≡☆ 熊谷のお散歩 ☆≡
熊谷直実ゆかりの地を訪ねて Part.2

前回の散策では時間切れで見ることが出来なかったゆかりの地を訪ねますが、どちらかと云えば熊谷直実と云うよりも娘の玉津留姫と千代鶴姫にゆかりある地をめぐる散策になっているの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

蓮昭寺〜円光塚〜報恩寺〜袖引稲荷〜養平寺〜福王寺跡〜清安寺跡

1. 熊野神社旧地 くまのじんじゃきゅうち 10:08発

史蹟

今回の散策では前回に引き続き熊野神社の旧地を出発点にして歩き始めましたが、紹介する立ち寄りポイントは地元の方でも知らない事蹟が多くあるの。マイナーな存在なのでしょうね、訊ねてもご存知の方が先ずいらっしゃらないの。なので脇道に入って探し回るなど、余計な時間を費やしていますので、各ポイント毎の時間については参考程度に留め置き下さいね。尤も、これをMAXとして御理解頂けたら問題は無いけど。加えて、ゆかりある事蹟とは云うものの、視覚に訴えて来るようなものは少ないの。追体験される場合には、余り期待感を抱かずにお出掛け下さいね(笑)。

2. 箱田神社 はこだじんじゃ 10:12着 10:22発

【成田氏系図】(龍淵寺家譜)に依ると、藤原鎌足の子孫・藤原助高が当地に移り住み成田氏を名乗るようになるのですが、孫の広能には成田小次郎の他にも箱田右馬允の名も併記されることからすると広能が初代箱田氏となるのかしらね。成田氏の出自については他にも諸説があるようですが、その広能が山城国愛宕郡(現:京都市)賀茂神社に祀られる別雷神を勧請したのが箱田神社の始まりだと伝えられているの。時を経て明治44年(1911)には伊奈利・久伊豆・大雷の三社を合祀したのを機に箱田神社と改称しているの。

また、大正3年(1914)の農業用水工事の際には石棺が発見され、中から剣・鉄鏃・陶器の破片などが出土したのを機に新たに現在地を選び、石棺に発掘品を納めて箱田霊神として祀ったのだとか。祭神は事代主命・別雷神・倉稲魂命の三柱とされるのですが、古くは久伊豆明神雷電権現と呼ばれていたと云うのですから、稲荷社は一番後から遷座して来たのかも知れないわね。それとも単に無視(笑)されていただけかしら?社務所の軒先に殆どのめり込むようにして末社が建てられ、扁額に赫顯威神とあるので、どんな神さまが祀られているのかしらと気になり、失礼して中を覗いてみれば、三峰山大神と大山祇大神の二柱だったの。

赫顯威神は神名ではなくて、その御神徳は赤々と燃え上がるほどに霊験灼かな神さまでいらっしゃいますよ〜の意だったと云うわけ。その「赫顯威神」社と本殿に挟まれて塞神と刻む石碑など三基が並び建つ小社があるの。その手前で撫牛然として佇む狛牛の台座には天拝山と刻まれ、社務所の背後には墓塔もあるの。察するに、嘗ては同じ敷地内に寺院も建てられていたのかも知れないわね。天拝山と云えば、太宰府に左遷された菅原道真が無実をはらすために山頂に登って天を仰いだことに因み、名付けられた山の名前よね。

牛にしても、道真の亡骸を載せた牛車の牛がその場に立ち止まると一歩も動こうとしなくなったことから道真の遺言に従い、その場所を廟所として定めたと云う逸話がある位で、後にその場所に安楽寺が建てられたの。それが太宰府天満宮の始まりよね。あるいは嘗てこの場所にも安楽寺が建てられていたのかも知れないわね。でも、それなら明治期の廃仏毀釈などの理由から廃寺になったとしても天神社として残されていてもおかしくはないわね。やはりξ^_^ξの絵空事かしら。境内の左手には皇太神宮が鎮座し、枯死した御神木の一部が保存されているの。

3. 蓮昭寺 れんしょうじ 10:32着 10:38発

〔 仏殿再興記念碑 〕  当寺本堂は天正年間(1573-92)幡随意上人が熊谷寺熊谷蓮生直実公念仏庵を当所に移す しかし数度の災禍を受ける 天保年間(1830-44)再建す 以来 150年余の霜雪を歴て 仏殿衰敗に至る 暁の月影を漏らし 夜の雨覆うに堪えず 檀信徒深憂し 再興の願い幾多の歳月なり 然れども 貧道資糧少なく 故に東西有縁各位に修復を勧める 幸いなる哉 志を一にし 力を合わせて 斧簣土木の功を励まし 平成7年(1995)12月着工 同8年(1996)11月竣工する 願望ここに遂げ 新営眉目を開く 年来の素志 満足を得て 喜跳に堪えたり 殊更本尊阿弥陀如来は紀伊国屋文左右衛門寄進と伝えられる

脇侍は 直実公息女 玉津留姫 千代鶴姫の帰依する観音菩薩勢至菩薩にし 三尊の利益 尤も人口に広く 此の功 虚しからず 施主の檀那及び平等衆生今世に於いては 諸疫を脱し 当来必ず一仏安養の蓮国に往生せん 別して此般 諸大衆 檀徒関係者相集い 入仏慶讃の法要を厳修し 吾等道俗の微意を表し いささか報恩に酬いんとす 合掌 平成8年(1996)12月9日 浄土宗常行庵蓮昭寺第25世 雲誉和美謹疏

蓮昭寺の創立は、熊谷寺中興の祖とされる幡随意上人が、熊谷氏館跡地に熊谷寺を建立するにあたり、残されていた直実縁の草庵を、当時、墓守堂(文殊院持)が建てられていたこの地へ移したことに始まるの。門柱にも蓮昭寺念仏堂とあるように、古くから念仏堂と呼ばれ、関東最初の念仏道場としてその名を知られていたみたいね。寛文5年(1665)には、中興開山・善念和尚が丹波国篠山の法来寺から観音&勢至両菩薩像を持ち来たりて本尊とし、元禄年間(1688-1704)には城主・阿部忠吉が帰依したことから本堂を再興するなどしたのですが、天保12年(1841)の火災で烏有に帰してしまったの。

それでも、時を経ずして天保14年(1843)には再建されたのですが、流石に老朽化したことから、件の本殿再興の運びとなったようね。因みに、蓮昭寺と称するようになったのは昭和16年(1941)以降のことみたいね。訪ねる前まではまさか無住だとは思いもしなかったの。画面には映りませんが、小道を隔てて大きな墓苑が広がるの。嘗ての念仏道場も遙かな時を経て再び墓守堂(立派過ぎるけど)に戻りつつあるみたいね。本堂の左手には経てきた年月を偲ばせる石仏達や歴代住持のものと思しき墓塔などが並び立ちますが、倒れたままに夏草に覆われて僅かに顔を覗かせるものなど、まさに諸行無常の響きあり・・・

実はこの蓮昭寺を訪ねた一番の理由は熊谷直実の次女・千代鶴姫のお墓があると知ったからなの。「熊谷寺には千代鶴姫の守本尊とされる地蔵尊があり、箱田の蓮生寺(元念仏堂)にはその墓と伝えられているものがあるが、今は文字摩滅して判明しない」と記すものがあり、千代鶴姫の墓は箱田の蓮生寺に存するのみ−ともあったの。字面の違いはあるものの、同じ箱田に位置することから同一のものと考えて差し支えないわよね。例え刻まれた文字が分からなくても、この目で見てみたいわね−と訪ねてみたの。残念ながら見つけられずに終えてしまったのですが、よくよく考えてみれば、幡随意上人が念仏堂を移したのは天正年間(1573-92)なのですから、生きた時代が異なる千代鶴姫のお墓があると云うのも変ね。改葬の可能性も考えられなくはないけど、仮にあるとしたら供養塔の類よね、きっと。どちらにしても、真偽の程は皆さんの御賢察にお任せモードです。

次の円光塚への道順ですが、県道R341(妻沼街道)に出たら北に向かってくださいね。

point-A point-B point-C point-D

point-A:
しばらく歩くと朝日バスの円光BSがあり、その先で道が二手に分かれますが、右側の脇道に入って下さいね。
因みに、道路の右側に立つ電柱の傍らに円光BSがあるの。
point-B:
脇道に入った直後の景観ですが、後はここから電柱一本分を歩いてくださいね。
point-C:
左手にガードレールが見えて来ますが、用水路を隔ててある小さな窪地(畑)にコンクリート片のようなものが突き刺さっているの(笑)。それが円光塚で、ξ^_^ξも最初から確かな場所が分かっていた訳ではなくて、【埼玉ふるさと散歩】の「そりまち石材店の裏手用水路縁にある」と云う記述だけが頼りだったの。
point-D:
それにしてもちょっと哀しいシチュエーションよね。加えて、石碑に接近遭遇しようとすると、迂回して妻沼街道側からアプローチしないとダメなの。

4. 円光塚 えんこうづか 10:52着 11:01発

老齢を迎えた熊谷直実は望郷の思い止むに止まれず、愛馬・権太栗毛に跨り、東行逆馬※で帰郷するの。愛馬も熊谷に戻ってからは、のんびりと草を食んではひとり遊ぶ日々だったのですが、とうとう斃死してしまったの。その亡骸を埋めたのがこの場所だと云われているの。後に熊谷寺を中興開山した幡随意上人がそのことを知り、「汝是畜生発菩提心転生性」と自書した石塔を建てて供養したの。それからと云うもの、誰云うとなく畜生塚と呼ぶようになったのだとか。But 月日の流れの中で人々の記憶も薄れ、この石碑が付近の小川に石橋として架けられ、農作業の通行に供されていたと云うのですから、権太栗毛も可哀想ね。

それを妻沼聖天宮の住持が見つけて熊谷寺へ伝え、ようやく元の位置に戻されたと云うわけ。刻まれた文字がやたら摩滅しているのはそんな過去の出来事があるからなのね。銘文の「汝是畜生発菩提心転生性」ですが、汝は畜生道に生きたと雖も、菩提心を発したものなれば、次にこの世に生まれくるときには必ずや人間界に生まれ来たるものならん−と云ったところかしら。この供養塔をあろうことか石橋代わりにして踏みつけていた人達は、あるいは農耕馬に輪廻転生したかも知れないわね(笑)。

東行逆馬 ※東行逆馬:行往坐臥不背西方(行往坐臥、西方に背を向けず)の教えに従い、直実は帰郷の途次に馬の背に鞍を逆に置き、西を向きながら東下して来たの。何でそんなことをしたかと云えば、西方には阿弥陀浄土があり、その西にお尻を向けるのはタブーとされたの。極論と云えば極論なのですが、その西には併せて恩師の法然上人もいるので、直実にしてみればお尻を向けるなど、論外のことだったの。直実が詠んだとされる「浄土にも剛の者とや沙汰すらん 西に向かひてうしろ見せねば」の句が残されていますが、直実の心の内が手に取るように分かる句よね。

次に訪ねた肥塚氏供養塔ですが、これも【ふるさと散歩】のさりげないひとことに(笑)たぐり寄せられて、行けば分かるんじゃないのかしら−と安易な発想で足を延ばしてみたの。ところが、実際にはどこにも案内らしきものがなく、成就院の境外墓地を見つけて、あるいはと墓苑の中をウロウロしてみたり。特別の思い入れでも無い限りはお勧めはしませんが、中には興味をお持ちの方がいらっしゃるかも知れませんので、ここで道案内をしておきますね。尚、途中にある成就院と肥塚伊奈利神社は肥塚氏供養塔を見た後で立ち寄ることにしましたが、先に見ても一向に構わないのでみなさんにお任せよ。

point-A point-B point-C point-D

point-A:
タルミ不動産と隣の成就院境外墓地との間に車一台がようやく通れるような小路があるの。
point-B:
これがその小路よ。迷わずにこの脇道を突き進んで下さいね。
point-C:
墓苑が切れた辺りから右手奥に石柱が立てられているのが見えて来るの。
point-D:
遠くからだと分からないけど、石柱の右手奥に板碑が二基並ぶの。地図だと ここ よ。

5. 肥塚氏供養塔 こいづかしくようとう 11:07着 11:11発

古碑二基 村の南に寄りてあり 一は長三尺八寸許にして 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念若不生者 不取正覺の數字を彫り 康元丁巳(1257)三月と載す 一は長四尺五寸程にして 梵字を二行に彫り 應安八年(1375)二月十七日 道義禪門と記せり 或云 康元の碑は肥塚太郎九郎光長と云人の墓にて 應安の碑は同八郎盛直の碑ならんと されど正しき據とすべきことなければ 定めがたし 肥塚は武藏七黨の内 丹黨の枝流にして 古は爰に住し在名を唱へしものならん 【新編武蔵風土記稿】 〔 以降、風土記稿と略す 〕

石標には肥塚太郎光長之墓所とあるのですが、実際には二基が建ち、右手の板碑が肥塚太郎光長のもので、もう一方は八郎盛直のものみたいね。現在は肥塚氏供養板石塔婆として熊谷市指定有形民俗文化財になっているの。

6. 肥塚伊奈利神社 こいづかいなりじんじゃ 11:15着 11:17発

この肥塚伊奈利神社ですが、略縁起を記した石碑でもないかしら−と境内をひとめぐりしてみたのですが、何も見つからなくて。【風土記稿】の肥塚村の條には「稻荷社 辨天社 熊野社 八幡社 雀宮 天神社 辛ノ社 姥神社 子神社 道祖神社 白山社 以上11社成就院持 若宮社 牛頭天王社 以上2社眞藏寺持」とあり、その真蔵寺にしても「成就院の門徒なり 若宮山觀音院と號す 本尊十一面觀音を安ぜり」とあるのですが、現在は既に廃寺になっているみたいね。あるいは成就院に統合されてしまったのかも知れないわね。

ξ^_^ξが思うに、明治期の神仏分離と神社統廃合政策を受けてこれら村内各社がこの伊奈利神社に合祀されたのではないかしら。柱には「学問の神様」の貼紙もあるので、ここでは諸神の中でも天神さまこと菅原道真が倉稲魂命に次ぐ位置にいるのかも知れないわね(笑)。

7. 成就院 じょうじゅいん 11:19着 11:26発

残念ながら成就院もまた略縁起を記したものが境内には見当たらず、【風土記稿】にも「新義眞言宗 江戸愛宕眞福寺末 肥塚山阿彌陀寺と號す 古は相州鎌倉胡桃谷大樂寺の末なりと云 本尊彌陀腹籠の像は良辨の作なりと云傳ふ 開山欽照永正元年(1504)6月朔日寂す」とあるのみで、詳しいことは何も分からず終い。気になったのが山門に掲げられていた燈籠佛のことですが、調べて見ると僅か5cm余だと云うのですから、仏像と云うよりも殆ど握り仏ね。それでも阿弥陀如来に観世音・勢至菩薩が脇侍すると云う三尊像だそうよ。残念ながら年に一度(10/10)だけの開帳なので普段は見ることが出来ないの。

寺伝に依ると、第13世住持の覚峯(かくばん)和尚が長野善光寺に立ち寄った際に、夢の中で灯籠内に安置される三尊像から「汝が住める熊谷宿肥塚は有縁の地なり 我彼の地に赴き衆生を教化救済せむと欲す なれば我を背負いて急ぎ成就院に立ち帰るべし」と告げられ、早速善光寺住職から許しを請うとこの成就院に背負い来たの。そうして本堂に脇本尊として安置したのですが、その功徳は近郷近在のみならず広く人々に施され、篤い信仰を集めたと伝えられているの。また、当地を領した阿部豊後守正充が守り本尊として信仰したこともあり、安永6年(1777)には江戸に招かれて、その軽重で吉凶占いがなされたのだとか。

本堂の左手に兎小屋のようなものが建てられていたので、何かしら?と近付いてみると石祠が二基並び立てられていたの。傍らに立つ棒標には「考古資料 古塚古墳石棺」とあるのですが、肝心の説明となると文字もすっかり掠れて風前の灯火状態。独断と偏見で補いつつ解読すると「肥塚の辺りには数多くの古墳があり、幾れも7世紀頃(古墳時代の終わり頃)に造られているものである。この石棺は成就院があった古塚古墳から出土したもので、高さ75cm、幅95cm、長さ192cmを数え、凝灰岩を組み合わせて造られている」とあるの。熊谷市有形文化財に指定されているのですが、「文化財を大切にしよう」とはあっても、人に知らしめることにはあまり興味が無いみたいね。

8. 報恩寺 ほうおんじ 11:33着 11:50発

熊谷直実の長女・玉津留姫が父母の菩提を弔うために興したと云われる報恩寺。元は熊谷郵便局のある辺りに建てられたのですが、戦後に移転して来たの。それでも玉津留姫にゆかりある寺院だと云うことで、興味を覚えて訪ねてみたの。開創時は浄土宗でしたが、現在は曹洞宗天真派に属し、正式な山号寺号を熊谷山報恩寺大慈院とする成田龍淵寺末の寺院となっているの。左掲は正面入口から見た山門ですが、仁王像が左右に脇侍する仁王門かと思いきや、表側には唐獅子が、裏側には雷神像が祀られていたの。その山門を潜り抜けた左手には堂々とした閻魔堂が建つなど、ここまでだけだと、ちょっと風変わりな印象ね。

熊谷山報恩禅寺沿革 當山は熊谷直実の女玉津留姫法号仏導院殿一乗妙蓮大禅定尼両親菩提の為 建暦2年(1212)開創されしが兵火に焼失 永和4年(1378)上杉能憲伽藍造営中興開基 法号報恩寺殿敬堂謹大居士 応永23年(1416)鎌倉大乱焼失爾来二百余年衰頽 寛永元年(1624)成田龍渕寺14世萬矢大拶禅師を請し曹洞禅門となる 昭和17年(1942)大東亜戦争の為梵鐘供出 昭和20年(1945)爆撃に依り伽藍大部焼夷弾の為焼失 昭和36年(1961)新境内地取得 昭和38年(1963)本堂客殿庫裏新築 昭和44年(1969)山門鐘楼閻魔堂開山堂新客殿新築 當山再建復興完成記念として建設委員と会員にて大梵鐘調達

梵鐘の銘文を紹介してみましたが、【風土記稿】にはそれとは異なる内容の記述があるの。玉津留姫云々は、弘化2年(1845)の棟札に、熊谷直実の息女・玉津留姫が父母菩提供養のために建暦2年(1212)に開創したことが記されるのを以てその拠り所としているみたいですが、【風土記稿】の成立はそれよりも少し遡った文政11年(1828)のこと。その頃を相前後して玉津留姫の開創縁起に拍車が掛かったのかも知れないわね(笑)。仮に【風土記稿】が記す嗣子直家開創説が史実だとすると、同じ直実の子供なのに今では玉津留姫・千代鶴姫の存在だけがクローズアップされていて、直家がちょっと可哀想ね(笑)。

当寺は昔熊谷直実の子直家 父の没後菩提の為に起立せる浄土門の草庵にて 直実が木像を置しが 遥の後東照宮此邊御遊猟之時 由緒を御尋の上新に熊谷寺を造立せさせられて当所は猶其ままにておかれしを 其後又一寺に取立て 報恩寺と号すといへり 此説熊谷寺の傳へと同じからず 姑兩説を記しおけり 中興開山を萬室察和尚と云 享保2年(1717)8月28日寂す 是曹洞宗に改し時の開山なるにや 本尊阿弥陀を安ず 佛師安阿弥が作と云 其余直実が女なりし千代鶴玉鶴の守佛なりと云 薬師をも安置せり 【風土記稿】

9. 袖引稲荷 そでひきいなり 11:52着 11:55発

〔 袖引稲荷の由来 〕  当山は御本尊であるお釈迦さまとともに、袖引稲荷を寺の伽藍神としておまつりしている。このお稲荷さまへの信仰は、日本古来の神道の信仰にインドの古い神さまで後にお釈迦さまの守り神となられた荼枳尼天さまのお話が結びついて平安時代から盛んになったものである。当山の袖引稲荷は、鎌倉時代の初め、開基玉津留姫が近くの内池町の菩薩院という寺院にあったお稲荷さまが荒れ果てていたのに心を痛め当山にお移ししたものである。

この袖引稲荷のいわれは、玉津留姫が戦乱のため離れ離れになっていた、妹の千代鶴姫に巡り会いたいとお稲荷さまに願をかけたところ、夢の中に白狐に乗られた霊神が現れ、「これより京に向いて行けば願いは叶うであろう」とお告げがあり、静岡県焼津市近くの川を渡し舟で渡っているとき、その舟に乗り合わせた美しい女性の袖と玉津留姫の袖とが生き物のように結び合ったので語りあうと妹の千代鶴姫であった。姉妹の喜びは一方ならず このお稲荷さまの神通力に感激し、後に人呼んで袖引稲荷と呼ぶようになった。当山の袖引稲荷は、縁結び・商売繁盛・五穀豊穣・家屋敷の守り神として霊験灼かである。

10. 久山寺跡 くざんじあと 11:59着 12:02発

袖引稲荷から程なくして道の両側に霊園が広がりますが、左手最初に久山寺跡があるの。【風土記稿】には「熊谷寺の末なり 本寺第一世幡隨意上人隱棲の地なりと云 龍幡山三條院と號す 本尊彌陀」とあるように、当初は熊谷寺を開山した幡隨意上人の隠居寺として建てられたの。蘇鉄の木陰に歴代上人墓があるのですが、幡隨意上人の名があるものと思いきや、幡隨意上人のお墓は和歌山県の万性寺にあるようね。加えて上部と下部とでは刻まれる年代が大きく異なることから推すと、荒廃していた時期が長かったのかも知れないわね。いつ頃廃寺となったのかは分かりませんが、現在は熊谷寺の管理下にあるの。

霊園通りを抜けるとやがて五差路に出るのですが、右手方向には広い遊歩道が続くの。遊歩道の方が車道よりも広いと云うのは聞いたことが無く不思議に思ったのですが、通称・妻沼線と呼ばれていた東武鉄道熊谷線の廃線跡だったの。当初は軍事輸送の必要性から敷設されたもので、昭和18年(1943)に熊谷・妻沼間が開通、その後延伸も図られたのですが、一部着工したのみで頓挫。それでも、昭和58年(1983)に廃止されるまで旅客輸送に頑張っていたみたいね。But 廃線となってから既に30年近くなろうとしているのに、姿を変えたとはいえ、廃線跡の敷地が今も尚こうして残されていると云うのは、不思議な気がするわね。

point-A point-B point-C point-X

point-A:
ここでは右手に折れて廃線跡に平行してある左側の車道を歩きます。
point-B:
廃線跡は遊歩道(かめのみち)として整備されているの。ここでは車道も併設されているけど一部だけよ。
point-C:
先が見えない位の直線道路なの。But あくまでも遊歩道なので車の通行は不可。
point-X:
カメ号は熊谷・妻沼間10.1Kmを時速65Km、所要時間17分で結んでいたの。

11. 養平寺 ようへいじ 12:19着 12:22発

熊谷直実の次女・千代鶴姫の守護仏とされる毘沙門天像が安置されると知り、訪ねてみたのがこの養平寺。その毘沙門天像も元はと云えば福王寺の本尊として祀られていたのですが、その福王寺が廃寺となるのに合わせて当寺に移されて来たの。近年に伽藍が一新されたようで現代建築に囲まれる境内ですが、【風土記稿】には「真言律宗 江戸湯島霊雲寺末 有應山と号す 中興実道延享4年(1747)6月22日寂す 本尊地蔵を安ず 此像は延享年中(1744-48)溝口出雲守直温の寄附なりと云」とあり、開創までは分からないものの、それなりの年月を経ては来ているみたいね。

毘沙門天(多聞天)梵名:ヴァイシュラヴァナ
御利益:戦勝・福徳・財宝来福・仏法守護
護法神の四天王や十二天では北方の守護神である。複数で祀られる場合は多聞天と呼び、単体で祀られる場合は毘沙門天と呼ばれる。この尊像は、鎌倉時代初期に活躍した熊谷出身の武士・熊谷二郎直実公の次女である千代鶴姫の守護本尊であったとされ、後に福王寺に祀られた。福王寺が廃寺になるに伴い、養平寺に移されたとされる。

熊谷市指定天然記念物 伽羅木(きゃらぼく)
イチイ科の常緑低木。幹の周囲は1.2m、根元からの高さ3,6m。
樹齢は推定300年の古木である。この種のものとしては珍しく、昭和49年(1974)11月天然記念物として熊谷市に指定される。

12. 原島伊奈利神社 はらしまいなりじんじゃ 12:27着 12:35発

参道 社殿

次の福王寺跡へ向かう途次に立ち寄ってみたのがこの原島伊奈利神社ですが、【風土記稿】にも「稲荷社 前原島の鎮守とす」とあるのみで、詳しいことは何も分からず終い。前原島と云うのは原島村の中にあった小名の一つで、その原島村にしても当時の家数が僅かに80戸だと云うのですから、前原島は推して知るべし−よね。その数少ない戸数でも維持管理出来ていたのですから、村人達一人一人の信仰心の為せるわざよね。

次の福王寺跡も確かな場所が分からずにいたのですが、何とか見つけることが出来たの。
参考までに道案内をしておきますね。

point-A point-B point-C point-D

point-A:
原島伊奈利神社右手の道を北に辿ると視線の先に十字路が見えてくるの。
point-B:
その十字路から右手、R407方向を見たものですが、画面奥にR407が走るの。
point-C:
そのR407に向けてほんの少し歩くと左手に用水路に沿った脇道が見えてくるの。
point-D:
「墓地駐車場」の看板があるので直ぐに分かるわ。後はこの脇道を突き進むのみ。

13. 福王寺跡 ふくおうじあと 12:38着 12:48発

【風土記稿】には「福王寺 禪宗曹洞派 男衾郡野原村文珠寺の末 多聞山と號せり 本尊毘沙門は春日の作にして 熊谷次郎直實の女玉津留・千代鶴姫二人の守本尊なりと云」とあるのですが、既に廃寺となっているの。それでも跡地には玉津留姫の墓とされるものがあると知り、訪ねてみたの。実際に目にするまでは荒れ地に佇む姿を想像していたのですが、「六地蔵尊建立 福王寺位牌堂新築記念 墓地通路舗装」と刻む記念碑が建ち、墓前には香華の様子も窺えるの。跡地に接して福島家があるのですが、現在はその福島家の所有地となっているようで、維持管理が出来ているのも家人の方に負うところ大のようね。

背後にはその福島家の立派なお墓が建てられているのですが、その前に古色然とした三基の墓塔があるの。奥には植え込みに挟まれて「福嶋氏之神」と刻まれた石塔もあるのですが、左端に建つ自然石風のものが玉津留姫のものになるの。添えられている石柱には「玉津留姫ノ墓 熊谷直実ノ長女 建暦2年(1213)報恩寺開創 寛喜3年(1231)8月3日歿」とあり、裏面には「平成6年三月吉日福島清補」と記されることなどからすると、玉津留姫と福島家には何か特別な関係があるのかしらね。寺号の福王寺にしても共通する「福」の一文字があるなど、何等かの繋がりがありそうな予感がするわね。

「當寺開山無学愚禅大和尚」と刻まれることから開山・無学愚禅のものね。無学愚禅は永平寺にも修行し、寛政元年(1791)には加賀大乗寺に第43世住持として入山するなど、それなりの経歴&肩書きを持った僧侶なの。晩年は同じく加賀犀川泊船庵に隠棲したとされるのですが、生まれ故郷の吉見領に近いこの地に至り来て福王寺を開創し、自らもまたここで頓化したのかしら。文政12年(1829)に示寂しているのですが、享年97歳の大往生で、結縁を求めて村人達が参集したかも知れないわね。玉津留姫のお墓もさることながら、これが無学愚禅和尚のお墓だとすると、意外なところに意外なものが残されていることになるけど。

14. 清安寺跡 せいあんじあと 13:02着 13:04発

【風土記稿】には「清安寺 本山派修驗 瑠璃光山と號す 藥師堂 本尊は惠心の作にて 熊谷次郎直實の女 玉津留守護佛なりしと云」とあり、廃寺となった今も大幡小学校の北側に薬師堂だけが残されていると知り、探し歩いてみたの。でも、それが容易には見つからず、殆ど諦め掛けたところで、ようやく昔のことを知る地元の方に出会い、今は個人宅内に移されていることを教えて頂いたの。清安寺にしても、元はここから大分離れた場所に建てられていたのですが、廃寺となった際に薬師堂だけを当地に移したのだとか。その方がおっしゃるには子供の頃は縁日には境内でお祭りが行われるなど、とても賑やかだったそうよ。

当時は薬師堂のみを移築したとは云え、一つの寺院として機能していたみたいね。それが時の流れの中で衰微してしまい、現在の個人宅へ再度移築されたのだとか。家人の方に伺ったところでは白壁などは移築後に新しくしたものですが、前面の木造部分は移築前の薬師堂に使われていたものを再利用しているの。

薬師堂と記された扁額が懸かりますが、嘗ての隆盛が偲ばれる立派なもので、揮毫名には佐文山とあるのですが、地元では名の知れた書家だそうよ。左掲は失礼して堂内を収めさせて頂いたものですが、中央の厨子の中には玉津留姫の守護仏だった薬師如来像が安置されているのかも知れないわね。残念ながら御尊顔までは拝することなく終えてしまいましたが、薬師堂を写真に収めることが出来ただけでも充分。時間の余裕がありましたので、散策の最後に教えて頂いた清安寺跡地を訪ねてみたのですが、「今は竹藪があるだけで行っても何もないよ」と云われた通りでした(笑)。

薬師堂のある場所ですが、個人宅内にあることからここでは敢えて御案内しませんので御了承下さいね。一方の清安寺跡ですが、熊谷地区消防本部の西側にある八坂神社とR407の中間辺りになるの。地元の方が云うには「田圃と畑に挟まれている」場所だそうよ。確かにξ^_^ξが訪ねたときにはそうだったけど(笑)。

15. JR熊谷駅 くまがやえき 14:20着

熊谷駅 熊谷駅にようやく戻りましたが、陽が陰るには今少しの時間がありましたので、荒川を見てから帰ろうと熊谷桜堤を歩いてみたの。 熊谷のお散歩 Part.1 で紹介しましたように、当初の桜堤は現在のそれよりもずっと北側に位置していたの。荒川の河川改修を受けて昭和27年(1952)に新たに堰堤が築かれると桜が植樹され、今に至っているの。平成2年(1990)には財団法人・日本さくらの会に依り「日本さくら名所100選」にも選ばれているの。本来なら桜の開花時期の景観を以て紹介したいところですが、御容赦下さいね。

16. 荒川桜堤 あらかわさくらてい

右端は荒川に架かる荒川大橋ですが、橋が架設される前はこの場所に「村岡の渡」と呼ばれる渡船場があったの。戦略上の事由などから大きな河川への架設が禁じられていた江戸時代が終わると、明治15年(1882)に初めてここに仮橋が架設されたの。大正元年(1912)には全長500m余の本架橋となり、その後の河川改修を受けて昭和33年(1958)には現在の全長約830mの荒川大橋が架設されたの。その荒川大橋を渡った対岸が村岡の地になるのですが、蓮生(熊谷直実)入寂の地と云われているの。年代や場所については諸説があるのですが、先づは【法然上人絵伝】の記述を元に紹介してみますね。

故郷・熊谷に戻った蓮生は建永元年(1206)8月、余命いくばくもないことを覚り、村岡の市に「蓮生は明年二月八日往生をすべし 申す所若し不審あらん者は来りみるべし」の高札を立てて大往生の宣言をするの。やがてその日となり、物珍しさに人々があちらこちらから集まり来て見守る中、蓮生は高座の上に端座合掌すると南無阿弥陀仏の称名を唱え、ひたすら阿弥陀仏の来迎を待ったの。But 仲々往生出来なかったことからその日は諦めて、改めて9/4に往生する旨を告げたの。そうして約束の9/4を迎えると、前回と同じように人々が参集して見守る中、蓮生は端座合掌して静かに念仏を唱え始めたの。その声も次第に小さくなり、やがて眠るようにして静かに息を引き取ったの。その間際、辺りには妙なる楽の音が流れ、馨しい香りと共に紫色の雲が現れると、やがて西の方に飛び去ったと云われ、時に承元元年(1207)、齢67歳の生涯だったと伝えられているの。一方、【吾妻鏡】では村岡ではなくて京都・東山を終焉の地としているの。

承元2年(1208)9月3日
熊谷小次郎直家上洛す 是父入道 來たる十四日東山の麓に於て執終すべきの由示し下すの間 之を見訪はんが爲と云々 進發の後 此事御所中に披露す 珍事の由 其の沙汰有り 而るに廣元朝臣云く 兼ねて死期を知ること 權化の者に非ざれば疑い有るに似たりと雖も 彼の入道世塵を遁るるの後 淨土を欣求し 所願堅固にして 念佛修行の薫修を積む 仰ぎて信ずべきかと

承元2年(1208)10月21日
東の平太重胤〔 東所と號す 〕先途を遂げ 京都より歸參す 即ち御所に召さる 洛中の事等を申す 先づ熊谷次郎直實入道 九月十四日の未刻を以て 終焉の期たるべき由相觸るるの間 當日に至りて 結縁の道俗 彼の東山の草庵を圍繞す 時刻に衣袈裟を著し 禮盤に昇りて端座合掌す 高聲に念佛を唱へて執終す 兼ねて聊かも病氣無しと云々

真偽如何は御覧の皆さんの御賢察にお任せしますが、時期を同じくして京都ではとんでもない事件が起きているの。法然上人門下の住蓮・安楽坊の二人が、後鳥羽上皇が熊野詣に出掛けて京を留守にしている間に、上皇の寵姫・鈴虫&松虫の二人を剃髪出家させてしまったの。本人達の意向があったとは云え、熊野詣から還御した上皇はそれを知って激昂するの。色恋沙汰も権力が伴うと恐ろしいわね。住蓮・安楽の二人は死罪に、法然上人も75歳の老齢を以て讃岐国(現:香川県)に配流させられ、他にも7人の高弟が流罪になったの。建永2年(1207)のことで、それはまさに蓮生が往生を予告し成就させた時期と重なるの。蓮生は【法然上人絵伝】が云うように熊谷に戻り来ていたとしても、法然上人の法難については耳にしていたでしょうし、【吾妻鏡】が云うように京都にいたのならなおのこと一部始終を承知していたハズよね。「板東の阿弥陀仏」と雖も恩師・法然上人が流罪と聞いては安穏としてはいられなかったのではないかしら。


今回の散策では熊谷直実のこともさることながら玉津留姫と千代鶴姫の二人のことが気になり、ゆかりの地を訪ねてみればその素顔が少しだけでも見えてくるかも知れないわね−と、淡い期待を抱きながらの行脚でしたが、残念ながら時の流れの中で姿を変えたものも多く、今となっては逸話だけが一人歩きしている感が拭えないの。歴史の表舞台では多くを語られることのない二人ですが、実際にはどんな二人だったのかしらね。But 想像を逞しくして(笑)ゆかりの地を訪ね歩くのもまたロマンかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
角川書店刊 有職故実日本の古典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
さきたま出版会刊 新井寿郎編 埼玉ふるさと散歩・熊谷市
角川ソフィア文庫 佐藤謙三校注 平家物語
熊谷市立図書館刊 私たちの郷土・熊谷の歴史
熊谷市立図書館刊 郷土の雄 熊谷次郎直実
熊谷市発行 熊谷市史 前編・後編・通史編
国書刊行会刊 稲村坦元編 埼玉叢書第三巻
国書刊行会刊 林有章著 熊谷史話
岩波書店刊 龍肅訳注 吾妻鏡
その他、現地にて頂いて来たパンフ&資料






どこにもいけないわ
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