≡☆ 小江戸・川越のお散歩 Part.3 ☆≡
 

小江戸・川越の一番の魅力は、やはり蔵造りの町並みよね。川越のお散歩の第三弾は、蔵造りの商家が建ち並ぶ大正浪漫夢通りと一番街を中心にして、周辺の寺社をひとめぐりしてみたの。最初にお詫びとお願いですが、修復工事の最中であったり、いつの間にか立入禁止になっていたりと、理由はさまざまなのですが、今回の頁の制作にあたり、画像は以前訪ねたときのものを含めて掲載していますので予め御了承下さいね。補:掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^; 但し、スライドは完全マニュアル動作ですので御協力下さいね。

周辺の寺社めぐり

1. 熊野神社 くまのじんじゃ 9:04着 9:22発

今回の散策で最初に訪ねたのがこの熊野神社ですが、左掲の一の鳥居から続く参道の両袖には足踏み健康ロードなるものがあるの。小石でつくられた凹凸のある小径で、健康サンダルではないけれど、足裏のツボを刺激しながら歩くと健康にも良いと云うことみたいよ。But 土足厳禁とあるので、やはり、素足で歩かなくてはいけないみたいね。残念ながら、ξ^_^ξは未だ嘗てこの足踏み健康ロードを歩く参拝者の姿を見掛けたことはありませんが (^^; 意のある方は一度お試し下さいね。境内自由 but 初穂料:志納

〔 御由緒 〕
通称「おくまんさま」 当社は開運・縁結びの神として信仰されています。
・御祭神
御祭神は熊野大神で伊弉冉尊(いざなみのみこと)・事解之男尊(ことさかのおのみこと)・速玉之男尊(はやたまのおのみこと)の御三神です。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊は一番最初に出てくる夫婦の神さまです。多くの国生みをなされたほか、天照大神・須佐之男命(すさのおのみこと)など、多くの神々の御親神でもり、あらゆる命を生み出す御神徳の高い神として人々に敬われています。
・御社紋
三本の足を持つ「八咫烏(やたがらす)」で、熊野大神のお使いです。烏は夜明けを呼ぶ鳥、太陽を招く鳥と云われ、人生の闇に悩む人々を明るい希望の世界に導く霊鳥として広く信仰されています。
・御由緒
当社は天正18年(1590)蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請したことに始まり、正徳3年(1713)社殿を改築し、鳥居を石造りとしました。現在ある二の鳥居がそれです。
・御例祭日
春季例大祭 4月15日 秋期例祭 10月15日

境内には多くの末社が鎮座しますが、それらを反時計回りに紹介してみますね。
中でも、弁財天を祀る厳島神社は銭洗弁財天として売り出し中よ。(^^;

加祐稲荷神社
厳島神社
弁財天
寳池

〔 加祐稲荷神社 〕
通称「おいなりさま」「おいなりさん」 本来は穀物・農業の神であるが、現在は産業全般を司る神
・御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
・御由緒
【新編武蔵風土記稿】及び【武蔵三芳野名勝図会】に当社の名は記されているが御由緒は不詳。口碑に依れば蓮馨寺開祖以前からあり、此の神を帰信したところ、種々の災厄を免れたことが数多くあった。ここに於いて偏にこの神が祐を加えて下さると云うことで、加祐と云う名前を社号に冠し崇め来たと云うことである云々。其の社号が今なお古い旗に書かれているのが残っていたと云われる。そのことから室町時代の永禄年間(1558-70)には既に当社は存在していたことが明らかであると推考出来る。明治2年(1869)蓮馨寺境内より遷座して熊野神社の御来社となった。例祭 3月5日 縁日 毎月5日

〔 厳島神社 〕
通称「べんてんさま」「ぜにあらいべんてん」 音楽・福智・延寿・除災・得勝を司る神
・御祭神
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
・御由緒
鍛冶町の名主・中島孝昌著【武蔵三芳野名勝図会】(享和元年(1801)に依れば、その昔は蓮馨寺南側の林中にあったが、当時、秋葉神社の西側に移したと記されている。依って御由緒は不詳であるが、口碑に依れば、蓮馨寺開祖が以前より寳池(熊野神社裏より蓮馨寺境内にかけてありと)に鎮座していた当社を崇敬し、池名寳池を取って寺号となし、寳池院としたと云う。明治2年(1869)蓮馨寺境内より遷座して熊野神社の御来社となった。例祭:6月17日 縁日:毎月17日

〔 川越銭洗弁財天厳島神社御由緒 〕 【新編武蔵風土記稿】(江戸時代に編まれた武蔵国の地誌 国立公文書館蔵)の蓮馨寺図には辨天社や秋葉社、稲荷社など現在熊野神社にあるすべての末社が描かれている。その中の辨天社が現在の厳島神社であり、その御祭神が市杵島姫命である。中世以降、弁天信仰は神道と日本土着の水神である市杵島姫命と習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった。元々この熊野神社は蓮馨寺開祖により紀州熊野より勧請された社で、その蓮馨寺の寺号は孤峯山寳池院蓮馨寺(こほうざんほうちんれんせいじ)と称し、境内に寳池と称する池があったと云う。平成の世に至り、その寳池と水源を一にする井戸水をこの地まで引き、「平成の寳池」とした。

秋葉神社
大鷲神社
元杢網歌碑

〔 秋葉神社 〕
通称「あきはさま」 火防(ひよけ)火伏せの神
・御祭神
火之迦具土神(ひのかぐつちのみこと)
・御由緒
【新編武蔵風土記稿】(江戸時代文化文政年間)に依れば、第10代川越藩主秋元喬房(あきもとたかふさ 60,000石 ※宝永元年(1704)12月25日〜正徳4年(1714)8月14日)氏により、享保8年(1723)に造立。秋元氏が蓮馨寺住僧東譽圓悦なる者に議り、当社安置の地を熊野神社に卜し、丘を築き、勧請させた。昭和33年(1958)までは、その小丘が残っていた。例祭:11月18日 縁日:毎月18日

※カッコ内の在城年代は第9代藩主・喬知(たかとも)のもので、正徳4年(1714)8月14日と云うのは喬知が没した日でもあるの。喬房の在城期間は、正徳4年(1714)9月29日〜元文3年(1738)9月5日が正解よ。

〔 大鷲神社 〕
通称12月3日の酉の市は「おとりさま」と呼ばれる。
 
戦時中は武運長久の神として、現在は家内安全・商売繁盛・開運の守護神として信仰されている。
・御祭神
天之鳥船命(あめのとりふねのみこと)
・御由緒
大正11年(1922)、南埼玉郡の鷲ノ宮神社の分霊を奉斎したと伝えられている。初め熊野神社に合祀されたが、後に流れ造りの社殿を建立し、遷座祭を執行して末社とした。川越市とその市民の繁盛のため、毎年12月3日に「酉の市」を開催し、大神の福を呼ぶとされる「稲穂付きの熊手」や「百万両小判」を授かろうと近郷近在より善男善女が集まり、年毎に益々盛大になっている。例祭:12月3日 縁日:毎月3日

〔 元杢網歌碑 〕  徳川時代天明から寛政の頃、江戸に落栗庵元杢網という狂言師がいた。杢網は比企郡杉山村(現・嵐山町)の出身で、本名は金子喜三郎と云った。若き頃より文才に恵まれた彼は、壮年になってから家督を弟に譲って江戸に出、和歌を学び、狂歌の道へと入っていった。天明から文化にかけて、彼は狂歌界の中心的存在となり、江戸中の半分は、杢網の弟子とまで謳われた。晩年は仏門に帰依して各地を旅行、この川越にも来遊し、一時蓮馨寺門前の松郷の窪に住み、笹の庵と称していた。その間蓮馨寺境内にあった地蔵堂の天井に雲龍を描いたと伝える。この歌碑は文化年中、地蔵堂の傍らに門人達の手によって建てられたものと云われ、今は場所を移して当境内にある。

・山さくら咲けば白雲散れば雪 花見てくらす春ぞすくなき 〔 落栗庵元杢網 〕

蓮馨寺境内の桜を望見した歌であろう。杢網の妻はすめ(狂名知恵内子)と云い、市内小ヶ谷の内田氏の出と云われるが、詳しいことは不明。尚、杢網は浅草寺のほとりの庵で没した。嵐山町には夫婦の供養塔が存する。埼玉大学名誉教授 山野清二郎

2. 旧鶴川座 きゅうつるかわざ 9:26着 9:28発

次の蓮馨寺に向かう途中で廃屋然として佇む建物に目が留まったの。周りの景観とはおよそ相容れない場違いな装いに、何も知らないξ^_^ξは、地権者の利権などが複雑に絡み合って取り壊したくても取り壊せずにいるのかも知れないわね−と思っていたの。朽ちかけた掲示板には、これもまた黄色く変色した古〜い写真が打ち付けられていたのですが、併せて説明書きが貼り付けられていたの。それを読んで初めてこの建物が何なのかを知ったと云うわけ。現在は閉鎖されていて建物の内部を見ることは出来ませんが、手が加えられているとは云え、建築当初の芝居小屋としての造りが今も一部に残されているのだとか。その史料的価値故に保存も検討されているみたいね。

旧・鶴川座は明治31年(1898)に蓮馨寺境内に建てられた芝居小屋です。蓮馨寺の境内には明治時代の初めに松蓮座と云う芝居小屋がありましたが、明治26年(1893)の大火で焼失したため、鶴川座と名を改めて再建されました。再建後は、芝居興行を中心に、講演会場としても使用され、大正時代になると、浅草で人気のあった活動写真の上映も始まりました。大正11年(1922)までに外観がタイル張りの洋風に改装されますが、内部の客席は枡席のままで、廻り舞台もそのまま使われていたようです。関東近郊では、廻り舞台やぶどう棚が現存する珍しい建築物です。その後、映画館や店舗への転用により、改築・改装が繰り返され、蓮馨寺所有となり、現在に至っています。川越市

3. 蓮馨寺 れんけいじ 9:29着 9:49発

蓮馨寺は、天文18年(1549)、時の川越城主大道寺駿河守政繁が母の蓮馨尼を追福するために、感誉上人を招いて開山した浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来である。慶長7年(1602)浄土宗関東十八檀林の制が設けられると、この寺もその一つに列せられ、葵の紋所が許されるなど檀林(僧侶の大学)として栄えた。しかし、明治26年(1893)に鐘楼及び水舎を残して全焼してしまい、現在の堂は、その後の再建になっている。入口正面の呑龍堂(どんりゅうどう)は大正初期の建築で、民衆から慈悲の生仏(いきぼとけ)と崇められた呑龍上人の像が安置されている。また、元禄の銅鐘(市指定文化財)は、入口向って右手前の鐘楼に掛っている鐘で、元禄8年(1695)鋳工木村将監(しょうげん)の作である。この寺は室町末期の創建であるが、本尊である木造阿弥陀如来座像は、明らかに鎌倉時代の様式が見られるので、胎内銘にある弘安時代の作と思われる。昭和57年(1982)3月 川越市

徳川家康は慶長18年(1613)に祖となる新田義重を追善供養するために大光院(群馬県太田市)を創建しますが、その際に開山として迎えられたのが呑龍上人なの。呑龍上人は観智国師(感誉上人の弟子&家康の宗教上の最高顧問)四哲の一人に数えられるなど、高僧としてその名を知られた一方で、困窮に喘ぐ農家の子供を見るに見かねて引き取ると弟子として育てたの。そんなことから地元では親しみを込めて子育て呑龍さまと呼ばれ敬われたの。また、各地をめぐり、民衆の悩みや願い事に耳を傾け、旱魃の際には降雨祈願をし、飢饉に喘ぐ農家の子供を見つけるとその子供を預かるなど、慈愛に満ちた心の持ち主だったようね。その子育呑龍上人が、明治期の神仏分離政策を受けて熊野社が独立したのを機に蓮馨寺にも祀られるようになったの。

〔 水舎(みずや)〕  明治26年(1893)の川越の大火に、当山は類焼の厄に遭い、山門諸堂を失いましたが、その時残ったのが、鐘撞き堂とこの水舎でした。水舎は銅板葺きの屋根に四本柱の簡単な構造ですが、欄間の彫刻は見事なもので、鶴亀や牡丹唐獅子・唐子遊びの図などが精緻に彫られて、昔の堂宇の華麗さを偲ばせています。又、水鉢の龍頭は、日展評議員・東京学芸大学名誉教授・川越出身の彫刻家橋本次郎氏の制作になるものです。当山

水舎の周りをウロウロしていたときに、少し離れて何やら黒光りする石碑が建てられているのが目に留まったの。最初はその出で立ちから忠魂碑の類かしらと想像したのですが、碑面には「林崎甚助重信終焉之地 居合抜刀始祖 鎮魂之碑」とあり、居合抜きの始祖・林崎甚助重信の追善供養塔だったの。But 居合抜きと云ってもξ^_^ξはTVの時代劇などで少しだけ見聞きした程度で、ましてやその始祖が林崎甚助重信であることなどつゆ知らず。(^^; 碑には林崎甚助重信の略歴が記されていたのでそれを転載して紹介に代えますね。その略歴が気になる方は こちら を。居合抜刀始祖鎮魂之碑の右手には、次に紹介する石造の将監(しょうげん)地蔵尊が立てられているの。

松平伊豆守信綱侯が川越城主の頃、数ある重臣の中に遊佐(ゆさ)将監と云う人がいました。将監は地蔵菩薩を信仰し、遂に自ら一体の石地蔵を完成して後世に残されました。そのお地蔵さまは、将監の歿〔 寛政8年(1668) 〕後百余年を経ても種々の神変(ふしぎ)を現しましたので忽ち評判となり、毎月三の日の縁日には、遠近の信者がお堂に溢れました。遊佐地蔵とか将監地蔵とか呼ばれて慕われたそのお地蔵さまが、百年振りにお堂を出て、今、露座の席にお立ちになっています。どうか近寄って親しく御参詣下さい。お地蔵さまを拝む人には、十福(じっぷく)と云って、十の御利益があります。昭和60年(1985)5月吉日 当山

女人泰産 身根具足 除衆病疾 寿命長遠 聡明智慧  
にょにんたいさん しんこんぐそく じょしゅうびょうしつ じゅみょうちょうおん そうみょうちえ  
財宝盈溢 衆人愛敬 穀米成熟 神明加護 証大菩提 〔 延命地蔵経 〕
ざいほうよういつ しゅにんあいきょう こくまいじょうじゅく しんみょうかご しょうだいぼだい  

替わって呑龍堂の前縁にはおびんずるさまこと、お賓頭盧尊者の像が置かれているの。お賓頭盧尊者はお釈迦さまの高弟でも十六羅漢の筆頭にあげられる賓度羅跋羅堕闍尊者(びんどらはらだしゃそんじゃ)と同一人物とされ、お釈迦さまの許で日々修行に邁進していたのですが、彼には一つだけ困ったことがあったの。それはお酒が大好きなこと。修行の妨げだと分かってはいても、お釈迦さまに隠れてこっそりとお酒を呑んでいたの。そんなある日のこと、お酒を飲んでいることがお釈迦さまに知られてしまい、大いに反省した尊者は以後の禁酒を誓ったの。そうしてしばらくはお酒を口にすることもなく修行に励む尊者だったのですが、元々お酒が大好きな尊者のこと、修行の合間に、ふと、お酒のことが脳裏を掠め、一口だけなら−と、ついお酒を口にしてしまったの。

そのことを知ったお釈迦さま、禁酒の誓いを破った尊者を精舎から追放してしまったの。その後猛省した尊者は以前にも増して修行に励むようになったのですが、お釈迦さまからは涅槃を許されず、お釈迦さまが入滅後の今も、本堂の外陣に鎮座して衆生を救済し続けていると云うわけ。他方で、修行の功あって神通力を得た尊者は、その神通力を以て多くの人々を病から救い、後に病気平癒の伝説を生むの。お賓頭盧尊者が撫仏としての信仰をあつめるのはその逸話に因むものなの。異説では神通力を見せびらかした科(とが)でお釈迦さまから涅槃に入ることを許されなかったとも云われているのですが、仮に、お賓頭盧尊者が涅槃に入っていたら独尊として祀られることはなかったかも知れないわね。因みに、お賓頭盧尊者の像が赤いのはお酒のせいだとも云われているの。本当の理由は他にあるのかも知れないけど、巷で云われているように飲酒のせいだとしたら持ち前の神通力がパワーダウンしていないか、ちょっと心配ね。(^^;

小江戸川越七福神 蓮馨寺(浄土宗) 第五番 福禄寿神
福禄寿神とは幸福・高禄・長寿の三徳を具えて人に与える方で、右手に霊芝、左手に神亀を持ち、癌や脳卒中を治しなさい。そうすれば福禄寿が得られますと教えています。
秋の七草=尾花(すすき) 山は暮れ野は黄昏の芒かな 蕪村
ススキは穂が獣の尾のような形をしているので尾花とも云います。又、すくすくと立つ木の意でススキと云われました。花言葉 = 勢力、活力
小江戸川越七福神霊場会・(社)小江戸川越観光協会

境内の一角には鐘楼が建ちますが、蓮馨寺御案内の最後にその鐘楼に纏わる逸話を紹介して参詣の余韻としますね。

とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども、川越に大火がおきたときのことじゃ。火は折りからの強風に煽られて瞬く間に燃え広がり、今にも川越の町の全てを飲み込もうとしておってのお、この蓮馨寺にも火の手が廻ってきたんじゃが、防ぎようもなくてのお、火はみるみるうちに伽藍に燃え移り、勢いを得た火焔は今まさに鐘楼にまで達しようかと云う時のことじゃった。猛火にあらがうようにして一人のお坊さんが鐘楼に駆け寄ると、ゴ〜ン、ゴ〜ンと、やおら鐘を衝き始めたそうじゃ。辺りは火の海じゃで、寺におったもんは皆して「お坊さま、早く逃げて下され!ここまできてしまっては火はもう消すことも出来ません、どうかお逃げ下され!」と叫んでみたのじゃが、お坊さんは迫り来る炎にひるむ様子もなくてのお、それどころかますます激しく鐘を打ち続けたそうじゃ。

すると不思議なことじゃのお、燃えさかる炎はお坊さんと鐘楼を避けて通っていったそうじゃ。やがて火は町を焼き尽くしてようやく収まったんじゃが、そのお坊さんのおかげで、この鐘楼だけは焼けずに残ったそうじゃ。じゃが、気がついてみると、つい先程まで激しく鐘を衝いておったお坊さんの姿がどこにもなくてのお、あのお坊さんはひょっとしたら呑龍さまじゃったのかも知れんのお、そう皆して得心したそうじゃ。そんなことがあって、「呑龍さま」は益々厚く信仰されるようになったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

4. 大正浪漫夢通り たいしょうろまんゆめどおり 9:51着 10:04発

現在では川越駅前から続くクレアモール街にすっかり客足を奪われてしまった感がありますが、この商店街も、嘗ては銀座を冠する県下有数の商店街だったの。But 交通至便な駅周辺に人が集まるのは必然で、商業の中心地が現在のクレアモール街に移ると次第に客足が遠のいてしまったの。そこで商店街の活性化を目指し、平成7年(1995)にはアーケードを撤去。大正ロマンをイメージ戦略に据えて、大正浪漫夢通り商店街として新たな街づくりに着手したの。蔵造りの町並みが江戸時代から明治時代を想定したものであるのに対し、大正浪漫夢通り商店街ではその名のごとく、大正ロマンの香り漂う街並みの再現に力が注がれていると云うわけ。
大野屋

平成13年(2001)には電線やケーブルの地中化も完成し、すっきりとした街並みになっているの。電柱はもとより、蜘蛛の巣状態のケーブル類が視界に無いと云うのはスッゴク羨ましいわね。詳しい御案内は商店街の皆さんが運営される 大正浪漫夢通り を御参照いただくことにして、主だった建物の幾つかを紹介してみますが、画像毎にコメントを付記しておきましたので併せて御参照下さいね。But 建物は老舗 (^^; でも、入居する店舗は短期間での入れ替わりが結構あったりするの。以前は○×だったのに、次ぎに訪ねたときには○△になっていた−なんてことが今後も予想されますので、その際は御容赦下さいね。

吉田謙受堂
シマノ珈琲大正館&いせや
 
酒処・里乃味

伊勢亀本店
小川菊
伊勢源

川越商工会議所

紹介した大正浪漫夢通りのトリを飾るのが川越商工会議所(旧武州銀行川越支店)の建物ですが、その前を東西に走る通りにも蔵造りの商家が続いていたの。通りには紹介した大正浪漫夢通りや、この後に御案内する一番街の「蔵造りの町並み」のように、特別な名称があるわけでもないのですが、文化財級の建物が連なっていたの。見ていると商工会議所の建物を過ぎると、左に折れて一番街を目指す方が殆どでしたが、ちょっと寄り道してみたので紹介してみますね。通りを歩いてみて、かえすがえす残念なのは空中を這い廻るケーブルの存在ね。電柱の無い大正浪漫夢通りを歩いてきた後だけに、景観の乱雑感は否めないの。誰がそのコストを負担するのかという問題はあるのかも知れませんが、何とかならないものかしらね。

仲町観光案内所

うなぎの林屋さん
亀屋山崎茶店

原田家住宅

山崎美術館

次はお待ちかねの「蔵造りの町並み」の御案内とすべきところなのですが、その前に周辺の寺社を纏めて訪ねてみたので、先に紹介しますね。そんなの、興味ねえや−と云う方は、思いっきり読み飛ばして下さいね。お急ぎの方は こちら を。

5. 法善寺 ほうぜんじ 10:10着 10:11発

蔵造りの町並みが続く中央通りに面してこの法善寺があるのですが、以前訪ねたときには参詣出来た境内も、現在では防犯カメラ作動中のマークと共に「観光の方の立ち入りをお断りいたします」の警告表示が門前に立てられているの。仕方がないのでここでは以前訪ねたときの画像を以て御案内しますが、今回の散策の行程を追体験してみたいな−と思っていらっしゃる方は、このことを含み置きの上でお出掛け下さいね。寺院と云えば元々は精神修養の場であり、魂が安らぎを得る地でもあり。観光地にあるからといって必ずしも観光寺院とは限らないので立入禁止の処置は仕方のないことね。現在は自然山寳林院法善寺を正式な山号寺号とする真宗大谷派の寺院。

〔 法善寺 〕  縁起を閲るに當寺は昔眞言宗にて丹州氷山(現・兵庫県丹波市氷上町)にありて門徒十五ヶ所の本山なりしに 寛正元年(1460)時の住僧・法印良應こゝに移住して當寺を起立し 良祐・良全・祐智・祐惠・良海に至るまで 六代相續して古義の宗風を尊ぶ 然るに良海は上州(現・群馬県)の人にて 先住祐惠の法嗣にて碩學の沙門なり 祐惠京師にあそぶの日良海も隨從す 時にたまたま蓮如上人城明山科郷野村の坊に於て親鸞相傳ふ宗義弘通の時なり 惠・海二僧共に山科へまふでて遙に教化をきゝ歸依の志發りしかど 改宗せんも さすがにいかゞなれば 文亀元年(1501)歸りて其後五年を經〔 以下に続きます 〕

永正3年(1506)に至り 祐惠歳六十三住職を良海に譲り 其身は京に赴きて釋實如に謁し 浄土新宗の流を酌み 專修專念の行者となる 同8年(1511)正月廿八日洛の寓宿にて往生を遂ぐ こゝに於て良海も又都へ上り實如に謁す 師なりし祐惠が有縁の善知識なればとて 請て法名を書せしめ 遺骨と共に負て寺へ歸りて供養す これより常に浄土の法門を兼學すといへども 舊宗の教と別なるにより 三密同體の床に坐して修學するに 若干の星霜を送る こゝに天文6年(1537)川越合戦の時 城下の寺院修羅の巷となれり この間に當りて兼學の功ならざることをはかり 蓮如の所縁をたのみ 江戸麻布善福寺に入り 院主の弟子堯海に謁して縁をかたり 終に彼門に歸せり 然るに先師祐惠は退隱の後 浄教に歸し 良海は現善福寺の弟子 源能と云僧を後住として寺務を譲れり この源能俗姓は源氏甲斐國武田氏の一族 一條右衛門太夫信龍が叔父なり 此後しばらく善福寺の末寺となりしが 第四世の時本山の末に属せりと云

ここでは【新編武蔵風土記稿】に記される縁起を紹介してみましたが、記述からはかなりの紆余曲折を経てきていることが分かるわね。それはさておき (^^; 物見遊山のξ^_^ξが気になっていたのが境内にあると云う虫食い奴のお墓だったの。境内が立入禁止となった背景にはξ^_^ξのように、それを目当てに訪ね来る人が多くいたことがあげられるのかも知れないわね。左掲がその石像ですが、掲示されていた説明書きと併せて、逸話を昔話の形にアレンジした上でお届けしてみますのでお楽しみ下さいね。(^^;

〔 虫食い奴(むしくいやっこ) 〕  この石像は一日も欠かさず酒を飲んでいた大酒飲みの墓である。大酒飲みの名前は瀬川嘉右衛門。松平信綱が川越城主の時代に槍持ち奴として仕え、酒の肴に虫などを食したので「虫食い奴」と呼ばれていた。嘉右衛門は生前に自分の墓を建立して法善寺に納めたと云われている。現在、同寺にある墓は二代目になる。酒樽に腰掛け、杯を手にするその風体はいかにも酒好きと云った感がある。( 参考:【広報川越】 )
瀬川嘉右衛門 法名※:釋浄徳(しゃくじょうとく) 元禄六年(1693)正月十六日往生 合掌

※浄土真宗では仏弟子としての名告(なの)りを戒名とは云わず法名と申します。そして仏弟子は「同じ念仏の教えによって、等しく浄土に往生するものである」との立場から、法名には所謂「位号」(信士・居士・信女・大姉)を付けないのが教えの伝統にかなうものであるとされています。

むか〜し昔のお話しじゃけんども、川越城主に松平信綱と云うお殿さまがおったんじゃが、その家来の一人に瀬川嘉右衛門と云うお侍がおってのお、槍持ち奴として仕えておったそうじゃ。いいつけられた仕事はきちんとこなし、真面目でよう仕えておったんじゃが、一つだけ困ったことがあってのお。嘉右衛門は大の酒好きでのお、一日として欠かすことなく酒をあおっておったそうじゃ。酒の肴にしてもちょっと変わったところがあってのお、鼠や蛇はもとより虫なども食べ、とりわけ腐った肉が大好物だったというんじゃから変人じゃのお。

その嘉右衛門じゃが、何を思うたのか、ある日突然、未だ死んでもいないのに自分の墓を建てようと思い立ってのお、石工に己が身の肖像を彫らせ、この法善寺に納めたそうじゃ。その墓と云うのが変わっておったもんじゃで、見物人が大勢訪ね来るようになってのお、嘉右衛門がのうなってしまった後も、虫食い奴と奇妙な形のお墓の噂は遠方にまで広まり、遠くからも見物人が訪ね来たそうじゃ。残念ながら当時のものは罹災して失われてしまい、今あるんは二代目だと云うことじゃが、嘉右衛門の奴さんも、今頃は草葉の陰で盃を片手に「してやったり」と、ほくそ笑んでおるんかもしれんのお。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

6. 鴉山稲荷神社 からすやまいなりじんじゃ 10:17着 10:22発

社記に依ると、長禄元年(1457)上杉持朝の命によって川越城築城の任にあたった太田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ、南西を森が遮り、富士山が眺望出来ないために、これを伐採させたところ、森の中に石祠があり、「源家勝平 怨敵退散 子孫長栄 大願成就 守護 承安三癸巳天四月十七日願主河島武盛」と記した祈願文が発見された。道真はこれを築城の吉兆としてここに仮宮を建立した。以来、代々藩主の信仰厚く、松平斉典(まつだいらなりつね)の養子・斉省(なりさだ)の奉納「鴉山祠」の額が現存している。当社は塚上にあり、鴉が群棲していたことにより鴉山稲荷神社と称すると云う。

また、古くは周囲に塚が多く、中でも鴉山が大きいので、川越七社の第一位としてその名は親塚稲荷とも云われる。また、町内では「お稲荷さん」とも呼ばれ、親しみ大切に信仰され、今も尚、町民全体の文化遺産として伝わり、引き継がれている。
平成20年(2008)4月吉日 鴉山神社修復実行委員会

7. 行傳寺 ぎょうでんじ 10:28着 10:31発

次に訪ねたのがこの行傳寺ですが、先程の法善寺と同じく「参詣以外の立入ご遠慮願います」とあり、物見遊山の入境などは論外みたいね。せめて縁起を記した案内板でもないものかしら−と辺りを探してはみたのですが見当たらず、文献からの引用ですが、【風土記稿】には「日蓮宗にて池上本門寺の末寺なり 朝田山と號す 開山日山古くは行典寺とかきしとみゆ 永和年中(1375-79)起立す 日山は本山第四世の住僧にて 永徳元年(1381)9月7日化すと云 この寺昔は今の城中内郭のところにあり 城引移しのときもそのままたてりしを 天文年中(1532-55)に至りて城下松郷へ移され かしこにあること数十年なりしが 元和5年(1619)3月朔日回祿にあひぬ 明る6年(1620)2月19日今の地へ移りし由 寺記に載せたり」とあるの。

引き続き、【風土記稿】にはちょっと気になる記述があるの。嘗てあったと云う鐘楼に架けられていた銅鐘ですが「此鐘ゆへ有て多賀町の防火楼に移して 今は楼のみ立り」とあるの。この防火楼と云うのが、今では川越のシンボル的な存在となっている「時の鐘」のことなのですが、「ゆへ有て」の内容が気になるわよね。調べてみると面白い逸話が残されていたの。それが「仲々戻ってこない行傳寺の鐘」のお話しで、何代目になるのかは分かりませんが、川越城主・松平大和守より行傳寺の梵鐘を防火楼に懸ける釣鐘として貸し出すよう依頼があり、差し出したのですが、一向に返して貰える気配もなく、行傳寺の鐘楼に鐘が無い状態が長く続いたの。

巷では「大和さま 法華の寺に借りが出来 判はつけども金は返さず」の狂歌が流行り、ようやく返還が決まったのだとか。判は半鐘の半、金は鐘との掛詞にもなっているのですが、それはさておき、ようやく返却にこぎ着けたものの、今度はその運搬中に破損してしまい、新たに銅鐘が鋳造されたの。その梵鐘が再び不運に見舞われるの。時を経た昭和20年(1945)、あろうことか戦時供出されてしまったの。梵鐘を銃器や弾薬に作り替えるなんて余りにも悲しい所業ね。それでも幸いなことに行傳寺の釣鐘は溶かされる前に終戦となり難を免れたの。当時は東京の深川に供出品が集められていたそうなのですが、戦後の混乱もあってのことでしょうね、同じ日蓮宗でも近場に位置する浄心寺の鐘楼に懸けられることになったのだとか。

行傳寺の御案内のはずが釣鐘のお話しばかりになってしまいましたね、ごめんなさい。m(_ _)m  けれど、行傳寺の梵鐘が嘗て「時の鐘」として使われていたことがあることを知ると、脳天気な輩の入境を阻む行傳寺にも少しは親近感が持てそうね。見れば伽藍を含めて境内は近年新たに整備された印象を受けましたが、鐘楼が再建されたのかどうかは未検証なの。因みに、行傳寺敷地内の一角からは街並みの屋根越しに「時の鐘」が顔を覗かせる瞬間があるの。お出掛けの際に探してみて下さいね。勿論、立ち入りが認められているエリアからのお話しよ。

8. 雪塚稲荷 ゆきづかいなり 10:36着 10:39発

〔 雪塚稲荷神社略縁起 〕  当社は、城下町川越の十ヶ町の一つ、南町の氏神として崇拝されてきた。〔 中略 〕神社の創始は、口碑に「江戸の昔、ある大雪の日、南町の通りに一匹の白狐が迷い現れた。これを見た若い衆数人が白狐を追い回して遂に打ち殺し、挙げ句の果てにその肉を食したところ忽ち熱病にかかり、更に毎夜大きな火の玉が街に現れるようになった。町内の者はこれを白狐の祟りとして恐れおののき、近くの長喜院の境内に社を建て、白狐の皮と骨を埋めて塚を築き、雪の日の出来事であったことに因んで、雪塚稲荷神社と名付けて奉斎したと云う。

明治26年(1893)の川越大火に依って本殿・拝殿焼失。同30年(1897)4月28日に再営した。その際、土中の御神体を改めたところ、白狐の毛が逆立つのを認め、驚いて再び埋納したと云う。また、昭和55年(1980)社殿の修理中、床下中央部から石板が発見され、「雪塚稲荷神社遺躰文政6年(1823)2月12日御霊昇天 同年3月12日御霊祭日と定め、同年同日雪塚稲荷神社と称す」との銘文があった。文政6年(1823)以来、特に商売繁盛に霊験灼かさを以て知られ、町内のみならず、遠隔地の講中や近隣末社の人々の不断の信仰に支えられてきた神社である。

お話しには続きがあって、いつとはなしに、その白狐は箭弓稲荷神社(埼玉県東松山市)のお使いで、王子稲荷神社(東京都北区王子)に向かう途中の出来事だったと云われるようになったのだとか。王子稲荷神社と云えば嘗ては関東稲荷総司として崇められ、大晦日になると関東各地から神使の狐が集まり来て衣冠姿となり、その王子稲荷に参詣したの。説明には「ある大雪の日」とあるだけで大晦日の出来事としているわけではないのですが、その狐達が着替えをしたのが装束榎の木の下で、その年の狐火の多少で翌年の収穫を占ったの。お話しが気になる方は「石神井川緑道と王子散策」の 装束稲荷神社 の項を御笑覧下さいね。CMでした。(^^;

9. 長喜院 ちょうきいん 10:40着 10:44発

・開創
天文19年(1550)
・開基
川越地主 大道寺駿河守 甥 大道寺権内長喜(だいどうじごんないながよし)
 
祥雲寺殿冷月長喜大居士 永禄5年(1562)12月11日卒
・開山
広済寺三世大翁文廣大和尚 慶長9年(1604)9月23日示寂
・本尊
釈迦牟尼仏
・鎮守
大栴檀乾闥婆大鬼神王(だいせんだんけんだつばだいきじんおう)
 
子供を守り育てる仏さま

【風土記稿】には「冷月山と號す 曹洞宗 喜多町廣済寺の末寺なり 天文・永祿の頃大道寺駿河守が甥 大道寺権内長喜と云もの此地に住せり 後遺跡に當寺を草創す 此人永祿5年(1562)12月11日歿せり 法名を冷月長喜居士と號す 因りて山號寺號とせり 開山大翁文廣文祿元年(1592)9月23日寂す 本尊釈迦を安ず」とあり、開山・大翁文廣の没年に違いが見られますが、川越城将を務めた大道寺駿河守政繁の甥・権内長喜の屋敷跡に、広済寺の住持・大翁文廣が開山したと云うわけ。本堂には本尊の釈迦牟尼仏が安置されますが、見たこともなければ聞いたこともないのが大栴檀乾闥婆大鬼神王ね。

残念ながら秘仏ということで御尊顔を拝することは出来ませんが、その名からはコワ〜イ夜叉神の姿も思い出され、子供を守り育てる仏さま−と案内されてはいるものの、その形相を見た途端に怯えて「ひきつけ」でもおこしそうな名前よね。But 病魔退散や癪の虫などを平癒させる御利益がある仏さまとして信仰されてきたそうよ。恐ろしい忿怒の形相に病魔も退散せざるを得なかったのかも知れないわね。(^^;

本堂の左手に位置して立てられているのが、インドのラホール美術館に収蔵されていると云う「苦行釈迦像」の原寸大レプリカなの。その姿形はちょっと見がミイラにも見えて (^^; 気持ちが悪いと云うのが正直な感想ですが、像はお釈迦さまの苦行する姿を表したもので、聞いたところに依ると、悟りをひらく直前のお姿だそうよ。その姿を気味悪がったξ^_^ξは悟りの境地には程遠いところにいると云うことね。因みに、釈迦像の左手に植えられているのが菩提樹で、右手は沙羅樹だそうよ。祇園精舎の鐘の聲 諸行無常の響あり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす−あらあら、【平家物語】になってしまったわ。(^^;






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