≡☆ 熊谷のお散歩 ☆≡
熊谷直実ゆかりの地を訪ねて Part.1

日本最高気温40.9°Cを記録したことで知られる熊谷は、夏になるとTVのお天気コーナーでは常連客になりますが、嘗ては鎌倉時代に活躍した熊谷直実(くまがいなおざね)の本貫地でもあり、今でも縁の事蹟が多く残されていることを知り、訪ねてみたの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

久下の長土手〜ムサシトミヨ生息地〜熊久橋〜大雷神社〜万平公園〜八丁一里塚

1. JR行田駅 ぎょうだえき 9:38発

後程改めて御案内しますが、熊谷直実は伯父の久下直光(くげなおみつ)と領地をめぐる境界争いを繰り返し、遂には武士を捨てて剃髪出家してしまうの。仏門に入った背景にはそれ以外にも副次的な要因が絡んではいたみたいですが、それはひとまず置いておき、相手側の直光が領していたのが現在は同じ熊谷市でも久下の地になるの。その久下にある東竹院には直光のものと伝えられるお墓があるなど、直接ではないにしろ、直実の事蹟とは決して無関係ではないので、併せて訪ねてみることにしたの。と云うことで、今回は行田駅を起点にしてみましたので、お散歩と称してはいますが内容的には遠足で、それもかなりの強行軍よ。(^^;

2. 決潰の跡碑 けっかいのあとひ 9:45着 10:21発

最初に荒川の護岸堤防を目指して歩き始めましたが、辿り着けば堰堤と隣り合わせにして雄大な川の流れが望めると思うわよね。But いざ辿り着いても、堆い盛り土に遮られて視界がきかず、であればその堰堤に上って川の流れを見ようとするのが心理よね。ですが、堤によじ登ってみたところで視線の先には草地が広がるばかりで、川筋のかの字も見えないの。帰宅後に調べてみたのですが、現在の川筋は堰堤から遙か600m程先を流れているみたいなの。今回の散策コースの中で荒川の流れに接近遭遇するためには、もう少し上流側でなければダメなようね。

その堰堤には決潰の跡碑が建てられていたの。ここでの所要時間が異常に長いのは、その碑文を筆録していたからなの。文字が読みづらくて予想外の時間が掛かり、途中で諦め掛けたのですが、折角途中までクリアしたのに−と断行。(^^;

昭和22年(1947)9月9日トラック島付近に発生したカスリン台風は猛威を振るいつつ、同月15日夜半房総半島南部に上陸した。このため熊谷地方も14日早朝より降り続いた豪雨は15日夜に至るも止まず、風速相加わって猛烈を極め、既に前日より警戒水位を突破して危険状態に陥った。本組合は、地元熊谷土木工営所及び警察署、並びに各水防団・地元民等の応援を受け、官民一体となって悪条件の下、必死の水防作業を展開したのであるが、その苦闘も空しく、濁流は渦を巻き氾濫凄惨を極め、全く手の施す術もなかった。これがため、荒川左岸熊谷市大字久下地内堤防が15日夜に至り、同119番地先より123番地の間、大小二ヶ所延長百米余り決壊し、濁流は近傍の田畑を呑み、忽ちにして泥沼と化し、隣接吹上・大井・行田方面に氾濫し、住民は周章狼狽、人命の危うきを知り、災禍より免れるべく避難の道より外はなかった。就中約一時間遅れて下流の田間宮村行人堤付近約90米が決壊し、吹上・小谷・中井・糟田地区を呑み、濁流は更に元荒川に流入し、堤防を寸断して箕田・下忍・埼玉・屈巣・笠原・種足・小林・加納・北本宿・常光・平野・蓮田・岩槻方面へも浸蝕し、総員必死の努力も功を奏せず、未曾有の災害を蒙り、いよいよ荒廃を加え窮乏を増大するに至ったのである。此の秋にあたり、水魔のいかに恐るべきかを知り、我々郷土民のこれに対する決意と準備を悟り、治水対策を充分にわきまえるべく、ここに碑を建立し、深い関心を払われんことを世人に望むものである。昭和33年(1958)11月15日 荒川北縁水害予防組合管理者 藤村篤治

パネル

併せて荒川上流河川事務所が建てた右端の案内板も紹介しておきますね。

〔 荒川の水害 〕  荒川は埼玉県の中央を流れ、母なる川として広く地域の人々に親しまれていますが、反面、古来から荒れる川として洪水により沿川の住民を苦しめてきました。近年には昭和22年(1947)9月のカスリーン台風による洪水のため、熊谷市久下地先のこの地点で濁流が堤防を越え決壊しました。流れ出た洪水は埼玉県北部の村々を次々と襲い、折しも利根川の決壊した濁流と合流し、遙か東京まで達し尊い多くの人命を奪うと共に、付近一帯に甚大な被害を与えました。あの恐ろしい洪水から約半世紀経った現在、決壊跡付近の整備は概成しましたが、昭和57年(1982)の洪水の時のように、水位が堤防天端近くまで達したことを考えると、いつまた大災害が起きないとも限りません。沿川の都市化の進展により、氾濫区域内の人口や資産は更に増加しています。このため堤防や護岸等を整備し、周辺の環境にも配慮した河川改修を推進して、地域の発展を支えています。平成8年(1996)4月 国土交通省荒川上流河川事務所

昭和22年(1947)のカスリーン台風に依る大雨は関東や東北地方を襲い、利根川では本流支流を含めて24ヶ所で堤防が決壊し、特に埼玉県東村(現・大利根町)の利根川堤防決壊に依る濁流は埼玉県下のみならず、東京都葛飾区・江戸川区にまで達し、関東地方全体では死亡者数1,100人 家屋の浸水 303,160戸 家屋の倒半壊 31,381戸にも及ぶ未曾有の大災害をもたらしたの。徒らに恐怖心を煽る積もりは毛頭ありませんが、自然はいつまた牙をむくとも限らず、災害に備えた心積もりだけは忘れてはいけないわね。

3. 久下一里塚跡 くげいちりづかあと 10:26着 10:32発

今では傍らに高層マンションが建ち並ぶなど、往時の縁を今に求めることは出来ませんが、嘗てはこの辺りを旧中山道が通り、一里塚が築かれていたの。日本橋から数えると15番目の一里塚となり、立て札の案内板には「一里塚跡〔久下新田〕江戸の日本橋を基点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)、幕府は大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方五間(九米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を沿え、旅人には里程の目印になったり憩いの場所にもなった。柳樽には”くたびれた奴が見つける一里塚”と云う句もある。昭和60年(1985)11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会」とあるの。

その一里塚跡から50m程上流側には馬頭観世音の文字を刻む石柱が佇んでいるの。馬頭を戴き、憤怒の形相をした馬頭観音の像容は日本人には余り好まれなかったみたいですが、馬頭の馬と農耕馬が単純に結びつけられて馬頭観音が馬の守り神、農耕の神として崇められるようになると身近に祀られるようになるの。荷役にしてもトラックなんて無い時代のことですから馬が貴重な担い手よね。一里塚の茶店では供と馬を従えて旅をする者や、馬の背に荷を載せて運ぶ商人の姿もあり、その傍らでは同じく桶の水で喉を潤す飼馬の姿があったのかも知れないわね。当時は飼馬が丈夫でいてくれることが日々の暮らしの支えでもあり、人々はこの石塔の前を通る毎に歩みを止めて掌を合わせていたのでしょうね、きっと。

4. 新川村跡 しんかわむらあと

イラストマップ 狐火

次の久下神社に向かう途中の道筋に久下公民館があるのですが、道路寄りの敷地の一角に嘗ての新川村のイラストマップが掲示されていたの。その新川村ですが、堰堤内にあることからその後の堤防改修工事の際に移転を余儀なくされ、現在では廃村になっているの。マップに付された案内に依ると、明治20年(1887)当時で、東西1.6Km、南北約600mに及ぶ面積を有し、人口も530余人を数え、村人の多くが養蚕や農業の作業の合間に筏や船を操り、江戸との往復に従事していたのだとか。また、廻船問屋などもあり、上流各地から送られてくる石材や、周辺から運び込まれる農産物などの集積地となる一方で、江戸から運ばれてくる物資を扱う中継基地としてかなりの賑わいをみせていたみたいね。当時はこの新川河岸まで帆かけ船が上って来くることが出来、忍藩の御用河岸を兼ねていたことから常備船60隻を保有するなど、その規模も半端じゃなかったようね。そのおかげで荒川の河岸に位置して洪水氾濫と云う災害のリスクを抱えつつも、堤外の村々に較べると裕福な暮らしぶりだったそうよ。皮肉なことに、氾濫流にしても桑の木の生育に適した土壌をもたらしてくれることから養蚕には都合が良かったのだとか。

その新川村も物資輸送が水運から鉄道に依る陸上輸送に変わると共に衰微し、昭和15年(1940)には堤防修築計画に合わせて移転が始まり、昭和22年(1947)のカスリーン台風に依る洪水氾濫が致命傷を与えたの。それでも昭和46年(1971)頃までは住む人が僅かながらいたみたいね。But 昭和57年(1982)の洪水時には荒川の水位が堤防天端近くまで達したと云うのですから、早晩撤退せざるを得なかったのかも知れないわね。その新川村跡地を堰堤から眺め見たものをアップしておきますが、家屋こそ無いものの、村の跡地では今でも稲作や野菜づくりが行われているようね。見ると電柱も並び立つので、農作業用の電力もちゃんと供給されているみたいよ。

余談ですが、そのイラストマップには面白いことが記されていたの。それが「おとかっぴ」で「昔、この辺りでは狐のことを「おとか」と呼び、お蚕の季節になると良く「おとかっぴ」が出たと云う。白い提灯の明かりが幾つも並んだ、白装束の狐の嫁入りを見た人もいる」とあり、読んだξ^_^ξは王子の 装束稲荷 のことが頭をよぎりましたが、これもまた一種の不知火現象じゃないかしら。浪漫に水を差してもいけないので種明かしは止めておきますが、小難しい理屈など知らない当時の人々は狐の嫁入りを見たらどうしたのかしら。地面にひれ伏すと合わせた掌を頭上にかざしてひたすら時が過ぎるのを待ったのかしら、それとも転がるようにして土手を駆け下り、その場から逃げ出したのかしら。(^^;

堤防から離れるようにしてなだらかに続く坂道を下る途中で、草叢の中に郷土かるたが立てられているのが目に留まったの。舗装された道など無い時代のことですから、重たい荷を載せて行き交う大八車の轍跡が幾重にも重なっていたのでしょうね。返り見た坂道の向こうには、人も馬も積まれた荷の重さに喘ぎながら上り行く後姿が瞼に浮かんでくるの。その輪型の坂を更に下った左手には石碑が建てられていたのですが、漢文で記されていることに加え、汚損で刻まれている文字も殆ど判読不能なの。先程の決潰の跡碑の筆録で時間を費やしてしまいましたので、ここでは碑文の読み取りは素直に断念。堤防修復の記念碑みたいだけど内容は?です。m(_ _)m

紹介したイラストマップが掲示されている久下公民館はこの後もう少し歩いたところにあるの。
お話しの都合で順序が逆転していますが、御容赦下さいね。

5. 久下神社 くげじんじゃ 10:57着 11:05発

【新編武蔵風土記稿】(以降、風土記稿と略す)には「三島社 吉祥院持 村の鎭守なり 權守の頃は久下村に三島兩社八幡社三社ありと云 土人の云るに 今久下村・下久下村・江川下久下・江川佐谷田等の五村にある者是ならん」とあるように、元々は三島社を勧請したものなの。この権守(ごんのかみ)と云うのは久下直光のことよね。その直光から厚く崇敬されていた三島社ですが、一方の八幡社にしても祭神・八幡神を源頼朝が鶴岡八幡宮に勧請して源氏の守護神にしたことから、武神・軍神として武士達から広く崇敬されるようになっていたの。

頼朝に近侍していた直光が三島明神・八幡大菩薩の両神を守護神として勧請したのは必然よね。その三島社も明治期の神社合祀政策を受けて近在各社を合祀、更に大正2年(1913)には下久下村の三島社と村内各社を合祀して久下神社と改称したの。

う:うなぎの 伝説 三島様
さ:山王猿は 女性の 神さま
は:早船の 絵馬にも残る 金比羅神


次の権八地蔵への道順ですが、熊谷市が運営する「ゆうゆうバス」の上久下BSを過ぎた先に御覧の分岐路が見えて来ますので、左手に進んで下さいね。正面に堰堤に上る坂道が見えますが、その坂道を上る手前右手にあるの。小さな公園(久下権八公園)があるのですが、権八地蔵は小路を隔てて建つ堂内に祀られているの。分岐路での進入口さえ見誤らなければ大丈夫よ。

実はξ^_^ξも事前調査の段階では場所が特定出来ずにいたことから、訪ねたときには適当に当たりをつけて突き進んでみたの。結果オーライでしたが、今回の散策コースを追体験してみたい方は参考にして下さいね。地図だと ここ よ。

6. 久下権八公園 くげごんぱちこうえん 11:22着 11:25発

その権八地蔵に向かう前に、公園内に建つ大小二つの石碑が気になり、立ち寄ってみたの。一方は道標を兼ねた道祖神で、大きい方は熊谷堤碑だったの。その熊谷堤碑には伊藤博文篆額とあるのですが、生憎と漢文でしたのでここでも解読は素直に諦めて、(^^; 道祖神の御案内のみを転載しておきますね。傍らには「て:篆額は 伊藤博文 熊谷堤の碑」の郷土かるたも建つの。

塞ノ神(さいのかみ)の道標 「右 熊谷道 左 松山道」と示されている。この道標は、公園より南に位置していた中山道と、久下の渡しへの行路の分岐点に立っていたと考えられます。

道標の役割と併せて塞ノ神(道祖神)が奉られており、基礎石には猿が彫られています。その後、昭和三十年代後半の荒川土手の改良工事に伴い、現在の久下権八公園が造成された際に、公園へ運ばれたと云われています。平成23年(2011)1月、地元住民と熊谷市教育委員会との協力で地中に埋もれかかっていた道標を堀り上げ、現在の場所に再設置しました。中仙道を多くの人々が歩いて行き来していた時代、この道標は人々にとっての大切な目印となっていたことでしょう。平成24年(2012)1月 熊谷市立江南文化財センター

〔 追記 〕 紹介した熊谷堤碑の碑文を解読 (^^; することが出来ましたので参考までに紹介しますね。

修熊谷隄記 參議兼内務卿正四位勳一等 伊藤博文篆額
 
荒川發源秩父山 經男衾榛澤二郡 收衆水漸爲大河 少東入大里郡地勢益下水流益激
荒川は源を秩父山に発し 男衾榛沢の二郡を経て 衆水を収めて大河となる 少らく東して大里郡に入るや地勢益々下り 水流益々激し
春夏雨潦往々暴漲勢不可遏抑 而熊谷隄當其衝 安政六季決石原久下諸邨
春夏は雨潦往々暴漲し遏抑すべからず 而して熊谷隄は其の衝に当る 安政六季石原久下諸邨決す
元治元年復決久下石原之間 毎決發人徒防塞 而隄爲水所 蝕齧歳甚一歳毎 霖雨滃河居民荷擔而立矣
元治元年復た久下・石原の間決す 決する毎に人徒を発して防塞す 而して隄水所と為るや 蝕齧歳一歳毎に甚しく 霖雨滃河には居民荷を擔いて立つ
埼玉郡人増田豐昭與秋山蔚肥留川道敷茂木武柱興修隄之議 毎以無所得資而止
埼玉郡人増田豊昭は秋山蔚・肥留川道敷・茂木武柱と修隄の議を興すも 毎に資を得る所無くして止む
明治四季豫承乏此縣過荒川 召豐昭等与議修隄方法 遂上書具状
明治四季予此県に乏しきを承けて荒川を過ぐ 豊昭等を召して与に修隄方法を議し 遂に状を具して上書す
朝議持貸五千七百餘金充其費 豐昭等感奮會里民諭以朝旨
朝議による持貸五千七百余金を其の費に充つ 豊昭等感奮して里民を会し朝旨を以て諭す
遠近翕然輸金助役 得八千三百餘金又抽公費一萬餘金 以補其不足者
遠近翕然として輸金助役す 得たる八千三百余金と又公費一萬余金を抽し 以て其の不足を補う
於是予命豐昭等任修築事 起工於八年三月至十二年三月告成 閲歳五年 用資二萬三千餘金
是に於いて予豊昭等に命じて修築の事を任ず 八年三月に起工し十二年三月に至り成るを告ぐ 歳を閲すること五年 用資二万三千余金
役丁十三萬三千餘人 而隄隆然以起 長六萬三六百餘尺 庳者六尺 高者二丈
役丁十三万三千余人 而して隄は隆然を以て起つ 長さ六万三六百余尺 庳は六尺 高さは二丈
厚稱之基外排以石囤 建以竹楗 於是嚮之激者恬然安流 可以長免決壞之患也
厚稱之基は外に石囤を排べ 竹楗を以て建つ 是に於て嚮の激は恬然として安流し 以て長く決壊の患を免がるる可きなり
是固雖由朝廷恤民之盛旨 非豐昭等奮發以刱事衆庶歡抃以助役 曷能得如此
是れ固より朝廷恤民の盛旨に由ると雖も 豊昭等奮発し以て刱事し衆庶歓抃以て助役するに非ざれば 曷んぞ能く此の如きを得んや
而豫任一方民命亦可以少免其責也 夫遂記以告來者
而して予一方民命に任じたるも亦以て少かに其の責を免る可き也 夫れ遂記し以て来者に告ぐ
 
明治十二年歳在己卯八月一日 埼玉縣令從五位 白根多助撰 一等編修官從五位巖谷修書

7. 権八地蔵 ごんぱちじぞう 11:25着 11:35発

棒標には「江戸時代の平井権八の物語と結びつけられた「物言い地蔵」として有名であり、元禄11年(1698)に建てられた石地蔵である」と案内されているのですが、これだけでは何のこっちゃ?よね。この平井権八と云う人は実在の人物で、因幡国鳥取藩の池田家に仕えていた藩士だったの。その権八がある事件から父の同輩を斬り殺して江戸へ出奔してしまうの。ある事件というのは互いの飼犬が喧嘩したことに端を発するのですが、それはさておき、江戸に出た権八は吉原の遊女・小紫と懇ろ (^^; になってしまうの。やがて遊ぶ金欲しさに辻斬りをして金品を奪うようになり、何と130人も斬り殺してしまったの。

後に東昌寺(廃寺)の随川和尚に匿われ、最期に父母にひと目まみえんと虚無僧姿で郷里を目指すのですが、悲しいかな既に亡くなっていたの。観念した権八は江戸に戻ると奉行所へ出頭し、延宝7年(1679)、当時豊島郡大井村(現:品川区南大井)にあった鈴ヶ森刑場で磔の刑に処されたの。

史実としては概ね上記の内容なのですが、その権八が後に歌舞伎や浄瑠璃などで取り上げられ、白井権八と名を変えて伝説化するの。この権八地蔵にしても、路銀に窮した権八が通りすがりの縮屋を殺めて所持金を奪い取るのですが、ふと権八が振り返るとそこには事の一部始終を見ていたかのようにお地蔵さまが佇んでいたことから「今見たことは呉々も他言無用」と云うと、お地蔵さまは「吾は云わぬが汝(なれ)こそ云うな」と応えたのだとか。それからと云うもの、このお地蔵さまは権八地蔵とか物言い地蔵と呼ばれるようになったと伝えられているの。

だけど、権八とお地蔵さまだけが知る出来事を今こうして皆が知ると云うのも変よね。お地蔵さんから「汝こそ云うな」と窘められた権八自身がやはり黙ってはいられなかったのかも知れないわね。(^^; 内緒のお話しだけど(笑)、同じ由来で語られる権八地蔵が、鴻巣市にも二ヶ所あるみたいなの。加えて、棒標の説明ではこのお地蔵さまは元禄11年(1698)に建立されたものとあるのですが、権八が処刑されたのは延宝7年(1679)のことですので、それだと権八の処刑後に建立されたことになり、お地蔵さまが事件を目撃するのは無理よね。となると残る二ヶ所の権八地蔵が気になりますが、逸話は伝承なので余り深く追究しても意味のないことかも知れないわね。

8. 久下の渡し冠水橋跡 くげのわたしかんすいばしあと 11:36着 11:43発

〔 思いやりの碑 〕  ここには江戸時代から久下の渡しがあり、昭和30年(1955)には久下橋が架けられ、人々の交通の便が図られてきた。久下橋は冠水橋で細く長く、橋上では自動車がすれ違えないため、対岸の様子を見て渡るところから「思いやり橋」とも呼ばれた。ムカデのような橋脚とともに惜しまれつつ撤去された。「久下の渡し」「冠水橋」の歴史と「思いやりの心」を後世に伝えるため、1,500余名の善意を以てここに記念碑を建立した。平成16年(2004)9月吉日 久下冠水橋跡碑建設委員会 委員長 蓮沼忠三 依田祥芳書

堰堤への坂道を上ると右手に紹介した久下の渡し冠水橋跡と記された「思いやりの碑」があるの。傍らに立つ案内板には「〔 周辺の歴史 〕  この地は鎌倉時代には熊谷直実の叔父の久下氏の領地で、やや下流には館もあったといわれる。江戸の頃、幕府の施策でこの一帯は荒川の付け替え大工事が行われ現在の荒川になった。以後、明治の鉄道開設まで江戸との舟運の起点・久下新川河岸として栄え、帆を張った早船や、中山道の旅人で賑わった。舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、昭和30年(1955)県道の一部として久下冠水橋が架けられた」と記されるのですが、その冠水橋はと云うと

冠水橋 ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋がありました。春は菜の花、秋にはススキを見ながら、人も自転車も車ものどかに渡りました。車一台やっと通れる橋。車は対岸を確かめ、阿吽の呼吸で渡りました。幅2.7m 長さ282.4m 制限重量3t。中央部99.4mの区間は巾4.5mの待避所あり。4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た貴重な冠水橋でした。昭和30年(1955)県道・冑山熊谷線として大里と久下を結んで架設され48年間、地元の生活道路として利用されました。平成15年(2003)6月の新久下橋完成と共にその役目を終えました。

とあるの。今はその冠水橋に替わり、下流側に頑丈な新久下橋が架設されているのですが、郷土かるたが「せ:盛衰は 世の習わし 渡し舟」と語るように、橋もまた同じね。記念碑の右手には、その冠水橋の橋桁を再利用して作られた木製のベンチが置かれているの。お話しが変わりますが、石碑が建つ傍らの草叢 (^^; には二基の石祠が並び、「み:水辺を 守る 九頭龍さま」の郷土かるたが立てられているの。先程訪ねた権八地蔵の縁日表には薬師如来や権八地蔵の名と共に、九頭龍神の名もあり、そこには水害のリスクを抱えながらも水と共に生きてきた地元の人達の信仰模様が窺えるわね。


次の「みかりや跡」への道順ですが、再び堰堤を離れて街中を歩くことになるの。左端の分岐路では右手に続く坂道を下って下さいね。その坂道を下りきったら右手にある民家の塀に御注目を。塀の内側から、何やら白いものがタケノコみたいにニョキニョキと飛び出しているの。(^^;

9. みかりや跡 みかりやあと 11:46着 11:48発

中でも大きく顔を出していたのが「みかりや跡」の案内板で「中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらぎごぼうに久下ゆべし」のことばがある通り「柚餅子」が名物だったのだろう。また忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので「御狩屋」と呼ばれたと云う。昭和60年(1985)11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 戸森昭三(みかりや)」とあるの。「ゆべし」はさておき、気になるのが「しがらぎごぼう」ですが、調理された一品なのか、それとも特産品の牛蒡なのかも分からず、漢字だと信楽牛蒡よね、きっと。だとすると滋賀県のお話しになってしまいそうだし・・・う〜ん、良く分からないわね−と、一人悩んでいたの。(^^;

ξ^_^ξはみかりや跡の案内板に記されることから、てっきり「みかりや」さんで提供されていたものとばかりに思っていたのですが、実は当時籠原でお店を開いていた「しがらぎ」と云う料理茶屋で出されていた牛蒡料理のことだったの。残念ながらどんな一品だったのかまでは分かりませんが、御同業者の逸品だったと云うわけ。「ゆべし」にしても、ξ^_^ξは「くるみゆべし」のような餅菓子を想像していたのですが、「ゆべし」は「ゆべし」でも、みかりやさんのそれは、柚餅子だったの。柚子の実を刳り抜いた中に、お米の粉やお味噌、胡麻やお砂糖などを混ぜたものを詰め、それを蒸しては陰干しする工程を何ヶ月も繰り返すと云う、非常に手間暇の掛かるものだったの。

さしずめ、陸(おか)のカラスミね。でも、それだと、お茶請けと云うよりもお酒のおつまみになってしまうわね。郷土かるたには「め:名物は ゆべし 焼餅 鮎うるか」ともあるの。う〜ん、鮎うるか−ですか。お〜い、女将、升酒も一緒に頼むぜ。(^^;

浮世絵 また、「か:かっぱの 妙薬 みかりやさん」〔郷土かるた〕とあるように、「みかりや」さんでは、茶店を営む傍らで、売薬の商いもしていたのだとか。中でも人気を集めていたのが擦傷・切傷に良く効くと云う救瘡丸で、何と荒川に棲む河童から調合方法を伝授された金創薬だと云うの。所謂「河童の妙薬」伝説で、同様のお話しは全国各地に残されているので、何処かで一度位は耳にしたことがあるのではないかしら。何代目の方が仕組んだ(笑)のかはξ^_^ξには分かりませんが、話術と併せて商才に長けた方だったのでしょうね。因みに、左掲は「え:英泉の 描いた 八丁堤の景」〔郷土かるた〕とある、「岐阻道中 熊谷宿 八丁堤ノ景」(溪斎英泉・描)になるの。

むか〜し昔のことじゃけんども、何でも亭主を亡くして間もない頃のお話しじゃそうな。ある夜のこと、内儀が厠で小用を足そうとすると何やら尻を撫で回すものがあったそうじゃ。亭主を亡くしたばかりで動揺しておったことから或いは気のせいかも知れぬとその夜はそのまま寝所へと戻ったのじゃが、次の日も、そのまた明くる日も同じようなことが続いたそうじゃ。さすがに内儀も三日三晩続くのはおかしいと思うてのお、その夜は懐に小刀を忍ばせて厠に向うたそうじゃ。果たして尻を捲ると暗闇の中から腕のようなものが伸びてきて尻を撫で回し始めたそうじゃ。内儀は気付かれぬように懐からそうっと小刀を引き抜くと、腕のようなものを掴んで一思いに斬りつけたそうじゃ。その瞬間、人のものとも思えぬ悲鳴が闇を走り抜けていったそうじゃが、内儀が明かりをたぐり寄せてみると飛び散った血飛沫の中に毛むくじゃらの腕が転がっておったそうじゃ。

その翌日の夕刻のことじゃった。内儀に会いたいと一人の老人が店先に訪ね来たそうじゃ。内儀が出てみると老人は着物の右袖をだらりと垂らしておってのお、何でも昨日の夜に腕のような珍しいものを手に入れられたと聞き及び、是非ともそれを儂にお譲り頂けぬものかと、こうして訪ねて参った次第じゃと告げたそうじゃ。じゃが、昨夜の出来事と云い、今またこの老人の出現と云い、内儀には俄には信じ難いことばかりが続くもんで、「あれなるものは元の持ち主以外には無用のもの、ましてや一度切り落とされたものを元のように繋ぐことなど出来ますまいて」と訊ねてみたそうじゃ。老人が応えて云うには、「実を申せば儂は荒川に棲む河童で、その腕は儂の右腕で、此度は出来心からつい悪戯をしてしもうた。今後はいかなる悪戯も一切せんので、どうか儂の右腕をお返し下さらんじゃろうか。幸い、儂にはどんな傷でもたちどころに治すと云う薬があり、右腕を返して貰えば目の前で繋いで見せましょうや」と。老人の殊勝な姿に内儀もつい可哀想に思うてのお、悪戯せぬことを誓わせると右腕を返してやったそうじゃ。

そうして老人は内儀から腕を受け取ると懐から膏薬を取り出して腕に塗り、肩の傷口にも塗り込めてその腕を押し当てたそうじゃ。すると不思議なことよのお、腕はみるみる内に生気を取り戻したかと思うと、何事もなかったように動き始めたそうじゃ。右腕を得た老人が続けて云うには、「この御恩は終生忘れませぬ。生憎と手土産一つの用意もありませなんだで、悪戯のお詫びと、頂いた御恩のせめてものお礼に、この膏薬の作り方をお教え致しましょう」と。そうして内儀に膏薬調合の一部始終を伝え終えると、すう〜っとその姿を消してしまったそうじゃ。それからは河童が伝えた妙薬を売る店として評判を呼び、近在のみならず、街道を通る旅人もみかりやに立ち寄ると皆して買い求めるようになったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

10. ムサシトミヨ生息地〔1〕 むさしとみよせいそくち 11:52着 11:56発

旧道と新道が合流する先に久下熊久BSがあるのですが、その右手の駐車場に案内板が建てられているのが目に留まったの。近付いて読んでみると「ここは、世界で熊谷市のみに生息するムサシトミヨがすんでいる川です。川の汚れを少なくし、豊かな緑と清流を守るため皆さんのご協力をお願いします」とあり、ムサシトミヨの生息地を示すものだったの。二つの流れが合流していましたが、どちらも元荒川(本流・支流の区別があるのかも)になるのでしょうね。時折下水臭が鼻先を掠めたり、多少ゴミが散乱するなどしてはいるものの、確かに綺麗な水が流れていたので感心したのですが、実は上流側から地下水を汲み上げて流していることをこの後知ったの。

11. 東竹院 とうちくいん 11:59着 12:25発

次に訪ねたのがこの東竹院ですが、参禅道場と聞いていたので、あるいは拝観不可かも知れないわね−と半ば諦め、半ば期待して訪ねてみたの。いざ訪ねてみれば、山門があるわけでもなくて、御覧のように門柱が建つだけの簡素な造りなのですが、その佇まいが素敵なの。右手には小さな池があるのですが、清流が流れて大きな鯉が悠然と泳いでいたの。箱庭みたいな、それでいて枯山水を思わせる造りは、禅宗系寺院ならではのものかも知れないわね。加えてうれしいことに、門柱脇の「悉知」と書かれた案内板には、幾つかの断り書きと併せて「一、本院に御用の方も御遠慮なくお入り下さい」とあるの。これには勇気百倍よ。

But 「御用」の中には物見遊山は含まれてなかったのかも知れないけど。(^^;
結論から云うと、今回の散策コースの中では東竹院は一番のお勧めポイントよ。

本尊釈迦牟尼如来を安置し、曹洞宗梅龍山東竹院と称す。開基は豪族久下次郎重光公にして、建久2年(1191)比叡山天台の高僧・月擔承水法印を請し開山とす。久下氏は私市党の一族にして、私市家盛の弟為家、初めて久下村に居住して久下太郎と称す。直光公及びその子重光公は、源頼朝挙兵石橋山合戦以来それに従い、特に土肥の椙山にては第一番に頼朝の陣に馳せ参じ、一の谷の戦に武功あり、平氏が壇の浦に退くを追って遠く九州に赴き、久下氏多年の軍功を賞して※の家紋と領地を賜る。これ当寺の定紋の所以なり。爾来三百有余年過ぎ堂宇廃頽せるを、深谷城主上杉三郎憲賢公中興開基し、下総国結城孝顕寺五世的翁文中和尚を請して開山となし、改めて禅宗曹洞宗となる。伽藍善美を尽くし寺格随意会地となり、幕府徳川氏より代々寺領三十石の朱印を賜る。檀信徒五百余戸の福地として隆盛を極む。しかるに、嘉永7年(1854)火災のため伽藍全焼し、更に安政6年(1859)荒川大洪水のため全潰す。後年大正年間(1912-26)に秀道和尚、門葉寺院並びに檀信と謀り、七堂伽藍の大改築を果す。本寺、孝顕寺百英和尚その功の偉大なるを認め、中興の称号を贈る。〔中略〕爾来二十星霜 昭和20年(1945)8月14日夜半米軍の空爆を受け、終戦前夜にしてさしもの大伽藍灰塵と化したり。国破れて窮乏に落ち、現住秀正和尚焼土に立ちて大願を発し、門葉檀信と一丸となりて漸次堂閣を新築し、伽藍完備旧態を超すに至る。之を嘉尚し以て撰する者なり。平成3年(1991)10月 開創八百年祭吉祥日 天女山孝顕寺38世 彬道恵文 撰文 白汀 野口林造 書 野口大作 刻 ※島津家の「丸に十文字」から縦棒を除いた形の家紋

東竹院は月擔承水法印を開山に迎えて久下重光が建久2年(1191)に開基したものと伝えられているの。その月擔承水法印亡き後は荒廃するのですが、天文14年(1545)に深谷城主・上杉憲賢が母の菩提の追善供養のために堂宇を再建。下総国結城郡の孝顕寺から的翁文中和尚を招いて中興開山としたの。当初は天台宗を宗旨としていたのですが、それを機に曹洞宗に改宗。その後変遷を経たものの、昭和20年(1945)には戦災で悉くが灰燼に帰してしまい、現在の堂宇はいずれも後に再建されたものになるの。現在は本尊に釈迦如来を安置し、梅龍山久松寺東竹院を号する曹洞宗寺院。

この東竹院には達磨石と呼ばれる大きな石があるの。何でも忍藩の城主・阿部忠秋が秩父山中で見つけたもので、城内に運び込もうと筏に載せて荒川を下っていたのですが、ちょうどこの辺りの瀬に差し掛かったときに筏を組んでいた縄が切れてしまい、石が水中に墜ちてしまったと云うの。引き揚げることも出来ずに石はそのまま流れの中にあったのですが、時を経た大正14年(1925)、久下の有志等に依り引き上げられて境内に移されて来たもので、その姿形が達磨に似ていることから達磨石と呼ばれるようになったのだとか。

But その達磨石、高さが3m余で重さは約15tもあるの。阿部忠秋がそこまでして城中に運び込もうとした理由が知りたいわよね。同じく、川中から引き上げて境内に運び込んだ東竹院の住持も然りよ。この石の何が二人をそこまで駆り立てたのかしら?実は訪ねる前のξ^_^ξの最大の関心事がそれだったの。(^^; それを解き明かしてくれたのが境内の一角に建てられていた略縁起で、先程 〔 中略 〕 とした部分に達磨石のことが記されていたの。

そこには「境内安置の天然石像達磨大師は、一丈余重さ四千貫にて、遠く寛文年間(1661-73)忍の城主阿部豊後守、深く大師禅宗始祖を尊崇し、城中へ招致せんとなし、秩父の山中より筏上に積載運搬中、当山の領地にて墜落せしものにて、以来二百余年間河底に面壁の侭埋没し、空しくその名を伝うるのみとなる。秀道和尚深くこれを惜み、同志相謀り官許を得て、大正14年(1925)春、遂にこれを境内に安置の霊石となす」とあり、後から達磨石と呼ばれるようになった訳ではなかったのね。その姿形が禅宗開祖の達磨大師を思い起こさせるからこそ阿部忠秋も秀道和尚も燃えた(笑)わけで、風雅・閑雅の世界かと思いきや、篤い信仰心があればこそ為せる業だったのね。

境内を左手に進むと墓苑があるのですが、椎の木陰に久下直光・重光の墓所があるの。【風土記稿】には「開基は久下次郎重光 建久7年(1196)7月3日卒す 東竹院久遠順昌居士と號す 又久下權守直光 元久元年(1204)甲子4月29日卒す 長和院天了慧運居士〔中略〕中興の開基は深谷の城主上杉三郎憲賢にて 永祿11年(1568)7月2日卒す〔中略〕久下墓 五輪なり 久下氏と云へど詳ならず 恐らくは次郎重光が墓なるべし 上杉墓 又五輪なり これも名を傳へざれど 三郎憲賢の墓にや」とあるのですが、二基の墓塔を前にしてみたところで、どちらが誰のものやら。その墓塔にしても、度重なる水害などで所在を失い、幾れもそうであると伝えられていると云うことみたいね。

最後になってしまいましたが、門前に立つ〔郷土かるた〕を纏めて紹介しておきますね。
く:久下の礎 直光・直重公親子
ぬ:沼の主が 貸した千畳づりの蚊帳
ひ:魚籠を持つ 魚籃観音 おわします
へ:平然と 雨にも風にも 達磨石
ま:丸に一の字 ゆかりの家紋は 東竹院
ろ:六道の 衆生を救う 六地蔵

12. ムサシトミヨ生息地〔2〕 むさしとみよせいそくち 12:35着 12:40発

元荒川通りと交差する少し手前で元荒川の流れに再び出会いましたが、岸辺にはムサシトミヨに関連した案内板やら立て札などが並び立つの。その内の一つには「ここは、世界で熊谷市のみに生息するムサシトミヨがすんでいる川です。許可を得ないで、動物・植物を採捕することは禁じられています。川の汚れを少なくし、豊かな緑と清流を守るため皆さんのご協力をお願いします。平成8年(1996)3月 熊谷市・熊谷市教育委員会 環境庁埼玉中央漁業協同組合 熊谷市ムサシトミヨを守る会 ムサシトミヨ保全推進協議会」と記されていましたが、そのムサシトミヨは「県の魚」にも指定されているの。

キャラ 元荒川ムサシトミヨ生息地
指定年月日:平成3年(1991)3月15日 所在地:熊谷市大字久下2125番地先〜2064番地先
ムサシトミヨは、トゲウオ科に属する淡水魚です。以前は埼玉県の熊谷市及び本庄市・川越市、東京都西部などに生息していましたが、環境が悪化し、川が汚されてしまったので、現在では、世界で熊谷にしかみられなくなってしまいました。体長4-6cmで、背ビレ・腹ビレ及び尻ビレに棘条(きょくじょう)と呼ばれるトゲがあります。体には鱗(うろこ)がなく、体色はくすんだ暗緑色です。

巣 冷たくきれいなわき水を水源とする細い川で、水草が繁茂(はんも)しているところに生活します。水温は10-18度が適温です。産卵期は3月-10月で、雄が水草の根などを使ってピンポン玉ぐらいの大きさの巣を作り、稚魚が巣立つまで巣と子供を守ります。そして、たいてい一年で生涯を終えてしまいます。ムサシトミヨは貴重な魚であり、また絶滅寸前の状態なので、平成3年(1991)3月15日に埼玉県指定天然記念物に指定され、平成3年(1991)11月14日の県民の日には清流のシンボルとして県の魚に選定されました。私たちの手で、この貴重な魚を守り育てていきましょう。平成4年(1992)1月 埼玉県教育委員会 熊谷市教育委員会


次の熊久橋は至近距離にあるのですが分かりにくいところにあるの。信号機のある交差点へ向かってはダメよ。ムサシトミヨ生息地の反対側に元荒川通りへ抜ける細い脇道があるの。その脇道を経て元荒川通りを横断。そこから更に20m位歩いたところにあるの。普通に歩いているだけではそこに橋が架けられているとは分からないの。地図だと ここ よ。

13. 熊久橋 ゆうきゅうばし 12:41着 12:43発

見た目にも至極ありふれた小さな橋で、その下を流れる元荒川にしても今では御覧の有様なの。それはさておき、熊久橋は熊谷と久下を分けていた元荒川に架設された橋で、境界を跨ぐことから命名されたの。その境界をめぐり、熊谷直実と久下直光との間で幾度となく境界争いが起きているの。【吾妻鏡】の建久3年(1192)11/25の条に「早旦熊谷次郎直實と久下權守直光と御前に於いて一決を遂ぐ」とあるのが、頼朝の前で行われた所領争いの審理で、相手方の弁論に破れた熊谷直実が剃髪してしまう場面ですが、かなり以前から色々ともめていたみたいね。その史実があればこそ、熊久橋はその名を今に残せたと云うわけよね。

久下直光の肩書きは権守(ごんのかみ:長官の補佐役)とあることからかなりの有力武士だったみたいね。抗争を繰り返していることから、その久下直光と熊谷直実は他人同士かと思いきや、伯父・甥の関係なの。それもかなり深い関係で、直光は直実の育ての親でもあるの。直実の父・直貞は当地に来ると間もなく死去してしまうのですが、その直貞の妻と久下直光の妻とが姉妹だったことから、当時2歳の直実は兄の直正(3歳)共々久下直光の館に身を寄せて育てて貰うことになったの。その直実が29歳になったとき、久下直光に京都大番役着任の命が下るのですが、当の直光はこれを拒否。代わりに直実に代役を勤めさせたの。

直実がいざ京都に出仕してみると自分以外は皆郷主。ある日それを同輩から侮辱された直実は憤懣に堪えず、直光には何も知らせないまま、勢いに任せて当時最も有力な平家の公達だった平知盛の家人となってしまったの。また、鴨川の河原で開かれていた相撲に飛び入り参加をした直実は相手を次々に投げ飛ばしてしまい、それを見ていた平知盛がその豪勇ぶりに感心して家人にしたと云う逸話があるなど、直実は豪傑にして型破りな直情型の性格の持ち主だったみたいね。

But 状況判断には才長けていたみたいね。平知盛は清盛の四男と血統書付の家柄で、当時は既に貴族入りを果たして新中納言とも呼ばれていたの。知盛の子・知章は武蔵守の地位にあり、知盛自身も武蔵国に庄園を持つなど、麾下に下るには願ってもない人物よね。知章にしても当時未だ12,3歳で、武蔵国を実際に牛耳って (^^; いたのは父・知盛だったことも充分に見極めた上でのお話しみたいよ。それを聞いた久下直光は激昂するの。あの野郎、育ての恩を忘れてとんでもねえ野郎だ−と云うわけ。直光にしてみれば養父と云う立場もさることながら、代理として出仕させたのだから直実は単なる家人。その家人が勝手に主を替えたのだからそれまで直実が領有していた土地は返して貰うぜ−となるわね。そうして境界争いどころか領有権争いが勃発するの。

途中の経緯は端折りますが、石橋山の合戦時には平氏側にいた直実も、安房に逃れた頼朝が再起して武蔵国に入ると平氏方を離れて頼朝の下へと馳せ参じたの。その後は頼朝をして「東国一の武将よ」「日本一の剛の者」と賞賛される程の活躍をし、その恩賞として熊谷郷を安堵され、久下直光に取り上げられていた領地も戻ったの。【吾妻鏡】の寿永元年(1182)6/5の條には

熊谷次郎直實は 朝夕恪勤の忠を勵むのみにあらず 去る治承四年佐竹の冠者を追討の時 殊に勳功を施す 其の武勇を感ぜしめ給ふに依り 武藏國の舊領等 直光の押領を停止し 領掌すべきの由仰せ下さる 而して直實この間在國す 今日參上せしめて 件の下文を賜はると
下す 武藏國大里郡熊谷次郎平直實 定補するところの所領の事
右件の所 且つは先祖相傳なり 而るに久下權守直光の押領の事を停止し 直實を以て地頭の職と爲すと成し畢んぬ 其の故何となれば 佐汰毛四郎 常陸國奧郡花園山に楯籠り 鎌倉より責めしめ御ふ時 其の日の御合戰に 直實萬人に勝れて前懸けし 一陣を懸け壞り 一人當千の高名を顯はす その勸賞に 件の熊谷郷地頭職に成し畢んぬ 子々孫々永代他の妨げ有るべからず 百姓等宜しく承知し 敢て違失すべからず 故に下す 治承六年五月卅日

とあるのですが、その後も境界争いが続いたの。河川改修を経て今では強固な堤防に挟まれて流れる荒川ですが、嘗ての荒川は現在の元荒川になるの。その旧荒川が度々氾濫を起こし、その度に地勢が変わり、境界争いを生じさせる原因にもなっていたみたいね。尤も、直光にしたら恨み辛みの方が遙かに勝っていたのかもしれないけど。(^^; そうして収まる気配を見せない境界争いは遂に頼朝の面前で決着を諮ることになるの。先程ちらりと触れた【吾妻鏡】の建久3年(1192)11/25の條には続けて

是れ武藏國熊谷久下の境相論の事なり 直實武勇に於ては一人當千の名を馳すと雖も 對決に至りては 再往知十の才に足らず 頗る御不審を貽すに依りて 將軍家度々尋ね問わしめ給う事有り 時に直實申して云く 此の事 梶原平三景時が直光を引級するの間 兼日道理の由を申し入るるか 仍って今直實頻りに下問に預かる者なり 御成敗の處 直光定めて眉を開くべし 其の上は 理運の文書要無し 左右するに能わずと稱し 縡未だ終えざるに 調度文書等を卷き 御壺の中に投げ入れて座を起ち 猶忿怒に堪へず 西侍に於て 自ら刀を取りて髻を除ひ 詞を吐きて云く 殿の御侍へ登りはてと云々 則ち南門を走り出で 私宅に歸るに及ばずして逐電す 將軍家殊に驚かしめ給ふ 或る説に 西を指して駕を馳す 若しくは京都の方に赴かんかと云々 則ち雜色等を相模伊豆の所々并びに箱根走湯山等に馳せ遣はし 直實が前途を遮りて 遁世の儀を止むべきの由 御家人及び衆徒等の中に仰せ遣はさると云々

とあるの。知力謀略に長けた梶原景時が直光側についていたのは直実の不幸よね。直実も負けじと鎌倉幕府の顧問弁護士 (^^; 大江廣元あたりを味方につけていたら違う展開になっていたかも知れないわね。戯言はさておき、直実にしたら「ごちゃごちゃとうるせえんだよ、もう話しはお前らの間で出来てんだろ、だったら俺にはもう白黒などどっちでもよいわ!」と云ったところね。直実は唖然とする頼朝を尻目に席を立ち、西の侍所に向かうとそこで髻を切り落とし、自邸には戻らずにそのまま何処かへ立ち去ってしまったの。西へ向かったとの噂を聞いた頼朝は直実ほどの勇者を失うのは惜しいと直実が出家するのを阻止するよう命じたの。その後、直実が上洛するところを伊豆山権現の僧・専光坊に見とがめられ、頼朝の意を伝えられたのですが、直実は既に法体の身となっていたの。その意志が固いことを知った専光坊は道真を自らの草庵に招き、浄土の法論を披露して直実の鬱憤をひとまず鎮め、上洛を思い留まらせつつ熊谷郷へ帰したの。その後の直実の行動は【吾妻鏡】からは窺えませんが、間を空けた建久6年(1195)8/10の條に

熊谷次郎直實法師 京都より參向す 往日の武道を辭し 來世の佛縁を求めてより以降 偏に心を西刹に繋け 終に跡を東山に晦ます 今度將軍家御在京の間 所存有るに依りて參らず 追って千程の嶮難を凌ぎ 泣く泣く五丙の蓄懷を述ぶ 仍って御前に召し 先づ穢土を厭離し 淨土を欣求する旨趣を申す 次いで兵法の用意 干戈の故實等を談じ奉る 身は今法躰すと雖も 心は猶眞俗を兼ぬ 聞く者感歎せざるは莫し 今日則ち武藏國に下向すと云々 頻りに之を留めしめ給ふと雖も 後日參ずべきの由を稱して退出すと云々

とあるように、直実は京都から郷里の熊谷郷に戻る途中で鎌倉に立ち寄り、頼朝の前で法話を披露するの。居並ぶ者達も皆して感歎しきり。辞した後は熊谷へ向かうと云う直実を引き留める頼朝ですが、直実は後日改めて−とその場を後にするの。頼朝と直実が相まみえたのは或いはそれが最後だったのかも知れないわね。幕府を開いたとは云え、まだまだ堅固なものではなくて、血生臭い権力闘争が繰り広げられ、頼朝もまた疑心暗鬼の火中にいたわけで、そんな頼朝からすれば権力とは無縁の世界に生きてみえる直実が羨ましかったのかも知れないわね。主と家人と云う主従関係にはあったものの、嘗ては戦陣で共に修羅場を潜り抜けて来た者同士、互いに歳を重ねた今、内容はさておき、肝胆相照らし、共に語り合う喜びを頼朝も感じていたのかも知れないわね。単なるξ^_^ξの感傷かも知れないけど・・・

14. ムサシトミヨ生息地〔3〕 むさしとよみせいそくち 12:51着 12:54発

元荒川通りを歩いていると再び元荒川のムサシトミヨ生息域側の流れと出会うの。紹介してきた生息域でもこの辺りが最上流側で、ここまで来ると流水の透明度も高く、下水臭さも感じられないのですが、それもそのハズ、この辺りの生息域が埼玉県の天然記念物に指定され、少し離れてある旧農林総合研究センター内に設置されているポンプで 5,000m³/day もの地下水を汲み上げて放流しているの。But 先程紹介した案内板に生息域が「熊谷市大字久下2125-2064番地先」と記されるように、天然記念物に指定されるエリアは僅か400m余りでしかないの。

現在は熊谷市ムサシトミヨ保護センターを拠点にムサシトミヨを守る会が中心となり、環境整備や保護活動を行っているのですが、埼玉県が天然記念物に指定しているのはムサシトミヨ自体ではなくて、その生息域のみを対象としているのがξ^_^ξには理解出来ないわね。確かに棲息環境を保護しないことには種の保存が難しいことも事実だけど・・・

因みに、熊谷市側ではムサシトミヨを天然記念物にしているの。
どうせなら生息域と同じく県の天然記念物に格上げしてあげればいいのに > 埼玉県

15. 大雷神社 おおいかづちじんじゃ 12:54着 12:58発

そのムサシトミヨの生息域と元荒川通りを隔てて大雷神社があるの。【風土記稿】の佐谷田村の項には「元荒川 久下村の界を流る 幅二三間ほど 古へ荒川此川と打つづき ひとつ流れなりしを 寛永年中伊奈半十郎 當村にて水流を改め 今の荒川を掘割しより元荒川と呼り 村の西字八町新田に鎭座する雷電社の御手洗より 清泉湧出して流るゝは 則この川の水元なり」とあり、手水舎に湧き出る水が元荒川の源流だと記しているの。今では想像することすら出来ないのですが、嘗ては荒川に造られた扇状地に位置して伏流水が地表に湧き出していたみたいね。

元荒川もその後の流路変更改修等を経てこの辺りでは二系統の流れになっているみたいね。一つは先程から紹介しているムサシトヨミヨの生息域に連なる清流側で、この大雷神社から始まるご本家側の流れは今では完全に下水路になっているの。なので、幾ら元荒川の源流だったとしても、とてもレンズを向ける気にはなれなくて。大雷神社にしても今では境内に駐車場があると云うよりも、駐車場の片隅に社が残されている印象で、車の通行に邪魔だからと鳥居も近い内に撤去されそうな雰囲気にあるわね。社殿右手奥には左掲の地蔵堂が建てられ、背後には小さいながらも墓地があるなどしますので、嘗ては寺院があったのかも知れないわね。

16. 万平公園 まんぺいこうえん 13:07着 13:23発

桜並木が続く現在の熊谷桜堤はこの公園から更に南へ200m程離れた場所に位置するのですが、園内には旧熊谷堤の一部、約150m程が残されているの。当初の熊谷堤は鉢形城主・北条氏邦が天正年間(1573-1592)に築堤した僅か200m程のもので、その名に因み、北条堤と呼ばれていたの。その北条堤に幾度となく延長と増強が繰り返されて熊谷堤となったの。因みに、公園の名称は竹井澹如の幼名・萬平に由来するの。澹如は洪水の被害が減らないことから明治2年(1869)に私財を投じて突堤の「万平出し」を築いたりしているの。明治12年(1879)には埼玉県議会の議長を務めるなど、郷土熊谷の名士と云うわけ。

17. 八丁一里塚跡 はっちょういちりづかあと 13:34着 13:37発

何かしらの遺構があるのでは−と淡い期待を持ちつつ訪ねた八丁一里塚ですが、何も無いの。案内板が建つのでそれと知れたのですが、無ければマンションの下敷き (^^; になってしまったのかも知れないわね−と探索を諦めたと思うわ。その案内板にしても「久下新田の一里塚から、ここまで一里ある。いま英泉描くところの「八丁堤の景」と云う浮世絵があって、当寺の風景や風俗を偲ぶことが出来る」とあるのですが、背景に描かれている「八丁堤の景」は先程紹介した御狩屋さんを描いたもので、八丁一里塚のことではないの。熊谷宿が目と鼻の先にあり、一里塚の他には何も無く、特筆すべき事柄が無いのかも知れないわね。無責任モードです。(^^;






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