≡☆ 小江戸・川越のお散歩 Part.1 ☆≡
 

今回の散策エリアでは一番の見所となる喜多院ですが、その歴史を紐解けば、日枝神社や仙波東照宮をはじめ、中院も含めてそのルーツはみな同じなの。裏を返せば、それらの寺社を含めて訪ね歩いてみないことには、本当の意味での喜多院を訪ねたことにはならない−と云うわけ。何だか、大変なことになりそうね(笑)。補:掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。但し、スライドは完全マニュアル動作ですので御協力下さいね。

川越寺社めぐり〔 後編 〕

19. 日枝神社 ひえじんじゃ 11:39着 11:50発

喜多院の門前に位置してこの日枝神社があるのですが、御覧のように、通りから眺め見る限りでは朱色の社殿が目に入らないの。拝殿も近年新しく修造されたのですが、色彩的なインパクトが無いせいか、見ていると誰も気に留めることもなく、みなさん喜多院へとまっしぐらなの。かく云うξ^_^ξも、実は拝殿の右手にある無底坹(後述)を見ていたときに初めて朱色の瑞垣に囲まれて立派な本殿があることを知ったの。鳥居脇に建つ石柱には「國寳日枝神社」と刻まれることから、境内には難解な漢字が多出する古碑や案内板の類が目白押しなの。皆さんにも紹介してみますが、幾れも門外漢の目視拓本(笑)ですので誤りがあるかも知れません。その際は御容赦下さいね。

〔 日枝神社 〕  祭神:大山咋神( おおやまくいのかみ=素戔鳴尊の御孫 )
由緒:天長7年(830)慈覚大師が喜多院を創建した際に比叡山麓の日吉神社の分霊を奉祀したもので、東京赤坂の日枝神社は太田道灌が長禄年間(1457-1460)の江戸城築造に当り江戸城鎮護の神として、文明10年(1478)、当神社の分霊を城内北曲輪に分祀したものがそれである。当社はその後天文6年(1537)兵火に遭って烏有に帰したまま、慶長10年(1605)に至って徳川幕府が再建、その後引き続いて幕府の営繕社となり、明治5年(1872)村社に列せられた。明治初年神仏分離令により喜多院住職による管理を解かれて小仙波町氏子総代の管理となって今日に至ったところ、太平洋戦争に当たって川越市は戦災を免れたので、当社は喜多院・東照宮と共に昭和21年(1946)11月29日付を以て国宝に指定となり、昭和25年(1950)8月29日重要文化財となった。こうして昭和37年(1962)復元修理工事に着手、同38年(1963)10月29日修理完了したのである。平成18年(2006)拝殿、同20年(2008)社務所改新

〔 國寶日枝神社沿革碑 〕 喜多院第57世文學博士已講大僧正塩入亮忠題額
吾々の鎮守さま日枝~社は 天長7年(830) 比叡山天台宗の宗祖・傳教大師の高弟 第三座主・慈覚大師が佛法弘通の爲 三芳野の里に來て星野山を開き喜多院を創建した際に 一山の鎮守として比叡山麓の日吉~社の~靈を遷祀したものである。その~靈は 同社の主~東本宮の大山咋~で 素戔嗚~の御孫に當り 又の御名は山末之大主~と申され 比叡山の地主~である。又 東京都赤坂山王台の日枝~社は 川越城を築いた太田道灌が文明10年(1478)6月25日より仙波から江戸城中に勧請し 初めは城内北曲輪に分祀したのがそれである。

當社は 後奈良天皇天文6年(1537)7月兵燹に罹つて烏有に歸したまま荏苒年を経て 慶長年間(1596-1615)徳川幕府に依つて再建され 爾来幕府の修營社となり 明治2年(1869)~佛分離令により喜多院の管理を解かれ 明治5年(1872)村社に列せられた。氏子の手に移管されてから拜殿を新築したが 本殿は實に桃山時代の古建造物とて頽癈甚だしいものがあるので 紀元2600年記念事業として之が修理を計畫したところ太平洋戦争となり 川越市は幸い戰禍を免れたので當社本殿附宮殿は昭和31年(1956)11月29日喜多院東照宮と共に國寶に指定され 同25年(1950)8月29日重要文化財となり 東照宮修理の次同37年(1962)7月工費金壹八五萬圓の内9割と本縣及び本市より各金八萬圓の補助金を受けて修理に着工 同38年(1963)10月15日竣工式を擧くるに至つて今や再建當時の面影を偲ぶ社殿に見事復元したのである。當社の財産は 明治44年(1911)村有財産の寄附があり 宅地513坪余田畑合せて七反余を保有したが 昭和33年(1958)農地改革の爲 全部解放の厄に遭い 今は唯境内301坪を昭和34年(1959)5月財務局から無償譲與を受け 境外地として非農地5畝余宅地48坪余を有するのみである。昭和40年(1965)4月初申

日枝神社本殿付宮殿 一棟 ( 国指定重要文化財 建造物 )
日枝神社は、慈覚大師円仁が無量寿寺(中院・喜多院)を中興する際に、近江国坂本(滋賀県大津市)の日吉社(日吉大社)を勧請したといいます。本殿は朱塗の三間社流造で、銅板葺の屋根に千木・堅魚木を飾ります。三間社としては規模が小さく、架構も簡素です。身舎の組物は出三斗ですが、背面中央の柱二本は頭貫の上まで延び、組物は大斗肘木になっています。中備は置きません。妻飾は虹梁大瓶束であっさりとしています。縁を正面だけに設け、側面と背面には廻さず、正面縁の両端のおさまりは縁板を切り落としただけの中途半端なもので、高欄や脇障子を設けないため簡易な建築に見えます。庇は切面取の角柱を虹梁型頭貫で繋いで両端に木鼻を付け、連三斗・出三斗を組んで中央間だけに中備蛙股を飾ります。但し、この蛙股は弘化4年(1847)頃、修理工事の折に追加されたものといいます。身舎と庇の繋ぎは、両端通りに繋虹梁を架け、中の二通りに手挟を置きます。本殿の建立年代について、それを明確にする史料はありませんが、構造の主要部分は近世初頭の技法によりながら、装飾意匠の一部に室町時代末期頃の様式を留め、また、中央の保守的伝統的な技法に依らない地方的な技法も見受けられます。虹梁に絵様を施さず袖切・弓眉だけとする点、庇木鼻の形状と正円に近い渦の絵様、実肘木の絵様、手挟の大まかな刳形などは室町末期の様式です。また、正面の縁のおさまり、大棟上に飾棟木を設けず直接千木・堅魚木を載せる点、背面の組物だけを大斗肘木とする点、組物の枠肘木と実肘木が同じ断面寸法で且つ背と幅が同一な点、巻斗の配置が六支掛の垂木配置と関係なく決定されている点などは地方的技法といえます。特に枠肘木・実肘木の断面寸法、垂木割に関わらない巻斗の配置は珍しく、幕府作事方に収斂される中央の木割法とは異なる設計システムが存在したことを推測させます。喜多院は慶長17年(1612)頃に再興されており、日枝神社本殿もその一環として造営された可能性もありますが、それ以前に地方工匠の手によって建造された可能性も残されています。昭和21年(1946)11月29日指定 川越市教育委員会

さすがは教育委員会の立て看板。難しい神社建築の専門用語のオンパレード状態で、門外漢のξ^_^ξには「な〜に云ってんだか ・・・」の世界。実際にはその多くに読み仮名がふられてはいるのですが、ここでは省略しました。これを読んで構造を理解出来る方なら読み仮名は不要のハズだもの。

儂には難しすぎて何が何だか良く分からねえけんども、
国宝だというんじゃから凄そうで良かっぺ?
はい。

拝殿の右手には石柵に囲まれた一角があるのですが、柵の中には何も無いの。
But 嘗ては無底坹と呼ばれる井戸があったみたいね。

無底坹 底無し井戸縁起
開山慈覚大師一時窖捨 供華之跡千有餘年於此常 捜浄芥跡然旋増旋清水嘗
有坹溢之湧因命日無底坹 余叙其奇跡勒長碑面欲以 垂不朽去安政六巳未暁春 現住亮阿誌

一千有余年前、慈覚大師が開山された供華の跡地を捜し当て、浄錐を以て坹井を施掘したところ、底から水が溢出して究まらず、坹井の底は無限の如くであった。此の奇跡を不朽ならしめんと欲し、譜碑面とした。安政六年(1859)巳春 現住職亮阿 誌す 〔 無底坹 碑文抄訳 仙波郷松岡 〕

の字ですが、原文には「其」偏に「止」とあるの。 表示不能ですので、代用文字にて御容赦下さいね。
ここでは地元の方が解読&解説してくれた案内板に助けられましたが、無ければ読破は素直に諦めていたわ。

むか〜し昔のお話しじゃけんども、この井戸は底無し穴と呼ばれるほど深〜い深い井戸じゃったそうな。ある日のことじゃった。底が見えねえけんども、一体どのくらい深えもんだか知りたいものよのお、一つ、物を放り込んで調べてみるべえか−と、村のもん達が相談してのお、最初に鍋を放り込んでみたそうじゃ。そうして、耳をすませて底から物音が聞こえて来るのをじっと待ってみたんじゃが、幾ら待ってみても何も聞こえては来んでのお、そこで椀やら下駄などを次から次へと投げ込んでみたんじゃが、物音一つせなんだ。いったいこの穴はどうなっておるんじゃろうか−と皆して穴の中を覗いておったんじゃが、一粁ほど離れた龍池からやってきた村のもんが、龍池に鍋や下駄やらがいっぱい浮かんでおると云うもんだで、皆して行ってみると果たして池には投げ込んだものがぜ〜んぶ浮かんでおったということじゃ。それからと云うもの、誰云うとなく、この穴を底無しの穴と呼ぶようになったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども。

お気付きのように、この龍池と云うのは先程訪ねた龍池弁財天の双子ヶ池のことなの。
逸話には飛躍があるけど、当時は地下水脈を通して繋がっていたのかも知れないわね。

〔 仙波鎮守 日枝神社御神木縁起 〕 昭和20年代、仙波には樹齢千年の巨大古代杉が数多く残っていました。此処がその跡地だったことは郷土史研究家岡村一郎氏の明治時代撮影の写真が証明します。鎮守の森の御神木として崇敬されておりました。昭和12年(1937)台風で西方に倒れ、梢は五年間道路に突き出し子供の遊び場でした。幹は製材し二枚の神猿大絵馬額が作られ神楽殿に掲げられています。平成25年(2013)台風で日枝神社古墳頂上の御神木の梢が折れて根部は永年保存処置をしましたが、幹は首記の大神木跡地に移動安置しました。株の年輪は300年前天海僧正が古墳の頂上に多宝塔建立時と一致します。

周囲の炭の山は毎年大晦日のお札炊き上げの残炭で、炭は万年永久に残りますので後世の人がこの縁起を伝えてくれるでしょう。千年後周りの小神木も大木となり本物の鎮守の森になるでしょう。これからも小仙波鎮守日枝神社をみんなで護ってまいりましょう。平成26年(2014)元旦 日枝神社 一丁目年行事番 謹白

〔 仙波日枝神社古墳縁起 〕  わが國に歴史のはじめ訪れし六世紀大和朝の御代、ここ彩の國も古墳文化全盛を迎へ、川越郷仙波の古墳群の内、仙波日枝の古墳は典型の前方後円形にて、当地の東国首長の邦在りし証左として仙波有史文化黎明の象徴と申すべく郷土の誇るべき至宝と云ふべし。また更に後の世、九世紀は天長の代、慈覚大師星野山開山に当り、この閃址を尊び給ひ~佛を祀られしは亦むべなりと云われる可く、川越の近古代文化の源この丘より萌芽すと云へども過言に非ざる可し。仙波鎮守日枝山王の御社は此の聖地に建ちて、千歳星霜の歴史の経緯を踏まへつつ多衆の崇敬を集め今日に至れり。

然るに近代激動の世に至り心なき都市化文明の余波及び長年の風水の害重なりて貴重なる立麓部及周辺の御~杉を喪ひしは痛恨の極みなれど、首記の証後世に伝へるべく墳頂に証柱建て神木の址碑遺し奉納仕つるもの也。平成10年(1998)6月申 仙波日枝神社崇敬会

この日枝神社古墳ですが、大正12年(1923)の県道敷設に合わせて古墳の半分が削られてしまったの。
その際の残土は浮島稲荷神社に運ばれ、墳頂に建てられていた多宝塔は喜多院に移築されたの。


日枝神社古墳の墳頂からは喜多院の大きな駐車場が目の前に広がるのですが、そのほんの一角に「明星杉」の跡地が残されているのを目にしたの。それまでは、伝説の地はとうの昔にアスファルトの下敷きになり、今ではその痕跡さえ分からなくなっているものと早合点していたの。今これを見逃しては一生悔いが残るかも知れないわ−とばかりに、急遽後戻りして訪ねてみたので紹介しますね。なので、日枝神社での所要時間はこの明星杉への立ち寄り時間が含まれますので御了承下さいね。

〔 明星社と明星杉 〕  鎌倉時代の永仁4年(1296)、尊海僧正が喜多院再興の為に訪れた時には、ここに池があったと云われています。尊海僧正がその池の前を通ったときに、池の中から光りが浮かび上がり、そばにあった杉の木の上でしばらく光り輝いた後、空高く飛び立ったという伝説があります。その伝説から、喜多院の山号を星野山と称し、この地の字名を明星と称します。現在は霊地の跡に社殿を建て、新しい杉の木が植えられています。

となると、その伝説とやらが気になるわよね。
そんなあなたに、脚色を交えて逸話を紹介してみますので、お楽しみ下さいね。

とんと、むか〜し、昔のお話しじゃけんども、尊海僧正と云う偉いお坊さんがこの地にやってきたときのことじゃ。お坊さんは牛車に乗っておられたんじゃが、この辺りに差し掛かるとそれまで車を曳いておった牛が急に立ち止まったまま動かなくなってしまってのお、供の者が幾らせかしても動かなんだで、ほとほと困り果てておった。それを見ていたお坊さんは、何かこの地に特別な理由があるのかも知れんでと、きょうのところはひとまずここで一夜を明かすことにしたそうじゃ。その夜のことじゃった。池の中から不思議な光が輝き始めてのお、やがてその光は玉となって池から飛び出すと明星となって夜空に舞い上がったそうじゃ。そうしてしばらくは傍らの老杉の梢にとどまり、きらきらと輝いておったそうじゃ。その奇瑞を目の当たりにしたお坊さんは、この地はまさしく霊地、いかなる仏縁あるらん−と調べてみると、果たしてその昔、仙芳仙人や慈覚大師が修行した土地じゃと分かってのお、早速お堂を建てると、弘法の道場としたそうじゃ。喜多院の山号は星野山と云うんじゃが、明星が輝いた瑞祥に因んで名付けられたものじゃ。その明星がとどまったと云う老杉じゃが、それからと云うもの、誰云うとなく明星杉と呼ぶようになったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

20. 仙芳仙人塚 せんほうせんにんづか 11:55着 11:59発

〔 仙波仙芳塚縁起 〕 7,000年前当地が海辺であったことは近くの仙波貝塚で証明されますが、此の丘に川越の大地誕生の浪漫縁起が伝えられています。塚の碑面には大昔仙芳と云う真人(仙人)が龍神の助けを得て海を干上げ、喜多院の前身たる無量寿寺領を造り上げ今の仙波となった。龍神は仙波下の弁財天池に安堵されたと刻まれています。当地仙波には六世紀まだ西の大和朝廷の力が及ぶ前の当時の豪族首長の古墳が数多くあり(三変・日枝・慈眼・氷川・愛宕の古墳)仙芳塚もそのひとつでありましょう。

川越は上杉の太田道灌築城以後15世紀あたりから歴史に名が出るようになり、徳川時代は幕府の庇護を受けて小江戸として有名になり今日を迎えておりますが、此の塚に立たれ、更に千年前の川越を尋ねるよすがにもなれば幸いです。尚、この塚の西側隣地は喜多院の本地堂・瑠璃薬師堂がありました。大阪落城直後元和3年(1617)日光に移送中の家康霊柩の大法会が天海僧正の導師で行われた所で、その本堂は明治維新の戦争で焼失した上野寛永寺跡に明治12年(1879)旧幕臣が労を執り仙波新河岸水運を使って運ばれ再建され、今次大戦の大空襲でも焼失を免れ、現在の上野寛永寺の根本中堂として再会することができます。この小道にたたずみ、しばし歴史との出会いをお楽しみ下さい。平成18年(2006)8月15日 当地住人 松岡章次

喜多院を訪ねる前に日枝神社の近くに龍池弁財天で紹介した仙芳仙人の入定塚があると知り、訪ねてみたの。But 場所は非常に分かりづらいところにあるの。地図だと この辺り になるのですが、道順としては日枝神社から南に延びる道に入り、左手に注意しながら歩いて下さいね。人一人がようやく通れるような脇道があるの。入口には紹介した案内板の他にも色々な説明書きが掲示されているのでそれさえ見落とすことがなければ直ぐに分かると思うわ。文末にその名があるように、案内板はいずれも松岡さまの手になるもので、先程紹介した無底坹碑とその抄訳もそうなの。面識はないのですが、松岡さまの労があればこその史跡紹介なの。この場にて改めて御礼申し上げます。m(_ _)m

21. 喜多院 きたいん 12:01着 13:48発

〔 天海大僧正像 〕  天海大僧正(1536-1643) 喜多院第27世住職であり、会津高田(現・福島県会津美里町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興しました。将軍徳川家康公の信頼篤く、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々川越城また喜多院を訪れています。108歳で遷化(亡くなる)後、朝廷より慈眼大師の称号を賜りました。

喜多院の山門前には紹介した天海僧正の銅像が建てられ、続いて白山神社があるの。扁額には白山権現とあるのですが、権現とは仏や菩薩が衆生利益のために仮の姿を現すことを云い、本地垂迹説の流布に合わせて在来の神々が仏や菩薩の垂迹と見做されるようになると、権現号を以て呼ばれるようになったの。白山は富士山や立山と共に日本三山の一つに数えられ、古くから修験道の霊場として知られ、その霊威を期待した慈覚大師こと円仁が喜多院の創建時に守護神として分霊したと云うわけ。

〔 国指定重要文化財 川越大師 喜多院案内 〕  伝説によると、その昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で、本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を勧請して官田50石を寄せられ関東天台の中心となった。正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北條氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第27世の法統を嗣ぐが、同16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき寺領48,000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、4代家綱のとき東照宮に200石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇は全て焼失した。そこで3代将軍家光公は掘田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院等に当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、日枝神社などの建物を数年の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されているのである。

江戸時代までは寺領48,000坪、750石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以後財力の欠如とその広さ・大きさのため荒廃に向かった。戦後、文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり、関係者の並々ならぬ努力によって、その主な建造物の復元修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし、未だ完成しないところも数あり、今日までその整備事業は継続して行われている。現在の境内地は東照宮を含めて14,000坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており、池や掘をめぐらした景勝は、そこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く、厄除元三大師のお参りとともに、四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ、毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。〔 以下省略 〕 喜多院・川越市教育委員会

〔 山門( 重文・建造物 )& 番所( 県指定・建造物 )〕  山門は四脚門、切妻造で本瓦葺。元は後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていた。冠木の上の斗供に表には龍と虎、裏に唐獅子の彫り物がある他、装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さを持っている。棟札も残っており、天海僧正が寛永9年(1632)に建立したもので、同15年(1638)の大火を免れた、喜多院では最古の建造物である。山門の右側に接続して建っているのが番所で、間口十尺(3.03m)・奥行二間半(4.55m)、起(むくり)屋根・瓦葺の小建築で、徳川中期以降の手法によるもので、県内に残る唯一棟の遺構である。平成2年(1990)2月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会

意外に思われるかも知れませんが、現存する喜多院の建物の多くが寛永15年(1638)の川越大火後に再建されたものなの。そんな中でこの山門と鐘楼門だけが大火を免れて今に残されているの。中心的な存在の建物は大火後に再建されたもので、客殿・書院・庫裏は江戸城の建物を移築しているの。とは云え、その幾れもが国 or 県の重要文化財に指定され、歴史の重みを今に伝えているの。因みに、第二次世界大戦時にはこの喜多院にも軍隊が駐屯していたのだとか。それでも戦禍をのがれることが出来たのは、奈良や京都と同じく、川越が空襲の対象から外されていたからとも云われているの。自国軍が駐屯する中で、相手国側は意図して爆撃せずにいてくれていたとは。幾ら非常事態下にあったとは云え、日本人としてはちょっと悲しいシチュエーションよね。

参道を進むと聖徳太子を祀る太子堂が最初にあるの。
篤く三宝を敬え−と宣うた聖徳太子は仏師や宮大工などの職人達もまた大事にしたの。
〔 喜多院太子堂縁起 〕  本年は聖徳太子御忌1,355年に当ります。申すまでもなく、聖徳太子は我が日本の文化史上に於ける代表的偉人で、その政治上の功績は云ふまでもなく、学問・著述・教育・宗教・音楽・芸能・工芸・建築・医療・養護社会施設、その他諸道の祖として信仰されております。特に室町の時代末には仏教宗派にとらわれず、太子を芸道の祖として尊ぶ信仰が生れ、大工左官屋根耺等の仕事師の絶対的信仰を集めたのであります。

当山の太子堂は弘化4年(1847)3月当山末寺金剛院境内地に創建され、明治以後廃寺に伴い日枝神社境内に移し、更に明治42年(1909)3月、現在の多宝塔建立地に移築し、そして昭和47年(1972)11月、この地に立派な六角太子堂として再興したものであります。この度、慈恵堂・多宝塔大修繕の勝縁を記念して、太子堂再興・新太子像奉刻・木遣塚・石垣等建設と共に、川越鳶耺組合(代表西村甚平氏)が中心となり、喜多院太子講の結成を見まして十方有縁の篤信徒に太子のお社を戴けることは誠に佛天の恵み千載一遇の法縁であります。ここに畧縁を誌し記念とする次第であります。昭和51年(1976)2月22日 星岳亮善 識

その太子堂の建物左手には木遣塚と刻まれた石柱も立つの。

〔 木遣塚建設の碑 〕  木遣とは、建築用材に用いる大木を運ぶ時、大勢の力を合わせて引く歌を云い、木曳歌と同義語である。木曳の際の号令の役目をした掛声が木遣歌となった。我々の祖先はその音頭に合わせ真棒と曳綱に命をかけて建設への基礎造りを続けて来たが、現今では、木遣と云えば木遣音頭を以て代表され、諸々の行事に広く歌われるようになった。この度川越鳶組合は近隣鳶組合と計り、ここ喜多院太子堂の聖地に木遣塚を建設し、その由来を記し、祖先の偉業を讃えると同時に鳶の伝統の保持と新時代に即応した業界の発展を祈念しようとするものである。〔 以下省略 〕 昭和50年(1975)4月吉日

〔 多宝塔 県指定・建造物 〕  【星野山御建立記】によると、寛永15年(1638)9月に着手して翌16年(1639)に完成、番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。明治45年(1912)道路新設のため移築(慈恵堂脇)されたが、昭和47年(1972)より復元のため解体が行われて昭和50年(1975)現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺の三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪を載せている。下層は廻縁を廻らし、軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく結合されている。円形の上層に宝形造の屋根を載せているので、組物は四手先を用いた複雑な架構となっているが、これも美事に調和している。相輪は塔の頂上の飾りで、九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠が載っている。この多宝塔は慶長年間(1596-1615)の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。昭和54年(1979)3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会

喜多院の本堂とも呼ぶべき建物が左掲の慈恵堂(じえどう)で、堂内には比叡山延暦寺第18代座主・慈恵大師良源(元三大師)が祀られているの。建物は間口9間・奥行6間の入母屋造で、銅板葺は延暦寺の根本中堂や大講堂、日光の輪王寺三仏堂と同じ造りになっているの。因みに、潮音殿の別称は、喜多院の前身・無量寿寺の開創縁起に由来するの。小仙波貝塚跡の項でも紹介しましたが、嘗ては海が仙波台地の間近に迫り、龍池弁財天のある双子ヶ池でも潮騒がすぐそこにあったの。時を経て現在地に移転した後も、海はとうの昔に遠ざかったはずなのに、ときおり潮騒の音が風に乗って聞こえてきたと云うの。潮音殿の名はその逸話に由来していると云うわけ。

〔 慈恵堂(潮音殿)〕  寛永15年(1638)の川越大火によって現存の山門を残し全ての堂塔を失った際、当山の第27代住職天海大僧正によって再建されたのがこの慈恵堂です。しかし、その後長年に渡り荒れ果てたこのお堂は、第57代塩入亮忠大僧正、第58代塩入亮善大僧正によって次々と修繕され今日に至ります。天井に描かれた家紋は、修繕の際に寄進をされた檀信徒のものです。中央の御本尊は慈恵大師、左右には不動明王をお祀りし、毎日護摩供を修しています。

・小江戸川越七福神 第三番 大黒天
大黒天は古代インドの神様で、密教では大自在天の化身、生産の神様です。
くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと、財宝糧食の大福利益が得られます。
・秋の七草 萩しら露もこぼさぬ萩のうねり哉 芭蕉
萩の名は古い株から芽を出す生え芽(ぎ)から出たと云われ、山萩の別名です。
山野に多く、7-9月に紅紫色の蝶形花を開きます。花言葉−想い
小江戸川越七福神霊場会・(社)小江戸川越観光協会

七福神 慈恵堂の右手には大黒天を祀る大黒堂があるの。今では大黒天と云えば七福神の一神として大黒さまの愛称で知られますが、当初の大黒天は寺院の守護神として厨房に祀られたの。そのルーツはインド神話に登場する荒ぶる神の摩訶迦羅 Mahakala で、Mahaは「大きな」を、Kalaは「黒」を意味することから大黒と漢訳されたの。食は僧侶にとっても根源的なものよね、寺院の守護神として祀られる一方で、豊穣を齎す神としても見做されるようになり、御馴染みの大黒さまに変身していくの。槌が同じ音の「土」に通じることから左手に持つ小槌は豊穣の象徴とされ、背中に負う大きな袋もまた富の象徴になるの。袋を負う姿はお馴染みの大国主命の姿にも似て、大国が「だいこく」とも読めることから両者が合体変身して現在の大黒さまになったと云うわけ。

〔 江戸城からの移築建造物 〕  慶長19年(1614)徳川家康公の寄進により伽藍が整備されましたが、寛永15年(1638)の川越大火により、山門を除く諸堂が焼失しました。再建にあたり三代将軍徳川家光公は江戸城内の御殿を川越に移築する命を下しました。このことは、当時の当山第27世住職天海僧正と将軍家の特別な関係を示すものです。江戸城から移築された建造物は、客殿・書院・庫裏の三棟で、現在国指定重要文化財として保存され公開されています。客殿の中の山水画で飾られた一部屋が「家光公誕生の間]と伝えられ、書院は家光公の乳母(子守り役)である春日局の「化粧の間」と伝えられています。

客殿や書院は昇殿して中を見学( 拝観料:¥500 )することが出来ますが、残念ながら撮影禁止なの。ξ^_^ξとしては建物よりも奥庭の小堀遠州流枯山水庭園がお薦めよ。そうそう、忘れてはいけないわね。こちらで拝観受付をすると慈恵堂(本堂)の内陣も見学することが出来るの。それに、五百羅漢の見学も出来てしまうの。逆に云うと、五百羅漢を見学したい場合には拝観手続きをしないとダメなの。拝観は客殿・書院の見学と、本堂(慈恵堂)・五百羅漢の見学がセットになっているの。と云うことで、建物見学を終えたところで、拝観券を握りしめて、次に訪ねたのは勿論、五百羅漢よね(笑)。

〔 五百羅漢 〕  喜多院の五百羅漢は実際には538体有ります。天明2年(1782)から文政8年(1825)にかけて建立されています。志誠(しじょう)と云う僧侶が発願し、先祖供養・五穀豊饒・仏法興隆等を願う多くの人々のご寄進と協力を得て完成しました。羅漢はお釈迦さまの弟子です。人々から尊敬されるまでに修行が進んだ弟子を表します。当山の五百羅漢は、中央にお釈迦さまが座り、その回りで弟子達が説法を聞いている風景を表しています。尚、お釈迦さまの入滅後、弟子達が何度か集まり、それぞれが聞いたお釈迦さまの教えを纏める「結集(けつじょう)」と云う会議が行われました。そこで纏められた教えが「お経」と云う形で現代まで伝えられています。また、深夜当山の羅漢さんの頭を触ると、一体だけ温かく感じる羅漢さんがいて、昼間その羅漢さんの顔を見ると、自分や身内に似ていると云う伝説があります。

喜多院の五百羅漢は日本三大羅漢の一つにも数えられ、中央の釈迦如来に脇侍する文殊・普腎両菩薩と、左右に祀られる阿弥陀如来や地蔵菩薩に、釈迦の十大弟子と十六羅漢を加えた総勢538体からなるの。羅漢はサンスクリット語の arhan の漢訳・阿羅漢の略称で、出家の最高位を表し、人々から供養を受ける価値のある人−と云う意味だそうよ。因みに、500と云う数は、説明にある結集の際に集まった弟子が500人いたことに由来するのだとか。志誠こと内田善右ヱ門は元々は川越の北田島村出の農民で、後に出家したの。享保19年(1734)に生まれているのですが、内田姓を名乗っていることからすると農民出とは云え、名主などの有力農民だったのでしょうね、きっと。

彼が育った当時は江戸をはじめ各地で五百羅漢の造立と信仰が流行していて、善右ヱ門は江戸本所にあった羅漢寺にも参詣しているの。そのときに羅漢寺の羅漢さまが発するオーラが彼に乗り移ったのかも知れないわね。出家した善右ヱ門は志誠と名乗り、天明2年(1782)に造立を発願して彫像を始めたのがこの五百羅漢の起源なの。残念ながらその志誠も40体ほど出来たところで寛政12年(1800)に亡くなってしまうのですが、その遺志を継いだのが山内学寮の僧侶達で、喜捨を求めて勧進しながら多くの年月を掛けて完成させたの。羅漢さまなのに、その表情や仕草がとても庶民的なのは、志誠が願った自分の姿でもあるのかも知れないわね。

慈恵堂を前にして境内左手には色とりどりの幟に囲まれてお地蔵さまが立ちますが、苦抜き地蔵尊と呼ばれているの。苦抜きは抜苦与楽に由来し、頭を垂れて手を合わせる者を全ての苦しみから解き放ち、楽を与えてくれるの。因みに、この苦抜き地蔵尊は、本間中治と云う方が昭和32年(1957)に堂宇完成落慶と自身が傘寿(80歳)を迎えられた報恩の感謝記念に奉納したものなの。

慈恵堂(本堂)左手奥に進むと石組みの塀に囲まれて川越城主を務めた松平大和守家の廟所があるの。以前は廟内をめぐることも出来たのですが、現在は廟門をくぐり抜けたところまでの参観になっているの。なので、ここでは以前訪ねたときのものを以て紹介していますので御了承下さいね。因みに、細部まで見てみたい−となると難しいのですが、全体像なら廟門を前にして背後には盛り土された尾根があり、その尾根伝いに小径が走るのでそこからなら丸見えよ。

〔 松平大和守家廟所 市指定・史跡 〕  松平大和守家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を藩祖とする御家門、越前家の家柄である。川越城主としての在城は明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで、7代100年にわたり、17万石を領したが、この内川越で亡くなった5人の殿様の廟所である。北側に4基あるのは右から朝矩(とものり:霊鷺院)、直恒(なおつね:俊徳院)、直温(なおのぶ:馨徳院)、斉典(なりつね:興国院)の順で、南側に一基あるのが直侯(なおよし:建中院)となっている。幾れも巨大な五輪塔で、それぞれの頌徳碑(しょうとくひ)が建ち、定紋入りの石扉をもった石門と石垣がめぐらされている。平成5年(1993)3月 川越市教育委員会