言神社ですが、風の便り (^^; に侍女・琴柱が静御前の霊を祀るために祠を建てたのがその始まりと聞き、訪ねてみたいと思ったの。But 場所が分からずにいたのですが、地元の方に訊けば直ぐに分かるだろうから−と余り気にせずにいたの。でも、それがとんでもないことに。地元の方に訊いても分からずに何と30分近く探し歩いてしまったの。静御前のお墓のことはみなさん御存知なのですが、一言神社となると首を傾げるばかりなの。諦めて静御前のお墓に戻ったところであるいは−と声を掛けてみたのが傍らで和菓子屋さんを営む三笠屋さん。聞けばまさに灯台下暗しだったの。

路地 静御前のお墓の傍らを通る脇道を20-30m程進み、更に路地へと分け入るとひょこっと鎮座していたの。追体験してみたいと云う方は、脇道の右手に注意しながら歩いて下さいね。静御前のお墓から三軒目位だったかしら、御覧の路地があるの。後はこの小径を辿るだけよ。道奥には大きな銀杏の木が見えるので目印代わりにして下さいね。突き当たりは個人宅ですが、その手前左手に隠れて鎮座しているの。と云うことで、本来なら静御前のお墓からの所要時間は1分にも満たないハズよ。(^^;

27. 一言神社 ひとことじんじゃ 14:34着 14:35発

先程紹介した【愛宕山経蔵密院之紀】には琴柱のことも記されているの。「最期の妄念を鎭めまへらせんとて 別に祠を建立して其神靈を祀り 一言明神を崇め 己れも又宥俊闍梨を導師と仰ぎて剃髮染衣し 法名を西向尼と稱し最勝王院の境内に草庵を結び ここに行ひすましつつ心靜かに靜の菩提を弔ひけるが 後に再び京上りして嵯峨野の故庵を訪ひ 靜御前の御持佛地藏菩薩を負ひまへらせて伊坂の里の草庵に歸り 此菩薩を信仰して一生行ひすましけるとぞ」とあり、静御前が悲劇のヒロインなら彼女もまた然りね。

静御前は義経を愛し、また愛されたけど、彼女琴柱はどうだったのかしら?静御前の菩提を弔いながら一生を終えたのは確かに美談かも知れないけど、人を愛し、愛される喜びを知るのもまた女性の特権よね。たとえそれが添い遂げることが出来ないものであったとしても。願わくは彼女にもまた想いを寄せた人がいたものと思いたいものね。

一言神社の祭神は社名からすると一言主命(ひとことぬしのみこと)だと思えるのですが、地元では静御前が最期に「九郎ぬし」と唯一言云い残したことに因んで名付けられたものとされているの。まさしく言霊(ことだま)ね。But それとは異なる伝承もあるの。権現堂桜堤にある 順礼の碑 で紹介した順礼母娘の悲話と良く似たお話しなのですが、利根川の堤防が決壊して水が止まらずに村人達が難儀していると、子を背負った一人の女がこの辺りを通りかかり、それを見ていた村人の一人が人柱に立ててしまえ−と云い出すと、そうだそうだ!と皆して女を捕まえ、堤の破れた場所へ無理矢理投げ込んでしまったと云うの。人柱のお陰でようやく水も引き、後で女を不憫に思った村人達が祠を建てて祀ったのがこの一言明神だと云うの。その名も投げ込まれる女性が最期に「お助けを!」と一言云ったことに因むのだとか。また、修行者の六十六部(略して六部とも)を人柱とした別伝もあるの。当時の信仰模様が窺える伝承ですが、史実如何は別にして身勝手と云うか、哀しいと云うか・・・

その一言明神、嘗て地元で行われていた「宝治戸の雨乞い」神事では降雨祈願に駆り出されていたのだとか。何でも昭和30年頃までは行われていたそうよ。背後に利根川を控えて降雨祈願とは意外な印象ですが、利根川流域と雖も旱魃の例外ではなかったみたいね。その雨乞神事の内容が気になりますが、一言明神の御神体を奉持して先程紹介した香取神社へと向かい、途中にある宝治戸池では供奉したまま渡御したと云うの。そうして香取社に納められたのですが、経津主命と同居では一言明神も肩身が狭くて心苦しく早速恵みの雨を降らせてくれたのだとか。(^^; その霊験は殊の外灼かで、祈願すると七日以内に必ず慈雨があったそうよ。But 雨乞いは年一回だけ許され、降雨のお礼をしないと嵐を呼ぶとされていたのだとか。

その香取神社では大辨財天の文字を刻む石塔が建てられていたことを先程御案内しましたが、弁財天もまた水との関わりの深い神さまよね。他頁で既に紹介済みですが、弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。saras は水を、sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。河の流れの妙なる水音は人々を心豊かにすることから福徳を齎す女神となり、穀物の豊作を齎す豊穣の女神ともなるの。やがてそのサラスバティーが同じ女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、河のせせらぎが弁舌にも繋がるの。そのサラスバティーが仏教に取り入れられて弁才天となり、そこでは川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。弁財天が河川の守護神として祀られているのを見掛けることも多いのですが、その理由がお分かり頂けたかしら。その弁才天が金銀財宝を纏い弁財天へと変身するのは後のことね。

その弁財天と静御前、一見すると何の関係も無いように見えますが、この栗橋では深〜いところで繋がるの。弁財天はその持物・琵琶を通して楽曲芸能の神さまとしても信仰されるようになるのですが、そこから弁財天と静御前の繋がりが見えてくるの。静御前もまた舞で知られた白拍子。容姿端麗を以て語られる弁財天がいつの頃からか静御前に姿を変え、そこは悲恋悲哀物語が大好きな日本人、弁財天を堂宇に押し込めると (^^; 静御前の魂に永遠の命を与えたの。

と云うのは論理の飛躍ですが、外国府間から元栗橋にかけては奥州平泉に向かう鎌倉街道中道が通ると云う地理的な要因に加え、雨乞い神事などの宗教的な土壌があればこそ、さもありなん−となり、逸話が史実として語られるようになったのではないかしら。蝦蟇龍の舞衣にしても学術的にはその製作年代を室町期に比定する見方があるみたいよ。あらッ、云っちゃいけなかったかしら?But 譬え嘘でも信ずる者には事実。(^^;

28. 栗橋駅 くりはしえき 14:40着


度重なる水害に多くの汗と涙を流して造られた堰堤も、今は国道へと姿を変え、廻船代わりの長距離トラックが唸りを挙げて駆け抜けて行くの。その国道を離れて旧道をゆけば、ゆっくりとした、でも、確実な足取りで歩いていた当時の人々の軌跡が残されているの。それと気付かずに通り過ぎてしまいそうな事蹟もありますが、語り継がれてきた逸話に耳を傾ければ、喜怒哀楽に揺れた当時の人々の心模様が見えてくるの。嘗ては何でもそろう栗橋とまで云われた宿場町も今は昔の装いですが、往古には旅装を解いた旅人が、平泉に急ぎ行く静御前の後姿を夢枕に見送ることがあったのかも知れないわね。いかがですか、今度の週末にでも、静御前の残り香を頼りに旧道を歩かれてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
角川書店刊 有職故実日本の古典
塙書房刊 村山修一著 山伏の歴史
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
さきたま出版会刊 秋葉一男編 埼玉ふるさと散歩 日光道・古利根流域編
雄山閣刊 地方史研究協議会編 河川をめぐる歴史像・境界と交流
國學院大學刊 内藤浩誉著 静御前の伝承と文芸
埼玉県立図書館発行 埼玉県編 武蔵国郡村誌
岩波書店刊 小山松勝一郎校注 西遊草
その他、現地にて頂いて来たパンフ&資料






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