≡☆ 勝浦ビッグひなまつり ☆≡
2008/02/23

前回訪ねた際に勝浦では市を挙げてのビッグひな祭りが毎年開催されていることを知り、その規模の凄さに是非この目で見たいと思っていたのですが、幸いにも早々とその機を捉えて出掛けることが出来ましたので紹介してみますね。尚、ひな祭りには関係は無いのですが、前回拝観出来ずに終えていた覚翁寺についても改めて紹介していますので、姉妹編の 勝浦の岬めぐりと市内散策 と併せて御笑覧下さいね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

墨名交差点〜朝市通り〜覚翁寺〜市立図書館会場〜遠見岬神社〜勝浦市市民会館会場

1. JR新宿駅 しんじゅくえき 7:19発

新宿わかしお

新宿駅からは外房方面に出掛ける際のお決まりコースにしている新宿わかしお号に乗車しましたが、勝浦ビッグひな祭りの初日と2日目には臨時特急のかつうらひなまつり号が運行されていたの。と云っても、最初から知っていた訳では無くて、復路に利用した列車が偶然にもそのひなまつり号だったことから分かったことなのですが、ひな祭りにこだわるあなたにはお薦めのイベント列車ね。因みに、ダイヤは新宿発8:23で、勝浦着が10:17と申し分のない時刻設定になっていましたが、2日間だけの限定運行なので御注意下さいね。補足ですが、かつうらひなまつり号に関しては ′08 の運行実績を元に掲載しましたが、将来にわたり運行が保証されるものではありませんので、お出掛けの際には最新情報を御確認下さいね。乗車券:¥1,890 特急券:¥1,300 〔 ′08 現在 〕

2. JR勝浦駅 かつうらえき 9:08着

お雛さま 雛壇 雛壇

列車から降り立つともうそこはひな祭り一色なの。ホームの屋根を支える柱と云う柱にはかぐや姫ならぬお雛さまが竹筒に収められるようにして飾られ、改札口前には大きな雛壇が4基も設けられていたの。七段飾りなど目にしたことのないξ^_^ξはその豪華さに思わず見とれてしまいましたが、これでもほんの序の口に過ぎないことをこの先知らされたの。これから紹介するビッグひな祭りですが、勝浦市のオリジナルかと思いきや、実は徳島県勝浦町がご本家さまなの。同じ勝浦を冠する縁から、2001年にその勝浦町より7,000体余りのひな人形を譲り受けて開催したのが始まりで、今ではその数も20,000体を優に超えると云うのですから、分家と雖もご本家さまに負けない規模になりつつあるの。

会場案内図 けれど、一口に20,000体と云っても、それだけの数のひな人形を一堂に会して展示するのは先ず不可能よね。そこで勝浦市では、市民会館を始めとして図書館や公民館などの公共施設を総動員して分散&展示しているの。加えて、ひな祭りの開催期間中は商店街の店先にも趣向を凝らしたひな人形が飾られ、街の至る所で目にすることが出来るの。参考までに頂いてきた ′08 の会場案内図をアップしておきますので、左の画像をクリックしてみて下さいね。

表示するには AcrobatReader が必要なの。
インストールが未だの方は左記のサイトからダウンロード〔 無償 〕して下さいね。

3. 墨名交差点会場 となこうさてんかいじょう

勝浦駅から遠見岬神社に向かう途中に設けられていたのがこの交差点の一角を利用した墨名交差点会場で、大きな特設雛壇には400体ほどのひな人形が飾られているの。この交差点のあるR128を渡るとそこからは商店街が続くのですが、お祭りの期間中は一般車両は通行止となるので車の往来を気にすることなく店先に飾られた思い思いのお人形さんを見学することが出来るの。ここでは数に任せての派手さは無いのですが、それぞれに個性があって見ていても飽きないの。

4. 商店街&朝市通り しょうてんがい&あさいちどおり

ここで商店街の店先に飾られていたひな人形の幾つかを皆さんにも紹介してみますね。左掲はお寿司屋さんのものですが、それらしい飾り付けよね。次は元は網元の家だったのでしょうか、大漁旗に囲まれて勇ましい、その名も大漁祈願雛。仕丁達が持つ縄網に御注目下さいね。お米屋さんの店先に飾られていたのはユニークなポケモン、アンパンマン、ウルトラマンのひな人形。他にも食事処の店先に設けられた坪庭にさり気なく飾られていたり、演出もまた様々。中には愛娘の名を添えたひな人形もあり、我が子の健やかな成長を願う親の思いがひしひしと伝わってくるの。

ところで、勝浦と云えば全国的に有名なのが朝市よね。石川県の輪島、岐阜県の飛騨高山のそれと並ぶ三大朝市の一つで、毎週水曜日だけは商店街に合わせてお休みするものの、元旦以外は毎朝開かれると云うのですから驚きよね。訪ねた時には顔馴染みの地元客の他にもひな祭りをお目当てに訪ね来られた観光客を含めて大賑わいでした。

朝市 朝市 朝市通り 高照寺

山海の産物が所狭しと並べられる店先でちょっと気になったのが仙人の杖のような形をしたこの山芋で、自然薯(じねんじょ)とも呼ばれるように、山野に自生する野生種なの。今では栽培品種の長芋にすっかり主役の座を奪われてしまいましたが、値札を見て更にビックリ。一番手前の小振りのものでも¥1,000を超え、姿形が立派なものになると¥4,000近くするの。自然薯は古くから滋養強壮に効果ある山菜として珍重されて来たそうですが、お値段も今となっては朝鮮人参並みで、容易には手が出せそうにはないわね。益々以て不老長寿に効き目がありそう ‥‥‥(^^;

朝市の店先を覗き見ながら通りを辿ると高照寺の白塀が見えて来ますが、高照寺の門前は朝市の発祥の地なの。
その朝市や高照寺の詳しいことを知りたい方は、勝浦の岬めぐりと市内散策の 高照寺 の項を御笑覧下さいね。

雛壇 朝市通りを抜けると再び商店街に出ますが、お魚屋さんの隣で特設雛壇の最上段に飾られていたのがこの大きなクマちゃん雛。何故クマちゃん雛なのかはここでは余り深く追究しないようにしましょうね。(^^; そのクマちゃん雛の傍らでは鯉のぼりならぬ鰹のぼりがはためいていましたが、お魚屋さんの隣でもあるし、鰹の水揚げで知られる勝浦漁港を控えることからこれは頷けるわね。とりわけ愛らしいクマちゃん雛の集客力は抜群で、小さな子供さんを連れたお母さん達にとっては絶好の記念撮影ポイントになっていました。もっとも子供達の方では沢山のひな人形よりもクマさん雛だけがお目当てみたいね。

5. 覚翁寺山門前会場 かくおうじさんもんまえかいじょう

ここでは山門前の特設雛壇に400体程のひな人形が飾られていましたが、遠目には同じように見えるひな人形も近づいてよくよく見ると顔の表情や衣装も多彩なの。ここでちょっとひな祭りを離れて覚翁寺の境内を拝観させて貰いましたので紹介してみますが、興味の無い方は読み飛ばして下さいね。実は前回、勝浦に訪ね来た際には生憎と本堂の屋根の葺替工事中で、加えて境内では法事が営まれていたことから拝観を諦めていたの。そんな個人的な事情から訪ねてみましたので、興味のある方はよろしくお付き合い下さいね。山門を潜るとひな祭りの賑わいは嘘のように、境内は静寂そのものでした。現在は出水山覚翁寺を正式な山号寺号とする、浄土宗寺院。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

最初に山門脇に掲示されていた由緒書を紹介してみますが「当山は慶長16年 上総国夷隅の郡 当城主 植村土佐守源朝臣泰忠公の開基にして 植村家歴世の菩提所なり」とあるように、覚翁寺は江戸時代に勝浦城主を封じた植村氏一族の菩提寺なの。確かに浄土宗は南無阿弥陀仏を唱和することでのみ極楽浄土に往生出来ると云う分かり易い教えで単純明快なのですが、縁起となるとこれでは余りにも淡泊よね。(^^; なので少し修飾してみますね。

調べてみると、前身となる浄林寺と云う寺院が最初に創始されたみたいね。由緒書にもあるように勝浦城主の植村泰忠が慶長16年(1611)に信譽南光上人を開山に迎えて開基したもので、当初は勝浦城内にあり、植村家歴代の菩提所として創建されたと云うの。後に二代目城主の植村泰勝が死去したのを受けて寛永11年(1634)に現在地に移り、寺号も泰勝の幼名・覚翁丸に因み、覚翁寺に改称したと云うわけ。なので実質的には三代目の植村泰朝が創建したものと云えそうね。

本堂の右手に続く石段の先には植村泰忠に始まり、泰勝、泰朝、忠朝、正朝の五代にわたる墓所が設けられているの。勝浦市教育委員会が設置した案内板に依ると、墓塔は江戸時代前期から中期にかけての石造美術として秀逸であることから市の有形文化財にも指定されるそうな。その史料的な価値のほどは門外漢のξ^_^ξには分かりませんが、どれが誰のものなのか、同じく案内板の記載を元に紹介してみますね。石段を登ると正面に整然と並ぶ三基の墓塔は右から順に三代目の泰朝、忠朝、正朝のものなの。

石段右手には所狭しと三基の墓塔が並び立ちますが、中央が植村泰忠のもので、左端が泰勝の墓塔よ。初代と二代目のものにしては些か窮屈そうな佇まいなのですが、それは後から改葬されて来たことに依るみたいね。縁起のところで触れたように、元々の墓所は浄林寺にあり、大正12年(1923)に刊行された【千葉県夷隅郡誌】には植村泰忠の墓として「勝浦町勝浦の南東字新地ヶ台に在り、地積八十五坪云々」と記されることから、昭和になってからの改葬ではないかしら。それにしても移設前の墓地の広さが85坪と云うのは流石ね。(^^;

因みに、植村泰忠の墓塔には「慶長十六年亥正月十九日七十三歳卒」とあり、当時としてはかなりの長寿と云えるのでは無いかしら。その施政にしても朝市を設けて産業を奨励するなど概ね善政だったようよ。余談ですが、二代目泰勝の墓塔には浄林院殿覚翁大居士の法名が刻まれているの。覚翁寺の前身となる浄林寺の寺号もまた泰勝の法号に因むと云うわけね。ところでこの覚翁寺にはもう一つ、市の文化財に指定されているものがあるの。それは本堂内の欄間の彫刻で、江戸時代に名工として知られた「波の伊八」こと、武志伊八郎信由作の透かし彫りが残されているの。興味のある方は忘れずにね。その本堂前では桃の花ならぬ寒緋桜がまさに見頃を迎えていました。

寒緋桜 寒緋桜 寒緋桜 寒緋桜

6. 市立図書館会場 いちりつとしょかんかいじょう

覚翁寺の境内と敷地を接するようにして建つのが市立図書館で、2Fには御殿雛を集めた山本コレクションや、全国22県60数種類に及ぶ郷土雛の榎本コレクションが展示されていました。一口にひな人形と云っても時代や祭られた地域や背景などで多種多様の姿形があるのね。

中でも雛飾りとしては技巧の極致にある山本コレクションの御殿飾りは圧巻ね。説明書きには「京都では御殿の中に小さな一対の雛を飾る形式が流行した・・〔 中略 〕・・御殿は紫宸殿(御所)になぞらえたものと思われ、御所の天皇家をかたどったとも考えられるものがある」とありましたが、初めて目にしたξ^_^ξはそれこそ目が点になってしまったの。会場にはその他にも掛け軸に描かれた極彩色のひな人形や、貝遊びの貝殻に描かれたものなどの変わり種も展示されていましたが、この図書館会場を訪ねる前と後ではひな人形に対する見方が一変してしまうと思うわ。

図書館会場では繊細にして典雅な雛飾りの数々を目にすることが出来ましたが、煌びやかな衣装を纏うひな人形は桃の節句ならではのものね。勿論、男の子には端午の節句があるけれど、桃の節句に較べたら当たり前かも知れないけど質実剛健よね。でも、このひな祭り、いったいどういうことから始まったのかしら?調べてみると、実は桃の節句も端午の節句も深〜いところでは繋がっていたの。それに桃の節句のルーツを辿ると最初は決して女の子だけのお祭りと云うわけでは無かったようよ。ここからはビッグひなまつりの御案内を離れてひな祭りそのものについて紹介してみますが、そんなの、どうでもいいじゃん!と云う方は思いっきり読み飛ばして下さいね。

改めて云うまでもなく、ひな祭りは女の子の健やかな成長を願い、ひな人形や桃の花を飾りつけてお祝いする伝統行事ね。沢山の供の者を従えたお内裏さまやお雛さまの七段飾りなど、ひな人形の豪華さにどうしても目が留まりがちですが、今のように華やかなお祭りとなったのは江戸時代からのことで、その始まりは平安時代の中頃と云われているの。けれど、最初からひな人形が作られた訳ではないのよ。その頃は同じ人形でも「にんぎょう」では無くて「ひとがた」だったの。

現代のような気象観測技術や医療技術を持たない当時の人々は、天変地異や病もみんな穢れのせいと信じていたの。その穢れから逃れることで日々の安寧や無病息災を得ようと、我が身の穢れを祓い、人形(ひとがた)に託して川や海に流したと云うわけ。流し雛の起源とされるのがこの人形流しで、【源氏物語】の須磨の段にもその様子が記されているの。

弥生の朔日に出で来たる巳の日 「今日なむ、かく思ほすことある人は、禊し給ふべき」と
やよひのつひたちにいできたるみのひ けふなむかくおもほすことあるひとは みそぎしたまふべき と
なまさかしき人の聞こゆれば 海面もゆかしうて出で給ふ いとおろそかに
なまさかしきひとのきこゆれば うみづらもゆかしうていでたまふ いとおろそかに
軟障ばかりを引きめぐらして この国にかよひける陰陽師めして祓へさせ給ふ
ぜじょうばかりをひきめぐらして このくににかよひけるおんみょうじめしてはらへさせたまふ
舟にことごとしき人形のせて流すを見給ふに・・・・・
ふねにことごとしきひとがたのせてながすをみたまふに

なまさかしき
知ったか振りをする
軟障(ぜじょう)
ぜんじょうとも。本来は唐絵などが描かれた装飾性の高い間仕切り用の幕布のこと。
ですが、この場面では単なる白布と考えた方が良さそうね。
ことごとしき
身の丈と同じ位の

更に、この穢を水に流すと云う考え方は、お隣の中国から伝えられた曲水の宴にあるとも云われているの。曲水の宴は、水の流れにお酒を注いだ杯を浮かべ、自分の前を流れ過ぎる前に即興詩を創って詠むと云う風流なもので、奈良時代には既に日本に伝えられていたみたいね。でも、これでは「流す相手が穢と即興詩じゃあ全然違うじゃねえか、関係ねえんじゃねえの」と思われるかも知れないわね。実は、曲水の宴は魔除けや邪気を祓う行事がお祭り化したものなの。

中国では周の時代と云うのですから紀元前のお話ね。人々は3月の最初の巳の日になると水辺で手足を洗い、厄を落とし、芳香を発する草で穢を祓ったと伝えられているの。それが上巳の祓とか上巳の節句(節供)と云われるもので、魏の時代になると歳事の日取りも3日に固定され、時の流れの中で本来の厄流しが形を変えてお祭り化されたの。【荊楚歳時記】にも「四民並びに江渚池沼の間に出で清流に臨みて流杯曲水の飲を為す」と記されることから、6世紀頃には既に曲水の宴が催されるようになっていたみたいね。その時に飲まれていたのが桃花酒なの。

古来、中国では「桃は五行の精を有し、邪気を圧伏して百鬼を制す【同書】」とあるように、桃の実には魔除けや邪気を祓う霊力が宿ると考えられ、桃の花を浮かべた桃花酒を飲み、厄や万病を避けたと云われるの。実はこの桃花酒こそが白酒のルーツなの。それがどうして白酒に化けたのかって?それは後のお楽しみよ。(^^;

ねえねえ、どうして3/3にお祝いをするようになったの? それはね、陰陽五行説が関係してるの。ちょっと難しいけど我慢してね。

古代中国では森羅万象を陽と陰の二つの相反する気の働きと捉えたの。お陽さまが照れば当然そこには影が出来るわよね。空があれば地面があるように、常に相対するものがあるからこそ秩序が保たれていると考え、五行説では更にその陰陽が細分化されて木火土金水の五元素を生じ、それぞれの気が輪廻・作用することで世界が成り立つとされているの。季節の移ろいもまたその五気のなせる業として春夏秋冬に配当され、その主な節目となるのが五節句なの。中でも奇数月の奇数日は陽の極まった凶日とされ、厄除けや穢を祓う祭事が行われたの。

1/7 3/3 5/5 7/7 9/9
人日じんじつ 上巳じょうし 端午たんご 七夕しちせき 重陽ちょうよう

ねえねえ、春夏秋冬に五気を割り当てようとすると一つ余っちゃうけど・・・ そうね、普通に考えたらちょっとおかしいわね。でも、季節と云うのはいきなり変わる訳ではないわよね。昨日までは春だったのにきょうからいきなり夏になるわけではないわね。同じように夏から秋になるにも、その間には緩やかな移ろいがあるわよね。五行説では木火金水に春夏秋冬を割り当てる一方で、季節の移ろいは土気のなせる業と考えられたの。じゃあ、どう云う割り当て方をしたのかと云うと、春夏秋冬それぞれの後半の18日に割り当てたの。土気の働きがあればこそ季節はめぐり、生命の輪廻転生が育まれると云う訳。

ねえねえ、季節と云えば、うちの庭にある桃の花は3月に咲いたことなんて無いわ。
なのに、どうしてひな祭りには桃の花が飾れるの?
それは温室栽培のおかげなの。普通ならどんなに早咲きでも3月中旬ね。 じゃあ、昔は桃の花が無いのに桃の節句と云っていたんだ。変なの。 そうじゃ無いの。昔は旧暦だから新暦では4月のことになるの。
だから桃の花が咲いていたとしてもおかしくはないのね。
ふ〜ん、そうなんだ。

ところで、今までの説明では女の子のお祭りとなった背景が分からないわね。実はひな祭りは複数の習俗習慣が組み合わさって出来上がったもので、上巳の祓と共に忘れてはいけないのがひいな遊びなの。奈良時代に穢を祓う人形(ひとがた)が生み出された一方で、幼子達の玩具としてのお人形もつくられるようになり、平安時代になると貴族などの上流階級子女の間では紙などで作られたお人形を使ったひいな遊びが日常的に行われるようになっていたみたいね。因みに、「ひいな」は小さくて愛らしい人形を指し示す雅ことば(異説あり)で、乱暴な云い方をすれば、ひいな遊びは今で云うところのリカちゃん人形の世界ね。

お人形さんがあればそこには当然、身廻品のミニチュア・セットもあったみたいなの。【源氏物語】の若紫や末摘花の段にも

雛遊びにも 絵描き給ふにも 源氏の君と作り出でて 清らなる衣着せかしづき給ふ
ひひなあそびにも えかきたまふにも げんじのきみとつくりいでて きよらなるきぬきせかしづきたまふ
雛など わざと屋ども作り続けて もろともに遊びつつ こよなきもの 思ひの紛らはしなり
ひひななど わざとやどもつくりつづけて もろともにあそびつつ こよなきもの おもひのわずらはしなり
絵など描きて彩り給ふ 萬にをかしうすさび散らし給ひけり
えなどかきていろどりたまふ よろずにをかしうすさびちらしたまひけり
髪いと長き女を描き給ひて 鼻に紅をつけて見給ふに
かみいとながきむすめをえがきたまひて はなにべにをつけてみたまふに

などとあり、清少納言も【枕草子】にすぎにしかた恋しきものとして、枯れたる葵と共にひいな遊びの調度を揚げているの。紫式部も清少納言も幼い頃にはひいな遊びをして育ったのでしょうね。

時を経て室町時代になると、宮中や上級武家の間では三月三日にお人形を贈呈する習慣が生まれるの。贈られた方はそのお人形を一晩自分の枕元に置き、翌朝それを寺社に持ち込んで厄除けやお祓いなどをしたの。最初は一回きりで川に流されることから粗末なものだったのですが、ひいな遊びのお人形と混同されるようになると、高価なものへと変身していくの。それはそうよね、自分が使うのであれば質素なもので良いけど、ひとさまに差し上げるとなればそれなりのものを贈らなければならないものね。ましてや宮中や上級武家とあればなおのことね。

そうなると毎年新しくお人形を作って贈るのは費用的にも大変で、贈られた方でも立派なお人形を一回きりで用済みにするのは勿体ないと思うようになったの。そこで厄除けやお祓いをした後のお人形は新しいものと同じように神聖なものとみなされるようになり、翌年に再び使用するようになったの。それでもその頃は未だ穢を祓う儀式が中心で、一方のひいな遊びにしてもおままごとの延長線上にあり、雛遊びだったの。

やがて戦乱の世が落ち着き、江戸時代を迎えると、両者が結びついてひな祭りの原型が出来てくるの。その頃になると祓いの撫物としての人形なのか、玩具としての人形なのかの区別も無くなるの。中でも一大転機となるのが寛永6年(1629)に京都御所で行われたひな祭りなの。徳川幕府第二代将軍秀忠の娘・和子は元和6年(1620)宮中に入内して、後に後水尾天皇の中宮となるのですが、その後水尾天皇が幕府側との確執から寛永6年(1629)に突然、第二皇女の興子内親王(明正天皇)に譲位してしまうの。本来であれば高仁親王に譲位するところなのですが、残念なことに前年に夭折していたの。

東福門院と名を改めた生母の和子は僅か6歳にして即位した娘の幸せを願い、盛大な祭事を催したの。ですが、それまでの慣例からすると、自らが天皇になると云うことは将来嫁入りする機会を失うことで、娘の嫁ぐ日を夢見ていた和子にすれば、女としての幸せを得ることなく終えてしまうであろう娘の境遇が不憫にも思えたのでしょうね、成長した娘が嫁ぐさまをひな祭りに仮託してもいるの。女雛のモデルとしたのが小野小町なら、男雛は在原業平と云う絶世の美男美女の組み合わせで、そこには愛娘に寄せる並々ならぬ思いがみて取れるわよね。因みに、この時に初めて座り雛がつくられたの。今でこそ当たり前かも知れないけど、それまではずう〜っと立雛だけだったのよ。

それを期に幕府の大奥でもひな祭りが行われるようになり、やがて武家一般の間にも浸透し、ひな人形が武家子女の嫁入り道具の一つと見なされるようにもなるの。嫁ぎ先で我が娘に肩身の狭い思いをさせてはなるまいて。当家の格の方が上であることを見せてくれようぞ!と必然的にひな人形も豪華さを増すようになったの。そうなると人形に着せる装束も華美になり、元禄期の繁栄を背景に華美の頂点を極めたのが元禄雛で、豊かな町人文化に支えられて町家にも広がっていったみたいね。華美を極めた一方で享保年間(1716-36)に大型化を極めたのが後程紹介する享保雛。そのエスカレート振りにあわてた幕府は再三に亘り、その華美を戒めるお触れを出す程だったの。

それでもその頃は内裏雛が中心で、今のように雛壇に多くの随臣や女官を従え、小道具も金襴緞子を纏うなど、華麗にして多岐に及ぶようになったのは江戸時代末期頃からのことなの。明治時代になると新政府は太陽暦を採用し、従来の節句行事を廃止して新たに祝祭日を設けたのですが、一度大衆化した行事はそう簡単には無くならないの。我が子の健やかな成長を願わない親なんていないわよね。現在では住宅事情などから形を変えつつはあるのですが、それでも桃の節句は端午の節句と共に確実に受け継がれていると云うわけね。

雛壇 能書きが長くなってごめんなさいね。図書館会場を後に次の遠見岬神社へと向かいましたが、その途中で見かけた飾り付けを幾つか紹介してみますね。左端は建物の外階段を雛壇に見立てて飾られた雛人形ですが、2Fに用事が出来た時には家人の方はどうするのかしら?(^^; 2番目は建物自体が国の登録有形文化財と云う老舗旅館の 松の家 さん。吊し雛が趣を添えていました。勿論、玄関の上がり框には高名な人形師の手になる堂々としたひな人形が。右側の2枚はクリーニング屋さんで見かけた飾り付けで、ξ^_^ξのお気に入りよ。

松の家 松の家 ひな飾り ひな飾り

7. 遠見岬神社 とみさきじんじゃ

そして観光パンフなどですっかり有名になったのがこの遠見岬神社の参道石段を雛壇に見立てたひな飾り。57段の石段に1,200体程のひな人形が飾られているの。この雛壇に惹き付けられるようにして大勢の方が押し寄せて来るので、雛壇前の参道は満員の通勤列車並みの混雑よ。ようやく雛壇の前に辿り着いてもゆっくりとしてはいられないの。お人形さんをファインダーに収めてみてもシャッターを押す瞬間に人混みに押されてレンズはあらぬ方向を捉えていたりして。仕方が無いので後はカメラ任せの連写モードよ。掲載画像はその中のマトモな部類の一枚なの。訪ねた時には風が強くて飾り付けられたお人形さんがそっぽを向いていたり、(^^; 倒れ込んでいたりしましたが、これだけの数となると手直しするのも大変ね。

雛壇 この遠見岬神社の雛壇ですが、聞けば期間中は毎日朝夕に設置と撤去が続けられると云うのですから驚きよね。 勝浦市HP には飾り付けの様子が掲載されていますが、有志の方々が一時間余りも掛けて行うとのこと。それに、屋外展示ですから雨が降ったりして来たら取り込まなくてはいけないし、ひな祭りの期間中はボランティアの方々は気が休めないの。ξ^_^ξのような脳天気な旅人は「すっご〜い、綺麗ね!」で終えてしまうけれど、舞台の裏側に有志の方々の支えがあればこそね。

8. 勝浦市民会館会場 かつうらしみんかいかんかいじょう

そして展示するひな人形の数で最大規模を誇る会場となるのがこの市民会館。その数、何と10,000体を超えると云うのですからもう開いた口がふさがらないわよね。一つ一つの雛壇にしても五段七段どころでは無いの。その巨大な雛壇の前に立つと端の方に飾られたお人形さんはもうどういう衣装を纏ってどんなお顔をされてるなんて分からないの。高さにしても最上段は天井に届きそうな高さにあるので飾られている内裏雛の表情も分からない位なの。ここではひな人形の数の多さに誰もが圧倒されていました。

ここからは会場内で収めてきた画像と共にひな祭りの蘊蓄話を紹介してみますが、俄仕込みの知識で記述していますので、間違いがあるかも知れません。お気付きの方はお知らせ下さいね。

童謡【うれしいひなまつり】に♪お内裏さーま と お雛さま ふーたり並んで澄まし顔♪と謡われるお内裏さま、歌の中では男雛を指しているのですが、本当は男女雛を合わせたものが内裏雛なの。内裏とは御所のことで、天皇&皇后のお住まいね。なので、内裏雛は天皇&皇后のお姿を模したもので、どちらが欠けてもいけないの。因みに、本来の内裏さまの呼称は内裏雛の丁寧語で、三人官女以下その他大勢(笑)は供揃いと呼ぶの。今では【うれしいひなまつり】の歌詞の方が余りにも有名になってしまい、お内裏さま=男雛が定説になってしまいましたね。

ところで、お内裏さまの並び順ですが、関東と関西では左右が逆なの。今では意識することも無いのですが、古来、左の方が右よりも位が上と考えられていたの。その背景となるのが天子南面の思想で、古代中国では天子は南を向いて位置するものと考えられたの。それが日本に伝えられ、天皇が御所で南を向くと陽が昇る東は左手になり、それを上とすると反対の西は右手となり、下にあたると考えられたの。左大臣と右大臣では左大臣の方が偉い役職名なのも同じ理由ね。

永く天皇の御座所が設けられていた関西ではその伝統を重んじ、左を尊しとして男雛を雛壇に向かって右手に配置するの。因みに、左大臣や左近の桜は東西を問わず雛壇に向かい右側に並べるの。ちょっとややこしいかも知れないけど、この場合の左右の基準は飽くまでも男雛=天皇が中心ね。京都では京都御所の東側が左京区で、西側を右京区と呼ぶのも同じ論理よ。

ねえねえ、関東ではどうして男雛を雛壇に向かって左側に置くの? それはね、明治時代になり、宮中に於いても西洋の文化を取り入れたことに由来すると云われているの。ヨーロッパでは男性は左に、女性は右に立つのが慣例化されていて、それに倣って立つ位置を変えたと云うの。でも、即位礼に両陛下がお揃いで臨まれたのは明治天皇でも大正天皇でもなく、昭和天皇が初めてなのよ。その即位礼の際の両陛下の位置関係が雛人形の飾り方にも反映されるようになったみたいね。

ところで、ひな祭りにはつきものの菱餅だけど現在のように桃色・白・緑色の三段重ねになったのは意外に新しくて明治時代になってからのことなの。桃色は桃の花を表し、白は残雪と共に清らかなさまを、緑は新たに芽吹く若草を表すものと云われているのですが、元々の菱餅は若草色の蓬(よもぎ)餅だけだったの。その蓬餅にしても古くはハハコグサと蜜を混ぜたものだったようよ。何でそんなお餅が作られたのかと云うと、これもまた厄除けや禳災の信仰があったみたいね。古代中国では植物の持つ芳香にも魔除けや邪気を祓う霊力があると信じられていたの。

草餅が作られるようになったのは、中国は周の時代の幽王が、ハハコグサの汁を混ぜた草餅を廟に供えたところ、その後無事に天下を治めることが出来た故事に因むとされるの。それが平安時代に日本にも伝えられ、室町時代になり、広く繁殖していて同じく霊力が宿るとされた蓬がハハコグサにとって変わるようになったの。この蓬餅が祝いの席に多く用いられるようになり、その形が菱形に切りそろえられていたことから菱餅と呼ばれるようになったみたいね。因みに【荊楚歳時記】には

是の日 黍麹菜の汁を取りて羮を作り 蜜を以て粉に和す 之を龍舌と謂い 以て時気を厭う
このひ しょきくさいのしるをとりてあつものをつくり みつをもってこなにまぶす これをりゅうぜつはんといい もってじきをはらう

とあり、この黍麹菜と云うのがハハコグサのことで、解説には「気を益し、気の洩れるを止め、痰を除き、時気を厭い、熱を去る効用があり、米粉と混ぜて糗を作ればすこぶる美味」とあるのですが、どんな味がするのかしら。訂正ですが、の字は本当は米偏が正しいの。残念ながら表示不能ですので代用文字で御容赦下さいね。

ねえねえ、菱餅はどうして菱形をしているの?普通のお餅は丸とか四角なのに。 そうね、菱形には何か特別の意味がありそうよね。ξ^_^ξも気になって調べてみたんだけど残念ながらこれね!と云うようなものは見つけられなかったの。色々な説があることからすると、長い年月の中で様々な要素が組み合わされて今日に至っていると云うことのようね。そんな中で、真偽は別にして面白いお話しを見つけたの。

むか〜し、昔のインドでのお話じゃ。村には大きな河が流れておってのお、大雨が降るたんびに洪水がおきるもんじゃで村人達はすっかり難儀しておった。ある年のことじゃった。村で河に橋を架けようと云う話になり、盛り土をして堤をつくり始めたんじゃが、出来上がりかける頃になると大雨が降って洪水で流されてしもうて、一向に工事が進まなんだ。村では誰云うとなく、洪水は河底に住む龍の為せるわざ、その龍の怒りを鎮めるためには可愛い女の子を生け贄として捧げにゃならん−と云う話をしておった。

そんなある日のことじゃった、村に天狗が現れてのお。天狗は龍の使いじゃ、村人の話しを河底で聞いておった龍は天狗に女の子を選ぶ役目を負わせたと云うわけじゃ。天狗は主の龍が好みそうな女の子がおらぬかと村中を探し廻ると、やがて一人の可愛らしい女の子を見つけたんじゃが、その女の子は既に七人の娘を龍に捧げた貧しい農夫の末娘じゃった。農夫は、せめて、せめてこの子ばかりはお助けを−と哀願し、代わりに菱の実を差し出したのじゃ。菱の実はたべると子供と同じ味がすると云われておってのお、主の龍もこれなら満足するだろうて−と天狗はその菱の実を持ち帰ったそうじゃ。それからというもの、洪水もなくなり、河も静かな流れに戻ったと云うことじゃ。

天狗は日本で生まれた物の怪よね。それがインドでの昔話に登場するのもちょっと変よね。それはさておき、鬼子母神とザクロの説話に、八岐大蛇神話をブレンドしたようなお話しなのですが、菱餅には女の子の代わりとなって命を救ってくれた菱の実に感謝し、健やかに成長できるようにとの願いが込められていると云うわけ。

もう一つ、菱餅と合わせて忘れてはならないのが白酒ね。【うれしいひなまつり】にも♪す〜こし白酒めされたか♪と謡われる白酒ですが、甘酒と同じものと思われていらっしゃる方が多いのですが、本当は別物よ。白酒は餅米にみりんや麹、或いは焼酎などを加えて一ヶ月程仕込んでおいたものを臼でひくの。なので出来上がりが甘酒のように見えるのですが、その製法からお分かりのように立派なお酒よ。アルコール度も10%前後あるの。なのでいくらお祝いの席だからと云って子供が飲んだりしてはいけないのよ。その点、甘酒なら安心ね。

その白酒ですが、前述の桃花酒に由来するの。その桃花酒が白酒に変わるのは江戸時代の文化年間(1804-18)のことで、なぜ白酒になったかと云うと、実は仕掛け人がいたの。(^^;  江戸は神田鎌倉河岸(現:千代田区内神田の一部)に豊島屋と云う酒屋さんがあり、ひな祭りを控えたある夜、その店の初代の夢枕にお雛さまが現れて白酒の造り方を伝えたの。これこそ神のお告げとばかりに、主の十右衛門さんが教えられたとおりに白酒を醸してみると殊の外美味で、飛ぶように売れて、それからと云うもの、お店は大いに繁盛したの。

【江戸名所図会】にも「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」としてその繁盛ぶりが描かれているのですが、2/25の白酒の売出日には買い求める人達が殺到して怪我人が出るかも知れないからと医者までもが待機したと云うのですから凄まじいわね。気になる方は 豊島屋 さんのサイトを御参照下さいね。余談ですが、ひな祭りが過ぎた後も人形を片付けずにいると婚期が遅れるという巷の噂は、どうやら昭和初期につくられた迷信のようね。どこの誰がどんな理由からそんなことを吹聴し始めたのかは不明だけど ‥‥‥

最後になってしまいましたが、この勝浦市民会館の展示会場で忘れてはならないのが日本最大と云われる享保雛よ。享保雛については先程触れてみましたが、数に圧倒されたところで今度はその大きさに圧倒されて下さいね。左右に普通サイズの七段飾りが置かれていますのでその大きさがお分かり頂けるかと思いますが、是非、皆さん御自身の目で御覧になることをお薦めしますね。もうここまで来るとひな人形を通り越して別ものよね。御覧になった暁にはカルチャー・ショックを受けるかも知れなくてよ。

吊るし雛 会場内の通路には、幼稚園児の手作りのひな人形や、御覧のような吊るし雛も飾られていました。吊るし飾りは布製のお人形などを吊してひな人形と共に飾るもので、素朴な表情からは作り手の願いが直に伝わって来ますよね。このビッグひなまつりは、今回紹介した勝浦会場の他にも、地区会場として上総興津公民館や各地の集会所などでも展示されているの。加えて、勝浦海中公園センターなどの観光施設での展示を含めると、とても一日だけでは見切れないわね。勝浦市全市を挙げての一大イベントなのですから、見に行く方もかなりの気合いが必要よ。気合いだ!気合いだ!気合いだ〜ッ!!(^^;

9. JR勝浦駅 かつうらえき

貝細工 グリコのオマケのお話しで恐縮ですが、強風のせいで帰りの特急列車が軒並み運休してしまったの。フェリーでもあるまいし、強風位でどうして運休してしまうのかしら?多少遅れても仕方がないから徐行運転すればいいじゃないの?と訝しげに思っていたのですが、京葉線区間で規定の風速を超えた風が吹いていることから運行休止とのこと。仕方無く普通列車を利用して総武線経由で帰ることにしてホームで待っていたのですが、その内、今度の三番線に到着する列車は上りの特急列車で普通乗車券の他に云々の構内アナウンス。なあに〜この駅員さん、ボケてるんじゃないの?さっきは特急は全部運休だって云ったじゃない。

かつうらひなまつり号 運転再開したなら運転再開しましたって云ってくれないと−とξ^_^ξも半信半疑。事の真相を駅員に正すべく (^^; 改札口に向かおうとしたのですが、それを端で見ていた方が助け船を出してくれたの。大分遅れているけど臨時特急があってそれなら総武線経由だから平気ですよ。総武線経由なので東京駅には停まらないけど、どちら迄ですか?新宿?でしたらちょうどいいかもしれませんよ、八王子辺りまで行くみたいだから−とアドバイスしてくれたの。それが特急かつうらひなまつり号だったの。この状況下でイベント列車に乗車出来るなんて幸運よね。駅員さん、そうとは知らずに疑ってゴメンナサイ。m(_ _)m 新宿駅ホームにて


訪ねたのは ′08 の勝浦ビッグひな祭りの開催期間中、それも初日の2/23のことでしたが、折しもその4日前におきた新勝浦市漁協所属の漁船清徳丸と海上自衛隊のイージス艦あたごの衝突事故を受けてオープニング・パレードなど、一部のイベントが中止されたの。加えて、風が強くて屋外に展示される雛人形が風に煽られて倒れてしまうなど、ボランティアの方々も大変そうでした。おまけにその強風で上りの特急列車が運休になり、一波乱あったりしましたが、それでも勝浦の人々に支えられて、素敵なひな祭りを体験することが出来ました。残念ながら限られた期間にしか見ることは出来ませんが、皆さんも一度お出掛けになってみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説歴史散歩事典
角川書店社刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版 江戸名所図会
東京堂出版社刊 朝倉治彦 井之口章次 岡野弘彦 松前健 共編 神話伝説辞典
角川書店社刊 室伏信助・小林祥次郎・武田友宏・鈴木真弓編 有職故実日本の古典
角川書店刊 旧暦くらし研究会著 おりおりに和暦のあるくらし
技術評論社刊 広田千悦子著 おうちで楽しむにほんの行事
平凡社刊 東洋文庫 宗懍著 守屋美都雄訳注 荊楚歳時記
日本経済新聞社刊 永田久著 年中行事を「科学」する
国書刊行会刊 川名登編著 千葉県の歴史100話
河出書房新社刊 寺尾善雄著 中国伝来物語
人文書院社刊 吉野裕子著 易と日本の祭祀
小学館刊 阿部秋生校訂 完本・源氏物語
房総叢書刊行会 改訂 房総叢書 第三輯
角川書店刊 玉上琢彌著 源氏物語評釈
山と渓谷社刊 新版 千葉さわやか散歩
近代映画社刊 福田東久著 雛まつり
その他、現地にて頂いてきたパンフや栞など。

Special Thanks
【千葉県夷隅郡誌】については下記のサイトを参照させて頂きました。
千葉県立図書館〜資料の森(電子図書館)






どこにもいけないわ
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