≡☆ 葛飾あやめまつり ☆≡ 2009/06/14

TVでは梅雨入りを間近に控えて紫陽花や菖蒲の花の開花が季節の話題に挙げられていましたが、そう云えば紫陽花は時折見掛けるけど、菖蒲は遠い昔に潮来(茨城県)のアヤメまつりに出掛けたっきりよね、気軽な日帰り圏内で菖蒲が観賞出来るところはないかしら?と探して出掛けてみたのが、今回御紹介する葛飾菖蒲まつりなの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

堀切菖蒲園〜南蔵院(しばられ地蔵)

1.京成・堀切菖蒲園駅 ほりきりしょうぶえんえき 09:38着 09:43発

葛飾菖蒲まつりパンフ(表表紙) 葛飾菖蒲まつりパンフ(裏表紙) 葛飾菖蒲まつりは堀切かつしか菖蒲まつり運営協議会と水元公園葛飾菖蒲まつり実行委員会の共同主催で、地元の商店街はもとより、葛飾区や観光協会も後援するなど、葛飾区を挙げてのお祭りになっていて、力の入れようが分かるわね。訪ねたのが土曜日でしたので、残念ながら未体験で終えていますが、堀切地区では期間中の毎週日曜日には特設会場や路上で、和太鼓の演奏や阿波踊り、ブラスバンドの演奏やパレードなどの各種イベントが行われたの。なので、お出掛けするなら日曜日がお勧めかも。因みに、水元公園側では土曜日でもイベントが開催されていましたよ。参考までに、訪ねたときに頂いてきたパンフレットを載せておきますね。

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2.紫陽花の小径 あじさいのこみち 09:58着発


3.堀切菖蒲園 ほりきりしょうぶえん 10:12着 11:14発



【葛飾区指定史跡 堀切菖蒲園】所在地 葛飾区堀切2-19-1 指定年月日 昭和52年(1977)3月19日
この地に初めて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではありませんが、一説によると、室町時代堀切村の地頭・久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて培養させたのが始まりとも、文化年間(1804-1817)堀切村の百姓・伊左衛門(小高氏)が花菖蒲に興味を持ち、本所の旗本・万年録三郎から「十二一重」を、花菖蒲の愛好家・松平左金吾(菖翁)から「羽衣」「立田川」などの品種を乞い受け、繁殖させたのが始まりとも云われています。堀切で最初の菖蒲園は、江戸末期に開園した小高園で、明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園などの菖蒲園が開園しています。この堀切菖蒲園は堀切園の跡です。堀切の花菖蒲の様子は「江戸百景」に数えられ、鈴木春信・安藤広重などの著名な浮世絵にも描かれています。また、明治には「東京遊行記(明治39)」「東京近郊名所図絵(明治43)」などに次々と堀切の菖蒲園が紹介され、全盛期は明治中期から大正末期頃だと思われます。園内では「十二一重」「酔美人」「霓裳羽衣」など希少な品種も多くみられます。葛飾区教育委員会


【区・史跡 堀切菖蒲園の歴史】菖蒲園のある堀切は綾瀬川に沿った低湿地で、この附近は染井・向島などと共に、昔より特に花菖蒲の栽培に適している所とされています。この地に初めて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではないのですが、一説には、室町時代の頃、堀切の地頭・久保寺胤夫と云う人が、家臣・宮田将監に命じて奥州郡山附近の安積沼から種子を持って来て自邸に培養させたのが始めと云われ、また、一説としては、寛文・延宝(1661-1680)の頃、堀切村の小高伊左衛門が各地の花菖蒲を収集し、自庭に植えたのが始めとも云われています。享和年間(1801-1803)には、花菖蒲の収集家として知られた松平左金吾と云う人の秘蔵の花菖蒲を小高伊左衛門が譲り受け、更に万年録三郎の逸品「十二一重」を始め、相模・土佐などから十数種類を集め、天保末の頃には園内では数多くの名花が咲き競うようになったと云われています。また、春信・広重の錦絵や名所案内・紀行文にもこの地の菖蒲園のことが記され、江戸時代には広く知られていたことが分かります。戦前までは武蔵園・観花園・小高園・堀切園等がありましたが、閉園・廃園などにより、その菖蒲田は埋められ、殆どが宅地に替り、家が建ち並んでいます。現在の菖蒲園は、堀切園が堀切菖蒲園と改称したもので、昭和34年(1959)5月、東京都に買収され、翌年6月1日から東京都立堀切菖蒲園として公開され、その後、昭和54年(1979)4月葛飾区に移管され、現在、区が管理しています。現在、園内には200種、6,000株の花菖蒲が植えられており、毎年6月の開花時には訪れる人の目を楽しませています。区史跡指定年月日 昭和52年(1977)3月19日 東京都葛飾区教育委員会(一部修正加筆)








鳥羽院に仕える女房達の中に菖蒲前という、それはそれは美しい女性がいたのですが、鵺退治でも知られた源頼政が一目惚れをしてしまうの。頼政は恋文をしたためては菖蒲前に送るのですが返事は貰えなかったの。そうしている内にはや三年の月日が過ぎてしまい、ことが鳥羽院に知られてしまうの。鳥羽院は菖蒲前に訊ねるのですが、肝心の菖蒲前と云えば、顔を赤らめて俯いてしまうだけでどう思っているのか本当のところが分からず、頼政にしても菖蒲前の美しさに惹かれているだけで、心から想いを寄せているわけではあるまいて。この際だから頼政を呼び出して試してみよう−と云うことになったの。そこで鳥羽院は菖蒲前と良く似た女性二人にも同じ着物を着せて並ばせると、頼政に三人の中から菖蒲前を見分けて二人で退出するよう命じたの。けれど頼政にしてみれば、畏れ多くも鳥羽院の寵愛を受ける女房をどうして申し受けることが出来よう、見分けるにしても顔をちらりと見初めただけなので自信もない。もし間違えでもしたら当座の恥どころか末代までの笑いものにされてしまう。困り果てて躊躇しているところへ鳥羽院からの催促が。そこで頼政は「五月雨に 沼の石垣 水越えて 何れかあやめ 引きぞ煩らふ」という和歌を鳥羽院に献上したの。鳥羽院は頼政の詠歌に感心すると自ら菖蒲前の手をとり、頼政に引き渡したの。

あらすじがお分かり頂けたところで、以下に読み下し文を掲載してみますが、誤りがあるかも知れません。
御指摘頂けると幸いです。



広重画 殊に名をあげ 面目を施しける事は 鳥羽院の御中に菖蒲前とて世に勝たる美人あり
ことになをあげ めんもくをほどこしけることは とばいんのおんうちにあやめのまえとてよにすぐれたるびじんあり
心の色深くして 形人に越えたりければ 君の御糸惜も類なかりけり
こころのいろふかくして かたちひとにこえたりければ きみのおんいとほしみもたぐひなかりけり
雲客卿相 始は艶書を遣し 情を係くる事隙なかりけれ共
うんかくけいしやう はじめはえんしょをつかはし なさけをかくることひまなかりけれども
心に任せぬ我身なれば 一筆の返事何方へもせで過しける程に
こころにまかせぬわがみなれば ひとふでのかへりごといづかたへもせですごしけるほどに
或る時頼政 菖蒲を一目見て後は いつも其の時の心地して忘るゝ事なかりければ
あるときよりまさ あやめをひとめみてのちは いつもそのときのここちしてわするることなかりければ
常に文を遣しけれども 一筆一詞の返事もせず
つねにふみをつかはしけれども ひとふでひとことばのかへりごともせず





院は良遥許して御出ありけるが じつはふの者には物仰せにくければとて 殊に咲を含ませ御座
いんはややしばらくしておんいでましありけるが じつはふのものにはものおほせにくければとて ことにゑみをふくませおはします
何事を仰出されんずるやらんと思ふ処に 誠か頼政 菖蒲を忍び申すなるは と御諚あり
なにごとをおほせいだされんずるやらんとおもふところに まことかよりまさ あやめをしのびまうすなるは と ごぢゃうあり
頼政大いに色を失ひ 恐れ畏つて候ひけり 院は憚思ふにこそ 勅諚の御返事遅かるらめ
よりまさおほいにいろをうしなひ おそれかしこまつてさぶらひけり いんははばかりおもふにこそ ちょくぢゃうのおんかへりごとはおそかるらめ
但菖蒲をば誰彼時の虚目歟 又立舞ふ袖の追風を徐ながらこそ慕ふらめ
ただし あやめをばたそかれときのそらめか またたちまふそでのおひかぜをよそながらこそおもふらめ
何かは近付き 其験をも辨ふべき 一目見たりし頼政が 眼精を見ばやとぞ思食ける
いつかはちかづき そのしるしをもわきまふべき ひとめみたりしよりまさががんせいをみばやとぞおぼしめしける
菖蒲が歳長色貌少しも替わらぬ女二人に菖蒲を具して 三人同じ装束同じ重になり 見すまさせて出されたり
あやめがとしたけいろかたちすこしもかはらぬおんなふたりにあやめをぐして さんにんおなじしゃうぞくおなじかさねになり みすまさせていでだされたり
三人頼政が前に列居たり 梁の鸞の並べるが如く 窓の梅の綻たるに似たり
さんにんよりまさがまえになみゐたり うつばりのつばめのならべるがごとく まどのうめのほころびたるににたり
頼政よ 其中に忍申す菖蒲侍る也 朕占め思召女也 御免有ぞ 相具して罷出よ
よりまさよ そのなかにしのびまうすあやめはべるなり ちんまろしめおぼしめすおんななり おんゆるしあるぞ あいぐしてまかりいでよ
と綸言有りければ 頼政いとゞ色を失ひ 額を大地に付て実に畏入たり
とりんげんありければ よりまさいとどいろをうしなひ ひたいをだいちにつけてまことにかしこまりいりたり



思ひけるは、十善の君はかりなく思食さるる女を 凡人争か申しよるべかりける
おもひけるは じゅうぜんのきみはかりなくおぼしめさるるおんなを ぼんにんいかでかもうしよるべかりける
其上縦ひ雲の上に時々なると云ふとも 愚なる眼精及なんや
そのうえたとひくものうえによりよりなるといふとも おろかなるまなこざしおよびなんや
増してよそながらほの見たりし貌也 何を験何ぞなるらん共覚えず
ましてよそながらほのみたりしかほなり なにをしるし いかなるらんともおぼえず
綸言を蒙り賜らざるも尾籠也 見紛つゝよその袂を引きたらんもをかしかるべし
りんげんをかふむりたまわざるもびろうなり みまがひつつよそのたもとをひきたらんもをかしかるべし
当座の恥のみに非ず 累代の名を下し果ん事 心憂かるべきにこそと
とうざのはじのみにあらず るいだいのなをくだしはてんこと こころうきかるべきにこそと
歎入たる景色顕也ければ 重ねて勅諚に 菖蒲は実に侍るなり 疾く給て出よ とぞ仰下されける
なげきいりたるけしきあらはなりければ かさねてちょくじゃうに あやめはまことにはべるなり とくたまはつていでよ とぞおほせくだされける
御諚終らざりける前に 掻繕ひて頼政かく仕る
ごぢゃうおわらざりけるまえに かきつくろひてよりまさかくつかまつる
五月雨に 沼の石垣 水越えて 何れかあやめ 引きぞ煩らふ と申たりけるにこそ
さみだれに ぬまのいしがき みずこえて いずれかあやめ ひきぞわずらふ ともうしたりけるにこそ
御感の余に竜眼より御涙を流させ給ひながら 御座を立たせ給ひて 女の手を御手に取りて 引立おはしまし
ぎょかんのあまりにりゅうがんよりおんなみだをながさせたまひながら ござをたたせたまひて おんなのてをみてにとりてひきたておはしまし
是こそ菖蒲よ 疾く汝に給ふ也 とて 頼政に授けさせ給ひけり
これこそあやめよ とくなんじにたまふなり とて よりまさにさずけさせたまひけり
是を賜つて相具して 仙洞を罷出でければ 上下男女歌の道を嗜まん者
これをたまわつてあいぐして せんたふをまかりいでければ じゃうげだんじょ、うたのみちをたしなまんもの
尤もかくこそ徳をば顕すべけれ と、各々感涙を流しけり
もつともかくこそとくをばあらわすべけれと おのおのかんるいをながしけり



実に頼政と菖蒲とが志 水魚の如くにして二心無き中也けり
まことによりまさとあやめとがこころざし すいぎょのごとくしてむにのしんちゅうなりけり
三年の程心ながく思ひし情の積にやと やさしかりし事共也ければ 京童部申しけるは
みとせのほどこころながくおもひしなさけの積もりにやと やさしかりしことどもなりければ きょうわらんべもうしけるは
二人の志わりなかりけるこそ理なれ 媒が痛く見苦しくもなければ とぞ咲ひける
ふたりのこころざしわりなかりけるこそことわりなれ なかだちがいたくみぐるしくもなければ とぞわらひける
伊豆守仲綱は 即彼菖蒲が腹の子也
いずのかみなかつなは すなわちかのあやめがはらのこなり

いかがでしたでしょうか、お楽しみ頂けたかしら。女性からすればモノじゃないのよ−と云いたくもなりますが、自らが寵愛する女性を臣下や家臣に与える例は他にも見受けられ、非常に厚い信任を得ていたことの証でもあるの。因みに、御紹介した内容とは少し異なりますが、同じお話しが【太平記】にもあるの。【源平盛衰記】では3人の中からの選択を迫られた頼政ですが、【太平記】では何と12人に増えているの。それも3,000人もの侍女の中から選び抜かれた美女達よ。お話しが気になる方は御一読下さいね。

江戸末期から戦前に掛けての堀切には、この堀切菖蒲園の他にも幾つかの菖蒲園が造られて賑わいを見せ、あやめと美女の競演状態にあったみたいよ。安政4年(1857)に刊行された歌川広重作の【絵本江戸土産】には−堀切の里 花菖蒲 綾瀬川の東にあり 数万株の花菖蒲 その色 更に数を知らす 眺望類ひあらされば 毎年卯月下院より皐月に至りて 遠きを厭はす 舟に乗り 箯に駕して都下の美女競ふときは いつれか花と見紛ふはかり 水陸の遊観なり−と案内されているの。

4.シャトルバス発着所 しゃとるばすはっちゃくじょ 11:30発

かつしか菖蒲めぐりバス 残念ながら菖蒲まつり開催期間中の土日だけの運行で、本数も一日5便しかないのですが、訪ねたときには堀切菖蒲園・しばられ地蔵尊前・柴又帝釈天を結ぶ、かつしか菖蒲めぐりバスが運行されていたの。京成バスが委託を受けて運行しているものですが、車体には菖蒲園や水元公園などの写真がラッピングされているの。事前情報を得ていた訳でもないのに、偶然にも期間限定のバスに乗車出来、おまけに堀切菖蒲園を見終えた時点で帰宅する積もりでいたところを、更に水元公園にまで足をのばせるとは大いに得した気分。是非、毎年運行させて欲しいものよね。

5.しばられ地蔵尊前BS しばられじぞうそんばすてい 11:55着


6.南蔵院 なんぞういん 12:01着 12:24発




元々の寺地にしても、本所小梅と云うので、現在の墨田区向島一、二丁目辺りに建てられていたみたいね。元禄11年(1698)に水戸藩下屋敷用地となると中之郷八軒町(現:墨田区吾妻橋三丁目辺)に移転。更に、大正11年(1922)に起きた関東大震災の被災を受けて、昭和元年(1925)に現在地に移転して来たの。

山号の業平山は中之郷八軒町にあった際に業平天神社と境内を接していたことに由来するの。ξ^_^ξが思うには、南蔵院が別当職を務めていたのではないかしら。その業平天神社ですが、帰京する途次にあった在原業平がこの地で亡くなり、その霊を鎮めるためにつくられたものとされていたの。他にも幾つか在原業平に因む逸話が残されているのですが、【江戸名所図会】は−いずれも証とするに足らず 後世に附会せしものならん−と一蹴しているの。それでも、人の口に戸は立てられないわよね。噂話はさも史実かのように一人歩きを始めるの。【遊歴雑記】には

寛永年間 大猷院君本所隅田川辺御成の砌 有原の業平の住し古跡あるやと 処々村々御たづね廻しける <中略> 此日還御の砌 小梅の辺御通りありて此南蔵院へ御立寄あり 有原の業平の古跡やある 此辺にはなきやと尋賜ふに 寺僧小さき束帯の座したる木像を持出 先年土中より掘出せし由を言上し 上覧に入しかは 是有原の業平天神ならんと上意ありしに依て 業平八幡宮と勧請し 夫より山号を業平山と名付けたるとかや

とあるの。何と、天下の江戸幕府第三代将軍徳川家光のお墨付きまで手にしてしまったのですから、世人は皆「右に倣え」よね。移転するにしても、御上の御威光はそのまま継承したいわよね。困ったのお、移転せねばならぬが社殿までは持っては行けん。何か良い方法がないじゃろうか。そうじゃ、名義だけなら簡単じゃ、山号として使わして貰おう、ほなら簡単じゃ。きょうからは業平山南蔵院じゃ。ええ響きじゃのお〜と云うわけ。(^^;



大岡裁きで知られた江戸町奉行・大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が、ある事件でこのお地蔵さまを召し捕ってしまったの。そんな馬鹿な、天下の名奉行とされた大岡越前守がお地蔵さんをしょっ引くわけねえだろう−と思うわよね。お話しの序でに殊の経緯&顛末を御紹介してみますね。

時は吉宗公が将軍をされておった享保年間(1716-35)のことじゃ。江戸は日本橋小伝馬町の木綿問屋・上総屋徳兵衛の手代に佐助と云う若者がおってのお、ある夏の昼下がりのことじゃった。佐助はいつものようにサラシの反物を満載した荷車を引いておったのじゃが、このところの寝不足もあってのお、荷車を南蔵院の門前に寄せると、境内の公孫樹の木陰でちょいと一寝入りすることにしたんじゃ。そうして一刻もしたじゃろうか、目を覚ました佐助はびっくりして飛び上がってしもうた。何と門前においてあったはずの反物の山が荷車ごと無くなっておったのじゃ。しもうた、寝ている間に荷車ごと盗まれてしもうた、旦那さまには何と云って詫びよう、いやいや、土下座して詫びたところで済まして貰える訳もねえ、何とかして取り返さにゃ。こうしちゃあおられん、先ずは町奉行さまんところへ行ってみべえ。そう思うた佐助は奉行所に飛び込むと、名奉行としてきこえた大岡越前守さまに訴え出たんじゃ。

しばらくは佐助のことばに耳を傾けておった越前守さまじゃったが、突然何を思うたか、寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙認するとは何事ぞ、地蔵も同罪である。直ちにそれなる地蔵を捕らえてここへ連れてまいれ−と配下の者に命じたのじゃ。一同皆呆れておったのじゃが越前守さまの命令じゃ、訳も分からぬまま、云われた通りにお地蔵さまを荒縄で縛り付けると奉行所に運び込んだそうじゃ。それを見とった町の連中も、さては何事が始まるかと皆して奉行所に押し寄せて来たんじゃ。そうして今か今かと首を伸ばしてお白州が始まるのを待っておったのじゃが、いきなり奉行所の門が閉じられてしまってのお、町のもんはびっくりしてしもうた。そこで越前守さまは皆を前にして「お白州に乱入するとは不届き千万。罰として各自反物一反の科料を申し付ける」と命じられたのじゃ。そうして各々が決められた日時まで持参するようにと指示されたそうじゃ。

それから数日後のことじゃった。町のもんが持ち込んだ品物の中から盗まれた反物が見つかってのお、それがきっかけで当時江戸市中を騒がせておった盗賊団の一味を捕らえることが出来たそうじゃ。お地蔵さまの霊験に感謝した越前守さまは立派な地蔵堂を建てると盛大に縄解きの供養をしたそうじゃ。それからと云うもの、このお地蔵さまはしばられ地蔵と呼ばれるようになってのお、盗難除け・足止め・厄除けに限らず、縁結びに至るまで、あらゆる願いごとに霊験灼かとされるようになったのじゃ。そうしていつの頃からか、願いごとのある者はお地蔵さんを荒縄で縛り、願いが叶うたらその縄を解くようになったそうじゃ。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。



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